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ラーラ通信 第22号 アフガン孤児支援ラーラ会 発行201186

 2011.3.304.9

ちょうど3年ぶりのアフガニスタン訪問です。10日間という短期間でしたが、レザ氏がこちらの指示どおりに準備万端手配しておいてくれたので、全てがうまく運びました。子どもたちが待ちに待っていたピクニックにも連れて行ってあげられましたし、MOLSA(労働社会問題省)の新局長やラーラ会が支援している3か所の孤児院院長とも親しく懇談し、今後の援助活動の中身について良く話しあう事ができました。また、ギリム織や刺繍などラーラ会の手仕事に関わっている女性たちの家庭も訪問し、彼女たちの置かれている状況や日頃の暮らしぶりなども覗い知ることが出来ました。訪問すべき所と会うべき人物には全て会い、大変充実したものでした。

訪問日程

330日(水)関西空港 インド・デリィー  空港泊

331日(木)デリィー カブール  アデラさん(奈良女子大学留学生)の実家泊

41日(金)カブール ヘラート  マルコポーロ・ホテル泊(1泊朝食付35usd.×6)

    刺繍手仕事の3 及びギリム織の人たち7人と会い、面談後全員の家庭訪問

42日(土)アンサリィ女子孤児院訪問、院長Mrs.ザイナブと面談

ラーラ会幼児教育担当ナジャフィさんと助手のシャハゴルさんと面談

    アンサリィ男子孤児院訪問、新学期用文房具一式プレゼント

バガー孤児院訪問、PC教室担当の女性教師ナタキさんや洗濯担当のマリアンさんに会う

バガー孤児院アクバリィー院長と面談、孤児全員に通学用ザックをプレゼントすることに決定し、

カバン屋へ注文に行く

43日(日)

MOLSA(労働福祉局) 新局長バシィーラ・モハマディ女史に面会・面談、 

アラファラ銀行で諸手続き、

        バガー孤児院内とアンサリィ男子孤児院内で行われているアリィー・ザダッ氏の英語授業参観

    アンサリィ女子孤児院訪問後、刺繍の人たちを再度訪問し、レザ君の仕事ぶりを確認

44日(月)

アンサリィ女子孤児院で収容女児全員に文房具一式プレゼント、

アンサリィ男子孤児院にパソコン4台プレゼント

元イマン・バガー孤児学校を訪問し、ラーラ会建設の食堂とトイレがロゴマークを付けたまま、

現在は230人収容の農業カレッジ寄宿舎として有効活用されていることを確認。

隣接の日本政府が建設寄贈した職業訓練所も訪問見学、現在はHelpが帰還難民の職業訓練。

45日(火)男子孤児院ピクニック  Sheydai地方へ

46日(水)女子孤児院ピクニック    〃    

    女子孤児院英語とパソコン教師Ms.セディカに面会・面談、

その後、レザ君は持ち帰りギリム織の荷造り

47日(木)ヘラート カブール

刺繍の人たちの家に立ち寄って完成品を受け取って空港へ。 カブールではディバさん宅泊

48日(金)カブール デリィー

49日(土)デリィー 関西空港

☆   ☆    ☆   ☆    ☆   ☆  


治安の悪化

今までの訪問滞在と大きく違っていた点は、今回は一人では
宿泊先から外へは一歩も出なかったことです。
危険回避のためです。それだけアフガニスタンの状況が悪くなったのだと理解してください。
カブールでは奈良女子大学の留学生だったアデラさんと
ディバさんの家に往きと帰りにそれぞれ1泊させて頂きましたが、
両家とも空港からの送迎時以外には一歩も私を外へは出してくれませんでした。外国人を泊めているのを近隣に知られたくないのかも
知れないとも思いました。
ヘラートでは常宿マルコポーロ・ホテルに滞在しましたが、
出入り口はカラシニコフ銃を肩にした4人のガードマンが常時警備しているという物々しさでした。
ここでもまたレザ氏が自分と一緒でなければ決して出歩かないようにと釘を刺しました。

そんなで訳で、一人で自由にバザールなどほっつき歩きたい私には不満が残りましたが、いたし方ありません。
借りてきた猫のように大人しくしていました。
知られたくないのかも知れないとも思いました。
ヘラートでは常宿マルコポーロ・ホテルに滞在しましたが、
出入り口はカラシニコフ銃を肩にした4人のガードマンが常時警備しているという物々しさでした。
ここでもまたレザ氏が自分と一緒でなければ決して出歩かないようにと釘を刺しました。
レザ氏と車で走っている間にも若者たちのデモを目撃しました。
トラックの荷台に乗った大勢の青年たちが旗を振りかざし、
口々に大声で何やら叫び、気炎をあげていました。
アメリカで起こったコーラン焼却事件に抗議して、ヘラートでもデモが発生していたのです。
ヘラートでは警官隊が彼らを阻止し、解散させたようですが、
不幸なことにマザーリシャリフでは国連の事務所が襲撃されて
7人が惨殺されました。

孤児院の歓迎ぶり

次に驚いたのは、アンサリィ男女両孤児院での大袈裟な歓迎ぶりです。今までこんなにVIP扱いを受けたことはなかったので、
正直度肝を抜かれました。
子供たちが整列し、私の入場とともに歓迎の歌を唱和し、孤児の
代表が感謝の言葉を述べました。
とても面映ゆいことでした。男児孤児院なぞ、院長室にカルザイ大統領とマスード将軍の写真の横に柄子の大きな額入り写真が掲げられていて、それこそ何事!とびっくりしました。
もっとも、この写真は私が帰ったら直ぐに下ろしたのだろうと
容易に推測できますが、なんであれその歓待ぶりには驚嘆させられました。
レザ君によれば、アフガン情勢の険悪化に伴い撤退してゆくNGOが多い中で、ラーラ会が今まで通り継続支援してくれていることへの感謝の表明だろうとのこと。
もちろん更なる支援を期待してのことであるのも明白。


パソコンのプレゼント

孤児院への支援

孤児院からは沢山の要望が出されました。その中から妥当と思われるものをピックアップして援助することにしました。まずはアンサリィ男女孤児院収容孤児全員に新学期の文房具セットをプレゼント。レザ氏が事前に購入し、一人分ずつセットにしてパックしておいてくれました。加えて男児孤児院には通学用の自転車20台とパソコン4台。それに、私物収納用ロッカー120人分。バガー孤児院の孤児たちには、3年前と同様に100人全員にラーラ会のロゴ付き通学用ザック。これはイランへ注文しました。

アンサリィ男児孤児院孤児たちへの自転車のプレゼント決定には面白い裏話があります。孤児院院長から出された通学バス購入要望の件をMOLSA局長と話していた時のことです。局長から「通学用バスは既にあるから毎月のガソリン代をラーラ会で負担してほしい」という要望が出ました。私はこの件については前夜によくよく考えていたので、「自転車の方が環境を汚染しないし、子供たちの健康に良いし、各自が集団に縛られずに自由に行動がとれる」と私見を述べました。結局、最終的にはイズマライ孤児院院長の選択決定に従って自転車をプレゼントしたのですが、後で判ったところではMOLSAは自分たちの車使用のためにガソリン代が欲しかったのです。仮にラーラ会がガソリン代を負担したとしてもMOLSAのバスは通学用には使われなかったでしょう。この事は「お金は毎月MOLSAに支払って欲しい」と告げられた時に私自身も感づいていたことです。この手の話はアフガニスタンでは珍しいことではありません。

騙される方が悪い(愚かな)のです。私もアフガニスタンとの付き合いが長くなってコツが少し判って来たところです。
聞くところによると、少ない予算を巡って
MOLSAと男子孤児院と女子孤児院とが三つ巴の争いを起こしているという話です。

自転車については今回の20台の試用結果をみて、いずれ収容孤児たち全員にプレゼントしたいと考えています。
男子孤児たちは郊外の僻地に押しやられ、学校から遠く離れてしまったので徒歩通学は大変だから
です。
又、アフガニスタンの道はどこもデコボコ道で、パンクの修理費用の問題も発生します。
被災地用のパンクに強い自転車の調達を検討しなければならないかも知れません。
何か良い案はないでしょうか。

バガー孤児院を訪問した際に、アクバリィ院長から各孤児専用のロッカーを設置したと自慢げに見せられました。鍵の掛かる金属製の四角い箱の五段重ねです。
これぞ私が以前からずっと探していたものです。
直ぐにレザ君に購入先を聞き出して注文するように指示しました。レザ君の良い働きで、最近になって木製の立派なロッカーが仕上がってきました。
すぐに孤児院内に設置。これでもう孤児たちは私物を枕の下に潜めて寝ることから解放されます。
安眠ができる訳です。このロッカーについては、女児孤児院にも同じものを購入寄贈したいと考えています。

ピクニック

収容孤児たちの顔ぶれは大きく変わっていて、私が知っている子はほんの僅かになっていましたけれど、
皆誰かから聞かされていたのでしょう、ピクニックコールが止みません。アフガニスタンでは新年にピクニックに出かけるのは
庶民一般の恒例の行事です。しかし、孤児たちをピクニックに連れ出してくれる人はいません。
それも全員が大きなバスに乗り合わせて行くなんて在ったものではありません。その待望のピクニックが実現するのです。
誰もかも何もかもぎゅうぎゅう詰めに載せて、バスは一路シェイダイ地方へ。
ヘラートの東へ約
1時間のドライブ。いつかマラスツンの孤児たちと来た所のまだ先でした。

冠雪の山々を遠景に木々の緑をぬって清流ながれる美しい、正にピクニックに最適の地。まだ暑くもなく水温は冷たかったのに、
子供たちは構わず川遊びに興じました。ボール遊びもしましたが、何といっても彼らが好きなのは歌と踊り。
運び出したカーペットに車座になって、歌ったり踊ったり。アコーデイオンとピアニカを合体させたような楽器とドラム楽器が
得意な兄弟がいて、演奏と歌でその場を盛り上げます。皆ほんとうに嬉しそうでした。
飲み物と果物のついた肉付きランチも嬉しくて堪らない様子が見てとれました。

今回は男女別々にピクニックに行きました。両孤児院の院長たちの不仲が原因です。
女児たちもシェイダイ地方に行きましたが、川遊びはせず、主にナジャフィさんがリードして歌や動物の物まねコンテストや
クイズに興じていました。
男児孤児院から楽器演奏のできる兄弟が招待されていて、辺りに響き渡る澄んだ声で朗々と歌を歌いあげました。
すると近くで木材の作
業をしていたおじさん(老人?)2人が呼び寄せられるようにやって来て、見事な踊りを披露しました。
皆は手拍子。平和な時代にはアフガニスタンの処々で出現した光景だったのだろうと、胸が切なくなりました。
この兄弟は父親に楽器演奏などを教えてもらったそうですが、その父親が殺され、母親は刑務所に入っているので、
孤児院に収容されたのだという話でした。
女児孤児院に収容されている子どもたちの中にも母親が刑務所に入っているという子たちが数多くいました。
悲話ばかりです。

 ☆    ☆    ☆   〜 ≪ 雑 感 ≫ 〜    ☆    ☆    ☆     

人々の暮らし

アフガニスタンの朝は早い。まだ寝静まっている町にまずファースト・アザーンが高らかに鳴り響く。
近くのモスクから拡声器を使って流すのだ。
「起きろ!アラーへの賛美から今日のこの一日を始めよ!」と
呼びかけているように聞こえる。強烈な祈りへの誘い。

辺り一帯が夜の帳を破って薄いミルク色に染まり始めたら、通りを闊歩するロバたちの蹄の音や小鳥たちのさんざめきで
町は眠りから覚める。身を清め、身仕度を整え、朝の祈りを捧げて、さあ一日の始まりだ。

 朝食はナンとチャイが普通、質素。余裕のある家の朝食や客人にはジャムやヨーグルト等がつく。
孤児院の昼食は今も煮豆かけごはんが主流。夕食も同様。ごくたまに、今は改善されて週
3回と聞いたが、肉や野菜や果物がつく。

 夜も早い。まだ辺りが明るいうちに急いで帰宅する。日没後に家を出ることはまずない。
治安が悪いことが第一の原因だが、治安の悪さには電力不足による暗さも影響している。停電はたびたび発生し、
裕福な家は自家発電機を備えている。日の出と日の入りに沿った「早寝早起き」がアフガン流生活スタイルだ。
エネルギーの浪費などとんでもない。

人々の暮らしは、都会と田舎、金持ちと貧しい人とでは大いに違うので、一概には言えないが、一般の人たちの暮らしぶりは
実にシンプルなものだ。それを「遅れている」とは決して言えないだろう。

ここでは大家族で暮らすのが普通だ。豊かな者が貧しい者の面倒を見る。相互扶助がイスラム社会の鉄則なのだ。
寄宿したアデラさんの家でもディバさんの家でも、親族大勢が寄り合って暮らしていた。だから日本社会で問題になっている
子育て問題はたぶん発生しない。自分の子も他人の子も同じように面倒をみ合って共同保育している。ディバさんの家など、
義妹の幼児たちがディバさんを「お母さん」と呼び、実の母親を「おばさん」と呼んでいたりする。
歳上の従兄姉たちの真似をしているのだ。大家族の中で子供たちはいつも誰かに見守られ、心満たされている。
家族内での自分の役割も自然に理解し果たすようになる。子供たちが実によく家事を手伝う。
こうして社会性を身に着けて育つ。老人の孤独死なども起こる筈がない。

どちらが良い悪いと簡単に論じられるものではないと百も承知しているが、欧米流個人主義の導入の結果
日本社会にもたらされた核家族単位の生き方が生み出
した弊害を思うとき、私たち日本人は自分たちが失ったものを
もう一度見直す時機にあると実感せずにはおれない。「日本人が失った大切なもの」とは何だろう。

時代がもう過去に戻るようなことはないだろうけれど、私自身はアフガニスタンの人々の暮らしを見直し、見習って、
慎ましくシンプルに暮らす方法を模索したいと思っている。

アフガニスタンの今後について   

このたび3年ぶりにアフガニスタンを訪問した。この間、現地職員モハメッド・レザ氏を2度日本に招聘して、
活動の詳細報告を受けたり指示したり、現地活動には支障をきたさなかったが、やはり自分の目で確かめたいという気持ちはずっとあった。
しかし、治安状況の悪化や関係諸方面からの強い勧告を無視して入国するには相当の勇断を必要とした。
皆様にこの報告ができて胸なでおろしている。

帰国後に、カンダハル刑務所の元タリバン兵の大量脱獄事件やオサマ・ビン・ラディンの銃殺事件が起こり、
アフガニスタンやパキスタンでは報復テロが活発になった。レザ氏からのメールにもヘラートでの自爆テロの増発が知らされてくる。
一体アフガニスタンの平和はどこへ行ってしまうのかと暗澹たる気持ちになる。

しかし、一般の人たちの暮らしが少しずつ良くなってきているのは、顔の表情や着ている衣服から容易に見てとれる。
ラーラ会の手仕事を請け負っている女性たちの家もみな小ぎれいに片付いており、みな小ざっぱりした衣服を着用していた。

MOLSAからの帰り道で、一人の婦人に呼び止められた。振り向けば、私が初めてヘラートに来た時に男子孤児院に居た先生で、
「長い間給料がビタ一文も支払われていない、通勤のバス代もない、子供が病気でも病院に連れて行ってやることもできない」等、
物凄い形相と剣幕で自分の苦境をまくしたてた人だった。
彼女も今は柔らかな衣に身を包んで穏やかに微笑んで立っていた。

希望は持ち続けていよう。地道な継続支援こそアフガニスタンを変えると信じて、皆で力を合わせて協力の歩みを続けていこう。

    
                                                                      柄子 眞弓