現地レポート   TOP

第1回(2002/12/23〜2003/1/3) カブールの今 (パキスタン・イスラマバド〜カブール)
第2回(2003/6/9〜2003/6/20)  二度目のアフガニスタン (イスラマバド〜ペシャワール〜カブール)
第3回(2003/9/15〜2003/10/3)  ヘラートの孤児たち (カイバル峠〜ジャララバド〜ヘラート)
第4回(2004/6/12〜2004/6/30)  孤児院建設へ (アラブ首長国連邦・ドバイ〜カブール〜ヘラート)
第5回(2005/3/14〜 2005/3/30)  ピクニック (イラン・マシャド〜ヘラート)
第6回(2005/9/16〜2005/10/7)   孤児院完成  第2段階へ
第7回(2006/2/1 〜 2006/2/12)   ヘラートで騒動勃発
第8回(2006/5/10〜2006/5/30)  ホジャ・アブドラ・アンサリ孤児院で孤軍奮闘! 「ラーラ通信10号」に記載。
第9回 (2006/11/29〜2006/12/9)  二つの大きな目的。詳しくは「ラーラ通信12号」に記載。

第1回 「カブールの今」
   
   2002年12月23日から翌年1月3日までパキスタンのイスラマバード経由でアフガニスタンへ行きました。地雷や空爆などで手足を失った人達に義肢を届けるNGOの一員としてヴォランティア参加したのです。
首都カブール
 不安と好奇心とで訪ねたカブールは復興の活気に満ちていました。街は人と車と物に溢れ、バザール(市場)など押し合い圧し合いで、前の人とはぐれないようにするのが精一杯でした。バザールには食料をはじめありとあらゆる生活雑貨が山積にされていて、お金さえあれば物資は豊富にあると分かりました。
 水の問題が一番の課題かも知れません。雨が降らず長い干ばつが首都を砂塵と土埃の街にしてしまっています。街は土まみれという表現はさして大袈裟でもないでしょう。手指は洗っても洗っても直ぐに黒ずんでしまいます。水道が設置されているのは市中の一部だけで、少しはずれると、ユニセフや各国が支援した井戸に水汲みに集まります。井戸のない所には給水車が入っているのを見かけました。
 道路の不備や治安の悪さから、国連はじめ各国の支援はカブールに集中し、他所には行き渡らず、支援を求める人々がカブールに押し寄せ、かつては30万だった人口は現在200万人にも膨れ上がっているとの事で、町は拡大する一方で、地方の人々は捨て置かれているのが現状です。そのあたりが今後の支援の一番の課題でしょう。
義肢の取り付け 
 至る所で脚の無い人達を見かけました。地雷・ロケット砲・強盗など原因はさまざま。今回私達は総勢13人のボランティアが約15人分の義足と20人分くらいの子供用装具を運び込みました。滞在先のインターコンチネンタルホテルからさほど遠くない所に一軒の家を借りて、滝谷さんたち技師が義手や義足を患者さんたちに装着しました。
 私達ボランティアはまず患者さんたちの送り迎えの仕事をおおせつかりましたが、これがなかなか大変でした。カルテに書いてある住所を頼りに尋ねて行くのですが、住所など在って無きに等しく、何処そこの村の何々の裏といった具合で、3〜4時間もかけて訊ね訊ねてやっとのことで捜し当てたら本人は町へ出て不在だったり、電話など連絡の手段が無いのですから仕方がありませんが、ほとほと疲れました。翌日また出直しです。
 それでも新しい義足が上手くいって、以前よりらくに歩く姿を見ると、心から嬉しくなりました。彼らの笑顔がとってもいいのです。昔、日本の子ども達に宿ったのと同じあの恥じらいを含んだ人懐っこい微笑み!
赤新月社
 イスラムは十字を嫌います。ですから赤十字(Red Cross)ではなく、赤三日月(Red Cresscent)です。その赤新月社が設営管理する「マラスツーン」という貧民収容施設を見学に行く機会を得ました。前所長が案内してくださったのですが、寡婦とその子ども達をメインに約400人が収容されており、うち100名ほどが子どもでした。広い敷地内には、離れた所に精神病患者の棟もあり、パイプ製の二段ベッドがあるだけで、他の何物も無く、患者達は日向ぼっこをしているのか、空ろな眼をして表の地面に座ったり寝転がったりしていました。聞けば英語を知っている嘗ては知識人だったろうと思われる人も居るとの事。何もかも失って気がふれてしまったのだろうとのことでした。離れた所には女性の精神病棟もありましたが、施錠されていました。
孤児院
 宝塚在住で空爆以前からアフガンを支援し続けてこられた西垣敬子さんと往きの飛行機からご一緒で、彼女が支援しているフルーザンちゃんという孤児の義足も今回持ち込んだ義足の一つだった関係から、西垣さんと親しくなる機会を得て、丸一日を彼女と行動を共にさせていただきました。
 フルーザンちゃんは以前は前述のマラスツーンに収容されていて、そこから遠くの学校へ通っていたのですが、今回冬休みを機にさる篤志家が経営する民間の孤児院に救い上げられていました。
 尋ねていった孤児院には男の子10人、女の子はフルーザンちゃんを入れて6人、合計16人の子ども達が収容されていました。実に家庭的で温かな雰囲気に満ちた家で、子ども達はミス・シーマをママと呼んで慕っていました。子ども達の表情から彼らがここで幸せに過ごしていることは明白でした。その夜は西垣さんとご一緒にミス・シーマとゆっくり話す機会に恵まれました。
Miss Seema Ghani  ミス・シーマ
 彼女は確か4歳の時に家族と一緒にイギリスに移り、教育を受けたとのことでした。タリバンが去った1年余り前に 今こそ祖国が自分を必要としていると確信してカブールに戻ったそうです。
 まず家探しから始めたところ、孤児を住まわせるならいい家を知っていると案内された家はガラスもないとんでもない家だったそうで、孤児なら最低のものでいいと思っているのが許せなかった。自分は彼らにこそ温かな普通の家庭と同じような環境を与えたいと思っている、また、よくある話だが、せっかく育て上げても役に立つ年齢になると親族だと名乗る人間が現れて 連れ帰ってしまうケースもままあるので、そういう事にならないようにも警戒したい。この子達には職業教育よりも純粋な教育をこそ与えたいと思っている等、熱心に彼女なりの理念を話してくれました。
 彼女の言葉に耳を傾け、表情を読み、彼女は信頼に値する立派な人物だと思いました。実に勇敢で、この国が今求めている女性像だと思いました。

第2回 「二度目のアフガニスタン」
   二度目のアフガニスタン訪問。今回は名古屋のセーブ・アフガン・チルドレンの会(SAC)代表:ファタナ・サーベさんに同行しました。
SACは既にカブールに女子の孤児院をスタートしており、現在34人ほど養育しています。その日本語教師という設定でヴァランティア参加しました。継続便の関係で3日間を余儀なく過ごすことになるパキスタン・イスラマバドでは、今回は国境の町ペシャワルまで足を伸ばし、アフガン難民の子女たちに自転車や洋裁ミシンを買ってプレゼントしました。
 また驚いたことに、イスラマバドの空港で偶然にも滝谷氏一行に出会い、彼の紹介でカブールの孤児院を訪ねる機会を得、ファタナさんの手配で念願のヘラート訪問を果たすことができました。
   半年後に訪ねたカブール。空港から街への道すがら、ただただ赤茶けた荒地だった所に麦や野菜の緑を眼にし、季節の移ろいと共に国の復興も感じました。人々の暮らしは随分と落ち着いてきているようでした。復興の活気は以前にも増して、街は物資と人と車に溢れ、立派な建造物も構築されてきており、各国の援助合戦・ビジネス合戦が繰り広げられているのが よく分かりました。中でも建築関係や携帯電話などは大いにビジネス・チャンスのようでした。

ラーラ・ゲストハウス   前回は外国人専用のインターコンチネンタル・ホテルに宿泊しましたが、今回はSAC近くの、できたばかりのゲスト・ハウス、つまり宿屋に泊りました。カーテンは前日に、部屋の鍵は到着してから取り付けられるという、まさに出来立てほやほやの宿。
 そこで思いがけない人たちとの出会いがありました。アフガニスタン障害者支援プロジェクト・小倉國男氏一行のメンバー3人。彼らはほぼ1ヶ月前に日本を発って、車椅子400台をカブールに輸送し、当地の障害者達に配り終えたところでした。事務局長の小倉氏自身が車椅子利用の障害者であり、同行のAJU・河原氏、カメラマン吉田氏、3人3様に気骨のある楽しい人たちで、大仕事をし終えた彼らから含蓄のある経験談を聞き出せたのは大いに嬉しい事でした。彼らは又、私のヘラート辺りに孤児達のささやかな家を持ちたいという夢にも耳を傾けてくれました。
 出来立ての、名も無く、電話も無いゲストハウスに 吉田さんの提案で名前が付けられました。「ラーラ・ゲストハウス」。聞く所によれば、ラーラという響きのいい言葉はダリ語でチューリップ様の花を指し、アフガニスタンの国花なのだそうだから、申し分の無い命名でしょう。亭主アハマディ氏も大満足の様子でした。

アリアナ航空  今回ファタナさんのご協力でヘラート訪問が実現しました。信頼のおけるボディガード氏を紹介してくれ、ブラックマーケットでヘラート往きの切符を手配するよう頼んでくれたのです。切符購入の為にアリアナ航空のカブール事務所に連れて行ってもらったのですが、オフィサーが実に巧みに袖の下を手に入れるのを目撃しました。握手は曲者です。額面2千アフガニー(約40ドル)の片道切符がガードマン氏と2人分で120ドル。
 いよいよヘラート行きです。一抹の不安が過ぎります、待合室は男達で溢れ、数えれば女性客は僅か9人。誰もが親族なりの男性に連れられ、彼らは彼女達に私の座っているベンチに腰掛けるよう指示すると、自分は離れたベンチに座ります。「男女席を同じゅうせず」です。又、女性の一人旅はこの国ではあり得ない事なのです。
 帰りの切符はヘラートに着くなり市内の事務所へ買いに行きました。やはり切符を手に入れようとする人たちでごった返し、ガードマンが事務所の入り口ドアーを守っていて人を入れません。その点、私など外国人女性というだけでさっと入れてくれます。これには感謝。切符が手に入って一安心。
 出発時刻については当日の朝 事務所まで足を運んで確かめるようにと言われ、そうしたところ、午前10時にヘラート空港へ、飛行機は11時発とのことでした。ところが、どうでしょう。空港で散々待たされた挙句、肝心の飛行機はマザーリシャリフへ行ってしまったので 午後になると言われ、実際に飛んだのは午後2時半。空港には何も無く、持参していた非常食はその日の朝に子ども達にあげてしまって何もなく、水だけで凌ぎました。炎天下に 気が遠くなるような時間でした。

ヘラート  古都ヘラートはイラン国境に近く、歴史的な遺跡なども多く残っている美しい町だと聞いています。そして何よりもヘラートグラスの産地でもあるのです。孤児の支援をするのなら、既に援助の行き届いてきているカブールでよりも まだ援助の手の届いていない他の所で、というのが私の願いであり、ガラス作りの町ヘラート行きは私の夢でした。
 空爆を受けていない古都ヘラートは緑の多い美しい町でした。昼頃到着して チャーターしたタクシーを使って半日で十分に見て回れました。モスクではレンガ作りやタイル作りの職人達が修復作業に精をだしていました。気泡が独特のヘラートフラスは 年季の入った老人が孫らしい子どもを薪くべ助手につかって、粘土をこねて作った釜で たった一人で制作していました。

孤児院 
 ヘラート行きの最大の目的は孤児院の訪問です。タクシー運転手に頼んで捜し当てて貰い、男女別々の孤児院を訪ねました。 残念ながらボディガード氏は片言の英語しか理解せず、孤児院のスタッフは誰もかいもく英語が分からず、確かな詳しい事情は聞けず終いでしたが、孤児たちの置かれていた悲惨な状況は、この眼で見た限り、カブールの比ではありませんでした。220人の男の子達が、いい表現ではありませんが「家畜以下」の扱いを受けていました。
 暗くて何も無い部屋にただ立ったり座ったりして収容されていたのです。寝転がるスペースすら無いように見えました。輝きの一切失せた眼で 空ろに 無表情に 私を見ました。 それが あるいは刺すような恨むような目と感じ、私は申し訳なさで身がちぢみました。「ゴメンナサイ!御免なさい!きっと戻ってきますからね。何とかしますからね。」と、頭が真っ白になった状態で日本語で叫んでいました。
 その夜は彼らの」眼が私に迫って一睡も出来ませんでした。「見た者の責任」を果たさなければなりません。
 この孤児院を私ごときが支援しても砂浜に水を撒くようなもの。さっと乾いてすぐに元のままでしょう。僅かな子ども達を救い上げても他の子達を差別し 見捨てる事になるのでは?  大きな宿題を貰ってきました。 あなたならどうなさいますか?


第3回 「ヘラートの孤児たち」   
   三度目のアフガニスタン訪問。今回はヘラートの孤児たちの実情調査という明確な目的をもった、しかもたった一人の現地活動。 終始不安と緊張の連続だった。パキスタンのペシャワルから かの有名なカイバル峠を超えて、国境近くの町ジャジャラバドまでは 宝塚アフガニスタン友好協会の西垣敬子女史に同行させていただいたが、ジャジャラバドからは全くの単独行。
 三週間前に開始されたばかりのアリアナ航空ヘラート直行便に乗ることにし、何も無いジャジャラバドの空港にたって飛行機が来るのを待っている時は、まるで戦場に赴く兵士のような心境だった。
 幸運にも前回のヘラート行きで知り合いになっていたアリアナ航空のオフィサーのファルダン氏がこの飛行機の機上勤務に就いていて、通訳として雇い入れる交渉が成立し、彼は着の身着のままでヘラート空港に降りた。奇跡としか言いようの無いような出来事だった。
 英語の達者なファルダン氏のおかげで仕事は実にスムーズに運んだ。
 新しくできたマルコポーロ・ホテルに宿をとり、着いたその時から活動開始。まずは院長さんに書いて貰っていたアラビア文字の住所メモを頼りに 前回訪れた男子孤児院へ。以前と同様、銃を持った門番兵士に用向きを告げ、許可がおりて進入。
 労働福祉局長のホセイニ氏は私を覚えていたが、孤児院の様子を聞くと、「あの時のまま、変化なし」という 素っ気無い返事。あの時は英語を話せる人がいなくて 何も分からなかったこと、今回通訳を連れて再訪したのは 援助をするためであることをダリ語で言って貰うと、ホセイニ氏の顔がほころんだ。
 彼によると、ヘラートには孤児院が全部で4箇所あり、うち1箇所が女子用で約100人収容。他の3箇所は全て男子用で、各100人、250人、390人ほど収容。当初ホセイニ氏は孤児たち全員を、つまり約1000人分のサポートを要求したが、十分の持ち合わせがない事を理由に1箇所に絞る事で合意を得た。但し、私はお金を渡す事はしない、物品は自分で調達して搬入する、日本のサポーターに報告するためにオリジナルのレシートが要るのだと、こちらの援助方針・方法を説明し、これにも同意をとりつけた。まずは必要な物品のリストを作って貰う事にして 本日は終了。
 リストは米・油・砂糖といった食料品に始まり、ベッド・マットレス・毛布、食卓テーブル・椅子、多岐にわたり際限なく書かれていた。要するに何も無いのだ。今回は調査が主体で、紛失や盗難にあう心配から大金は持参しなかったので、冬に向かって一番必要と思われる靴とセーターを250人全員にプレゼントする事に決めた。 子ども達は孤児院から近くの学校に通っているとか、これから冬になれば裸足は辛いだろうと思った。
 他の箇所の男子孤児院も副校長のドクトル・イズマライヤ氏の案内で見学した。テントの中に2段ベッドが入っている所や穴倉のような地下室に30人が寝泊りしている所など、辛い見学だった。見た者の責任がどんどん増えていくわけだが、援助すると決めたのだから 実態を知らなければならない。気を確かにしっかり見てきた。
 
 さて、私が男子孤児院を援助すると聞きつけた女子孤児院の院長がやって来て、自分達の所にも何かして欲しいと、つまり陳情に来た。聞けば 洗濯機とアイロンが是非とも必要というので、双方の孤児院にプレゼントする事にした。 先生たちも入れ替わり立ち代りやって来ては窮状を訴える。給料は日本円にして1ヶ月5千円足らずで、しかも3ヶ月も支払われていないとか、子どもが入院しているのに治療費が払えないとか、出勤にバス代が払えず遠方から歩いてくるのだとか、枚挙に暇が無い。
 物品購入の日は孤児院のやっと1台ある、これが動くのが不思議という大型ワゴン車を担ぎ出してバザールへ。もちろんガソリン代も私もち。通訳とイズマライヤ氏が奮闘してとても上手に買い入れてくれて、洗濯機4台・アイロン2台・セーターと靴各250の総代金が約1200ドル。靴もセーターも品質のいい方を選んだのだから、これは上出来だ。
 物品を搬入したとき、車から担ぎ出すのを手伝う子ども達の嬉しそうな顔。私には何よりも嬉しい事。皆様にもその場に居合わせて貰いたいと思った。ホセイニ氏はじめ教師達が集まって来ては口々に「貴女は立派な回教徒だ」と誉めてくれた。 女子孤児院の院長ファルジアさんは「BBCはじめ大勢の人達がやって来ては写真やビデオを撮って行ったが、貴女は何かをしてくれた最初の人だ」 「BBCが二度目に来た時、私達は中には入れなかった」と言った。
 ヘラート州政府の Ministry of Social Affairs and Labours (労働福祉局)から立派な感謝の文言付き領収証を貰い、局長ホセイニ氏の計らいで特別許可を得て 市の中央にあるアレクサンダー大王が築いた要塞に案内して貰った。そこからはヘラートの町が一望の下に眺められ、孤児院長のイズマライヤ氏自身も入ったのは初めてだと感激していた。
 マルコポーロ・ホテルに泊っていたセーブ・ザ・チルドレン・スエーデンの人からUNHCR(国連難民高等弁務官)のヘラート事務所のミス・ラヒーマに紹介され、物々しいUNの車で現地事務所を訪問した折、彼女の口から発せられた最初の言葉は「Are you safe ?(あなた大丈夫?)」だった。 ラヒーマ女子は次回私がヘラート訪問の折には空港まで迎えに来てくれ、UNHCR事務所に宿舎を提供すると言ってくれた。また、孤児院を建てると決定したら、自分が現地の建設業者・NGO達に競合させて うまく計らってあげると約束してくれた。

 アフガニスタンでは金曜日が休日(ジョマ)。たいてい木曜日の午後から仕事も学校も休む。ジョマの日、通訳のファルダン氏がカブールの自分の家に私を招待してくれた。日本人が珍しいのか、一族の女性達がぞろぞろ現れるが、男性は一人も姿を見せない。男女を峻別するイスラム社会では近親者以外は決して同席しない。レストランでも女連れはカーテンで仕切った部屋に入る。
 ご馳走はパラオという焼き飯風の炊き込みご飯に干しぶどうが入ったもの、ほうれん草の裏ごし風、ローストチキン、野菜など。
 カブール滞在にも慣れ、タクシーも一人で乗れるし、バサールでも自由に買い物ができるようになった。カブールの中央郵便局から試しに自分宛に出した絵葉書が10日間で届いた。驚いた! これこそアフガニスタンの復興が進んでいる証拠だ。
 このまま平和が続き、人々の暮らしが安定しますようにと祈らずにはおれない。


第4回 「孤児院建設へ」
   八ヶ月ぶり四度目のアフガニスタン訪問。カブール空港の変わり様。ターンテーブル・売店・レストラン等ができていた。時間はかかるものの、ターンテーブルからは荷物が流れ出てくる。秩序の回復・・・?
 最初の訪問時を思い出す。何もない空港。壁に大きくあいた大きな穴から荷物が転がり出てきたのを。それに群がる男達の殺気を。チップ目当てに我先にと荷物を奪い合ったのだ。怖い!と思ったものだ。 街には一つか二つだが、信号機ができていた。たいていは おまわりさんが十字路の真ん中に立って ガラス製の手鏡のような物を振りかざして 手動で赤・緑と、指示している。
 カブールでもヘラートでも建築ラッシュに拍車がかかり、そこここから絶え間なく新築・改築の工事音が響き渡ってくる。建築資材の高騰は押して知るべし。
 さて、肝心のヘラート男児孤児院の建設だが、州政府担当者は首を長くして私の再訪を待っていた。空港には出迎えが来ていて、直に孤児院へ。すぐに建設の話に入った。彼らには既に現地エンジニアに描かせた二階建て250人収容の建物の図面ができていて、これを建ててほしいと強力に押してきた。日本から持ち込んだ図面は、土地代金の高騰とヘラートの技師による図面でないと建設省から許可がおりないことを理由に 言下に却下されてしまった。
 カブール中央政府からも役人が派遣され、ポリスマンも立会いの下、厳正に入札が執り行われ、12の現地建設業者の中から Benyamin Sohai 建設会社を選んだ。詳細に渡る交渉の後、総工費10万ドル、工期7ヶ月で正式契約を結んだ。また、モニタリング・エンジニアを指定し、彼に工事の監視と当方への報告を依頼し、彼とも契約を結んだ。
 ここまで漕ぎ着けるには大勢の方々のお世話になった。UNHCRの福村とも子さん、イギリスのNGO”War Child"のミス・ヘザー、京都に本部を置くNPO法人”NICCO"日本国際民間協力会ヘラート事務所の現地スタッフの方々。私の通訳兼アシスタントを務めてくれた 奈良女子大学留学中のDeebaさんの甥・ナサール氏。皆それぞれにアフガン復興の熱意に燃える人たちだった。

 契約に関する仕事の合間には、極力現地・現状見学に出かけていた。UNHCR現地事務所員の方々もご協力くださり、彼らの案内で マラスツーン(赤新月社)の孤児院や私立の孤児院、現地女性NGO”WASSA”のワークショップなどを見て回った。女性達には日本から持参した刺繍糸(ご寄付)をプレゼントし、孤児達にはノートや鉛筆やサッカーオールなどをバザールで買ってプレゼントした。
 行く先々で決まって何がしかの寄付や協力を頼まれる。物品を供与するだけの支援ではなく、先の自立に繋がるような支援をしたいので、その度に「よく考えて」と応えている。
  
 ヘラートだけで孤児の数7,000人とか。8000人とか。また、ヘラートは女性の焼身自殺の多さで有名。世界一妊産婦の死亡率の高い所でもある。今後は女性達の支援も視野に入れた活動も展開したいと思っている。する事は山ほどある。
 

第5回 「ピクニック」

   驚いた!男の子達と女の子達が同じ場所で歌ったり、踊ったりしたのだ。請われて主催したピクニックでの出来事。前回(9ヶ月前)は男女がお互いが見えないほど離れた場所に陣取り、そのため私はカメラを手に双方の間を息せき切って走らなければならなかったのだ。何という変化だろう!アフガニスタンは確実に変わっている。
 この国に通い始めて早や2年余り、今回で5回目の訪問。その度に変化を見てきたが、今回ほど復興の波を大きく感じたことはない。自分自身がこの国に慣れてきたこともあろうが、人々の暮らしは確かに落ち着いてきている。
 イスラムの新年に出くわしたこともあって、人々がこぞってヘラート郊外へピクニックに繰り出す様子を目撃し、やっと来た平和な暮らしを楽しんでいるのだなあと、私も心が和んだ。もともと新年にはピクニックに行く習慣があったのだそうで、何処もかしこも交通渋滞が起こるほどのラッシュ。自家用車もあれば、バスやトラックにこぼれんばかりに鈴なりに乗り合わせているのもある。ピクニックといっても、何もないだだっ広い場所にシートを敷いて 持参したランチを食べたりするだけの事なのだが。その光景はほほえましく、解放された人々の喜びが伝わってくるようだった。
 出発直前に「外務省領事局海外邦人テロ対策課」という物々しい部署からかかって来た忠告電話など すっかり忘れてしまうほど長閑で平和な光景だった。
 今回は帰国する二人のアフガン男性に同行して、イラン・マシャド経由で陸路からヘラート という初めてのルートで入った。国境の町ドガルーンは土埃にまみれた辺境の町。入国審査を終えて アフガン側に入ると心がワクワクするのは 不思議だ。私のアフガンびいき故だろう。
 しかし、身体に巻きつけた大金とテロリストに捕まったときに見せるべく持参したヘラート州政府からの感謝状のコピーが私を引き締める。孤児院建設費用を支払うまでは決して油断はできない。
 定宿マルコポーロ・ホテルに荷を解いて、真っ直ぐ建設現場へ。屋根がまだないだけで 1階2階とも 大部分の床と壁が出来上がっていた。感慨無量だ。最初に契約した図面が元知事イスマイル・カーン氏の鶴の一声で竣工式に却下され、それからのすったもんだ。どんなに気を揉んだことか。契約技師ラマティ氏の手になる新図面が認可を受けて着工に辿り着いた時の安堵感。こもごもの思いが過ぎる。孤児院の庭では桜かと見間違った杏が満開。春が来ているのだ。
 新年で大半の子ども達は親類の家に帰っていたが、僅かに残っていた子ども達が私を取り巻き、院長に促されて御礼の言葉を述べた。うれしいひとときだった。
 さあ、これからが戦いだ。孤児院建物が最初のものより少し規模(延べ床面積)が小さくなっている分の割引交渉をしなければならない。果たして建設業者が応じるかどうか。交渉に臨む直前まで胃が痛むほどあれこれと考えた。が、案ずるより産むは安しだった。新しく労働福祉局長に就任したザヒディ女史が TVでラーラ会のプロジェクトに言及し、賛辞と御礼を述べたのだそうで、これが効いたのだろう。建設業者も好意的で、2万ドル余りの返還と3ヶ月で完成すると約束した。神に感謝!
 ザヒディ女史はかなり改革の腕を奮っている模様で、クリスマスにプレゼントした12台のヒーターは1箇所に封印して誰も取り出せないように処置し、毛布も女児達に60枚、男児達に190枚の配布を確認していた。女子の孤児院建物も新築してくれるNGOが現れたという。上が代われば下が変わる。期待しよう。
 最も大切なことは 子ども達の日常に清潔で文化的な生活習慣を導入することと 教育だ。しかるべき責任者を雇い、その事を最優先して欲しいと彼女に要請した。また英語のクラスもラーラ会主催で開講することに了解を得た。

第6回 第2ステージへ

 アフガン選挙  9月16日(金)成田を発って北京・イスラマバド経由で、17日カブール着。初めてのアフガン議会総選挙の影響か 以前は満席でごった返していた機内も空港内も嘘の様な静けさ。ホテルに落ち着いて直ぐにヘラート行きの航空券の手配を頼んだが、明日は総選挙の日で政府が空港を閉鎖したため、飛行機の発着はなし。2・3日は様子見でカブールに滞在することとなった。
 18日(日)、選挙当日、恐る恐る街に出てみた。店は閉店。バザールの賑わいも 人や車の混雑もなく、街は嘘のように静まり返って、僅かに選挙に出かける人の姿があるのみ。投票した人には 二重投票を防ぐために右手人差し指にくっきりとインキ跡。2日間は消えないとのこと。街で出会ったチャドル姿のおばあさんが嬉しそうに見せてくれた。学校とモスクが投票所。私達部外者は入れてくれない。しかし警察官や担当者など 皆にこにこ親切で 噂されていたような危険な雰囲気は何もない。僅かに地方で2箇所揉め事があったと聞いたのみ。 ISAF(国連平和部隊)21日発行の新聞でも 選挙は予想外の成功を収め、カルザイ大統領の談「平和と安定へ一歩近づいた」を報じた。アフガニスタンの民主主義は36年ぶりに歴史的な第一段階に上ったと。結果は10月22日までに判る。
 
 ホテル・アリアナ  19日(月)アリアナ航空とカムエアーの事務所にヘラート行きの切符を買いに行ったが、アリアナは既に早朝に飛んでしまっており、カムエアーは本日は飛ばずで、明日の切符をやっと購入。なかなか予定通りに行かないのがアフガニスタン。
 20日(火)、やっとのことでヘラート入り。町はいつもと同じ。但し、カブール同様 建築ラッシュは以前に輪をかけて 凄い。何処もかも建築中。それに以前は主たる交通手段だった馬車が殆ど見られなくなって、その分車が増えている。町はどんどん変わっている。
 今回は定宿マルコポーロ・ホテルではなく、新しくできた「アリアナ・ホテル」に泊まる事にした。費用が半額以下(1泊20ドル)の上、街の中心部に近いからだ。まだ設備が整っていない部分もあるが、料金からすればなかなか快適・結構な宿だ。
 ところが、困った事が続出。ホテルのオヤジがどうやら私たちのことを言いふらしたらしく、いろんな人たちが窮状を訴えにきたのだ。パキスタンから帰ってきたが母親がなくて小さな子をかかえて仕事にも就けないから何とかしてくれだとか、障害児がいるが日本で手術を受けさせたいだとか、私立の学校を運営しているが助けてほしいだとか、こんなに続々と現れてはこちらこそ助けてほしいものだ。私達は主に孤児の支援をしているのであり、個人的な支援はしないのだと説明してお引取りいただいた。宿の主には他言無用と釘を刺す。

 孤児院完成は遅延  さて、孤児院はほぼできていたが、まだまだ。9月20日に完成するなんて嘘っぱちもいいところだ。なんとか私の滞在中に完成してほしいものだと念じるしか他はない。カーペットやカーテンの手配、テーブルや椅子その他の備品の調達に走り回る。ようようのことで10月3日に完成の確認と引渡しが終了。残金8,000ドルを支払い(総工費:78,000ドル)、新建物を労働福祉局に進呈した。局長のザヒディ女史ははJICA招待による日本での職業訓練視察から帰ったところで、日本のテクノロジーの素晴らしさに感嘆していた。
 5月中ごろにスタートした孤児院内英語クラスを見学。4ヶ月経過しているわけだが、男子と女子がどうしてこうも違うのかと頭をかかえる。男の子のほうは いかにも意欲旺盛で、食い付いて勉強している感じがよく分かる。進歩も目を見張るばかりだ。女の子のほうは 2・3人を除いては なよなよと何をしに来ているのか疑いたくなる。無駄だと判断して女の子のほうのクラスを一時打ち切る意向を話したところ、猛反対にあった。曰く、彼女達は大変喜んでいること、タリバン時代に勉強する機会を与えられなかったので、勉強に慣れていないのだと。機会を奪わないでほしいと進言された。もう少しこのまま続けることにしよう。但し条件付で。
 
 イマン・ハニファー孤児・高等学校に通学バスとトイレを寄贈  
この孤児院・高校は全校生徒450人。そのうち寄宿生は50人ほど。日本大使館を通して日本政府が新建物の建築費用を助成した私立孤児院・学校。新校舎はヘラート郊外にあるため通学バスが必要。また、日本政府の援助は9万ドル以下と限定されているためトイレの建設まで手が届かないということで、敷地の端に6人用トイレを建設する費用をLalaが出すことにした。両方合わせて約2万ドル。車はもちろん日本から輸入の中古車。

ラサラト・トレーニングセンター
  今回宿泊したアリアナ・ホテルの前はセイ・ジャバリーという男子小学校になっており、2階のホテルの窓から見ていると毎朝大勢の子供達が通ってくる様子が見えて面白い。保護者に車で送ってもらってくる子もいる。広い校庭には50針ほどの古テントが張られており、孤児院の仕事のあい間に一度覗きに行くことにした。門番のおじさんに許可を得て進入。ぶらぶらと写真を撮ったりしていると、職員室から一人の女教師が出てきて、片言の英語でしきりに話しかける。よくよく聴いてみると、自分は貧しい人たちの地域に男女児の私立学校を運営しており、援助を必要としている、一度見に来てほしいということだった。ユニセフが井戸を一つ掘ってくれただけで他の援助はないと。
 その日の午後、通訳のシャロラさんを伴って彼女の学校に出かけた。 ホテルから そう遠くはないハザラ人たちの居住地域にある小さな学校で、途中ユネスコが世界遺産に指定したというミナレットを通り抜けるのが印象的だった。小さな教室がやっと8室。まず驚いたのは男女が一緒に、真ん中の通路を挟んで左右に分かれてはいたが、同じ教室で勉強していたこと。教室が足りないという事情も考えられるが、校長であるシャヒン・タビビさんの新しい考え方が基本にあると感心した。
 彼女はタリバン時代にも隠れて子供達を教えていたこと、自分は貧しい人たちの生活向上に尽くしたいので結婚はしないこと、朝・昼・夜の3部交代で大人の男女の識字学級と女性の職業訓練をしていること等を 顔を紅潮させて一生懸命に説明した。教師の数は英語教師も含めて28人。月給は20〜30ドル。資金はアフガン人のビジネスマン達から出ているが、不足していることも。彼女の健気さが胸を打った。が、ラーラ会はお金での援助はしないことを説明し、まずは不足している3人がけ椅子付き3人用机を10台プレゼントすることに決定。教えられた店へ通訳シャロラさんと出向いて注文。1台40ドル。8日間で仕上げて納品してもらうことで合意。
 その翌日、予告せずに午前中にセンターを訪問した。門外にまで子供達の唱和する声が聞こえる。昨日同様に男女同室で熱心に勉強する子供達の姿を見て安心した。その翌日はまたも予告なしに、ご寄付戴いた刺繍糸・針・布・本、それに本を携えて 午後に訪問。3時15分からが洋裁などの職業訓練教室。校長のシャヒンさんが刺繍好きのお母さん達に声をかけ、すぐに5・6人が職員室に集合。床に座り込んで黙々とアフガンの刺繍を見せてくれる。主にクロスステッチの簡単なもの。アフガン刺繍なら誰もがするからこの本にあるような高度なステッチを練習して製品化すれば儲かると言ったが、「貴女が買ってくれるのか」と言われ、深く反省。先ではなく今お金にならなければならないのだ。そこで、新しい孤児院用の枕カバーの縫製を注文することにし、ピンクの布を購入。チューリップのワンポイント刺繍の入った枕カバーの見本を持参して250枚の製造を頼んだ。
 
 ゴミを拾い集める少年達   アフガンの朝は早い。5時半には空が白み始め、鶏がけたたましく鳴き続け、車の騒音が始まる。小鳥達のさんざめきとともに通りに人の姿が見え始める。ホテルの前は学校になっているが、その校門の前の路上がゴミの集積所になっており、そのゴミの山をズタ袋を持った子供達が漁る。スイカなどの生ゴミ・紙類・ビニール類などをズタ袋に分別収集して持ち帰る。7時には収集車が来てスコップですくってトラックの荷台に載せて持ち帰る。毎朝繰り広げられるこの光景をホテルの2階から眺めながら心が痛む。どうしたらいいのか?分からない。一度写真を撮りに降りて行ったら、嫌がらずにポーズまでとって撮らせてくれた。それがまた切ない。焼きたてほかほかのナンを買ってあげたら喜んで家(?)に持ち帰った。それが何になる。辛い。
 彼らは孤児なのではないだろうか。孤児院に収容されている子供達はまだまだいい方なのではないだろうか。もっともっと調査しなければならない。

 第2段階へ   孤児達に新しい家をプレゼントし、彼らの生活改善に役立てるという最初の目標はほぼ達成した。Lala会の活動は第2ステージに上ろうとしている。じっくりと腰をすえ、今後孤児達のために何ができるのか、何をすべきなのか、探ることが肝要。また、ダウンタウンと呼ばれている極貧民層の住む地域も見せてもらった。いったい何ができるだろうか?
 関連写真をNewsのページに掲載しています。ご覧ください。

第7回  ヘラートで騒動勃発

   
新しい孤児院で新しい生活を始めた孤児たちの喜んでいる様子が見たくて心わくわく訪問したヘラートでしたが、予想外の現実を目の当たりにして、孤児院建物の完成が支援の終了ではなく、スタートなのだと、改めて思い知らされました。
   期待はずれの第一は新築後まだ4か月しか経っていないのに 建物内の汚れや破損です。
   誰も皆 中に入る時は履物を脱ぐようにとあれほど頼んできたのに、院長はじめ職員は土足で入っていますし、子供たちも素足で遊んだそのままの土まみれの足で上がってきます。食堂のテーブルや床も食べこぼしを掃除し磨くことをしていないので、べっとりしています。部屋の一部ドアは力任せに押したために破壊されてしまっているのです。
   大切なのは教育です。適切な指導者の必要性をまざまざと再認識しました。ラーラ会で誰か適当な人材を雇い、教師・職員・子ども達の指導に当たって貰うのが一番の解決策と確信しました。
   落胆の第2はイスラム教の祝日にヘラートで起こったシーア派とスンニー派の騒動です。数人が死亡し、数十人が負傷しました。道路は警察に閉鎖され、外出禁止になりますし、散々でした。
   一体いつになったらアフガニスタンに安定と平和と豊かさが来るのかと思うと、暗澹たる気持ちになりますが、それでも復興は目に見えて進んでいますし、子ども達の暮らしにも落ち着きと ほのほのとした温かさや優しさが見えてきています。諦めずに、希望を持って、勤めましょう。
   今回のヘラート訪問には共同通信社カブール通信員の安井浩美さんが同行取材してくださいました。安井さんは2001年9月からカブールに住んでいる 逞しく頼もしい女性写真家で、今回大変お世話になりました。彼女からは的確なアドバイスを頂戴し、アフガンに住んでいる人ならではの具体的な方法論もご教示いただき、今後の活動方向も示唆して頂きました。深謝します。

 第9回 ラーラ会活動も充実

今回もまた 早朝から日没まで 毎日毎日休む間もなく、忙しく動き回っていました。風邪も引き、下痢にも見舞われましたが、堀川さんや紀子さん達の助けを得て、充実した日々を過ごしました。
帰国間際に カブール空港が雪のため閉鎖され、その後は軍の航空管制のため民間機の発着ができなくなっているとの知らせを受け、急遽対策を練りました。国連機でカブールに飛ぶか、陸路をイランに出国するか。どちらもラーラ会のような小さな未登録のNGOでは即座に対応することは不可能です。ドイツのNGO・Helpのお世話になりました。イランのビザ獲得の手配も含めて、大変親切に迅速に動いてくださり、感謝。予定より3日早く、ヘラート空港でPACTEC(登録NGOだけが乗れる飛行機)が来るのを祈りながら待ちました。飛ばなければ直ぐその足でイラン領事館に駆け込まなければなりません。彼方より飛んできた小さなセスナ機を皆が拍手で迎えました。乗客は8人。切羽詰った客ばかりで、皆が胸を撫で下ろしました。天気は快晴、安堵して眼下に連なる雪山を楽しみました。航路変更されていて、普段は飛ばないカンダハル上空を飛び、時間は1時間半もかかりました。いつも何かが起こりますが、不思議と助けが入って無事に帰国できます。
皆様のご支援のおかげでヘラート現地でのラーラ会活動も充実して参りました。
より多くの孤児達を続けてサポートして行けますように、今後も温かなご支援・ご協力を
お願い申し上げます。感謝のうちに。