|
||||||||||
勝手解釈 | この歌は大津皇子の辞世の歌といわれる。 大津皇子は天武天皇の第三皇子。 その大津皇子が天武天皇崩御の直後、謀反を企てるが、事は密告によりたちまち露見し、皇子は磐余の池で死罪に処せられる。 その際の辞世の歌。 「大津皇子、死を被りし時に、磐余の池の堤にして涙を流して作らす歌一首」と紹介され、標記の歌がある。
その大津皇子の姉の大伯皇女の歌、 「うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を弟世とわが見む」(巻2-165) をすでに紹介した。 「天武2年(673年)夏4月の丙辰の朔己巳(14日)に大来皇女を天照大神に遣侍さむとして、泊瀬斎宮に居らしむ。 是は先ず身を潔めて、稍に神に近づく所なり」と「日本書紀」にあるらしいが、 彼女は1年半泊瀬斎宮で潔斎し、13歳で斎王として伊勢神宮へ出立した。 幼くして母を失ったので、二人の姉弟愛は強かったらしい。 |