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Chapter 1:


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音楽自分史

(Personal History of Music)


 

宮門 正和  Masakazu Miyakado

宇治市、京都府  Uji, Kyoto, Japan

December, 2012

 

 

 


 

   目次

 

はじめに

 

1.誕生~10歳(1947~1956)

誕生、保育園、小学生

 

2.10歳代(1957~1966)

中学生時代、音楽との突然の出会い

 高校生時代 キリエレイソン

浪人生時代、断音楽

 

3.20歳代(1967~1976)

大学生時代

ベートーヴェン:弦楽四重奏曲全集

バッハ:ブランデンブルグ協奏曲(LP借用)

展覧会の絵

余談:琴の演奏(まねごと)

チャイコフスキー:交響曲4、5、6番(悲愴)

社会人時代

バッハ:マタイ受難曲、カンタータ集など

パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲

 

4.30歳代(1977~1986)

カセットテープ録音狂い

キース・ジャレット:ケルン・コンサート

米国の大学へ留学

 

5.40歳代(1987~1996)

クラヴィコード製作顛末

バッハふたたび:平均律クラヴィア曲集、ゴールドベルク変奏曲

T-shirts

 

6.50歳代(1997~2006)

ふたたび、キース・ジャレット

ジャズの世界コルトレーンコリアバートンMJQマクファーレンフェラ・クティ

バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ(グリューミオ vsクレーメル)

バッハ:無伴奏チェロ・ソナタ(フルニエ vsマ)

モーツァルト:ピアノ・ソナタ全集(内田光子 vsグールド vsピリス)

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全集(バックハウス vsグルダ)

ショパン:作品集(ルービンシュタイン)

ハイドン:ピアノ・ソナタ全集(ヤンドー)

オペラ世界フィガロの結婚トゥーランドットラ・ボエーム

バトルデセイ

ペルト

ピアソラ

                                        

7.60歳代(2007~    )

社会人卒業、第二の仕事へ

オペラ開眼・・・「愛の妙薬」

ワーグナー「指環」、最初はキック・アウト!

ワルキューレから再トライ

「指環」のDVD、CD体験

「指環」に登場するのは現代人、登場人物の分析

NYメトロポリタン、「指環」痛恨の自主辞退(2009年5月)

その後の顛末

バイロイトに行きたい

 

全仕事終了

バイロイト・ワーグナー体験(2011年7~8月)

「2011年、バイロイト音楽祭に参加して」(「リング」寄稿文)

バイロイトで見たもの、聴いたもの

ミキシュというピアニスト

演出主導の作品作り

オペラの劇場映画化 ステージオペラについて

聖トーマス教会、バッハ墓参

                           

これから

ワーグナーの魅力、ワーグナーをこれからどう聴くか

ワーグナー評論

丸山眞男フルトヴェングラーフィッシャー‐ディスカウ

音楽に対する感受性と年齢の関係。最後まで体に残る五感

 

あとがき

添付資料



059 

 

 

 

僕はいつも、通俗的になっちゃうんだけど、たとえば、ベートーヴェンが『田園交響曲』をつくってなかったら、あの歓びは、俺たち知らないわけよ。僕は何回聴いても、あんな名作はないと思うし、シューベルトの『未完成交響曲』のメロディーも、あの人があそこで書いていなきゃ、もう何万、何億の人が知らないわけでしょ、、、。
小沢征爾1981年、武満徹との対談から)

 

 

 

 

Music Shelves (Aug. 2012)

 


 

 


パル(Oct. 21, 2003~ )

 

 

 

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はじめに

世間の荒波に揉まれながらも2012年、65歳まで辿り着いた。思い返せば、これまで様々な音楽に接し、そこから多くの勇気・慰めを得てきた。4050歳代、仕事が本当に多忙であった時も、時間があれば寸暇を惜しんで、音楽を聴ける時はそれに集中した。大病をせずにすんだのも、音楽からの恩恵が大きかったと思っている。音楽を通じての自分史を書いてみた。

 

時に、作曲家論であったり、個別の演奏家を論じたりと、その時々に受けた印象を思い出しながらつれづれに記述した。日本生まれのひとりの人間が辿ったとりとめない音楽を通じての自分史の記録になればと思う。

 

 

1.誕生~10歳(19471956

 

誕生、保育園、小学生時代

私は昭和22年(1947年)222日、父の勤務の関係で大阪市天王寺区桃谷の大阪の逓信病院(現:NTT西日本大阪病院)で生まれた。生まれてからの数年間、大阪市内を何回か転居したらしい。戦後の食糧難の窮乏期、当時の生活の苦労話はよく母親から聞かされた。記憶に残るのは、45歳頃の京都市下京区(当時)上鳥羽での生活からである。

 

周囲は田畑で囲まれ、農耕と運搬には牛・馬が活躍していた。今のこの地(京都市南区上鳥羽)の都市道路と工場群からは想像もつかない環境であった。保育園へは、毎日ジャムパン一個を持ち、片道約1キロの通園だった。お寺が経営する保育園で、ある日、悪戯が見つかり暗いお堂に閉じ込められ、数人で声も枯れんばかりに泣いた怖い思い出がある。

 

当時、近隣に子供たちがピアノやヴァイオリンを習う文化はなく、習い事といえば珠算塾か書道塾であった。また、音楽は学校での唱歌(文部省唱歌)、ラジオの歌謡曲番組や裕次郎映画の主題歌などで、小学生時代、音楽に対する特別の思い出はない。小学生の低学年の学芸会で「春の小川」を、高学年になってレハールのワルツ「金と銀」の合奏をやった。しかし、自分が何の楽器を担当したかはまったく覚えていない。第一次ベビー・ブームの日本人男児の平均的な環境で育った。

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2.10歳代(19571966

 

中学生時代、音楽との突然の出会い

中学生(昭和34年(1959年)4月)となり、中高一貫の進学校として実績を上げつつあった京都市内にあるカトリック系の私立の男子中学に通った。入学して知ったが、この学校には学内暴力はなく、いわゆる、上・中流家庭育ちの生徒が多かった。田舎の小学生時代と違い、相当に違和感のある学校生活であった。学校での学業成績は常に伸び悩んだが、その中にあって、特に腐ることもなく凡庸な学校生活を過ごした。

      

中学2年生の時の夏休み中、いつものようにラジオを聞く「ながら勉強」で夜を過ごしていた。音楽との接点はそんな夜に突然に訪れた。突如、夢の世界に入ったような感覚に襲われた。それはチャイコフスキー(Peter Ilyich Tschaikovsky)作曲のバレエ組曲「胡桃割り人形」の中の「行進曲」であった

 

特に、最初の木管と管楽器による小気味よいリズミカルな音楽が衝撃だった。これをきっかけに音楽に対する好奇心が芽生えた。その後の私の人生における様々な移ろいの中で、音楽は常に大きな比重を占めている。50年以上も昔のこの出会 いの瞬間の記憶は今も鮮明である。(♪:▶ チャイコフスキー:組曲《くるみ割り人形》第2曲.「行進曲」 - YouTube )

 

以降、私はある作曲家(または演奏家)に興味を覚えたら、その作曲家(または演奏家)の作品群を集中的に聴くというやり方で音楽と接して来た。「つまみ聴き」はあまりして来なかった。従い、音楽自分史を辿るとき、芋ずる式に色々な記憶が関連して想い出される。

 

 ステレオ体験

信じられないようなステレオ体験がある。その頃の世の中のラジオ放送やSPレコードなどはすべてモノラル放送や録音であったが、音が立体的に聞こえる立体音響録音(ステレオ)なるものが発明されるに至り、徐々にではあるがステレオ録音レコードや専用の音響再生装置などの商品が販売され始めた。

 

今となってはあたりまえの話だが、当時、ステレオ録音のレコードは貴重品で、商品には大きく「STEREO」と書かれ、モノラル録音の商品と差別化されていた。

 

私のステレオ初体験はラジオを2台用意し、1台は朝日放送、もう1台は毎日放送から同じ音量で電波を同時受信する(日曜日の午後1時からの1時間番組だったと記憶するが)。二つのラジオを数メートル離し、正三角形の頂点の位置に座る。メトロノームのテスト信号音の後、自然界の音響や新しく録音された音楽が放送される。

 

ステレオ効果を追及したものだけに音が左右めまぐるしく動きまわるが、正にこれは新しい感覚で、音が空間を立体的に泳いだ。天空からの雷鳴音や、遠方から徐々にこちらに近づき右奥から左前方向に驀進し、やがては遠ざかつてゆく蒸気機関車とそれに連なる貨車がレールの継ぎ目でカタンカタンという音。ピアノ、サキソホーン、ドラムスなどのソロ楽器が目まぐるしく入れ替わるジャズ・セッションなどは刺激的だった。こうした音体験を経て、世の中はステレオLPの時代に入っていった。

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高校生時代

中学を無事に卒業(昭和37年(1962年)3月)した。これまでAMラジオでしか音楽は聴くことが出来なかったが、父に懇願して、当時、新たに販売されはじめたBOX一体型のステレオ再生装置(Victor社製)を購入してもらった。

 

(当時、クラッシク音楽の放送時間は少なく、日曜日の午前805分から55分間、NHKラジオ放送の堀内敬三さん解説の「音楽の泉」をよく聴いた。この番組は今も続く長寿番組である。)

 

世の中、漸くLPの時代に入ったが、その頃の高校生にはLPレコードは高価で簡単に購入出来るものではなかった。当時、書籍出版社からビニール製のソノシートといわれる音質は良くないが音楽を手軽に楽しめる商品が音楽解説本の付録として販売された。それらは比較的安く購入出来たため、高校1年生の私はもっぱらソノシートで音楽に接した。記憶に残るものとして、

 

ベートーヴェン:英雄交響曲、オットー・シュミット、ハンブルク交響楽団(ディスク社)

●ベートーヴェン:運命交響曲、オットー・シュミット、ハンブルク交響楽団(ディスク社)

●ビゼー:カルメン抜粋、川崎静子ほか、ガエタノ・コメリ、東京フィルハーモニー(ビクター出版)

●ビクターのステレオ装置の試聴盤レコード。フリッツ・ライナー、シカゴ交響楽団の演奏でドボルザークの新世界交響 曲の第4楽章の導入部が入っていた。モーツァルトのジャズ風にアレンジしたトルコ行進曲もあった、等(Victor

などがある。これらのソノシートは何回も何回も磨り切れるまで聴いた。

 

高校3年生になり大学受験が近くなった。勉強に集中しなければならない時期であったが、音楽の魅力には抗し難く、時間をみつけては音楽を聴いた。折も折、この年、昭和39年(1964年)の10月には世紀の祭典・オリンピックが東京で開催された。多くの日本選手の活躍に拍手喝采し、勉強への集中は疎かになった。当時のコレクション(LP)として記憶に残るものは、

 

ドボルザーク:新世界交響曲、アルトゥール・トスカニーニ、NBC交響楽団(Victor

●チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番、スビャトスラフ・リフテル、ヘルベルト・フォン・カラヤン、ウィーン交響楽団(海外レコードの限定輸入版、京大理学部のS教授の息子さん(同級生)から購入したもので、当時の私の宝物(舶来のLP)!)(Deutsche Grammophon

●チャイコフスキー:バレエ組曲、白鳥の湖、エルネスト・アンセルメ、スイス・ロマンド管弦楽団(London

●チャイコフスキー、メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲、ヤッシャ・ハイフェッツ、フリッツ・ライナー、シカゴ交響楽団、シャルル・ミュンシュ、ボストン交響楽団(Victor

 

          

 

などがある。これら高価なLPは何かの折に、親に様々な口実を設けて買ってもらったものである。LPレコードの時代になったとはいえ、レコード針が拾うノイズ音や、レコードの表裏の頻繁な入れ替えや、レコード盤の清掃保持など、今と比べると音楽鑑賞には煩雑な手続きが必要であった。

 

この時期、一言で言うとチャイコフスキーの音楽に一辺倒であった。精神的に不安定になりがちな高校生という時期とメランコリックだが壮大で耽美的なチャイコフスキーの音楽がマッチしたのであろう。ピアノ協奏曲の荘重な導入部や土俗的なロシア風の旋律、また、ヴァイオリン協奏曲の華麗な音色と、その中に見え隠れする寂しげな感覚、、、これらに圧倒されたのである。

 

10代の頃の音楽の嗜好を65歳の今になって思い返してみる。今から思えば、「チャイコフスキー=完璧な表現者」とでも言うような先入観を持って音楽を聴いていたといえよう。また、選択の幅は極めて限定的であった。しかし、美しいもの、劇的なものには文句なしに心が躍った。なぜそういう心境になったのかはうまく説明できない。

 

チャイコフスキーの音楽には、甘美さ、はかなさの中に見え隠れする熱狂、ロマンチシズム、一言でいうと「ノスタルジー」に満ちている。「ロシアの憂鬱」とでも言おうか。感情の移ろいに流される音楽である。この時期にこの音楽に出会ったが、当時の私には至福の時間であり、真剣に受容した貴重な体験であったと思う。音楽の一断面しか見ていなかったが、それがすべてだと信じられた。何かに集中していないと不安定な心理状態にあったのであろう。

 

当時、耳慣れない音楽(ジャズなど)、単調な音楽(バッハの音楽など)にははっきりと拒否反応があったし、同じロシア音楽といってもラフマニノフや近・現代ロシア音楽の中核であるプロコフィエフやショスタコヴィッチの作品はまだ興味の外であった。

 

上記以外で高校生時代までによく聴いた音楽:ベートーヴェン:交響曲第6番(田園)、第8番、第9番(合唱)、ピアノ協奏曲第5番(皇帝)。 ブラームス:ハンガリー舞曲集(第5番、第6番、他、オーケストラ編曲版)。チャイコフスキー:弦楽セレナード。 メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲。 グリーク:ピアノ協奏曲第1番。 シューマン:ピアノ協奏曲。 サラサーテ:チゴイネルワイゼン。 スメタナ:交響詩「モルダウ」。 ヘンデル:水上の音楽、調子の良い鍛冶屋の主題による変奏曲(チェンバロ)。 リムスキー・コルサコフ:シェラザード  など

 

キリエレイソン、、

中学・高校時代、カトリック系の学校に在籍した。宗教の時間があり、キリスト教の教義、キリストの生涯、福音書等の学習が課せられた。その中で、いまだに記憶にはっきりと残っているのは、当時、神父様のオルガン伴奏で意味もよく理解せずに歌ったラテン語でのミサ祭祀曲である。

 

キリエレイソン(主よ憐れみたまえ)、グロリア(御栄あれ)、アニウスデイ(神の子羊)、クレド(信条)、サンクトゥス(聖なるかな)などなど、約50年前に習ったミサ曲の歌詞および旋律は、不思議にも今も頭の中にはっきりと残っている。今もどこかの教会では歌われているのであろうが、あの曲集のタイトル、作曲者等は今もって不明である。(♪:https://www.youtube.com/watch?v=aah_ITLw3R8

 

後々、モーツァルト、ヴェルディ、バッハのロ短調など、多くの名曲といわれるミサ曲が「同じラテン語の歌詞」で歌われていることを知り(当たり前のことであるが!)、驚きと同時になるほどと納得したことがある。高校卒業と同時にこのミサ曲から「おさらば」したが、今でもそれらのことをはっきりと記憶しているのは、その後の音楽に対するこだわり生活のせいだろうか?

 

先日、久しぶりに中学・高校の同窓会が開催された。その席には恩師T先生(81歳)も元気で出席されていた。その時はゆっくりと話す時間はなかったが、後日、先生に手紙で懸案のミサ曲のことを尋ねてみた。先生は敬虔なカトリック教徒である。すぐに丁寧な返信があり、それは「グレゴリアン・チャント」の中の “De Angelis” であるということが分かった。また、見たこともない四線譜のコピーも同封いただいた。インターネットで探すと、すぐさま、あの懐かしいミサ曲が聴こえてきた。キリエレイソン、グロリア、アニュスディ、、、すべて記憶に間違いはなかった。

 

残念なことにここ十数年来、日本の教会ではこの曲はラテン語では歌われなくなったとのことである。当時のローマ教皇が全世界に通達を出し、「グレゴリアン・チャントはすべて自国語で歌うべし」ということになったのだそうだ。教皇絶対の世界であるから、この通達以来、世界中でこのミサ曲はそれぞれの自国語で歌われているという(もちろんヴァチカンではオリジナルのラテン語で!)。

 

長年、カトリック教徒である先生はラテン語のミサ曲に親しんで来られているので、新しい日本語のグレゴリアン・チャントはやはり馴染みにくいとのことであった。宗教界の中の出来事に口を挟むつもりはないが、千年以上、歌い継がれてきたラテン語の歌詞を変更するという事態に驚く。何か今回の通達は大事なもの(真の宗教心?)を見落としているような気がしてならない。いずれにしても、長い間、遠ざかつていたミサ曲が手元に戻ってきた。

 

浪人生時代、断音楽

案の定、高3生の現役受験には失敗し、一年間、浪人生活を送った。親には物心ともに随分と苦労をかけたが、浪人生活を経験して良かったと思っている。この年間、「断音楽」を誓い、家にあるソノシート、LPはすべて紙袋に入れ封印した。レコードボックスも、ステレオ装置も封印した。

 

ラジオも遠ざけ、完全に「断音楽」を貫き、一年間、ピュアに受験勉強に取り組んだ。この集中勉強の経験は、その後の自分にとって大きな自信となったし、結果としては得がたい体験の一年となった。1819歳の青春は、今思っても集中と頑張りの一年間であった。

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3.20歳代(19671976

 

大学生時代

正確に言うと大学生生活は19歳から始まった。世界中の大学が改革の嵐に包まれた1960年代後半に大学生時代をおくった。私の場合も学生生活は普通ではなかった。大学の授業は4年間でほぼ半分位しか開講されず、知識の蓄積は専ら自主ゼミナールや有志教官・先輩諸氏との勉強会から多くを得た。

 

課外活動として、山歩きのクラブ(Wandervogel Klub)に所属し、アウトドアで過ごし自然を満喫する時間を多く持った。学業と生活と遊びの資金を稼ぐために、学生生活にアルバイトは欠かせないが、家庭教師、祭りの行進、線路工夫、公務員試験の監督、大掃除手伝いなど色々な職種を経験した。

 

ベートーヴェン:弦楽四重奏曲全集

アルバイトで纏まったお金を手にした。初めての自分のお金での買い物では、まとまって何か渋い音楽を手に入れたいと思った。馴染みのない音楽でもいい。世の中で超一級と評価の定まったものの中からの選択を考えた。色々と迷ったが、ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)の弦楽四重奏曲(全集)を選んだ。

 

解説本には、「ハイドン、モーツァルトの時代に弦楽四重奏という演奏形式が確立され、ベートーヴェンに至ってそれが最高の形で結実した。ベートーヴェンの四重奏曲、全16曲の中には青春の若々しい脈動から、大成した熟年の悟りの境地(諦念)まで、彼のすべての音楽が凝縮されている。室内楽の最高にして偉大な作品」と書かれていた。

 

ベートーヴェンは音楽に「意志」を持たせた最初の作曲家といわれる。音楽史の中にあって、たしかにベートーヴェンの交響曲は第3番の「英雄交響曲」から、独立独歩を始めた感がある。彼の交響曲を耳にする機会は多い。しかし、弦楽四重奏曲はそれまで殆ど聴く機会はなかったし、ラジオ放送等でも取り上げられることは滅多になかった。

 

弦楽四重奏曲の世界でも、彼の音楽は「意志」をもって一人歩きを始めたのだろうか? おそらくそうであろう。とすれば、どのような音楽世界か? 4人という小編成で創る音楽世界は、さぞかしや緻密なアンサンブルが厳しく要求される緊張に満ちた世界に違いないと想像した。

 

それから、私には卑近ながらも重要な問題であったが、弦楽四重奏曲は室内楽曲であり、音響の大きな再生装置が無くてもいい。中程度の音量でも弦楽四重奏曲なら音楽をしっかりと楽しめるであろうという期待があった。

 選んだのは、    

●ベートーヴェン:弦楽四重奏曲(全集、全16+大フーガ)、バリリ弦楽四重奏団

(全LP10枚、Westminster)

 

第一ヴァイオリンのワルター・バリリ(1921~  )は当時、ウィーン・フィルハーモニーのコンサート・マスターを務めたヴァイオリニストで、彼の名前を冠したこの弦楽四重奏団は主に1950年代に活躍し、室内楽演奏史上に名を残した生粋のウィーン正統派の四重奏団として知られている。当時、バリリ弦楽四重奏団の他には、ジュリアード、スメタナ、ハイドン、アマデウスなどの弦楽四重奏団があったが、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲については他の演奏グループに気を逸らせることなく、約4年間、バリリで過ごした。

 

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲は作曲した年代とそれらの曲の特徴から言って、大きく3つのグループ(第1、23期)に分けられる。

 

    

 

まず、第1期は作品番号186曲である。いかにも若々しい青春時代のベートーヴェンであり、これらは2730歳の頃に作曲された。元々、ベートーヴェンは交響曲作曲家のイメージが強く、「英雄」、「運命」、「田園」、「第7番」、「合唱」などの「意思力」の塊のような交響曲に慣れた耳には、この作品番号186曲は実に新鮮な響きだった。若い。

 

彼にもこんな表情があったのだ!という発見だった。ハイドンの作品と言っても殆ど区別がつかないような音楽である(このようなことを書くと、ベートーヴェンもハイドンも怒りだすかもしれないが!)。初期のピアノ・ソナタにおいても、また、第1、2番の交響曲においても、まだベートーヴェンの個性は十分に発揮されていないように聴こえる。

 

さて、初期の6曲の弦楽四重奏曲の中では色々な試みがある。さまざまな感情が表現されるが、一言でいってどれも愛らしい。円熟期の厳ついベートーヴェンはよく知られているが、若い時のこの軽やかな表情のベートーヴェンは同じ作曲家(?)と、俄かには信じがたい。しかし、これら6曲の中で異彩を放つ曲がある。第4番である。

 

特に第一楽章,Allegro ma non tanto短調。曲の導入部から即、青春時代に特有の心の不安を映したような音楽が始まる。強奏の第一主題の激しさ・力強さは、これは必ずや、あの「運命交響曲」につながる作品と直感することが出来る(そういえば、運命交響曲も同じハ短調!!)。

 

弦楽四重奏の初期の作品の中に、この作曲家の「源流」とも言える、疾風怒涛の将来を感じることが出来たのは大きな収穫であった。音楽が「意志」を持って歩き始めるとは、こういうことかと感じ入った。弦楽四重奏曲第4番はベートーヴェン2728歳の頃の作曲である。運命交響曲が作曲される約10年前である。一見、地味な響きの弦楽四重奏の世界に、生き生きとしたベートーヴェンの青春を知ることができたのは期待以上の収穫であった。(♪:https://www.youtube.com/watch?v=_ZGv6fiaJAE

 

中期の第2期の作品群には全部で5作品がある。作品59のラズモフスキー伯に献呈された3曲(第789番)、作品74のハープ(第10番)、作品95のセリオーソ(第11番)でいずれも30歳代後半(180810年)の3年間に作曲された作品である。

これら中期の作品はラズモフスキーも、ハープも、セリオーソもいずれもベートーヴェン独自のスタイルが滲み出た円熟期の作品群である。ピアノ・ソナタでも、交響曲でもこの時代の作品は、構想のスケールが大きい力強い名曲ぞろいであるが、弦楽四重奏の世界でも然り。粘っこい。音色こそ違え、そこにはベートーヴェンがいる。

 

たとえば作品591、弦楽四重奏曲第7番(ラズモフスキーの1番)は1808年に作曲されるが、その頃のベートーヴェンはといえば、1804年に「エロイカ(英雄)(第3交響曲)」をすでに完成しているし、ピアノ・ソナタ「熱情」、「運命(第5交響曲)」、ピアノ協奏曲第4番、ヴァイオリン協奏曲など天下の名曲を立て続けに生み出した時期である。事実、その作曲のためのスケッチ段階では、この四重奏曲は多くの名曲に混じってメモが書かれており、

 

第一楽章の導入部から主題提示部のあたりは、「エロイカ」を思わせるし、第二楽章のスケルツォでは、その後に作曲される交響曲のスケルツォに何となく類似している。第4楽章にはロシアの踊りのリズムを用いている。曲想にはベートーヴェンの意志がはっきりと込められており、全体的に大変に力強い。

 

作品74の弦楽四重奏曲第9番(ハープ)は、「田園(第6交響曲)」、「皇帝(ピアノ協奏曲第5番)」と同じ頃の作曲である。この作品は第一楽章にピチカート奏法が印象的に使われているためにその名前が付けられた。荘重さ、自信のなかに見える朗らかさは彼が創造の絶頂期にある事を示している。ともかくも、中期のこれら5作品は傑作中の傑作であり、同時期の交響曲群、ピアノ協奏曲と較べても遜色はなく大きく聳え立っている。惜しむらくは、弦楽四重奏というジャンルがあまり大衆的でないために、人々の関心を呼ぶことは少ないが、、、。

 

さて、後期の第3期の作品群(全6作品)には、作品127番(第12番)、作品130132番(第131415番)、作品135番(第16番)、作品133番の大フーガ がある。これらは晩年の52歳から、亡くなる前年の56歳の間に作曲されたものである。多くはあの《第9》の作曲を終えてから構想された作品で、晩年の不遇、孤独な表情、達観した人生観を反映している。もはや、《第9》の熱狂はなく、”侘び”の世界が忍び寄っている。その中で、時折見せる一瞬の線香花火のようなきらびやかで快活な表情にホッとする時がある。

 

たとえば、第15番(作品132)では、第3楽章のアンダンテ・モルトアダージョは、まさに消え入らんとする蝋燭の炎を静かに息を凝らしてじっと見つめているとでも言うような情景描写である。演奏時間もこの楽章だけで20分弱を要する。主題のメロディーはシンプルで慈愛に満ちた優しさを表現している。ベートーヴェンの到達した諦念だろうか。この楽章は《第9》の第三楽章アダージョ・カンタービレのあの優しく癒される表情が重なる。彼の多彩な表情を持った弦楽四重奏曲の終焉の曲にふさわしい。

 

いまもバリリ四重奏団のベートーヴェンLP(全10枚)は門外不出で、家の中にきっちりと保管している。しかし、LPを聴くチャンスはレコード・プレーヤーを手放して久しく、ここ十数年間、聴いていない。代わりといっては何だが、いまは197188年頃にかけて当時のソ連邦で録音されたタニェエフ四重奏団の全集CD(発売、チェコ、Boheme Music)を聴いている。演奏は明快で録音状態もよく、満足している。

 

その当時、好んで聴いた曲を思い浮かべると、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の他には、協奏曲等の器楽曲が多く音色がきらびやかなもの、劇的なものが多い。ロマン派の音楽に心酔した時代である。当時、時々耳にした音楽の父と言われるバッハの曲は単調なリズムを刻む退屈な音楽としか聴こえなかったし、オペラ世界は貴族趣味と思い込み、視野の外にあった。また、ジャズにはまだ興味は無かった。

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バッハ:ブランデンブルグ協奏曲(LP借用)

高校時代の恩師にクラシック音楽の好きな先生が居られた。国語担当のT先生である。在校中は、受験勉強第一ということで教師ー生徒の関係を出ることはなかった。講義の合間に、先生が時折、話されるお話から、また、たまにこちらの興味を喋ったりすることで、お互いが同類の嗜好の人間だということを認識していた。

 

大学生になってから、改めて先生と会う機会があり、これまでのお礼と音楽の話をした。その時に、先生から「今、最もよく聴いています。聴きますか?」ということで、バッハ(Johan Sebastian Bach)のブランデンブルク協奏曲(LP2枚)を借用した。「分かるかな?」と多少不安であった。

 

バッハといえば後々、最も身近な音楽家のひとりとなるが、その当時、バッハ音楽に対する先入観、すなわち、「音にアクセントがなく平坦」、「リズムが単調、、、」、等の思い込みから抜け出せていなかった。ピアノ曲、ヴァイオリンやチェロの曲、また、カンタータ等、どれもこれも同じで平板に聞こえる、苔むす音楽という感覚で作曲家バッハを捉えていた。

 

       

   

先生から借用したLPがどこの誰の演奏だったかは憶えていない。しかし、当時の一流の名盤であったと思う。ジャケットの写真が結構、色彩豊かな教会のステンドグラス風景だったような気がする、、、。PHILIPSだったか?

 

先生に電話で尋ねると、そのLPはもう処分してしまい手元にはないが、恐らく当時、ブランデンブルグ協奏曲はかなりレアな曲でそれを商業ベースで演奏していたのは恐らく、「カール・ミュンヒンガー指揮のシュツットガルトのオーケストラ」ではないかとのことであった。この情報を元に少し探りを入れたが、詳しいことは判らずじまいである。

 

ブランデンブルグ協奏曲(全6曲)は曲により楽器編成が随分と異なるため、それぞれの曲が与える印象は随分と違う。しかし、これまでのバッハ音楽の固定観念==単調==は見事に消えた。すべての曲が個性的であることが分かった。音彩がカラフルでファンファーレなどの管楽器群の表情も快活であり、リズミック、飛んだり跳ねたりと随分と楽しいものであった。先生のお導きによりバッハ音楽の楽しさの一断面を享受できたのは幸いである。

 

その後、暫くはバッハから遠ざかるが、次は約7年後の「マタイ受難曲」との出会いへとつながる。ここブランデンブルク協奏曲の世界は、マタイ伝のキリスト受難の苦悩の世界とはまた別の、バッハ音楽の器楽合奏のきらびやかな明るさと楽しさいっぱいの宮廷音楽である。ともかく、約1ヶ月間、このLP2枚を借用する間に、何回か原盤での演奏を楽しみ、また、当時、自宅にあったボロのオープンリールの録音機に全曲を録音した。音質は極端に悪くなったが、思い出しながら楽しんだ。音質の不鮮明なところは記憶力と感受性で補った。

 

ブランデンブルク協奏曲の6曲の中では、チェンバロが活躍する第5番が最も好きだ。特に、第一楽章のチェンバロのカデンツァ独奏のシーンなど、流れるような快活さに溢れ、虜にさせられる。また、殆ど、フルート+ヴァイオリン協奏曲のような第4番の協奏曲もオリジナルな愛すべき響きに感心させられる。まだ、一部分ではあったが、バッハの世界を覗き見ることが出来た。

 

展覧会の絵

大学生時代の体験として是非に記しておかねばならない一枚のLPがある。LPといっても25cmの中盤でモノラル録音である。レコードのジャケットに風景写真はなく、黄淡色のモノトーンの表紙に書かれているのはロシア文字である。

 

教養部の学生時代、ロシア語を多少つまみ食いをしたので、あの特殊な文字を見ても何とか発音できる程度にはなっていた。当時は、米ソの二極対峙の時代で、一方の雄のソ連邦は世界に冠たる影響力を保持していた。大学には、マルクス、レーニンの象徴である赤い旗が至るところに見られ、それが当時の構内のあたりまえの風景であった。

 

さて、そのタイトルはロシア語で、「カルティンキ・シ・ヴィスタヴィク」と読める。これは「展覧会の絵」の意味である。また作曲者はムソルグスキー(Modest Petrovich Mussorgsky)、ピアニストは当時、日本では幻のピアニストといわれたスビァトスラフ・リフテルである。発行はナウカ書店。日本でロシア書籍を扱う専門店である。ソ連邦からの限定輸入盤であり、西欧世界に登場することが少ないと言われた(人間国宝扱いの)リフテル様の演奏が1,000円という低価格で聴けるという話であった(流石に労働者に奉仕する国である!商業主義に走るどこかの国のレコード会社とは違う!!)。

 

この話題は、特に学生の間で評判を呼び、発売の数日前から並ぶ必要があるだろうといわれた。意を決し、大学町の近くの小さなロシア語書籍の専門店前に並んだ、、、。が、しばらくして通関か何かの都合で荷物の到着が遅れるという情報が書店に入った。整理券発行ということで行列は解散し、幸いにも数週間遅れとはなったが、憧れのソ連邦製のリフテルの「展覧会の絵」を入手することが出来た。

 

さて、「展覧会の絵」である。ロシアの作曲家ムソルグスキーが1874年に作曲した若くして亡くなった親友の建築家で画家であるハルトマンの遺作展覧会の絵の印象を表現したといわれる全10曲からなるピアノの為の組曲である。様々な絵画から受ける印象を色彩感溢れる音で巧みに表現している。展覧会場で一つの絵画から次の絵画に移るときの、ゆっくりと歩を進める音楽があの有名な「プロムナード」である。

 

この組曲はスケールが大きく、野趣に富み、かつ描写が大胆で印象的であることから、多くの音楽家が管弦楽曲への編曲を試みている。その中でも秀逸の作として定着したのがフランスの作曲家、モーリス・ラヴェルが学生時代の習作として1922年に発表した編曲版である。ラヴェルの編曲がこの曲をいっそう有名にしたことは言うまでもない。

 

実は、私は高校生の頃にこの組曲を始めて聴いた。有名な曲なので大いなる期待をもって望んだと思うが、残念ながら最初の数回の印象は、「チンプンカンプンで、やたらとノイジイ」という受け止めであった。素晴らしいとか感動的という感覚になれなかったのをはっきりと覚えている。「まるで、ジャズだ!」と、当時の日記にはそう書いていたに違いない。

 

しばらく時間を置いて(数年たって)、この組曲を改めて聴きなおした時、初めてその色彩感の豊かさに気がついた。そこから先、聴き込む事で表情豊かな個性的な音楽がしっかりと身近になってきた。「プロムナード」にはじまり、「小人」、「古城」、「卵の殻をつけたひなどりの踊り」、「リモージュの市場」、「カタコンブ」、「キエフの大門」、、、などなど、様々な強烈な音の変化を体験することが出来た。

 

ピアニストがこの原曲を弾きこなすには相当な技量と力量を必要とする。リフテルの演奏は正にそれに応えるものであったし、音の強弱、抑揚の付け方や繊細な表情の変化も実に上手く表現している。このLPは至宝の一枚となり、それから後も、長い間楽しんだ。

 

LPはリフテル盤しか持っていないが、その後、CDで色々な演奏を揃えた。ラヴェルの編曲版はもちろん素晴らしい出来であるが、私はどちらかといえばピアノ原曲のほうを好む。最初の出会いのせいかも知れない。

 

       

 

CD。 

ピアノ演奏:ウラジミール・アシュケナージ(ピアノ)(1967年、および1983年、いずれもLondon盤)、ジェノー・ヤンドー(1988年、Naxos盤)

オーケストラ演奏:エルネスト・アンセルメ、スイス・ロマンド管弦楽団(1960年、エール盤)、ズビン・メータ、ロスアンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団(1967年、London盤)、シャルル・デュトワ、モントリオール交響楽団(1985年、London盤)、ヘルベルト・フォン・カラヤン、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1985年、Grammophon盤)

ギター演奏:山下和仁(1981年、RCA盤)

ロックバンド:Mekong delta(メコンデルタ)(1996年、Billet Proof盤)(これがなかなか聴けます!)

シンセサイザー:富田勲のアレンジが一世を風靡した。「展覧会の絵」については、富田のベスト・アルバムの中にある数曲しか聴いていない。チャンスがあれば全曲を通して聴きたい。

 

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余談:琴の演奏(まねごと)

大学で修士過程一回生の時であった。同じ農学部の私とは異なる学科の修士の学生で、信州の山に時々一緒に出かけたことのある友人K君がフルート演奏の趣味を持っていることは知っていた。我が家にはお琴が二あった。母方の祖母は大阪で生田流の筝曲の大師範を務め、筝・三味線の教室を開き多くの弟子を育てた。私も子供の頃、祖母の家で夏休みを長期間過ごしたりして、琴や三味の音にはそれなりに親しんできた。私の母も、祖母から多少の手ほどきを受け、時折、演奏会などに出演していた。

 

何かのきっかけで、一度、K君とフルートと琴で合奏して見ないかということになった。私は八橋検校の筝曲「六段」を一応、最後まで弾くという程度の手習いはした事があるが、技術的には極めて稚拙で頼りないこと限りなかった。フルートと琴ということであれば、先ず思い浮かぶのは、難曲ではあるが日本人には良く知られた宮城道雄の名作「春の海」がある。オリジナルはフルートではなく、尺八と琴の為の合奏曲であるが、フルート演奏者のために五線譜に編曲した楽譜が販売されている。琴の調律は平調子ではなく、数本の弦を平調子から移調した調弦であった。琴の楽譜は家にあった。

 

また、たまたまであるが東京芸大のフルート科の主任教授であった吉田雅夫が作曲家自身である 宮城道雄の琴と合奏した「春の海」のレコードを持っていた。お陰さまでこの曲については、最初から最後まで、一応しっかりと耳に入っていた。

 

 練習は琴が簡単に運べないので、K君に我が家に来てもらい、合奏練習をした。最初の出だしの緩やかなところは、本当は難しいのかもしれないが、お互いあまり苦労することなく、何とか曲になったと思われた。次第にひねもすのたりのたり、、、の情景が、船を打つ波音に変わるところあたりから、お互いに徐々に苦しくなってきた。もう少しパート練習が必要と言うことになり、それぞれで練習に励んだ。

 

正月に大学の研究室でサプライズのお披露目演奏をと二人で密かに計画したが、生憎、お互いに勉学が忙しくなったのと、最後の難関の部分のハードルが高かったため、この年の正月の演奏の機会は見送ることになった。しかし、プロの演奏は流石で、駆け出しの素人学生が容易に近づけるようなものではないということを痛感した。琴に関しては一見識のある我が母も「まだまだ!」とOKは出してくれなかった。

 

その後、私はK君とは全く違う道を歩んだため、修士課程修了後、全く会っていない。彼は今も、学術分野でご活躍中である。いつか機会があればまた、もう一度会って見たいものだ。まさか、「春の海」をやろうと言うことにはならないと思うが、、、。(♪: ▶ Japanese Koto 春の海-Haru no Umi (Spring Sea) Composer-作曲者 Michio Miyagi-宮城道雄 - YouTube ) 

 

チャイコフスキー:交響曲4、5、6番(悲愴)

中学生、高校生のときにチャイコフスキーのバレエ音楽や、ヴァイオリン協奏曲、ピアノ協奏曲が大好きな作品であることは述べた。大学生になり、自分で多少の買い物が出来るようになって、より重量感のあるチャイコフスキーの交響曲をまとめて聴きたくなった。第6番の悲愴交響曲はそれまでに何回かラジオで聴くことはあったが、他の交響曲はあまり聴いた記憶がない。

 

当時、エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮のレニングラード交響楽団が1960年にロンドンとウィーンで録音した三つの交響曲がグラモフォン・レーべルで販売され評判だった。早速、3枚のLPを一度に購入した。レニングラード交響楽団は当時、ソ連邦に属していたが、特にアンサンブルの素晴らしさと弦の響きにおいてはヨーロッパで随一と定評だった。

 

ベートーヴェンの戦う意志の塊のような音楽とは異なり、三つの交響曲とも不安な心中を露呈する旋律、むせび泣くようなやるせない表情、また、音量が大きい強奏の時も、心中は決して充たされていないという空虚さが感じられる。特に、心に不安をもつ人々に強い共感を与えているのではないかと思われた。よくベートーヴェンが男性的であるのに対して、かたやチャイコフスキーは女性的とよく評論される

チャイコフスキーのそれは女性的というよりも、むしろ彼自身の音楽感性とロシア風土が相乗的に繊細に表現された結果ではないかと思う。私は20歳代前半に チャイコフスキーの音楽を集中的に聴いたことで何らかの精神的な影響を受けているに違いない。気持ちが優しくなったとか、挫けやすいとか、涙もろくなったとか。自分でも良く分からないが、表面的には無気力に陥ることもなく、一応は平静な毎日を過ごした。

 

4交響曲

ロシアの冬の情景を思い浮かべさせる曲の構成である。音色のきらびやかさ、華やかさにおいては彼のバレエ組曲である「白鳥の湖」や「胡桃割り人形」の音楽がそうであるようにその色彩感は絶妙である。

 

第1楽章の強奏の主題はベートーヴェンの運命交響曲のあの有名な第一主題と良く対比されるが、全くの別物である。厳しさに対峙するというよりも、不安で落ち着かない気持ちを率直に表現したものである。

 

第3楽章では、弦はすべてピチカートで演奏される。地を這うような旋律。オーケストラ各員の呼吸の合わせ方など、技術的要求レベルも大変に高い。連続したピチカートがコントラバスから、チェロ、ビオラ、第2、第1ヴァイオリンへと高音部に移行する音の躍動効果はステレオ録音の腕の見せ所である。レニングラード・フィルのこの演奏はこれまでに聴いたものの中でも秀逸のものと、演奏・録音から半世紀になる今になっても思う。一度、聴いて戴きたい。ムラヴィンスキーの指揮する当時のレニングラード・フィルの弦の水準は世界一トの評判を聞いた記憶がある。

 

第4楽章は作曲者自身が「虚構に継ぐ虚構、すべては虚構」と言っているように、消え行く音楽である。この曲を聴いても心は晴れないし、元気は出ない。この音楽の魅力は、墨絵のような微妙な色調の変化にあると思う。

 

5交響曲

チャイコフスキーの6つの交響曲のうち、最初の3作品は習作扱いで、殆ど耳にすることはない。第456番の3曲が彼の代表作品とされる。ロシアの音楽家として歴史に残る交響曲を作曲した最初の作曲家と言っていいであろう。とりわけ第5番は、この時期に最もよく聴いた曲である。彼の作品はよく、虚無的とか、深い悲しみに覆いつくされているとかいわれる。彼のメランコリーな音色の色彩感覚に多くの支持が集まるのであろう。これら交響曲3曲、いずれにもそれぞれに趣を異にする虚無感に満ち溢れている。

 

第1楽章はクラリネットの下降する陰鬱な主題から始まるが、奈落の底を見ているようである。チャイコフスキーはこの旋律を「運命」であり、自らの運命感を表現したものと説明している。この「運命の主題」は全楽章に登場するが、非妥協的、非寛容的にこの交響曲全体を貫いている。やがて、第一主題がクラリネットとファゴットで呈示され、次第に弦と管楽器が加わって音の厚みを増してゆくが、哀しみの感情は癒えない。やがて、第二主題が現れる。綺麗な旋律ではあるが、気分を大きく変えるものではない。各所で弦のピチカートが奏されるが、彼の弦のピチカートの使い方(透明感・躍動感)は絶妙だ。

 

第2楽章は、暗い夜が明けた時の微かな黎明のような旋律が、ホルンのソロで演奏される。心を揺さぶる美しさである。ホルンは穏やかな気持ちを表現するのに最も適した楽器と思うが、この旋律はホルンの奏でる様々な音楽の中でも、一、二を誇るものであろう。やがてこの主題は、弦楽器に受け継がれ、ホルンと木管は伴奏に廻る。その移行の変化が妙である。全体的に静寂感につつまれ、平安の中に身を置く安らぎの感情に浸れる。しばらくすると管楽器の強奏が、あの「運命の主題」を告げるが、弦がこれを打ち消すような形でホルンの主題を再演する。しかし、またもや「運命の主題」に打ち砕かれ、心安らかな心情は潰える。最後は哀しい感情に支配されて終る。

 

第3楽章はワルツ形式である。ワルツといっても、舞踏会の華やかな踊りの音楽とは程遠い。音の運び方は、馴れ親しんだ「白鳥の湖」のそれによく似ている。ロシアの風土を思わせる土俗的な旋律が躍動する。終結部に至って、またしても「運命の主題」が現れて楽章は閉じられる。

 

4楽章。やはり「運命の主題」を軸にした構成である。結局、この交響曲全体の与える印象は「虚無から虚無へ」というものであり、積極的に何かに打ち勝つというものではない。ただ、全体に表現される切なさ、愛くるしさは印象的である。最後に「運命の主題」が転調して登場するが、心を鼓舞するものではない。

 

本原稿執筆中に、ムラヴィンスキーの「第5番」の演奏を数回、聴き直した。どうも昔と違って、平板に聴こえる。当時、好きな曲をあげれば間違いなくこの「第5番」が一番であったのに。また、少し時間を置いて聴きなおして見たい。加齢による「虚無感」に対する感受性の変化(=欠如)か?

 

       

 

6交響曲(悲愴)

ベートーヴェンの「運命」交響曲と知名度において双璧なのは、このチャイコフスキーの「悲愴」交響曲であろう。しかし、この両者の作品の放つ印象は正反対である。「運命」交響曲は非妥協的で過酷な運命を、意志力で跳ね返し、やがて勝利を得るという戦いが主題の音楽である。「運命」はフランス革命という市民革命がヨーロッパ世界を根本的に変えようとしていた時期に作曲されたものである。

 

ベートーヴェンの意図はもっと個人的な体験に基づいたものかもしれないが、明らかに時代背景と繋がっていよう。一方、チャイコフスキーの「悲愴」は前作の第45番と同じくロシア的色彩の色濃いもので、その表題が示すように個人的な感情の発露の域を出ない。しかし、透明感に満ちた清澄な音楽の完成度は高い。日本人的心情と特によくマッチするような気がする。

 

第1楽章は聴こえるか聴こえないかという微妙な音量の木管からはじまる。その後、主題が様々に提示されるが、それがたたえる表情の柔らかさ、哀しさは心を揺さぶる。様々な楽器編成でこの主題はうたわれるが、音色の絶妙な変化はチャイコフスキーならではのものである。

 

第2楽章はロシアワルツのようでワルツになりきれない、妙に哀切感が漂う楽想である。ひと休みする、野で働く農民たちを遠望するような、長閑な雰囲気が覆う。薄日も差しているような。

 

第3楽章。この楽章の躍動感はたまらない。つい先日(20125月)、友人に誘われて、大阪シンフォニーホールで開催された小林研一郎指揮の大阪フィルハーモニーで「悲愴」を聴いた。生涯で聴いた始めての生演奏の「悲愴」である。このときの演奏で、特に、第三楽章の後半部分のスケルツォ+行進曲風の旋律の爆発的な盛り上がりに甚く感激した。数日間、その音響が耳から、頭から抜けなかった、この部分は多少、荒削りであっても力強い演奏がいい。強奏の中に、垣間見える空虚な表情のミックスがこの部分を、絶妙の音楽にしている。

 

第4楽章は急転直下、闇の中からの音楽である。悲愴を悲愴たらしめる、二つの主題が提示されるが、いずれも悲観的な様相を呈している。楽章全体を悲しみの表情が覆い尽くす。曲は終焉に近づくに従い、音は小さくなり、ローソクが消え入るように音量は小さくなり、小さくなり、やがて消滅してゆくように終る。

 

この交響曲集を最後に、チャイコフスキーからは次第に遠ざかることになった。大学生生活を終え、社会人となり生活環境が大きく変わった。社会に出て様々な背景の人々、また各種の音楽に接することで、特にチャイコフスキーに飽いたわけではないが、自然と他の音楽に興味が移っていった。

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社会人時代

社会人になって、それまでの学生時代と大きく変わったことは、周囲にいる人の急激な変化である。学生時代の時のような気楽な人間関係はなくなった。しかしながら、研究職であったために、背広にネクタイといういわゆる典型的なサラリーマン姿で出勤という日常ではなく、勤務地も都会の喧騒を離れた比較的閑静な環境で過ごす事が出来た。

 

当時、音楽に関して能動的で新たな発掘はほとんどなく、専ら、会社の寮の同居者から様々な音楽情報を仕入れていた。また、世の中にウオーク・マンなる携帯録音再生機なるものが出始め、また、併せて比較的安価で操作しやすく、かつ、音質もよいカセットテープが次第にポピュラーなものになってきた。

 

新しいレコードを購入するより、カセットテープに録音したほうが、色々なところに音楽を持ち運ぶことが出来る。音楽を聴くTPOが大きく変質しつつあった。世の中はそういう時代になって行った。

 

バッハ:マタイ受難曲、カンタータ集など

独身寮の先輩Sさんの部屋を尋ねると、そこは宗教音楽のLPレコードの宝庫であった。彼はクリスチャンであった。宗教色の薫る音楽にはまだまだ馴染めない自分であったが、Sさんと会社での身の処し方など、サラリーマンの処世訓を聞くうちに、次第に音楽についても話し合うようになった。Sさんは酒と音楽をこよなく愛するぶっきらぼうな先輩であったが、私には比較的好意的に話しをてくれた。

 

どういう経緯だったか、その詳細は忘れたが、彼から最も深遠な音楽として、「バッハのマタイ受難曲」を推薦され、「しっかり聴いてください。」とARCHIVLPレコードを借用することになった。なんとなくバッハ音楽に対する先入観から気は進まなかったが、とりあえず、カセットテープへのコピーはすぐに済ませた。

 

借用した4枚のLPは、硬いハードボックス入りで、新入社員ではとても手の出ない総額1万円ほどの高級品だった。そのジャケットにはARCHIVの多くのLPがそうだったが)絵柄がなく文字情報だけで、作曲者、曲名、演奏者名だけが記されたそっけないものであったが、むしろそのようなジャケットが却って格調高い古典音楽を専売するドイツ音楽の硬派のシンボルのように思われた。しかし、ドイツ・宗教音楽の世界、それはあちら側の世界の音楽という感は否めなかった。

 

さて、そのLPであるが、1958年録音のカール・リヒター指揮のミュンヘン少年合唱団、ミュンヘン・バッハ合唱団、同管弦楽団によるもので、独唱者にはエルンスト・ヘフリガー、カール・エンゲル、ヘルター・テッパー、ディートリヒ・フィッシャー‐ディスカウなどを迎え、当時、出演する歌手の名前は馴染みではなかったが、後々考えてみると、これはすごい面々である。

 

リヒターはご存知、ドイツ古典音楽、特に、戦後のバッハ音楽興隆のオーセンティックな存在として知られ、自らオルガン、チェンバロを演奏する名手でもある。マタイ受難曲については、この1958年盤が彼の初録音であるが、その後、数回にわたりミュンヘン・バッハの演奏でレコード録音並びにDVDを残している(これらのリヒターのマタイの中で、1958年の初録音が最もみずみずしく、また緊迫感のある演奏として、今でも高い支持を得ている。1926年生まれのリヒターは、この時わずか32歳だった!)

 

さて、カセットテープにコピーをして時々聴いてみても、何せ受難曲である。快活で元気の出るようなメロディーはなく、延々と合唱曲と独唱曲が続く、、、という感じで、20分も聴いていると方向感覚を失う感じになり、不毛感が募り、味わい楽しむという状況からはほど遠かった。

 

確かに退屈ではあるが、何も感じないのは自分の感受性が低いためであろうと思い、何とか「バッハ音楽の最高峰」にあると言われるこの受難曲を少しでも会得すべく、改めて、正面から向きなおすことにした。対応策は二つ。一つはマタイ福音書に記述されたキリスト受難の箇所の文章とその内容をきっちりと理解すること。二つ目は、この受難曲は全体として伽藍のように、シンメトリー構造で構成されている。受難曲全体の構成(構造)を把握すること。以上である。

 

マタイ受難曲はその名のとおり、キリストの受難(人々の罪を背負って磔刑に処される)を記述したマタイ福音書の第26章、第27章に沿って作曲されており、福音書の文章がそのまま受難曲の中で朗読される。受難を予見するところから始まり、最後の晩餐や、刑場への行進および処刑場の状況が克明に表現される。全78曲中、第63曲のコラール(合唱曲)「おお、こうべ(頭)は血と傷にまみれ」を到達点とする。(♪:▶ Bach - St Matthew Passion BWV 244, no. 54 O Haupt Voll Blut Und Wunden - YouTube )

 

受難曲の構成はオーケストラが伴奏するイエスの語り、オルガンが伴奏する福音史家(エバンゲリスト)の語り、随所で展開される小編成の独奏楽器と通奏低音を伴ったレシタティーボとアリア、また、ほぼ一定間隔で歌われる次第に悲壮感を増してゆくコラールから構成される。キリスト処刑の極限への進行するドラマと演奏される音楽の深淵な連携を掴むことがポイントである。

 

                   

                (マタイ受難曲、合唱・ピアノ本)         (第63曲、コラール譜と福音史家の語り)

 

最初はやはり難解だった。しかし、聴き進めるうちに、まず、第一曲の合唱とオーケストラの導入曲、いくつかのアリア、コラールなどが次第に耳に馴染んできた。荘重さ、美しさが部分的にわかり始めた。また、ドイツ語の歌詞がより身近に感じられるように、歌詞を書いた全曲のピアノ譜のスコアを買い求め、福音史家やコラールの語りに日本語訳を書き記した。家で音楽を聴く時間は「マタイ受難曲」のカセットテープで過ごすというのを、ほぼ1年間続けた。全曲演奏で約3時間を要する大曲も1年もすると、さわりの部分を聴くだけで、どの場面かがわかるようになった。

 

        

           (カール・リヒター、1958年盤)

   

「音楽の父、バッハは偉大」とよく言われるが、確かにこのインスピレーションに満ちた感動的な音楽は一度、耳に慣れ親しんだら、その深さ・完璧さに驚嘆を禁じえない。しかし、この曲は1729年に初演されたが、あまりに長大でかつ多くの演奏者を必要としたため、その後、演奏される機会はなく、信じられないことではあるが、やがて人々の記憶からは忘れ去られてしまった。ちょうど初演から100年後、バッハと同じライプチッヒに住んだフリッツ・メンデルスゾーンが偶然にこの曲を発見し、再演を行った。この受難曲の偉大な価値が初演から100年たって改めて認識された。もし、メンデルスゾーンの再発見、再演がなければ、我々はこの曲を聴くことはなかったかも知れないと思うと、歴史の悪戯の有難さに思い至る。

 

さて、話は変わる。会社の友人のT君は私のジャズの師匠であり、彼からは様々なジャズの導入教育を受けた。後述のキース・ジャレットも彼の紹介による。私からのお返しの推薦として、私がマタイ受難曲の有り難さがが少しわかり始めた時に、生意気にも「マタイ受難曲は素晴らしい。そこには今まで体験したことのない世界がある。是非に。」と強く薦めた。彼は元々、根っからのジャズ愛好家であるが、それからの約半年間、仕事を終えて帰寮すると、ともかく「マタイ漬け」を自らの意志で実行してくれた。最初は「よく分からん」と言っていたが、「我慢だよ、我慢!」と彼の感受性の芽生えるのを待った。次第に彼に同化の傾向が見え始めた。 

 

その後、約一年たった頃に、ヘルムート・リリンクがシュトゥットガルト・バッハ合唱団、管弦楽団を率いて大阪のフェステイバル・ホールで「マタイ受難曲」を全曲演奏した。二人で示しあわせて聴きに行った。大きな感激を共有したことはいうまでもないが、これがマタイ修行の一応の区切りというところか。

 

その後、彼との「マタイ受難曲」をめぐるバッハ談義は殆どないが、時々、思い出したように「あのころは、、、」というありがちな話になる。懐かしい思い出である。その後、お互いの興味はヨーヨー・マのバッハの無伴奏チェロ・ソナタやグレン・グールドのゴールドベルク変奏曲などへと移ってゆく。

 

(後日談)昨年(2011年)のことであるが、ライプチッヒを訪れる機会があり、バッハの後半生の音楽活動および生活の地であった聖トーマス教会に行った。念願のバッハの墓参を果たした。その後、教会の隣にある付属のバッハ資料館のオーディオ・ルームでほぼ一日、マタイ受難曲、その他を聴いて過ごした。資料館に用意されていたのは1958年のリヒター盤であった。正直、嬉しかった。

 

カンタータ集

バッハのマタイ受難曲は壮大な曲であるが、一方、彼は教会の多くの祝祭日のために、十数分から三十分程度で演奏できる小編成の器楽合奏と独唱者・小合唱団のためのカンタータという曲集を約220曲、作曲している。特定の祝祭日のための祝詞に曲を付けたものであるが、中には(小編成ではあっても)心を打つ名曲・名旋律が登場する。

 

マタイを聴く合間、そのボリュームに疲れたときには心地よく音楽を楽しんだ。最近になって、その全曲を揃えたが、その中のよく知られたいくつかの曲については時々ピックアップして聴いている。まるで、野草の中に咲く一輪の可憐な花に息を潜めて見入るという感じである。

 

     

 

キリストの受難を題材にした「マタイ受難曲」とは違い、キリストの生誕を祝する「クリスマス・オラトリオ」という飛び抜けて明るい曲集がある。クリスマス・イブから新年の11日まで毎日、連続演奏するシリーズ・オラトリオである。この曲との出会いは、さる年のクリスマス・イブの頃に、西宮市の夙川教会でテレマン協会(指揮:延原武春)が主催する「クリスマス・オラトリオ」の演奏会があり、それを聴いたときのことである。

 

この曲に対しては何の予備知識もなく臨んだが、最初のティンパニーのリズミックな導入で始まる底抜けの快活さの笑いのような音楽に度肝を抜かれた。飛び上がった。バッハにはこのような音楽もあるのだ。この音楽との突然の出会いの興奮体験は今もはっきりと脳裏に残っている。この曲集は仕事に疲れたときには良い休息になった(特にクリスマスの時期でなくても)(♪:▶ Karl Richter - Weihnachts-Oratorium, BWV 248 (Part One) - Johann Sebastian Bach - YouTube )

 

2030歳前半の時期に、バッハの合唱曲の素晴らしさについては、まだその一部ではあるが、知ることが出来た。しかし、バッハには他にも多くの合唱作品があり、その大部分はまだ耳にしていない。まだ、これからも気力と聴力の続く限り、彼の作品の探索は続けていかなければならないと思う。宝物の発掘だ。

 

   

 

 

パガニーニ、ヴァイオリン協奏曲

イタリアのジェノバ生まれのパガニーニ(Niccolo Paganini)は、19世紀の始めに全ヨーロッパを席巻したヴァイオリニストである。いくつもの優れたヴァイオリン曲を残しているが、これらはいずれも彼が開発したヴァイオリンの奏法上の超絶技巧を駆使し、ヴァイオリン演奏を最大効果で披露するため書かれたものである。

 

このような話には、時として尾ひれがつきやすいが、自分のヴァイオリン協奏曲を演奏する時、パガニーニはオーケストラ用のパート譜だけを団員に渡し、肝心の独奏ヴァイオリンの楽譜は一切明かすことがなかったという。魔法のようにきらびやかな音色に聴衆も、オーケストラ団員もただただ驚嘆するのみであったという。(確かに、オーケストラの音は、単に伴奏だけという感じのごく簡単なものである。)また、演奏法の秘匿のために様々な奇行もあったらしく、「ヴァイオリンに魂を売った怪物」と恐れられたとも言う。

 

高校生のときに、何かのきっかけでパガニーニのヴァイオリン協奏曲を聴いたが、そのきらびやかさはまるで川面に反射する太陽光を直視するように眩しかったのを覚えている。当時、パガニーニの協奏曲のLPレコードは多くは市販されていなかったが、ユーディン・メニューヒンがローマ交響楽団と録音した第1番と第2番のヴァイオリン協奏曲を購入したAngel盤)。赤い透明色の珍しいLPであった。歌って飛び跳ねる旋律の躍動に胸が弾んだ。

 

また、緩徐楽章の歌わせ方も巧みで体中に酔いが廻ってくるような感覚になり、ヴァイオリンの音色の最大効果が引き出されている。最終楽章はまた、飛び跳ねるような旋律で太陽の国イタリア特有の明るさ、青春の輝き(パガニーニ独特の二重フラジオレットやスピッカーという技巧を駆使)を思わざるを得ない。アルプスの向こう側の森林の国、ドイツではこのような音楽は決して書かれることはないだろう。

 

                        

 

第2番の協奏曲の最終楽章では、後にリストの超絶技巧練習曲集の第3曲目の「鐘(ラ・カンパネラ)」として知られた主題が演奏される。その愛らしい鈴の音をともなったヴァイオリンの演奏効果はリストのピアノ曲と較べてもいささかの遜色もない。鬼才の生み出したこれらの音楽は、今も新鮮であり、19世紀後半以降に活躍する作曲家に多大な影響を与えた。ヴァイオリンという楽器の可能性を限りなく引き出したという功績は計り知れないと思う。

 

社会人になってしばらくしてから、パガニーニの作品番号1のカプリース(奇想曲)の存在を知った。独奏ヴァイオリンのために、様々な調性で作曲された24曲の曲集である。そのきらびやかさは眩暈を起こしそうな程のめまぐるしい音の変化である。イサック・パールマンの演奏(EMI)を時々聴くことはあるが、それはこちらの精神状態が「ハイ」な時であって、通常はあまり食指が伸びない。

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4.30歳代(19771986

 

カセットテープ録音狂い

当時、カセットテープというこれまでの録音装置(オープンリール・テープなど)に比べれば、はるかに安価で使いやすいテープが市場を席巻し始めた。私もその恩恵に浴すべく、カセットデッキなるカセットテープを挿入し、その音をオーデイオ機器で再生する装置を購入し、音楽を楽しんだ。その音はLP レコードに比べると、音質やダイナミックレンジにおいて多少劣るところがあるが、日常的に音楽を聴く側にとって、その違いはあまり気にならない程度のものであった。

 

また、空テープではなく、音楽をすでに録音したカセットテープも商品として市販され始めた。しかし、カセットテープにはエアーチェックでFM放送などの音質のいい音楽を自分で簡単に録音できるため、当時、「FMファン」「週刊FM」など、FM放送の一週間分の音楽放送スケジュールを掲載した週刊誌が本屋や駅売店などで販売されていた。これらの週刊誌は録音戦略を組むうえでの必須情報であった。各曲の演奏時間や演奏者、録音の時期や場所など、こと細かな情報が提供されていた。

 

その出所はよく分からなかったが(詳しくは追求しなかったが)、会社の知人から製造会社名の印字されていない空のカセットテープを格安の値段で大量に購入することが出来た。何か怪しげではあったが、音質は普通のものと同じで、結果として、数年間のうちにカセット・ライブラリーは一気に500600本になった。これらのカセットテープは段ボール箱に入れて大事に保管してきたが、世の中はさらに進んでCDDVDの時代になった。もう聴くこともないだろう、また後に残された者の荷物になっても迷惑をかけるだけと判断し、段ボール45箱分のコレクションはつい最近、処分した。

 

キース・ジャレット:ケルン・コンサート

前項で記載のマタイ受難曲で交歓を持った友人のT君から、その後、数年たってキース・ジャレット(Keith Jarrett)というジャズ・ピアニストの紹介を受けた。それまで、私はジャズ音楽とは無縁であった。「最近、キースというジャズ・ピアニストが、演奏曲名はなく(従い、プログラムもない)、その時、自分の心の移ろいをピアノで表現するというチャレンジングなパフォーマンスを、聴衆を前にした演奏会場で行っている。

 

その時の彼の体調や精神状態が、当日の演奏に大きな影響を与えるのは当然である。ECMから西ドイツのケルンで行ったというライブの録音が発売され評判である。一度、聴いてみてどう感じたか、感想を聞かせて欲しい。」とその二枚組のLPを預かった。 

 

そのケルン・コンサートであるが、その演奏形態はこうだ。観客で満席になったホールにピアノが一台置いてあり、ピアノの周りには録音のためのマイクロフォンが数本設置されている。その日の演目は演奏者がキース・ジャレットという他は何もない。販売されたそのCDにも、題名はなく、あるのはケルン、演奏日時、第何番目の演奏かということだけである。演奏者がその時の感情の移ろいに従って演奏を展開するのであって、彼自身が同じ音楽を再現しようとしても、楽譜も何もなく再演などとても出来ない。したがって、演奏者も聴衆も一期一会の気持ちで演奏に臨むという極めて緊張度の高いものである。ケルン・コンサートのCDには以下のような演奏情報が記載されている。

 

        Koln, January 24, 1975 Part I          26:15

        Koln, January 24, 1975 Part IIa       15:00

        Koln, January 24, 1975 Part IIb       19:19

        Koln, January 24, 1975 Part IIc         6:59

 

さて、LPレコードに針を下ろし聴いてみた。不思議な音色だが、ともかく美しい。これが即興かと耳を疑う。ソナタ形式にあるような主題があるようでないようで、展開部があるようでないようで、カデンツアがあるようでないようで、音楽の流れは極めてスムーズではあるが、これは確かに明らかに前もって準備して演奏されているものでないことはよく分かった。

 

しかし、なんという流麗さ。音の全体の調子、和音と不協和音はクラシックの音楽とは確かに違うが、かといって聞こえてくる音はジャズ・ピアノのそれとも明らかに違う。たとえて言うならば、シューベルトは即興曲演奏を得意とし、それを後になって楽譜に書き残しているが、それに近いのではないかと直感した。ジャズの世界では即興演奏をインプロビゼーションと言い、重要な演奏ジャンルである。

というわけで、キースというジャズ・ピアニストを知ることになった。この時は、注意深く、新しい彼のこのジャンルのピアノ演奏を味わった。彼の演奏は、本質的にピアノを知り尽くした、心やさしい人間のみが即興演奏できる音楽のように思われた。この演奏にはいわゆるベートーヴェン音楽のようなガッチリとした構築美はない。しかし、いつ聴いても、何回聴いても、この演奏の与えるやわらかい感情と暖かい印象は筆舌では表し難い。与える印象は常にフレッシュである。今、2012年は彼のこの演奏からすでに37年を経過しているが、今でも常に新しいのは驚きである。この演奏を聴いてどのように感じるかを、さらに詳細に書き記したい。いまさら駄文は不要であるが、、、

 

この演奏、特にパートIの出来は表現の仕様がないぐらいに素晴らしい。感情の流れ、優しい気持ちから激しい感情への移行、また平静な気分への復帰など、、、初めて聞いたときは、もちろんジャズ的・現代的な響きがあるが、ロマン派の即興曲の音楽に浸る気分である。何度聴いても、いつ聴いてもこの名演奏の醸しだす気分は普遍である。再演の出来ないという一過性の中に素晴らしい輝きが込められている。しかし、聴き込むうちに、ほとんどを覚えてしまった。

 

このケルン・コンサートがあまりに有名になったため、後日、日本の好楽家がケルン・コンサートのピアノ音すべてを拾って楽譜に興した。かつて大阪でキースのコンサートが行われたときにその会場でケルン・コンサートの楽譜が販売されているのに気付き、衝動的に購入したが、もちろんその本からは何の音も出てこない。

 

その後、私は、仕事と個人旅行で二度ケルンを訪問している。ケルン・コンサートから15年以上も経過してのことである。キースが演奏を行ったホールは訪ねていないが、この地で、かつて、あの音楽がプレイされたのだと思うだけで、ケルンに住む人々を何の理由もなく羨ましく思ったものだ。しかし、二度の訪問とも駅前のケルンの天空に聳え立つ大聖堂には圧倒されたものだ。

 

いい曲を紹介してくれたものである。T君に返した返答は「シューベルトの現代版やなあ。奇跡やなあ。」である。その後、50歳代になってから、違う演奏でさらに大きく変貌したキースとの新しい出会いがあるが、それは後の稿にゆずる。いずれにしてもいい時期にいい音楽を紹介してくれたT君には多謝である。

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米国の大学へ留学

37歳になった時、アメリカ合衆国、NY州の田舎町イサカにある東海岸のアイビー・スクールのひとつとして有名なコーネル大学の化学科に2年余の期間、在籍し自由な研究時間を過ごす事が出来た。この間、日本から音楽関係の資料は一切持ち込まず、持参したものは「もし、日本が恋しくなったら聞いてください」と研究所仲間の女子社員Nさんから預かった「松田聖子のベストアルバム」のカセットテープ一本だけであった。

 

デビューして10年余の彼女のヒット曲を集めたもので、かの地で少し寂しい思いをした時に、その魅力的な甘い歌声には随分と心を慰さめられた。松田聖子が当時、日本のヤング歌謡界を席巻する存在であることは知っていたが、彼女の歌をじっくりと聴くことや、テレビで見たりすることはほとんどなかった。日本に帰国してからも時々、当時を思い出して彼女の歌を聴くことはあるが、彼の地ではハートに訴えかける彼女独特の甘い歌声にせつない郷愁を覚えたものである。(「セイシェルの夕陽」、「赤いスイトピー」、「青い珊瑚礁」、「スイート・メモリーズ」、など(♪:▶ 赤いスイートピー - 松田聖子 - YouTube(▶ 松田聖子/SWEET MEMORIES - YouTube

 

余談:帰国して発見したが、松田聖子には世界のテノール歌手、P.ドミンゴとドュエットしたCDがある。ご存知だろうか?1989年、CBS-SONY製作。「ゴヤ・・・歌でつづる生涯」。ジャケット本にはスペインの前衛画家ゴヤの主要絵画が展示され、それぞれのゴヤの作品に対して様々な曲が歌われているという大真面目な企画である。両者は声量、経験から言って比べるのに無理はあるが、大したプロの心意気である。二人は「愛を知るまでは」を歌う。また、松田聖子はそのほかに、ソロで「かつて私はあなたを愛した」、「旅の空」を収録している。

 

 

コーネル大学時代に記憶に残る音楽シーンは次の二場面である。

 

その一。 当時、封切られた評判の映画「アマデウス」。モーツァルトに対して密かに敵愾心を燃やしていた宮廷音楽家のサリエリの眼から見た、モーツァルトの生涯を描いた映画である。もちろん、モーツァルトの音楽は随所にふんだんに使われる。大学キャンパスで無料の試写会があった。もちろん日本語の字幕が出る由もない。

 

(クラシック)音楽からしばし遠ざかってのアメリカ生活であったが、久しぶりの数々の名曲の中に天才の生涯が哀しく描かれた贅沢な映画に感激した。この映画はいくつものアカデミー賞を受賞するが、それは当然というべきであろう。その後、帰国してからも何回か、この映画を観る機会があったが、見るたびに何らかの新しい発見がある。

 

    

 

その二。 研究が軌道に乗りはじめたある時期から、指導教官であるM教授と毎週水曜日の午後に約1時間、リサーチの進捗報告と今後の進め方を教授室で定期的に議論する事になった。教授室からは時々、フルートの音が聞こえてくる。周囲の学生に聞いてみたが、「先生の趣味でしょう?」とそっけない返事で自分に関わりのない先生の行為(特に古風な趣味!!)には全く無関心だった。若者特有の個人主義的反応である。

 

学生にとっての身近な音楽はロック音楽であり、強烈なビートのミュージックが大きな支持を得ていた。一方、先生は学生のロック音楽趣味とははっきりと一線を画しており、学生との音楽の会話はなかった。のちにわかった事であるが、先生はハイスクールの頃から木管楽器の演奏に親しみ、奥さんのCさんとのチェンバロ合奏で、しばしば家庭内小音楽会を楽しまれている。

 

ある水曜日、定例の研究報告の日であったが、その週は特段のリサーチの進捗がなかった。「今日は何もありません」と。その後、何故そのような話になったのか、今となっては思い出せないが、二人でモーツァルトの「フィガロの結婚」の話をした。映画「アマデウス」の影響かもしれない。どのアリアが好きだとか、フィガロとスザンナとの絡みは絶妙だとか、ツェルリーナは本当に愛らしいとか、、、イタリア語で書かれたモーツァルトのオペラについて使い慣れぬ音楽用語を駆使して話し合った。

 

約二時間は話したろう。いつもより長い時間の教授室での滞在に学生たちからは、”What did you discuss? Any fruitful talk?" と揶揄が入った。しかし、偶然とはいえ、教授と体の中に持っている音楽を互いに認識し会ういい機会になった。

 

それ以降、私は教授からは音楽に関しては特別の扱いを受けた。小グループで催されるホームコンサートにはしばしば招待されたし、音楽の話を通じてイサカの町の様々な音楽愛好者と個人的知己になった。また、コーネル大学の教授・スタッフたちで編成された小オーケストラでJ.S.バッハのブランデンブルク協奏曲を聴く機会もあった。

 

わが先生はフルートのパートと指揮を颯爽と担当された。(ちょうど滞米時の1985年は、バッハ生誕300年にあたり、世界各地でメモリアルコンサートが催されたが、ここコーネル大学でもこのような催しが行われた。)

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5.40歳代(19871996

 

クラヴィコード製作顛末

イサカでホームコンサートに招待された時に、何軒かの家で、楽器の製作キットから自分で作ったというハープシコードやクラヴィコードを見た。またそれらを用いた実際の演奏を聴いた。これが刺激となり、アメリカから帰国する前に、当地で生活したことを記憶するために、鍵盤楽器のオリジナルに近いクラヴィコード・キットを購入した。

 

日本に持ち帰り、仕事の合間をぬって、自分でオリジナル楽器の製作に挑戦した。製作の過程、製作後のいろいろな人々との出会いを綴った文章がある。音楽自分史の一断面である。以下、引用する。(近畿化学工業会誌、199012月号に掲載、一部修正、写真挿入)

 

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Carl Fudgeさん、気になるー人のアメリカ人。そして、クラヴィコードとの出会い。」

私事で恐縮であるが、数年前、アメリカのアイビー校として有名な、去る私立大学でちょうど二年間、化学の研究に従事する機会を得た(註:198486年)。三十を半ば過ぎていた私にとって、その二年間は、それなりに波瀾万丈であり、いま思い出すにつけても、それぞれに楽しく、また、痛がゆい思い出の数々である。

 

さて、滞在も余すところあと数ヶ月となった頃、研究の仕上げで多忙な中、ちょっと気になってきたのは、親戚や友人への多少の土産物の選択であった。これは、数年間、海外に滞在した(いや、45日間、観光で外国を訪れる人々も含めて)多くの日本人の関心事であり、滞米邦人のあいだでは、様々な土産物情報がまことしやかに語り継がれていた。

 

化学の研究もほぼ一段落し、また土産物のこともそれなりの目途がついた頃、「さて、自分自身への土産は、いったい何にしたものか?」との思いにとらわれた。滞米の間、確かにいろいろの貴重な体験をし、また多くの忘れがたい知己を得た。それらは、いずれも私にとって、大切な思い出であり財産である。しばし考えた挙句、日々を同じ研究室でともにすごした、音楽好きなアメリカ人の友人に相談をもちかけた。

 

*  *  *  *  *  *  *

 

当時、私の住んでいた田舎町からだと、車で78時間はかかろうかというボストンの街、そこからさらに1時間ほど離れた郊外に住む、ひとりの男性のことを知る。かなりのお年の模様。Carl Fudgeさん。この人は、三十数年間、ピアノの原型ともいえるハープシコードや、それより更に古い歴史をもつクラヴィコードなどを(細々と)製作・販売しているという。楽器製造で利潤を追求するというよりは、どうも、こつこつと自分の音を求めて仕事をしている人らしい。また、彼はこれら鍵盤楽器のキットも作っており、求めに応じて販売もするという。

 

従来、木片を様々な形に加工し、それを磨いたり、こすったりして、木の感触を楽しむことの好きな私は「これだ!」と直感し、さっそく彼に文通を申し込んだ。しばらくして切手の貼られていない手紙が届いた。「興味があるなら、具体的に連絡せよ。」どうも、かなりの変人らしい。

 

数回のレターのやり取りの後、私のような素人でもなんとかやれそうな気がしたのと、Fudgeさんの生き方にそれとなく興味を覚えたので、クラヴィコード(大型)のキットを一台、発注することにした。音楽も嫌いではない。送り先は、帰国後の日本の住所を指定、おおよそ、1,700ドル。私としては、随分な買い物をしてしまった。そして、Fudgeさんには会うこともなく、しばらくして日本に帰った。

 

*  *  *  *  *  *  *

 

日本に戻ってからおおよそ半年程たった頃、思っていたよりかなり大きめのクラヴィコードのキットがとどいた。狭いながらも、畳一畳半ほどの作業スペースを家の中に確保し、ゆっくりとその組み立ての準備に取りかかった。しかし、その作り方の解説書は、当然のことながら英語で書かれており、図や記号がいっぱいのかなり分厚く難解な読み物であった。ここで読書子のために、鍵盤楽器の祖先といえるクラヴィコードについて簡単に説明しておこう。

 

十六世紀から十九世紀初頭にかけてヨーロッパ、特にドイツやスペインで広く用いられた有鍵打弦楽器。構造はすべての鍵盤楽器の中でもっとも単純なもので、音量は極めて弱く、広い演奏会場での使用には適さない。鍵盤はひじょうに軽く敏感で、この楽器特有のタッチで奏さないと十分な発音がなされない。洗練されたタッチでは霊妙なピアニッシモから中庸を得たメッゾ・フォルテまでの範囲で、極めてデリケートな変化が得られ、また、音にヴィブラートをつけることも出来る。

概観は長方形箱型で、横が150cm、縦が50cm、深さは15cm位のものが標準で、小型のものには脚がない。大バッハの次男であるC.P.E.バッハが、この楽器の多くの奏法を発展させ、また著名な教則書をあらわした。大バッハの平均律クラヴィア曲集など、この楽器のために作曲された曲は多数。(標準音楽辞典より[音楽之友社])

 

さて、そのキットの中身といえば、クラヴィコードの外枠となる大きな木箱のほかは、何枚かの板、木片、弦になる金属ワイヤー、大小の釘々など、細々とした部品であった。これらの部品のほとんど全部はこれからかなりの加工を要する代物であり、接着剤で貼り合わせば、即、出来上がりという、いわゆる「キット」のイメージからは程遠いものであった。

 

このキットの価値は、これらの部品いっぱいに詰め込まれたこの解説書にあるのである。それだけ、この解説書に書かれたことは正確に理解する必要があったし、また工作のあらゆる場面で、工作者自身が適当に判断し、工夫するセンスもまた、必要であることも次第にわかつてきた。

 

(ノウハウの一杯詰まった解説書の図表)

 

各々の木片は、木目模様で互いにつながっているため、もしそれを損傷しても、ほかの木片で代用は出来ない。すなわち、ひとつの部品のちょっとした失敗が、全体の出来を大きく左右する。

 

私自身、 これまでクラヴィコードなるものの実物を見たことがなかったし、その音色も、恐らく、それと意識して聴いたことはなかった。ただ、あの大バッハもこの楽器を使って、この楽器のために、数々の壮大な曲を作った・・・・・・「隅っこでいいから、私も音楽に参加したい。」このささやかな想いが、私のチャレンジの動機であった。ともかく、なんともあやしげなスタートであった。

 

*  *  *  *  *  *  *

 

製作には、ちょうど一年を要した(註:完成は1988年)。時間のとれる土曜、日曜日を専らその製作にあてた。最初に取り組んだのは、63の鍵盤と、鍵盤に連続したそれぞれに少しずつ形状の異なるアーム部分を、ひとつひとつナイフでけずりながら、手作業で仕上げてゆく工程であった。いつ終わるとも知れない緊張を強いられる作業が延々と続いたが、単調な作業の中にも様々な工夫があり、木とたわむれる楽しい週末であった。

 

解説書はやはり必要に迫られ、細心の注意で隅々まで読んだ。この解説書。よくよく読んでみると、実に味わい深い。これは、恐らくFudgeさんが、その製作工程を語り、それを誰かが口述筆記して出来たものと思われる。そのためか、全体的に口語調である。その一部を紹介すると、「サウンド・ボード(ギターの胴の表側に相当する薄い共鳴板)を、本体に貼り付ける時に、最も注意しなければならないのは、その地方のその日の天候、特に湿度である。

 

この貼り合わせは、二つの異なった材質(吸湿性、伸縮性、硬度など)の木材を接着するため、湿度の高い地方では、特に湿度の最も高い時を選んで行う必要がある。さもないと、楽器の共鳴のバランスがうまく取れず、香り高い音色がでない。もし、あなたが(アメリカ)東海岸の住人なら、春から夏前にこれをやると良い。」幸いにも私は、この工程は最も湿度の高い7月のはじめに通過した。

 

もう一つ、「鍵盤は、支点をはさんで極めて微妙にバランスさせる必要がある。軽いタッチで音が奏せられるよう、どの鍵盤もすべて同じように、支点の少しだけ奥のほうに重心を持たせなければならない。」ということで、彼はこの鍵盤の細工の所だけで、細かい字で22カ条もの注意を、なんと14ページにわたって綿々と書きつづっている、あまりにその指示が微細なために、こちらもやや食傷気味になるのであるが、最後には、「おまえの、好きなようにやれ、”Do whichever works better for you”」とこちらに任してくれる。そういえば「ここが大切」、「ここが最もキイ・ポイント」、「ここでのミスは取り返しがつかない」などと彼のこの解説書には、最上級の警告がやたらと多い。

 

時には厳しく、時にはジョークまじりと、その語り部は、彼が如何にクラヴィコードという楽器に魅せられているかという、その「熱」が感じられるものであった。この解説書をにらみながらの製作は、いわば、まだ見ぬFudgeさんに、「教えを乞いながら」、「お話をしながら」の作業であった。「完成したら是非とも彼にあって報告したいものだ。」そういう気分で作業はゆっくりと進行していった。

 

そうするうち、一年がたち、最後に126本の弦を張って、私のクラヴィコードは完成した。このクラヴィコードは、フランス革命の時代のニュルンベルグの鍵盤楽器製作者J.G.C. Schiedmayer 1797年作)の作品をモデルとしたものである。

 

*  *  *  *  *  *  *

 

ところで、私はピアノが弾けない。せっかく完成はしたものの、しばらくのあいだは、ピロン、ポロンと時々、その澄んだ小さな音量の和音を楽しむ程度であった。そうするうちに、またとない機会がやってきた。近々、ドイツのダルムシュタット工科大学の糖・核酸化学の大御所、F.W. Lichtenthaler教授が日本に来られるという。教授にはまだお会いしたことはないが、ピアノの腕前はプロ級という。あつかましくも。京都大学の上野民夫先生にお願いして、私のクラヴィコードを演奏していただく機会を作っていただいた。

 

願ってもない大化学者による「処女演奏」である。突然のこちらからのお願いにも、教授は気前よく応じて下さり、ブランデンブルグ第5番の雄大なカデンツァの部分と平均律クラヴィア曲集第2巻の第1曲を軽妙に演奏していただいた。これまで何度も聴いた曲ではあったが、以来これらの曲は特別に身近なものに感じている。ともかく、京都でのその日は、私には心地よい想い出である。「化学、楽しきかな」である。

 

*  *  *  *  *  *  *

 

さて、話は今年(註:1990年)へと移る。この6月、ニューハンプシャーで催された会議に出席する機会があり、その前後にボストンに立ち寄った。ボストンからFudgeさんにおそる、おそる電話をかけた。最初は誰からの電話かわからない様子であったが、よくよく話すうちに名前は覚えていないが、「Clevichord-Japanese」ということで幸いにも私のことは、彼の記憶にあったようだ。こちらが会いたい旨を伝えると、すんなりとOKしてくれた。

 

*  *  *  *  *  *  *

 

彼の作業場兼住居は、木立にかこまれた、閑静な住宅地にあった。その建物は、かなり古くて大きかったが、元々は幼稚園の園舎であったのをそのまま買い受けて使っているという。そんな大きな家に彼は一人で住んでいた。 

 

最初は彼の方も、突然に東洋からやって来た初対面の、この私にどう対処したものか、かなり戸惑いがあったようだ。継ぎのあたったジーンズに作業衣姿の、その人、Fudgeさんは、どうみても町工場で働く熟年のおじさんというイメージの人である。決して飾ることなく、その語り口は随分と物静かである。家具などの調度品を見ても、それほど豊かな生活を送っているという印象はなく、どちらかというと質素な「男のひとり暮らし」という形容がぴったりの彼の生活風景であった。

 

まず、作業場を見せてもらった。木工用の珍しい道具が色々とそろっており、そのひとつひとつを、手にとって見た。作りかけのイタリアン・ハープシコードや私のチャレンジしたのと同型のクラヴィコードが所狭しと並べられてあった。そのどれもが本当に興味深い品々である。こちらがあまり熱心に色々と見聞きするものだから、彼も冗談で「あまりknow-howを持って帰らないで。」と言ったりした。次第にうちとけて来た。

 

私は自分の完成したクラヴィコードおよびその製作プロセスの記録写真を何枚か持参していった。工程の途中で、木片をある角度で強く固定したり、維持したりするのに、大きく開くクランプがたびたび必要であったが、これにはちょっとした道具を考案した。それは、私、オリジナルのアイデアで作ったものであり、クラヴィコードの木材質を傷つけることなく、よく締まりたいへんに役立った。

 

彼に言わせれば、このあたりの工程をいかにうまくこなすかが、アマチュア細工の出来を左右するところだそうである。その点、「おまえは、うまくやった。」とお褒めの言葉をいただいた。ブリッジの加工をどうしたとか、タンジェントをどう取付けたとか、しばしの間、木工工作技術論に花が咲いた。

 

やがて、作業所から居間のほうへ移り、当方の自己紹介から始まり、どういう経緯でクラヴィコードを作りたくなったか、私の音楽体験、音楽事情などを私の知っている範囲で一気に語った。彼も、自分の生い立ちから始まって、なぜこの世界に入ってきたかを語ってくれた。若い時は、演奏家を目指し随分張り切っていたそうであるが、次第に鍵盤楽器製作の魅力にも取りつかれ、一時は、演奏と製作の両方で身を立てようとしたとのことである。

 

今、こうして楽器製作を本業としているが、その間には随分と悩みがあったそうだ。しかし、これまでにやってきた仕事と、今のこの静かな生活には、満足しているとのことだった。

どうしても手離したくないという、数台のお気に入りの楽器で、彼はいくつかの小品を演奏してくれた。広い部屋での音色は、彼の長年もとめて来たそれなのであろう。とても優雅で可憐な響きであった。

 

実は、私が彼の家を訪問する前々日まで、彼はニュージャージーへ10日間ほど出かけており、しばらくの間、家を留守にしていたとのことである。さる演奏家が、彼のクラヴィコードで、平均律の第2巻を全曲録音するとのことで、そのチューニングや演奏上のアドバイスのため、かの地に招かれていたという。その演奏家は誰かと尋ねたところ、何と驚いたことに、キース・ジャレットだという。

 

いわずと知れた当代髄一のアメリカの誇るジャズ・ピアニストであり、私が今、最も共感する音楽家のひとりである。最近のキース・ジャレットは、ソロ・コンサート活動を通じて、ピアノ音楽に独自無二の境地・・・・まるでシューベルトのファンタジーの世界にも似た・・・・を開拓している。また演奏家としての実力も相当なもので、平均律第1巻や、ごく最近ではゴールドベルグ変奏曲を発表するなど、ジャズ・ファンならずとも、聴く者を大いに楽しませてくれている。

 

そのキース・ジャレットとFudgeさんが知り合いという。どう見てもこの二人の関係は、本物に違いない。地味ではあってもFudgeさんの仕事は高く評価されているようだ。この事実が私を興奮させたことは言うまでもない。話題は、ゴールドベルグからキース・ジャレットとの録音、ボストン文芸協会にある彼の最大級の力作のハープシコードのこと等々・・・・大いにはずんだ。(♪:KeithによるClavichordの演奏、Book of Waysより、https://www.youtube.com/watch?v=8xb38mtI7Vk

 

(後日訂正:ここに記述のクラヴィコードでの演奏は誤りで、キース・ジャレットの平均律クラヴィア曲集の第2巻はハープシコードによる演奏録音である。19905月の録音でECMから発売されている(ECM/POCJ-1955/6)。 キース・ジャレットがクラヴィコードで演奏したものとして、BOOK OF WAYS The Feeling of Strings” というタイトルのimprovisationCDがある(19867月録音、ECM/J58J 20191/2)。

 

何も材料がないからと言いながら、スパゲッティを作ってくれ、二人で簡素な夕食をとった。食事の前、彼は祈った。バロック風の何か古風な、クラヴィコードのレコード音楽を聴きながらの静かな食事であった。毎日の彼の生活は、このようにゆったりとしたものなのであろう。しかし、聞くところによると、百歳近い年老いた彼の父が、ケンタッキーの片田舎に、ひとりで住んでおり、最近では、電話でのコミュニケーションも難しくなってきたと言う。近々もう、この仕事はやめて、ケンタッキーに行くという。父の世話をするためである。物静かな彼であるが、色々なことを背負って生きているようだ。

 

これからの製作活動については、とある教会のオルガンが壊れて久しく、その再建が悲願だという。ケンタッキーでやるのだろうか?それとも時々ボストンへ出てくるのだろうか?資金はどうするつもりなのか?ボランティアなのだろうか?もうハープシコード、クラヴィコードはやらないと言う。経済的には、あまり余裕があるとは見えない彼であったが、その生き方には、自己流が脈々と貫かれている。

 

56時間程も、彼の家で過ごしただろうか。この訪問は、私にとって本当に忘れられないものになった。最寄りの駅まで送ってもらい、列車でボストンの街に戻ったのは、もうほとんど深夜であった。

 

*  *  *  *  *  *  *

 

家族の崩壊、離婚そして麻薬などアメリカの社会は大いに病んでいるという。確かにこれまで私の見てきたアメリカは大いなる可能性を秘めつつも、その行く先を求め、もがき苦しんでいる様子である。しかし、このアメリカにもFudgeさんのような人がいるという発見は私にはちょっとした驚きであった。あえて、失礼ないい方を許してもらえば、彼は現代に生きているというより、まるで18世紀か19世紀の、ちょうどクラヴィコードの時代の「匠」の世界に生きている人のようにも見えた。

 

ボストンという、アメリカでは最もヨーロッパ的な雰囲気を残した、キリスト教の影響の色濃い土地柄が彼のような人を生んだのだろうか。アメリカには実に様々な人々がいる。「これだから、アメリカ」というアメリカのふところの深さを、今更ながら感受した次第である。

 

*  *  *  *  *  *  *

 

私も、こんどはハープシコードに、5年計画ぐらいで挑戦してみたいものだ。彼のキットで遊ぶことはもはや、難しくなって来たようだ。いずれknow-howを仕入れて、自己流で一からやってみたい。それに、クラヴィコードも少しは演奏できるようになりたい。                                   (左)完成したクラヴィコード (右)Karl Fudgeさん

 

今度は、Fudgeさんをケンタッキーに尋ねてみたいものだ。オルガンへの挑戦のことも聞いてみよう。Carl Fudgeさん。60歳。日本でいえば、さしずめ「現代の名匠」というところか。気になるひとりのアメリカ人である。(註:本文中に出てきた曲名はいずれもJ.S.バッハの作品である。)(執筆:19909月)(文中の製作途中の写真はFudgeさん提供)

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バッハふたたび:平均律クラヴィア曲集、ゴールドベルク変奏曲

平均律クラヴィア曲集

米国から帰国して数年後、40歳代半ばになってバッハの音楽に再び向き合った。ほとんどのピアニストやチェンバリストは、この曲集の演奏・録音には全身全霊の真剣勝負で挑むと言われているが、これらをしっかりと耳にすることなく歳を重ねるのは、随分ともったいない話だと思った。

 

これまでには、マタイ受難曲を20歳代の後半に集中的に聴いたが、その後もバッハの名作ぞろいと言われるソロ楽器のための曲集(鍵盤楽器、ヴァイオリン、チェロ、オルガンなど)との距離は遠く、鍵盤楽器の旧約聖書といわれるバッハの「平均律クラヴィア曲集:第1巻、第2巻」は、いまだに平板にしか聴こえないという自覚があった。

 

もともとマタイ受難曲のように、オーケストラ+数人のソロ声楽家+合唱団という大編成で主に大きな教会の祝祭日に演奏された大曲や教会カンタータなどと、クラヴィア曲やヴァイオリンやチェロの為のソロ曲や小編成用に作曲された曲集は演奏する環境や作曲の背景は全く異なっていた筈である。ソロ演奏のための多くの曲は教会などのスポンサー依頼等によるものではなく、むしろ、バッハのごく身近な生活を支えてくれた親密な諸侯への感謝や家族内で楽しむインフォーマルな空間のために生み出された私的な音楽ではなかったかと思う。

 

スケールの大きさはなくとも、曲によってはリラックスした楽しいものや、極めて内省的で奥深いものがある。受難曲、カンタータのような教会音楽、オルガン音楽等は少なくとも多くの聴衆の存在を意識して作曲されたもの。一方、ソロ曲の多くはファミリー教育用や、爵位にある真に親しい人々との私的な小音楽会で演奏をするとか、または、もっぱら自分ひとりでの楽しむ為に作曲されたものであろう。それまでほとんど馴染んでいないソロの曲に是非とも親しんでみたいというのが意識の根底にあった。

 

さて、平均律クラヴィア曲集の楽譜は、ほとんどのバッハの作品がそうであるように速度記号や発想指示の記載がなく、演奏者の解釈に多くが委ねられている。当時、作曲者であり演奏者という両方の立場にあったバッハ自身にとって、速度記号や発想指示などは必要ではなかったのではないか。従って、演奏者によって曲の表情の変化は随分と広がる。また、ピアニスト、チェンバリストと、それぞれ自分の得意楽器で録音を残すということも表情により多様性を与えている。

 

最初に入手したのは、ヘルムート・ヴァルヒャのチェンバロによる第1巻、第2巻の曲集(1960年、EMI)とグレン・グールドによるピアノ版の第1巻、第2巻(196271年、CBS/SONY)であった。しばらくの間、この曲集で時を過ごすべく聴き始めた。しかし哀しいかな、この曲集の中にはよく知られた、または軽快な旋律はない。(唯一、第1巻の第1曲ハ長調の分散和音で奏されるプレリュードは、有名なグノーの”アベ・マリア”の演奏の伴奏に使われたため、お馴染みであるが、、)。正直、禅の修業のような取っかかりであった。

 

先ずは、第2巻の全24曲から始めた。しかし、同じ曲をチェンバロとピアノ演奏で比べて聴き進めるうちに、徐々にではあるがそれらのうちのいくつかに少しずつ親しみを覚えるようになった。一年ほど経つと、一曲が終わった時、次の曲の冒頭部分が自然と頭に浮かんでくるようになってきた。すこし前進である。もしチェンバロまたはピアノの演奏だけで聴き進めていれば、おそらくその単調さに押されて、音楽の中に入ってゆくことが出来ず途中で挫折したことと思う。

 

    

 

のちに、この曲集を聴くときは、スヴャトスラフ・リフテルのピアノ演奏(1973年(当時のソビエト連邦での録音)、メロディーア/Victor)を基本とした。それをカセットテープにコピーしたり、車に積んだりと、しばらくの間、音楽を聴く時は常に「リフテルの平均律」という状態にした。この演奏が特に気に入ったのは、勝手な想像であるが、お城のように天井が高く、残響のいいと思われる広い空間にピアノが置かれ、そこでひとり心澄ましたリフテルが真摯にこの曲集に取り組んでいる様子が音の間隙から滲み出ているのを感じたからである。

 

自己抑制のきいた演奏で、その速度は中庸であり、全体のバランスがいい。疾風のように早い演奏をするピアニストが多い中で、彼の演奏は心静かに落ち着いて楽しめた。楽譜を眺めながらこの曲集を聴くとその構成は視覚的にもわかりやすいが、私は基本的には楽譜を眺めながら音楽を聴かないようにしている。また、楽譜を眺めるときは音を鳴らさないようにしている。音楽を聴くときは音への集中がより大切と考えるからである。特に、この曲集のように精緻で集中度の高いものに対しては。

 

平均律クラヴィア曲集は第1巻、第2巻とも、ハ長調からロ短調まですべての24の調性で全24曲が構成されている。プレリュードで主題が提示されたあと、フーガへと続く。プレリュードは調性により様々な表情があり、これを受けてフーガではさらに多種多様な展開、すなわち一声、二声、三声へと順に各声部にテーマが受け継がれ、それらが次第に絡まって大きな楽想に膨れ、やがて調和を達成して曲を終える。

 

右手から左手に音楽が受け渡される際の見事さにも驚嘆する。右手の音、左手の音それぞれに注意を向けると音楽の構成がさらに良く分かる。ピアノの旧約聖書といわれる所以であろう。バッハが構築した壮大な建造物である。

 

バッハの平均律クラヴィア曲集は結果としてかなりの演奏家のものを蒐集することになった。リフテルのピアノ演奏を中心に置いているが、時々ほかの演奏も楽しむ様にしている(第1巻:12演奏、第2:14演奏)。

 

古いものではエドウィン・フィッシャーの第1巻、第2巻(録音:193336年、EMI)、また、ジャズ・ピアニストのキース・ジャレットは第1巻にはピアノで、第2巻にはチェンバロで演奏している。どちらもオーソドックスで落ち着いた演奏である(録音:1987年、1990年、ECM)。また、アンドラーシュ・シフの明快な演奏も好みの一つである(録音、1985年、London)。

 

バッハの音楽が、それに聴く人の心を触発し、様々なソロ楽器での編曲や即興演奏がなされ、時にはそれがトリオやクァルテットで演奏される。様々に形を変え、映画音楽、ジャズ、タンゴ、、、など種々の音楽シーンで演奏されることはよく知られている。あたかもバッハの原曲がそれぞれの音楽家の演奏衝動に火をつけるようである。

 

この平均律クラヴィア曲集・第1巻をベースにした素晴らしい編曲がある。1960年代からアメリカを中心に活躍したジャズ・クアルテットにMJQModern Jazz Quartetの略)がある。そのピアノを担当しているのがジョン・ルイスである。MJQでのルイスは作曲・編曲の中心人物であるが、彼の演奏スタイルはジャズ演奏でよく見られる、ピアノ鍵盤を打楽器のようにガンガンと叩くそれではなく、むしろ控えめでおとなしくさえ感じられるが、その中でしっかりとメロディーやリズムを刻んでいる。

 

ルイスはリーダーとして、MJQとは異なるメンバーで平均律クラヴィア曲集・第1巻をジャズ風味(というよりか新たなジャンルの音楽とでもいいたいが、、、)にアレンジした演奏を行った(198489年、Philips)。集まったのはジャズの世界のヴァイオリン、ビオラ、ベース、ギターなどの奏者。先ず、ピアノが原曲のプレリュードがほぼ忠実に再現し、引き続いてそれぞれの曲に応じた編成でフーガが変奏される。

 

総じて静かで、真面目でかつソウルフル。原曲の淡な旋律をさらに昇華させて淡々とリズムを刻み続ける演奏を聴くうちに、ある方向に展開していってほしいがなかなかそのようにならない、「隔靴掻痒!」というか、何とももどかしい気持ちに陥る。しかし、やがて「そうや、それそれ。それや!」と、正に眼から鱗が落ちるように、まるで自分が操縦するように、音楽がスーッと安定着地する感覚を覚える。

 

バッハを聴くという幾人かの知人に彼らの演奏を紹介したことがあるが、十人中十人がそれぞれの受け止め方で、その「素晴らしさ」を語ってくれたものだ。総演奏時間は原曲の3倍くらいの長さになっている(惜しむらくは、ルイスは第1巻のアレンジしか行っていないが、第2巻にも是非、挑戦して欲しかった。)

 

バッハの音楽にこのような体験をした人は多いと思うが、正統派によるバッハ演奏にしろ、アレンジされた音楽にしろ、これはバッハ音楽の本質が「シンプルな美しさ」に根ざしているから様々な演奏で楽しむことができるのではないかと思う。

 

ゴールドベルク変奏曲

特に、よく聴いた曲の一つに、同じくバッハのゴールドベルク変奏曲がある。ゴールドベルグ変奏曲といえば、グレン・グールドのそれが定番のように言われる。たしかに彼のオリジナリティにあふれる演奏は捨てがたい。しかし、私はキース・ジャレットのチェンバロ演奏をかっている。ジャケットの解説によると冬季の日本の長野県・八ヶ岳山麓の雪につつまれた小さな木製のホールで録音された(19891月)。静寂の中で、この曲の録音にのみ集中して数日間を過ごしたという。その場の冷涼感が伝わってくる演奏である。

 

        

 

ゴールドベルクは、多くの鍵盤楽器奏者が渾身の集中力で挑む曲と言われるが、キースのそれも素晴らしい演奏に仕上がっている(後日、初夏に八ヶ岳山麓・清里の木立の中にひっそりと佇むホールを尋ねた。人気はなく風の音と鳥のさえずりだけが聞こえる自然豊かな空間であった。) 日本の若手のチェンバロ演奏家に曽根麻矢子がいる。若々しいゴールドベルクである。彼女の恩師がスコット・ロスである。求心的な見事なチェンバロ演奏であるが、これからという時に他界した。惜しい演奏家をなくした。

 

T-shirts

余談である。いつ頃か正確な時期は忘れたが、ある年の年末である。いつもご登場の友人のTさんと音楽関連のT-シャツを作ろうということになり、どんなデザインにしようかということで色々と議論した。結局、無難にモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)をイメージしたものにしようということになった。単純な発想でT-シャツにモーツァルトの楽譜をプリントしようということになった。

 

あまり音が多いと、印刷したときに何の曲か分からなくなる、あまりに速い曲だと楽譜を眺めていても音楽はすぐに終わり余韻に浸れない、ということで程よい長さとデザイン性ということで、ピアノ・ソナタの中から適当なものを選抜することにした。ちょうど、正月休みの期間でもあり時間的な自由も多少あったので、ピアノ・ソナタの楽譜を眺めながら全曲を聴きなおした。聴いたCDはグレン・グールドの演奏のものであった。その中から、K.310のイ短調の第8番のソナタの第二楽章、Andante cantabile con espressione(表情を込めてゆっくりと歌うように)を選んだ。この曲の最初の7小節を発想標語ともども借用することにした。グールドの早い演奏で演奏時間は約35秒。これぐらいの時間なら、T-シャツを着た相手の胸を眺めていても許されるか?!

 

デザインは最初の行はWAMWolfgang Amadeus Mozartの頭文字)と大きく太いドイツ文字、次の行はゴシック体で my favorites と書いた。その下にちょうど全体として正方形の形におさまるように楽譜7小節を挿入した。デザイン全体の右下隅には「c我夢工房」(わむ(wam)こうぼう)と記載した。

 

最初は我々と家族が楽しんで着ようということで56枚のシャツを作った。それが次第に研究所内で評判となり、増産することになった。結果的に100枚以上作った。研究所では勤務中の服装も華美なもの以外は比較的自由であったので、仕事中に着用するものもおり、食堂などで昼休みに皆と出会う時、何とも気恥ずかしかったのを覚えている。

 

一枚の販売で数百円の収益が出るように価格設定をしていたので損はしなかった。得られた収益はTさんとはまた何か思いついたときの起業資金にしようとしばらく机の引き出しに保管していたが、結局、お互いに仕事が忙しくなりそれどころではなくなって来た。後日、解散会と称して、美味しいものにありついた。(♪:https://www.youtube.com/watch?v=D3TWEXIkndg

 

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6.50歳代(19972006

 

仕事がますます繁忙になるなかで、音楽に対して、最も好奇心旺盛にコレクター魂を発揮したのは50歳代に入ってからである。会社での仕事は、53歳になって長年の研究所生活から東京本社の開発部署へ転勤となり、開発現場の目標管理と時間管理を預かる最も多忙な業務に携わった。国内だけでなく世界中の市場と顧客を相手に東奔西走の日々が始まった。

 

このような時にこそ、少しばかりの余暇時間の使い方、すなわち気分転換を効率的にうまく行い、心の休息を図る事はもっとも大切な健康管理のひとつである。さもなければ、重い病気を患うか、精神上のバランスを崩しかねない。

 

この時期から再びジャズ世界に魅力を覚えるようになった。その魅力を時間的な尺度で云々するのは正しくないが、濃密で緊張感のある音楽を短時間に集中して聴くにはジャズ世界が最もふさわしいと思った。

 

ふたたび、キース・ジャレット

もともと、友人のTさんの手ほどきで、30歳の頃、キース・ジャレットの「ケルン・コンサート」を知った。その時に受けた衝撃は前に記述した。それ以来、自分でキースのその他の音楽を楽しむことは特にして来なかったが、改めて彼のケルン(1975年)以降の音楽の探索を開始した。

 

クラシック・ピアノなど

キース・ジャレット(以降、キースと呼ぶ)はジャズ・ピアニストとして若い時から名を馳せていた。ごく若い20歳代の中頃にはマイルス・デイビスのグループに属し、先に加入していたチック・コリアとキーボードを担当したことがあった。キースは元々、クラシック鍵盤楽器の正統な演奏法を習得しており、クラシックの場合には自由なジャズプレイとは全く異なった演奏をする事の出来る、両刀使いの人物である。先ず、彼のクラシック演奏であるが、鍵盤楽器(ピアノ、チェンバロ、クラヴィコード)で様々な作品を録音している。

 

代表的なものから(年代順)、

ペルト:フラトレス(G.クレーメルと共演)(1983年、ECM

ルイ・ハリソン:ピアノ協奏曲他(1986年、1988年、New World Record

バッハ:平均律クラヴィア曲集、第1巻(ピアノ演奏)(1987年、ECM

バッハ:ゴールドベルク変奏曲(チェンバロ演奏)(1989年、ECM

バッハ:平均律クラヴィア曲集、第2巻(チェンバロ演奏)(1990年、ECM

ヘンデル:ソナタ集(リコーダー、ペトリと共演)(1990年、RCA

ショスタコヴィッチ:プレリュード(全24曲)(1991年、 ECM

キース・ジャレット:ブリッジ・オブ・ライト(自作曲集)(1991年、ECM

バッハ:フランス組曲(チェンバロ演奏)(1991年、ECM

バッハ:ビオラダガンバとチェンバロのためのソナタ(1991年、ECM

バッハ:ソナタ集(リコーダー、ペトリと共演)(1992年、RCA

ヘンデル:クラヴィア曲集(1993年、ECM

モーツァルト:ピアノ協奏曲、第9番、17番、20番他(1996年、1998年、ECM

ほか

 

     

 

この活動を見て分かるとおり、キースがクラシックの鍵盤曲を集中的に録音したのは1980年代の後半から1990年代初頭にかけてである。しかも、バッハ、ヘンデルに集中している。時として、現代音楽のショスタコヴィッチ、ペルトやハリソンの曲を弾くが、彼の主な関心はバッハ、ヘンデルにあると見て間違いないと思う。彼がベートーヴェン以降のロマン派のピアノ曲を録音したことはあるのだろうか。私は知らない。

 

彼のクラシック演奏はオーソドックスである。ジャズのときのスタイルとはまったく違っている。録音の音質はバランスよく、クールな緊張感をもって響くものが多い。特に親しんだのは、バッハのゴールドベルグ変奏曲であり、これについては前項で述べた。

 

トリオ演奏(196070年代)

キースの主なアクティビティーといえば、ジャズにおけるトリオ演奏およびインプロヴィゼーション(即興演奏)である。1960年代にキースが彼の名を冠したグループ(ベース:チャーリー・ヘーデン、ドラムス:ポール・モチアン)を結成したときの名作に、

 

サムフェヤー・ビフォー(1968年、Atlantic)

がある。当時、コルトレーンなどの強烈な音楽場面が終焉を迎えたタイミングでの、個性的ではあるが静かな曲集は多くの人々に歓迎されたものと思う。9曲が収められているがキース自身の作曲・編曲である。(そのうちの一曲、“My Back Page”はボブ・ディランの曲)のどかな郷愁を誘うゆったりと聴けるアルバムである。(♪:▶ Keith Jarrett Trio - Somewhere Before 1968 Live Shelly's Manne-Hole - YouTube )

 

 サムフェヤー・ビフォー(1968年、Atlantic)     マイ・ソング(1977年、ECM

 

マイ・ソング(1977年、ECM

これに続くのが、しばらくたっての新しいクァルテット(サックス:ヤン・ザルバレク、ベース:ペール・ダニエルソン、ドラムス:ヨハン・クリステンセン)である。これまた、ゆったりとしたバラード風の曲が多く、キースの心温かい感情が滲み出た音楽が感じられる。1960代末~70年代の半ばまで、アメリカ社会はベトナム戦争終結の国内混乱で人心は不安定な時期であったと思われるが、そのような時代背景と重ね合わせてこの曲集を聴くとキースが何を表現したかったのかが分かるような気がする。ヤン・ザルバレクの子気味いいサックスは曲想にいっそうの趣を添えて快調である。

(♪:▶ キース・ジャレット 「マイ・ソング My Song」 - YouTube )

 

ソロ・ピアノ

キースを特徴付ける一つのポイントは極めて集中度の高いインプロビゼーション・プレイである。1975年のケルンでのコンサートはその発表後、素晴らしい評価を得たし、彼のケルン・コンサートによって、このような演奏分野があることを知った者は多いと思われる。1819世紀、バッハ、モーツァルト、シューベルトなどはテーマを定めての、または自由な発想での即興演奏を得意とした。今でこそクラシックの演奏でこのようなインプロビゼーションは殆ど見られなくなったが、ジャズメンであり、クラシック世界でも活躍するキースが現代においてこの世界に新たな息吹を吹き込んだ。

 

ケルンに続いて、キースは何回かソロ・コンサートを各地で演奏している。日本でも大阪その他で演奏会を開催している。日本でのソロ・コンサートはその殆どがCDで発売されている。主に、ヨーロッパがソロ・コンサートの舞台である。詳しく調べた訳ではないが、キースはアメリカ人であるが、アメリカ本土でソロ・コンサートを録音していないように思う(演奏はどうなのか?)。このような演奏形態がヨーロッパ的だからであろうか?その理由は分からない。結論を下す前に、いま少し調査の必要があろう。

 

手元にあるソロ・コンサート(インプロビゼーション)関連のCDは以下のとおりである。

ブレーメン、ローザンヌ・コンサート(1973年)(ECM)

ケルン・コンサート(1975年)(ECM

サンベア・コンサート(京都、大阪、名古屋、東京、札幌、1976年、CD6枚)(ECM

コンサート(ブレゲンツ)(1981年)(ECM

Book of Ways(クラヴィコードによるインプロビゼーション、CD2枚)(1986年)(ECM)

パリ・コンサート(1988年)(ECM

ラ・スカラ(1995年)(ECM

 

いずれも秀逸の出来で、聴いているとすぐにその夢幻の世界に引き込まれて行く。ただ、キースはソロ・コンサートを行うにあたっては、かなりのエネルギーを必要とするので精神の安定、体力の充実が必須で、その演奏回数は次第に減らしていかざるを得ないだろうと言っている。彼ももう68歳。

 

   

 

日本でのキースの舞台は何回か聴かせていただいた。そのほとんどは不動のメンバーによるトリオ演奏であった。他には京都でモーツァルトのピアノ協奏曲を京響と演奏したのを聴いたことがある程度だ。ソロ・コンサートに立ち会った経験は残念ながらない。

 

トリオ、クァルテット演奏(1980年代後半~)

初期のトリオの活躍、サムフェアー・ビフォーとマイソングのアルバムに関しては先に述べた。ここでは今も活躍中のキーズ・ジャレット トリオについて記述する。

 

1970年後半以降、しばらくの間、キースのトリオ、クァルテットの動きは静まるが、1983年ごろに新たなトリオ(ベース:ゲイリー・ピーコック(Gary Peacock)、ドラムス:ジャック・ディジョネット(Jack DeJohnette))を結成した。このトリオは結成30年後の今も活動を続け、録音も多く残している。余程、お互いの信頼、音楽に対する共感があるのであろう。キースが1990年代の半ばごろ、病気で数年間、音楽活動全般から遠ざかる日々があったが、回復後も、このトリオは以前と同じペースで質の高い音楽を提供し続けている。

 

キースは20歳代の中頃にマイルス・デイビス(Miles Davis)が主幹するグループに属し、オルガンやエレクトリック・ピアノを担当した。恐らく、次に登場するコルトレーンとも会話があったのではないかと推察する。マイルス・デイビスの傘下から多くの優れたジャズメンが輩出するが、キースもそのひとりであった。

 

1971年にマイスルのグループが解散後は、キースは何回もマイスルとの再共演を熱望し続けたそうである。しかし、1991年にマイルスが死去するにおよんで遂にかなわなかった。恐らく、キースはマイルスから音楽的にも、人生の処し方においても様々なものを吸収し、音楽家として大成していったものと思う。

 

       

 

マイルスの死の2週間後に、キース・ジャレット・トリオはニューヨークのパワーステーションで生前のマイルスが好んで演奏した6曲の追悼演奏を録音した。そのタイトルは ”バイ・バイ・ブラックバード” である。演奏を終え、ステージを去るトランペットを持ったキースの後姿のジャケット写真はマイルス・デイビスと重なる。このアルバムには三名の連名で次のメッセージが記されている。

 

マイルスは媒体であり、変換者であり、試金石であり、磁場であった:最小限のシンプルさの中に生きた人であった(最小限の音で実に多くのことを表現した)。周辺が「ノイズ」に満ちていても、マイルスはいつも静寂の中から現れ、その音はピュアに存在した(空虚とは無関係のシンプルさである)。マイルスは「技巧に走ること」は無益であり、ピュアな音を追求することが重要であることを示した。

すべての即興演奏家は、試金石(マイルス)がなければ自らを見ることがないことを知る。(今の行為が)ピュアな音かどうかを自問しなければならないという、大きな穴が残されたことを知っている。試金石は重要である。我々はいつになっても進む道を照らしてくれる試金石を必要とする。なぜなら、我々は自身の能力に溺れがちだからである。マイルスは決して音楽を忘れない;我々は決してマイルスを忘れない。                                                    

 K.J., G.P. and J.D.

 

このメッセージはキースがマイルス・デイビスから学んだ「演奏のときには無駄な音を省き、単純な音の中に真の音楽を創造せよ」という音楽訓を示している。技巧に走ることの無益を説いた意味深いメッセージと思う。

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ジャズの世界:

コルトレーン

ジョン・コルトレーン(John Coltrane)は1950年代の中頃から1960年代の中~後期にかけて活動した、アメリカ・ジャズの新しい可能性を開き、その最興隆期を築いたサキソホーン奏者である。若いときはマイルス・デイビスのグループに属し、ジャズ演奏におけるサキソホーンの可能性を大きく飛躍させた。マイルス・デイビスのグループが1959年に吹き込んで彼らの代表作となったアルバム ”Kind of Blue” では、”So What” や ”Freddie Freeloader” などを吹いている。

 

ネット上で音楽を売買する現在では考えられない事であるが、このアルバムは50年間かけて1500万枚のLP売り上げを達成したという。このアルバムに参加したのが、トランペット:マイルス・デイビス、テナーサックス:ジョン・コルトレーン、アルトサックス:キャノンボール・アダレイ、ピアノ:ビル・エヴァンス、ベース:ポール・チェンバース、ドラムス:ジミー・コブという、少しジャズに興味のある人にとっては、これらのメンバーのその後の活躍を含めると、史上最強であることがわかる。その中で若きコルトレーンはすでにその才能を開花させている。

 

私は若いときからサキソホーン独特の音色が気になっていた。しかし、どのように探索したら自分のイメージにあったサキソホーンの音に出会えるのか分からないままでいた。サキソホーンは木管楽器の中では歴史は浅く、19世紀の中頃に作られた楽器である。サキソホーンが作られた当初、今のようなジャズ・シーンがあったわけではなく、クラシック音楽ではこの楽器の使用はごく限定的であった(唯一、記憶にあるのは、20世紀の前半に活躍したフランスの作曲家モーリス・ラヴェルが作曲した有名な管弦楽曲「ボレロ」の中で、サキソホーンを巧みに使った粘っこい効果的な音が印象的である)。

 

      

 

コルトレーンの音楽に具体的に接触したのは、家内の友人からの情報による。我々世代が高校生、大学生であった頃、イギリスではザ・ビートルズが矢継ぎ早に数々の歴史に残るGSの名曲を発表し一世を風靡していた。一方、同時代、アメリカではマイルス・デイビスに育てられた世代、コルトレーンなど新生のジャズメンが新たなジャズ世界を切り開いていた。私はまったく知らなかったが、ジャズ愛好の学生の間では、コルトレーンは新音楽のカリスマとして共有されていたらしい。家内の友人からのコメントは「先ずは、バラードから」で、あとは「お好みにまかせて、、、」ということであった。

 

コルトレーンは数々のエネルギーを爆発させた音楽や、限りなくメランコリーな音楽世界を疾風怒涛のように吹きまくり、19677月に40歳の若さでこの世から去っていった。私が最初に手にしたのはImpulseから発売されている「バラード(Ballads)」であった。コルトレーンのロングセラーアルバムの一つで、サキソホーンのコルトレーンが、ピアノ:マッコイ・タイナー、ベース:ジミー・ギャリソン、ドラムス:エルヴィン・ジョーンズと不動のクァルテットを組んでいる。

 

ここで驚嘆するのは、主役であるコルトレーンの心溢れんばかりの歌ごころである。一方では、ハードな音楽を吹きまくるコルトレーンが、ここではまるで別人のように変身する。196162年ごろの録音である。比較的演奏時間の短い8曲でアルバムは構成されるが、”Say It, You Don't Know What Love Is, ”It's Easy to Remember” など、実に「うまい」としか言葉が思いつかない。イメージしていた官能に訴えかけるサキソホーンの音はここにあった。

 

少し趣向の異なった、ボーカル・バラード曲を集めたものとして、コルトレーン・クァルテットが1963年にジョニー・ハートマンと共演したアルバム(Impulse)がある。これも歴史に残るアルバムとの評価が高いが、その中で最もポピュラーなのが、”My One And Only Love” である。最初にコルトレーンのサキソホーンがしっとりとした濃厚な愛を語る。これに続いて、ハートマンがソフトボイスで愛を歌う。すごく魅力のある歌声である。コルトレーンのサックスがハートマンのボーカルに絶妙に絡む。”You Are Too Beautiful” も捨てがたい。実にソフトな感受性と表現力の完璧さに正直、圧倒される。

 

私がこれらバラードを聴き始めたのは、あまりにも遅咲きで恥ずかしいが50歳代の半ばを過ぎた頃からである。実際に演奏されてからもう40年にもなろうというライブ音楽に魂を奪わるとは。もっと若い時にコルトレーンを聴いていたら、音楽自分史も随分と違う方向に展開していたかもしれない。

 

さて、コルトレーンのもう一つの世界、バラードとはまったく異なり、粘着質で執拗で演奏するたびに進化する彼独自のジャズ世界がある。彼が生涯、最も多く演奏した曲が、ブロードウェイ・ミュージカル、「サウンド・オブ・ミュージック」でジュリー・アンドリウスが歌う ”My Favorite Things” である。彼は生涯に1,000回以上この曲を演奏したといわれている。手元には最もよく聴く1963年のニューポートでのライブ演奏(1724秒)がある。他には、1960年、ニューヨークでのスタジオ録音(1341秒)、1962年、バードランドでのライブ録音(1030秒)などがある。

 

この曲は、彼の生涯にわたるスタンダード・ナンバーであり、聴衆も彼の ”My Favorite Things” を聴くと得心して会場を後にしたという。この演奏は、彼のその時の体調、気分、聴衆の「のり」により左右されているのであろう。演奏時間は演奏ごとに随分と異なり、一定しない。また、毎回の演奏ごとに何らかの変化(これがジャズで言うアドリブ)を挿入する。これが計算されたものではなく、彼の心にその時によぎった感情を自然に音にしているのがわかる。クァルテットの面々も、そのあたりは百戦錬磨で鍛えられており、自分のターンになれば、思い切り楽しんで自分を表現し切っている。このあたりのチームワークのバランスと全体のボリューム感が、この演奏を稀有なものにしていると思う。実に味わい深い。

 

最初、ソプラノ・サックスでコルトレーンが、”My Favorite Things” の主題を演奏する。次に、マッコイ・タイナーのピアノが曲の展開部分をかなりの長時間受け持つ。この間、コルトレーンは休憩しているのではなく、ピアノ演奏を聴いて、次のテイクのために自ら高揚感を高めているのであろう。やがて、コルトレーンに引き継がれ、再び主題が演奏されるが、次第に主題は解体され始める。ドラムスとベースがしっかりとリズムを刻んでいるため、現在の立ち位置をお互いが見失うことはないが、今はどの部分かがかろうじて判別できる程度にまで解体は進む。

 

この解体過程にすごいエネルギーの注入を感じる。これがコルトレーン音楽の真骨頂である。この曲に関して言えば、演奏回数を積むに従って、主題の解体ないし破壊に要する時間は長くなり、最後の演奏となった19674月のハーレムでのライブ演奏では実に3438秒であったそうだ。亡くなる三ヶ月前の演奏であるが、すざましいエネルギーで小刻みに震えるエンドレスのフレーズを吹き続けたそうだ。壮絶という以外に言葉が見当たらない。

 

コルトレーンは殆どの録音は、ライブ演奏であれ、スタジオ録音であれ、ワンテイクを生涯貫いたという。自らの演奏の音の流れの持続感を大切にしていた証であろう。コルトレーンの演奏には常に、真摯な緊張感が漂っており、それが彼ならびに彼のクァルテットのたまらない魅力になっている。

 

コルトレーンは静謐なバラード演奏と、スタンダード・ナンバーの演奏に素晴らしい独創的な魅力を与え続けたと書いたが、彼が体調を崩し始めたと思われる頃、すなわち、1965年頃から、彼の演奏にはついていけなくなる。発病直前の196412月に録音した「至上の愛(A Love Supreme)」は名盤の誉れ高く、まだ理解できる。ジャケットの彼の顔写真は相当に厳しい顔付きであるが。

 

しかし、1965年の9月のシアトルでのライブ演奏に至っては、もう全く訳がわからない。一生懸命に吹いているが、私の耳にはもはや音楽とは聴こえない。騒音と言っては失礼か。長年、共演したメンバーは一緒に音を出してはいるが、どのような心境だったのだろうか。これだったら私にも出来るといえば言い過ぎだろうか。これを最後に、1965年以降の彼の録音を購入するのは止めた。1966年にはメンバーに若手を加えて、新たな世界に出立した。「フリー・ジャズ」と言うらしい。

 

最後にコルトレーンは分からない世界に行ってしまったが、それまでの彼の素晴らしい音楽は決して色褪せるものではない。私の記憶に深く刻まれている。

 

コリア

1970年代~現在まで、私はアメリカのジャズ界でのピアノプレイヤーの第一にはキース・ジャレットを推すが、もうひとりの雄チック・コリア(Chick Corea)(以降、チック)を忘れてはならない。彼の特徴は多才とflexibilityである。あらゆる音楽活動にセンスよく登場し、多才な音彩を提供する音楽家と受け止めている。

 

初めての出会いは、”Return to Forever" である。19722月に発売された一羽のかもめが青い海を背景に悠然と飛翔する写真でお馴染みのものである。ちょうど同じ19726月にリチャード・バックの「かもめのジョナサン」(日本版は五木寛之訳)(発売は1970年)がアメリカのヒッピー社会で爆発的人気を博し、1,500万部を売り上げ、これまでのアメリカの過去最大のヒット小説「風とともに去りぬ」の出版数を一気に抜き去った事で大きな評判になった。

 

この本のカバーの写真と ”Return to Forever” のそれが殆ど酷似している。チックのアルバムの写真のほうが先だ。このアルバム(ECM)は全米で大変な人気を博した。アルバムには彼が作曲の4曲が収められ、チックは電気ピアノを担当している。女性ボーカルの起用が珍しい。表題の ”Retuen to Forever” はやわらかい感触につつまれ、美しくも不思議な霧につつまれたようで、これまでにあまり聴いたことのない音楽である。アルバムから伝わってくる印象は、チックが自分の音楽の演奏を実に楽しんでいるという事である。

    

このアルバム発売と同じ年の、197211月、今度はビブラフォンの第一人者ゲイリー・バートンとのデユエットで透明感に溢れた ”Crystal Silence" を同じくECMから発売している。ここでは、前者とはまったく違う感覚でチックはシックにピアノを演奏している。透明感のあるピアノと、ゲイリー・バートンのビブラフォンの揺れる響きとのたえなる調和である。このアルバムの中のCrystal Silenceは確か、TVのコマーシャルか何かの音楽に使われたのではないか。最初から耳に馴染んだような気 がする。

 

1972年のこの2枚のアルバムの発表で彼の音楽界での位置は確固なものとなった。すべての演奏で、チックは鍵盤楽器を受け持つが、ピアノと電気ピアノの両刀遣いである。音の感受性が鋭いのは当然であるが、表現の幅は広く、しかもその状況に応じて巧みに使い分ける。

 

チックは今も大活躍であるが、彼がどういうジャンルの音楽家かというのを一言で言い表すのは難しい。ジャズ、クラシック、ラテン、タンゴ、インプロビゼーション、、、これというものは何でもこなす。彼の周りにはハイレべルの演奏家が多くいるし、彼らとのコラボレーションでいっそうチックの存在が際立ち、魅力あるパフォーマンスを生み出している。

 

ボビー・マクファーレン、ロイ・ヘインズ、バド・パウエル、ジョシュア・レッドマン、ゲイリー・バートン、チック・コリア+アコーステイックバンドの面々、ゴンサロ・ルバルカバなどなど、数え上げればきりがないが、チックはそれぞれのパフォーマーとの音の対話において綺羅星のような足跡を残している。私自身、チックの共演者の音楽を聴いて新しく彼らの音楽に入ってゆくという意味でも、チックは新しい演奏家の道案内役として大いに活用させていただいている。

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バートン

ゲイリー・バートン(Gary Burton)は、1943年、米国インディアナ州出身のビブラフォン奏者である。若いときからマリンバ、ビブラフォン、ピアノ演奏に才を示し、中学・高校生の頃にはジャズに傾注し、アルバム録音に参加することもあった。高校卒業後はボストンのバークリー音楽院に学び、オーセンティックなジャズ演奏技術を身に付けた(当時、バークリーにはビブラフォン奏法の教授はいなかったということであるが、ジャズ環境に身をおくことで多くの知己を得、セッションの術を学んだ)。

 

音楽院に在学中から多くの音楽家の目に留まるところとなり、RCAを皮切りにAtlanticECMWarner BrosGRPConcordとメジャーなレコード会社の専属となっている。

 

ビブラフォンの演奏上の技術開発における貢献が大きく、それまでの主流であった4本マレット奏法に改良につぐ改良を施し、新たにダンプニング奏法(音の振動の減衰をコントロールする奏法)を世界中に広めた。このことによりビブラフォンがコード楽器としてピアノと遜色のない独奏楽器であることを実証した功績は大きい。

 

バートンは実に多くのミュージシャンと共演している。これはひとえにバートンの音楽性の高さと、彼の人柄が多くのミュージシャンを惹きつけるからであろう。最初に彼の名前を知ったのは、チック・コリアとのアルバム「Crystal Silence」のなかの「Crystal Silence」や「Senior Mouse」などの演奏である(コリアの項、参照)。あの透明感に溢れる演奏で、ビブラフォンの音の魅力と可能性を感じ、あわせてバートンという演奏者に強烈な興味を持つようになった。

 

また、チューリッヒでのチック・コリアとのライブ録音である「Live at Zurich」も素晴らしい。書棚を見ると12枚のCD2枚のDVDを購入している。大部分は1985年以降のものであるが、その大部分は他のミュージシャンとのコラボ・アルバムである。ラルフ・タウナー(ギター)、パット・メセニー(ギター)、バークリー・オールスターズ(7人)、エディ・ダニエルス(クラリネット)、レベッカ・パリス(歌手)、ポール・ブレイ(ピアノ)、チック・コリア(ピアノ)、小曽根真(ピアノ)、アストル・ピアソラ(バンドネオン)など、である。

 

                    

 

たとえば、ピアソラのタンゴ・アルバムである。余韻を持たせて音を引きずるようなピアソラ独特のメロディーラインに対して、バートンのビブラフォンは見事に反応し、それにバンドネオンやヴァイオリンの哀愁を帯びた音色が絡んでくるとき、まさに新しいピアソラの世界が現出する。

 

 バートンは長年、出身校であるバークリー音楽大学(旧、音楽院)で教鞭をとり、後進の指導にも力を注いで来たが、2002年にフリーとなり、演奏活動に集中しているという。アトランティックで1971年に録音した「Alone at Last」(ヴァイブのほか、ピアノ、オルガンも活用、ATLANTICAMCY-1216)で最初のグラミー賞を受賞して以来、これまで計6回、同賞の受賞の栄に輝いている。

 

常に、新しいものを求め、それを革新的に巧みに表現することに対し、研ぎ澄まされた嗅覚を持ち合わせているのであろう。一作ごとに進化を遂げてきているが、これから行く末、どのような出会いがあるのか本当に楽しみである。Gary Burton、ただいま69歳である。

 

Modern Jazz QuartetMJQ

1952年に発足したModern Jazz QuartetMJQ)は不動の4名のメンバーでジャズの王道を歩み続けた。その4名とはピアノがジョン・ルイス(John Lewis)、ビブラフォンがミルト・ジャクソン(Milt Jackson)、ベースがパーシー・ヒース(Percy Heath)、ドラムスがコニー・ケイ(Connie Kay)である。

 

1974年、オーストラリアでのセッションをきりに一旦、解散宣言をしたが、その後も数回にわたって、リ・ユニオンの機会があり、近いところでは1992年にニューヨークで結成40周年記念の公演が行われており、彼らを取り巻く多くのジャズメンとの楽しいセッションが録音されている。その時、MJQのメンバーの最長老はジョン・ルイスで71歳、最若手がコニー・ケイの64歳、というから本当に息の長いグループである。

 

1950年代、アメリカのジャズ界は大きな変動期にあり、マイルス・デイビスはモードジャズ手法というアレンジを重視した演奏法を展開し、またジョン・コルトレーンのシーツ・オブ・サウンド奏法は一世を風靡した。その流れの中にあって、MJQはぶれる事なく彼ら独特のサウンドのスイングを提供している。

                

 

のちにルイスが語っている。「MJQ4名の間では、顔を見ただけで誰が何を考え、何をやりたがっているかといったことが即座にわかるような音楽集団としては、他に前例のない人間関係が出来上がっていたのです。」 まさに、日本仏教世界で言うところの「阿吽の呼吸」である。チーム編成が不動であったことの証であろう。また、「ヨーロッパでジャズ・コンサートを行うときは、エンターティンメント活動に分類され、高い税率を課せられていました。

 

しかし、長いコンサート活動の歴史を通じて、ドイツを皮切りにMJQの音楽会はエンターテイメント活動ではなく、芸術活動、文化的行事との評価を得る事が出来、無税の特別措置がとられるようになりました。これはMJQが社会に対しジャズの認識を改めさせたという点でその役割は大きかったです。」 また、「1957年から”スクール・オブ・ジャズ”を開催し、ジャズのアカデミックな教育の場として重要な足跡を残してきました」と。ジャズ界の先駆者として、またその中心を歩んで来たという自負は強い。

 

さて、MJQの得意ナンバーには、「朝日のようにさわやかに」、「サマー・タイム」、「チュニジアの夜」、「ラウンド・ミッドナイト」、「チロキュー」、「ジャンゴ」など多くがある。とにもかくにも、ひとつひとつの音を全員がとても大切に丁寧に演奏しているのに好感がもてる。ライブ等のCD録音やDVD画像も多く残されている。驚くべきことに変遷・変化の多いジャズ世界にあって、彼らMJQの演奏は時代の影響を殆ど受けることなく、いつも一定して彼等の音楽を提供している。

 

ビブラフォンにピアノが絡むところ、またベースとピアノの掛合いなどの見どころ、聴きどころは絶妙である。ビブラフォンという特殊な楽器をジャズ世界に取り込み、定着させた功績は大きい。安心して聴けるジャズ・グループMJQに対し、アメリカ国内だけでなく、全世界中にファンがいるのはむしろ当然といえよう。ピアニストのジョン・ルイスはバッハ音楽に深く傾注し、平均律クラヴィア曲集等を自分流にアレンジし独自の音楽世界を築いている。詳細は「バッハの平均律」の項に記載した。

 

上に記載したが、1992年に40周年記念コンサートがニューヨークで開催された。そのコンサートに参加した顔ぶれがまた豪華である。ボビー・マクファーレン、TAKE 6、フィル・ウッズ、ウイントン・マルサリス、イリノイ・ジャケー、ヴランフォード・マルサリス、ジミー・ヒース、などである。最後の最後まで音楽を味わいつくした枯れた境地のMJQに対して、若手がグーッとエネルギーを注入している。素晴らしい記念コンサートのアルバムCDである(「MJQ&フレンズ」、ワーナー・ミュージック・ジャパン、AMCY-1123)。

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マクファーレン

ボビー・マクファーレン(Bobby McFerrin)は多彩なボーカルを駆使し、高いレーべルでジャズ、クラシックなど様々な音楽を融合させ、独自の音楽活動を展開する声楽家、指揮者、音楽コーディネーターである(1950年、ニューヨーク・マンハッタン生まれ。両親はいずれもオペラ歌手)。彼を知るきっかけは、マクファーレンがチェリストのヨーヨー・マ(YoYo Ma)と共演した小スタジオでの共演アルバムのCDを手にしたことに始まる。

 

そのアルバム名は「HUSH」(19918月録音、Sony)。クラシックのいくつかの小品、ヴィヴァルディの二台のマンドリンのための協奏曲からアンダンテ(第二楽章)、リムスキー・コルサコフの熊蜂の飛行、ラフマニノフのヴォカリーズ、バッハのミュゼットや管弦楽組曲第三番のアリアなどなど。全13曲。主にマクファーレンが様々な色彩のヴォイスで主旋律を提示し、それにマのチェロが絶妙にバックコーラスとして絡む。両者の磨きぬかれた音楽的感性は超一流である。ライナー・ノートにも記されているが、両者はお互いの感性を稀有なものと認め合い、貴重なパートナーとして尊敬しあっていることがよく分かる。

 

タイトルとなっている「Hush Little Baby」は5番目に登場する。Traditionalとあるから子供たちの歌う「わらべ歌」のようなものであろうか?何度聴いても心が浮き立つ不思議な音楽である。歌詞カードもなく、崩れた英語(失礼!)と思われる台詞で何を歌っているのか、皆目、見当がつかないが、そんなことはどうでもいい。マのチェロも実に共演を楽しんでいる。マは「Hush」について、次のようなメモを残している。

 

Hush」は日常生活の中における偶然の出会いによる素晴らしい幸運な産物である。私がボビーと初めて出会ったのは、1988年タングルウッドでのレナード・バーンスタインの70歳の誕生演奏会の会場である。また、我々が始めてコラボをしたのはサンフランシスコでのボビーの40歳の誕生パーティ会場であった。その日、ボビーはベートーヴェンの第七交響曲を指揮し、そのあと二人で「Hush」を聴衆の前で初めて即興演奏したのだ(それは大いなる緊張であったが、なんと愉快な経験であったことか!)。

 

ともかく、磨かれた個性が発揮される236秒である。これで一気にボビー・マクファーレンが気にかかり、彼の他の音楽を求めた。(♪:▶ Yo-Yo Ma &Bobby McFerrin - YouTube )

 

先ず、ボーカリスト分野では、彼は一人で聴衆の前に立ち、様々な音楽を聴かせるパフォーマンスを得意とするが、多種の共演者とのコラボでの活躍も際立っている。コラボによく出演する演奏者としては、チック・コリア、ハビー・ハンコック、ジョー・ザビヌルなどのピアニスト、ドラムスのトニー・ウイリアムス、ジャック・ディジョネット、チェロのヨーヨー・マなどがいる。

 

このほかにもビブラフォンのゲイリー・バートン、トランペットのウイントン・マルサリス、またMJQやマンハッタン・トランスファーなど一流どころとの共演もある。ともかく多彩な組み合わせが可能な極めてフレキシブルな活動を身上とする。また、198592年の間に、彼は8回様々なグラミー賞を受賞していることからも、その音楽の独自性の評価が高いのが分かると思う。マクファーレンは、DVD映像を見ることでその楽しさが何倍にも増幅されることを特筆しておきたい。

 

       

 

ソロ活動として、注目すべきは1984年に発表した、まったく伴奏なしで彼の声の変化だけで様々なジャズを演じた「The Voice」である。この演奏により彼は自らの進むべき基本路線と自身の音楽才能を確認した。アメリカの音楽会場、並びにドイツのオペラ劇場でこのアルバムの曲を演奏し高い評価を得た。しかし、彼の名を全米に有名にしたのは人の気持ちをリラックスさせるやさしい癒し系の「Don't WorryBe Happy」である (1988年の全米のポップ部門、第一位を得た)。

 

彼のソロパフォーマンスのDVDは多く発売されているが、中でも2003年に録画した「Live in Montreal」では聴衆のノリも見事に撮影されており、様々な共演者との即興演奏でマクファーレンが独自の歩を完成させていることがよく分かる。

 

また、彼はクラシック音楽の指揮者としても著名で、その全貌は捉え切れていないが、世界中の名門のオーケストラと共演を行っている。いくつかのCDを持っているがいずれの演奏も気をてらうようなものではなく、極めてオーソドックスといえよう。

 

私は2005年、東京墨田区のトリフォニー・ホールにおいて、マクファーレン指揮の東京フィルハーモニーで、メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」を聴いている。端正な演奏でクラッシック音楽への造詣が深いことがわかる。第二部は彼のソロ舞台であり、第一部とはうって変わって、実にリラックスした楽しいパフォーマンスであった。即興あり、自らのオリジナル曲ありで、聴衆に「何かやって欲しい曲はありますか?」とリクエストを求め、それを軽々とこなし万雷の拍手を得ていた。

 

天才的なパフォーマンスを目の当たりにした。「何か質問はありますか?」といったときに、「あなたは、今後オペラの世界に進出する計画はありますか?」と聞きたかったが、2~3,000人の聴衆のいる前ではどうしても手を上げられなかった。今でも後悔している。その後も、マクファーレンのオペラ活動は聞かないが(コンサートの夜、寝台急行「銀河」にゆられて京都に戻った。急行「銀河」が廃止される1週間前の乗車であった。)

 

次に、マクファーレンの音楽コーディネーターとしての活躍も見逃せない。様々な分野のミュージシャンが彼との共演を望むのであろう。その一つに、ドイツのライプチッヒで定期的に開催されている夏の野外コンサートは有名である。マクファーレンがコンサート全体を企画し、その中で実に多彩な音楽が演奏される。始めはご当地出身の作曲家メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢のスケルツォ」から始まる。もちろん指揮はマクファーレンである。その後、各国からの様々な民族色の豊かな音楽家が実に多彩な音楽を聴かせてくれる。そのそれぞれの演奏にマクファーレンは共演している。

 

聴衆も一見、ヒッピーのような風貌のマクファーレンのことをよく知っているのか、質の高い音楽を楽しんでいる。ドイツ音楽のメッカといわれるこの地で、アメリカ・ニューヨーク出身のミュージシャンが当然のことのようにコンサートを主幹するのは不思議な気もするが、マクファーレンの音楽企画は十分に国際性があり、多くの支持を得ている。もちろん商業企画としても魅力がある。私は20026月のライブコンサートのDVDでその様子を堪能した。

 

これからもマクファーレンは変幻自在な音楽を提供してくれることを期待したい。最近は音楽の持つポジティブな意味についても興味深い見解を示している。

Bobby McFerrin demonstrates the power of the pentatonic scale, using audience participation at the event Notes & Neurons: In Search performance of the Common Chorus, from the 2009 World Science Festival, June 12, 2009.

 

フェラ・クティ

  30歳を過ぎた頃に、会社の仕事でケニアに出張し、当地で2週間程を過ごしたことがある。出張の目的は、商売がらみの営業出張ではなく、開発途上国を支援するために国連が、「たとえば植物などの熱帯性天然物資源を有効利用し、熱帯地方の疾病等を予防・治療するための開発プログラムの提案」というプロジェクトを主幹して、各国から識者を集めてその方策を集約するというものであった。私の始めての海外出張がアフリカとは晴天の霹靂であったが、そこでは得がたい様々な体験をした。

 

音楽に関しても貴重な体験があった。アフリカ音楽と言ってもそれはひとくくりに一括されるものではなく、詳細に調べてみると、国、地方、または種族によってその音楽表情は大きく異なるようだ。ナイロビ滞在中の一夜、ナイト・ツアーのエクスカーションがあり、薄暗いホールに案内された。そこで演奏していたグループの名称や曲名は忘れたが、東アフリカの音楽であった。ひとつのドラムの叩く単調なリズムが、次第に複数のドラムによるダイナミックなリズムへと変化し、高揚感の中で祈りか叫びかがよくわからない歌が歌われた。

 

また、舞台上では複数の男女がエネルギッシュなダンスを展開した。この演奏にストーリーがあったのか、それとも即興プレイだったのかはわからない。延々と続く演奏であったが、聴きなれない音に驚愕はあったものの、決して騒音というものではなく、何か血が騒ぎ心地よいものであったのを今もよく覚えている。 アフリカ音楽のほんの一部分に関して、このような珍しい体験をしたが、当時、日本ではまったくと言っていい程、アフリカ音楽を耳にする機会はなかった。いつか機会があったら、まとめてしっかりと聴いてみたいなという気持ちで時は過ぎた。

 

その後、1985年頃から日本ビクターがアフリカ音楽の現地録音を行こなったり、各国から著名なグループを日本に招き、様々なアフリカ音楽を録音した。その多くがレコード化・CD化され、容易に多彩なアフリカ音楽を耳にすることが出来るようになった。

 

色々なアフリカ音楽の中で、最もアフリカを感じたのはフェラ・クティ(Fela Kuti)である。フェラ・クティは1938年ナイジェリア生まれのサックス、ピアノ、ボーカルなど多彩な演奏技術を駆使するマルチ・ミュージシャンでアフロ・ビートの創始者として世界的に知られ、別名「Black President(黒い大統領)」といわれた。また、彼の音楽は時代とともに大きく変わるが、その初期の活動では輸入音楽の物まねから脱却したアフリカ固有の音楽の追求へ、また次第に政治的なメッセージを重視した音楽へと変貌を遂げる。

 

しかもそのメッセージは時とともに過激を極める。演奏はその場所・場所で大きく変化し、発表した作品数は膨大であらゆる機会・場所を活動の拠点とした。一曲の演奏時間は極端に長い。1997年に没したが、彼の発表した作品の全貌はまだ完全にはフォロー出来ていないと言われている。

 

          

 

強い政治的なメッセージ(黒人解放、国家からの独立共和国創設の意図、、、)のため、幾度となく監房に拘置された。1976年作の代表作「Zombie」は彼の生活周辺を脅かす軍隊の襲撃の経験をゾンビにたとえたもので、民衆の圧倒的な支持を得た。その音楽は単調といえば単調であるが、怒りを内に秘めたエネルギーにはすざましいものがある。

 

トランペットなどの管楽器群と打楽器それにクティのボーカルで構成されるが、“ZOMBIZOMBI・・・” と叫び続けるこの曲は、被抑圧者の怒りを内包したもので、この曲が町で歌われた時、権力側にあったものは恐怖に襲われたのではないかと思わせるような執着音楽である。

 

このほかにも「KALAKUTA SHOW」などがあるが、戦うアフロ・ビートの先駆者としてアメリカでもクティはよく知られている(彼の歌の歌詞は全部英語である!)。曲の前半部には物悲しいサックスの音が続くが、後半は支配されるものの屈辱を歌う何ともやるせない音楽である。

 

西洋の音楽に較べるべくもないが、音楽が人の魂を揺り動かすという点では、クティの音楽も人後に落ちないと思う。系統だってアフリカの音楽を聴いたわけではない。この分野に集中すればまた大きなものが掴めるようにも思うが、なにしろもう、少し年をとり過ぎてアフリカ音楽の詳細まではとても入ってゆけない。ほんの入門程度のかじり方であったが、醍醐味は感じたつもりでいる。

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バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ(グリューミオ vsクレーメル

バッハはオルガンやチェンバロなどの鍵盤楽器の奏者として名を馳せたが、ヴァイオリンなど弦楽器に関しても造詣が深かった。バッハの活動の中期であるケーテン時代(171723年)には、多くの器楽曲が作曲され、無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータもその秀作の一つである。この時代でいうソナタとは、音楽の様式の一つで、通常、緩・急・緩・急の四楽章から構成されるものを言う。また、パルティータはイタリア語では一連の変奏曲を意味するが、バッハの時代においてはいくつかの異なるリズムの舞曲が数曲~78曲が集められた組曲のことを言った。

 

      

 

一丁のヴァイオリンのために作曲されたこの曲集は演奏上の効果を極限まで追求したものとして、また、演奏の難度が極めて高いことでも知られる。ヴァイオリン音楽の最高峰との評価は不動である。この曲集は作曲当初には何回か演奏される機会はあったようであるが、マタイ受難曲と同様、時代とともに人々から忘れ去られた。楽譜として出版されたのはバッハの死後、50余年たってからのことであり、この曲集の真の価値が定着するまでには、それからさらに時を要した。

 

多くのヴァイオリニストがこの曲集を録音している。どの演奏家にとってもこの曲の演奏は、真剣勝負そのものという鬼気が迫っている。密度の高いこれらの曲は、襟を正して聴かなくてはならないが、次第に音楽に引きこまれてゆくと、自然と襟を正して聴いているようである。手元には多くのヴァイオリニストが演奏したものがあるが、ここではベルギー出身のアルトウール・グリューミオ(Philips)と、その対極にはラトヴィア出身のギドン・クレーメル(Philips)の演奏を取り上げたいクレーメルは私と同じ年で、私のほうが5日、お兄さんである

 

グリューミオは私が音楽を聴き始めた中学生の頃の1960年代にはすでに名声を得たオールラウンドのヴァイオリニストでその守備範囲はきわめて広い。演奏のスタイルはオーソドックスであり、彼の愛用した名器ストラディヴァリウスからの繊細な音色は定評である。昔はグリューミオについてはどちらかというとロマン派の音楽を多く聴いたが、バッハのこの曲集を聴き、ますますグリューミオへの親密感は増した。手元にあるのは、彼が全盛期の40歳前後の196061年に録音したものである。

 

一方、クレーメルは多彩で強烈なヴァイオリニストである。ヴァイオリンが必要とされるところではどんな場面でも、一流の劇的な表現で応える。映画、劇、絵画の付随音楽、現代音楽、民族音楽、タンゴ、、、分野はクラシックの演奏だけにとどまってはいない。映画「シャコンヌ」ではパリの地下の下水道で寡黙なヴァイオリニストを演じたし、現代音楽ではアルボ・ペルトの作品など新作の意欲的紹介活動があるし、タンゴで言えばピアソラの音楽を様々な形で取り上げている。

 

この無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータにおいては、如何にもクレーメルの演奏という感じの繊細でアクセントの明瞭なバッハを聴かせてくれる。この曲集のなかではパルティータ第2番の第5曲(終局)のシャコンヌが特に有名であり、ヴァイオリンオリジナルな曲ではあるが、鍵盤楽器(ピアノ、チェンバロなど)やチェロ、ギター、弦楽合奏、合唱など様々な編曲があり、いずれもそれぞれに味わい深いものがある。

 

4曲のジークが静かに終わると、先ずは深呼吸をして、第5曲のシャコンヌにそなえる。演奏の最初からクレーメルのそれには鬼気迫るものがあり、緊張感の持続がすごい。恐らく弓の糸を何本も擦り切っての熱演であることが眼に浮かんでくる。聴くほうにも相当の集中が要求されるだけに、クレーメルのこの曲集を聴くのはせいぜい年に一、二回で十分である(註:シャコンヌはもともとスペイン起源のダンス拍子であったが今はすたれている。普通は二拍目にアクセントがある4分の3拍子のゆるやかな曲である(音楽の友社、標準音楽辞典より))。

 

バッハ:無伴奏チェロ・ソナタ(フルニエ vsマ)

バッハの無伴奏チェロ・ソナタも、上記の無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータと同じ頃に作曲された6曲からなるソナタ集で、各々の作品は6曲の様々なテンポの舞曲で構成されている。この曲集もヴァイオリンの場合と同様、この無伴奏チェロ・ソナタ集はチェロのために書かれた作品の最高峰に位置し、多くのチェリストが渾身の集中力でこの曲集に挑戦している。

 

元々、バッハはどの作品の楽譜にも発想記号や速度記号等の記載はなく、音符が書き連ねられているだけである。従い、演奏者は自由にその演奏を解釈できることになり、演奏者の個性によりその演奏は色々と変化する。思い入れの多い粘っこい演奏もあれば、淡々とリズムを正確に刻むのもある。

 

この曲集は、舞曲だけあって様々な表情が内包されている。たとえばソナタ第1番の第1曲のプレリュードは分散和音を並べた単純なものであるが、その底流にあるメロディーは穏やかでこれから始まる物語の始まりを告げているようである。また、グノーの有名なアべ・マリアはこのプレリュードの音に乗せて作曲されている。曲集は第123番と最初の3曲は比較的演奏が容易に出来るように作曲されているが、第456番と、数を重ねるに従い演奏は難しくなり、弦の調律を変更するなど、本来、5本弦のために作曲された曲を4本弦のチェロで様々な演奏上の工夫をするなどの対応が必要とのことである。

 

聴き進めるとどの曲にも個性があり愛着を感じるが、第5番、6番のソナタになると音の幅も増えかつリズムの刻みも明瞭に聴こえる。いずれのソナタにも第5曲目にガボットIIIが登場するが、耳に親しんだ心地よい音楽である。バッハという才能が、300年前にこのような躍動する音楽を生み出したということ、また300年を経た今においても全く新鮮に我々の心に響くというのは何と素晴らしいことか。この出会いに感謝したい。繰り返すが、チェロ奏者にとってはこの曲集は渾身の集中力が要求される難曲である。

 

      

 

さて、幾人かの演奏で先ずこの曲集の聴きどころを吸収した後、さて、どの演奏家が自分にとって最も好みかを探索した。幾つかの迷いがあったものの、最終的にはフランス出身のチェロ奏者、ピエール・フルニエのそれを選んだ(ARCHIV1960年)。理由はテンポが安定していて、音が揺れることなく聴きやすかったとの事由による。

 

フルニエの略歴はこうだ。1906年生まれで最初はピアノを志すも、9歳のときに小児麻痺を発症し、右足が不自由となったため、チェロの練習を始める。1924年にデビュー後、演奏活動と大学での主席教授を務める。特に大きな曲の構成的な捉え方がしっかりとしている。フランス的エスプリ感にあわせてきめの細かい上質な音楽を特徴とする。

 

フルニエは信念の人である。以下、「丸山眞男集」第6巻、143ページからの引用である。 

 『昔から私は一つの信条を守り続けています。それはどんな時でも事態に直面するということ。ドイツ占領軍が占領中私はずっとパリに留まってパリの民衆とともにすべてを受けすべてに耐えました。ある人々のごとく非占領地区に行って「華々しいレジスタンス」をやっておいて、さて占領が終ると凱旋将軍のように威張って帰ってくることもしませんでした。家財を売りながらパリに留まって勉強したあの日々を、私は今、誇りを持って思い出すことが出来るのです。』

 

ナチスと音楽家の関係は、亡命したもの、国に残り積極協力したもの、亡命せずとも可能な限り非協力を貫いたもの、、、様々な対応があり、それぞれに評価は分かれるところである。ここではその是非は問わないが、フルニエはフランス人であり、苦しい中でパリに留まり非協力の姿勢を貫いた一本筋の通った人物である。彼の演奏はフランス作品よりも、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスなどドイツ音楽の演奏で高く評価されている。コスモポリタンな巨人というべきであろう。このような彼の生き方を知るに従い、益々、テンポの安定した演奏に安心感を覚える。

 

次に、ヨーヨー・マである。1955年、中国人の両親の下でパリに生まれ、7歳のときにアメリカに移住。ジュリアード音楽院でチェロを学び、後にハーバード大学を1976年に卒業。音楽界にデビューの後は、アメリカ、ヨーロッパの主要オーケストラ、名だたる指揮者と協演し、着実な成功を収める。また、チェロ以外のために作曲された多くの曲をチェロ用に自ら編曲し、チェロの新しい可能性の開拓に大きく貢献している。また、クラシック音楽だけでなく、様々な民族音楽や、タンゴ、ジャズなどの分野にも積極的に参加している。

 

彼は私の知るところではSonyレーべルから1982年(27歳)と199497年(3943歳)と2回、バッハの無伴奏チェロ・ソナタ全曲を録音している。27歳の時の演奏は比較的淡々ときびきびした演奏であり、溌剌としたヤングスター登場という雰囲気で聴いた。一方、40歳前後の録音では全曲録音に4年をかけており、全体として流れるようなという印象からは遠い。また、曲に対する思い入れからか、音の強弱、演奏の速度が自在に変化する。

 

ちょうどフルニエの演奏とは真逆である。演奏時間も40歳のときのほうが、全体で7分ほど長くなっている。6曲全体で130分程度の演奏時間だから、この約7分という時間は曲の印象を随分と変えることは確かである。時として思い入れを込めてヨーヨー・マの新しい録音も聴くのもいいと思うが、私は若い時の演奏を選びたい。

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モーツァルト:ピアノ・ソナタ全集(内田光子 vsグールド vs ピリス)

モーツァルトが天才であることに異論はないが、若い時の私はモーツァルト音楽のコロコロと転がる玉のような音にはさほどの感激を覚えなかった。一言で言えば、どれもこれも似たようなものばかり、、、という感触を持った。ただ、その中でもポピュラーなK331のトルコ行進曲付きの第11番のピアノ・ソナタ・イ長調は特別であったが。

 

さて、モーツァルトのピアノ・ソナタについては、当時、内田光子の演奏(Philips)が、モーツァルト音楽のオーソドックスな演奏として、ヨーロッパの音楽界で評価され高い評判を得ていた。迷わずに彼女の演奏する全集を購入し、モーツァルトの流麗な世界に浸った。確かに大方の批評家が推薦するように、ぶれることなく中庸をいく安定した演奏である。多少の硬さがあるように思えるが、それはドイツ的演奏と言おうか、彼女が真摯に音楽に取り組む姿勢と解釈した。

 

次に、カナダの誇る鬼才、グレン・グールド(Glenn Gould)のモーツァルト(Sony)を購入し聴き比べた。人々がこの演奏をどのように受け止めるかは別として、最初、彼の独特の(殆ど気をてらったと思えるような)演奏テンポの極端な振付け方には正直、びっくりした。彼が早く演奏しようと意図したところは疾風以上の速さで駆け抜けるし、これではトルコ行進曲もさぞかし早いだろうと思いきや、意外にもまるでその演奏は葬送行進曲並みのスロー演奏である。最初はこれらの意外な演奏に多少の反感を覚えたが、何回か聴き進めるに従って、それらが「有りうべし」と順当なものとして耳が慣れてくる不思議を体験した。

 

話はそれるが、1954年にグールドはバッハのゴールドベルグ変奏曲を前代未聞の高速で演奏し、衝撃のデビューをした。高速とはいってもその演奏は完璧な技巧に裏づけされている。(ちなみに1955年に彼は、二回目のゴールドベルクの録音を残しているが、これは1954年のデビュー盤よりさらに早い疾風怒濤の超高速演奏である。バッハがこれを認めるであろうか?今風の言葉で言えば超小気味の良い演奏である。その後、この演奏スタイルを目指すピアニストにはお目にかからぬが、、、)内田とグールドの両者の聴き比べは、音楽の持つ演奏上の自由度を見る上で貴重な体験であった。

 

モーツァルトのピアノ・ソナタの名演奏については、古くはリリー・クラウス、イングリッド・ヘブラーなどの女性ピアニストが有名である。現在も活躍する女性ピアニストとして特筆すべきは、ポルトガル出身の女性ピアニスト、マリア・ジョア・ピリス(Maria Joao Pires)である。彼女は多くの一流の演奏家がそうであったように、幼少の頃から天才の名をほしいままにしている。彼女の演奏はどこにも無理がなく、実にスムーズ。時として鍵盤の上を蝶が軽く舞っているように音楽が奏でられる。

 

彼女のモーツァルトが流麗という点で、右に並ぶものはないであろう。内田の演奏もピリスの演奏もどちらもオーソドックスであるが、全く異なる。内田は少し重たく聴こえるのに対し、ピリスのそれには重量感がない。ピリスはこれまでに二回、モーツァルトのピアノ・ソナタの全曲を録音しているが、最初の全曲録音は1974年、彼女が30歳の時に東京のイイノホールで行っている。彼女の若さとモーツァルト音楽の見事なマッチを聴取できる出色の出来であり、今は、ピリスのこの演奏を一番に推す。


      

 

モーツァルトのピアノ曲に関して思うことはただ一つ。音の流れに無理がなく自然であること。力技は馴染まない。「澄んだ心」での演奏を「是」としたい。幸いなことにこのような演奏は多くはないが存在する。

 

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全集(バックハウス vsグルダ)

19世紀、最も偉大といわれるドイツの指揮者でピアニストのハンス・フォン・ビューロR.ワーグナーの妻コジマの前夫である)は、「バッハの平均律クラヴィア曲集第1巻、第2巻はピアノの旧約聖書であり、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ(全32曲)は新約聖書である」と述べた。確かに、両者がともにとてつもない巨大な構築物という意味では正にそうであるし、これらの曲の中にドイツ音楽の精髄が凝縮されているといってもいい。

 

ベートーヴェンのピアノ・ソナタには「悲愴」、「月光」、「田園」、「テンペスト」、「ヴァルトシュタイン」、「熱情」、「告別」などと、副題が付けられたものもあり、それぞれに親しみやすく、それらの曲を耳にする機会は平均律曲集に較べると多い。私の場合、ベートーヴェンをまとめて聴くようになったのは、ウィルヘルム・バックハウス(Wilhelm Backhaus)の全集を入手してからのことであり、それは50歳をすこし過ぎてからと、随分と遅い出会いであった(のちに、対照としてフリードリッヒ・グルダ(Friedrich Gulda)のピアノ・ソナタ全集も入手した)。

 

もちろん、ベートーヴェンのピアノ・ソナタが高い評価の作品であることは百も承知していたが、なにせ巨大な作品群のため、時間の確保と集中の持続に自信がもてず、迂闊に近づくのを恐れていた。ということで、ベートーヴェンを聴く前に、平均律1、2巻はかなり先行して聴き込んだし、また、モーツァルト、シューベルトなどのピアノ曲にもそれなりに親しんだ時期があった。

 

ベートーヴェンは生涯にわたって全32曲のピアノ・ソナタを作曲しているが、作品番号から見る限り、その半分以上(第1番~第20番)は比較的、年齢の若い30歳をすこし過ぎる頃までに作曲している。そのせいか、初期のピアノ・ソナタの作品には、弦楽四重奏曲の場合でもそうであったし、交響曲の初期の作品もそうであるように、作品に若さが感じられ、時としてハイドンや若い頃のモーツァルト音楽と同様に聴こえる場合がある。とはいえ、初期の作品の中には「悲愴」ソナタや「月光」ソナタなど、研ぎ澄まされた霊感によって作曲された秀逸の名曲もあり、一方的に「初期作品=習作」というような見方で決め付けはいけない。

 

しかし、作品番号53番の第21番の「ワルトシュタイン」ソナタ(ハ長調)(34歳頃に作曲)あたりから曲想はがらりと変わり、ベートーヴェン中期の傑作の森、疾風怒涛の時代に突入する。音楽がそれ自体で「意志」を持ち始める。そして35歳で第23番のあの「熱情」ソナタ(ヘ短調)を作曲する。これ以降、ピアノ・ソナタの作曲は間歇的になってゆく。最後となったハ短調の第32番のソナタは後期のベートーヴェンの生活を全面的に支援したルドルフ大公に献呈されている。52歳、死の5年前の作曲である。このソナタは全2楽章からなる。

 

その、第1楽章は”Maestoso-allegro con brio ed appassionato(荘厳を持って早く、そして情熱的に)”と書かれ、これまでのベートーヴェンの創作活動の総決算という勢いであるかのごとく力強く挑みかけるような曲想である。

 

最終となる第2楽章の発想表記は、”Arietta, adagio molto semplice e cantabile(そよ風のように、ゆっくりと自然にそして歌うように)”であり、聴き方によっては葬送曲のようにも聴こえる主題である。主題提示に続き、得意の主題変奏が展開される変奏曲形式で作曲されている。第1楽章が「闘争」を象徴するなら、第2楽章はそれと対比されるべく「平和、しかも己の心の安静」を暗示するような曲想である。

 

これがベートーヴェンの辿り着いた境地と思って聴くと感銘深い。ベートーヴェンのピアノ・ソナタをわずかな紙面で記述すること自体、およそ無謀な試みであり、明らかに自分の能力を越える。ここらで中断したい。、、あとは、、、音楽に戻ればいい。

 

     

 

最後に、ウィルヘルム・バックハウスとフリードリヒ・グルダという正に対照的な二人のピアニストについてメモを残しておきたい。バックハウスは1884年、ライプチッヒに生まれた誰もがドイツ正統派と認めるピアニストである。1900年にはデビューを果たし、兵役に服した時を除いて、殆どその生涯を演奏活動に専念した。第二次大戦後にスイスに国籍を移籍している。彼の演奏は、ベートーヴェン、モーツァルト、ブラームスなどドイツ作曲家の演奏を得意とし、その特徴は「強靭なはがねのようなピアノタッチの演奏のなかに見せる繊細さ」といわれ、聴き手にピアノ演奏の快感を与えるという点で他のピアニストの追従を許さないといわれる。

 

手元にある全集(London盤)は195269年にかけて録音されたものである。中には音源が古くてやや不鮮明に聴こえるところもあるが、全般を通して、この全集はベートーヴェン・ピアノ音楽のオーセンティックとして歴史に残るものであることは間違いない。最後に、バックハウスがよく引用したという言葉を三つ記す。

 

”まじめな仕事は、真の喜びを与える。”ーーーセネカ

”人間の尊厳は、君たちの手にゆだねられている。それを守りたまえ。”ーーーシルラー

”芸術家よ、創造したまえ、語るなかれ。”ーーーゲーテ

Res severa verum gaudium.”---Seneca

Der Menschheit Wurde ist in eure Hand gegeben. Bewahret sie.”ーーー Schiller

Bilde, Kunstler, rede nichit.”---Goethe

引用される言葉そのものが、正にドイツ正統派を彷彿とさせる。

 

次に、1930年、ウィーン生まれのグルダについて記す。若いときから天与の才を発揮し、1944年、14歳で音楽界にデビューし、一躍その名は世間に知られるに至った。大戦直後の1946年、ジュネーブでの国際ピアノコンクールで第1位を獲得し、同年、ニューヨークのカーネギー・ホールのリサイタルを果たしている。バッハから現代作曲家まで、あらゆるピアノ音楽をジャンルにするが、時として彼の演奏はクール(気持ちが伝わってこない)と批評されることがある。

 

しかし、彼本人は、「そのクールさはその曲について繰り返し繰り返し自問自答をしているときの、深い内省考察から出てくるものである」と語っている。グルダにとってバッハの平均律とベートーヴェンのソナタは、生涯にわたっての特別の存在であり、心からの敬意を持って真摯に演奏に向かつているという。また、グルダはベートーヴェンのソナタのカデンツァ部分で、しばしば即興の変奏を行い、これがまたファンの間では人気を博している。

 

グルダはジャズ世界においても積極的に活動し、演奏家としてだけでなく、クラシック音楽の殿堂の地ウィーンにおいて、ジャズ・アンサンブルのプレイング・マネジャー的な仕事も請けおい、定期的に演奏活動をしている。そのコンサートはDVDで見る限り、クラシック音楽とグルダ・ジャズが融合した見事な舞台であり、楽しい時間を提供してくれる。しかし、最も楽しんでいるのはグルダご本人であることは間違いない。作曲活動にも積極的で、彼が作曲した「Grove」という曲は、ジャズ+クラシック+ウィーンの街の音楽をシャッフルしたような変化に富む愉快な音楽である。

 

グルダはいわゆる型にはまったスタイルを好まず、演奏会においても、しばしば舞台上にジーパン姿や、ラフなT-シャツ姿で登場する。根っからの「自由人」とも見えるが、人によっては「アウトサイダー」、「世界一の変わり者」と揶揄する人もいる。その中でも、世間をとっても騒がせたとびきりの話がある:

 

1999年、グルダは信じられないような話だが、突然に自ら「グルダは死んだ」とアナウンスし、数日間、実際に世間から完全に身を隠した。そして、彼の葬儀で皆が悲しんでいるその時に、葬儀会場に姿を現し、式に参列した人々と共にしめやかに「復活パーティ」を催したということである。

 

グルダは世間を「アッ!!」と言わせてはそれを喜ぶ、お騒がせで無邪気なオジサン(晩年はオジイサン)であった。しかし、その彼も翌年の2000127日には復活することなく、今度は本当にあの世に旅立ってしまった。享年、70歳。127日といえば、奇しくもウィーンで活躍したモーツァルトが244年前にザルツブルグで誕生した正にその日である。アーメン。

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ショパン:作品集(ルービンシュタイン)

ショパン(Fryderyk Franciszek Chopin)の音楽は女性的で優しいとよく言われる。確かに、情感に溢れた詩的な感情は何ものにも替えがたい。鑑賞者として、ショパンの音楽にどのように向きあうかというのは楽しいようで、結構、難しい。というのは、たとえば、ベートーヴェンのピアノ曲に対して、その対極にショパンのそれを置き、比べながら両者を聴くとお互いの良さが明瞭になると思う。しかし、ショパン音楽を絶対視し、”Chopin as No.1” という態度でショパンだけを聴き続けるというのは私の場合、考えられない。常に、他の音楽があってショパンのピアノがあるというのが、私のショパンの聴き方である。

 

大学生になった時に、親戚の叔父からマズルカ、夜想曲などショパンの曲を演奏したハンガリーのピアニスト、ジェルギー・シェベックのLPをプレゼントされ、しばらくはそのLPでショパンを楽しんだ。初めて聴くマズルカはちょっと難解に思えたし、すぐには好きになれなかった。

 

ショパンの音楽をじっくりと聴くようになったのは、結局これまた50歳を少し過ぎてからである。ショパン音楽に対する受け止め方が変わった。随分昔ではあるが、1965年、アルゼンチン出身の若き女性ピアニスト、マルタ・アルゲリッチ(Martha Argerich)がショパン国際ピアノコンクールで、演奏第一位、聴衆賞第一位、マズルカ演奏第一位の三部門独占の優勝を勝ち取り、綺羅星のごときデビューを果たした。当時、日本でもこの快挙はセンセーショナルなニュースになった。

 

デビューの1965年、ロンドンのスタジオ(アビーロード)で録音したショパン曲集(ソナタ、マズルカ、ノクターン、他)の演奏をしっかりと聴いたのは彼女のデビュー30年後である。遅い出会いであるが、確かな技巧に支えられ奔放に弾きまくるパワフルで男勝りの姿勢は、当時の聴衆を熱狂させたというのは良くわかる。

 

            

 

さて、ショパンを語るときに最も端正でオーセンティックな演奏をするのは、私の印象では圧倒的にショパンと同郷のポーランド出身で後にアメリカに帰化したアルトゥール・ルービンシュタイン(Artur Rubinstein)である。ルービンシュタインはオールラウンドなピアニストであるが、何故かショパンの演奏が高く評価されているし、私も彼のショパンは好きだ。

 

ショパンの曲は、もともと劇的効果を狙ったものが多く、その分、リズムを一定間隔に保つのが難しい。ルービンシュタインの演奏はリズムが大きく揺れることなく、華美に走り過ぎることもなく、安心して聴いていられる。今や、若いショパン弾きが多数ピアノ界にデビューし完璧で華美な技巧を競っているが、私は恐らくこれからも1886年生まれのこのピアニストの演奏を大事に聴き続ける。

 

ショパンはポーランド生まれであるがフランス人との混血児であり、40年の生涯の後半生はパリで過ごした。ピアノの演奏にかけては達人であったと言われ、多くの名曲はピアノの鍵盤から生み出された。彼の作品の中には、切なく故郷に思いを馳せるものもあれば、フランスの貴族界の貴公子然とした作品もあり、音楽からは彼の心の帰属意識がどこにあったのかもうひとつ判然としない。

 

しかし、一方、ショパンはピアノ協奏曲、ソナタ、プレリュード、エチュード、ノクターン、スケルツォ、ワルツ、ポロネーズ、マズルカなどそれぞれで超一級のピアノ曲を書いている。彼以降、ショパンの情感に並ぶような、またはそれを超えるようなショパン様(よう)の音楽を聴かないところを見ると、ショパンは彼の時代で殆どのショパン的情感を汲み尽くしてしまったのではないか。彼は他の追従を許さない天才であったのであろう。

 

ハイドン:ピアノ・ソナタ全集(ヤンドー)

ハイドン(Franz Joseph Haydn)はモーツァルトより約25歳年上であるが、活動の最盛期には猛烈な勢いで極めて多くの作曲を行っている。日本では、ハイドンの作品はモーツァルトやその後のベートーヴェンのそれに比べ、もう一つ印象が薄い傾向がある。ハイドンは交響曲を108曲、チェンバロのための協奏曲11曲、ディヴェルティメント46曲、弦楽四重奏曲82曲、その他三重奏曲など多数、オラトリオ・ミサ曲・教会カンタータなど多数の宗教曲を作曲している。

 

弦楽四重奏曲や交響曲などの器楽曲の形式を確立したことでの評価が高い。ピアノ・ソナタに関しては正確な数は分からないが、少なくとも60曲以上は作曲している。その生涯について、特に幼少の時期はなぞも多く、まだこれからの文献調査等に待つところが多いと言われる。

 

さて、ピアノ・ソナタであるが、バッハの平均律クラヴィア曲集やモーツァルト、ベートーヴェンの傑作とされるピアノ・ソナタ集に比べると、日本ではコンサートやラジオ放送などで聴くチャンスは殆どない。私自身、ハイドンの作品については、交響曲も弦楽四重奏曲にも接した回数は少なく、いまだにその興味のレべルは低いといわざるを得ない。ハイドンを一度、纏とめて聴いておきたい。恐らくその中にはモーツァルトとは別の素朴なウィーンが薫る音楽、貴族趣味の音楽(言葉は悪いが)が体験できるのではないかと期待した。 

 

もう一つは、アメリカに留学していた時のM教授が後日、来日された折、彼の「ハイドンのピアノ作品の中にはなかなかいいものが多いが、哀しいかなモーツァルトに較べると、やはり地味だね。」という言葉が心に残った。CDリストを見ても、ベートーヴェンやモーツァルトのピアノ・ソナタ全集は多くのピアニスト、レコード会社が競って企画をし、ビジネス的にも多くの成功を収めている。が、ハイドンのそれは、商品はなくはないがその数は明らかにベートーヴェンやモーツァルトのそれに較べると1/10以下である。

 

しかし、全集だとベートーヴェンはCD10枚程度、モーツァルトは45枚、ハイドンはやはり10枚程度とかなりボリュームのある商品になる。同じ商品企画をする場合、売れる人気商品として、どうしてもベートーヴェンやモーツァルトに傾くのは理解できなくはない(芸術を金銭勘定して不遜であるが)

 

           

 

ドイツで1987年に創設されたNAXOSという新しいレーべルがある。若手の演奏家や東欧の演奏家を積極的に登用し、あまりメジャーでない作曲家の作品の紹介にも力を入れるという独自の活動をしている。また、CD価格も手ごろで、派手な装飾は避け、楽曲解説や演奏者紹介なども必要最小限にとどめている。録音の音質は優れており、私はこのレーべルの動きには常に注目してきている。

 

ハンガリー生まれのイエネ・ヤンドー(Jeno Jando)というピアニストがいる。彼は、ベートーヴェンやモーツァルトのピアノ・ソナタやピアノ協奏曲、バッハの平均律クラヴィア曲集などのピアノ大曲の演奏でNAXOSのレーべルで登場する。ヤンドーはこれまでメジャーのレーべルでピアノ小品の演奏で時々、耳にする名前ではあったが、NAXOSで積極採用されるようになってから、急に親しみのあるピアニストになった。

 

私はハイドンの前に、ヤンドーのモーツァルトのピアノ協奏曲の全集(CD10枚)を購入し、そのバランスのいい確かな演奏を気に入っている。そのヤンドーがハイドンのピアノ・ソナタの全曲録音を開始したとのニュースを聞き、最初はまだCD2枚からの発売であったが、いずれ全部揃えば全集だと思い、約3年がかりで計10枚をそろえた。新しいアルバムが発売されるとその都度それらを求め、初めてのハイドンのピアノ・ソナタを聴いた。

 

ハイドンが盛んにピアノ・ソナタの創作を行った時期は、ちょうどそれまで主流であったチェンバロやクラヴィコードが、より大きな音の出るハンマーで打弦するフォルテ・ピアノに取って替わる時代であった。従い、様々な演奏技術の開拓と相俟って、もっぱら小パーティ用であった鍵盤楽器が、より広い会場で多くの聴衆を前に演奏が出来る楽器に変質していった。

 

ハイドンのピアノ・ソナタからは、音は明瞭で、リズムも変化に富み、表現に無駄がないという印象を受ける。他の作品と比較することなく、彼のソナタを聴く場合には、十分にその軽快さを楽しむことが出来る。ただ、哀しいかな、あともう一つの特徴、すなわち一層きらびやかな輝きとか、ドラマチックで劇的な表現のインパクトに物足りなさがある。また、ロマン性について言えば、シューベルトの音楽と較べると質を異にし、甘美なメロディーや音色はあまり出てこない。メカニカル重視の音楽のように聴こえる。

 

しかし、これが彼を取りまく時代の音楽雰囲気なのであろう。その頃のオーストリアやドイツで、彼が貴族たちに大いに受け入れられた人気音楽家であったというのはよく分かる。ベートーヴェンやモーツァルトが彼ら独自の個性豊かな音楽を花咲かせる前の習作時代の音楽が、ハイドンのそれに似ているような気がしてならない。あまり勝手なことを書き綴ると、ハイドンの亡霊から叱責を受けるかも知れないが。ヤンドーは思い入れた大げさな演奏ではなく、淡々とハイドンのあるべき音楽を忠実に再現している。

 

私は安心してこれらの曲集を時々思い出しては聴くようにしている。ひとつひとつの楽章が小さく、一曲のソナタの演奏時間はおおむね10分程度のものが多いというのも気軽に聴ける要素である。(小さいピアノ曲といえば、ハイドンより一時代前のイタリアの作曲家のスカルラッテイがいる。その数々の快活な鍵盤音楽は印象深い。ハイドンとはまた違うカラフルでリズミックな世界を聴かせてくれる。)

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オペラ世界:フィガロの結婚、トゥーランドット、ラ・ボエーム

ここから先、これまで書いて来なかったオペラについて記す。本格的にオペラの世界に身が入ったのは、DVDをテレビの画面に接続し、オペラを音響+映像の両方で楽しむ習慣を持つようになった55歳以降からである。ここに記すのは、CD中心のまだ40歳代後半~50歳頃にかけての経験である。

 

オペラの世界は巨大である。実際にその舞台を直接に体験しないと真の価値はわからないとよく言われる。オペラは芝居、歌、踊り、音楽、衣装、舞台装置などすべてが動員された超大型の総合芸術であり、その享受には、研ぎ澄まされた嗅覚が必要とされる。

 

我々、普通の日本人には先ず、ドイツ語、イタリア語、フランス語等々の現地語で展開される物語の理解に相当の集中力とエネルギーを要する。また、歌唱で多彩に繰り広げられる機微に溢れたやり取りを真に理解するのはほぼ不可能であろう。オペラ鑑賞にはこのような問題意識があったので、私の場合、安易にオペラに入門するのに幾ばくかのためらいがあった。

 

とはいえ、時々、耳にするアリアの名唱には素晴らしいものがある。それがオペラ・ストーリーの全体のどのような場面で歌われるのかを知らないながらも、アリアの名演を集めたアルバムを、男声用、女声用のものを種々に取り揃え、楽しんだ。しかし、つまみ食いでは次第に物足らなくなり、一度、オペラ全曲を通して聴いてみたいという気に自然となって来た。

 

フィガロの結婚

知ったアリアがいくつかあるということで、最初に選んだのはモーツァルトの「フィガロの結婚」である。名画「アマデウス」の中には、「フィガロ」を作曲中のモーツァルトが、「今、素晴らしいメロディーが体中から沸き起こってくる、、」、「6人のソリストが次から次に加わり、壮大な重唱が、、」などと、熱っぽく語るシーンがある。

 

              

   

当時(そして今も)、世紀の名盤と評判の高かったベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団・合唱団、カール・ベーム指揮のグラモフォン盤CDを入手した(1968年録音)。ソリストには、アルマヴィーラ伯爵にディートリヒ・フィッシャー‐ディスカウ、伯爵夫人にグンドラ・ヤノビッツ、スザンナにエデイット・マチス、フィガロにヘルマン・プライ、それにケルビーノにタティアナ・トロヤノスと垂涎の独唱者たちである。

 

CDで音楽を聴くだけではなかなか全体のストーリーは掴めない。わからないなりに楽しむすべを知ったのは勿怪の幸いであったが、理解の底が浅いことは承知の上である。

 

月並みではあるが、愛好の歌(曲)は次のとおり:

第一幕:序曲、二重唱「5・・・、10・・・、20・・」、小二重唱「奥様、どうぞお先へ」、アリア「自分で自分がわからない」、アリア「もはや飛ぶまいぞ、この蝶々」、などなど

第二幕:カヴァティーナ「愛の神よ、照覧あれ」、カンツォーナ「恋とはどんなものかしら」、三重唱「スザンナ、早く来ておくれ」、フィナーレ「私どもの正しいお殿様」、などなど

第三幕:六重唱「おかあさんをよく見ておくれ」、二重唱「そよ風に」、フィナーレ「やあ、花嫁の行列だ」

第四幕:カヴァティーナ「なくしてしまった」、フィナーレ「そっと近づいて」「みんな来い」、など

 

これだけ多くの名唱が次から次へと連続して出てくるのは、流石にモーツァルトである。しかも、流暢に流れる展開の中に、しっとりとした味わいがある。力限りの声量で歌いきるのではなく、会話の延長の流れの中に自然と歌が挿入される。しかし、決して軽くはない。気に入ってこのCDを何度も繰り返し聴いた。それぞれの曲の正確な意味を理解せずとも(理解する前に)、感覚的に、この次にはあの曲が出てくる、その次はあのメロディー、、、と実に変則的な接触で、フィガロの音楽の流れが頭に残った。

 

全体のストーリーを掴んだのは、それからずっと後、日本語字幕付きのDVD画像を見てからである。その時になって初めて、「この曲はそういう意味だったのか!」、「彼らは仲良しではなく、実は恋仇か!」などなど、いくつも目から鱗のお粗末な話である。

 

トゥーランドット

次に、ジャコモ・プッチーニ(Giacomo Puccini)の「トゥーランドット」を選んだ。ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のウィーン・フィルの演奏による(1981年、グラモフォン製)。ソリストは、トゥーランドットにカーティア・リッチャレッリ、カラフにプラシド・ドミンゴ、リューにバーバラ・ヘンドリックス、また三人の官吏のうちの一人であるパン役にハインツ・ツェドニック(彼はのちに、ワーグナーの「ニーベルンゲンの指環」で憐れみに満ちた無邪気なミーメ役を好演する。それで、すっかり彼のファンになってしまった。独特の声の持ち主のテナー)らが揃う。

 

中国が舞台。トゥーランドット姫の固く閉ざされた心にカラフが挑み、様々な苦難のすえ、姫の心を開き、やがて妃として姫を娶り、国を治めるというありがちな一種のラブ・ストーリーである。舞台が中国という想定であるため、オリエンタルな香り、メロディーが濃く、他のオペラに較べると異質な異国情緒が漂う。

 

(ご存知のとおり、プッチーニは長崎をベースにした「蝶々夫人」を作曲している。私の印象では、その時代の日本人の心情と日本の情景(アメリカ艦隊が出島に出入りするという設定だから、恐らく19世紀初頭の頃)が上手く表現されているようには思えず、もう一つこのオペラは好きになれない。)

 

劇中のトゥーランドット姫は威圧的で力を誇示する役柄で相当の歌唱力を必要とする。誰もが演じられるという簡単な役柄ではない。一方、リューは奴隷の女で盲目で不遇なカラフの父親を懸命に看護するけなげな役柄である。誰もが彼女に同情する。その彼女に対して、プッチーニは、実に魅力的で可憐な歌を三曲書いている(「ご主人様、お聞きください(Signore, ascolta!)」、「ご主人様、決して申しません(Signor, non parlero!)」、「氷に包まれたあなた様も(Tu, che di gel sei cinta)」)。

 

もちろん、トゥーランドット姫がこのオペラのヒロインであることに相違ないが、見方によっては、このオペラはリューの歌と演技にかかつていると言ってもいいくらい、準主役の彼女の役柄はオペラの出来を左右するといっても過言ではない、難しいが得なポジションである。

 

       

 

一方、トゥーランドット姫を苦難の末に獲得する役のカラフは、高貴な身分の出身であり純粋で一途な男として描かれる。この役柄にも相当の歌唱力が要求される。何と言ってもこの役柄の最大の見せ場は、第三幕で歌われる「何人も眠ってはならぬ!(Nessun dorma!)」である。これは誰もが知るカンツォーネ風の有名な旋律であり、このオペラの最大の聴かせどころである。しかし、このアリアは短く、余韻を持たせぬまま、すぐに狼狽する北京の人々のシーンに進む。もう少しじっくりとこの場面を余韻をもって鑑賞したいなあという気持ちにいつもなる。

 

オペラ「トゥーランドット」=「何人も眠ってはならぬ!」という位、この曲はポピュラーであるが、実は、私もこのオペラを聴く前はこの曲の事しか知らなかった。しかし、この曲以外にも叙情豊かな曲はいっぱいあるし、中国官吏のピン・ポン・パンの哀愁の中のコミカルなやり取りも捨てがたい。ということで、「トゥーランドット」の豪華絢爛たる舞台を見ることなく、音楽のみでこのオペラは随分と楽しんだ。

 

のちにDVDで、「トゥーランドット」の定番といわれるメトロポリタンの舞台を見るが、そのスケールはやはり想像を遥かに超えるものであった(ジェームス・レヴァイン指揮、フランコ・ゼッフィレッリ演出、メトロポリタン・オペラ・オーケストラ、ソリストにエバ・マルトン、プラシド・ドミンゴ、レオーナ・ミッチェル、など。1987年、グラモフォン盤)。「百聞は一見に如かず」とはオペラ世界のことを言うのであろう。絶品である。

 

さらに、1998年にズビン・メータが総指揮を担当し、中国の紫禁城で超豪華な「トゥーランドット」のライブ・オペラを上演した。そのDVDが市販されている。演出は中国随一の映画監督チャン・イーモウが担当し(のちに、彼は北京オリンピックの開会式を総監督・総指揮したことでも知られる)、兵士役には中国人民軍の若き兵士が特訓を受け一糸乱れぬ完璧な演技者として登場する(小学館、オペラ全集)。

 

(余談:201112月に北京市を初めて訪問した。故宮博物院の高台からこの舞台を探したが、宮中の東エリアにある奉先殿(鐘表館)が私の脳裏の記憶にあったものと符合した。カラヤンはこの故宮博物院での「トゥーランドット」のライブ上演を生涯、熱望していたが見果てぬ夢に終ったそうだ。)

 

DVDでは、歌の出来はMET版、舞台装置と演出は紫禁城版を推したい。

 

今のヨーロッパでは極端に抽象化を目論んだり、現代社会をバックにデフォルメされた様々な「トゥーランドット」の試みがある。大体において奇妙奇天烈なものが多く、原作の意図から逸脱しているのでは、、、と思われるものも多い。こういう演出が今のヨーロッパでは覇を競っている。演出主導のオペラ世界には納得のいかないものが多い。「何事においてもやりすぎは良くない」というのが私の持論である。このオペラの上演時間は2時間少々と比較的短い。しかし、その凝縮された密度は「熱い」と形容していいだろう。

 

ラ・ボエーム

同じくプッチーニのオペラ作品である。この作品は、一旗あげようと野望を持ってボヘミヤからパリにやってきた4人組(詩人、画家、哲学者、音楽家)が、極貧の中で悪戦苦闘の共同生活を送るが、そんな中にあって若者らしい青春の歌が謳歌される。しかし、最後にはミミが皆に見守られながら衰弱して息を引き取るという哀しいストーリーである。登場人物、すべてが善意の人という設定もこの作品を心温まるものにしている。

      

 

「トゥーランドット」と同じく、音楽密度が高く、演奏時間は2時間を切る4幕もののオペラである。私はこのオペラを「コンパクト、ベスト作品!!」とし、新幹線で東京出張の帰路に、ウォークマンでよく鑑賞したものだ。最初から最後まで音楽が連続して、緊張感をもって鑑賞することが出来る。演奏時間も車中鑑賞にピッタリである。

 

さて、そもそも「ラ・ボエーム」に惹かれたのは、お察しのとおり、ソプラノ・ミミが歌う有名なアリア「はい。みなはわたしをミミと呼びます(わたしの名はミミ)(Si, Mi chiamano Mimi)」に尽きる。いったい、この可愛い素敵な歌はどのような場面で歌われるのかを知りたいという興味からである。

 

第一幕の中ほど、仲間がクリスマス祝祭で夜の街に繰り出したあとの寒い部屋にひとり残り、新聞の社説執筆をするロドルフォのいる安下宿に、階段の途中で消えてしまったローソクの灯をもらうべく隣家に住むミミがドアをそっとノックする。

 

 ”Scusi (ごめんください)” 

 ”Di grazia, mi s'e spento il lume (すみませんが、明かりが消えてしまったので)”

 ”Vorrebbe...? (お願いできますかしら...?)” 

と小さい声の呼びかけでミミは登場する。その出会いの瞬間がたまらない。

 

このあと、ロドルフォは詩人であることを自己紹介し、次いでミミが自分の生い立ちを語る。「わたしの名はミミ」である。ミミは自分のこれまでの生涯には特に語るべきことはなく、お針子で生計を立てていること、ミサには行かないけれど、いつも神様にお祈りしていること、、、を美しい旋律に載せて歌う。続いて、春を待ち望む彼女の心情を吐露するように高揚して「、、、でも雪がとける時が来ると、最初の太陽はわたしのものなのです。四月の最初の接吻がわたしのものなのよ!最初の太陽がわたしのものなのです!、、、」(中村美紀・訳)を歌う。

 

慎ましやかな生活の中で、ささやかな歓びを享受する幸福を表現するミミの存在は哀しくも美しい。台本がいいからこのような歌が出来るのか、それともプッチーニの才がこのような曲を生むのか?

 

最初に入手したCDはトゥリオ・セラフィン指揮、ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団によるもので1959年に録音された(ロンドン盤)。ソリストはミミにレナータ・テバルディ、ロドルフォにカルロ・ベルゴンツィ、マルチェルロ(画家)にエットーレ・バスティアニーニ、ムゼッタにジャンナ・ダンジェロ、という布陣である。このオペラも何回も繰り返し、全曲が記憶に残った。極上の作品である。

(♪: ▶ プッチーニ 《ラ・ボエーム》 「わたしの名はミミ」 マリア・カラス - YouTube

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バトル、デセイ

キャスリーン・バトルはアメリカ・デトロイト生まれ、ナタリー・デセイはフランス・リヨン生まれ。いずれも超美声の持ち主であり、相当に個性的なソプラノ歌手である。二人の持ち味は対極にあるが、一世を風靡した。ご両人を同じ項目に横並びで記述するのはどうか?これを知ったら、どちらも ”Why am I arranged at the same chapter with her? Upset!” と金切り声を上げるに違いない。

 

ほかに多くの優れたソプラノ歌手がいるなかで、なぜこの二人か? たしかに、この二人を選ぶには躊躇がある。エバ・マルトン、キリ・テ・カナワ、ブリジット・ニルソン、ジェシー・ノーマン、、、など他の優れた(女性)歌手についてはその箇所で、時々に記述することにする。

 

バトル

キャスリーン・バトル(Kathleen Battle)から記述する。1970年代に入って様々なオーケストラとの共演で一躍その名を知られるようになった黒人歌手である。その歌声は軽やかで叙情的で特にcoloratura(声楽の走句、トリルなどの華麗な技巧的装飾)を特徴とするソプラノ歌手である。どこまでも透明で、清楚な歌声であり多くのものを魅了する。TVコマーシャルで一躍有名になり日本でのファンも多い(ニッカウヰスキー、ヘンデルの歌劇「セルセ」から、オンブラ・マイ・フ)。

 

彼女は実に妙なる美声の持ち主であるが、(たとえばワーグナー歌手などに較べると)声量と長時間の歌唱には問題があり、歌う歌を細心の注意で選んでいるのがわかる。過去、いくつかのオペラの作品にも出演(セビリアの理髪師のロジーナ役、魔笛のパミーナ役、愛の妙薬のアディーナ役など)しているが、これらのオペラを見てわかる通り大向こうを唸らせる役柄というよりも、どちらかというと小柄で可愛い女役を得意とする。むしろ、彼女の真価はどちらかといえばオペラ舞台よりもコンサート歌手として、ソロ楽器(たとえば、ピアノ、ギター、トランペットなど)ないし小編成のオーケストラの伴奏で、丁寧に繊細な声を歌い聴かせる時にその魅力を最大発揮していると思う(聴衆は彼女の美声にたっぷりと集中できるため)。

 

1990年代に入って、バトルはニューヨークのメトロポリタン劇場でのオペラ公演準備中に楽団員・その他と感情的な対立を起こし、それが事件として報じられた。それ以来、METの舞台への登壇は許されていない。今もその状態は続いている。その後、ボストンでも同様の事案が発生した。もちろん、バトルには彼女の主張があると思うが、その時のプロらしくない様々な立ち居振る舞いに対する批判は、今も根強い。自己主張が強く、周囲と協調する事がむつかしい性格なのではないかと想像する。以降、オペラへの出演はない。)

 

何事においても一目惚れ(ここでは、一耳惚れ)にはきっかけがある。初めて彼女の歌声を聴いたのは、クリストファー・パークニング(ギター)の伴奏で歌った「アベ・マリア」と題するアルバム(1984年録音)を手にしたときである。このアルバムには、ルネッサンス期の古曲、ブラジル・スペインの民族色豊かな歌、また黒人霊歌など計20曲、多彩な曲が含まれる。パークニングのギター伴奏は実にバランスよく、たった二人でよくこれほどまでに研ぎ澄まされた音楽が創造されていると驚嘆したものだ。

 

             

 

その中にブラジルの誇る作曲家、ヘイトル・ヴィラ-ロボス作の「ブラジル風バッハ、第5番のなかのアリア」がある。これはオーケストラのために書かれたNo.1No.9 の全9曲の交響曲とも呼べる大作で、いずれにも ”Bachianas Brasileiras” のタイトルが付けられている。「もし、バッハがこの時代にブラジルに生きたなら、恐らくこのような曲を書いただろうという意図で作曲したものである」という作曲者ヴィラ‐ロボス自身の弁であるが、よく聴いてみると、「バッハよりもブラジルの味が相当に濃い」というのが私の偽らざる印象である。

 

5番の第1曲目のアリアではオーケストラ演奏に伴ってソプラノが登場する。妙なるスキャットを前後にはさんでブラジルのゆったりと沈みゆく夕陽が歌われる、情緒豊かな曲である。このアルバムで、バトルはギターの伴奏でアリアを歌う。不思議でエキゾチックな響きのこのアリアは、他のどの演奏に較べても美しい。このアルバムは密度濃く、出色の出来栄えで、バトルに一気に惚れたのはこのアルバムによる。

 

後に、前作から12年後、再びパークニングのギター伴奏で、”Angels' Glory"と題する各国のクリスマス・ソングを様々な言語で歌ったアルバムを1996年に製作している。二人の呼吸は相変わらずピッタリであるが、前作のアルバム「アベ・マリア」には様々な挑戦的な試みがあるが、それに比べるとこのアルバムは美しくはあるが小じんまりと纏まり過ぎている感がある(クリスマス・ソングからの選曲に限られているからかも知れないが、、、)。

 

クラシックに関して、バトルはバッハ、ヘンデル、モーツァルト、シューベルトなどのどちらかというと古典派作曲家の曲を得意としている。私はその中でもとりわけバトルのヘンデルが好きだ。たとえば、トランペット奏者としてジャズ界の王者であり、クラシックの世界でも一流との評価の高いアメリカのウィントン・マルサリス(黒人)との「バロック・デュオ」のアルバムがある(199091年録音)。

 

バロック管楽器風に制御のきいたマルサリスのトランペットに合わせて、バトルはヘンデル・オペラのアリアからいくつかを歌う。そのバロックの空気はとてもニューヨーク発とは思えず、中世世界からの美しい響きそのものである(それにしても、ジャズの世界では力限りに吹きまくるあのマルサリスのこの変身は見事である!!  とても同一人物とは思えない)。

 

ヘンデルのアリア曲集をサー・ネビルー・マリナーと録音している(198788年)。また、フルート奏者のジャン・ピエール・ランパルとの共演ではヘンデルの作品を数曲歌っている(1991年)。相前後するが、1984年にはジェームス・レヴァインとザルツブルク音楽祭に出演し、ヘンリー・パーセル、ヘンデル、モーツァルト、R.シュトラウスの歌曲などを歌っている。

 

1991年にはカーネギー・ホールで初のソロ・リサイタルが行われヘンデルから始まり、モーツァルト、ガーシュイン、黒人霊歌などの曲集をマルゴ・ギャレットの伴奏で歌っている。ジェシー・ノーマンとのデュオ(1990年)、プラシド・ドミンゴ+ジェームス・レヴァインの東京コンサート(1988年)などもある。また、バトルは黒人霊歌を大切なレパートリーとしており、様々なコンサートにおいて、機会があればほぼ必ずと言っていいほど黒人霊歌(Spirituals)を取り上げている。アメリカン・ブラックの音楽家との共演も多い。

 

最後になるが、最もバトルらしい可愛いらしい一面が出ているものとして、モーツァルトのモテット「踊れ、喜べ、幸いなる魂よ」(K.165)を推挙したい。アンドレ・プレヴィンの指揮でロイヤル・フィルとの共演であるが、モーツァルトは彼女の歌声のためにこの曲を作曲したのではないかと思われる程の出来である。荘重な中に、弾む軽い歌声が何とも心地よい。第三部の「ハレルヤ」は皆も知る有名な旋律である。

 

1987年正月、ウィーンでの恒例のニューイヤー・コンサートはカラヤンが指揮した。そのコンサートでは恒例としてヨハン・シュトラウスのワルツ「春の声」が歌われるが、その年はバトルが招かれた。わずか8分少々の登壇であったが、そのライブは当時、随分と評判になった。今から考えればその頃の彼女が歌手人生の絶頂期だったのかもしれない。

 

雑多な文章になってしまったが、バトルは疲れたときの慰めのヴォイスとしては最高である。時々に買い集めたCDDVDはあわせて20枚を超えているが、ここ15年ほど新しいものは入手していない。

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デセイ

ナタリー・デセイ(Natalie Dessay)に移る。1965年生まれ。声の質はリリック・ソプラノおよびcoloraturaソプラノであり、歌唱力並びに美貌を兼ね備えたソプラノとして、アメリカ、ヨーロッパを中心に世界のオペラ劇場やステージで活躍中である。そもそものきっかけは、CDショップで新しいソプラノ歌手のアルバムを物色中、デセイの名も知らずに手にしたアルバム「ヴォカリーズ」がその出会いである。

 

アルバムのデセイの表紙写真は美形でフランス女性そのもの、大きな瞳とエキゾチックな顔立ちに惹かれてCDを購入した(199697年録音、M.シエーンヴァント指揮、ベルリン交響楽団)。このアルバムでは、彼女の得意な高音になればなるほど澄み渡る美声の魅力が至るところで発揮されていた。

 

第1曲目のラフマニノフのヴォカリーズは色々な演奏形態、すなわち器楽演奏やスキャットで歌われるが、彼女の澄んだ声はこの曲によくフィットしている。そのほかの曲でもcoloratura美声はいかんなく発揮されている。何度も聴くうちに彼女の声が次第に体に染み付いてくる。最後の曲は彼女が得意とするヨハン・シュトラウスのワルツ「春の声」である。前出のバトルのニューイヤー・コンサートの「春の声」とはまた違う趣むきで、楽しげな雰囲気がジワーッと伝播してくる。バトルに次いで、デセイの虜になってしまった。

 

ここで話はすこし脱線するが、ヨハン・シュトラウスの喜歌劇「こうもり」について記す。この喜歌劇は19世紀、ヨーロッパが世紀末の暗い時代(1874年)に作曲された。しかし、その内容は無邪気で、飛びぬけに明るく、笑いのセンスも極めて洗練されている(ワーグナーが楽劇「ニーベルンゲンの指環」の第三夜、「神々の黄昏」を作曲し終えたのが、同年の1874年である!)。基本的にドイツ語で演じられるが、出演者によってはその国の言葉、フランス語や英語、時には片言の日本語が飛び出してもOKという代物である。また、ウィーンではこの喜歌劇の上演は年末1231日の恒例行事で、飛び切り上等の歌手たちがその華麗な美声と演技を競う。なにせ、目・耳の肥えたウィーン子が聴衆である。

 

この第2幕の後半に余興(劇中劇)と称して、特別のゲスト歌手が招かれるが、聴衆には予め知らされず、そのサプライズを楽しむ。シャルル・アズナブールが登場するものや、ハンガリーやスペインやロシアの民族色豊かな舞踊団、また洗練されたオペラ座のバレエが登場することもある。いかに聴衆を喜ばせるかに様々な演出が工夫されるところである。

 

ここに、デセイの出演した絶品のDVDがある。「ナタリー・デセイ「奇跡の声」オン・ステージ」というアルバムである。これまでに彼女が出演したオペラの中の名場面を録画したものである。その第一演目が「こうもり」で、その中の劇中劇でデセイが「春の声」を歌う。毎年、大晦日の深夜、喜歌劇「こうもり」が国立歌劇場で演じられるのは、ウィーンでは恒例行事である。喜歌劇の上演が終った時はすっかり年が明け、冷え切った新年のまだ暗がりの街に観客は楽しかった興奮を持って帰ってゆく。

 

1993年、年末のウィーン国立歌劇場では、まだデビューしてまもないが、美声で一気に世間に名を轟かせ始めたが、まだ殆どの人がその容姿を見たこともないという、ナタリー・デセイが劇中劇のゲスト歌手として招かれた。もちろん、ウィーン初デビューである。名前が告げられると、聴衆はやんやの拍手。それに迎えられ、純白の衣装につつまれた小柄のデセイが初々しく登場する。

 

      

 

舞台上の他の出演者たちも着席して寛ぎ、聴衆と一緒にデセイの歌に聴き入る。デセイは別録されたインタビューで「随分緊張したこと、また舞台への招待が突然で殆ど練習する時間が取れなかったこと、だから歌詞を間違わぬようにモニターに釘付けだった」と語っている。大役を果たしたあとのアンコール拍手は演奏時間に匹敵するくらい長く、彼女のウィーン・デビューは成功裏に終った。(♪:▶ Frühlingsstimmenwaltzer- Natalie Dessay- A Flat - YouTube )

 

このDVDには「こうもり」のほかにも、いくつかの興味のある画像がある。オッフェンバックの「ホフマン物語」では、機械仕掛けの人形役・オランピアが彼女の十八番である。1993年・リオン歌劇場、1996年・ウィーン国立歌劇場、2000年・オランジュ古代劇場などで様々な人形に変装し楽しい歌を聴かせてくれる。

 

そのほかには、モーツァルトの「魔笛」の夜の女王役(2000年、パリオペラ座)や、ドニゼッティの「ランモルメールのルチア」のあの有名な狂乱の場(2002年、リヨンオペラ)では本当に狂ったかと見える渾身のデセイの演技がある。いずれも一見に値する。声量もあり、表現力は豊かで、かつ演技はしなやかで、コケティツュな笑いを取るのも上手い。魅力満載のソプラノ歌手といっていいであろう。

 

今世紀に入って、デセイはしばしば喉の不調に悩まされ、数回、声帯の外科手術を受けている。そのたびに奇跡のカムバックを果たし、復活公演を成功させている。しかし、以前ほどは声帯の酷使が出来ない状況になって来ているのではないか。最近の映像として、2012年のメトロポリタンのライブ・ビューイングでデセイが「椿姫」のビオレッタ役を演じるのを見た。47歳。声楽家として最も円熟する時期であろうが、正直、今回の歌唱にはかなりの失望があった。ポイントの高音部でキーが少し外れるという致命的なミスが何回かあった。

 

デセイはこれまで、十分に我々を楽しませてくれた。彼女への賛辞は惜しみなく与えたいし、三度目の復活を期待したい。その後、彼女に匹敵するスターはまだ現れていないように思う。貪欲な聴衆の一人として、彼女に匹敵する次の新星の登場を待ちたいが。

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ペルト・・・・祈り音楽の極致

出会い

斬新な音楽の発掘者として、またECMというレーべルの音楽会社を立ち上げたマンフレッド・アイヒャーの活動に魅せられた。ECM音楽の中には注目すべき宝物が多くあり、常にその動きには注視している。1989年にECMECM NEW SERIESとして再発足した時、新レーべルの宣伝のためにサンプラーCD「スティルネス」が製作された。これまでのECM録音(198389年間の)の中で、特にアイヒャーの心に残る作品を集めたものである。

 

その中に、これまでに聞いたことのない音楽があった。アルボ・ペルト(Albo Part)という作曲家のものである。その曲は「フラトレス(Fratres)」というタイトルで、キース・ジャレットがピアノ、ギドン・クレーメルがヴァイオリンを弾いている。この曲の主奏者はヴァイオリニストであるが、キース・ジャレットというピアノ伴奏者の名前に惹かれてこのCDを入手した。ペルトはバルト海沿岸・エストニアの出身で、現在はベルリンに住む。私よりひと回り年上の1935年生まれで、今も存命である。

 

ペルトの「フラトレス」(「兄弟」の意味)を初めて聴いた時の衝撃は忘れられない(1983年、ECM NEW SERIES/POCC-1511)。この音楽に歌うような旋律は全く無く、ほとんど不協和音の打弦と打鍵(これが主題)で曲が展開する。遠くで小鳥がさえずるようにヴァイオリンが静かに奏され、次第にその音量を増して行くが、その中には不安が充満している。そこで、おもむろに低音部を受け持つピアノが登場し、二つの楽器が緊張の中に縺れあう。

 

不安な雰囲気のフレーズが執拗に反復される。そこへ突然、打楽器と化したヴァイオリンとピアノが登場する。怒涛のように、、、。しばらくの間、悲鳴のように擦れる音が続く。クレーメルの執拗なヴァイオリンがすごい、、。やがて静かな音楽へと戻り、永遠に続くと思われるような単調なリズムにゆっくりと曲は入ってゆき、やがて静止して静寂。美しい。シンプルに人の心底に迫る「祈りが表現」されている。初めて出会ったときは驚愕であったが、いまは心静かに聴ける最も大切な音楽のひとつである。

 

音の強弱のバランスや両者の鬩ぎあいなど、、、奏者は随分と緊張を強いられると直感するが、ここでの両者の共演は見事と言うほかない。11分半の緊張の音空間である。その後、クレーメル+ジャレット以外の奏者による「フラトレス」をいくつか聴いたが、鬼気にせまる迫力という点でこの演奏に近づくものは未だ知らない。(♪:▶ Arvo Pärt feat. Keith Jarrett & Gidon Kremer - Fratres - YouTube )


ペルト音楽の横展開

ペルトはそれほど多くの作品を残しているわけではない。しかし、彼のそれぞれの作品には音に推敲に推敲を重ねた洗練が感じられ、新鮮かつ大胆で独自の色彩を放つ。たとえば、上述のCDの中には、「ベンジャミン・ブリテンへの追悼歌」がある。B・ブリテンは20世紀の前半に活躍したイギリスの有名な作曲家で「戦争レクイエム」や「青少年のための管弦楽入門」などで知られる。

 

この曲は一定のリズム間隔で鳴り響く教会の鐘の中で、弦楽合奏の響きが祈りを続ける神々しいまでの鎮魂の音楽である。弦は次第に音量を上げながら折り重なり合い、低音部へ向かう。やがて、、、終結。鐘の余韻が静かに保たれる。神秘的であり、まるで朝靄に包まれた墨絵を見る気分である。

 

   ≡      

 

ペルトの作品は様々に変幻するが、作品として結実するまでに多種の思考集中がなされていることが推察される。手元にあるペルトの作品として(年代順)、

 

Miserere1990年、ECM New Series)(ミゼレーレ、フェスティーナ・レンテ、サラは90歳だった)

Fratres1995年、Naxos)(ペルトの編曲による様々な編成のFratres(全6曲)、フェスティーナ・レンテ、スンマ、ベンジャミン・ブリテンへの追悼歌)

Tabula Rasa1999年、Naxos)(タブラ・ラサ、バッハによるコラージュ、交響曲第3番)

Alina1999年、ECM New Series)(鏡の中の鏡、アリーナのために)

Passio2001年、Naxos)(ヨハネ福音書にもとづく受難曲 4曲)

Berliner Messe2003年、Naxos)(主に向かつて新しい歌を(詩篇第95番)、ベルリン・ミサ、深き淵より、われ汝を呼ぶ(詩篇第129番)、スンマ、至福、マニフィカト)

Triodion2003年、Hyperion)(合唱曲集(全8曲)、オルガンつき)

24 Preludes for a Fugue2005年製作、DVDIDEALE AUDIENCE(ペルトの音楽生活を映したドキュメンタリー、CeciliaYour NameComo Cierva Sedienta、これらの曲が作られてゆく過程を映像で見せる。ペルトは哲学者の風貌。)

ピアノ曲集(2011年、Naxos)(ソナタ、変奏曲など 6曲)

 

いずれも完成に至るまでその本質を考え抜いた大変に透明度の高い音楽である。一音一音を丁寧に聴かなければならない。現代音楽に分類されるが、その作風はバロックの香りが漂う。しかし、バロックそのものではない。ペルト独特の音である。都会の喧騒とは遠く離れた、静寂な森の澄み渡った風のそよぎを連想させる。エストニアの原風景なのであろう。まだ、彼の曲で聴いていないものがいくつもある。これからの発掘が楽しみな作曲家の一人である。

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ピアソラ・・・・前衛タンゴ音楽の旗手

私は元々、アルゼンチン・タンゴにもユーロ・タンゴにもほとんどと言っていいほど興味は無かった。また、私はダンスが踊れない。最も身近な「ダンス経験」と言えば、周防正行監督の”Shall We ダンス?"という映画の評判が気になり、封切り後、何年かして京都の祇園会館で映画鑑賞した位である。ピアソラではなかったかと思うが、いくつかのタンゴの名曲にあわせてのダンス・シーンがあり、その映画の出来には感激した。あの作品で草刈民代さんが日本アカデミー賞・最優秀主演女優賞に輝いたのは頷けるし、主役以外の脇役は実力者俳優で固められた濃密な映画だった。

 

さて、前衛タンゴの旗手、アストル・ピアソラ(Astor Piazzolla)(19211992)に接触のきっかけを与えてくれたのは、またもや友人Tさんである。ヨーヨー・マのチェロによるピアソラ・アルバム(下記)の紹介を受けた。その後、このCDは一世を風靡し、世界中に知られる著名なアルバムとなった。

 

ピアソラの曲を聴いてまず第一番に感じたのは音の切れの鋭さである。タンゴと言っても、これまでのダンスを踊るための音楽から一枚も二枚も脱皮した、聴くための音楽に変貌している。また、彼の作品には、演歌で言うところの「こぶし」に似たような聴かせどころ(泣かせどころ)が、ここと言うところで効果的に登場する。しかし、この「こぶし」は曲者で、あまりしつこくやると演奏は一気に下品になるので要注意だ。しつこくならず「こぶし」を利かせた演奏に出会ったときは本当に嬉しい。

 

タンゴであるので南米のアルゼンチンの匂いの曲が多いのは当然であるが、それぞれの曲には四季感、時代背景が巧みに滲み出ている。これまでのタンゴ音楽にない様々な斬新さをピアソラの中に発見出来るのは大きな歓びである。手元にはこれまでに集めたピアソラ関連のCD46枚ある。この中で特に、記憶に残したいものについて記す。

 

ピアソラ自身による演奏 

ピアソラはタンゴに欠かせない楽器であるバンドネオンの名手である。ピアソラ自身はバンドネオンの名演奏を残している。いずれも力の入ったものである。その中からいくつか(年代順)、、、

 

Reunion Cumbre1974年、TROVA CD 5055) ピアソラ、 ギャリー・マリガン

Piazzolla, Original Soundtrack197475年、1984年、Victor VICP-60081

En Vivo1982年、BMGBVCM-35003

Piazzolla-Goyenche

Piazzolla, Live in Wien1983年、Messidor

PLCP-80

エル・タンゴ(1984年、King KICP208)ミルバ、

アストル・ピアソラ

タンゴ:ゼロ・アワー(1986年、Nonesuch WPCS-5100

ピアソラほか

The Central Park Concert1987年、Chesky Records JD107)ピアソラほか など

           

編曲、他楽器での演奏ほか

ピアソラの曲はもともと自ら演奏するバンドネオンのために作曲されたものが主であるが、多くの演奏者により様々なVariationが編曲されており、多彩な演奏を楽しむことが出来る。たとえば、

 

わが懐かしのブエノスアイレス(1995年、TELDEC WPCS-4896)ピアソラ&ガルデル、バレンボイムがピアノで参加

ピアソラへのオマージュ(199596年、Nonesuch 7559-79407-2)ギドン・クレーメル

ピアソラ・ギター(1996年、Ottavo OTR C69657Segovia Guitar Quartet

Los Tangueros(二台のピアノのための)(1996年、SONY SK 62728E.Ax, P.Ziegler

エル・タンゴ:ピアソラへのオマージュ2(1996年、Nonesuch WPCS-5080)ギドン・クレーメル

Reunion1996年、Concord Jazz CCD-4793-2ギャリー・バートン、 ピアソラ、小曽根真(p)が参加

Soul of the Tango, The music of Piazzolla1997年、Sony SRCR-1954)ヨーヨー・マほか

Dance of the Angel1997年、Sony SRCS 8637S.GaigoayanG

ピアソラ:ブエノスアイレスのマリア、(199798年、Teldec WPCS-63801)ギドン・クレーメルによる濃厚なピアソラのタンゴ演奏(三部作)

ピアソラ:ブエノスアイレスの夏(1998年、Sony SRCR2250小松亮太ほか など

 

以下は「タンゴの歴史」。4曲からなるフルートとギターの為の組曲で、1900年・酒場、1930年・カフェ、1960年・ナイトクラブ、現代のコンサート、からなる。リズミック、叙情性に満ちた曲集で、技巧も要求される。ピアソラがバンドネオン以外の楽器にも通じていたことを示すものであり、ヴァイオリン、サキソホーン、ピアノなどの様々な楽器での演奏がある。

 

         

 

タンゴの歴史ほか(1991年、Ondine ODE 781-2M.HelasvuoFlute, J.SavijokiGuiter

タンゴの歴史ほか(1996年、Deutsche Grammophon  POCG-1985P.GalloisFlute)、G.SollscherGuiter

タンゴの歴史ほか(1998年、Naxos 8.554760)、I.ToepperFlute)、H.G.GaidoGuiter) など、、、

 

元々、ピアソラのメロディーには演奏者の心をインスパイヤーする要素を多く含んでいる。ヨーヨー・マ、ギドン・クレーメルなどは非常にユニークな発想と演奏で、独自のピアソラ像を示した。これからもピアノ、ギター、ビブラフォン、サックスなど様々な楽器で優秀な編曲がなされてゆくものと思う。

 

ピアソラが亡くなって早くも20年を経過するが、本当の意味でピアソラ作品の演奏の歴史はまだ本格的には始まっていないと思う。今後、ますます世界に拡散し、さらに多くの愛好者を獲得するであろう。まだ、彼の音楽はやっと、アルゼンチンの国内から海外に向けて発信されたところである。一度、ブエノスアイレスを訪ねて、ピアソラの空気を満喫してみたいものだ。

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7.60歳代(2007~      )

 

社会人卒業、第二の仕事へ

オペラ開眼・・・「愛の妙薬」

35年勤務した会社を退職し、関連業界の工業会に出向するようになって生活全般にかなりの余裕が出来るようになった。生活時間(出勤、帰宅)もこれまでに比べると随分と規則的になった。このことは日常生活に適当な緊張感を保ちながら、次第に仕事モードをスローダウンする上で恰好の調整期間となった。オーディオセットを新たなものに揃え、画面として古いテレビを利用し、ホームシアターを一応整えた。さあ、音楽をさらに身近なものにしよう!

 

ここからオペラ論に入る。

 

ターゲットはこれまではビジュアルでの経験がない「オペラ」である。オペラを様々な機会に音楽として聴くことはあったが、断片的であった。オペラは兎も角、家庭音楽鑑賞用にしては規模が大きすぎる。熱が高じても日本でオペラの生体験は可能か? 否。 演劇+声楽+オーケストラが一体となったオペラの真髄を国内で鑑賞できるとは思えない。

 

しかし、時あたかも世の中はCDからDVDの時代に入り、世界各地の一流オペラ劇場での様々な映像+音楽が簡単に入手出来るようになって来た。オペラ入門ということで、TDKからの名作を集めたオペラDVDセットを購入し、ライブラリーは一気に40巻を数えた。

 

初心者がオペラ世界に入門するのに、DVDは簡便で有用なツールである。音楽と画像とストーリーが同時に鑑賞出来る。オペラ劇場に行っても、特に海外では、事前によほど勉強して行かない限り内容の理解は相当に難しい。ましてや、一回だけのオペラ鑑賞ではストーリーは殆ど理解できない。CDでは繰り返し音楽鑑賞は出来るが、それは耳慣れた作品に限られる。一般的に言って、オペラは器楽合奏の演奏に比べ、その展開に言葉が介在するために、聴く側には相当の準備と覚悟が必要である。

 

色々な種類のオペラが生活の中に一気に入ってきた。様々な作品を順不同に漁る中で、特に惹かれて来たのがドニゼッティ(Gaetano Donizetti「愛の妙薬」であった。

 

化学会社の現役時代、オーストラリアに出張の折、たまたま、奇抜な構造でシドニーを象徴するあの有名なオペラハウスで純オーストラリア製の「愛の妙薬」を鑑賞する機会があった。楽しかった。しかし、特に後々まで印象に残るものではなかった。今回、このオペラのDVD鑑賞から、ストーリー展開の面白さ、アリアを何度も鑑賞出来る有り難さ、出演者と聴衆がともに楽しむ劇場オペラの贅沢を感じることが出来た。「愛の妙薬」によるオペラ開眼である。

 

「愛の妙薬」の横展開ということで DVDを種々購入し、約一年間、「妙薬」の世界に浸った。各々を比べると、会場(劇場)、演出者、指揮者、歌手等々によって随分と作品の出来が異なる。CDからでは気付かない事である。このような変化を楽しむことが出来たのも生活に時間的な余裕が出てきた事による。

 

色々選択する中から、ヴィラゾン、ネトレプコが出演する2005年のウィーンでのDVDおよび、若いパバロッテイとグレートなサザーランドの1970年録音のCDLondon盤)を特に好んでいる。(添付資料1、p.137

 

「愛の妙薬」は19世紀の前半にイタリアで活躍したオペラ作曲家、ドニゼッティの作品である。ドニゼッティは速筆の作曲家で、生涯に70余のオペラを作曲した。当時、イタリアでは声部の旋律美を追求したベル・カント・オペラが流行したが、ドニゼッティはその推進の中心人物であった。彼の代表的な作品としては、「愛の妙薬」の他に「連隊の娘」、「ランモルメールのルチア」、「ドン・パスクワーレ」などがあるが、いずれにもベル・カント技法を駆使した美しいアリアが多数挿入されている。

 

   

 

「愛の妙薬」、「連隊の娘」と「ドン・パスクワーレ」はコメデイ基調のオペラである。一方、「ルチア」は悲劇オペラで特に、最後にルチアの演じる”狂乱の場”はすさまじいまでの劇的さで知られる。中でも私はナタリー・デセイの大熱演が大変に気に入っている。しかし、あまりに凄まじいため、何回も楽しむと言うわけには行かないが、、、。ドニゼッティのオペラには喜劇物、悲劇物の両種の作品があるが、どちらもオペラ入門として分かりやすい作品と思う。

 

           愛の妙薬:好みの歌唱など

序曲、底抜けの明るさ、これから始まる南欧の田舎の小さな出来事に心が弾む。

1幕、アディーナの最初の自己紹介的な歌唱。彼女の勝気で自信に満ちたエリート田舎娘の素顔。

2幕、俄か結婚式での余興の歌合戦など。当時の人々(農民)が娯楽を思い切り楽しむ様子の描写。音楽が素朴で田舎祭りの雰囲気が好き。

2幕、終わりに近い部分の、最も有名なメモリーノの「人知れぬ涙」。パバロッテイの十八番。ヴィラゾンの熱唱も素晴らしい。観客の拍手喝采がおさまらず、ライブ・オペラ中にもかかわらずアンコールで再唱。メモリーノ役は、多少、馬鹿でお人好しさを滲ませること。その点、この二人のテナーの演技と歌唱は抜群。

 

日本の高名な音楽批評家のY氏が、「愛の妙薬」の最後に歌われる「人知れぬ涙」はいい曲であるが、途中の音楽展開は取るに足らないというような意味の評論をしていた。確かに、「人知れぬ涙」は素晴らしい曲であることは間違いないが、そこに至るメモリーノと詐欺師ドゥルカマーラとの起伏のある会話、アディーナの心の微妙な動きの変化、、、色々と見所・聴き所は多く、「つまらぬ」という評価は却下したい。

 

また、このオペラでメモリーノを歌うテナー歌手が、「このオペラを聴きに来る聴衆の大部分のお目当ては「人知れぬ涙」である。あの曲が長時間にわたる舞台格闘の最後の最後に出てくるのは歌手にとっては厳しい。そこまでの出来が良くても、最後を美味く歌えなければ、評価は得られない。」としみじみと発言していた。言い分は分からぬでもないが、私はむしろ、第一幕の平凡な田舎暮らしの中に様々な誤解と葛藤で盛り上がってゆく展開に興味があり、決して、「人知れぬ涙」のみに短絡はしていない。

 

「愛の妙薬」から始まってからの数年間、ヘンデル、モーツァルト、ドニゼッティ、ヴェルディの代表的なオペラ作品を視聴した。各々の作品の印象(コメント)は時間のあるときに是非、記したい。

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ワーグナー「指環」、最初はキック・アウト!

さて、ワーグナー(Richard Wagner)である。2040歳代の私はワーグナーに全く無縁だった。それまでクラシック音楽は、基本的に器楽合奏を主に聴いてきた。オペラ世界全般に関心は薄かった。小編成ないしソロ音楽は演奏者の研ぎ澄まされた感性と表現力がマッチして初めて完成する。「音楽の真髄は小編成の曲、特に演奏者の息が聴こえる(ような)迫真のソロ演奏にある」と信じた時期があった。大編成の音楽もたしかに魅力はある。しかし、スケールの大きな曲を聴くには、装置、部屋などの環境の大がかりな整備が必要であり、敬遠してきたきらいがある。

 

ジャズ音楽にも同じような感覚で接してきた。と言うわけで大編成のスイング・ジャズには何となく違和感があり、未だにほとんど聴いていない。

 

ある書物で、「ワーグナー世界は巨大な伽藍であり、ひとたび足を踏み入れたならば、ほとんどはその囚われ人となる」と言う記述を眼にした。自分のそれまでのワーグナー体験は極めて貧弱で、いくつかの楽劇のポピュラーになったスケールの大きい序曲を耳にする程度であった。これで十分に満足していた。なにも超大編成の演奏のワーグナー世界に深入りせずとも、クラシック音楽はこれからも十分に堪能出来るという確信はあった。

 

また、ワーグナーは非道徳的な私生活を送り、死後、ワーグナー世界がナチスに重用されたこと、バイロイト祝祭劇場に掲げられたハーケンクロイツの写真、、、等々、ワーグナーをめぐる負のイメージに近づくことへの怖さ、不潔な空気感のため、特に、若い時は意識的にワーグナーとは無関係と決め込み、遠ざけようとしていたのかもしれない。

 

ひとつひとつの作品は長大で時間を要するものばかりである。代表作の「ニーベルンゲンの指環」(以下、「指環」と記す)は4日かけて上演され、通算の上演時間は16時間と途轍もないものである。ドイツ語で延々と語られる世界で、またそのドイツ語はドイツ人にとっても難解で癖のある歌詞であると聞く。こういうことを知るにつけ、迂闊に一歩を踏み込む事に躊躇があった。体力と気力とドイツ語の理解力そして、かなりの時間的な余裕が無い限り、この世界に飛び込むのは危険(結局、消化不良に陥るか、嘔吐するのがオチ!)という本能的な直感が働いた。

 

しかし、60歳近くになり、人生のエンデイングも近いこの期に及んで、色々なものを知っておきたいとの思いが一層に強くなって来たことは確かである。ワーグナーについても一度は経験しておいたほうがいいのではないかと、おぼろげに思う時もあった。仕事上の繁忙のピークを過ぎ、自分で時間コントロールを少しは出来るようになってきた。やはり、ワーグナーの世界を知らずに済ませるのは惜しいのではないかと言う、これまで何回となく繰り返してきた自問自答が頭をもたげて来た。

 

この思いの変化は、かの碩学、丸山眞男の音楽語りの中にワーグナーが大きな位置を占めていたとの書物からの刺激も影響している。彼も最初はワーグナーを取りまく負の遺産のため、若い頃は積極的にはワーグナー音楽に接触しなかったと述べている。私は私で「何かがあるに違いない」との漠然とした思い。「いいものならばそれらを享受せずして人生を終えるのはもったいない」との思い。はたまた、、、

 

さて、何から聴くか。聴くのならやっぱり「指環」と考え、当然のことのように、彼の中心作品である大作「ニーベルンゲンの指環」の序夜「ラインの黄金」から鑑賞を始めた。

最初に手にしたのは、

 

DVD、ジェームス・レヴァイン指揮、メトロポリタン歌劇場での上演LIVE盤、「ニーベルンゲンの指環」、

4巻(1990年)(Grammophone

 

 Met「指輪」DVD

 

しかし、冒頭のラインの乙女達と地下人物アルベリッヒとの下卑た会話は全く想定外のもので、漠然と期待していた神聖な神話の世界がそこにはなく、、、期待は見事に肩すかしをくらった。その後も何回かにわたって序夜、「ラインの黄金」の導入部分に挑戦を試みたが、期待は裏切られ続けた。こんなところで躓くようでは全部で16時間を要する壮大なドラマに近づけるわけがない。「「指環」を理解することは不可能!!」と自分なりに結論付けた。

 

「北欧・ゲルマン神話をベースに、ドイツ民族の精神的基幹に根ざした最もゲルマン的といわれるこの楽劇は、アジア人である私には理解が出来ない。ワーグナーは異次元の世界の人。私生活では破綻者であり、政治的にはアナーキスト。ワーグナー死後のナチスとバイロイトとのおぞましい関係も気がかり。しかし、何故にワーグナーの音楽はそれ程にも多くの人を夢中にさせるのか?」 ちょっとしたトライアルによって、却って溝が深まった感じの無理解状態が3年ほど続いた。ワーグナーとの出会いには、まだ、しばしの時間が必要であった。

 

ワルキューレから再トライ

さて、ワーグナーの「指環」の世界に入門しようと序夜「ラインの黄金」を何回か聴いたが、ラインの乙女達と地下人・アルベリッヒの会話についてゆけず、キック・アウトを食らったことは前節で書いた。その後、数年を経て再び思い返し、序夜、「ラインの黄金」は後回しとし、第一夜、「ワルキューレ」から観劇した。テキストは同じくレヴァインが指揮するメトロポリタンのDVD1990年版)である。

 

第一幕は、ひどく傷ついたジークムントが、嵐の夜にひとりで留守宅を守るジークリンデの居宅に無断で避難するところから始まる。ジークリンデにとっては、見知らぬ男を受け入れるか否かの突然の緊迫の場面である。疲れきったジークムントを助けるために、ジークリンデが介護を始めようとするその時に、ジークリンデの夫であるフンディングが帰宅する。

 

ジークムントとフンディングがお互いを名乗るうちに、フンディングは目の前にいるジークムントこそが、ここ数日間、討伐のために森中を捜し歩いたフンディング族の宿敵であるヴェルズング族のジークムントその人であることがわかる。新たに大きな緊迫が生じる。フンディングは一夜の露は凌げるようにしてやるが、「明日は決闘で決着」と言い残して寝室に消える、、、。

 

ジークムントとジークリンデが幼少のときに離別した双子の兄妹であるということ、お互いがそれとは知らずに恋に駆け落ちること、ジークムントの身を守る霊剣「ノートゥング」の存在、彼らの父親である天上の神・ヴォータンが彼ら二人を救おうと意図するも直接の手助けを拒むヴォータンの正妻である”結婚の神”フライアの強烈で辛辣な抵抗、戦場で戦死する英雄を天国につれて帰るヴォータンに忠実な8名のワルキューレ(戦場の乙女)たち、ヴォータンの苦悩を知りながらジークリンデを助けるという謀反行為に走るワルキューレのひとりブリュンヒルデの存在、心ならずも最も愛した娘のブリュンヒルデを火の山に幽閉しなくてはならなくなったヴォータン、、、。

 

第2幕、第3幕と話は進むが、その内容は登場者のすべてが多重的に絡みあうすさまじい心理劇である。皆が様々な光と影を背負い、それぞれにもがき苦しむ。この複雑なストーリーに壮大、また時に繊細な超一級の音楽が重なる。それに歌手たちの素晴らしい集中力と爆発的な歌唱。ものすごい盛り上がりである。

 

落ち着いて鑑賞すると、話の展開はドラマチックでしかも解かりやすい。一気に「ワルキューレ」の世界に引き込まれた。第3幕の導入部においては、誰もが耳にした事のあるあの有名な「ワルキューレの騎行」がある。戦場の乙女・ワルキューレたちとブリュンヒルデの姉妹間の相克、それにヴォータンが絡んでくる。哀れなジークムントの運命は?ドキドキ、ハラハラのストーリー展開である。北欧神話の知識なくして、「ニーベルンゲンの「指環」」の理解は不可能と言う人もいるが、ひとまず、入門に当たっては北欧神話の理解はなくともさほどの障害にならないとわかった。

 

第3幕の最後の部分、ヴォータンが最も信頼を寄せていた娘の一人、ブリュンヒルデを火の山に刑罰として長い眠りにつかせなければならないシーンがある。ヴォータンの心の中を吐露した独白は、私自らの娘との別れの体験と重なる部分があり、この部分はいつも身に詰まされる思いで聴く。

(♪:▶ ワーグナー《ワルキューレ》「告別と魔の炎の音楽」クナ指揮 - YouTube

 

本稿は「ワルキューレ」のストーリーを追うのが目的ではないが、約4時間に及ぶこの壮大なドラマの真髄を伝えるためのあらすじの解説はどうしても必要である。音楽(器楽+声楽)+演技+演出の三者が見事に融合して初めてその絶大な効果が発揮されるが、これはこのドラマにかかわるすべての関係者が全身全霊の能力を注いで始めて可能となるのである。

 

観劇したDVDでは、ヴォータンには ジェームス・モリス、ブリュンヒルデには ヒルデガード・ベーレンス、ジークリンデには ジェシー・ノーマン、フンディングには クルト・モール、さらにヴォータン正妻のフリッカは クリスタ・ルートヴィッヒが演じている。いずれも当代、一流と目される歌手陣である。

 

”ワーグナー歌手”と言われる区分が声楽の世界にある。ワーグナーの楽劇を演じるには、豊かな声量、持久力、緻密なドイツ語の理解、真に迫った苦悩の表現、、、強靭な精神力とぎりぎりまでの体力が要求される。これに応えられる歌手はそう多くはいない。実際、バイロイト、その他の劇場では四夜にわたって「指環」が演じられるが、上演は休息日を設けた隔日の開催である(たとえば、日、火、木、土曜日に隔日連続で開催される)。

 

休息の日、主役の歌手は日常会話も制限され翌日の舞台に備えるという。多くの「指環」が録音・録画されている中で、このメトロポリタンのDVDがどういう評価に位置するのかの知識は無かった。しかし、心は大きく揺さぶられ、数ヶ月、「ワルキューレ」の劇的な音楽とストーリーが頭から離れなかった。

 

ショルティ「指環」

 

ワーグナーの大作、「ニーベルンゲンの指環」は、序夜「ラインの黄金」、第一夜「ワルキューレ」、第二夜「ジークフリート」、第三夜「神々の黄昏」の四夜から構成される。序夜の演奏には約3時間余、そのあとの三作も演奏にそれぞれ4時間余はかかる大作の集合体である。ストーリー展開はゲルマン・北欧神話をベースにしたものであるが、注意深く聴くと、このドラマの構造、神々や様々な人間の複雑な関係が次第に判ってくる。ワーグナーも作品のなかで、繰り返し、繰り返し、これまでの経緯を様々な演者に語らせ、話の本筋を聴衆が反れずに理解出来るよう配慮している。

 

また、「神々の黄昏」の幕開けの導入部分においては、過去の記憶を縄に紡ぐ役割の三姉妹(ノルン達)が登場し、将来のジークフリートの運命を暗示する語りが挿入される。聴き込む事によって、別紙(添付資料2、p.138)に示したようないわゆる「リング・ファミリー」の相関図が作成できる。一度、この全体像を掴めれば大きな山を越えることになる。好みのところを繰り返し楽しめばよい。相関図ということになると、まるで歴史の勉強のようであるが、この作業は巨大な構築物を身近に感じる上で大いに役立った。

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「「指環」(リング)」のDVDCD体験

作品のコレクションはその時の興味の程度や価格で選んでおり、必ずしも著名な演奏ばかりを集めたものではないが、たとえば「ワルキューレ」については、1950年から2011年まで60余年にわたる15種類のCDDVDの演奏の比較視聴が楽しめるようになった。出演者の一覧表(添付資料3p.139)の作成は、細かい面倒な作業であったが、この表から汲み上げられることは多い。

 

また、各々のワーグナー歌手の特徴をより理解するために、各楽劇の主要出演者を一覧表で纏めた。歌手の声の特徴を知り、また、どの歌手がどのような役柄で多く採用されているか、、、眺めているだけで、様々な想像が湧き上がってくる。

 

ワーグナー音楽は対訳本を傍に置いて鑑賞している。お陰で、音楽の一節を耳にして、どの箇所を演奏しているかが、おおよそ分かるようになってきた。

          

 

音楽に関しては、ラッキーなことにワーグナーのバイロイトで実況録音(主に196070年代に)された全作品CD(全33枚)がDeccaから纏めて販売されている。録音状態も比較的よく、臨場感も期待できる。ワーグナー評論等でよく引用される話題の演奏ぞろいである。この全11楽劇をウォークマンにコピーし、出張・通勤の時にはひたすら耳を慣らした。

 

後日、バイロイト訪問が叶いその時の各演目から受けた印象を記載するが、「指環」以外の作品についても、それぞれに独特の色彩、味わいがあり、(イタリアオペラとは全く違った意味での)ワーグナー世界を自分のペースで我が物にしつつあった。

 

ワーグナー作品の中で、「指環」がその中心にあることは間違いないが、その他の作品は、それに較べると少しは劣るのかというと、決してそういうことはない。「オランダ人」、「タンホイザー」、「ローエングリン」、「マイスタージンガー」、「トリスタン」、「パルシファル」、それぞれが独立した巨峰として存在し、独自の世界感を示している。

 

その作風はそれぞれにオリジナルで、作品の与える印象はまったく異なる。ひとりの作曲家が歌詞、音楽、舞台動作、舞台装置、それに上演する劇場、、、すべてを自分の意のままに設計し、このような作品群を創作したということは、ただただ驚嘆するのみである。汲めど汲みつくせぬ泉のように、これからもこれらすべての作品は人の心を捉え続けることと思う。

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「指環」に登場するのは現代人、登場人物の分析

ワーグナーのオペラは難解という意見をよく聞く。自分もこれまではそうであったし、今でもまだ、全貌を理解しているとはとてもいえない。が、その面白さが少しは分かる程度の理解はしているつもりである。「指環」は「ゲルマン神話」と「北欧神話」を題材にした、神聖悲劇のオペラと一言で言うことが出来るが、登場する神々、人間、地下世界の生物(擬人類)は、現代社会の人間の生態そのものであり、苦悩、悦び、欲望、わがままな振る舞いなど、それぞれに共感するところが多い。主要な登場人物にはそれぞれに宿命的な背景と特徴的な性格が割り振られ、ひとりとして同じ人格の登場者はいない。

 

それぞれの登場人物の特徴を知ることで、この楽劇に対する興味は数倍増すものと思われる。それぞれの個性が激しくぶつかり合い、言葉の駆け引き、喧嘩、刃物による損傷事件など、様々な事象が展開される。その中にあって強く貫かれているのは「滅び行くものの命運」=「死」という厳然とした現実である。登場するのは過去の神話の世界に生きた旧世界・別世界の神や人間ではなく、そのストーリーは、今の世に起こる複雑な事象として十分に理解することが出来る。

 

その魅力がこの楽劇に歴史に残る大作としての揺るぎない位置を占めさせているように思われる。また、劇の進行には濃厚かつ精緻な音楽が絶妙に絡み、それぞれの高揚した見せ場、聴き場を提供している。

私のこれまでの知識から、「指環」に登場する主要人物の特徴を下記にまとめた(太字は重要人物)

 

「ラインの黄金」

●ラインの娘たち(3名)            どこにでもいる若い娘っこ。遊びたがり。集中力に欠ける。他者への依存心強く、誘惑に弱い。任務の重さに対する自覚に欠け、軽率な行動に走る。

●アルベリッヒ  地下世界の生物(擬人類)。支配欲、金銭欲の亡者。憮男、醜態、悪代官、悪巧みに長ける。物欲がすべてで、全世界の支配を目指す。女を絶つ(相手にされない)。

●ヴォータン  神性の象徴であり、財力あるも、次第に神々王国の衰退を肌で感じる。生まれながらにして上流環境の中にあり、支配欲は強い。煩悩大。迷い、我儘、立場は分かつているが、分岐点で自分の方針が出せず、苦悩する。大きな流れが読めない。次第に支配力が衰退し、心配が続く。        

●ローゲ  悪巧みに長ける。小物。先は読めるが、自らは危険な瀬戸際には決して立たない。評論家。

ミーメ  ここでの役割は小さい。アルベリッヒにこき使われ、恨みを募らせる人物として登場。

ファフナー  巨人族。動きは鈍い。物欲、支配欲強い。労働に対する対価を厳しく追求する。生き方は積極的でなく、守りの姿勢。力は強いが、智慧はない。

ファーゾルト  巨人族でファフナーの弟分。お人好しな性格で常にファフナーの支配下にある。獲物の分配でファフナーの怒りを買い、惨殺される。

●フリッカ  夫を完全に支配。腹が据わっている。視野は狭いが、自らの義務をしっかりと守り、相手に対する要求も厳しい。怖女房。頑固。意思力強く、周囲への影響力も強い。

フライア  運命に翻弄されるかわいそうな女神。若くて綺麗。

●エルダ  智慧の神。予言力あり、正確に未来を読むことが出来る。神々の王国の暗い没落の未来を予感。ヴォータンが迷った時の相談相手であるが、明るい未来への展望(対応の仕方)は決して語らない。

 

 

「ワルキューレ」

●ジークムント  自分の出身種族の事情はおぼろげに知るが、正確な過去は知らない。自分の名前を知らない。父に育てられるも、幼少時に父は戦争で惨死。力、武闘には自信。心のバランス取れているが、彼を取り巻く周囲は常に大嵐の中。純粋愛を貫くために死す。若き純粋青年。

●ジークリンデ  厳しい運命に翻弄されて生きてきた。人生で喜びを味わったことはないが、心の純潔を貫く。女としての強い意思力あり。女性の理想像の一つとして描かれるが、運命は悲惨な展開。

●フンディング  敵種族の長。種族の大儀に従い、それを冷徹に実行しようとする。部下、兵士等、多くを統率。感情表現はなく、無機質の人物として登場する。

●ヴォータン  神々の王国の危機という最大の分岐点に立ち、苦悩する。立場上、神々の王として処すべき道と、真に自らがこうありたいと望むことへの矛盾・相克に苦しむ。大きな迷いの中で、娘を処罰する。しかし、本意ではない。娘を幽閉する場面は最大の見せ場。

●ブリュンヒルデ  自らのワルキューレとしての任務を知るも、世の信義は何かを自ら問い実行する(結果として、父親に対する反抗)。反抗行動に対して、厳罰を受ける。ヴォータンを父と仰ぐ心は変わらないが、「信」とは何かを問い続け、自らの「幸せ」を捨てての行動に出る。信念の女性。

●フリッカ  頑固一徹でヴォータンの迷いを一蹴する。ここでフリッカが曖昧だと、ドラマが崩れる。神々の王国が守られることが唯一の望み。頑固な女神。

●ワルキューレ達(8名)  任務に忠実な娘たち。ブリュンヒルデの反抗行動に揺れるも、自らはヴォータンの庇護の下に生存保障を求める。本来は「戦いの場で活躍する戦士」であるが、ここでは女性(娘たち)として、か弱い存在として描かれている。

 

 

「ジークフリート」

●ジークフリート  物語の主人公のひとり。自分の力を信じる。純粋な若い男の典型。霊剣、ノートゥングの霊力を持つ。霊力に守られるがその意識には乏しい。陽気。「指環」に無頓着。ファフナー、ミーメ、ヴォータンを次々に殺す。母への思慕。

●ミーメ  兄であるアルベリヒの影響を強く受け、兄を超えようとする。お人好し。器用貧乏。奸計を図るが初志貫徹能力なし。力なし。ジークフリートの家政婦のような役割を選ぶ。すべてに報われることがない、実に哀れな設定の人物。

●さすらい人  旅に出たヴォータン。以前よりさらに目標・自信を失っている。運命に翻弄され、大きな目標を無くしている。神々の王であるが、ジークフリートに討たれるのを知って、彼に近づく。

ファフナー  財宝、「指環」、隠れかぶとを保管して熟睡。ジークフリートの一撃で殺される。保守的で何ら積極的な生き方はしていない。

●エルダ  ヴォータンに呼ばれるが、悲観的な運命を語ることに終始。ヴォータンの展望は開けず、却って落ち込むことになる。娘のノルンたちにこれまでに起こったことを記録させていると述べる。

●ブリュンヒルデ  ジークフリートに覚醒させられる。ジークフリートとの愛に芽生える。一大恋愛場面に至る。この楽劇の第三幕では、蘇ったブリュンヒルデは最も幸せな時間を持つ。神性を失い、人間界に生きるが、全く後悔なし。女性の幸せの絶頂を体全体で表現する。

野の鳥  鳥の声を聞き分けられるようになったジークフリートにこれからの進むべき進路を知らせる。特に、ブリュンヒルデが幽閉された火の山への道を教える。

 

 

「神々の黄昏」

●ジークフリート  若い英雄であり、物語の中心にある。明るい明朗快活な青年。ブリュンヒルデへの熱愛を媚薬で消され、グートルーネに愛を注ぐ。ハーゲンの罠に罹り、背中から槍で突き殺される悲劇の英雄。最後まで「指環」への執着はない。

●ギュンター  ギュンター族をまとめる立場にある部族長であるが、胆力に欠ける。独身。常に自信なく発言も弱い。長らくハーゲンの手玉状態にあるが、自分の意思を主張できずに結局、最後はハーゲンに殺される。

●ハーゲン  アルベリッヒの子で、悪の権化の性格を受け継ぐ。奸計に長ける。「指環」をどのような手段によっても、ジークフリートから奪還することが生涯の目標。部族の統率にも長け、ギュンターより数倍、迫力あり。悪者であるが、劇中ではこの役柄は魅力のある存在。ハーゲンの出来が、この舞台の成否を大きく左右する。無慈悲な悪人を演じきること。

●ブリュンヒルデ  ドラマチックなヒロイン。最初はジークフリートを送り出す貞淑な妻。次に、ジークフリートに疑いを持つ猜疑心に満ちた女。ハーゲンの悪知恵に乗せられて、次第にジークフリートを敵視する。ジークフリートの死後、すべての企みを知り、「指環」の神性を守るために自己犠牲を払い火中の人となる。歌唱力とドラマチック演技の両方が要求される。極めて難しいが魅力的な役柄である。

●グートルーネ  兄のギュンターと同じく、良家のお嬢さん。自分では何も決められない、周囲の動きに翻弄されてしまう哀しい女。結局、ジークフリートも失い何も得ることはない。

●ノルンの娘達(3名)  過去の状況を克明に記憶・記録する女性たち。無性格。淡々と演じられる。物語の中には大きく絡んで来ない。

ラインの娘達(3名)  「指環」をなくしたがあまり悲しむでもなく、ジークフリートと出会っても、無邪気な女の子の様子は変わらない。最後には彼女たちのところに「指環」は戻るが、、。自分たちでは何もしていない。

アルベリッヒ  最後に「指環」を得られない無念の姿が映し出される。ほとんど台詞はないが、地下生物の哀れな結末を象徴する。

 

各々の登場人物のつながりは、相関図ないし系図でそのおおよそを掴むことが出来る。

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NYメトロポリタン、「指環」痛恨の自主辞退(20095月)、その後の顛

2008年秋。「指環」をレヴァインのDVDで何回も見聴きするうちに、全体像がほぼ掴めるようになった。劇中の会話の詳細については分からない事もあるが、少なくともオペラ劇場で日本語の字幕が全くない上演でも、今の舞台はどういう場面か、これからどうなって行くかという程度の表面的な理解はほぼ出来るようになった。また、「リング・ファミリー」(添付資料2、p.138)の系図も描き、自分なりに新しい世界を掴んだのだという満足感があった。家内も時々「指環」に付き合ってくれ、家の中で「ワーグナー」について話し合うこともあった。

 

NYMetでは、英語以外の言葉で上演されるオペラについては、英語、フランス語、スペイン語の字幕スーパーが劇の進行にあわせて掲示される。一方、バイロイト祝祭劇場でのワーグナー劇の上演では、ドイツ語はもちろん、他言語の掲示はない。)

 

ワーグナーを聴き始めて数年後の2009年の正月に、NYMet(ニューヨーク、メトロポリタンオペラ劇場)のホームページを開けてみた。多くのプログラムの中に、この年のメイン・イベントとして、DVDと同じ舞台装置・演出で、レヴァイン指揮で「指環」の連続演奏があることを知った。長年、Metでヴォータンを主唱したJ.モリス(62歳)が年齢から言って、もう最後の舞台となる可能性が高い。

 

しかもMetで十数年間使われたオットー・シェンク演出のワーグナーの台本に忠実な舞台装置での上演は今回が最後とのことである。もし適うものなら、是非、人生に一度、最高の贅沢を享受できぬものかと、チケットの手配を試みた。時期は4月の末~5月初旬のゴールデンウイーク時を狙った。

 

Metはインターネットでチケットの手配と購入が可能である。色々と日程と席場所を検討の上、一応、一日おきの計4日間の連続上演(月、水、金、日曜日)の切符を手配することが出来た。次に安い航空券の手配、また、今回は家内が同伴のため格安ホテルは敬遠し、少々高めの星34クラスのホテルも予約した。工業会の仕事も色々と段取りし、通勤電車中は「指環」の学習に余念なく、すべてをMetに備えた。

 

さて、2009年の春、人類が史上経験したことがないという新型インフルエンザが特定の各地で拡がりを見せていた。3月の末頃から、新型インフルエンザは徐々に世界的パンデミック状態になった来た(特に、日本の報道は今から思えば、相当に加熱気味だった!!)。アメリカ、特に東海岸、中でもニューヨークはパンデミックの中心都市との報道で、4月の半ばになると、連日、アメリカからの飛行機、特にニューヨークからの直行便が成田、関空等、日本の空港に到着すると機内の一斉消毒、搭乗者の発熱チェックが行われた。

 

もし、発熱した搭乗者がいた場合には機内の近くに着席した十数名は12週間、外部と遮断した閉鎖ホテルに監禁され、経過観察が執行された。これが連日、TVで大ニュースとなり、アメリカやカナダへの修学旅行から帰国した高校生達がホテルで足止めを食らった。いわゆる、水際作戦である。

 

人々、物資がこれほど激しく太平洋上を往来している昨今、防疫体制の実効性という点から、この程度の水際作戦に意味があるのかどうか疑問ではあったが、連日の日本政府(厚生労働省)の対応およびマスコミの報道姿勢はかなり殺気立ったものになってきた。

 

加えて、ジュネーブのWHO本部はこの新型インフルエンザは人類にとってに実に危険なものとの情報を流し、流行地域の伝播の指数は、十数日の間にフェーズ4から、フェーズ5、6へと矢継ぎ早に引きあげられた。「感染域の広がりを示す指数」が、いつしか「インフルエンザの危険性を示す指数」との思い込みが日本の受け止め方にはあったようだ。インフルエンザの蔓延で、老人、幼児が次々に亡くなるかも知れないと。

 

日本独特の情報の共有化で、日本の政府および大手企業各社のとった対応は――「不要不急の外出禁止。マスク、うがいの励行。」であった。また、加えて「海外出張は原則禁止、特に北米への出張は厳に自粛すること」であった。町中、道歩く人はうつむき加減でマスクをしたし、電車・バスなどの公共交通機関の車内では、マスクを着用していない乗客は異端視される厳しい雰囲気があった。

 

私の職務上の立場は極めて微妙であった。すでに、化学会社は退職し、これには特に縛られるものではない。その当時の工業会団体の専務理事という立場は、職務上、日常的に厚生労働省とコンタクトがあった。厚生労働省から発せられる様々な通達・通知(新型インフルエンザ対応関係を含めて)を工業会加盟の各社に徹底し、通達事項に対する各社の対応状況の厚生労働省への報告、また、状況に応じて更なる指導への対応等を所管する立場にあった。

 

その後の経過はご存知のとおり、5月に入り気温が暖かくなってくるに従い、事態は急速に沈静化した。しかし、あの年の4月末は、これから何が起こっても不思議ではない、という一種独特の殺気立った雰囲気であった。工業会の責任者として、日々、新型インフルエンザ関係の対応を担当しながら、自分だけは渦中のNYへ観劇というのは、「連休の間の時間は個人のもの」とは言っても、その行動はとても許されないように思われた。悩みに悩んだ末、427日の出発の1週間前、「すべてのキャンセル」を決断した。

 

その後の顛末

キャンセルをしなければならない事柄は、Metのチケット、航空券、ホテルの予約である。また、NY滞在中に数名の旧知の友人と会うべくコンタクトを取っていたが、それらもキャンセルしなければならなかった。メールを入れたり電話したりと失意の中、多忙であったが、相手方のアメリカの友人は一様に「何故、新型インフルエンザで来られなくなるの?日本は相当に蔓延しているの?ニュースで見る東京の映像は皆、街行く人はマスクしているけど、どうして?」という反応であった。

 

当時のNYTimesを読んでみても、日米で新型インフルエンザに対する反応は明らかに温度差があったようである。日本の新聞はどの新聞も、新型インフルエンザの記事は連日、一面のトップ扱いであったが、NYTimesはこの関連の記事は、よく探さないと出てこないという程度の扱いであった。

 

                       Met「指輪」パンフ、2009年、M教授より)

 

当時、日本に住むものとして、今から考えてもあの情報の下での「中止」は致し方のない判断であったと思う。情報の断絶というか、島国の孤立というか、いずれにしてもこういう場合の危機管理に関して、日本民族の修練、胆力は圧倒的に国際的なレベルからは劣っていると言わざるを得ないというのが、私の立場で遭遇した、この事態に対する感想である。

 

さて、Metのチケットは一旦購入したら、返還、ないし転売は出来ないことが、Metとの交渉で判明した(当たり前か!)。先方は「それでは、キャンセルですね(お金は返さないが、劇場はほかに転売するよ!)」の一方的な返事であった。返還を求めて色々と交渉したが、仕方なく諦めるざるを得なかった。いくつかの「すったもんだ」があったが、最終日の「神々の黄昏」のチケットは、転売せずコーネル大学の恩師のM教授にdonationということでプレゼントすることが出来た。先生は前日にイサカからNYまで5時間をドライブし、奥様ともども「神々の黄昏」をエンジョイされた。

 

後日、先生から、同じ演目のDVDをプレゼントで戴いたが、同じものはすでに持っている。特に、このJ.レヴァインのDVDは私のお気に入りで、何回も見ているものである(今回いただいたものは、英語の歌詞表記しか画面に出ないものであるが)。残念ながら、今回、ジェームス・レヴァイン、ジェームス・モリス、プラシド・ドミンゴなど、世紀の音楽人の勇姿は拝めなかった。返す返すも残念至極であった。

 

5月、6月は虚脱人間として時を過ごした。あれだけ騒いだ新型インフルエンザのパンデミック状態はどこへやら。5月連休を過ぎると見事に消えてしまった。日本での死亡者はなし。海外でもその数は僅少。あまり毒性の強いインフルエンザではなかったようだ。翌年、新型インフルエンザの再流行の危険性が叫ばれたが、その後も特段、重大な事態に至っていないのは皆の知るところである。

 

ああ、そこはかと過ぎ行った、春の朧の夢よ、、、。訳の分からないインフルエンザで儲かったのは病院とマスク業界か。WHOも罪な組織だ!! その影響で旅行業、観光業などに従事する多くの人が泣いたが、私もその中の大泣きの一人であった。

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バイロイトに行きたい

2009年、NYMetへのトライアルはうまくいかなかった。やはりワーグナー世界がバイロイト(Bayreuth)中心で動いているのは、発売されている過去のCDDVDおよび諸々の評論からみて明らかである。しかし、バイロイトの切符を入手するのは困難であり、毎年、バイロイト祝祭劇場に切符入手のアプライをしても、ドイツ国内の人も海外の人も10年間は待たされるのが普通との評判はよく耳にするところである。

 

私も先ず、当たることはないと諦めつつも、ウエィティング・リストに並ぶべく、ワーグナーに興味を持ち始めた頃から、毎年、夏に開催される祝祭劇場には応募の手紙を出し続けていた(NYMetはインターネットとVISA送金で切符の予約入手は比較的簡単であったが、バイロイトはそうはいかない。すべて、文書ベースで手紙以外の応募は認められていない)。

 

一方、世界各国には、各地にワーグナー協会なるものが設立されており、各々の協会は毎年一定数のチケットの優先確保が可能で、その構成員には優先的にチケットが配布されることが分かった。ともかく、バイロイト詣でを叶えるためには、直接に祝祭劇場にアプライする方法と、地域の協会(日本では、日本ワーグナー協会)に属する方法がある。

 

私は、両方狙いの対応を取ることにした。日本でのコミュニケーションも重要と思われたので日本ワーグナー協会にも加入することにした。仕事の関係もあり、もし、チケットが入手できたら早期退職をするか、何とか長期休暇(最低2週間は必要!)を取得するかの決断が必要であるが、それはその時に考えることにして、果報は寝て待つことにした。

 

2011年暮れ、ドイツのバイエルン州最高会計検査院および連邦会計検査院が、バイロイト音楽祭を主幹するワーグナー協会を監査し、「バイロイトのチケットがドイツおよび海外の協会に一定数が優先配布され、チケット待ちの多くの聴衆が長期間待たされるのは遺憾であり、永続的な改善措置の提出が必要」との指導・勧告が出された。

 

バイロイト本部協会からは、「チケット配布の公平性を高めるために、今後、ドイツ国内および各国のワーグナー協会へチケットを優先配布することは一切中止する」との通知があった。この事態が続けば、これから先、日本ワーグナー協会からのチケット斡旋はないことになる。今シーズン(2012年)は少なくともチケットの優先配布はない。来年度以降はどうなるか事態は流動的だが、バイロイトが遠い存在であることに変わりはないであろう。)

 

まだまだ、ワーグナーオペラの基本的な経験は足りないし、「指環」以外の主要作品についても一通りは親しみのあるオペラとして接しておく必要がある。そのためには、この先、23年の纏まった時間は必要であった。長時間の楽劇を楽しむためには、先ず、柔軟な音楽鑑賞力があること、それに視力、聴力を合わせた体力、また家人の理解(すなわち、経済的許容性)と時間的な余裕が必要である。雰囲気で音楽を聴くのではない。要は本当に好きかどうか、残り少ない人生をこれにつぎ込んで後悔しないか、、、という判断である。

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全仕事終了

バイロイト・ワーグナー体験(201178月)

 

ニュルンベルグ、ザルツブルク

64.5歳。20116月末に第二の仕事も無事終えることが出来、晴れて自由人となった。幸いにも一名分のこの年の夏のバイロイト・チケット(5演目)を入手することが出来、726日深夜、フランクフルトを目指して関西空港を発った20112012年は 「指環」の公演がなく、バイロイトは例年に較べるとチケット入手の難度が比較的低いということであった。)

 

先ず、時差調整のため、ニュルンベルグに3泊し、「マイスタージンガー」に出てくる城壁の中の旧市街をくまなく散策し、カイザーブルク城の塔頂からの市街の景色を楽しんだ。鉄道旅行に慣れるため、丸一日をかけて、ミュンヘン経由でモーツァルト生誕の地、ザルツブルクに足を伸ばした。ザルツブルクの滞在はわずか2時間程で、「ちょっと景色を見に来ました」、「マクドナルドのハンバーガーを買いに来ました」、という程度の訪問となった。

 

モーツァルトの生家や、彼に関連の色々なミュージアムがあったようであるが、駅からはちょっと距離があったので断念した。基本的にドイツは国境南部の山岳地帯を除いてほとんど平坦である。そういえば、映画サウンド・オブ・ミュージックのなかで「ドレミの歌」が歌われた舞台は、確かザルツブルク近郊の丘陵だったはずだ。オーストリアの山岳地帯の入り口にあるザルツブルクへ向かう車窓から、アルプスの高い山々が見えた時は少しほっとした気分になった。

 

バイロイトへ

ニュルンベルグでの三日間の滞在ののち、満を持してバイロイトに向かった。ニュルンベルグからバイロイトは鉄道で約1時間少々である。単線のローカル線で、2両連結の気動車が来た。憧れのバイロイトは本当に小さな田舎町であった。

 

バイロイトは生憎の雨であった。投宿のホテルは駅からそれほど遠くないと高を括り、歩き始めたが間違った方向に歩きはじめた。途中、道を尋ねるにも人はいなく、散々に迷った挙句、15分程度で行けるところを1時間少々かかつて行き着いた。しかし、「ついに今、バイロイトの街を歩いているのだ」と多少とも興奮気味であった。

 

昼前にホテルにチェックインした。本日の演題は「ニュルンベルグのマイスタージンガー」で午後4時開演である。ホテルから開演20分前くらいに会場に運んでくれるバス・サービスがあるのを知った。しかし、一刻も早く祝祭劇場を見たくて、雨の町を約1時間歩いた。写真でお馴染みのバイロイト祝祭劇場が雨霞につつまれて1キロほど先の坂上に小さく見えたときの感激は生涯忘れることはないだろう。ゆっくりと坂道を上り詰め、劇場の前に到着しても、上演約2時間前の劇場周辺は閑散としており、劇場の周辺の公園の散歩、臨時の本屋、郵便局、劇場のレストランを眺めるなどして時間を過ごした。

 

バイロイト祝祭劇場は、ワーグナーが自らのオペラを演じるためだけの専用劇場として設立した劇場である。彼は作曲だけでなく、設計、資金調達、興行師など、その中には胡散臭い話も見聞きするが、ともかくも彼の突破力というか一途の想いでこれだけのものを成し遂げたのである。その実物が今、目の前にある。

 

ワーグナーは彼の意図とは別に4人の狂人、しかも大狂人に見初められた。フランスの詩人ボードレール、バイエルン国王ルートヴィッヒ2世、哲学者ニーチェ、それにヒトラーである。ヒトラー以外の3名はワーグナーと同時代人である。ボードレールはタンホイザーのパリ公演(1861年)でワーグナーの作品の独自性を見抜き、その評論文が広く読まれたため、今でもフランスにはワーグナー支持者は多いと聞く。ルートヴィッヒ2世は時の国王であり、ワーグナーの熱狂的な庇護者として強力な援助を惜しまなかった時期があった。

 

南ドイツの山中に今や観光名所として名高いノイシュワイシュタイン城を建設し、その中はローエングリンやパルシファルの名場面の壁画で満たされているというが、二人の間に真の友情があったとは信じられていない。また、ニーチェはワーグナーとは30歳ほども歳下の若造であったが、若い時より、ワーグナーに近づきその強烈な支持者として彼の芸術を絶賛する著作を多くものにしている。

 

しかし、ワーグナーがパルシファルーーー神秘的、宗教的総合芸術である一大宗教劇ーーーを完成したとき、それがキリスト教に帰依した作品であることに失望し、強烈な批判を展開し(「悲劇の誕生」における絶賛と、「この人を見よ」の中の罵詈雑言の落差!!)、遂には発狂する。(後述のフィッシャー‐ディスカウのワーグナー評の項、参照)

 

今日においてもなお重たい影をワーグナー芸術に、ドイツに、そしてバイロイトに落としているのがヒトラーである。ナチスはドイツ民族の優越性を主張するためにあらゆるものを利用したが、ワーグナー芸術もそのひとつで多くの場面で利用しつくされた。ワーグナー家一族はヒトラー政権下にあっても大きな庇護の下にあり、大戦前のナチス興隆期には「バイロイト祝祭劇場」はナチスの重要な施設として大切にされた。一方、当時のドイツでは、ワーグナーの芸術を好んではいても、ナチス政権のワーグナー利用についてゆくことが出来ず、国を離れるもの、沈黙するものなど多くの複雑な感情が残された。

 

戦後、ワーグナー再興期、様々な再建の試みが行われ、我々はその恩恵に浴しているが、いまだ、ドイツの地ではワーグナー芸術を素直には容認しがたいという感情を持つドイツ人が多くいることは確かである。事実、私の滞在中、バイロイトでも、バイロイト以外の地でもワーグナーのことに話が及ぶと、会話が進まなかったということを数回経験した。

 

(敗戦後、ドイツに進駐軍が駐留する時期があるが、あの「バイロイト祝祭劇場」が一時、「ストリップ小屋」として使用されたという何とも砂を噛むようなおぞましい話を読んだことがある。)

 

さて、午後3時を過ぎると次第に聴衆が劇場の周辺に集まり始めたが、殆ど全員が正装のイブニングドレスにタキシード姿で、しかも大部分がカップルである。私も事前の情報聴取で一応、スーツ・ネクタイは用意していったが、もう少しダークな服装にしておけばよかったと、多少の後悔をしたがもう遅い。やがて、劇場正面のバルコニーに管楽器奏者が整列し、開演15分前を告げるマイスタージンガーの前奏曲のファンファーレが響いた。遠いがやっとここまで来た。あとは、楽しむだけ楽しむことだ。

 

以下に引用するのは日本ワーグナー協会の季刊誌「リング」(2011年、秋号)に掲載した「2011年、バイロイト音楽祭に参加して」の私の寄稿文である。少し長いがそのまま引用する。ここでは「タンホイザー」を中心に記述している。我が音楽自分史の最大のハイライト場面である。

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2011年、バイロイト音楽祭に参加して」(「リング」寄稿文)

  

ワーグナー音楽を聖地バイロイトで体験したいという十数年来の夢を今年叶える事が出来た。今回、鑑賞したのは、マイスタージンガー、タンホイザー、ローエングリン、パルシファル、トリスタンとイゾルデの順である。マイスタージンガーとトリスタンについてはBS放送やDVD等で、その舞台は知っていたが、他の三演目は初体験であった。

 

重厚感あふれるワーグナーの音をあの劇場で私の体がどう感じるのかが最大の期待でした。実質本位を追求した観客席は狭くて硬いとは聞いていたが、まるで小学生時代に戻ったようだった。舞台下の指揮者やオーケストラは観客席からは見えない。

 

オーケストラピットが見えないという事で、音への集中度が高まり、観客席の木の床からのうねる重低音や管楽器の響きに体が震えた。劇場がコントラバスの中(大きな共鳴箱)と感じた次第である。すべての演目から強烈な印象を受けたが、紙面の関係上、タンホイザーについて記す。

 

タンホイザー81日)。今年のバイロイト音楽祭は新演出のタンホイザーで始まった(725日)。私が体験したのは、期間中、第2回目の公演である。

 

731日、マイスタージンガーの翌日、バイロイトは休演日だった。この日、バイロイト大学の化学系教授である旧知のドイツ人の友に会った。「君は明日のタンホイザーに行くのか?」と妙な質問。よく聞くと「今回の新演出は相当に革新的(?!)で、今年の音楽祭はこのタンホイザーで幕開けしたが、翌日、バイロイト市内の新聞は「意欲的」と書いていたが、ドイツ国内の多くのTV・新聞は困惑を隠せず、かなり辛辣な報道になっている」と。「君はめでたくもその第二回目の公演に立ち会えるわけだ!」と何とも妙な激励を受けた。

 

そのあらすじは、ローマに巡礼に出た人々は許しを得て元の平穏な生活に戻る。一方、タンホイザーは放蕩を尽くし、社会を追放される。巡礼の旅に出るが、教皇の許しは得られず、失意の中、帰還するが、、、。これまでのバイロイトの舞台は記録等で見ると、第一、三幕は森と祈りの広場、第二幕は宮殿広間での歌合戦という設定で、その音楽は、繊細・勇壮だが、舞台設定は簡素である。

 

さて、今回の舞台では観客が入場した時、すでに幕が上がっていた。その舞台は三階建ての工場の内部で、バイオリアクターの反応槽や、アルコールの大きな貯蔵タンクが中央に設置され、太いパイプチューブが各々のタンクを繋いでいた。観客が次々と入場する間も、舞台上では数十名の労働者が黙々とそれぞれの持ち場で生産活動に従事し、演奏が始まる前から舞台は動いていた。また、工場内部はよく見渡せるように、隅々まで随分と明るかった。驚愕でした。

 

序曲は、薄暗い中、ローマに旅立つ巡礼人のしめやかな歩みを表現し、これからのオペラの展開を暗示する美しい音楽である。しかし、この舞台上に巡礼の雰囲気はなく、赤や青の様々な作業服の労働者の一団があの巡礼の旅の旋律に合わせて舞台上をゆっくりと行進、、、から、オペラは始まった。第一幕では工場の床面から突如、円形の檻柵のヴィーナス城が浮上し、赤黒い光の点滅する怪しげな世界にタンホイザーは飲み込まれて行く。想定外の展開であった。 (♪: https://www.youtube.com/watch?v=SRmCEGHt-Qk)

 

この間、工場の一階、二階、三階では労働者が、特に音楽の進行とは関係なく、それぞれの持ち場で生産に従事していた。時折、歌手が二階や三階に上がって歌うため、私は、それら歌手の舞台上の動きや仕草など、どこで何が起こっているのかを見逃すまいと注意を奪われ、あちらこちらを見回した。目が忙しく動き始めるとその分、音楽への集中が希薄になり、なんとももったいない中途半端な聴衆となってしまった。

 

第一幕は予定通り終了するが、舞台上の労働者は音楽の終了後も働き続け、舞台は幕が下りることはなく、聴衆全員が会場を出た。会場がロックアウトされてやっと第一幕が終了という訳だ。聴衆の反応は激しくブーイングをする者、床を蹴る者、拍手をする者、、。祈りと救済の音楽を期待していた私は、何とも言えない驚愕の体験をバイロイトで味わうことになった。第二幕、第三幕の詳細は省くが、随所に工場背景を活用した構成であった。

 

現代のオペラ世界は、それぞれの劇場で年々、新企画が期待され様々なトライアルがなされる。時には、オペラの進行と関係ないスタントプレーが登場したり、その極端な舞台は疑問に思う。現在の演出は、古典芸術をいかに巧みに現代風に読み替えるかが主流になっている。さて、バイロイトのワーグナー世界に聴衆が(私が)求めるのは、「バイロイトは伝統的であり、最上質であり、かつもっとも革新的であるべき」という大きな期待である。

 

今回のタンホイザーの従来の枠を超えた演出は大きな試みである。これが歴史に残るのか、トライアルとして終わるかについては、この数年で評価は固まるであろう。しかし、伝統的で、上質で、革新的であり続ける難しい課題に挑戦するバイロイトの厳しさを、つくづくと感じた次第である。私自身、折角この話題作に直に接することが出来たわけだから、今回の現代版演出の各場面を思い返しながらその意味をさらに反芻してみたい。

 

隣の席のロンドンから来たという紳士は「バイロイトでのタンホイザーはこれが10回目ぐらいになるが、この舞台が最も馴染めない。」と言っていた。

 

また、当地バイロイトでDeutsche Welle誌(720日付)のカタリーナ・ワーグナー(KW)さんへのインタビュー記事を見つけた(英文)

 

質問:「今年のタンホイザーは新演出だが、保守的な聴衆には消化は難しいのではないか?」

KW:「バイロイトにやってくる演出家は、これまでの演出に挑戦(挑発)する意気込みでやってきます。演出の意図は劇場が発行する冊子に簡単に書いてあります。私は聴衆にその演出の意図を説明するのには反対です。そんなことをすれば、すべてのことが面白くなくなります。」

 

最後に、どの演目の時かは忘れたが、幕間の休憩時に、たまたま公園のベンチで隣に座ったドイツの北端の町キールから来た女性と話す機会があった。彼女曰く、「先ほどの舞台の歌手のドイツ語を私は殆ど理解できなかった。ワーグナーは彼独特の難解な造語をよく使うので、あらかじめの勉強は必要ですが、しかし、バイロイトがあのドイツ語を合格にするなんて。北ドイツの住人なので、私のドイツ語が標準とは決して思ってはいないが。」ということであった。私には事の真偽はよくわからないが、聴衆は様々な思いで演目に接しているのだと感じた次第である。

 

今回、ワーグナーの演目をバイロイトという聖地で、心から楽しむ事ができたが、改めて、ワーグナーの構想力の大きさと、伝統を守る中で新たな挑戦を続けるバイロイトの関係者に限りないエネルギーを感じた次第である。             

                     (2011.09.05記)

(日本ワーグナー協会、季刊誌「リング」、2011年秋号より)

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バイロイトで見たもの、聴いたもの

この寄稿文では演出主導の時代のタンホイザーの新演出に驚いたとことを記載したが、この他に観劇した四つの演目、マイスタージンガー、ローエングリン、パルシファル、トリスタンとイゾルデについて、その時に残した走り書きのメモを参考にその時に感じたことを以下に記す。心が震える一週間のバイロイト滞在だった。

 

ニュルンベルグのマイスタージンガー(730日)

今回の演出はワーグナー家直系の四世代目のカタリーナ・ワーグナー演出によるもので、この舞台はすでに数年前から、バイロイトで上演されて来ている。すでに各方面からの報告があるが、演出のさまざまな箇所に新しい趣向が見られた。

 

しかし、私が特に奇異に感じたのは歌つくりの超人であるはずのハンス・ザックスが才気あふれる歌名人として表現されていないように感じたことであった。本来、歌名人の靴職人であるザックスその人は、旧式のタイプライターをガチャガチャと叩き、詩の創作に苦悶する、、、という何とも馴染み難い設定であった。

 

一方、騎士・ワルターは絵かきの設定であったが(まるで程度の悪いペンキ職人で、絵が上手とは決して言えない!)、彼がどうして「歌の才能」を開花させてマイスタージンガーと認められるようになるのか、また、彼の才能をザックスはどのよう

にして見出したのかの、マイスタージンガーの最も意味深いところが不鮮明であった。従来(1980年代のバイロイトや、1990年代のメトロポリタ

ンのDVDなど)の映像に親しんでいる旧人の私にはいささか辛い展開であった。

 

しかし、全体として、ワーグナーの創作した音楽はしっかりと息づいており、私にとって初めての本物のワーグナー体験は満足すべきものであった。勇壮なワーグナーの合唱曲は力強くかつ表情が豊かであり、この演目において遂に本物の音を聞くことが出来たと大いに納得の”ワーグナー初夜”であった。

 

ローエングリン82日)

ローエングリンはドイツ、北欧神話をベースに、これに実在のハインリヒ王をからませてワーグナー自身が作り上げた物語を基に創作された全3幕からなるオペラである。このオペラには有名な旋律も多く、世界で最も親しまれている作品の一つである。第3幕の冒頭には、あの有名な「結婚行進曲」が登場する。よく耳にする結婚讃歌であるが、実際の物語は、そのあとにすぐに破局が訪れるという決してお目出度くはない展開である。
   
さて、ローエングリンの舞台にはハインリヒ王に帰属する多くの兵士達が登場し、いくつかの場面で陶酔に値する壮大な合唱曲を披露する。しかし、この舞台ではその多くの兵士達が異色のネズミ姿で登場する。群衆としてのネズミ達は敵か、味方かが良く分からず、時には不気味に、時には、その挙動は可愛らしく、愛嬌に満ちて表現される。

 

多くのネズミが出てくることで評判になったこのローエングリンの舞台は、驚くほど緻密な演出で構成されていた。しかも、ネルソンスの指揮の下、ローエングリンを歌ったフォーグトらをはじめとする歌手陣は、バイロイトならではのもので、このローエングリンは歴史に残る演目と思った。丁度、この舞台の2週間後の814日に、NHKBS放送でこのローエングリンのライブ中継が行われたという幸運もあったので、鑑賞された方もいると思う。

 

ひとつ付け加えるならば、劇場ではっきりと息づいていた歌手、合唱団のはりのある響きがTVではうまく再現出来ていなかった。やはり、生演奏の魅力というところだろうか。観客席ではしっかりと聞くことのできた舞台上のはりのある歌声と、舞台下のオーケストラピットからの調和のとれた音楽をバランスよく録音するのは、簡単なことではないのだなあとつくづく感じた次第である。これまで生演奏とTV録画の比較などをする経験のない私が素直に感じた印象である。

 

パルシファル(83日)

ワーグナーの最終作品であるパルシファルは魂の救済を主題としたものであり、これまでのドラマチックな作品群に比べると、色彩で言えばダークグレー色の心理劇の様相を呈している。自らの油断で悪霊の支配する病魔に憑かれ、腹部の傷口が閉じることなく絶えず出血に苦しむ

アンフォルタス王が一方の主人公である。王の病の回復を願い周囲のものは様々な祈祷、治療を試みるが、どれもうまくいかない。

 

ある時、すでに亡くなった王の父であるティトレル王からの天の啓示として、智慧を持たぬ若者の無償の行為のみが王の傷を塞ぐことが出来ることが知らされる。そこに登場する無知の若者がパルシファルである。王と若者の両者が様々に絡む中で物語は進行する。パルシファルが惑える者を救うという話の展開はタンホイザーのそれと類似しているが、パルシファルではキリスト教の奥義である聖杯や聖槍が惑える魂の救済に深くかかわっている。

 

(キリスト教による魂の救済を主題としたパルシファルの完成に対し、これまでワーグナーと親密な関係にあったニーチェは激昂し、決定的に離反する。その後に執筆したニーチェの著作「この人を見よ」の中の発狂寸前の魂の揺れはすさましい。)

 

今回の演出では、暗示的な表現、たとえばオペラ開始の序曲の場面で、これまで表現されたことがなかったパルシファルの出産の場面があり、生まれてきた子パルシファルに対する母親の強い想いを回想させるシーンが挿入された。第二幕では見るものすべての目を奪ったが、悪霊であるクリングゾルが駆逐される場面で、突如、ナチスの軍旗が舞台に掲揚され、ハーケンクロイツの腕章を巻いた十数名の兵士が機関銃を持って現れた。

 

戦闘の末、クリングゾルはあえなく崩壊して消えて行くが、ドイツで、特にバイロイトでは禁じ手(?)ではないかと思われるシーンであった。これらの他にも、今回の公演では随分と思い切った現代的な解釈を加味した表現がいくつも見られた。しかし、それらのいずれもが、この作品の理解のための巧みな演出と感じられた次第である。

 

これまでの私の中のパルシファルといえば、朝靄に包まれた深い森と湖の風景、聖杯を祀っての祈りの場面など、どちらかというと古典的な舞台に親しんできた。しかし、第一幕および第三幕とではその状況はまったく異なるが、聖杯をめぐっての真摯な祈りの場面では、舞台上の演出も音楽も深く掘り下げて表現されており、極めて完成度の高い作品に仕上がっていると受け止めた。

 

トリスタンとイゾルデ(84日)

2005年が初演の本公演も今回がバイロイトでの最終年とのことである。初演の2005年当時、この演出は聴衆の理解を全く得ることが出来ず散々な評価であったらしい。しかしながら、次第に聴衆の称賛を得るようになり、2009年にはそのライブ映像が撮られた(200989日に行われたバイロイトでのライブ公演はOPUS ARTEからDVDが販売されている)。

 

今回の公演は、そのDVDと、指揮者、製作者、ソリスト等、すべてが殆ど同一のキャストで構成されていた。したがって、出演者はお互いの呼吸は十分に経験済みであり、私自身もあらかじめの馴染みもあったせいか、落ち着いて鑑賞することが出来た。

 

第一幕、イゾルデにとってすべての事態が自分の意に逆らって進行し、このままでは彼女は政略結婚に飲み込まれる運命にあった。その結婚計画の実行者はかつて大怪我で生死の境にあった敵国人のトリスタンであった。イゾルデはかつて、敵国人であると知りながら、心を込めて治療にあたったその人、トリスタンに裏切られようとしているのであった。それを知ったイゾルデのトリスタンに対する怒りを爆発させる様子はたいへんな迫力であった。

 

第二幕では間違いで媚薬を含んでしまった青いスーツ姿のトリスタンと、黄色いワンピース姿のイゾルデの長大な愛の告白の場面が延々と続く。二人の息もつかせぬ迫力ある激白の熱唱を目の当たりにして、いつもこの場面を聞くには多大のエネルギーが必要であるが、ため息まじりのめまいを覚えた。

第三幕では、決闘で傷ついたトリスタンが次第に衰弱し、死に直面する。幻覚にうなされ、うわ言を繰り返すトリスタンはイゾルデとの再会を唯一最後の願いとして待ちこがれる緊迫した迫真の演技が続く。

 

その時に舞台に緊張が走った(私にはそのように見えた)。死の病床にあるトリスタンにはまだ、かなりの歌唱が残っているにもかかわらず、彼は突然に咳き込み、十分な発声が出来なくなった。トリスタンの従僕役であるクルベナールはその異変(?!)に気づき、何度か舞台の袖に消えて、声を回復させる飲み物(と思われる瓶)をとりに行き、トリスタンに飲ませようとした。

 

これは2009年のDVDでは見られなかったことだ! しかし、トリスタンはその飲み物を飲むことなく、(無事に!)息絶えてしまうが、その間のトリスタンの歌唱は決して本来のものではなかった。果たして、このトリスタンの異変は演技なのか、それとも突然の体調不良によるものなのかは、結局のところよくわからないが、私自身、極めて緊張を覚えたことは確かである。その後、イゾルデが現れ、あの哀しくも美しい「愛の死」が静かに歌われ、幕は無事に降りた。

 

聴衆からは万雷の拍手で出演者には何回もカーテンコールがあった。今となって考え直して見るに、トリスタンは死の床で幻覚の中という状況であるから、あれは「あり」(演技)と考えている。しかし、手の込んだことをやってくれるなと感じた次第である。百戦練磨の舞台人たちである。

(以上、20118月末に作文)

 

今回、ワーグナーの演目をバイロイトという聖地で鑑賞したが、改めて、ワーグナーの構想力と展開力の壮大さ、そして伝統を守りつつも新たな挑戦を続けるバイロイトの関係者に限りないエネルギーを感じた次第である。これまでバイロイトを訪れられた多くの諸兄姉がそれぞれで発言している、あの劇場の重厚感あふれる音の響きを私の体がどう感じるのかが最大の期待であった。

 

聖地だということで、巡礼人としてのハイな感覚があったかも知れないが、やっとのことであの劇場の空気を64歳にして吸うことが出来た。人生最高の瞬間、バイロイトでのワーグナー体験であった。

 

さて、バイロイトのワーグナー世界において聴衆が求めているのは、バイロイトは「伝統的であり、最上質であり、かつもっとも革新的であるべき」という大きな期待感であろう。これまでにも様々なトライアルがバイロイトでなされて来ており、そのたびごとに様々な議論を提起してきた。今回のタンホイザーの従来の枠を超えた演出も大きな試みのひとつと思う。これが歴史に残ってゆくのか、それともトライアルのひとつとして終わってしまうのかについては、これからの数年から十年のうちに評価が固まってゆくものと考える。

 

しかし、伝統的で、上質で、革新的であるという課題に挑戦し続けるというのが、如何に困難なのかという現実をつぶさに見ることが出来た。私自身、折角この革新的ないくつかの話題作に直接に接したわけであるから、今回の舞台の演出の意味を、各場面を思い返しながらじっくりと反芻してみたく思う。

 

オペラという芸術は歌手の力量、オーケストラの適応力、指揮者と演出の三者がバランスよく、うまく調和して初めて優れた舞台の創造が可能という。ワーグナーが思い描いた舞台の創造は、壮大すぎて本当の意味で不可能に近いように思われる。現代の演出主導のオペラの時代がいつまで続くのか、この次にはどのような流れがワーグナー楽劇の世界を形成してゆくのか?「伝統と革新」の中でワーグナー世界がこれからどのように変化して行くのかこれからの動向に興味は尽きない。

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ミキシュというピアニスト

今回、バイロイトを訪問して始めて知ったが、バイロイト祝祭劇場でワーグナーの作品が上演されているほぼ1ヶ月の間、バイロイトの街では、その当日、祝祭劇場で演じられる演目の聴きどころをレクチャーするピアノの演奏会がある。これは、毎朝、10時~12時の2時間、街の小さなホールで上演される。そこに登場するのがステファン・ミキシュ(Stefan Mickisch)というピアニストである。

 

会場には200名程のパイプ椅子の席が用意されている。そこにあるのはスタインウェイのピアノ一台。入場料金は12ユーロ。どのような催しなのか、一度体験してみようと出かけた。その日は「ローエングリン」の上演日であった。ドイツ語は殆ど分からないし、恐らくは退屈するのではとの危惧があったが。ミキシュが登場すると、早速、ローエングリンの静かな序曲の導入部からピアノ演奏が始まった。

 

思いがけない臨場感で聴衆は全くの静寂の中、私も一気にその音楽に引き込まれた。オーケストラの演奏ではないが、一台のピアノで十分にワーグナーの世界を表現しきっている。

 

   

 

 

序曲の演奏に続いて、おもむろにミキシュがオペラの聴きどころの解説とその旋律の演奏を織り交ぜて、話がすすむ。ピアノ演奏される音楽は極めて心地よく、退屈することはない。会場全体をつつむ高揚感の中で、充実の時間を過ごすことが出来た。解説のドイツ語は殆ど理解できなかったが、軽妙な語り口が聴衆を上手く引きつけているのは良く分かるし、時には爆笑や大きな拍手もある。ミキシュのひとり舞台である。なるほど、こういう音楽の楽しみ方もあるのかと知った。

 

さて、演奏会が終了すると、会場出口にミキシュ自身が現れ、聴衆と様々な会話が始まる。私も一言、「素晴らしかったよ。解説には英語も交えて欲しいな」と。ミキシュは、ワーグナーの楽劇だけにとどまらず、ベートーヴェンの交響曲や、他のドイツ作曲家のオペラにもこの活動を広げている様だ。そのいくつかについては会場で録音されたCDが販売されている。私は「指輪(4部作)」、「マイスタージンガー」、「タンホイザー」および、ベートーヴェンの「第3番(英雄)および第6番(田園)交響曲」のCDを求めた。それぞれのCDにはもちろん彼のサインがある。

 

帰国して時々、この演奏会の模様を思い出すべく、これらのCDに耳を傾ける。ドイツ語は相変わらず良く理解できないが、彼のドイツ語の響きは心地よい。ピアノの録音状態は極めてよく、当時、体感した印象をそのままに思い出すことが出来る。彼のピアノ用に編曲した音楽を聴くことで、ワーグナーがメロディーメーカーとして、ずば抜けた天才であることが良く分かる。

 

この演奏会のほとんどの聴衆は、当日の午後にバイロイト祝祭劇場に行く人々である。しかし、中には普段着のご近所さんと思われる方々も音楽を聴きに来ておられる。手ごろな価格で上質の手作りの音楽を聴くことの出来る、ドイツの人々の我々から見たら贅沢な音楽環境をとてもうらやましく思った次第である。

 

さて、現代に生きる我々は、普及したCDや音響装置のお陰で、殆ど日常的にオペラも交響曲もいい状態で聴くことが出来る。20世紀以前に生きた庶民は交響曲や大きなオペラを楽しむことは出来たのだろうか? 「否」である。もともと西欧の音楽は宮廷音楽を起源とし、一部の上流階級の人々がそれらを占有していた。しかし、庶民はベートーヴェンの力強い音楽を、街々を巡回演奏するピアニストの巧みな演奏で上質な音楽を楽しむことが出来たとのことである。そのためか、多くの作曲家は有名な交響曲やグランドオペラなどを競ってピアノ譜にしているが、それはこのようなニーズにそった演奏活動があった影響なのであろう。

 

田舎を巡回するピアニストと数名の歌手によって演奏されるモーツァルトの軽妙で愉快なオペラは、娯楽の少ない田舎の人々にとってはとても大きな楽しみであったことと思う。想像するだけで楽しい。今回のミキシュの活動を通じて、日本では殆ど見る事も聴くこともないが、ドイツでのこのような形での音楽の大衆化は随分と充実したものであり、歴史的な背景もあり、それぞれが楽しむに十分な高級な音楽に仕上がっていたのだと納得した次第である。

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演出主導の作品作り、劇場オペラの映画化、ステージオペラについて

ここ数十年のヨーロッパのオペラ界において、その演出を現代風にアレンジし、抽象化(極端に単純化)した舞台が多く見受けられる。演出家が主導するオペラの時代である。確かにオペラを具現化しようとすれば、先ずストーリー(脚本)があり、次に歌詞とその音楽が作曲され、次にそれを演奏する指揮者、歌手、合唱団、オーケストラ、またそれを現代の舞台に仕上げる演出家との共同作業が必須である(他にも衣装製作、舞台装置製作、広告宣伝、映像記録、、、仕事は多種多様である)。

 

たとえば、ワーグナーの「指環」について言えば、神々の主神であるヴォータンが背広を着て、手には象徴であるノートゥング(槍)は持たず、アタッシュケースを下げて登場する。場所は森ではなく、何の変哲もない普通の事務所。煩悩に苦しむ設定のヴォータンはストレス一杯の現代サラリーマン像と重なる。これではオリジナルな神々の主神ヴォータンに誤解が生じる。慣れれば大した問題ではないのかもしれないが、過度にデフォルメされた舞台演出にはやはり馴染めない。

 

私の経験からはワーグナーオペラへの入門には原作に忠実な舞台から入ったほうが絶対にいい。さもないとワーグナーの理解が随分と歪んだ勘違いに走ることが危惧される。(上記、J.レヴァインの1990年のMetの舞台はもう現実には見ることが出来ない過去のものになってしまったが、原作のイメージに忠実であり入門には最適の教材である。)

 

昨今のヨーロッパでの芸術活動全般において、現代化を強く意識する傾向は、バイロイトにも間違いなく押し寄せて来ている。興行という観点からは、確かに、ワーグナーの時代の舞台をそのまま、百年一日のごとく同じものを使い続けるのは確かに問題である(マンネリに陥り、客離れは必定!)。

 

当時も問題であったとは思うが、現在は興行としてオペラが成り立つためには先ず、話題にならないといけない。作品の仕上がりとして優れているのも重要だろうが、先ずは、劇場に聴衆を集めることが第一義的に重要で、その次にそのDVDCD)が評判になること、放送などのメデイアにさらされることも興行の成果としては重要であろう。

 

しかし、ワーグナーの創造した舞台芸術を歪めていると感じられる多くの現代の演出傾向はいかがなものか(オペラがサーカスに食われたサーカス・オペラのようなものもある。これは歌手には危険だし、歌うことの重要性が軽視されているといわざるを得ない)。古典的な舞台と現代舞台との融合といおうか、さらに発展した形での古典回帰の風が吹いて来てもいいように思う。

 

却って、ヨーロッパから離れたアメリカ・ニューヨークのメトロポリタン劇場のほうが、全般的に古典的スタイル(ワーグナーの舞台を出来るだけ忠実に再現)を保っているといえよう。ドイツの聴衆はアメリカでのワーグナーをどう評価しているのかは知らないが、バイロイト歌手の多くはバイロイトを経験後、アメリカの舞台でもワーグナー歌手として活躍している。これはドイツの視点から、苦々しいことなのだろうか。

 

オペラの劇場映画化

メディアを活用してのオペラの世界発信ではアメリカ(Met)が最近素晴らしい実績を上げている。オペラ劇場での演題の中には、如何にもコストと資本を投入した舞台がある。映画館でオペラを楽しむのが本当のオペラ鑑賞かどうかは一考の要があるが、最近の趨勢はオペラの劇場での演目の映画化である。

 

Metはこのための世界戦略を実行に移し、日本でもオペラシーズンが始まると、Met上演から数週間後に、日本の映画館で身近に日本語字幕つきのオペラが楽しめるようになった。同じ映画オペラが、フランスでも、ロシアでも、ブラジルでも、、、人口の多い国では同時並行的に手軽に視聴できるようになっている。

 

バイロイトに行かないと本物を鑑賞できないという感傷的(!)な時代はもう過去のものなのだろうか。一シーズン中のバイロイトの観客収容能力はたかだか6万人である(19世紀にはその程度の収容力で十分だったはず)。しかし、上で述べたMetが数年前から開始した映画館でのライブ・ビューイングを世界中で上映すると、100万人の聴衆を一週間で集めることは最早それほど難しいことではない。最近の動きを見聞きすると、バイロイトでもこのようなメデイア戦略にようやく腰を上げ始めたようであるが、その行く末はまだどうなるのか良く分からない(おかげで、日本でもNHK-BS中継でバイロイトのワーグナーの一部のライブ放映が可能になった)。

 

音楽の大衆化という大きな流れと質の高い演奏の提供そして、興行としての安定的な成功という三律背反を目指して、これからのオペラ界はこれからも様々な試行、変遷、淘汰がなされてゆくことと思う。バイロイトだけでなく、ウィーン、ミラノ、パリ、コヴェントガーデン(ロンドン)などヨーロッパの主要オペラ劇場がこれからどのように変化して行くのか注意して観察する必要がある。マーケッティングの勝負である。

 

2011シーズン、Met Live Viewing brochure

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ステージオペラ

オペラを視覚を介さずに音楽として楽しむ場合、ライブ録音したCDを聴くか、DVDの映像を消して音楽だけを聴く方法がある。実際、オペラ鑑賞に視覚を伴わずにコンサートホールで純粋に音楽として楽しむスタイルがある。あまりお馴染みではないが、演奏会場で指揮者、ソリスト、合唱団、オーケストラがオペラをオペラ劇場と同様に演奏する。

 

ただしオペラを演じる為の舞台設定はなく、ソリストたちも身振り手振りの演技はなく、ひたすら歌うことに集中する。目の前には大勢の観客がいる。ちょうど見慣れたベートーヴェンの第九の陣容がオペラをやるようなものである。

 

様々な理由で、観客の前で演奏会形式でオペラが上演される。その状況を録音したCDに見られる一般的な特徴は、音の録音がよく、全体として整った感じがする。しかし、その演奏は極めてしばしば臨場感にかける嫌いがある。要するにこじんまり纏ってしまうのであろう。最近では、ショルティがマイスタージンガーのステージ録音を1995年にシカゴで行っている。実力者が勢ぞろいした丹精な演奏であるが、残念ながら何か一つかけている感がしてならない(臨場感に必須の特有の雑音が無い。聴衆の呼吸、興奮が伝わってこないなど)

 

一方、ステージ録音よりもさらに閉鎖環境で、たとえば放送局の録音用のスタジオなどで(観客が存在せずに)、録音の目的でオペラが演じられることがある。オーケストラなどによる交響曲やピアノ協奏曲等は、これまでこの形で頻繁に録音がなされてきた。オペラはもともと観ることに主眼が置かれている。録音のために放送局スタジオなどでオペラを演じるということは殆どなされて来ていない。オペラの生命線である、緊迫感、臨場感がどうしてもライブ演奏に劣るからであろう。

 

ワーグナーオペラは、一演目の上演時間に3~4時間を要する。観客のいない会場で録音をした作品で、ショルティがウィーン・フィルと7年をかけて(195865年)行った「指環」の録音がある(さらに、1960年には同メンバーが同一条件で「トリスタン」を録音している)。特に、この「指環」の演奏は20世紀オペラ演奏の最高峰との評価は高い。1958年といえばちょうどステレオ録音が世の中に出始めた時期である。

 

私自身、色々の「指環」を聴き比べて見て、やはりショルティ盤を一位に推す。持続する緊張感、劇場を越える臨場感は驚嘆に値する。音のプラネタリウムだ。(ショルティの「指環」を評して、ハリウッド映画的な甘ったるくて金ぴかな大向こうむけの《壮大さ》、、、と書いた日本の高名な音楽評論家がいるが、私は彼のこの評価を受ける気にはならない)。

 

では何故、観客のいない場所で録音したショルティ盤か? その理由として、当代最高のソリストを集めたこと。ウィーン・フィルという伝統と気品に輝くオーケストラをショルティが完全掌握したこと。端正な音に加えて、ワーグナー演奏に必須のワイルドな(荒々しい)音をウィーン・フィルから引き出したこと(この音には正直、驚嘆した)などが挙げられる。一日の収録時間を15分程度と決め、演奏と準備に十分な時間をかけたこと。歌手陣が十分な休養をとって歌ったこと。

 

Deccaが社運をかけて、この「指環」に取り組んだこと(録音設備、マイク、集音方法などに様々な工夫があるのは聴いていてよくわかる)。それらの中で、特筆されるのは、この時代、最高のディレクターといわれたジョン・カルーソーが自分の録音哲学を通し、ショルティの全力投球を引き出し、かつそれを支えたことに尽きる。ステージ録音でも、条件を整え、ぶれない一貫した方針で主張を込めて演奏、録音をすれば極上の作品が出来るという証左である。ただし、このような例は稀有であるが、、、。

 

ここ5年間程、ワーグナーに傾倒し、自分の聴き方でワーグナー音楽に接してきた。これが正しく理にかなったワーグナー音楽の接し方かどうかはわからないが、自分なりには誠意を持って取り組んできたつもりである。ニューヨーク訪問はかなわなかったが、念願のバイロイト詣では果たすことが出来た。これからもワーグナー音楽は私の中で多くを占めると思う。

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聖トーマス教会、バッハ墓参

85日、一週間を過ごした想い出のバイロイトを去る。滞在したホテルや駅前では観劇を終えて帰途に着く人、またやっとバイロイトに到着した人など多くの行き交いがあった。私は荷物を転がしながら、ホテルからバイロイト駅までの約1キロたらずの道のりの景色を瞼に焼き付けて歩いた。

 

バイロイト出立の日は、旧国境の東ドイツ側に属したイエナまで乗り換えを含めても約3時間程度の鉄道の旅である。この地を訪ねるのはコーネル大学時代の共同研究者で、今や化学生態学で世界をリードしているマックス・プランク研究所にB教授を訪ねる為である。25年ぶりの再会である。

 

彼はアメリカ人であるが、ドイツの地で化学生態学の研究チームを組織し、その活動の範囲、業績の幅は極めて広い。彼の最も重要な野外の研究フィールドが、なんとアメリカのロッキー山中のユタ州にあるという話には驚いた。旧交を暖め、彼の学問の成果を聞き、思い出話で一夜を過ごした。彼とは音楽の話はなかった。

 

翌日、イエナから今回の旅のもう一つの大きな目的地、ライプチッヒに向かった。この街では約10日間滞在した。ライプチッヒは、ワーグナーやメンデルスゾーン、シューマン、リストなど多くの音楽家を輩出した古い町であり、ゲーテ、ニーチェや森鴎外が学んだ大学町であるとともに、現代ドイツ史を根底から塗り替えた1989年ベルリンの壁の崩壊の起爆となった聖ニコライ教会がある町でもある。

 

私が今回、この町を訪問する目的はバッハが172350年の間、生涯の後半生をカントル(音楽監督)として捧げた聖トーマス教会を訪れることである。すなわち、教会にあるバッハの遺骸を納めた墓碑へお参りをすることと、約300年前にバッハが実際に生きた生活空間に触れることである。

 

ライプチッヒはリング(Ring)と呼ばれる大通りで囲まれた旧市街を中心として外に大きく広がる街で、多くの観光スポットはリングの中にある。トラム(路面電車)網が、リングを中心に郊外に向けて細かく運行されている。町を歩くうちに、歴史的なモニュメントにいくつも出会うことが出来る典型的なヨーロッパの古い中規模都市のひとつである。人口は約50万人。

 

中央駅の近くのホテルに投宿した。ライプチッヒ到着の翌日は日曜日であり、朝早く、人気の殆どない市街に出た。徒歩で聖トーマス教会を目指した。教会方向に歩いて行くと、旧市庁舎前の広場に出た。この広場は、夏の期間、様々な音楽祭が行われ臨時の大きな舞台と多くの観客席が広場前に設営されていた。このシーズンもちょうどこの時期に様々な音楽がスケジュールされていたが、夕方から深夜にかけての催しが主で、朝の会場は閑散としていた。

 

 「アッ、この場所は知っている!」 以前にこの会場で、ボビー・マクファーレンが世界各地から優れた演奏者を招聘し、様々な演目が集う楽しいコンサートを行っている。生憎、その日は夕方からかなりの雨模様であったが、野外音楽に集ったライプチッヒ市民と各出演者の熱演のライブ演奏のDVDが販売されている(TDKコアDVD、”Spirit of Music Part III”、Bobby McFerrin & FriendsTOBA-0101010220026月))。

 

この会場に入った途端に、その夜のコンサートの事を思い出した。ここがあの場所とは認識せずにこれまでDVD映像を楽しんでいたのだった。お粗末な話である。

 

さて、近くに聖トーマス教会が見えてきた。写真で何度か見たことのある、白い尖塔が印象的な白い教会である。それほど規模の大きな教会ではないが、ライプチッヒでは聖ニコライ教会と並んで歴史に残る建造物である。日曜の朝の礼拝の時間であった。重く大きな鉄扉に、中に入ってもいいとのサインがあったので教会の中に入った。

 

日曜日の礼拝の最中であり、300人程度の信者が参列していた。牧師の説教、教会長のお言葉があり、オルガンにあわせて数曲の賛美歌が歌われた。式典の最後に、信者の代表と思われる方のスピーチがあった。話の詳細は分からなかったが、どうも”Fukushima”で亡くなり、被災した人々のために祈ろうという趣旨のスピーチであった。

 

礼拝が終わると参列者は順に教会外に出るが、その際、出口で献金が集められていた。私もいくばくかの献金を行い、式典でスピーチをされた方に「”Fukushima”のために祈っていただいてありがとうございます」と英語で申し上げた。英語の分からない方であったが、近くの人がすぐに私の通訳をしてくれたので、私の申し上げたいことは正確に伝える事が出来た。”Fukushima”の惨禍からほぼ5ヶ月が経っていた。

 

               

 

日曜の礼拝が終ると教会内は閑散としたが、中に入って信者席に座って時間を静かに過ごすことが了解されたので午前中の約2時間を教会の中で過ごした。教会の上座に、バッハの遺骸を納めた墓碑がある。普段、来場者の多い時はその場所はロープで遮断され傍に近づくことは出来ないらしいが、その時は人も少なく近くに行くことが可能だった。しばらく墓碑の横に跪いて時を過ごした。

 

大きなメタルの棺のふたには "JOHANN SEBASTIAN BACH” と記されているだけである。シンプルだが、これでいいのだ。小さな花束が数輪、手向けられていた。この場所でバッハの数多くの作品がバッハ自身の演奏や指揮で初演されたのだという感慨に浸ってしばしの時を過ごした。

 

また、この教会はマルティン・ルッターの宗教改革運動と密接な関係があり、教会のステンドグラスには、バッハと並んでルッターの肖像が大きく描かれている。教会の主柱には1539年の聖霊降臨祭の日曜日にルッターがこの場所で宗教改革の大演説を行ったとのメタルプレートの碑文が埋めこまれていた。バッハの時代を遡ること200年程前の出来事である。

教会の側道を挟んで向かい側に一見、普通の住居と見間違う45階建ての建物がある。その中は民家を改造し数年前に新装なったバッハ博物館である。ここでその日の午後と翌日全部の計一日半を過ごした。オリジナルの楽譜の数々の展示、あの端正であるが独特の筆致のバッハの自筆譜の実物である。実物を見ると、楽想を固めるために何回も何回も推敲した跡が散見される草稿や、美しく清書された楽譜など実に様々なものが展示されていた。

 

また、各地に所蔵されている現存する殆どすべてのバッハの自筆譜は映像化されてこの博物館に集められており、見学者自身による検索が可能であった。館内は閑散としており見学者は少なかったが、学究肌のひとりの男性がじーっと熱心にひとつの楽譜に見入っていた。私はマタイ受難曲の楽譜を映像で探し出し、最初の数ページの音符を追いかけて、ここからあの壮大なドラマが、、、と眺め入った。当時のバッハのファミリーが使った数々の楽器やそれらの修復品の展示、バッハ・ファミリーの壮大な家系図など、現代技術を駆使した展示方法にはドイツの知恵を感じた。

 

翌日、丸一日はオーディオ・ルームで過ごした。静かな小さめのホールにリラックスして過ごす事の出来るゆったりとしたチェアーが8席分設けられており、各人はヘッドホーンで心ゆくまでバッハの総ての作品の中から好きなものをチョイスして聴くことが出来るようになっている。部屋は瞑想世界のようにやや薄暗く、かつ静かである。

 

席に着くと、どのような曲がどのような順番で収納されているのか、どの曲をどの演奏者が演奏しているのか、そのいくつかについてはメモを取りながら検索装置を動かした。あとは、マタイ受難曲をはじめ、無伴奏ヴァイオリン・ソナタ、無伴奏チェロ・ソナタ、平均律クラヴィア曲集からいくつか、ロ短調ミサ曲、、、色々なことを思い出しながらの聴楽であった。博物館の係りの女性が何回か覗きに来たが、スマイルを返した。聖トーマス教会の真向かいに建ったバッハ博物館は、日本から遠いこの地にあって、ゆったりした時間を過ごす事の出来る最高のスポットであった。しかも、安い(6ユーロ)。

 

数日間、ライプチッヒの街を隅々まで歩いた。あとの残りの日々はライプチッヒを起点に鉄道旅行で過ごした。西方向はブロッケン山の蒸気機関車登山、北はバルト海沿岸、東はポーランド国境と、殆どが牧草地、森林そして風力発電の風車という旧東ドイツ領の単調な平野の景色をローカル鉄道から満喫した。

 

バッハやワーグナーが見た風景もこのようだったのかなあと思いながら。この広大な平野では様々な歴史が繰り広げられた。ナポレオンがロシアに侵攻した時、そして退散した時、この平野を通過したはずだ。また、第二次大戦では、ヒトラーのポーランド進駐からの東欧制圧はここらあたりを通ったはずだし、ロシア(ソヴィエト)がベルリン陥落を目指した進軍もこの付近を通過した筈である。

 

日本の風土と違い何と平坦なことか。これでは身を潜めて隠れる場所がない。塹壕が発達したわけだ。 山あり谷ありの日本での伝統的な戦闘方法はこの地ではまったく通じないだろうな、、、など取り止めもない想いをめぐらせながら。 

 

その往復にベルリンやドレスデンなどの大都会を通過することはあったが、今回は大きな町はライプチッヒに限った。約10日間のライプチッヒの滞在の後、ケルンを通り、フランクフルト発、インタンブール経由で帰途に着いた。ゆったりとした思い入れの多いドイツの旅が終った。 

 

 

 

 

 

 

 

 

(ライプチッヒ市内、シティ・トラム)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

DBのローカル列車(左)ICE(右)、ライプチッヒ中央駅)

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これから

ワーグナーの魅力、ワーグナーをこれからどう聴くか

64歳半で公職を退き、自宅で自由時間を過ごせる身分になった。体にはそれなりの老いを感じるものの、まだ日常生活は不自由なく過ごすことが出来る。これからの日々、ワーグナーと共にといきたいところであるが、65歳になった今、聴力は自分では大丈夫と思ってはいるものの、残念ながら視力の衰えは隠せない。数時間を要するDVDの鑑賞は、正直言ってかなり辛い。しかし、耳から入るワーグナーの音楽には随分と慣れてきた。

 

DVDの映像なしの音楽だけでストーリーは追えるようになった。今は、各演奏の聴き比べの贅沢に浸っている。これからは主にビジュアルに頼らない音楽(声楽+オーケストラ)の享受を追求したい。私の生活の中で、耳からの快楽享受の比重は大きい。耳の健康チェックを忘れず、出来る限り音楽と、特にワーグナー音楽とのコンタクトを続けたい。65歳になってこれだけの心躍る時間が持てる環境と体力とに感謝したい。

 

さて、ワーグナー音楽の魅力は何か。それは、ワーグナーの作品を通じて、ドイツ人(ゲルマン民族)の原風景を様々な角度から知ることが出来ることであろう。ヨーロッパ経済全体を牽引する現在のドイツではすでに失われたかもしれないドイツの素朴な原風景が彼の音楽から垣間見る事が出来る。ワーグナーの活躍した19世紀の中頃は、産業革命を経て、ドイツに鉄道網が敷設される時期であった。

 

また、プロイセンのビスマルク政権が強大化し、1871年になってドイツ帝国が成立するが、政治的な安定からはほど遠かった。二十世紀になる前、馬車交通から鉄道網敷設で世の中の変貌著しい過渡期のドイツにワーグナーは生活した。

 

ワーグナー音楽について想像を逞しく聴くと、ドイツ文化の基盤となる神話の世界、中世に生きた人々の世界が見えてくる。神話や中世の時代背景の中に登場する人物は、美しい心情あり、妖怪鬼気とした憤怒あり、淡い恋あり、愛の意思力の強さを示すものなど、現在の我々の生活でしばしば遭遇するのと同じ感情と言おうか、微妙な人の心の動きを見る事が出来る。壮大、ときには繊細な音楽を伴なって様々な感情が語られる。

 

また、ワーグナー音楽ではここぞという時に実に効果的に合唱曲が歌われる。ワーグナーの合唱は人間の感情の起伏を最大効果で表現している。人間の持つ感情は民族、時代を超えて普遍であることを改めて学ぶ。これからもワーグナー世界に関わる事で、まだ気が付いていないワーグナーが表現しようとした思惟・機微から汲み取れるものを体得したい。

 

最後に、再度のバイロイト訪問、ないしはメトロポリタンでのワーグナー体験も出来れば叶えたいものだ。これらが難しい場合には、ミュンヘンでも、ベルリンでもいいが、どこかドイツの歌劇場で、現在のドイツ人の聴衆とともにワーグナー音楽を鑑賞できたらと思う。

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丸山眞男、フルトヴェングラー、フィッシャーディスカウのワーグナー評論

ワーグナー芸術にとりつかれた人は多い。それぞれが論評し、また時には厳しい論争が展開された。私がワーグナーに興味を持ち始めた時は、これまでになされて来た重要な論評・論争のことはほとんど知らなかったし、先ずは長大なオペラそのものに向かうことで精一杯だった。

 

ワーグナーの音楽業績はたしかに偉大であるが、彼の発言、行動はしばしば常人の理解を超えていた。ワーグナーは存命中、急進的な政治結社に身を投じ(ドレスデン蜂起)、その結果、折角手に入れた音楽活動の安定した地位を剥奪され、国外に追放される羽目になった。亡命先のスイス・ジューネーブ近郊では恩人の妻を誘惑して浮気に走つたり、破天荒もはなはだしい。

 

その後の結婚生活においても、人の妻を娶ったりと、正常な精神の持ち主ではおよそ考えられない生活態度が続いた。しかし、人に言わせれば、その時々の波風のたった心模様の変化が作品を産む大きな原動力になったとの評論もあり、何をどう捉えたらいいのか考えれば考えるほど訳がわからない。金銭面においてもだらしなく、必要とあらば借金の無心は平気だったという。

 

しかし、一方ではドイツ中部の寒村であるバイロイトにワーグナー楽劇のための専用劇場を建設するという殆ど夢想に近い壮大な計画に囚われた。フリードリヒ2世という時の国王である大スポンサーを得ることで、紆余曲折の末、その建設事業をなんとか完成させるという途轍もないことをやってのけた。結果として、この劇場の存在はその後のワーグナー芸術の維持・発展に対して果たす役割はとても大きかった(ドイツ全土が焦土と化した第二次大戦においても、この劇場は破壊されずに残った)

 

長大な楽劇の持続的な創造力(「指環」は着想から完成まで30年近くを要している)と、人並みはずれた行動力は凡人にはおよびもつかないエネルギーである。しかし、一方で彼の異常でイモーラルな人生が多くの評論(批判)と揶揄を呼んでいる。

 

ワーグナーの死後、ワーグナー家の人々は残された彼の壮大な遺産を継承すべく様々な対処をする。丁度、第一次世界大戦の敗戦国であるドイツでは1920年代初頭から国内に渦巻く様々な不平、不満等を吸収した国民社会主義的ドイツ労働者党(ナチス)が台頭し、その勢力を急激に伸張させた。不幸なことに、このことはドイツ国を再び第二次世界大戦の戦禍に陥れることになった。

 

この間、ワーグナー家はナチスと様々な形で関わりを持ち、ナチス賞賛のためにワーグナー芸術が積極利用されるという不幸な関係が続いた。戦後、ワーグナー家は当然ながら、大きな批判を受けた。一時、ワーグナー芸術(バイロイト劇場)はワーグナー家から一切、切り離すべきという主張も真剣に議論されたが、慎重に検討の結果、ワーグナー家のワーグナー芸術への関与は再び認められることとなった。

 

しかし、戦時中にワーグナー家がナチスに協力したという歴史上の汚点は消えることはなく、今も、その懺悔と反省に立った上で事業活動が行われている。いまでもドイツの国内外において、ワーグナー家によるワーグナー芸術への関与を許せないという意見の人は多く、ドイツの人々と会話をするとき、特にワーグナーの事に話題がおよぶ場合は、そのような歴史認識の上で行うのが(体験上)望ましいと思う。以下、識者の論評を引用しつつ、我がワーグナー感を纏めておきたい。

 

丸山眞男は日本人の見るワーグナー把握の典型として、フルトヴェングラーは演奏・創作の立場で実績のある人の意見として、フィッシャー‐ディスカウはワーグナーとニーチェの間の鋭角的な関係に鋭くメスを入れた論評として大いに学ぶところがある。

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丸山眞男

さて、ワーグナー論であるが、まず、日本で興味深いワーグナー論を展開したのは、日本政治思想史の碩学、丸山眞男である。丸山は天皇制ファシズムの内面構造を鋭く分析した「軍国主義者の精神形態」や「超国家主義の論理と心理」等の論文を戦後いち早く発表し、戦後の日本の思想界に多大な影響を与えた。

 

また、国内外の過去、現在に関する広い知識をベースに、丸山は鋭い分析手法を駆使し、広範な分野で一流の評論活動を展開した。私の丸山とのかかわりは、福沢諭吉の著作の解説書、「「文明論之概略」を読む(上・中・下)」(岩波新書、1986年刊)を少し丁寧に読んだこと位である。

 

のちに、丸山が狂おしいほどのワグネリアンであり、彼はワーグナー評論をほとんど書き残していないが、あの膨大・緻密な政治思想史の研究とほぼ同じくらいの時間をかけて、終生にわたりワーグナーを聴き込んでいたという事を知った。自宅のオーディオ・ルームには、それこそワーグナー楽劇のLPと多くの総譜が残されており、その総譜には、歌詞内容であったり、印象深いシーンのメモだったりと様々な書き込みがなされている。以下、中野雄著、「丸山眞男、音楽の対話」(文春文庫、1999年)からいくつかを引用する。

 

『ベートーヴェンを超えようとするなら、ワーグナーのような道を選ぶしか仕方がないと思う。超えようというより、別の道を行こうということでしょうね。十九世紀の音楽家でベートーヴェンを最も尊敬したのは、シューベルトとブラームスを除けばワーグナーですからね。彼がバイロイト祝祭劇場を造るとき、定礎式で演奏したのが《第九》です。もちろんワーグナー自身の指揮で、、、。』

 

 『ワーグナーが目指したのは「音と言葉」、つまり音楽(器楽と声楽)に舞台芸術(演劇と美術)を組み合わせた、いわば「総合芸術」の世界ですよ。大袈裟に言えば、人類がかつて経験したことのない、新しい芸術分野の創造です。オーケストラの総奏と歌唱(アリア)だけで、娯楽本位に構成されているイタリア風の歌劇(オペラ)は眼中にない。もっと内容の深い、人生、あるいはこの世を表現し、象徴するような芸術の新様式を創り出したかったんじゃないかな。』

 

中野雄著、「丸山眞男、音楽の対話」(文春文庫、1999年)

 

ドイツの風土について、

『ドイツという国の特徴は、あの暗い森――森の中で行う狩猟生活です。一年の半分は灰色の雲に覆われた空を見て暮らさなくてはならない。ドイツ人は味覚音痴だけれど――ぼくも同類で他人の悪口を言う資格はないな。・・・それにドイツ人は色彩感覚もあまりいいとは言えないけれど――絵や建物を見たって、ラテン系の芸術とは比較になりませんよ。デザインだってどうでしょうかね――、ただ耳だけはいい。夜に暗闇の中で獲物を探したり、敵から身を守ったりするために聴覚が異常に発達したんだと・・・。これはフランス人だったか、イタリア人だったか、外国の有名人の、まあ半分悪口ですね。「音楽的能力だけは認めてやろう」って・・・。』 

 

私が思うに、ドイツの風土=深くて暗い森、といえば「ニーベルンゲンの指環」の第二夜「ジークフリート」にすべてが凝縮されているといっていい。

 

『ワーグナーの「ニーベルンゲンの指環」、これは空前にしておそらく絶後の野心的な試み。』

 

中野氏の解説:「音楽に生き甲斐の半ばを見出していたかのような丸山眞男であるが、壮年期を過ぎる頃までワーグナーを嫌っていた節がある。忌避していた、と言ってもいいだろう。だが、ワーグナーという作曲家は、音楽史上、バッハ、ベートーヴェンと肩を並べるドイツ学派の巨匠である。・・・無視して通り過ごせる存在ではない。丸山が馴染めなかったのはワーグナーの「音楽」ではなかった。この作曲家の思想の根幹にあるドイツ中心民族主義、反ユダヤ主義に対する反感が、丸山の「心の耳」を塞いでいたのである。」

 

丸山にあやかる訳ではないが、私の場合も若い時、ワーグナーに関心を持つ現在の自分はまったく想像出来なかった。やっと、食わず嫌いを止めようと思ったのは、もうじき60歳の声を聞こうかという年齢になってからである。この出会いがあと10年早かったら、または20年早かったら、それ以降の音楽自分史の展開は随分と変わっていたと思う、、、と取り返しのつかない「時間の流れ」を思う。

 

丸山がワーグナーについて考えたこと、受け止めたことはこれらの文章の引用だけではとても十分とはいえないが、彼が相当のワグネリアンであったことははっきりと看て取れる。

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フルトヴェングラー

次に、ウィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwangler)である。1886年、ドイツ・ベルリン生まれで、34歳の若さで1919年ウィーン楽友協会の正指揮者、1922年にベルリン・フィル指揮者に就任し、のちに、ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者にも迎えられ、若くしてドイツ楽壇に君臨する存在となった。1934年にナチスがユダヤ人音楽家を追放した時、それに抗議しその地位を放棄したが、のちに妥協し復職、戦争中もドイツ国内に留まりドイツ音楽の演奏を続けた。

 

そのため、戦後、音楽界から追放されることになるが、1952年には楽壇に復帰し、ベルリン・フィル、ウィーン国立歌劇場、バイロイト、スカラ座、ロンドン・フィルなどに招聘された。古典派からロマン派まで、ドイツ音楽を深く掘り下げて多くの名演奏を残した二十世紀前半に活躍した最高の指揮者と言われる。195411月、バーデン・バーデンで68年の生涯を閉じた。

 

死の年の1954年に「音と言葉」(Ton und Wort)を出版した。これは191854年の間に彼が執筆した論文と講演会での発言記録を集成したものであり、フルトヴェングラーの含蓄のある音楽観が率直に述べられている名著である(日本語訳、芦津丈夫訳、白水社、1996年)。以下、この著作からフルトヴェングラーがワーグナーに関して語った言葉のうち、ポイントと思われる箇所をいくつか引用したい。特に、表現者(演奏者)としての彼の発言は重い。

 

R.ワーグナーは、激しい論議の的となった芸術家として歴史上にも類を見ない。彼の作品および彼の活動が同時代の人々に与えた影響については記述することは決して容易ではない。・・・かって一芸術家が同時代人たちの心をこれほど混乱せしめたこと、かって一芸術作品がこれほど革命的な影響をもたらしたこと、は皆無に近い。また、一つの作品がこれほどの疑惑や頑な拒否をもって迎えられたことも稀である。多くの愛情と崇拝がワーグナーに捧げられたが、これに劣らず多くの憎悪、憤怒にみちた敵意を、彼は耐え忍ばなければならなかった。』

 

『ワーグナーについての見解はさておき、彼の作品、とりわけ音楽作品の発揮する力がいぜんとして驚異的であることは万人の認めるところである。ローマであれパリであれ、ロンドンであれニューヨークであれ、ワーグナーは現在なおオペラの舞台を支配している。ヴェルディやプッチーニのイタリア風歌唱オペラを除けば、オペラ劇場で真に活況を呈しているのは、実のところワーグナーだけである。しかも、彼の作品が聴衆にとってはひどく押しつけがましく、煩わしく、演奏者にとってはひどく困難であるにもかかわらず、これが実情なのである。』

 

『ワーグナーの音楽は、この種の厳粛な音楽にはかつて見られなかったほど大衆的である。彼は階級や教養の程度を問わず万人に語りかける。彼は、極めて気むずかしい知識人の音楽界にも登場すれば、野外コンサートや軍楽隊の演奏にも登場するのである。』

 

フルトヴェングラー、「音と言葉」(日本語訳、芦津丈夫訳、白水社、1996年)

 

若きフルトヴェングラーが「ニーベルンゲンの指環」の実際の舞台を見たとき、それは気の抜けた、誇張された空虚な「舞台」であったとの印象を述べ、ワーグナー芸術の表現者としての注意点をいくつか述べている。

 

『いったいこのような演奏には何が欠如しているのであろうか。いつかワーグナーは、歌手、奏者、演出家、舞台装置家をとわず、およそ解釈者の第一に配慮すべき事柄はいかなる場合も、描写の明確さ、内的および外的な経過の明確さであると語っている。必要な明確ささえ具わっておれば、いわゆる「表現」はおのずと生じるであろうとも言う。』

 

『ワーグナー作品の歌詞は、歌手によって理解されることがごく稀である。おまけにワーグナーの巨大なオーケストラの伴奏が付け加わるからなおさらのことである。しかし聴衆に完全な印象、完全な享受を得させるためには、歌詞の理解が不可欠であり、いかなる瞬間もそれが必要とされる。』

 

『・・・総合芸術に関与する様々な要素が、ワーグナーの求めるあの明確さの生成、まとまった全体的印象の現出を困難にする。・・・この複雑なメカニズムの個々の部分が、実地の演奏に際して、絶えず自己の独立性を要求しがちとなるからである。歌手は奏者すなわち音楽的な全過程を犠牲にし、指揮者はあまりにも押し付けがましいシンフォニー風のオーケストラ指揮によって歌手を犠牲にし、演出家、舞台装置家は・・・、誰もが自己主張に躍起となる。各人が自分のこと、自分自身の効果のみを考え、本来の目的である最終的成果が、多かれ少なかれ偶然に委ねられてしまう。』

 

『ワーグナーは作品の上演にまつわるこのような運命を恐れ、それを予見すらしていた。作品上演のために指示と原則を作成し、一つの様式、一つの伝統を打ち立てること、これこそ作家ワーグナーが生涯にわたって最大の尽力を払った課題のひとつである。』

 

論評の結びとして、

『だが私たちは、まさにこの段階(一方では極端な傾倒、他方ではこれに劣らぬ激しい拒否)を超克せねばならぬ。そこに至る道は、真のワーグナー、すなわち「芸術家」ワーグナーを通してのみ開かれるであろう。そのとき初めてワーグナーとの新しい、真に創造的な関係が見いだされるであろう。そのときはじめてドイツの人々は、この芸術家の真の姿を発見するに違いない。』 と述べた。

 

ワーグナー演奏家としてのフルトヴェングラーは、「誰もがなしえなかった表現の高みを達成した」との評価が高い。彼の語るところからすれば、フルトヴェングラーの内心にどれほどの達成感があったのだろうか?また、これからのワーグナーはどのように変化・変質して行くのか?表現者の中心にいた人物、フルトヴェングラーのこれらの発言は、課題の重さを的確に示した含蓄のある言葉と思う。

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フィッシャー‐ディスカウ

ディートリヒ・フィッシャー‐ディスカウ(Dietrich Fischer-Dieskau)。 フィッシャー‐ディスカウは1925年ベルリン近郊で生まれた。ベルリン高等音楽院で学び、戦後、1948年からベルリン市立歌劇場の専属バリトン歌手となる。1955年に「冬の旅」でニューヨーク・デビューを果たし、この年、バイロイト音楽祭にも招聘され、一躍名声を高めた。フィッシャー‐ディスカウはその後、様々な音楽シーンに登場し、幅広い分野で活躍する。

 

私が特に印象に残るのは次の三つの歌唱である。

先ずは、ジェラルド・ムーアのピアノ伴奏で数々のリート曲を歌ったが、私の好みは月並みかも知れないが、「冬の旅」、「白鳥の歌」、「詩人の恋」などの正統派ドイツ歌曲である。解釈が深く、情感を隅々までに行き渡らせる丁寧な歌唱は群を抜いている (しかし、「水車小屋の娘」だけは、ヘルマン・プライを採りたい。)

 

次に親しんだのは、カール・リヒター指揮の「マタイ受難曲」(1958年盤)での名唱である。リートとはまた違った味わいでフィッシャー‐ディスカウの安定感がマタイをいっそう格調高いものにしている。

 

第三番目として、これらとはまったく性格を異にするが、モーツァルトの「フィガロの結婚」での、嫉妬深い好色漢・アルマヴィーラ伯爵役である(カール・ベーム指揮、CDDVD)。歌唱はもちろんであるが、ちょっと間抜けた好色漢の演技が一流である。

 

フィッシャー‐ディスカウはもちろんワーグナーも歌っている。しかし、どちらかというと主役を張るというよりも、脇役を渋く固める役柄が多いというのが、私の印象である。パルシファル(アンフォルタス役、ショルティ指揮、1972年)、ローエングリン(軍令使役、ショルティ指揮、1985年)、マイスタージンガー(ハンス・ザックス役、オイゲン・ヨッフム指揮、1976)、ラインの黄金(ヴォータン役、カラヤン指揮、1967年)、神々の黄昏(ギュンター役、ショルティ指揮、1964年)などなど。ディトリッヒ・フィッシャー‐ディスカウは、今年(2012年の5月)偉大な足跡を残し、惜しまれつつこの世を去った(享年87歳)。

 

(気になっています:ラファエル・クーべリックの指揮で、「ワルキューレ」のヴォータン役でディスカウが「さらば勇敢で輝かしい乙女よ!」を歌うCDを持っている(EMI、オペラ名アリア集、1978年録音?)。この曲はヴォータンが万感の思いで歌う、「ワルキューレ」最高の感動的シーンで、このオリジナル録音の情報を随分と探したが、未だに見つけられないでいる。ステージオペラ形式の演奏会でこの曲だけを歌ったのかもしれない。出来れば全曲演奏のオペラであって欲しいが。求む情報!)

 

さて、フィッシャー‐ディスカウの「ワーグナー評論」である。いかに知的な歌手とは言え、フィッシャー‐ディスカウが文筆活動でワーグナー論評を書いていると知ったときは正直、驚いた。こういう歌手が今までいただろうか。「ワーグナーとニーチェ」というのがそのタイトルである(Wagner und NietzscheDer Mystagoge und sein Abtrunniger―、1974年)(邦訳:荒井秀直訳、白水社、1976年)。日本語訳で全359ページという大作である。ワーグナーとニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)が出会うまでのそれぞれの生活風景とその背景から始まり、出会い、蜜月、疑念、離反と順を追って、文献考証もしっかりとされた記述である。

 

さて、フィッシャー‐ディスカウの「ワーグナー評論」である。いかに知的な歌手とは言え、フィッシャー‐ディスカウが文筆活動でワーグナー論評を書いていると知ったときは正直、驚いた。こういう歌手が今までいただろうか。「ワーグナーとニーチェ」というのがそのタイトルである(Wagner und NietzscheDer Mystagoge und sein Abtrunniger―、1974年)(邦訳:荒井秀直訳、白水社、1976年)。日本語訳で全359ページという大作である。

 

ワーグナーとニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)が出会うまでのそれぞれの生活風景とその背景から始まり、出会い、蜜月、疑念、離反と順を追って、文献考証もしっかりとされた記述である。現役バリバリの大歌手が書いたというよりは、この著作は音楽史専攻の学者の論文といっても何ら不自然なところはない。1974年といえば、彼は49歳。

 

フィッシャー‐ディスカウ、「ワーグナーとニーチェ」                 

(邦訳:荒井秀直訳、白水社、1976年)

 

フィッシャー‐ディスカウは活動期間の長い歌手(1947年から2012年までの約60年間)であったとはいえ、歌手として最も充実する年齢にあって、このような哲学的命題に対して問題意識を持ち続け、論文 を書き上げるという真摯な生き方に驚嘆する。

 

さて、ワーグナーとニーチェの関係について年を追って記述すると、

先ず、ワーグナーは1813年に生まれ、1883年に70歳でなくなった。一方、ニーチェは1844年に生まれ、1900年に56歳で死去した。ニーチェは生来、感受性が豊かで病的なほどに思考の鋭い哲学者であり、24歳の若さでバーゼル大学教授の職を得た。ワーグナーとの関係で言えば、まず、31歳という二人の年齢差であろう。海千山千で老練なワーグナーに対して、鋭利思考の若き哲学者との出会いは興味深い。

 

         

                    リヒャルト・ワーグナー               フリードリヒ・ニーチェ

 

ここでなぜニーチェが登場するのかといえば、ワーグナー芸術の評論に関して、彼の音楽界、哲学界に対して残した足跡はあまりに大きく、しかも波乱に富んでいるからである。現代のワーグナー解釈においてもニーチェ評論とどのような距離を保つかということが大きな足枷となっているようだ。私の力量でどこまで踏み込めるか疑問であるが、その関連につき多少の記述を試みたい。

 

ニーチェ年譜のうち、ワーグナーに関係した主なものは次の通りである:

1868年。  (日本は明治維新の年)24歳のニーチェは「トリスタン」、「マイスタージンガー」の前奏曲を聴き、完全 に心酔し絶対崇拝的にワーグナーを思慕する。このときワーグナーは55歳であった。

1869年。  スイス・ルツェルン近くのトリープシェンに亡命中のワーグナーを訪問。初めての面会を果たす。その後、72年までの間にワーグナーと20回以上面会をする。

1872年。  「悲劇の誕生」出版。ワーグナー芸術を絶対視し、現代ドイツ精神の復興、「悲劇の再生」と位置付ける。

1874年。  ワーグナーの招待でバイロイトを訪問。ワーグナーの思考、作品に関し、疑問を持ち始める。

1876年。  バイロイト祝祭劇場の?落しで「指環」を聴くが、途中で退席する。以後、ワーグナーとは直接に会うことはなかった。

1878年。  「人間的な、あまりに人間的な」を出版。ワーグナー批判を展開する。同年、ワーグナーが自作「パルシファル」(ニーチェが最も憎悪した作品)の総譜をニーチェに送る。ニーチェは返礼として「人間的な、、、」を贈り、二人の関係は完全に断絶する。

1883年。  ワーグナー死去。

1888年。  「この人を見よ」出版。これまでの自己思索活動の総括を展開。ここにおいてもワーグナー批判は辛辣を極める。

1889年。  ニーチェ発狂。

1900年。  ワイマールで死去(享年56歳)。

 

ニーチェがなぜワーグナーに惹かれていったかという点に関しては、音楽が好きで自らも音楽家としての大成を夢見た事もあったといわれるニーチェが、従来の音楽を超越したワーグナーの存在を知ったときの帰依の感情の芽生えを考えると容易に想像できる。17歳の時に「トリスタンとイゾルデ」のピアノ楽譜を入手し、自ら何度もピアノ演奏を行い、相当の習熟を達成したと言われている。

 

以降、ニーチェの生活、思考の中にワーグナーは深く根を下ろし、実際は憎悪した期間のほうが友好を保った期間よりもはるかに長いにもかかわらず、生涯を通じてニーチェの心の中にはワーグナーは大きく存在し続けた。

 

ニーチェ全集14(ちくま学芸文庫)の「ニーチェ対ワーグナー:心理学者の公文書」という文書の中には、ニーチェの最後の言葉として『疲れたのである。・・・・私はリヒヤルト・ワーグナー以外には誰一人として所有してはいなかったからである。』とある。要するに、ワーグナーを中心としてニーチェの思考は回転し、敬愛から憎悪へ、そして遂には発狂という苦い結末へと至る。

 

ワーグナーは上にも述べたとおり、31歳年下の若者が彼の傍に現れたとき、どうであったか。ワーグナーは表面的には敬愛に満ちて丁寧な応対をしたであろう。ニーチェはワーグナーにとってはあまり馴染みのない大学界、哲学界の若き俊英であり、しかもずば抜けた情報発信力を備えている。使いようによってはワーグナー芸術の大いなる宣伝のために利用できると考えたのではないか。もし、その存在が疎ましくなれば、関係は絶ったらいい、それぐらいの認識ではなかったかと勝手に想像するが――。現代社会においてもよく見聞きする話である。

 

ともかくも、ワーグナーの前に現れたニーチェは、ワーグナーの思惑通りに積極的に著作活動を進め、「悲劇の誕生」を28歳のときに発刊した。しかしながら、この著作の評価をめぐっては、賛否が相半ばし、音楽家からはおおむね賛意を得たが、多くの学者の間で肯定的な反響は起こらなかった。その理由は、「学者に対し、・・・ただ芸術の中にのみ世界を変える力、救済と解放の力を認めよと要求することは出来ない」と頑としたものであった。この著作で、ニーチェは広く世に知られる存在となるが、同時に執拗な敵対者を多く持つ結果となった。

 

この著作の本論「音楽の精髄からの悲劇の誕生」には25編の論文が収められており、その巻頭には簡明であるが熱のこもった「リヒヤルト・ワーグナーにあてた序言」を記している。論文「ワーグナーの楽劇」の中では「トリスタン」を、また別の論文「芸術としての音楽的悲劇と美的聴衆」では「ローエングリン」に対して積極的に賛意を表している。この著作に対し(表面的に)ワーグナーは歓迎の意を表した。が、彼の心情が本当はどこにあったのかというのは大きな関心事である。表面的な対応は別として、ワーグナーの本心はニーチェによって揺らぐような事はなく、それ以降の作曲活動においても、ニーチェから影響をうけることはまったくといっていいほどなかったのではないか。誤解を恐れずに言えば、二人の関係は、ほとんどニーチェの「独り相撲」ではなかったか?

 

さて、このようにほとんど熱中症にかかったような状態の30歳の青年ニーチェの心にワーグナーに対する少しばかりの疑念が芽生えるが、この変化の兆しは重要で興味深い。ここで、フィッシャー‐ディスカウの研究書を参考に、疑念の発端である1872年から1874年にいたる状況を調べてみたい。

 

1872

●ワーグナー一家はバイロイトに向けてスイス・トリープシェンを離れた。

●世間からのワーグナー芸術に対する攻撃(古典的な音楽形式の破壊者。純音楽の終末を招いた。)が激しくなり、中には精神病理学的研究と称し、ワーグナーは妄想にとりつかれているという決めつけがなされた。

●ニーチェはワーグナーから地理的に離れ、不安の日々を過ごした。とりわけ、公然と仕掛けられた論争に激昂し、その対応等で精力を浪費することが多く、体調不良が続いた。

●ニーチェはワーグナーにもっと忠実に仕えるには、どうしたらいいかを日々悩み続けた。

●ニーチェと距離を置いたワーグナーは、一方では宣伝面での協力として彼を必要としながらも、他方では専門家の世界で敵意を持って見られているらしいこの「恐るべき子供(ニーチェ)」を、よりにもよって自分の代弁者にすることがどんなに危険かを、意識し始めた。

 

1873

●バイロイト祝祭劇場の建設に必要な資金が枯渇した。特に、バイロイトという田舎に劇場を作る事に対する都会人の反対は強かった(もし、「指環」をベルリンで初演するなら建設資金はどんどん集まるという意見があったが、ワーグナーはバイロイトを頑として譲らなかった)

●ニーチェはスイスで学職にあったが、ワーグナーとの往復書簡等から、活動を続けるワーグナーと比べて、ニーチェはことあるごとに自分は受動的だと見られていると感じた。ワーグナーが見せている・・・実践的ヒロイズムに、ニーチェはひそかに嫉妬した。やがてこれは実際に隠しおおすことが出来なくなってきた。

●ワーグナーに対する彼の熱狂は、はじめはほとんど気づかれぬくらいに、理解してもらえない者の、恐らくはなりそこないの音楽家(ニーチェ)の、愛するがゆえの憎しみへと移って行った。

 

1874

●ニーチェは第2作「反時代的考察」を出版した。その中には肯定的にワーグナー観が表現されている。「芸術家ワーグナーの偉大さの本質は、いわばあらゆる言語を使って自己を語り、最も独自な内的体験を最高の判明性を持って認識させるところの、彼の本性のほかならぬかのデーモン的伝達にある」、「「ニーベルンゲンの指環」は思考の概念的形成を伴わない一つの巨大な思想体系である。」などなど、、、難解でよくわからないが、ワーグナーを絶賛している。

●しかし、出版社の人づてにニーチェの耳に入ってきたのは、ワーグナーがこの本について冷淡で、否定的な意見を述べたということであった。

●ニーチェは、次の創作のためにバイロイト事業が失敗するという前提の研究を始めた(実際、1876年に劇場は?落しする)。その草稿には、①失敗の原因、中でもとりわけ奇異の念をいだかせるもの。ワーグナーに対する共感の欠如。困難かつ複雑。②ワーグナーの二重性。③情熱、法悦、危険の数々。④音楽とドラマ。共存。⑤尊大。⑥晩成型の男らしさ。ゆっくりとした発展。⑦著述家としてのワーグナー。⑧友人たち(彼らは新たな疑念をよびおこす)。⑨敵たち(彼らは尊敬の念も、また論点に対してもなんの興味もいだかぬ)。⑩不審の念は説明される、あるいは取り除かれるだろうか。以上である。

●フィッシャー‐ディスカウがこの草稿を長々と引用したのは、同情と賛嘆と嫌悪が同じように入り混じった気持ちから打ち出されたこの分析が、ワーグナーの本質を説明していると判断したからと述べている。また、これは後に続く世代の芸術のありように対するニーチェの予見をも示していると判断した。

●事態が一転して、バイロイト計画成功の一報が入ったとき、ニーチェはこれを「奇跡」と表現した。また、奇跡が真実でも、彼は「自分の観察結果を覆すことはない」と友人に知らせた。

 

長々と引用したが、ここから先の経過は、ニーチェの著作、「ワーグナーの場合(1888年)」、「この人を見よ(1888年)」を読めば一目瞭然である。ここからワーグナーへの徹底否定が始まる。凄惨きわまる造語の連続で激しい文章が書き連らねられており、引用すること自体が無為と思われるような激文である。一方のワーグナーはといえば、ニーチェの様々な言動に耳を貸すことなく、作曲、自作上演、劇場維持、など自分の思うところを歩んだ。

 

フィッシャー‐ディスカウは著作の「おわりに」の項で 『ニーチェとワーグナーの対決は、過去においても現在においても、異質な才能同士の闘いである。・・・・ワーグナーはオーケストラの感覚的な響きに自らを代弁させる重要な任務を与えることが出来た。・・・・一方、ニーチェは自分をねたみ深い男とし、、、ほとんどの社会的な庇護から身を引いてしまっただけに、なおさらのように自己主張をしたくてたまらなかったのであろう。』 と記している。

 

両者は壮絶な闘いの中に生きた。ニーチェの告発文の中には、たしかにワーグナー理解に役立つ面はある。しかし、何せ毒が多い。毒がうつっては困る。とても凡人である私は鵜呑みにするわけにはいかない。さもないとニーチェが言うところの「ワーグナーは音楽を病気にしてしまった。」の信奉者になってしまう。しかし、ニーチェが全身で浴びた寂寞とした孤立は、本当に辛いものであったと思う。

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音楽に対する感受性と年齢の関係。最後まで体に残る五感

人間には、外環境の変化を感じるために、いわゆる五感が張り巡らされている。視、聴、嗅、味、触である。能力的に人間の五感が狩猟生活をするサヴァンナの肉食動物、草食動物のそれに比べて優れているかといえば、決してそうとは思えない。人間の環境検知の能力は「ほどほど程度」というところが妥当なのであろう。

 

「視」:草原に生息するシマウマやキリンたちの、草原に忍び寄るライオンたちをいち早く見つけるための視力の発達は人間の比ではないであろう。人間の視力の特徴は、色彩の識別や形の認識に優位に働いてきた。レオナルド・ダ・ビンチはその格言で「視覚こそ五感で最も重要なもの」といい、「視覚こそが世界の美しさを包み込むのだ。

 

視覚は天文学の師であり、人間のあらゆる技術を助け、視覚は人間を世界の隅々までおもむかせる。」「数学の発達も視覚に依存し、視覚による知識は最も確実。」「視覚は建築、図面を生み、絵画という聖なる芸術を創始した。」とある。ダ・ビンチならではの発言である。たしかに我々の日常生活においては視覚が最も大切な五感であることは認めざるを得ない。

 

「聴」:野生の動物や鳥たちは、その敵からの襲来を察知するために、聴覚(聞く能力)を異常に発達させているのは理にかなっている。野生の動物たちは「聞くこと」のスペシャリストである。はたして人間の聞く能力は?人間の場合は「聞くこと」よりも「聴くこと」に重点が置かれる。「聞くこと」は物音や人の話を耳で捉えるという、物理音を捉える行為と意味付けされるのに対し、「聴くこと」は耳に感じたものからそれだと知ることと捉えられる。

 

すなわち、人の美しい声や自然のさえずり、さわやかな風の音、音楽、、、など心に「快」を生じさせるという意味において聴覚を発達させているのは人間だけと思う。音楽は人間のみに所有を許された耳が快を感じる創造物である。「聴くこと」は人間のみに許された行為と考えることは出来ないか。耳からの快楽を楽しむ生物。人間は何と貪欲な事か。

 

ついでに、「嗅」:警察犬の、嗅覚を頼りに犯人を追尾する能力はとても人間の及ぶところではない。人間で言うところの嗅覚の発達は、ソムリエとか調香師とか、一部の人間に特殊な能力を備えた人がいるが、犬の前では脱帽であろう。熊の嗅覚は犬よりもさらにはるかに鋭いという。

 

「味」:人はそれぞれに味覚を発達させているが、育った環境に大きく左右され、しかも個人差が大きい。動物たちも味覚は発達させているであろうが、人との関係では比較の仕様がない。

 

「触」:これも重要な感覚である。およそ生きているもの、すべては「触」を基礎としてその関係を築く。社会性、集団生活の維持も「触」がベースと考えていいのではないか。人間も、哺乳類も、鳥類も、、、。爬虫類と魚類は関係ないか??、、。

 

人間にとって、芸術活動に関与するものは主に「視」「聴」であることを述べた。本論に戻る。

老化は、今の私個人にとって避けて通れない確実に眼前に迫って来た現実である。視力は老眼に加え、長時間の画面監視が続くパソコン操作や、車の運転など「視」に基づく動作は、次第にしんどくなってきている。これ以上、視力で作業することがしんどくなればそれは切り捨ててゆくより仕方がないと思っている。

 

一方、音楽を聴く活動であるが、先日の聴力検査では「やや高音部が聞き取りにくくなっているものの、日常生活においては何ら、今の時点では支障がない」と専門医にお墨付きをいただいた。しかし、私自身が心配なのは、これまでに多くの音楽を聴いて、それぞれの場面で豊かな気持ちになることが出来たが、それはひとえに音に対する感受性が保てたからである。

 

これからも耳が聞こえる限り、音楽を楽しみたいが、問題は若い時、中年の時と同じように音楽を聴いて「体が震えるような幸せ感」を得るような感受性が、老年期に入っても維持できるのかどうかということである。私は「Yes」説を信じたい。丸山眞男にしろ、吉田秀和にしろ、老いてもなお、感受性豊かに音楽を楽しまれた。私もそうありたい。命の続く限り、耳からの快楽を楽しみたいというのが、今の私の切なる希望である。

 

さて、五感について書いてきたが、人間、誰もが死に直面した時、すべての五感の感受性は次第に薄れてゆく。それが完全に途絶えた時が、すなわち、死を迎えたときである。たとえば、植物人間状態で長らく臥せる人がいるが、目、鼻、皮膚などの機能は停止しても、脳波検査をすると、聴力はかなりの期間、植物状態にあってもその機能が維持されていることが観察されることがあるという。もし私が長患いで不幸にして植物状態になったとしても、私の枕元ではあまり「現実」の話はしないでもらいたい。

 

聞こえてきても何の反応も出来ないのだから。むしろ、植物状態になったら、枕元で小さな音でいいから、親しんだ音楽を「聴かせて」いただければ有難い。今から、遺言に加えて、その「選曲リスト」を作成しておくのも悪くないと思う。いや「リスト作成」ではなく、iPodに取り込んでおかなければ家人に余分な迷惑がかかる。

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秋空と秋風

 

(奈良・平城宮跡、2012年・秋)


 

 

あとがき

本稿を書き進めるにあたって、これまで聴いてきた様々な音楽を聴き返しながら筆を進めた。しばらくご無沙汰の作品の中には、青春時代を思い出すものも多くあった。聴き返してみると、いずれからもその当時に受けた印象と記憶が蘇って来る。決して古臭いとか陳腐には聴こえない。音楽は普遍ということであろう。これを期に、若い頃や中年代に親しんだ作品をもう一度、おさらいしてみたい。

 

いい音楽・演奏にめぐり合うというのは、ちょうど砂金堀師が砂礫の中からたまたま金片を見つけるようなもので、なかなか「ゾッコンというもの」には出会わない。また、自ら動かないといいものには出会えない。手元にはCDDVD類が数千枚ある。しかし、一度きり、または、途中までしか聴いていないというものも随分多い。心に留まり、記憶に残り、その後も繰り返して聴くものはたかだか全体の1~2割程度であろう。ストックしたCD類は随分の物量になる。残り時間を考えると、たぶん聴くことはもうないかもしれないが、棚に並べられ静かに出番を待ってもらっている状況である。今後も、体力(聴力、視力)と気力とお金の続く限り、新たな出会いを求めたい。

 

これまで「ものを書きたい」という漠然とした欲求があったが、これで「了」としよう。歳とともに目もかなり不自由になり、自然の成り行きとして、パソコンに向かう姿勢を長く続けることが辛くなった。ここらが潮時であろう。世の中、インターネット時代で情報検索は随分と楽になった。溢れる情報の中で、それらの適切な取捨選択には明晰な眼力が必要である事を学んだ。本文中の引用箇所は出来るだけその出典を明示した。私の誤解や無理解による文章内容の誤りと偏見、我田引水についてはご容赦願いたい。

 

本稿の執筆に当たり、長年にわたる音楽の友であり、今回、原稿の隅々まで査読戴いた友人Tさんこと対馬和礼さんに厚く御礼を申し上げます。また、様々な観点からアドバイスを戴いた小澤聖一さんに深謝致します。

 

最後になるが、本稿を音楽の話を殆どすることのなかったわが子供たち、のり、なお、らんに捧げる。また、「一人遊びの名人」と私の音楽のわがままを暖かく見守ってくれた妻、千映子に大きな謝意を表したい。孫娘・和泉からはホームページの作成にあたり多くのサポートを得た。ありがとう。愛犬パルは、私の「ワーグナー時間」のほとんどを一緒に過ごしてくれた。

                               

 2012(平成24年)12月  

(執筆期間:2012年、311月)

 

庭の草花

2012年・秋)

(♪:▶ Shaylee - 庭の千草 - The last rose of summer ( Japanese vir.) -) YouTube )



最後に

(♪:Inspiration - Gipsy Kings - YouTube )


 

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添付資料


 

 

添付資料2

 


 

添付資料3

 

 

 


 


 

 

 

 

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