A
whole story of my recent
stomach
cancer operation (2014)
宮門 正和
Masakazu
Miyakado
宇治市、京都府
Uji,
Kyoto, Japan
目次
世に胃ガンを患い、手術をする人は多い。以下に記す『胃ガン手術、顛末記(2014年)』は、私の最近の胃ガン手術の体験を記したもので、取り立てて目新しいものではない。この記述は、私と同じ遺伝子を共有する妹、そして私の子供達、孫達および妹の子供達、孫達に対するメッセージである。他の方々は胃ガンになられた時に、手術の前に読んで戴ければと思う。何らかの参考になると思う。
我が家の父方の家系は胃ガンの系統である。父も、祖父も、祖母もいずれも70歳代に胃ガンで亡くしている。また、父は若い時から、腎臓に疾患があり、具体的にどのような症状だったかの記憶はないが、塩分制限の食事を続けていたのを記憶している。遺伝の影響かどうかはわからぬが、私にも50歳頃に血尿、尿たんぱくが認められ、腎臓に要注意のシグナルが出た。父からのプレゼントと直感した。それ以来、日常生活は大きな支障もなく過ごしているものの、暴飲暴食、特に塩分摂取には気を付けている。また、父も私も全く酒が飲めない体質であり、お互いの声もよく似ているらしい。最近では、ご近所さんからは「お父さんの体型に似てきやはったね」とも言われる。このようなことから、親から子へと病気・体質は確かな確率で遺伝するのだと思うようになった。私の体には父から1/2の遺伝子が確実に由来している。
というわけで、50歳以降、特に、胃に関してはスペシャル・ケアで、年一回、胃カメラか、またはバリウムで咽頭部から十二指腸にいたる上部消化器の検診を欠かさず受診している。今年は9月に胃カメラ検診を受けた。そして、胃ガンを宣告され、胃の2/3を切除することになった。
以下は、この9月から年末にかけての胃カメラ検診、手術、手術後の経過、退院後の約2ヶ月間のアフター・ケアについて記す。これはあくまでも私の主観に基づき、記憶に残った事柄の記載である。もとより本稿は、医療行為の妥当性や疑問提起から記述するものではない。今回の手術に関係していただいた諸先生方に対しては、最大限の敬意と謝意を表したい。術後に体験した様々な出来事は、私の体質に由来したものと思っている。その点をご理解願いたい。67歳の体験記である。
長年、ホーム・ドクターとしてお世話になっているEクリニックで、年一回の慣例の胃カメラ検診を受けた。カメラが挿入されているとき、苦しいながら、私も胃の内部を映すモニター画面を覗くことが出来る。カメラが胃の深部に届いたときに、私は「ハッ」と思った。と、先生も「ありますね。」ということで、十二指腸への入り口の幽門部の近くに3センチくらいの大きさの「異様な色の皮膚層」が見つかった。あっけない瞬間であった。患部とその周辺の数か所から生検のためのサンプリングを行い、検査の結果、数日後にその「異様な皮膚層」は胃ガンと確定した。ガンの告知を受けるとき、多くの人は「なんで?」とその事実を受け止めることに逡巡するという。私の場合、長年の覚悟の結果とはいえ、モニターを見ていたこともあったためか、「ああ、やっぱり来たか!」という感じで受けとめた。
幸か不幸か、胃ガンはカメラを通して直接に目にすることのできるガンである。確か高校時代の生物の授業で「我々の体はチクワのような構造で、発生生物学的には消化器はチクワの中筒に相当し、皮膚と同様、胃や腸は体の表面である。」という事を聞いた記憶がある。胃ガンも皮膚表面に出来るガンの一種である。しかし、胃ガンは目に見える分だけ、そのインパクトは強いが、これを除かねばならぬという決意もおのずと固くなるというものだ。巷で云々される「ガンモドキ論」に身を託す考えは微塵もなかったし、対応を先延ばしにして良いことは何もない。しかし、自覚症状がなくても、病は見つかる時には見つかるものなのだ。
現代医学を信じて、やらなければならないことを一つ一つ覚悟して臨めば何とかなるであろうという心境であった。「落胆」というより、「勿怪の幸い」と受け止めて事に臨もうと思った。私の父は、健康に自信があったことに加えて、生来の医者嫌いも手伝って、多少の不都合があっても医者に行くのを先延ばしにし、結局、胃ガンが発見された時はもう全く手の施しようのない状態だった。その後の約一年間にわたる本人および家族の味わった苦汁は大変なものであった。
さて、私から家内にこの「第一報」をどう知らせたものかと思案した。実は、この日の朝早く、かねてからお世話になっている療養施設から「母(家内の母)の容体が不安定で、一時的に意識が混濁する」との緊急電話連絡を受け、家内は母のいる施設に急行した。私は別行動で、かねて予約の胃検診のためにホーム・ドクターのEクリニックに向かった。検査後、クリニックで費用精算を待っている時に、家内から私の携帯にメールが入った。それは母の容体を知らせるものであった。「意識の混濁は続き、呼吸は浅く、血中の酸素濃度も極めて低い状態。病院への緊急搬送もあるが、私としてはこのままこの施設にお世話になりたい、、、、」というものであった。私からの返信は、短く「実は、胃ガンと言われました」。 家内からは「ハァ??」という呆気にとられた返信があった。ということで、この日から我々は二つの重たい事柄を背負うことになった。(結局、母は9月18日に静かに息を引き取った。(89歳))
胃ガンと確定してから、様々な検査を受けた。まずは、PET検査(Positron Emission Tomography、陽電子放射断層撮影)である。これは、活動中のガン細胞は、糖の代謝能が他の臓器に比べて盛んであることを利用したガン検査法の一つである。放射能活性を持たせた糖誘導体(18Fの同位元素を用いる)を静脈注射し、それが局在化する部位を検出して、発ガン部位を代謝の面から把握しようとするものである。PET検査は初めての経験であったが、体力的負担はなく、数時間ベッドで静かに寝ているだけであった。検査の結果は、はっきりと胃と思われる個所に輝点が集中し、一目瞭然、ここが病巣ということが分かった。しかし、この時点でのPET検査で私にとって重要なのは、胃以外の他の臓器にガン反応が検出されるかどうかという(即ち、他の臓器へのガンの転移があるかどうかの確認)点にあった。ホーム・ドクターがこのPET画像を見て、まずは他の臓器への転移はないだろうということで、「(よかった)胃だけですね。」と言われたのを思い出す。(PET検査は、すでに欧米ではガンの有無を確認する簡易で有用な検査法として汎用化されているらしい。日本でも遠からず、ガン検診の最初にはまずPETという時代が来るのであろう。)
その後、入院、手術のための病院(大学病院)をホーム・ドクターから紹介された。入院の日にちが確定する前に、大学病院の消化器外科の外来で胃カメラによる再検査、CT撮影、また手術に耐えられる基礎体力を有するかどうかの諸検査を受けた。大学病院での胃カメラ検査でも、同様に胃ガンは確認されたが、これは手術の前提から患部の位置とその大きさを確認するものであった。胃カメラの挿入前に、看護婦さんから「今日の検査は少し長くなりますが、頑張りましょうね。」と言われた。実は、この検査は学生実習を兼ねていた。「どういうこと?」と一瞬思ったが、そういうことだったのだ。検査担当の医師から実習学生さんに、検査の実施に即して、カメラの挿入と操作の仕方、患部の見定め、生検のサンプリング方法などについての説明があり、学生諸君からもいくつかの質問があった。胃カメラの挿入は20~30分間程度であったと思うが、随分と長く感じた。普段の検査でも相当に苦しいのに、この検査では喉の周囲に違和感が数日間残るなど、自分なりにかなりの消耗があった。
CT撮影は、胃の内側、外側の患部の状態を映像的に確認するものであるが、鮮明な画像を得るために、造影剤を使ったCT撮影が行われる。しかし、私に腎臓疾患があること、また血中のクレアチニン濃度も基準を超えるレベルであったため、撮影の直前になって、腎臓への負担を回避する上で、造影剤を使っての検査は避けた方がいいとの放射線担当医の判断があった。急遽、造影剤を使用した撮影は見送られ、普通のCT画像を撮影した。
胃ガンと決まったら、先達の貴重な体験情報が色々と欲しくなるものである。入院までの数週間はこれらの情報を集める貴重な時間である。有難いことに、私の大学生時代、および会社時代にいずれも私と同じ年齢の、日頃から親しくしている二人の胃ガンの先達がいた。大学生時代に同級の友人は、会社勤務を終えて自由の身になり、「さあこれから」というタイミングで前立腺ガンを患い、続いて胃ガンを患った。彼は二度のガン経験で自らを『ガンジー』と自嘲気味に語っていた。会社時代に同輩の友人は、米国で勤務していたが、たまたま帰国した時の健康診断で胃ガンが見つかった。健康診断を受けた病院で手術の予定であったが、「セカンド・オピニオンを求めたいが、いい医者を紹介してほしい。」と私は相談を受けた。結局は最初の病院ではなく、その先生の紹介する病院で手術を受けることになった。正月直前の慌ただしい時期であったと記憶する。両人は手術後の検査で、胃の周辺のリンパ腺にわずかなガン細胞の転移を認め、1年から数年にわたって化学療法を受けた。その時に体の訴える不快感などをしばしば聞かされたものである。はからずも、私も彼等と同じ病気を患うことになったが、彼等の生きた体験談は気持ちの持ち方を決めるうえで大いに参考になった。彼等は元気である。何も恐れることはない。
しかし、時としてこちらが求めてもいないのにアドバイスをくれる人がいる。それが、これから自分の受けようとする治療と真逆のアドバイスである場合、一旦、見聞きした以上、それを排除するのに余分なエネルギーを必要とする。たたでさえエネルギーの集中を必要とする時にである。悲しいかな、ヒトはそれほど強くはないし、迷惑を越えた話である。これから手術に臨む人への励ましの言葉はいいが、自分が体験者でもない限り、アドバイスは求められてもしない方がいい。その点、私の先達からの体験に即したアドバイスは本当に有難いものであった。
ガンの検知から入院までに約3週間余の時間があった。幸いにも、義母の葬儀関連については、無難に対応することが出来た。ガンとは言っても、私は普段どおりに行動することが出来たので、周りの人はまったくそれとは気付かなかった。入院までの間、特に、胃に違和感や新たな不快感はなかった。「美味いものは今のうちに。」という友人のアドバイスもあり、味の濃い中華料理、ピザやスパゲッティ、それに上物にぎりなど色々なものを食べ漁った。
10月2日に大学病院に入院した。入院の諸手続きを済ませ11階病棟の病室に案内された。4人部屋である。同室の人達はいずれも消化器外科の患者であるが、お互いに会話はなく、各人の空間は一枚の薄いカーテンで仕切られていた。看護師さんとの会話や、時々訪れる見舞者との会話は小声で、お互いの独立性はよく保たれていた。まあまあ、静かな部屋でひとまずは心を落ち着かせることが出来た。消化器外科の入院患者は概して男性が多いが、ほとんどの男性用の病室はそれぞれが貝のように自ら静かに閉じこもることでヨシとしていた。病棟の廊下を歩くと、女性患者の4人部屋の様子が窺えるが、各自のカーテンは開かれており、中からは何やら大阪のおばちゃん風の話し声が聞こえてくる。男性と女性のこの差は行動社会学的な面から興味深い。
入院の期間中、いくつかの薬が朝・昼・晩・眠前に処方された。薬の服用は看護師さんが基本的に取り仕切り、私自身はそれらを服用後、所定のマークシート欄にチェックを入れるというものであった。これだと簡単で助かると思ったが、どうもこれは私が決められた場所にチェックマークをつけられるかどうか、決められた時間に薬を服用したことをきっちりと記憶しているかを確認するためのものであったようである。恐らく看護師さんが患者の信頼性(自律性)のレベルをチェックしているのではないかと後になって気が付いた。手術後は、処方薬の服用は基本的に本人に任され、看護師さんは服用後の私のつけたチェックをマークシート上で追認する方法に変わっていった。確かに患者の中には、違う日付の薬を服用したり、服用を忘れたり、いくら説明しても理解できない者もいるであろうことは、容易に想像できる。患者の回復にかかわるすべてを病院側は責任をもって見るべきというのは原則かもしれないが、薬の服用についてはあるレベル以上の患者には任せるという扱いがあったように思う。私はその点、看護師さんの信頼を得たのではないか。
手術までの準備期間中にしなければならない事柄の中で、最も重要なのは、今回、自分はどういう手術を受けるのか、またその手術にはどのようなクリティカルな点があるのか、術後はどういう経過をたどるのか、それらの説明を受けて疑問に感じた点を明らかにし、患者本人が理解し、納得し、同意書にサインし、手術を受け入れることである。これまでの諸検査の結果をうけて、実際に手術を担当する主治医から以下の説明があった。私の胃ガンは進行性の胃ガンと思われること、そのステージはIIaまたはIIbレベル(ガンが胃の筋層を超えて、外側表面に出ているかどうかのレベル)と想定しての手術であること、胃は患部を中心に2/3を切除すること、合わせて、胃の外周を取り巻くリンパ腺並びに迷走神経も除去すること等である。加えて、これらの切除によって、術後に胃並びに消化器全体に生じうる変化についても説明があった。また、麻酔科の先生から術中の麻酔の説明があり、同じく同意書にサインを求められた。いずれも、おおよそ想像の付く範囲の説明であり、手術の結果については天命に任せるしかないという心境であり、特に気持ちが波立つことはなかった。無事に手術を終えて退院するときには、約10㎏の体重減があるだろうとの説明であった。夢のような10㎏の減量である。
また、執刀医からは今回の胃ガン切除の術式である腹腔内手術の支援ロボット(ダ・ヴィンチ法)のわかり易い説明があった。ダ・ヴィンチ法は1~2cmの小さな創からロボットアームと内視鏡カメラを体内に挿入し、腹腔内での各種の手術動作を執刀医の意図どおりにミクロな操作をぶれることなく安定して行えること、鮮明な3次元画像で患部の微細な状態を見ながら手術ができるなど、操作の迅速性、手術技法の向上という点で特に優れているという。また、患者にとっては、手術による開腹が極めて小さく、術後により早く回復することが期待される。あわせて、術後に速やかに経口摂取が可能なこと、入院期間の短縮、術後の疼痛の軽減、手術による縫合キズが小さいことなど多くのメリットが挙げられている。
欧米では十数年前にこの手術支援ロボットは医療機器として認可され、多くの手術実績を出している。現在、日本でも手術支援ロボットの導入は盛んに進められているが、現時点において、胃ガン手術への適応については、保険の適用は認可されていない。しかし、早晩、多くの手術は支援ロボットにより行われる時代が来るものと思われる。また、執刀医からは、時々起こることであるが、「腹腔内視鏡手術で患部の除去が困難となった場合、開腹手術に切り替えることがありうる。たとえそうなった場合でも、これは通常の手術の範囲内であり、待機する家族には特に連絡をすることはしない。」ということも併せて説明を受けた。今回の私の手術の場合は6~7時間程度になるだろうとの事であった。私は、一旦、手術台の上に乗ったら、まな板の上の鯉で、全身麻酔で何も分からないのだろうから、このことも淡々と受け止めた。
(ダ・ヴィンチ法: http://j-robo.or.jp/da-vinci/index.html)
その日、10月6日(月曜日)は朝から台風が近畿地方に接近しており、外の街路樹は風で大きく揺れていたし、その風も時折、疾風のようなうなり音をあげていた。家内と妹は手術のはじまる前に、台風をおして病院に来てくれた。そのような日に私の手術は行われた。
午前9時に手術開始の予定であったが、ダ・ヴィンチ機器の調整に多少手間取り、開始が約1時間遅れた。午前10時前に手術準備完了の知らせを受け、11階の病棟から4階の手術部まで廊下、エレベーターを点滴のついた歩行器を押して歩いた。手術部ゾーンの入り口には、テレビ・ドラマなどでお馴染みの大きなすりガラスの二枚自動扉があった。自動扉が開くと、そこには白衣を着た医学生十数名が待機していた。ここで、手術の間、待ってくれる家内と妹と別れ、私は看護師さんに促されて、いくつかある手術室の一つの部屋に入った。中央に手術台があり、周囲には様々な機器や医療器具類が並べられていた。ダ・ヴィンチ手術の操作運転装置は手術台から数メートル離れたところに設置されていた。また、手術室の高い壁の上部には手術を実見する学生諸君のために大きな窓が設けられていた。手術台に上がり、「ゆっくりと息を吸い込んで----」という麻酔医の言葉を最後に、私の記憶そこで静かに途切れている。
手術を終えた私は11階の回復室に運び込まれた。午後7時であった。周囲の音で自然に目覚めた。家内と妹が私に呼びかける声で、手術が終わった事を実感した。しっかり熟睡したという不思議な感覚であった。手術室には計9時間、滞在したことになる。午後6時頃に手術を終えた執刀医から家内と妹に手術の状況の説明があったらしい。その後、約1時間して私は手術室から回復室に戻ってきた。先生からは、私の腹部の皮下脂肪は厚く、切除すべき胃の表面に達するまでに、時間がかかり、随分と苦労したそうである。なにせ数十年かけて熟成し、積みあげた我が皮下脂肪である。やはり、肥満体質は、特に分厚い皮下脂肪は、先生方に余分な苦労をかけるものらしい。事後の反省では何の役にも立たないが、やはり適当にスリムということは大事なのである。胃の切除は予定通り2/3に及んだらしい。
手術の間に台風は過ぎ去り、家内と妹は私の手術の無事終了を見届けて、長い病院での待機を終え帰宅した。順調に行けば、一夜を回復室で過ごした後は、翌朝に多少の歩行訓練をして、元の4人部屋に戻ることになっていた。
異変は回復室に戻ってしばらくして始まった。私は腎臓病と喘息持ちで、とりわけ風邪をひいた時などは気管支周辺に症状が強く出る。今回の手術での8時間がどの程度の体の負担(特に腎臓の)だったのかはわからない。最初の変調は、強烈な喉の渇きに現れた。体が盛んに水を要求しているのである。点滴で輸液の補充を行っているものの、それだけでは不足なのだろうか。これから先、「おなら」が出るまでの間、当分、水が飲めないことは十分に承知していたが、担当の看護師さんにはナースコールで口を湿すウガイを懇願した。夜の10時、各部屋が消灯になり、回復室の照明も落とされた。部屋が薄暗くなり人気が少なくなると心細くなるものである。次第に体の異常はモニターでも捉えられるようになり、アラーム音が鳴り始めた。異常に高い血圧(最高230、最低130mmHg位)、血中の酸素濃度が80~90%程度、脈拍は120~130回/分位で、心臓は短距離競走を走った直後のような激しい鼓動が続いた。また、呼吸は浅くてその回数は普段の倍以上はあったであろう。これは尋常でない。いずれの数値もアラーム音を鳴らす設定値を超えていた。ナース・ステーションからも私の容体を知らせるアラーム音が聞こえた。この単調で規則的な警告音が余計に、私の疲労感と焦燥感を増した。看護師さんに「お願いだから、音を切って欲しい。」と頼んだが、これは病院看護上のルールで切ることは出来ませんという説明であった。
結局、アラーム音は一晩中、鳴り続けた。同じ日に手術を終えた患者が、私と同じ回復室に数人おられたが、随分と迷惑千万だったことと思う。私自身、翌朝までの8~9時間は一睡もすることが出来ず、まんじりともせずに時間の経過を待った。疲労感は大きかった。尿チューブで排出される尿は観察されていたが、尿はそれなりに排出されているらしい。依然として喉の渇きは厳しく、口濯ぎのために、ナースコールを一晩中、10~15分おきに押したのは自分としての必死の訴えであった。深夜に急遽の処置として、血中の酸素濃度を改善すべく、それまでは鼻チューブを用いての酸素の吸入であったが、口と鼻の全体を覆うマスクに切り替えられ、酸素供給もかなりの高圧に設定された。しかし、深呼吸がままならない。呼吸が浅くなっているせいか、血中の酸素濃度の改善にはあまり効果がなかったようだ。かくして、体の全てが管理下に置かれる拘束状態にあったが、快方に向かう気配を感じることはなかった。
翌朝になってもこの状態は変わらず、回復室から大部屋に戻されることはなかった。逆に、私は要監視患者としてICU(集中治療室)送りになった。ICUはナース・ステーションに隣接し、ステーションでのスタッフの会話が聞こえてくる。この部屋には2名の患者を収容できる広いスペースがあった。必要に応じて様々な医療機器をベッドの近傍に持ち込むことが出来た。そこで改めて術後の諸検査を受けた(さすが、大病院だ!)。早速、午前中に各部署からそれぞれの専門の医師が派遣され、エコー、心電図、CT、X-ray等の測定を行った。その結果、心臓には特に異変は認められない、しかし、肺は下部が圧迫されておりほとんど機能していない、腸内にはガスが異常に充満し、腸が全く動いていないということ等がわかった。ICUに移ってからも、さらに2日間、血圧、血中酸素濃度、脈拍、呼吸数等は異常域にあり、アラーム音は鳴り続けた。
結局、水は飲むことが出来ず、一睡もすることのできない、忍々の状態が三日三晩続いた。この間、妄想やうわごとのバラバラな思念が頭を巡った。「ああ、遺言を書いていない!!」「摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃーはらみたしんぎょう)。観自在菩薩(かんじざいぼーさつ)、行深般若波羅蜜多時(ぎょうじんはんにゃーはらみたーじ)、----」。「般若心経」は必死の仏さま頼みというよりも、頭に植えつけられた字句がおのずと心の中で回った結果である。もし、その時、ビートルズのヘイ・ジュードで始まったら、終日この歌詞だったかもしれないし、バッハのマタイ受難曲の一節だったかもしれない。昼夜の区別はついたが、人気の少なくなる夜の来るのが正直、怖かった。
先生は、「兎も角も腸を動かすために、しんどくても歩きなさい。寝ているだけでは腸のガスで横隔膜が圧迫され肺がつぶれてゆきます。」と何度も何度も「歩きなさい。歩きなさい。」の指示があった。しかし、とても歩ける状態ではなかった。確かに、腸はゆっくり歩くことにより刺激を受け、少しずつ動き出すのであろう。また、ベッドにいる時も、天井を見続ける仰向けの姿勢ではなく、ベッドの上端を立てて、上半身は起きた角度を保つようにとの指導があった。肺への腸からの圧迫を軽くするための措置と理解した。しかし、ようやく4日目からは血圧、脈、酸素濃度は徐々にではあるが回復傾向にあった。
体の異常は、腸の動きに絞られて来た。この間、何度かX-ray撮影を行い、腸に何らかの動きが起こるかどうかを見守った。腸の動きがない、ガスが出ない、、、という状況が続く限り、水は飲めない。何とかして腸を動かし、ガスが出て、深呼吸が出来るように肺の機能を取り戻す必要があった。この間、何回か座薬の挿入、また点滴に下剤成分を入れる等の措置をして、二日間、その経過を観察した。しかし、腸はまったく動かなかった。寝ていても自分の下腹部が次第にせり上がってくるのがわかった。その時の状態は、「まるで五つ子を身ごもった妊婦さんの臨月のお腹みたいでしたよ。」というのを後になって担当の看護師さんから聞いた。このように腸は悪戦苦闘状態にあったが、幸いにも切開した手術の傷口は2cmほどで驚くほど小さく、胃の部位に違和感はなく痛みを感じることもまったくなかった。
ここで体重の話しをしておかなければならない。入院直前の私の体重は85.9㎏であった。これはわが生涯で最大の重さである。確かに、皮下脂肪がお腹に巻き付いていることは認識していたが、これが執刀医にそれほど苦労をかけることになるとはとても思っていなかった。手術に耐える体力は必要であるが、度を越した脂肪蓄積は迷惑千万ということである。先生の説明では、手術を無事に終えれば10㎏の体重減が可能ということであった。そういうことならば目標体重は75.9㎏である。私の若い時のベスト体重は72㎏であったから、それに近くなれるというのは嬉しい話である。ちなみに、ここ十数年、身長を計測したことはなかったが、入院時の基礎データとして身長計測を行ったところ、170.0cmであった。以前、自分の身長は173.5cmであり、身長は伸びることはあっても生涯縮むことはないと何となく信じていた私がバカだったのだ。老化現象の一つとしての身長の縮みも当然なのだ。しかし、身長でも老化を実感するとは。あらゆる身体的変化に日々、老化を感じているが、-3.5cmの縮小化はちょっとした驚きだ。これも受け入れなければなるまい。
術後、お腹の膨らみが極大であった日に、看護師さん2名に支えられて、廊下に設置してある体重計のところまで歩き、体重計に乗った。なんと驚くべきことに、90.5㎏であった。手術をしたら10㎏痩せられるとの願望は吹き飛んだ。しかし何故に手術前より約5㎏もの体重増加なのか?手術後は何も食べていない。これは体が輸液を貯めこんだとしか考えられない。飢餓状態にある私の体の危機状況を察して、細胞がせっせ、せっせと胞内に水分を取り込んだのだろう。いくらなんでも、胃や腸に5㎏もの水が溜まっているとは思えないし、血液量が急激に増えたとも思えない。さて、どうしたものか。
こうなったら、最終手段は、開腹手術で腸内ガスと滞留物の取り出しかなあ、と苦渋の選択の時間が迫っているのを感じたりもした(何せここは消化器外科であり、この種の外科手術的な対応はお手の物の筈である!)。ICU滞在3日目になって、究極のトライアルと思われる特殊浣腸(業務用!)、すなわち、筒先40センチほどもある浣腸が腸内の奥深くに挿入された。多量の浣腸液が大腸の臍の辺りで注入されるのをひんやりと感じた。そして、幸いにも30分程するうちに、グルグル、グチュグチュ‐‐‐‐、と腸が急に動き出した。トイレに行くのも間に合わず、ベッドの上でそれこそガスと便(何も食べてないから正確にいうと便ではなく、内臓の各種消化液などの分泌物)が噴出した。これでやっと1/5程度のガスと腸の内容物は出たであろうとX-rayを見てのドクターの見立てであった。「あと、もう少しガスが出たら水を飲んでいいから」と言われたのは、術後5日目であった。やっとお許しが出たのだ。腸が動き出すと翌日には、呼吸も次第に楽になってきた。あとしばらくすればICU から脱出できるのではと期待が持てるような気になってきた。しかし、自分の体に起こる微妙な変化をこれほど意識し、自覚するのは生まれて初めてのことである。
腸が動き出し、盛んにガスと腸内老廃物は排出された。呼吸は随分と楽になって来たし、病棟の廊下をゆっくり歩くことも可能になった。しかし、腸が動き始めたのはいいが、今度は下痢症状が続き、しかもそれがまったくコントロールできなくなった。厳しい下痢状態は1週間続いた。ちょっと便意を催すとまったく我慢が出来なく、歩いてのトイレは遠く、廊下を急ぐと転々と汚物を落とすというみじめな状況が続いた。勿論、大型の大人用のおむつを着用してのことであるが。ベッドの脇に携帯便器を設置してもらい、もっぱら便器に座るICU生活が始まった。何とか腸の動きを落ち着かせようと整腸剤などの服用もあったが、どうもうまくゆかなかった。先生に私の乏しい知識から「潰瘍性大腸炎ですか?」と聞いたが、「それはない。」と即座に否定された。一体どうしたことなのか?
下痢便を採取し、その検査(培養検査?)を行った。3日後にその結果が判明した。下された診断は「偽膜性大腸炎」であった。初めて聞く病名である。手術の間、炎症を防ぐために各種抗生物質を使用するが、その使用で私の場合、腸内の大部分のバランスを保って健康維持に役立っていた菌が死滅し、感染性大腸炎の一種であるクロストリジウム・ディフィシル菌(Clostridium difficile)が腸に残ったものと思われる。この菌が優占種として腸内に生息し、この菌の産生する毒素により粘膜が傷害され、腸の運動性の阻止に強く作用したらしいという、何とも分かったような、わからない説明であった。インターネットで調べると平成20年3月に厚生労働省から「重篤副作用疾患別対応マニュアル・偽膜性大腸炎」という情報が発信されている。それによると、
① 副作用は、原疾患とは異なる臓器で発現することがあり得ること、
② 重篤な副作用は一般に発生頻度が低く、臨床現場において医療関係者が 遭遇する機会が少ないものもあること、
などから、場合によっては副作用の発見が遅れ、重篤化することがあると注意喚起している。
(厚労省資料より:http://www.mhlw.go.jp/topics/2006/11/dl/tp1122-1g05.pdf#search='%E5%81%BD%E8%86%9C%E6%80%A7%E8%85%B8%E7%82%8E)
稀にしか発生しないそうであるが、重篤であったと言えば確かにそうだ。兎も角、厳しい体験であった。私は危なかったのだろうか?
先生は6年前にも一度、私のような患者に遭遇した経験があるとの事である。学術的には私は貴重なサンプルになったのであろうか。その時の患者は、ガスが腸内に滞留し、血圧降下があり、厳しい状況に陥ったということであった。兎も角も私の排泄物が原因で病棟内に院内感染が広がらないようにと、トイレを使用した時には、腕の肘から手の先までしっかりと薬用石鹸で洗うように指示が出された。また便器並びにトイレのにぎり棒、ドアの取っ手などは、使用後、次亜塩素酸ソーダ液を含有した分厚いウエット・ティッシュ・ペーパーで丁寧にふき取るように指導された。これは自分のためであり、また他の患者を守るためでもある。退院するまでこの措置は続いた。
ICU滞在中、腸が動き始めてからは、点滴による輸液供給に加えて、腸内の環境を整えるために、経口の栄養ドリンク、エレンタールを朝・夕と1日2回飲用するようになった。食事がとれない患者が用いる総合栄養剤である。口からは久しぶりの飲食である。しかし、これがまた不快極まりない感触の飲み物で、冷やしてやっと喉を通る代物であった。一回の服用量は300mlであったが、これが飲むほどに気分が悪くなるもので、看護師さんから「飲んでくださいね」と言われるたびに大きな心理的圧迫になった。チョコレートやバニラなどの香りをつけて飲みやすくする添加粉末もあったが、余計にややこしい味になった。もともとこのエレンタールは、消化器疾患の患者のために開発されたものらしいが、胃瘻による胃への直接注入や、鼻からチューブで直接に消化管に導入するのが主な摂取方法らしい。しかし、経口で飲用する者のために、もう少しまともな製剤があってもいいのではないか。兎も角、エレンタールには参った。世の中に口当たりのいい加工食品はいくらでもある。なんとかならぬものなのか。
(エレンタール:http://www.elental.com/elental00.html )
結局、徐々に下痢状態は収まっていった。下痢がほぼ終息して、やっとICU退出の許可が出た。手術前の4人部屋に戻ったのは、結局のところ、術後11日目になってしまった。同室で窓際の向かい側のベッドに入院している私と同世代の患者さんからは「長かったですね。どうされたのかと心配していましたよ。」との言葉をもらった。私としてはやっと娑婆の世界に戻ってこられた心境であった。他の患者の迷惑にならないように談話コーナーに席を移し、この11日間の生々しい体験の委細を報告した。同病の入院患者にとって全くの他人とはいえ、互いの体験や体調は気になるものである。向かいのベッドの彼氏も聞けば、食道ガンの手術に備えて、今は抗がん剤治療でガンを小さくしているとの事である。ガンがある程度小さくなったら手術に入るらしい。おまけに、彼には糖尿病の持病があり、食事のとり方は厳重な管理下にあった。どうも聞く限りにおいては私の単純な胃ガン手術よりは相当にややこしそうな患者である。その彼氏から「お帰りなさい」の言葉を戴いたときには正直、ホッとした心境になったものだ。
今回の入院では、特に後半部の経過が重たかったので、親戚、友人への報告は滞りがちになった。しかし、一般病棟に戻ってから、やっとのことで「戻りました。経過順調。」の知らせを、親戚、友人達に発信することが出来た。一般病棟の滞在はわずか1週間程度であったが、退院までの間、待ちわびたかのように何人かの見舞い訪問があった。有難い話である。まだ、足元はふらつくこともあったが、口はいたって元気であったせいか、訪問者には「随分と元気になったものだ。」との印象を持ってもらったようだ。話したいことは一杯あった。まだまだ、内心は自信のないところもあったが、兎も角、世間に戻る日が近いことを実感できたことは何物にも代えがたい歓びであった。
食事もやっとのことでエレンタールを卒業し、最初は重湯が提供された。しかし、重湯は一日で終了し、そのあとは退院するまで、朝・昼・夕と三度の食事は三分粥であった。まったく原型をとどめない完全にすりおろしたドロドロのペースト状の食事で、魚、ほうれん草、カボチャ、お粥などは口に入れてやっと味と匂いでそれと分かるしろものであった。それでも最初は「ああ、美味しい」と思ったものだ。しかしこれも三日目くらいには飽きが来た。贅沢なものだ。ヤクルト、牛乳、ヨーグルトは美味かった。結局、5分粥や普通食は経験することなく退院することになってしまった。手術後の食事のとり方に関しては、医師並びに栄養士さんから懇切丁寧な指導があった。何かと注意事項の多い説明であったが、要はゆっくりと食べること、量は控え目に、刺激の強いものは避けるということである。本当は、病院で普通食を数日間、食してその体験を体で覚えて帰りたかったのだがそれはかなわなかった。自宅での食事がいきなりのぶっつけ本番である。これには、私よりも家内が大いに不安がった。
今回の入院で特に手術後に、血圧上昇から始まり、血中酸素濃度不足、脈拍上昇、浅い呼吸が続き、次いで、腸が動かないという異常な状況に見舞われ、その後、下痢が約1週間続いた。この間、体中は混乱状態にあったが、その中にあっても体には元の恒常的な運動状態に戻ろうとする作用が働き、次第に元に戻っていった。学生時代の生化学の講義で、生物には恒常性の維持能力(Homeostatis)という独自のシステム(能力)があり、体温も血糖濃度も免疫力も、それが一定に保たれるのはその能力に依っていると学んだ記憶がある。内部環境を一定の状態に保ち続けようとする傾向である。講義で聴いたときにはその意味を実感することは出来なかったが、今回の体験で「そういうことか」と思い至った。一端、生体システムが混乱に陥っても、おのずと元に戻ろうとする性質を有するために、我々生物は己の生命活動を維持できるのである。これは何も神がかった話しではなく、生物は自らに自己維持能力を備えているということである(Homeostatis: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%92%E5%B8%B8%E6%80%A7)。
それでは、そもそも、手術後に起こった一連の混乱の原因は何だったのか?腎臓の働きが弱いために、体を巡る毒素の排泄能力が許容量を上回った結果なのか?それともほかの臓器に問題があったのだろうか?自分としてはその原因と結果を見定めたいところであるが、今となってはその推論は出来ない。しかし、腎臓が何かの引き金になったのだと思う。定常状態では何とか機能している腎臓も、いざ急激に過剰なストレスがかかった時に問題が発生するのではないかと思う。今後も、腎臓いたわりの人生を心がけなくてはならないと思う。
かくして、めでたく10月22日、水曜日に何とか退院することが出来た。今回の私の入院は21日間に及んだが、この間、病院の医療スタッフの懸命の対応には頭の下がる思いである。主治医の先生方は毎日のように病室に足を運び、私の状況を確認し、不安になりがちな私の気持ちを支えて戴いた。この様な不満足な体で手術に臨んだ自分の自覚のなさの不明に恥入るばかりある。胃ガン発覚から、入院、手術、その後の経過とさまざまな波があったが、家内は毎日、病院までの遠い距離を通って、私を看病してくれた。有難い限りである。手帳を見返してみると、この日は京都・時代祭の祭礼日であった。孫娘が時代装束に身を包み市街を練り歩くことになっており、その見学を楽しみにしていたが叶わなかった。まあ仕方ない。
病院は午前10時ごろに出た。最初はタクシーでの帰宅を当然と考えていたが、バス、電車でゆっくりと娑婆の空気を吸いたかったので、キャーリー・バックをコロコロと押しながら帰ることにした。これで自宅に戻れたら、体力の回復も実感できるであろう。バス、電車を乗り継ぎ、ゆっくり、ゆっくりと歩き、何とか自宅にたどり着くことが出来た。愛犬パルとはなんと三週間ぶりの対面である。庭を駆けて彼女は私に飛びついて来た。無上の歓びと安堵感に浸ることが出来た。三週間、留守番の毎日で寂しい思いをさせてしまった。
こわごわと自宅での食事が始まった。食べたものがしっくりとお腹に落ち着くかどうかがポイントであった。一日の食事の量はこれまでの1/3程度で、よく噛むこと(30回以上噛む)、また時間をかけて(食事は30分以上をかけて)食べるように等の指導があった。生来、早食いの私には実に辛い食事である。退院直後の私は、いつも空腹感か倦怠感に覆われ、動作が緩慢になっていた。しかし、時々、食事後に目眩を起こしたり、発汗で体が熱ったりすることがある。なぜそうなるのか、いまだにその原因と結果が掴み切れていない。しかしそれとて、30分ほど寝ころべば何とか回復する。嘔吐には至っていない。
また、夕食から朝食までには約12時間あり、夜中には空腹で自然と目が覚めてしまう。深夜にごそごそと起きだして、ヤクルトを一本飲むことが習慣になった。2/3切除した胃は元には戻らないから、この様な状態で如何に、正常の市民生活に戻るかを探らなければならない。病院の栄養指導の先生は誰もが元気になると言ってくれているが、かなり時間がかかるのではと思う。すでに、手術前より7キロほど痩せたが、どこまで痩せるのかは大いなる楽しみである。
今回の医療の経済学である。社会人現役の時には各種の医療保険にはかなり分厚く加入していた。三年前に退職した時も、それらを見直すこともなく呑気に過ごしていた。しかし、今回の病気発覚の直前には、年金生活者である我が家庭がこれ程の保険掛け金を支払い続けるのはいくらなんでも身分不相応であるとの認識に至った。「さあ、どれを切ろうか」と医療保険の整理を考えようとしていた矢先に病気が発覚した。不幸中の幸いである。アメリカの保険会社のガン保険と、日本の生命保険会社の医療保険である。ダ・ヴィンチ手術自身は健康保険カバーの範囲外の先端医療であり、自己負担であった。結局、三週間の入院費用はかなりの額になった。しかし、幸いにもふたつの医療保険は、今回の全入院費用をカバーしてくれたし、いくばくかのお釣りもあった。退職後の初めての纏まった収入である。緊縮の家計戦略を立てるのが遅れたことが却って幸を奏したのである。下賎な話で申し訳ない。しかし、これから何としても医療保険の整理は実行しなくてはならない。今後、どういう考え方で我が家のミクロ緊縮財政をミニマム化して行くかである。
退院後、11月11日にはじめて外来診察で病院を訪れた。主治医の先生にその後の状況の報告と今後の生活上の諸注意を受けるためである。切除した胃は小さくなったことを実感こそすれ、特に不都合は生じていない。腸の調子もその後は順調である。ただ、胃の手術後の縫合不全の話しをよく聞くので、トイレで頑張りすぎて、胃の縫目が裂けはせぬかの心配事を質問したが、先生は一笑に付された。先生からは体重の確認があった。最近の体重「77㎏」を報告した。先生から、この体重を超えないように言われた。皮下脂肪と格闘していただいた先生からのお言葉である。切除した胃の周囲のリンパ腺からはガン細胞が見つからなかった。これは幸いなことに今後、化学療法を行わなくていいとの朗報である。私の友人先達から、化学療法の苦労を色々と聞かされているので、このニュースは本当に有難い。年一回の検診を受け続けた早期発見の成果だと思いたい。
日頃は体力訓練のために、天気の良い日は、極力、歩くようにしている。しかし、まだまだ遠出は億劫で、近くの郵便局やスーパーまで出かけるのがやっとである。次は、京都駅まで、奈良駅まで、大阪駅までと目標を遠くにおいて活動範囲を広げてゆかなければならない。「食べていない」感が強いせいか、体から発する熱量が少なく、この年の冬の寒さはひとしおである。まあ、今はこのような状況にあるが、徐々に復調してゆくものと信じたい。体重の維持管理では、毎朝ドキドキして体重計に乗っている。しかし、目標の75.9㎏にはまだ至っておらず、77~78㎏あたりを彷徨っている。少し気を抜くとまた、80㎏オーバーになりかねない。節制が肝心である。来春、暖かくなった時、一段とスリムな体躯で古都散策が楽しめるように準備しなくてはならない。
今回の入院では正直、一時期、「死」を意識した。この体験はそのまだその序章にしか過ぎなかったことは幸いである。これまでに多くの人の死を見守ってきた。しかし、楽な死に方をした人はいない。死とはその人にとっての最後の「行」である。これから先、自分にはどのような「行」が待ち構えているのか。自分では己の明日さえ見通すことが出来ない。兎も角も、今は術後にやっと手に入れることの出来たしばらくの安堵の時間である。この平穏な時間を暫しの間、ゆったりと過ごしたいというのが偽らざる心境である。今日という時間の大切さを慈しんで生きてゆきたい。
『明日、死ぬと思って今日を生きよう。永遠に生きると思って今日、学ぼう。』
マハトマ・ガンジー
"Live now as if you were die in tomorrow.
Learn now as if you were to live forever."
Mahatma Gandhi
(稿了:2014年12月17日、大安)