*******************************

Chapter 7:

HPトップページに戻る


京都あるき

赤文字世界文化遺産

宮門正和(京都府・宇治市)

 

◎目次の社寺名をクリックすると、その個所に移動します。

 

 

 

“Kyoto Walk

 (red letter : World Cultural Heritage)

Masakazu Miyakado (Uji, Kyoto, Japan)

(described March-June, 2016) 




金閣寺(2016年11月)                 撮影:肥後昭男 






**********************************

目 次

はじめに Introduction 

第01回: 東本願寺三十三間堂方広寺 Higashihonganji Temple, Sanjyusangendo Temple, Houkouji Temple

第02回: 東寺 Toji Temple

第03回: 伏見稲荷大社 Fushimi Inari Taisha Shrine

第04回: 錦市場本能寺六波羅蜜寺 Nishiki Market, Honnouji Temple, Rokuharamitsuji Temple

第05回: 祇園祭・山鉾巡行知恩院 Gion Festival / Parade of Festival Car, Chioin Temple

第06回: 二条城 Nijyojyo Castle

第07回: 延暦寺 Enryakuji Temple

第08回: 新島旧邸京都御苑同志社大学相国寺金閣寺 Niijima's Residence, Kyoto Gyoen Park, Dohshisya University, Soukokuji Temple, Kinkakuji Temple

第09回: 嵐山・渡月橋天龍寺化野念仏寺大覚寺 Arashiyama / Togetsukyo Bridge, Tenryuji Temple, Adashinonenbutsuji Temple, Daikakuji Temple

第10回: 龍安寺仁和寺妙心寺広隆寺 Ryouanji Temple, Ninnaji Temple, Myoshinji Temple, Koryuji Temple

第11回: 銀閣寺と大文字送り火体験哲学の道清水寺地主神社

西本願寺

Ginkakuji Temple and Farewell Fire of Daimonji, Philosopher's Road, Kiyomizudera Temple, Jisyujinjya Shrine, Nishihonganji Temple

第12回: 高山寺神護寺 Kozanji Temple, Jingoji Temple

第13回: 東福寺 Tofukuji Temple

第14回: 上賀茂神社下鴨神社 Kamigamojinjya Shrine, Shimogamojinjya Shrine

第15回: 桂離宮王将1号店壬生寺 Katsura Imperial Villa, The First Ohsho Restaurant, Mibudera Temple

第16回: 岩船寺浄瑠璃寺 Gansenji Temple, Joruriji Temple

第17回: 京都御所京都大学吉田神社真如堂金戒光明寺 Kyoto Imperial Palace, Kyoto University, Yoshidajinjya Shrine, Shinnyodo Temple, Konkaikomyouji Temple

第18回: 宇治上神社平等院 Ujigamijinjya Shrine, Byodoin Temple

第19回: 醍醐寺 Daigoji Temple

第20回: 三千院寂光院 Sanzenin Temple, Jyakkouin Temple

第21回: 仙洞御所修学院離宮 Sento Imperial Palace, Syugakuin Imperial Villa

第22回: 南禅寺平安神宮祇園界隈 Nanzenji Temple, Heianjingu Shrine, Gion area

第23回: 嵯峨野観光鉄道京都鉄道博物館 Sagano Romantic Train, Kyoto Railway Museum

第24回: 苔寺松尾大社 Kokedera Temple, Matsuotaisya Shrine

第25回: 鞍馬寺貴船神社 Kuramadera Temple, Kibunejinjya Shrine

おわりに Concluding Remarks

 

**********************************

 

 

f:id:kazenokomichi:20151202011933j:plain

五劫思惟阿弥陀仏(アフロ石仏)・金戒光明寺

 

 

**********************************

 

はじめに

今から5、6年前の事である。四十年余を過ごした会社生活に別れを告げ、やっと気儘な時間を持てる身分になった。幸いにも、まだ体の中には多少の未燃焼のエネルギーが残存している自覚があったし、これをどう使うかを選択する時がきた。思いつく選択肢の中に、長年にわたり日本の信仰を支えてきた仏教にどう向き合うのかというのがあった。足元には遠くおよばないが、和辻哲郎氏の『古寺巡礼』的な古寺探訪である。しかし、実際に社寺を尋ね、様々な事柄を学び、理解を進めるにはどうすればいいのか? つれづれに多くの名所旧跡の訪問もしてみたい。外からの刺激や情報の取得は重要であり、共に考え、行動する仲間も必要である。

 

私の居住する周辺には歴史的文化遺産が多い。如何にこれらの文化遺産に接したらいいのかと、あれやこれや考えるうちに、定年後の時間を活用して、奈良での外国人対象の観光ガイドの団体に所属することを考えた。仕事で身に付けた幾ばくかの英語経験を余技として生かすことも興味深い。そのような活動をする団体が奈良にはいくつか存在し、私はその中の一つに属することにした。我々、団塊の世代の中には同じ様な考え方、価値観を持つ同好の士がいるものである。仲間はすぐに見つかった。団体に所属することで、お互いは親しくなり、切磋琢磨するうちに、半年もすれば一応は案内の現場に立つことが出来るようになった。それからの数年間は、観光ガイドという立場で、奈良の世界遺産を中心とした社寺を何度も尋ね、見学・案内を重ねるという貴重な機会を多く持った。

 

学習の基礎となったのは、斑鳩にある日本で世界文化遺産第一号に認定された法隆寺、次いで奈良市にある東大寺興福寺唐招提寺薬師寺元興寺春日大社、それに、広大な面積の平城京旧跡である。これらを繰り返し鑑賞することで、仏像の種類や、社寺の建築様式の理解に乏しかった自分であったが、仏像の世界にも如来、菩薩、明王、天部・・・などのランクがあることが分かった。それぞれには固有の経歴と役柄があり、その姿、装飾や持ち物には共通する特徴があった。それまでは何を見ても同じ「仏さん」であった彫像が、生き生きと映るようになってきた。社寺の建築物には栄枯盛衰の歴史が染みついており、致命的な戦禍や、度重なる火災や、解体修復の苦労があった。現存する社寺はそれらすべてを受け止めて今に至っており、これから先も存在し続けるのである。今はその時間の流れの中の「一瞬の姿」である。このように観光ガイドを重ねることにより、表面的ではあるが、数々の仏像、寺院・神社建築、仏教界、神道世界の基本を把握することが出来るようになった。鑑賞眼に少しの自信が芽生えて来た。あくまでも自分流であるが。

 

この数年間にわたる奈良でのガイド経験は貴重なものであった。一方、奈良の北には、おおよそ一千年間にわたり、日本の首都であり続けた『京都』がある。幸いにも、第二次大戦でほとんど戦禍を受けることのなかった京都市街とその周辺には、貴重な文化遺産が数多く残されており、現在、ユネスコで認定される世界文化遺産は17社寺におよぶ。世界文化遺産に指定されずとも、宮内庁の管轄する御所や離宮などの超一級の文化遺産や、海外からの観光客に人気ナンバー・ワンの伏見稲荷大社など、甲乙付けがたい人気スポットは多い。

 

さて、古都である奈良と京都の違いは何か。奈良に関しては、「古寺巡礼」(和辻哲郎)、「大和古寺風物詩」(亀井勝一郎)などの古寺探訪の古典的な名著があり、奈良の由来が詩的かつ端的に表現されている。奈良時代は日本歴史、日本文化の黎明の時代であり、すべてはここから始まるという視点で奈良が捉えられている。そして、現在まで7つの社寺が残り、いずれも世界文化遺産に認定されている。奈良・平城京は都が京都・平安京に遷都してからというもの、歴史の表舞台に殆ど登場しない。時として乱暴で粗暴な幕府や政治の致命的な介入を受けることなく現在に至っている。今も、奈良には古代日本の風土と気風が残っているのを感じることが出来る。

 

一方、京都は時代によって、様々に変化する。天皇家、公家、武家、三者の確執と陰謀と妥協、各派宗門の興隆と衰退、民衆と宗門との関わり合い、などなど、エゴイズムと疑心暗鬼が繰り返され、それが千年続く。歴史的建造物もその時代、時代により、位置づけが変わる。源氏物語、平家物語、方丈記、枕草子などの小説や随筆の中で様々に表現される京都、そして、能、茶道、、、、などの諸芸能文化などなど。波乱万丈の幕末期に京都は日本史で脚光を浴びる最後の時代となる。そして、京都は政治の表舞台から去ってゆく。今は、観光都市・京都としての面目躍如である。奈良と京都の違い、これは、百年の都と、千年の都という蓄積された厖大な時間の違いの産物であろう。観察者がどういう視点で、何に興味を持って見るかによって、京都は様々な表情を持つ。

 

私は京都のそれぞれの社寺に一度は訪れたことがあっても、それは50年以上も昔の、社寺を鑑賞する基礎知識と眼力を欠いていた頃の希薄な訪問であり、大概の記憶は漠としていた。かねがね、私は  「京都人」であることに誇りをもって生きて来た。正確に言うと、私は「正統派京都人=都人」と自称するには憚れる洛中の外(宇治)に居住する「京都隣人」である。これまでの自分は京都に対して正面から向き合って来たかと言われれば、「不十分」と言わざるを得ない。しかし、これだけ近くに居住していながら、京都に対してこれからも無知・無理解であり続けるというのは実に “MOTTAINAI” ことである。このような次第で、京都つれづれの小旅行は私にとっては是非とも、追体験しておくべき重要なテーマであると考えるに至った。

 

京都での探訪活動は、多くの社寺が候補にあるため、とても12年では難しく、少なくとも45年を要するプロジェクトになると思われた。訪問先はその時の思い付きで、アット・ランダムに選んだし、京の四季折々の表情をベスト・シーズンで楽しむという知恵の及ばない小旅行にならざるを得なかった。また、この間、私は大病を患い、約半年間のペース・ダウンを余儀なくされる事もあった。これから先、四季折々の移ろいの中でのベスト・タイミングでの名所探訪は今後の課題である。という理由で、主舞台を「奈良」から「京都」に移し、客人を楽しま大人用せるガイドから、自分を楽しむ見学行を始めることにした。結果として、25回にわたって、計61か所の名所・旧跡を訪問した。

 

  同行の志は、奈良でガイド体験を共有し、現役時代には同じような社会経験をした男子二人+私。「同行二人」ならぬ「同行三人(どうぎょうさんにん)」である。共有の仲間意識に支えられ、鼎談を交えながら順調に京都探訪は進んだ。ときに他の奈良ガイド仲間達の参加もあった。京都探訪で心に残った事柄をつれづれに記してゆきたい。ここにあるのは、あくまでも私の記憶に残った事のつまみ書きであり、出来るだけ正確な表現に心がけるつもりであるが、もとより網羅性・完璧性においては市販のガイドブックに及ぶべくもない。そして、京都の過ぎたる我田引水や、やぶにらみ的な記述はお許し願いたい。この京都旅の起点・終点は京都駅とした。


この「京都あるき」をオープンにしてからしばらくして、上野民夫先生(京都大学名誉教授)からメールを戴いた。上野先生は私たちの「京都あるき」と、ほぼ同じ時期に京都の社寺のスケッチをされていた。それらの作品をこの雑文へ掲載することに快諾を戴いた。それぞれを該当の箇所に掲示させていただく(計11作品:相国寺、哲学の道(2作品)、清水寺、下鴨神社、京都大学(3作品)、真如堂、金戒光明寺、南禅寺)。ご縁に感謝を申しげたい。

京都の味わい深い写真(文頭の金閣寺、および文中の清水寺舞台の写真)を提供いただいた肥後昭男さんにこころから感謝致します。これからも有意義な京都探索を続けてください。そして、JR 西日本のキャンペーン・ポスター「そうだ京都、行こう。」から適宜、写真を借用した。

以下の各文章はその時々の印象を記したものであり、文体の統一性に欠ける。お許し願いたい。

 

京都観光に必須:

  バス路線図(京都駅の総合観光案内所や、市バス案内所などで入手できる。英語版もある。無料。)   http://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000019770.html

A  市バス・京都バスの一日乗車券カード(500円)(主要バスターミナルないし、バス車内で購入できる。)

B  今回の京都小旅の出発は京都駅で、集合場所は、駅2階の西口改札口前(JR伊勢丹デパートの入口の南隣)にある京都総合観光案内所(京ナビ)(京都観光協会:主催)であった。多くの京都観光の情報・資料が揃っているし、係員の対応も丁寧である(日本語、英語、中国語の対応可)。

先頭に戻る

HPトップページに戻る


 






 

第1回:東本願寺(ひがしほんがんじ)        1219日(2012年)

http://www.kyotokoto.jp/wp-content/uploads/2011/12/DSC_023744.jpg  京都駅の北、約10分の所に浄土真宗・大谷派の大きなお寺がある。親鸞聖人が開祖の東本願寺である。東本願寺の正門前(御影堂門)には南北に走る烏丸通(からすまどおり)がある。烏丸通を数キロメートル北上すると、そこは天皇が住まわれた京都御所である。御所へ参内するには、この東本願寺・正門前の烏丸通を上がる(京都では北に向かうことを 上(あが)る、また南に向かう事を下(さが)るという)。

 

http://blog-imgs-51.fc2.com/k/y/o/kyoto1966/107-13.jpg烏丸通の不思議    市内の目抜き通りは碁盤の目のように、直線と直角で成り立っているが、ここ東本願寺の前だけ、南北の通りである烏丸通は寺院の正面を外して外側に(すなわち、東側に)迂回している。こうなった理由には諸説ある。一つには御所へ参内する通行は、本願寺の前を通ることが許されたが、宮中を後にするとき、すなわち南に下るときは、人も車も本願寺の前を通ることが許されなかったことの名残とする説。二つ目は、東本願寺で法要が行われた時に、境内からあふれ出た人が市街交通の邪魔にならないためにとする説。そして三番目は、東本願寺はこれまで何度も火災に遭った。その原因となるかもしれない(危険な)電気で動く市街電車(市電)の通行を出来るだけ寺から遠ざけたかったとする説などなど・・・。はて、真偽はいずれに?

 

そのため、この上りと下りの道の間には、約30メートルの幅の膨らみが出来、そこには大きな公園が造られた。この公園は、秋にはたわわに実る銀杏の特有の匂いでむせる。そして公園の中央には、蓮の葉をデザインした大きな噴水があり、東本願寺のシンボルとなっている。京都では時折、このような一見、不可思議と見える風景に出会う。

 

京都人は東本願寺に親しみを込めてお東さんと呼ぶ。お東さんは広大な面積を占め、その全周は1.6キロメートルに及ぶ。その四周には堀が巡らされており、蓮が群生し、大きな鯉が泳いでいる。私自身、まだ、その全周を巡り歩いたことは無いが、お東さんを囲む土塀には、特徴的な5本の白線が刻まれている。これは「五本筋築地塀」と呼ばれるもので、天皇家と特にゆかりの深い由緒ある建築物に対してのみ、その使用が許されている。京都の町をブラ歩きしているときに、しばしばこの五本線に出会う。と思わず、その中が気になるものである。

 

真宗本廟(東本願寺)渡り廊下大建築、御影堂と阿弥陀堂    さて、東本願寺の威容は何といっても大屋根を誇る本堂の御影堂(ごえいどう)と、その左手にある阿弥陀堂である。この二つの大きな建築物は広い渡り廊下で繋がっている。御影堂と阿弥陀堂はいつでも参拝することが出来る。御影堂には「見真」と書かれた大きな額が中央の大虹梁(こうりょう)に掲げられている。見真とは智慧によって真理を見きわめることを意味し、見真大師は親鸞に与えられた諡号(おくりな)である。この大広間は、日本の木造建築の中でも屈指の広さである。ここが人で一杯になるのを見たことがない。薄暗い祭壇中央には燈明が灯され、全国から来る門徒の真摯な読経の声が聞こえる。

 

DSC05195大掃除    年末の恒例の大掃除として、頭には手ぬぐいの頬かぶりに、大きなマスクを着用した老若男女が畳敷きの法堂に縦列に並び、手にした叩き棒で一斉に畳を叩いて前進する。埃が舞い上がる。後ろから、同じいでたちの男性陣が大きなうちわで扇ぎ、建屋の外に埃を煽ぎ出す。埃は本当に外に出るのかどうか、この昔からのやり方にいささかの疑問がないでもないが、一度も参加したことのない部外者の私にコメントの資格はない。例年、師走の20日前後に行われる迎春のための大掃除は「お煤払い」と呼ばれ、新聞報道やTVニュースで必ず報道される京都のお馴染みの歳時記である。

 

東本願寺は広い面積を占めるが、境内は既に大小さまざまな建物で満たされており、ここには寺院にあるべき瀟洒な庭が見当たらない。東本願寺は飛地境内地(別邸)として、本廟の東方約300メートルの所に、枳殻邸(きこくてい)(渉成園)という立派な池泉回遊式庭園を所有している。この庭は近年、一般公開されるようになった。私はまだ、ここを訪れたことは無いが、紅葉の美しい晩秋にでも一度、訪れてみたく思っている。勿論、枳殻邸を取り囲む壁にも「五本筋築地塀」が刻まれている。

先頭に戻る



 

三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)

http://www.kyotokanko.com/photos/sanjusangendo/IMGP0186.jpghttp://www.kyotokanko.com/photos/sanjusangendo/IMGP0187.jpg東本願寺を出て、七条通りを東に10分ほど歩くと鴨川に会う。いつもの鴨川の流れは控え目で静かである。街中を流れる川であるが水は澄んでおり、川底には大小の魚が見える。時折、ユリカモメと思われる白い鳥の集団が川面に佇み獲物を狙っているのを見かける。情緒に溢れる鴨川の景色は、京都の特徴ある景観としてよく写真集でも見かける。

 

鴨川の第一番の景観は四条大橋からの比叡山を借景とした川情緒あふれるもの、第二には鴨川が高野川と賀茂川に分かれる加茂大橋からの上流の景観が代表的なものであろう。ここ七条大橋からは、上手方向の遠くに牛若丸と弁慶で有名な五条大橋が見えるが、下手は東海道線、新幹線などの鉄橋に遮られ、もはや趣のある景色からは遠い。鴨川の美景観も七条通りが分岐点というところか。

 

圧倒的な千手観音群    その鴨川から、数分歩くと右手に三十三間堂がある。大型の観光バスやタクシーが、ひっきりなしに出入りする一大観光スポットであり、四季を通じて修学旅行生や外国からの観光客で賑わう。三十三間堂は正しくは蓮華王院(れんげおういん)(国宝)と呼ばれ、1164年に後白河法皇の勅願によって建立された。本堂の柱間の数が三十三であることから「三十三間堂」と呼ばれるようになったが、その長さは実に南北120メートルにおよぶ単層、入母屋造り、本瓦葺きの堂々としたものである。薄暗い堂内に入る。思わず眼を見張る。一千体もの千手観音立像(重文)が、縦から見ても、横から見ても、そして斜めから見ても、実に整然と祀られている。各々の観音像は身の丈は5尺(1.5メートル)の高さで、全身が金色である。

 

一つ一つの表情は微妙に異なるがいずれも柔和である。バランスのとれたこれだけの数の仏像群は、一体、何年をかけて、何人の仏師が製作に取り組んだのだろうか? この堂が構築された平安時代末期から鎌倉時代のひたむきな信仰と彫像技術の完成度には驚くべきものがある。お堂に足を踏み入れた参拝者は、これらの仏像群に圧倒される。一千体の千手観音は左右にそれぞれに五百体ずつが安置されている。

 

一千体の千手観音立像の中央には、天井まで届く高さの、千手観音の主、本尊千手観音坐像(国宝)が、我々参拝者を優しい眼差しで見下ろす。この堂の中心的存在であり、圧倒的な迫力である。これらすべての仏像は東を向いて祀られている。

 

  一千体の千手観音像の最前列には二十八部衆立像と、その両脇に雲座に乗った風神・雷神像がある。寺の守護神として祀られている。これらの合計で三十体の土色をした檜造の木彫は、圧倒的な数の金色に輝く千手観音立像の前では、あまり目立たない存在であるが、これら二十八部衆と一対の風神・雷神像はすべてが国宝であり、ごく身近な距離で見ることが出来る。一つ一つの像にはその名称と縁起が漢字、インド語(アルファべット)で書かれている。馴染みの阿修羅像もいるし、恐ろしい形相の婆藪仙人、子供を守る柔和な表情の神母天王像、仏法を護るとされる帝釈天もいる。

 

これら守護神たちは、遠くインドやガンダーラの地から、おおよそ千五百年以上もの月日をかけて日本にもたらされたものである。二十八部衆の両端の、左端には風神像が、右端には雷神像がいずれも今にも襲いかからんばかりの鬼の形相で睨みつける。実に力感にあふれる彫像である。色々な社寺で風神・雷神像に巡り会うが、この一対の寄せ木造りの木彫像は、祇園の近傍にある建仁寺の俵谷宗達筆の「風神・雷神図屏風」と並んで、京都にある一級の文化財である。

 

圧倒的な仏像世界の外は?    障子戸を開けて外に出ると、そこは堂と同じ長大な縁側である。静かで張りつめたお堂の空気とは違って、陽に暖められた外気と、塀の外の自動車の音や人々の話し声が聞こえる。本堂の東側の東大門の壁に沿って簡素な庭がある。この庭の緑は、濃茶色の本堂と大屋根の瓦という地味な配色の三十三間堂にあって、明るいアクセントである。

 

通し矢、遠的大会    本堂の西側には小石が敷き詰められた縦長の広場がある。年末のこの場所は閑散としており、人影はない。ここは古くから弓の射場として知られており、江戸時代の始め、武士道の鍛錬の一つとして、本堂の端から120メートル離れた本堂のもう一方の端に設置された的を射抜く競技が行われた(通し矢)。最初の記録は朝岡平兵衛という名の武士が百本の矢を放ち、そのうちの五十一本が的を射抜いたという。この場所は、(旧)成人の日に近い日曜日に弓道の古式に則り、射手が60メートル先の的を射抜く全国大的大会(遠的大会)の会場となる。これは京都の新成人祝賀行事の一つであり、TVニュースでは、晴れ着で着飾った新成人を含む女子の射手の眩い姿が毎年放映される。この大会には、もちろん男子の射手や新成人の参加もあるが、報道されることは少ない。

 

吉川英治の大河小説『宮本武蔵』では関ヶ原の戦い、吉岡一門との戦い、巌流島の戦いなどの、数々の緊迫決闘シーンが描かれるが、その中に、三十三間堂の吉岡伝七郎との決闘がある。堂内には刀を振りかざし宙に舞う武蔵・三船敏郎の雄姿のスチール写真が掲げられている《宮本武蔵(英タイトル、Samurai IIIIIIMusashi Miyamoto)(19545556年、三部作、東宝)》

先頭に戻る


 

方広寺(ほうこうじ)

三十三間堂を出て、京都国立博物館の正門前の大和大路通を上がると、豊臣家ゆかりの豊国神社(ほうこくじんじゃ)がある。この神社はかって、家康に破壊されたが、明治年間になって再建された。本殿の拝殿の前には立派な唐門(国宝)があるが、これは伏見城の城門が移設されたものである。この神社は京都の観光スポットからやや外れているためか、初詣や、神社の祭事の時以外に訪れる人は少なく、閑散としている。

 

怨念の鐘楼    この豊国神社の北側には鐘楼以外には特に目立った建物のない天台宗の寺、方広寺がある。この寺は、敷地も狭く、知られた観光地ではない。しかし、この寺の鐘は豊臣家の数奇な運命を左右した歴史の生き証人である。もともと、方広寺は秀吉が今の豊国神社の地に日本で一番の高さを誇る木造の大仏建立を発願した時に、守護寺として建てられた。

 

この大仏建立に際して、その仏体に打ち込む鋲釘を確保するという名目で全土に刀狩を行い、武士、民衆を武装解除したとされる。知恵者・秀吉の策である。また、秀吉の子、秀頼は父の志を継ぎ、同じく豊国神社の地に奈良の大仏を越える日本一の銅製の大仏建立を目指した。幾多の曲折を経て大仏が完成し、開眼供養の目前に、あの「国家安泰の鐘」事件が起こった。

 

  その国家安泰の鐘事件とは、よく見るとこの鐘の上帯の部分に「国・君臣豊楽」という小さな刻文がある。後の世になり、家康の文字と後に続くの文字の間に臣豊という字を挿入したのは『豊臣家の繁栄、すなわち徳川家に対する謀反を祈った証左だ、けしからぬ!!』と驚天動地な言い掛かりが付けられた。

 

この鐘に書き付けられた文字が因縁となって、大坂冬の陣の口実とされ、やがては豊臣家の滅亡に繋がったというから恐ろしい話である。豊臣家の滅亡にあわせて、多量の銅で鋳造された悲劇の大仏はすぐに取り壊わされることになった。多量の銅を手にした徳川幕府はこれを原料として寛永通寶を鋳造し、全国で流通する小銭となった。寛永通寶には豊臣の怨念が宿る!?

 

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/11/77f9ed7d155dd77d81227d88b04aece0.jpg  今も、方広寺の鐘楼にはあの「国家安泰の鐘」(重文)が吊下げられている。この鐘は、東大寺、知恩院のそれらとあわせて日本三大明鐘と呼ばれる。しかし、方広寺のそれは他の二つの鐘に比べると、訪問者の数や知名度は圧倒的に低い。しかし、この鐘は82.7トンの重さがあり、日本では最重量とされる。鐘楼に付設した寺院には若い僧侶が一人で寺番についていた。年の瀬の除夜の鐘撞について尋ねてみると、「お詣に来られた方に順番に撞いてもらっています。ただし、百八つ以上は撞けませんので、なるべく早くお越しください。」との事であった。あと二週間で除夜の日を迎える。

 

除夜の鐘撞き    「撞けるものなら、ぜひ撞きたいものだ。」そういう思いで、その年の大晦日、午後11時前に、方広寺の鐘楼の前に立った。周囲に十分な照明は無く、暗い闇夜である。すでに数十人が列をなしていたが、私は十分、百八つの鐘撞きの圏内に入れそうであった。深夜になって、私は70番目位に鐘を撞く栄誉にあずかった。自分、そして家族の為に撞いた。体を震わせる重低音の長い余韻が響いた。自分が除夜の鐘を撞くという、これまでの生活ではありえないことを経験した。「君臣豊楽」の響きがいささかでも秀吉に届けばと思う。毎年のTV放映で見る知恩院や、東大寺の除夜の鐘撞の行事に比べると、ここは見学者は少なく、ほとんどは撞き手であった。しかし、方広寺はこれでいいのだ、と納得であった。

 

利用した交通:京都駅から全行程、約4キロメートルの徒歩行。

先頭に戻る


 


第2回:東寺(とうじ)                  0121日(2013年)

http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2011_spring.jpghttp://www.kyotokanko.com/photos/toji/IMGP0068.jpg  

21日は弘法さんの縁日の日であり、特に、121日のそれは「初弘法(はつこうぼう)」、1221日は「終い弘法(しまいこうぼう)」といわれ境内には1000を越えるおびただしい数の露店が立つ。寺内の参道は菓子・玩具、食材料、古着、古道具、各種骨董品、等々で埋め尽くされる。

 

京都のほか、各地からの参拝者・買い物客・観光客も集う。売られている商品、集まる人々の装い、売り手と買い手の会話、いまや 「レトロとなりつつある昭和」 の再現である。元々 縁日とは神仏がこの世と を持つ日とされており、21日の東寺の参詣には大きな功得があるとされる。東寺開祖・空海(弘法大師)の入寂が321日で、毎月21日に御影堂において御影供(みえいく)が執り行われている。楽しい縁日のもようは後に譲り、簡単に東寺縁起を記す。

 

東寺は教王護国寺(きょうおうごこくじ)というのが正式な名称である。平安遷都の時代、都の守護の為に朱雀大路を挟んだ平安京南端の地に官寺として東寺と西寺が建立された。東寺の建立は空海に託され、空海はここを真言密教の根本道場とし、教王護国寺と称した。東寺真言宗の総本山である。一方、同じく空海開祖の真言宗寺院が高野山にある。

 

その中心である金剛峰寺は高野山真言宗の総本山とされている。どちらが本家?という宗門談議はさておき、東寺も金剛峰寺も弘法大師が真言宗布教の基点としたところである。庶民には、高野山は、お遍路さん、大師信仰、納骨信仰の場として知られ、東寺は真言密教の学びと情報発信の寺と受け止められている。空海の心境が代々、語り継がれている。

 

身は高野 心は東寺に 納めをく 大師の誓い 新たなりけり

The Body remains in Mount Koya and the mind lives in Toji                                            (東寺の御詠歌より)

 

http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2000_winter.jpg仰ぎ見る五重塔     東寺と言えば、まず、日本一を誇る五重塔(国宝)である。京都のシンボルである。この塔は東寺境内の東南の角に位置し、塔の前には四季折々の変化を楽しめる瓢箪池とその周辺の庭がある。五重塔の内部は、新春や春季などの特別参拝期間のみ公開される。今回は公開中であり、塔の初層内部に期待と怖れをもって入った。塔の中央には大日如来に見立てられた心柱が通り、信仰の中心である。心柱を取り囲んで東南西北の須弥壇上には四体の如来像が安置されている。

 

天井、周囲の壁、支柱のいたるところに今は多少とも色褪せて来ているが、創建当時は恐らく極彩色であったであろう曼陀羅、仏画などが画かれている。この塔は883年に竣工したが、その後、四回被災しており、現在の塔は1644年に建てられたもので、すでに再建後370余年を経ている。

 

http://www.kyotokanko.com/photos/toji/IMGP0073.jpg  五重塔は正方形の狭い敷地に、重層の屋根と、相輪を上へ上へと積み上げた如何にも不安定な構造物である。地震が頻繁な日本で、この建築物の耐震性は驚嘆に値する。これまで何回か戦乱や落雷による火災で焼失した五重塔ではあるが、地震や台風で倒壊したという記録はない。これは塔身の軸部、組み物、軒が各層ごとに最上層まで積み上げた構造上の特徴によると指摘されている。また、木材の構造物は、柔である組み構造を基本とし、釘などで固定する堅構造を極力避けることで、地震振動が建物を襲った時にも、柔構造による復元力が地震のエネルギーを吸収するとされる。

 

また、心柱や四方を囲む四本の柱は基盤となる礎石の上に置かれているだけで、決して柱構造は地中深くに埋め込められてはいない。水平の高さに等間隔に配置された大きな礎石が複雑な木造構造物を支えている。さらに、特筆すべきは、柱や梁など多くの基本躯体は解体して修理することができる。このことは定期的な建物の検修を行うことが出来、ひいては長期に亘る建築物の形状維持を可能にしている。よく見ると柱や梁などに生じた割れ目などの隙間には、巧みに補修材などが埋め込まれ、古からこれらの建物を維持してきた人々の巧と愛着が滲み出ている。この建物の柔軟性は石が素材の西洋建築には見られない優れた特徴である。私は日本中の五重塔で、東寺の塔が一番好きだ。

 

http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/1993_winter_05.jpg  五重塔の西側には金堂(国宝)がある。この金堂は火災で一度焼失しているが、1603年に豊臣秀頼の発願で再建された。金堂は大きな直線の大屋根の下にもう一重の小屋根をもつ天竺様と和様の特徴を併せ持つ建物である。金堂の本尊は金色に輝く薬師如来坐像であり、左右には月光、日光菩薩の立像(いずれも重文)、そして薬師如来を支える台座の下という珍しい位置に十二神将の立像(重文)が位置する。いずれも桃山時代の仏師康生の作とされる。如来像、菩薩像の光背の細工も完璧にバランスのとれた構造美を現在に留めてきている。

 

この世の立体曼荼羅世界、講堂    金堂の北側に金堂とほぼ同じ大きさの純和様の建築物である講堂(重文)がある。この建物は天長年間に弘法大師により着工された、その後、何回か、大風や地震により大きく破損したが、そのたびに修復が施された。文明年間の土一揆の戦火で焼失した(1486年)が、5年後の1491年に講堂は同じ基壇の上に建物が再興された。東の小さな戸口から中に入ると、そこは弘法大師の密教の教えを具体的に表現する立体曼荼羅の非常に密度の濃い空間である。中央には大日如来坐像を中心に、周囲には4体の如来が安置されている。右手の菩薩部には金剛波羅蜜多菩薩を中心に5体が、左手の明王部には不動明王を中心にやはり5体が安置されている。

 

これだけの彫像が一同に会する壇はここでしか見られないであろう。一つ一つの像は厳しい中にも柔和な表情である。加えてこれら15体の須弥壇上の彫像を囲むように、持国天、増長天、広目天、多聞天の四天王が東南西北を守護する位置に配置され、合わせて梵天、帝釈天も須弥壇上の諸仏の守護に参加している。

 

中央の如来部の5体は重文であるが、その周辺の計16体の彫像はいずれもが国宝であり、わが国の密教信仰の中核をなしていると考えていい。またこれらの彫像は裏に廻っての背後からの鑑賞も出来るように、通路が設けられている。この講堂の立体曼荼羅世界は空海渾身の作であり、とてつもないエネルギーが高度に密積されている。これから先、その一つ一つの意味を自分なりに納得・理解するために何度も通う必要がある。幸いこの講堂は我が家からは近い距離にあり、非常に有難い。

 

20071021135202  五重塔、金堂、講堂それに瓢箪池を含む庭は、拝観料を必要とし、弘法さんの縁日の日でもこの域内は比較的、人で混み合うことはない。域外の敷地で重要なのは、大師堂(国宝)であり、寺内伽藍の西方に位置する。弘法大師の彫像が安置されており、大師信仰の中心であり多くの参拝者でいつも賑わっている。また、その北方には宝物館があり、春・秋の特定の期間のみの開館であるが、カリグラファー空海の直筆として名高い、風信帖(国宝)などのゆかりの筆跡を見ることが出来るし、東寺の誇る国宝級の曼陀羅図が展示される。

 

縁日の風景    この日は初弘法の日である。多くの参拝者が集まる風景はどこの社寺でも似た風景である。まず、イカ焼きや、焼きトウモロコシ、お好み焼きなどの子供たちが好きな食べ物を売る屋台の風景はどこでもおなじみのものである。しかし、この地での縁日は少し様子が違う。まず、客層である。平日の昼間という事のせいかもしれないが、若い家族ずれはほぼ皆無、子供の姿もほとんど見かけない。売られているものは、古着、古美術(怪しげな)、古食器、盆栽、人形、、、、本当に雑多なものが売られている。手作りの手工芸品や飾り物なども多数売られている。日本で一、二の規模の露店である。興味のあるものを買おうと思ったら、値段は交渉次第である。望む品を自分の思う価格で手に入れるためには相当の場数を踏まないと無理な気がする。

 

しかし、これだけの人が集まるのであるから、目利きには実に楽しい所であるに違いない。全体として、老人の客が多く、衣装は茶色や灰色のくすんだ色の衣装が多いのは仕方ない。しかし、ここは日本で有数の縁日の会場であり、地方からの見物客や、外国人観光客もちらほらと見かける。彼等にとっては興味の尽きない品物がいっぱいあると思う。いいものに出会えるかどうかはその時の運と、如何に強い物欲執念を持ち合わせているかであろう。非日常的な運試しの為にも、この縁日会場のつれづれ歩きは面白い経験になると思う。この縁日市は13世紀、すなわち鎌倉時代の半ばから、途切れることなく毎月開催されているという。東寺、いや京都が誇る庶民の憩いの場所である。

 

利用した交通:近鉄京都線・東寺駅下車(急行・普通電車、停車駅。京都駅から一駅、約2分)。東側の入り口、慶賀門まで東寺駅から西方向へ徒歩、約400メートル。また、京都駅から東寺までは五重塔を目指し、徒歩で片道約15分程度。

先頭に戻る


 


 

第3回:伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)     0220日(2013年)

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/c/c3/Kyoto_FushimiInari01.jpg  私は中学2年生になるまで、伏見稲荷大社から約2キロメートル西方の鴨川に架かる勧進橋の近傍に住んでいた。伏見稲荷大社は子供達の間では「お稲荷さん」と呼ばれていた。毎年4月の大祭日、小学校は午後には半休になった。最大の楽しみはお稲荷さんからの御神輿の練り歩きであった。練りの終点となる御旅所は、近鉄電車の東寺駅の近傍にある。伏見稲荷大社は東寺の鎮守社である。太鼓の音が遠くから聞こえる。次第に御神輿が近づくにしたがって、自分の胸がドキドキと高鳴ったのを覚えている。

 

やがて、太鼓のリズムに合わせて、御神輿の担ぎ手の「ワッショイ、ワッショイ」と沿道の観客のにぎやかな歓声が近づく。そして、白一色の祭り装束に身を包んだおじさんや、見覚えのある顔のお兄さん達が担ぐ数基の御神輿が目の前を進んだ。しかし、大変な重量の神輿の酒気帯び運搬は危険という事になったのであろう、数年後にこの御神輿行進はトラック運搬に変わった(昭和32年(1962年)以降、トラック運搬に変わったと記録にある。確かに私の記憶と符合する)。今も東寺に近接の地に伏見稲荷大社の御旅所はあるが、現在の御神輿の行進がどれほどの盛り上がる祭事なのか、その後、私は当地から越してしまったので、詳細は知らない。

昔のお稲荷さんの思い出    小学生時代、自然観察や図画・工作の課外活動では、よくお稲荷さんに行った。お稲荷さんへのミニ遠足は、先生にとっても気楽な息抜きの授業時間だったのではないか、と今になって思う。小学校からお稲荷さんまで、交通に特に危険なところはないし、境内に変質者がウロウロしていて子供を窺うようなこともなかった。平和な時代であった。

 

境内に到着すると適当に散らばり、社殿などの写生をした。正面の大鳥居を越え本殿社殿に至る参道の両脇に小さな祠や対になった狐の石像がいくつか並んでいた。私は大きな本殿を描くよりも、むしろこれらの小さな祠や石狐を描くのを好んだ。残った時間はその周辺で遊んで過ごした。今、尋ねると確かにこれらの小さな祠や、石狐は健在であった。

 

http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/1993_winter_03.jpg  伏見稲荷大社は、農耕の神である全国の稲荷神社、約三万社の総本山である。今や、初詣には仕事に携わる多くの人が、商売繁盛と家内安全の祈願のために訪れる。関東では明治神宮、川崎大師が初詣の参拝客の多い社寺として知られるが、関西では、ここ伏見稲荷大社が初詣参拝者数(当然、お賽銭の額も)で群を抜いた神社として知られる。その数は三が日で約300万人と言われ、京都市人口の軽く2倍を超えるというから、それがどれほどの人手かが想像されよう。子供の頃、我が家の初詣も伏見稲荷大社と決まっていた。前も後ろも見えない圧倒的な人にもみくちゃにされ、参道には何箇所にも通行の規制線がひかれ、拝殿に辿りつくまでに数時間を要したように思う。この初詣の時だけは、私が慣れ親しんだ閑散としたお稲荷さんとは、全く別物であった。

 

千本鳥居は宝物    さて、伏見稲荷大社は、京都はもちろん、今や日本を代表する観光スポットである。何故か? それは、伏見稲荷大社の裏の稲荷山の頂に至る参道全体に張り巡らされた一万本を越すと言われる「千本鳥居」の存在である。子供の頃、この朱色のトンネルは、かくれんぼの格好の遊び場であった。恐らく、何年か前に、どこかの外国人がネット上に「こんなに、面白いところを見つけたよ!!」、「日本の新しいパワー・スポット発見!!」などの紹介で千本鳥居の写真が掲載されたのであろう。

 

これがきっかけとなって、瞬く間にお稲荷さんの千本鳥居は世界中に拡散し、日本を訪れる観光客は、必ずや見ておかねばならない必須の日本景色アイテムになっていったものと推測する。これはネットを経由した情報拡散が、これまでのTV放送や観光ガイドブックのそれとはスピードと規模において、格段に勝っているという事なのであろう。その流れに「千本鳥居」はタイミングよく取り上げられたものと推測する。鳥居の独特の形状、全身が朱色、意味不明の漢字の篆刻、等々、それらがトンネルになって山頂まで続く。確かに、米語で言うところの “Neat!!” の要素はそろっている。

 

  恐らく、この急激な変化に驚いているのは神社側であろう。最近、伏見稲荷大社にはカメラ持参のあらゆる種類の外国人観光客が、わんさと押しかけている。私が奈良で外国人観光客のガイドをしていた時にも、「京都の伏見稲荷に行ってきた。朱色のトンネル素晴らしい!」とVサインで得意げな彼等の写真を何回も見た。

 

我々、日本人にとっては見慣れた朱色の連なった鳥居の風景が、海外からの観光客には「とっても素晴らしい!」のである。参道筋の土産物屋、食堂などは今も昔とあまり変わらず、如何にも旧態の門前町の風情である。これから先、伏見稲荷大社とその門前は新たな投資や、開発のリスクもなく、現状を維持し続けることで確実に観光客を見込むことが出来る。今後を見据えて、思い切った観光地としてのグレード・アップ化が必要である。誰かがやらねばなるまい。

   

京都・つれづれ探訪を開始して認識を新たにしたことがある。伏見稲荷大社は日本歴史の中にあって、伝統と格式を誇る全国のお稲荷さんの頂に立つ、民衆に支持されてきた神社である。その境内は東山三十六峰の最南端、稲荷山の裾に位置するとはいえ、如何にも狭い。適当な広さの庭園がない。伏見稲荷大社が背後の稲荷山に千本鳥居を張り巡らせたのは自らの存在を確保するためだったのではないか。

 

一方、京都には平安遷都1100年を記念して、鳴り物入りで明治28年に建立された平安神宮がある。その正面には大鳥居が建ち、社殿は極彩色で、眼を見張る境内の広さである。あわせて、本殿の奥には神苑という立派な池泉回遊式庭園がある。これが京都・岡崎という垂涎の一等地に建立されている。時の勢いの明治政府の産物である。これは、「官」と「民」の差であろうか。成り立ちを全く異にするこの両神社であるが、いまや京都観光になくてはならぬ存在である。

 

提言    私は、京都散策から宇治の自宅に戻るときに、しばしば京都駅からJR奈良線を利用する。京都駅で発車待ちの「みやこ路快速」の車内でテープ録音のアナウンスが流れる。日本語、英語、中国語、韓国語の順である。その内容はこうだ。「この電車は、稲荷駅には止りません。稲荷駅にお越しの方は、各駅停車にお乗り換えください。」

 

このJR線は外国人観光客の利用が多い。その外国人の大半は稲荷駅下車か、または終点の奈良駅までの乗客である。私は提案したい。稲荷駅には全ての電車が停車すべきである。これが、観光都市・京都の親切、メンツというものである。誰がやるか? そこは京都市・観光局の行政手腕が問われるところである。「いつやるか?」「今でしょう!」

 

利用した交通:京都駅からJR奈良線で、二つ目の稲荷駅(各駅停車駅)下車(約6分)。駅前から参道。

先頭に戻る



 

第4回:錦市場(にしきいちば)            0511日(2013年)

http://www.kyoto-nishiki.or.jp/img/nextgen/monu-img.png  どこの町にも、食材を売る市場はある。その土地、土地の生活臭にあふれた市場で食材や雑貨類を見て歩くのは、国の内外を問わず興味深いものである。特に我々が海外の旅行に出たとき、興味をそそられるのは、その土地の人、とくに庶民は、いったいどんなものを食べているのか? 彼等はどのような市場で食材を買っているのか? そこはどれくらい賑やかなのか? 値段は? と、庶民の生活の覗き見の興味は尽きない。海外からの観光客が京都に来た場合も同様であろう。

 

さて、彼等をどこに連れてゆけばいいのか? それは間違いなく錦小路(にしきこうじ)である。四条通りをひとつ北に上がった東西の辻が錦通りであるが、そのうち、京都・大丸の東側を南北にはしる高倉通から寺町通までが、所謂、京都の台所として知られた錦市場商店街である。長さは約400メートル、道幅は約3メートルと、随分と狭いが京都風情にあふれた商店街である。その歴史は古く、遠く平安遷都の頃まで遡れるという。

 

若冲の生家    今回、錦市場に訪れた時に驚くものを発見した。江戸時代に活躍した細密画家の天才、伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)(1716-1800年)の実家である。彼は当時、錦市場の入り口の店で果物・野菜などの青物の流通・販売業を営んでいたという。仕事の傍ら、趣味の画作に取り組んだが、やがて家業を弟に譲り、自らは画作に集中するようになった。その生家を示す碑が、錦小路の入り口の彼の家の前に誇らしく掲げられている。また、錦小路の入り口のアーケードには、若冲デザインの絵が飾らhttp://www.kyoto-artculture.com/workshop/report/img/ws-02/01-01_nishiki_61.jpgれているし、また錦小路商店街振興組合の公式ウエブサイト(http://www.kyoto-nishiki.or.jp/)には、若冲作のイラストが満載である。これは彼が、この町と如何に密接にかかわって生活して来たか、また、若冲が錦の人々の大変な誇りであり続けことの証左である。

 

若冲の話しが続くが、京都国立博物館で2000年に若冲没後200年を記念した特別展覧会が開催された。それまでは恐らくは一部の人々の間でしか知られていなかった若冲であったが、一気に人気を博するようになった。私も若冲の名を知ったのはこの展覧会がきっかけである。彼の作品は総天然色で動物、植物などの生物を完璧なまでに超細密に描き切り、しかも全体としては生物の持つ躍動感、みずみずしさをいささかも失うことがない。

 

今、改めてその展覧会の画集を見てみると、若冲は動物、植物の細密画だけでなく、仏画あり、書あり、水彩画など多くの作品ジャンルがある。特に、彼の描く野菜類やニワトリなどは画材としてはありふれたものであっても、その出来には眼を見張る。また、襖絵あり、屏風絵あり、障壁画あり、掛幅あり、巻物など、あらゆるものに彼は画いた。流れる筆致は生命感にあふれて躍動しており、本当にみずみずしい。狩野派で基礎を学び、のちに光琳を研究し、自らの信じるところに従い、ここまで才能を開花させたという。京都が、そして錦がもっと誇りにしていい庶民出身の鬼才と思う。

 

市場風景    錦小路商店街を歩く。買い物客がそぞろ歩き出来るように作られている。鮮魚店、漬物店、果物店、野菜店、乾物店、総菜屋など、それぞれが専門店化しており、スーパーマーケットの様に、一つの店で買い物をすますことは出来ない。従って、買い物客は、何軒かの店に立ち寄らなければ食材は揃わない。私達が子供のころ、まだ、ダイエーもニチイもなかった頃は、どの町でも、このような小さな商店が寄り合った商店街が一般的であり、それが町の流通を支えていたものだ。

 

その昔ながらの商売のやり方が、今なお、錦小路商店街では、しっかりと受け継がれている。子供のころ、毎年、暮れには迎春用の餅つきを行っていた。粟餅、吉備もち、黒豆餅など、色の白くない色物の御餅を食べるのが楽しみだった。家の近所の乾物屋では、上質の粟や、吉備や、黒豆の入手が困難で、わざわざ錦商店街まで買い出しに来たのを覚えている。京料理には旬の食材や、様々な珍しい材料を用いることが多いが、料亭や、仕出し屋などのプロの料理人も、いい仕事のためには錦市場での品選びは欠かせないという。それほど、食材に関しては、一級品から、汎用品まであらゆるものが揃う。

 

錦小路商店街を歩くと、カメラを持った外国人の観光客が確かに多い。皆さん、眼が泳いでいるというか、好奇に満ちた表情で店々を覗き込んでいる。お店の人も、写真を撮られても、しばらくの間、観光客が立ち止まって好奇の目で眺め込んでも、特別に迷惑そうな表情はしない。このあたりの対応は見ていて気持ちがいい。日本人にとって、タコ、するめ、魚の干物、乾物の海苔、、、、何でもない見慣れた食材に好奇の目が集まるのは見ていて愉快である。

 

また、たこ焼きや、イカ焼きや、天ぷらなどの揚げ物や、おでんなど、すぐ食べられるホットな調理食材の美味しそうな匂いは、花蜜に集まる昆虫のように誘引作用がある。焦げた醤油の匂いも日本情緒を掻き立てる。そういう客のちょっと腹を満たすために、色々な調理食材が売られている。アメリカだったら、ハンバーガーとかホットドッグやアイスクリームなど、路上駐車の小型ワゴンの調理車が売っている類の食べ物である。

 

ほんのちょっとしたスペースに床几が並べられ、歩き疲れの休息を兼ねつつ、食材を頬張る観光客の姿は本当に微笑ましい。私の場合、こういうところでの必須のアイテムは揚げたてのコロッケである。目の前で揚がった熱いコロッケを「フーフー」と息を吹きかけて食べる幸せ感はたまらない。胃袋が感じる歓びは、大人も、子供も、若者も、老人も同じである。海外からの観光客が、また来たいと思う郷愁は胃袋が最もよく覚えているのかもしれない。そういう貪欲な胃袋の為にも、錦小路商店街は確実に、ユニークな思い出を提供しているものと思う。

 

錦天満宮写真・錦通り新京極突き当たりにあります  錦小路商店街の終点に菅原道真公をお祀りした錦天満宮がある。錦天満宮曰く、この地が道真公の生家とされる。狭い境内のお宮さんであるが、拝殿、各種お札の授与所、ほとんど香箱座りポーズの撫牛(天満宮で立ち姿の牛を見たことがない)、狛犬、湧き出る名水と一通りの基本アイテムは揃っている。いつも煌々と照らされ、繁華街のど真ん中にある活気あふれた天満宮である。我々はここを左折して修学旅行生のそぞろ歩きで有名な新京極通りを上がって、本能寺に向かう。

先頭に戻る


 

本能寺(ほんのうじ)

現本能寺信長公廟http://umoretakojo.jp/Shiro/Tokubetsuhen/Honnouji/Photo/Ima.jpg  本能寺が京都にあるという事は知っていても、それが一体、京都のどこにあるのかを答えられる人はあまり多くない様に思う。何故か? それは恐らく、本能寺が京都のメインストリートに面していない奥まったところにあり、しかもその寺社がそれほど大きなものでないというのが原因ではないかと思う。季節になれば修学旅行生で賑わう「ホテル本能寺」という大きな旅館がある。

 

ホテル本能寺は、京都市役所の前の広い御池通に面しているから、目にする機会も多い。従って、本能寺はおそらくその近傍にあるだろうとの想像は付く。しかし、この周辺は京都の繁華街、官庁街のセンターであり、大きなお寺があるとはとても思えないような所である。京都のガイドブックにも、掲載アイテムが多すぎて、本能寺が割愛されることがしばしばである。

 

さて、その本能寺であるが、時の智将、織田信長が明智光秀の謀反に遇い、非業の死を遂げた所として、あまりにも有名である。本能寺が日蓮聖人の流れを組む法華宗の大本山であることは意外と知られていない。三条寺町角を上がって、もうじき御池通という手前の右側に本能寺が西向きに正門を構えている。周辺の背の高いビルに囲まれ、注意深く歩かないと見落としそうな入口である。

 

本能寺跡エッ?!    ・・・・・・・と、手元にある資料を眺めながら、ここまで書き進めた時に、大変なことに気が付いた!! 実は、今の本能寺と信長が殺された寺(本能寺跡)は全く別の所に存在していた。信長が非業の死を遂げた本能寺は、四条西洞院の堀川高校の近辺にあった。今の本能寺から南西に約1.3キロメートルの距離である。その本能寺跡には、右の写真のような小さな碑が残されている。気になって、市街地図で本能寺跡とされる地域の地図を見ると、何と今でも「本能寺町」とか「元本能寺南町」とかの町名がそこには残っているではないか。もう、間違いはない!! 本能寺の変で、(旧)本能寺は完全に焼け落ち、後の世になって、秀吉が今の寺町通の近傍に新しく本能寺を再建したのだ。

 

歴史認知の甘い私は、信長は今の本能寺で本堂もろとも焼き討ちに遭ったものと信じ込んでいた。確かに、今の本能寺には、信長公廟が建立されており、墓石と思われる大きな石積の碑があり、その前には賽銭箱が据え付けられている。いかにもの情景である。何も知らなければ、「信長がここで!」と思い込むのも無理はない。この地に立って、炎上する本能寺を心に描いてみたが、どうもそれは今、考え直すと大いなる的外れだったようだ。どうりで、今の本能寺がもうひとつ盛り上がっていない筈である。改めて、本能寺の公式ホームページを見直してみると、確かに、非業の死を遂げた信長の記述は少々あっさりと書かれているような気がする。

 

というわけで、本能寺の項はこれにて中折れ。終了とする。本能寺裏の細い路地口から賑やかな河原町通りに出て、御池大橋で鴨川を渡った。京阪電車に三条駅から、清水五条駅まで乗車し、そこから次の訪問地、六波羅蜜寺に向かった。

先頭に戻る


 

六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)

六道珍皇寺  これまで私は一度も六波羅蜜寺のある東山五条の北西の界隈に足を踏み入れたことがなかった。五条通りは夏季に開催される清水焼の掘り出し物市に数回、出歩いたことがあるし、東山通はそれこそ清水寺や東山に沿った社寺へ通じる京都観光の幹線道路である。真言宗の寺として空也上人が六波羅蜜寺をこの地に創建したのは平安時代の中頃の963年であった。江戸期まで六波羅蜜寺は大変な勢力と敷地を誇っていたが、明治期の廃仏毀釈により、一気に今の規模まで縮小されたという。

 

本堂正面鉄門この世との分かれ道    昔、このあたりは 六道の辻と呼ばれ死者とお別れをする場所であった。都人は人が亡くなると、棺に亡骸を納め、鴨川を渡り、 野辺送りをした。また、五条通から南は鳥野辺と呼ばれる風葬地であった。やがて、人々の間では 六道の辻は霊界の入り口と信じられるようになった。六波羅蜜寺の隣の六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)の入り口には 六道の辻の碑が今も建てられている。平安時代末期には平家の一門がこの地域を占め、厳しい強権政治を敷き、人々から怖れられた平清盛は、別名で六波羅殿と呼ばれた。

 

平家の滅亡後、鎌倉の世になって、鎌倉幕府は京都守護に代わって六波羅探題という警察機関をこの地に設置し、朝廷や京都の民衆の動きを厳しく監視した。人々からはこの界隈は何とも煙い所であったようだ。六波羅の地の中世の魑魅魍魎伝説はまんざらの作り話でも無いようである。今の六波羅蜜寺の所在地は、京都市東山区轆轤町(ろくろちょう)である。

 空也上人立像

六波羅蜜寺のご本尊は空也上人自らが彫られたとされる2.5メートルの高さの一木造りの十一面観音立像(国宝)である。本堂内陣に安置され12年に一度、辰の年のみ開帳されるという秘仏である。写真は公表されず、なかなか実物拝察の機会もないので、どうも馴染みが薄い。機会を逃さないように、次回の御開帳をまとう。

さて、六波羅蜜寺と聞いて思い浮かぶのは、空也上人立像である。学生時代の日本史の教科書に、空也上人の口から何体かの小人が口から吹き出される不思議な彫像の写真があったのを覚えている。何とも奇妙な彫像である。空也上人は民衆に難しい教義を説くのではなく、ただ、念仏「南無阿弥陀仏」を繰り返し唱えることの大切さを第一義に説いた。彼は民衆への熱心な布教者として知られ、人々の生活に奉仕した。この不思議な空也上人立像がここ、六波羅蜜寺にあることは、市バスや市営地下鉄の車内吊り広告の写真等で何度か見た記憶がある。ただ実像を拝むのは今回が初めてである。

一願石空也上人と怖い奪衣婆    本堂内陣の外周を囲む通路を進み、内陣の裏手に宝物収蔵庫がある。この奥のショーケースの中に空也上人立像がおかれていた。それは、想像していたよりはるかに小さな像で、高さは1メートルくらいであろう。空也上人の口から吹き出ているのは6体の阿弥陀仏の小像である。6体の小さな阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、念仏を唱える大切さを視覚的に表現しているという。六体の小像は針金でつながっており、一つの小像の大きさはせいぜい23センチメートルの大きさである。ほかにもこの宝物館には、薬師如来像、地蔵菩薩像、四天王像、清盛公坐像、運慶坐像など多くの重要文化財が安置されている。

 

あたりの展示物を見まわした。小さな一体の木彫像を見てギョッとした。地獄絵で、閻魔大王の側にいるとされる奪衣婆(だつえば)像である。私はこれまで奪衣婆(バアサン)というものを知らなかった。奪衣婆は三途の川のほとりに立ち、死者が川筋に辿り着くと、着ている衣服をすべて剥ぎとる。その衣服は衣領樹(えりょうじゅ)という木の上にいる縣衣翁(けんえおう)(ジイサン)に渡される。衣服で衣領樹の枝がたわわに垂れさがった場合、生前、この死者は豪奢な生活をしていたとされ、永遠の地獄送りの断が下される。奪衣婆のことは、奪衣鬼ともいわれ、元々、インド由来だそうな。数年前、インドに行ったときに血に染まる奪衣婆の写真を見たことがある。ヒンズーの世界の事である。ここ六波羅蜜寺の奪衣婆像の姿たるや、色黒で、痩せこけて腰も背も曲がり、腰布をまとい、上半身はむき出しで垂れ下がって貧相な乳房は丸見え、皺だらけの顔、狂人の目つき、と思わず顔を背けたくなる形相であった。

 http://web1.kcn.jp/masa/image24.jpg

インターネット等で、この奪衣婆像写真を随分と探してみたが、どうも探しきれない。ここに添付の写真は、インドのヒンズー寺院で撮られたものである。六波羅蜜寺のそれはこれより何倍も鬼力があったように記憶する、、、。たまたま、六波羅蜜寺を訪れたことで、奪衣婆という世にも恐ろしい奇怪婆の存在を知ってしまった。三途の川を渡る時には必ずや、このバアサン出会うらしい。「死んだときには六文銭を忘れず持たせてもらおう。そして死に装束は出来るだけ簡素にしてもらわねばならない。」というのが学んだ教訓である。

 

境内には、観音像、開運推命のおみくじ、弁財天堂、願懸け石、天気輪、ピラミッド状に積み上げられた数十体のお地蔵さん石像など、仏教寺院に特有のものが色々と揃っている。本堂、並びに弁財天堂の朱色は、暗い印象を与える六波羅の地にあって、ひときわ明るさを保っている。帰路、六波羅蜜寺から五条通に出た所に、京都の銘菓「五建外郎屋(ごけんういろうや)」の本店がある。安政年間に京都五条の建仁寺、六波羅蜜寺や清水寺の詣客のために茶店を構えたのが創業の始まりらしい。歩き疲れた体に、生ウイロウが美味い。また、みやげ物としても手軽である。

 

利用した交通:京都駅から地下鉄で四条へ。徒歩で、錦市場を散策後、新京極通を上がり、本能寺まで(約2キロメートル)。次に、鴨川を渡り京阪電車の三条駅に(徒歩20分)。清水五条駅(各駅停車駅)下車。六波羅蜜寺まで徒歩(約10分)。最寄りの五条坂の停留所から、100202206または207系統の市バスで京都駅に戻る(約15分)。

先頭に戻る


 

第5回:祇園祭・山鉾巡行(ぎおんまつり・やまぼこじゅんこう)  717日(2013年)

祇園祭・宵山京都の町は7月に入ると、祇園祭の諸々の行事が始まる。八坂神社での祭り準備の安全祈願と、717日に街を練り歩く、祭のクライマックスである山鉾巡行のための、山鉾の組み立てや、宵山など夜の祭事に向けての笛・管弦の練習などが始まる。町が次第に活気に満ちてくる。祇園祭は71日の神事ことはじめの儀式(吉符入(きっぷいり))から始まり、31日の疫神社夏越祭まで、一か月に及ぶ、ロングランの祭典である。

 

祇園祭は、天神祭(大阪市大阪天満宮)、神田祭(東京都神田明神)とともに、日本三大祭の一つと言われる。また、京都では祇園祭は、葵祭(上賀茂・下鴨神社、5月)、時代祭(平安神宮、10月)と合わせて、京都三大祭りの一つに数えられている。いずれにしろ、祇園祭は日本の夏を代表する国民的祭典である。

 

祭の歴史    平安京に都が遷都してからしばらくの間、都には厳しい疫病が発生し、多くの死人が出た。これは牛頭天王の崇りとされ、その癒しの為に祇園社〈八坂神社の前身〉が建立された。病魔退散を祈願して、町中に鉾が建てられた。悪病を封じ込める御霊会が今の祇園祭の起源とされる。江戸時代に入り、この祭りは町民文化の隆盛に合わせて、各町内が豪華絢爛な鉾や山車の製作を競うようになった。

 

祭りのクライマックスは717日の山鉾巡行(32基)であり、四条烏丸を起点とし、新町御池を終点とする、京都市内の目抜き通りを各山鉾が多くの祭り人に引かれて街を練り歩く。特に、四条河原町、河原町御池で、各車が直角に方向転換をする場面は、「辻回し」とよばれ、とりわけ人気が高い見せ場である。細断した竹を道路の一面に敷き、水を撒き車輪を滑りやすくして、一気に直角方向に引き廻して方向転換するものである。(2014年から後祭が再興された(718日〜24日)。24日には、前祭とは違ったコースを10基の山鉾が練り歩く。現在の祇園祭は前祭、後祭の二つの祭りからなる)

 

http://www.kyotodekuraso.com/zf/file/photo/key/1346コンチキチン    山鉾巡行の前々日、前日は宵々山、宵山とよばれ、各町内に組み上げられた山車や鉾から、「コンチキチン、コンチキチン、、、」の独特の笛、太鼓のお囃子が聞こえる。特に、夜になるとその音は一層、活気を帯びてくる。この宵々山、宵山には多くの浴衣を着た見物人が集まる。その数は30万とも、40万人とも言われているが、例年すさまじい人出で、四条通り、そしてその周辺の南北の路地は浴衣を着た人で埋め尽くされる。四条通りとその周辺の路地を見物人として何回か歩いたことがあるが、この道路は人の重さで陥没しないか、と余計なことが気になるほどのすごい人出である。一昔前は、鉾に乗った祭り人から「粽撒き(ちまきまき)」が行われた。人々はそれを掴もうと争奪状態になるが、これはとても危険という事で、最近は禁止されているようだ。

 

各鉾の近くでは、それぞれ鉾の名の入った、粽が販売されており、家の玄関に吊るしておくと無病息災が叶うとされている。但し、この粽には中に餅は入っておらず、笹をめくっても、むいても、何も出てこない。食べられる粽は、近所の百貨店の食料品売り場に行くと、結構な値段はするが、ぼってりと白餅の入った粽を購入できる。

 

山鉾巡行は何故か四条通の東山の麓にある八坂神社の前は通らない。その現代的な理由は、町中に張り巡らされた電線が背の高い鉾の自由な通行を妨げているからである。今の巡行路には、付設された電線がなく、すっきりと空を仰ぐことが出来る。山鉾巡行が一巡すると、当日の夕方、八坂神社から三基の神輿が街を練り歩き、夜遅くに、四条寺町の御旅所に到着する神事が行われる。これは神幸祭とよばれる。

 

山鉾巡行に押し寄せた多くの観光客の熱気はないが、この神輿の街を練り歩く様子は、最も京都らしい光景の一つである。このように、京都を代表する祇園祭は祇園祭保存会の懸命の努力で今日まで維持されて来ているが、傷んだ山鉾の修理技術の伝播と必要な資金集めには様々な苦労があるらしいし、観光行事か、宗教行事かで揺れ動くこともあると言う。長年、この祭りは女人禁制で行われているが、男女共同参画の時代、この祭り方式にも変革が迫られている。

 

http://www.omatsuri.com/lib03/giony4.jpgこれから猛暑が・・    今回の探訪では、山鉾巡行のほぼ終点にあたる烏丸御池の辻に立って、山鉾を見守った。巡行は御池通を東から西に向けて進むが、数百メートル先から山鉾が次第にこちらに近づいてくる様は壮観である。近くで見る山鉾に刻まれた数々の彫物や緞帳の絢爛さには眼を見張る。動く博物館と言われる所以である。もとはと言えば疫病退散祈願の必死の祈りの行事が、今や、数十万人を集める一大観光イベントになっている。

 

これも千年という時の重みのせいなのであろう。さて、この祭りが終ると京都盆地には灼熱の太陽が降りそそぐ。何年体験しても慣れることのない湿気の多い京都の夏である。ひたすら待つのは、少しは凌ぎやすい日である。それは8月も半ばを過ぎる頃にようやくやってくる。京都ではお盆の行事の最終日(816日)に、大文字山などの五山に送り火が焚かれ精霊送りが行われる。山鉾巡行から大文字山の送り火までの一か月間は、ひたすら酷暑ガマンの日である。

先頭に戻る


 

知恩院(ちおんいん)

三門  流石に山鉾巡行の日である。曇り空で直射日光はないが、湿気が多くて蒸す。御池通を東進し、御池大橋を渡り、南下。三条通を東進して、東山三条に、そこを再び南下し、知恩院前まで歩いた。2キロほどの歩行であるが、すでに相当に汗だくである。

 

堂々とした三門    入り口に建つ知恩院新門を越え、左右に学校や、いくつかの塔頭を見ながらゆるやかな知恩院道とよばれる坂道を歩む。平安神宮から南下する神宮道を渡ったところで、我々を迎えるのは三門(国宝・内部非公開)である。堂々たる威容である。奈良のガイドで日本一の高さを誇るという東大寺の南大門を何度も見たがそれと比べてどうだ。南大門は平坦な土地に建てられているが、この三門は東山山麓の裾の傾斜地に建つ。直下から門を見上げても両者の高さの違いはよくわからないが、建物の幅と奥行きは、ここ知恩院の三門の方が大きいように思われる。

 

全体としての重量感もこちらの方が勝っているように思う。二重の屋根を支える構造の垂木部分の先端が白く塗られているが、http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2010_winter.jpg茶褐色の巨大な躯体木材構造に対して、その白のアクセントが実に面白い。宗教的にどのような意味があるのか分からないが、他ではあまり見ない配色である。畳二畳の広さがあるという最上部の中央に掛けられた扁額には「華頂山」と記されている。「華頂(かちょう)」は知恩院に隣接した私立女子高校の名前として私には馴染みがある。この知恩院の三門は浄土宗総本山の象徴として「宮門(きゅうもん)」とも呼ばれる。私、宮門(みやかど)の家系は浄土宗である。

 

本堂を巡る    三門の下は暑気を遮り、かすかに涼風が吹いていた。少し休む。本堂の御影堂に進むには目の前の急な石段の男坂と右に迂回しただらだら登りの女坂がある。男坂を選択したが、これが大変な急坂で本堂を目前にして、境内の隅の木陰で大休止をとることにした。やがて息もおさまり、行動を開始した。今回の訪問では御影堂(国宝)は運悪く、平成の大修理中であり、建物全体が巨大な布でおおわれており、正面からの拝観は出来なかった。

 Chion-in Temple Miedo

ここ知恩院は浄土宗の総本山で、正式な名称は華頂山大谷寺知恩教院と号する。鎌倉時代の初期に、法然上人が浄土の教えを布教する場としてこの地に知恩院を開いた。比叡山延暦寺との教義上の論争で社寺の攻撃を受け、その後も幾度もの焼失、再建、再々建の繰り返しがあった。門流の分裂や再合流などで動揺する時期もあったが、着実に京都の貴族社会に深く基盤を築いていった。京都の街がほとんど灰に帰した応仁の乱では、ほとんどを失ったが、その後、徳川家の菩提寺と定められてからは、現在の大伽藍の完成を見るに至った。

大鐘楼

御影堂と左側の阿弥陀堂をつなぐ渡り廊下の下をくぐり、集会所(法然上人御堂)の入り口から堂内に入る事が出来た。建物の内部には大きな広間がいくつもあった。順路に従って進むと、やがて最も奥と思われる広間に法然上人が安置されている大方丈というところに着いた。幾人かが厨子にお座りの法然上人の像に向かって正座し、静かに祈りを奉げていた。我々も一礼し、部屋の隅に置かれた大きなモニター画面で、知恩院の歴史や、現在の知恩院の境内の建造物を紹介するVTRに見入った。概要を理解するには絶好の教材である。その奥には方丈庭園という名勝があるが、今回はその見学を失念してしまった。暑気にあてられ、相当の疲労困憊の中にあったのであろう。

 

詳細画像2  広大な知恩院の伽藍は林に包まれた東山山麓を上に向かって広がっている。境内の最上段には、法然上人の廟堂がある。法然上人はこの地で入滅され門弟たちが廟堂を建立した。徳川の時代になり、常陸国藩主 松平伊豆守信一公の寄進を得て大幅な改築がなされ、現在に至っている。この地には訪れる人も少なく、周辺は閑静である。内部は非公開であるが、その門は江戸期に特有の唐破風の屋根を持ち、欄間に掲げられた総天然色の鳳凰や牡丹などの彫り物は、ほとんど日光東照宮の小型版のそれである。西本願寺の唐門(国宝)にも同じ雰囲気が漂う。

 

http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2001_winter.jpg大きな鐘楼    さて、知恩院で忘れてはならないのは大鐘楼である。方広寺、東大寺の鐘楼と並ぶ、大鐘として知られる。1636 年の江戸年間に鋳造された物であり、その重量は約70トンと言われる。この鐘は、毎年二回、法然上人のお隠れになった418日から24日の御忌大会の法要期間中と大晦日の除夜の鐘として打鍾される。特に、大晦日の深夜の除夜の鐘の打鍾は、毎年、紅白歌合戦の後に定番の「ゆく年、くる年」の迎春報道として全国中継される。その撞き方は知恩院独特で、親の撞き手1人と、子の撞き手13人が、大きな掛け声に合わせて全身の力を振り絞っての一打、一打である。撞き手の若手の僧侶たちは汗だくである。

 

無事に108回を撞き終わって、京都はやっと新年を迎えることが出来る。この大晦日の鐘撞を是非見ようと、この大鐘楼の周りはそれこそ人々で溢れ返る。この大晦日の鐘が終了したら、多くは隣の八坂神社に初詣でに向かう。ここもまた、人、人、人である。火縄に燈明の火を移して持ち帰り、迎春の雑煮焚きの火とするのである。京都流の家内安全、商売繁盛の祈願の行為である。ここ知恩院の除夜の打鍾の人だかりは、同じ大鍾を打つ方広寺のそれとは大違いである。

 

知恩院の除夜の鐘のTV報道から、この大鐘楼は、いかにも境内のど真ん中に鎮座しているように思っていた。昼間、境内で大鐘楼を探すと、それは山に向かって右奥の高台の上にひっそりという感じで建っている。地図を見てやっとそれと認めるという感じである。それと知らなければ、この大鐘楼は見過ごすかも知れないようなところに位置している。この鐘を近くで見るとさすがにでかい。このほか、知恩院には「左甚五郎の忘れ傘」や「鶯貼りの廊下」などの七不思議や、一つ一つの建物などじっくり見て歩くととても一日では足りない。また、再訪を期して帰路に着くことにした。最後に、和順会館で冷たい飲み物を口にし、英気を養った。

 

利用した交通:京都駅から地下鉄で御池へ。ここから、御池通を東に歩く。御池大橋で鴨川を渡る、三条通、東山通を経由して、知恩院前に(徒歩で約2.5キロメートル。盛夏時は熱中症に注意。途中に日影があまりない)。知恩院内を散策後、知恩院前バス停から京都駅行きの市バス100または201系統に乗車(約20分)。

先頭に戻る


 

第6回:二条城(にじょうじょう)              0918日(2013年)

http://www.jalan.net/jalan/img/7/kuchikomi/0027/KXL/d7177_0000027606.jpg二条城 東大手門  二条城は、徳川家が関ヶ原の戦いで天下取りに成功したのち、京都を治める幕府の機関として建設が開始された(1601年)。現在は二条城が築城されて400年余になる。ここは京都御所の中心である紫宸殿から南西方向に約2キロメートルの所にあり、この微妙な距離は天皇家との関係を平和裏に保つ上で必要なものであった。また、この場所は平安京が創建された当時、天皇がお住まいになられた内裏からは僅かではあるが南東方向の域外にある。

 

徳川幕府の支配機構が江戸に集中化されるに従い、二条城は幕府の中枢機関の位置付けから、出張所的な出先機関となり、将軍の京都へ訪れる回数は次第に減っていった。政治的というよりも、むしろ文化的な雅の象徴として、二条城は積極的に維持され、桃山文化の粋を集めた建築様式が追求され、美術工芸品などが多数が集められ、当時の武家文化の頂点を極めた。

 

大政奉還後の二条城    二条城が歴史上、再び脚光を浴びるのは、築城から約250年後の徳川時代が終焉する明治維新期である。時の将軍、徳川慶喜は江戸から二条城に赴き、二の丸御殿の大広間において大政奉還(186710月)を奏上した。あわせて二条城は徳川幕府から朝廷に譲与されることになった。爾来、二条城は二条離宮とよばれ、宮内庁が管理する事となった。太平洋戦争開戦の二年前の1939年(昭和14年)に二条離宮は宮内庁から京都市に下賜されることになり、名称は元離宮・二条城と改められ、翌1940年にその内部が一般に公開された。現在は京都市文化市民局がその管理運営にあたっている。1994年に域全体が世界文化遺産に登録された。これが二条城の略史である。

 

Hyoshimasa.ht  今や、二条城は京都で最も有名な観光地の一つである。壮大な日本建築の社殿に、数々の襖絵、それに手入れの行き届いた広大な日本庭園と、一日の滞在ではとてもその全貌は味わい尽くせない。シーズンを選ばず、国内外からの観光客で常に埋め尽くされているし、修学旅行生には訪れるべき必須のスポットである。入場料金は大人600円で、その満足度は京都の他の社寺に比べても格段に勝っていると思う。そういう私であるが、実はこの地を訪れるのは小学生の時の遠足以来で、おおよそ60年ぶりである。二条城の前の道は中学・高校生時代の通学路であったし、その後も二条城の周辺は何度も歩いているが、その内部がこれほどであったとは、まさに「灯台下暗し」、「びっくりポンや!」である。

二の丸御殿平面図

二の丸御殿    さて、堀川通に面した東大手門から城内に入る。築地塀越しに大きな書院造りの建物が見える。これが大政奉還などの重要な国政行事が執り行われた二の丸御殿(国宝)である。入場の際に手渡されるパンフレットを見れば、この二の丸御殿は継ぎはぎの構造で、次々と奥へ奥へと建物が増築されていったのであろうか。一つ一つの建物は書院造りであり、それらは外縁を取り囲む廊下で繋がっている。各建物はほぼ正方形の形状であるから、ちょうど四角形の連凧が連なって大空を泳いでいるようにも見える。このような建て方を雁行型という。まず、入り口の建物「遠待」は朝廷からの使者や、参内した大名たちが控える場所であり、壁と襖の全面に大きな竹林群虎図を見る。我々見学者はそこから、外縁の廊下を歩むことで、建物の全容をくまなく見ることが出来る。

 

二の丸御殿は五つの建物からなっているが、廊下の外には立派な二の丸庭園、そして各部屋では狩野派の画家達が描いた颯爽たる襖絵を間近で見ることが出来る。なかでも隆々とした松が襖絵に描かれた「大広間」は圧巻で、大政奉還の様子が再現されている。一の間の一段と高い奥座に将軍、http://www.jalan.net/jalan/img/8/spot/0008/KL/26104af2120008944_3.JPG慶喜公が座し、隣の二の間には正装した老中、高家、若年寄や家来達、十数人が最敬礼の姿勢で座す。この場所で歴史が大きく転回した事を学ぶ。

 

  奥の「黒書院」に進むと、桜が満開の風景、それに鳥が木に休む図など新たな構図の作品が並ぶ。さらに、最奥の「白書院」は将軍の居間と寝室で、さすがにここには金色の襖や壁はなく、落ち着いた山水の水墨画の襖絵である。二の丸御殿の回廊はゆっくり静かに歩んでも、「キュツ、キュツ」と音を発する。いわゆる「うぐいす張りの廊下」が周囲に張り巡らされている。将軍様がご就寝の時の広い御殿の警備には、うぐいす張りは必須の警報装置であったのだ。連日、観光客がこの廊下を歩き、うぐいす張りを楽しむが、うぐいすが擦り減りはしないかと気になるところである。

 http://www.jalan.net/jalan/img/6/kuchikomi/0786/KL/0517d_0000786727_1.JPG

二の丸庭園    二の丸御殿を出て、書院造りとして知られた特別名勝の二の丸庭園に向かう。様々な大きさの石が配置され、植栽も手入れが行き届いた京都の中でも屈指の広さの庭園である。庭園を過ぎ、内堀を越えるとそこには本丸御殿と本丸庭園がある。この内堀の南東の角には、五層の天守閣が築城された。京都平野の中で唯一の平城(ひらじろ)であったが、築城百年余の寛延年間に雷火で焼失した。今、この築城跡には石垣が残され、ここからは二条城全体を見渡すことが出来る。また本丸御殿は内部非公開であるが、明治年間に御所にあった数寄屋造りの桂宮御殿が移築されたもので、確かに、御所建築物の由来が感じられる。

 

西橋で内堀を出て、左右どちらにも行けるが、右に曲がると清流苑の庭園、緑の園そして築城400年記念展示・収蔵館の前を通って、出口へと向かう。特に記念収蔵館においてはごく間近で、障壁画などを見ることが出来るので開館されている場合は是非立ち寄るべきである。今回の散策では二条城だけの訪問であったが、建物、壁画に襖絵、庭園、築城跡、、、など見るべきものが実に多くあり、ペース配分をよく考えないと、かなり疲労困憊する。むしろここは二回に分けて来た方がいいのかもしれない。桜の季節と、紅葉の季節と、どちらも人で一杯であろうが。

 

微妙なズレ    最後になるが、地図で二条城の地形を詳しく見ると、堀川通の南北方向と外堀の南北方向が微妙にずれている。外堀も内堀もほんの少し時計方向に回転しているように見える。平安京が敷かれた時、その都市計画は北極星を真北として設計・施工されたという。一方、二条城が築城される1600年頃には、北を指す羅針盤や磁石が西洋からすでにもたらされていた。二条城は磁石の指し示す北を「北」として、設計・施工がなされたという。

 

従い、磁北と北極星の北との角度(度)の差が、この外堀の形状に反映されているという。一見、古都京都にすんなりと定着しているかに見える二条城であるが、これはまぎれもなく西洋のルネサンス期以後に建てられた近代建築物なのである。今度、外堀と内堀を見る時は、その角度を是非とも実感してみたい。

 

利用した交通:京都駅から市バス950または101系統で二条城前へ(約25分)。帰路も同じ。

先頭に戻る



 

第7回:延暦寺(えんりゃくじ)             1114日(2013年)

http://www.cablecar.jp/11_sakamoto/11_140918-yen1.jpg  比叡山(848メートル)にはいくつもの修験道があり、これらの道が比叡山を歴史的に支えて来た。これらの山道は回峰行の僧にとっては厳粛な修行の現場である。今や、軟弱な我々訪問者の為に、滋賀県坂本側からの坂本ケーブル、京都八瀬側からの叡山ケーブル・ロープウェイ、または比叡山ドライブウェイを利用してバスで山頂に至る三つの登山ルートが用意されている。今回は坂本からのケーブルを、復路にはバスを利用した。JR湖西線の比叡山坂本駅で下車。

 

坂本町――そこは立派な門前町であった。駅からまっすぐに比叡山に向かっての参道は延暦寺と関係の深い日吉大社に通じる。また、参道を挟んで両側には延暦寺に関連するいくつもの塔頭があった。坂本の街はただ通過するだけではもったいない歴史的史跡にあふれる古の雰囲気の漂う街である。ケーブル駅はこの参道を登り切った左手にある。振り返れば琵琶湖の水面が目に入る。坂本ケーブルの登り口の駅、山上駅のいずれもが大正風の雰囲気を残したレトロな駅舎である。山頂までは僅か11分で、このケーブル線(全長2025メートル)は日本最長である(昭和2年開業)。

 

Image幾多の名僧を輩出    比叡山・延暦寺は最澄766822が開いた天台宗の総本山である。一大山岳宗教の拠点であり、千日回峰行などの荒行で知られる。日本仏教の根本道場として、法然上人(浄土宗)、親鸞上人(浄土真宗)、栄西禅師(臨済宗)、道元禅師(曹洞宗)、日蓮上人(日蓮各宗)、真盛上人(天台真盛宗)、智証大師(天台宗)、良忍上人(融通念仏宗)など、多くの宗教的偉人を輩出した。また延暦寺は京都の鬼門(北東)に位置するため、京都守護の寺とされてきた。爾来、天皇家や貴族との結びつきが強く、広大な寺領の保護という名目で武装した多くの下級僧侶(僧兵)を保持・育成した。あの武蔵坊弁慶もその一人である。

 

律令制が乱れた時代、世にあふれる盗賊などの難にそなえるため、僧兵が急増し、却ってそれが社会不安となった。寺領の支配をめぐる諍いから、織田信長は、比叡山を無力化すべく焼き討ちを行い、全山を壊滅的に破壊した(1571年)。その後、豊臣、徳川家の厚い庇護を受け、約半世紀後の寛永年間にはほぼ現状に復されたという。単純に驚くべきことは、この山容にこれだけの物量の寺院と石材を組み上げた、先人たちの途方もないパワーである。ショベルカーも、エンジンも、モーターもない無動力な環境下で、手斧とカンナと水準器でこれらが作り上げられた。山を登ってこの作業現場に辿りつくだけで大労働なのに。

 

国宝根本中堂  京都の街から眺める比叡山は、大比叡と四明岳の二峰からなる双耳峰である。その鞍部に延暦寺の中心である根本中堂などの東塔が位置する。今回のこの時期の比叡山訪問の大きな狙いは紅葉であった。しかし、時期がまだ早かったのか、全山が燃え盛る紅葉をまだ眼にすることは出来なかった。

 

根本中堂の怪    ケーブルの山上駅から数百メートルの遊歩道を歩むと、東塔(とうどう)の寺域に入る。域の広場に太筆書きで「根本中堂(こんぽんちゅうどう)」と彫られた大きな石柱が建っている。この場所から、入母屋造りの根本中堂の大屋根が同じ水平の目線上に見える。この配置に驚く。普通は本堂の大屋根は見上げるものであろう。しかし、ここでは本堂は周囲より低い窪地に建立されている。数十段の幅広の石段を降りる。堂門には太い白文字の「根本中堂」の札が掲げられている。延暦寺の個性を感じる独特の力強い筆跡である。

 

比叡山・延暦寺は東塔、西塔、横川(よかわ)の三域からなる。いずれにもいくつかの朱色の大きなお堂が存在する。中でも東塔の根本中堂(国宝)が、比叡山全体の中枢である。

 

根本中堂の中に入る。堂内は非常に暗い。よく見ると篭に入って宙に浮いて揺れる炎が見える。これぞ1200年の間、灯し続けられている「不滅の法灯」である(信長の比叡山焼き討ちの時、法灯は一旦は消えた。根本中堂が再建された時に、元々、延暦寺から分燈されていた灯が山形県・立石寺から逆分燈された。)。眼が暗さに慣れてくると、釣灯篭の「不滅の法灯」のかすかな光を受けて、奥の方に三つの堅く扉を閉ざされた厨子が見える。この厨子の中には最澄作と言われる延暦寺のご本尊、薬師如来立像が祀られているという。内陣は石敷きの土間であり、周囲の板敷きの外陣よりも数メートル低いところにある。

http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2008_summer.jpg

普通の感覚では、内陣は外陣より高い所に、また厨子はさらに高いところに祀られているものと思うが、この内・外陣の高低の逆転が天台仏堂の一つの特色だそうだ。堂の最も低い石敷きの土間に座して僧侶は読経・修養を積む。冬の凍てつく中での土間に座しての修行はさぞや鬼気迫るものであろう。この内陣、外陣の高さの差により、我々参拝者の目線と、宙に浮かんで灯る法灯と、厨子の中の薬師如来像が同じ高さに揃うように配置されているという。有難い話であるが、不思議なことだらけである。直截に表現して、根本中堂はこれまで訪問した社寺の中でも、圧倒的に濃厚な宗教的感銘を受けるところである。

 

文殊楼  根本中堂を出ると、正面には急峻な石段がある。その上には文殊楼がある。文殊楼の高さは、根本中堂の大屋根よりも高い。この楼は延暦寺の山門であり、坂本から歩いて比叡山頂を目指すと、ここに着く。目の前の急な階段を下ると、そこは根本中堂の入り口である。この楼は二階建ての構造で、階上には文殊菩薩のほかにいくつかの古色な仏像が安置されている。

 

大講堂(重文)には、当山で修行を納めて新たな信仰を切り開いた法然上人をはじめ、幾多の先人の像が安置されている。東塔にはこの他にも、戒壇院、阿弥陀堂、など朱色の大きな建物がそれぞれの場所に建立されている。全部を尋ねるには更なる時間が必要である。今回、西塔、横川には行けなかった。

 

 

http://www.ken-tmr.com/hieizan-mudoujidani/myoodo.jpg籠山行と千日回峰行    比叡山・延暦寺は厳しい修行で有名であるが、その荒行には、籠山行(ろうざんぎょう)と千日回峰行がある。前者は最澄の教えるところでは、すべての修行を終えるまでは12年間を要し、その間は下山することが許されない絶えることのない祈りと修行の日々が続く。西塔の常行堂、法華堂がその修験道場である。また、千日回峰行は七年間、約1,000日にわたって市街、市外にある神社仏閣を巡拝する。修行の最終段階では1日の歩行距離は100キロメートル近くに及ぶ。

もし、途中で行を中断せざるを得なくなった時は、自害すべく麻紐と短剣を常時携行するとされる。満行を達成した者は北嶺大行満大阿闍梨と呼ばれる。その修験道場は東塔から南西の方向に約1キロメートル離れた無動寺谷の明王堂である。回峰行の創始以来これまで満行に達したものは47名で、この修行を2度終えた僧が3名おられる。我々の世代には、酒井雄哉氏が2度満行を果たされた大阿闍梨として知られる。兎も角、常人には及びもつかない世界が比叡山には存在する。今回の訪問では、比叡山の13を少し垣間見ただけである。全山を網羅しようとする場合は、相当の体力と覚悟が必要である。

 http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2014_early_summer.jpg

下山バスは、稜線を左に右に縫って走る。比叡山をバックに、琵琶湖から京都市街、、、と移り変わる景色の変化が楽しい。しかし、バスが京都市内の平地まで降りると、そこから先、京都駅までは爆睡であった。

 

利用した交通:京都駅からJR湖西線に乗り、比叡山坂本駅で下車(新快速15分、320円)。ケーブル坂本駅まで歩く(約20分)。坂本ケーブルでケーブル延暦寺駅へ(片道860円)。延暦寺境内散策。帰路は延暦寺バスセンターから京阪バスで京都駅へ(約80分、770円)。

先頭に戻る


 

第8回:新島旧邸(にいじまきゅうてい)          1212日(2013年)

yaeP1170056.JPGhttp://ecx.images-amazon.com/images/I/51DjHztL4iL._SX352_BO1,204,203,200_.jpg  2013年(平成25年)、新島旧邸は大変な賑わいであった。我々もその一員である。この年、NHKの大河ドラマで、会津藩出身で後に同志社大学を創設した新島襄の妻の八重(やえ)を主人公とした波乱万丈の生涯を描いた「八重の桜」が放映された。主人公の八重は綾瀬はるかが演じた。

 

物語の前半は徳川家に忠誠を尽くし、佐幕派に加わる「会津の悲劇」である。会津の戦闘勢力として、鉄砲術を身に着けた八重の活躍が描かれる。後半は波乱万丈の流浪生活の中、やっとのことで京都に辿りついた八重は兄の覚馬を通じて、若き新島襄と知り合い、彼の妻となる。京都では、洋学を基盤に学問所(のちの同志社大学)の設立に情熱を注ぐ襄と共に成長する八重の姿が描かれる。

 

八重の桜・京都編    そのドラマ展開の多くが京都の新島家で繰り広げられる。もちろん撮影されたのは放送局に作られた舞台セットである。実際に新島襄の住居が今も、同志社大学の史跡として大切に保管されており、実際にその場所は、公開されている。場所は寺町丸太町を上がった鴨沂高校の南側、御所に接して新島旧邸はある。この建物は明治の初期に西洋の生活様式をいち早く取り入れた邸宅として知られる。TV放映ではこの邸宅の隅々が舞台セットで映されたが、実際に旧邸に行ってみると、まるですべての建物の寸法や、調度品がそっくりTVの映像そのままである。TVの画像が本物なのか、それとも目にしているこの旧邸が本物なのか? ちょっと不思議な錯覚に陥るような感覚になった。ひょっとして八重さんがドアの向こうからあらわれないか?! ベランダが取り付けられた建築様式は確かに、当時の日本の生活様式とは随分と違う。時代先取の粋を感じる。

 

京都府立鴨沂高等学校1872〜2013α「鴨沂高校の校舎を考える会」府立高等女学校の今    隣の府立鴨沂(おうき)高校も懐かしい。ここは元、府立高等女学校(京都一女)であったところだ。どこかの寺院と見間違う校門は昔のままだ。鴨沂校舎を全面建て替えするか、耐震構造化をすべきかの議論が昔からある。その後、耐震化はどうなったのだろうか?文化財保護か、耐震確保かは常に京都に付いてまわる問題である。今の校舎は、一見して今風の普通の34階建ての校舎と見えるが、、、。

 

この学校は有名な芸能人を多く輩出している。山本富士子、田宮二郎、団礼子、加茂さくら、大信田礼子、中退者として、森光子、沢田研二らがいる。ちなみに鴨沂という名称は、鴨(おう)は鴨川から、沂()は水のほとりという意味である。鴨川からは約500メートルの距離があるが、いい響きの名前の学校であり、羨ましい。

 

寺町通を北に進み、寺町御門から京都御苑に入った。

先頭に戻る


 

京都御苑(きょうとぎょえん)

http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2016_spring.jpghttp://www.japan-guide.com/g3/3917_02.jpg  京都御所は観光都市・京都のシンボルであるが、長岡京からの平安遷都で都が建設された時(794年)、その内裏は今よりも約2キロメートル西方の千本丸太町付近、朱雀大路は今の千本通の近傍であったとされる。当時の内裏は何度も失火し、焼失と再建を繰り返した。14世紀の半ば、南北朝時代に土御門東洞院殿が仮の内裏とされ、御所はさみだれ式に約2キロメートル東に移動し、ここが新しい御所となった。新しい内裏は旧内裏と区別するために大内裏と呼ばれるようになった。それ以来、大政奉還の明治2年に明治天皇が東京に行幸されるまで、この地が日本の皇居であり続けた。

 

都会のオアシス    京都御苑は65ヘクタールの面積を有する長方形の大きな公園であり(南北に1.3キロメートル、東西に0.7キロメートル)、都会の真ん中にあって大小5万本の樹々が生育し、市民に静かで緑豊かなオアシスを提供している。御苑は外周が石積み土塁で囲まれ、9ヶ所の御門と6ヶ所の切り通しから苑内に入ることが出来る。ちなみに、京都御所、仙洞御所など天皇家が保有される施設は宮内庁が管轄し、近年、新しく設立された京都迎賓館は内閣府が、そして最も広い面積を占める公園部分の京都御苑は環境省が所管し、「国民公園」と分類される。

 

今の御苑は広々とした樹々に囲まれた空間であるが、江戸時代の苑内は、京都御所(当時は禁裏と呼ばれた)、および大宮御所、仙洞御所の区域を除いた大部分は公家町と呼ばれる区域であった。そこには、有栖川宮、桂宮などの宮家や、近衛殿、九条殿などの公家など、天皇家にゆかりの摂家・公家がそれぞれの屋敷を保有し、その数は約200棟におよび、さしずめ苑内は一種の混みあった高級集合住宅地の様相であった。

 

それが今のように落ち着いた景観に復したのは、明治時代になってからである。東京遷都に伴って多くの公家達も東京に移住し、御苑は公園化に十分なスペースを確保することが出来た。松、楠、欅、榎、銀杏など大きく育つ樹々が植生された。そして今の御苑があるのである。

 

京都御所建礼門京都祭りの出発点     京都の三大祭りのうち、葵祭(515日、上賀茂・下鴨神社)と時代祭(1022日、平安神宮)は京都御苑を出発地として、それぞれの神社に向けて行列が市中を練り歩く。その時ばかりは、祭礼人で御苑は大いに賑わうが、普段の御苑は落ち着きのある静けさである。樹々の合間から遠望される比叡山や如意が岳(大文字山)などの東山連山の眺望は、御苑を借景庭園として、奥行きのある景観を醸し出している。京都御苑の中の主要場所である、京都御所と仙洞御所については、後の訪問の機会に触れる。御苑の北端の今出川通を挟んで、次の訪問先、同志社大学キャンパスがある。

先頭に戻る


 

同志社大学(どうししゃだいがく)

https://scontent.xx.fbcdn.net/hphotos-xpa1/v/t1.0-9/12509763_1044767885546110_7590839609080065409_n.jpg?oh=2497b515db609be584cc8a55b51e7740&oe=575B04D6Doshisha University, Imadegawa Campus, Kyoto.同志社建学精神    新島襄は幕末期の混乱の中、国禁を犯してアメリカに渡った。新しい日本の建国の為には、欧米の社会から多くを学ぶ必要があると考えた。アメリカ滞在中にキリスト教から多くを学び、信仰をわがものにした新島は、「自由」と「良心」に基づいて人間を養成するキリスト教主義教育の重要性を学んだ。

 

10年間の滞米生活の後、日本に帰った新島は青年育成の為に、「志を同じくする者が創る結社」という意味の同志社の名を冠した同志社英学校を京都に設立した。大学の校歌Doshishya College Songで歌われる最初の“One purpose”という語は、「一つの志」、すなわち「同志」という、建学の精神に基づくものである。そして、「一国の良心」たらんと願う人々が同志社に学び、固有の伝統と自由に満ちた学風を築いて巣立っていった。これまでに巣立っていった卒業生は30万人を超えるという。

 

1875年(明治8年)に創立された同志社の前身組織は、翌年に京都御苑に隣接した今出川通の相国寺門前(薩摩藩邸跡)に校舎2棟と食堂1棟を建て、本格的な人材教育に着手した。

 

爾来、同志社は京都の学府の中心の一つとして多くの人材を育てて来た。今では、幼稚園から大学院まで同志社一貫教育体制が整い、また女子教育、海外からの帰国子女のための教育プログラムの充実、また、1986年には文化・学術・研究の一大集積地、関西文化学術研究都市の一角に広大な京田辺キャンパスを開校した。おもに理工系の研究と教育の設備の充実が図られている。

 

同志社礼拝堂 チャペル  同志社大学 京都散歩スクール・カラー    校舎はレンガ色で統一されており、キャンパス全体に欧米の大学に似た雰囲気を醸し出している。我々が今回、同志社大学に立ち寄った一番の目的は、学生食堂でうまい昼食をReasonableな価格で食することである。そして、食堂での学生さん達の活気あふれる雰囲気に接して、若い気持ちを吸収するためである。私が学生の頃は、生協食堂でA定食とか、Bランチとかのセットメニューの販売しかなかったが、今の同志社大学の食堂は、一品ずつ食べたい食材をトレーにとり、それを最後にレジでまとめて精算する。

 

ちょうどスーパーマーケットでの買い物と同じ纏め払い方式である。大学だけでなく、町のレストランでもこのような気軽な食事提供がもっと一般化してくれたら、食べ物の質と量を色々と調節したい私には都合がいいのであるが、、。食堂では女子学生の数が目立った。実際の所、男子、女子とどちらの学生数が多いのかは知らないが、おそらく真面目に授業に出席する女子学生の数が男子に勝るのであろう。

 

私の周囲の同志社人    長年、京都人である私の周囲には同志社の卒業者が多いのは当然であろう。大学生の時には、同志社高校の卒業生が何名かいたし、社会人になってからも会社の中、また取引先にも同志社の関係者との接点は多かった。親戚、身内には一家全員を同志社で固めている家系があるし、そう言えば、我が子、我が孫も同志社のお世話になっている。奈良でガイド体験を共有した仲間は同志社の英語サークル(ESS)で活躍した。兎も角、京都において、同志社の存在感と知名度は群を抜いている。今出川キャンパス内にある重要文化財であるいくつかのレンガ造りの洋館建物群や、クラーク記念館、同志社礼拝堂の周辺を散策して、キャンパスの東門から次の目的地である相国寺に向かった。

先頭に戻る


 

相国寺(しょうこくじ)

http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/1997_summer.jpg禅僧・義満の遺産    相国寺は足利時代に、3代将軍・足利義満(13581408年)によって創建された。室町幕府は当時、室町通上立売(室町通:烏丸通の一筋西側の通り、上立売通:今出川通の一筋北側の通り)付近に政庁を構えていた。禅に対する信仰の特に厚かった義満はその東隣の地域に新しい禅寺を建立すべく、その付近に住んでいた公家たちを強引に立ち退かせた。その場所に今の相国寺は存在する。1392年に法堂、庫裏などの完成を見た。

http://gosyuinnotabi.web.fc2.com/jisyouin-kg01.jpg埋め込み画像 10 (相国寺法堂)

その時、義満は僅か35歳であり、爾来、相国寺は室町幕府による禅統括の拠点となった。相国寺は臨済宗相国寺派の大本山で、夢窓国師を迎えて歓請開山を行った。当時、相国寺は京都の北の広大な地域を席捲する勢いであり、今の金閣寺、銀閣寺は山外塔頭寺院の位置付けであった。ちなみに金閣寺のあの有名な金箔の建物の正式な名称は、「臨済宗相国寺派鹿苑禅寺金閣舎利殿」という。当時の足利氏の禅勢力が如何に大きかったかを物語るものである。

 

c0112559_14363921.jpghttp://a11234842.travel-way.net/DSCF49142.jpg  草創、数年後の1394年に最初の大きな火災が発生し、境内の主要な建物は灰燼に帰した。その後、何度も再建と被災を繰り返す。義満の後の世になっても、火災や落雷などの被災をたびたび受けたが、そのたびごとに旧に復された。現在の建物の多くは19世紀の始めの文化年間に再建されたものである。明治時代になり、廃仏毀釈の嵐が相国寺にも迫り、寺内は荒廃の極に達した。数十万坪あった領地が一気に4万坪に激減するなど、多くを失う事となったが、禅宗界の旗頭としてその信仰と伝統を守り続けた。

 

  今残る相国寺の建物http://a11234842.travel-way.net/DSCF49243.jpgではその中心が法堂(重文)と庫裏である。法堂は一重裳階付きの入母屋造りの構造であり、仏殿を兼ねている。中央には釈迦如来坐像と一対の脇侍が中央の壇に置かれており、いずれも運慶の作とされる。また、天井の大きな雲龍の図は狩野交信の作であり、堂を威圧する迫力のある板絵である。この法堂の近くに大きな白壁が印象的な住職の居間であった庫裏がある。切妻屋根の上には大きな破風が取り付けられており、それが印象に残る。境内は大体において静寂に保たれ、大通院という門構えのある境内塔頭の専門道場では参禅の修行僧が日々の行を行っている。

 

巨大七重の塔    相国寺で特筆しておかなければならないのは、これからの詳細な研究と発掘に待つところが大であるが、創建当時の1399年に相国寺に七重の巨塔があったということである。高さは109メートルであり、当時としては日本で最も高い塔であった。その名残であろうか、今も、相国寺敷地の東側、同志社女子大学の北の地域に「上塔之段町」、「下塔之段町」という、それを思わせる地名がある。もしこの七重の塔が瓦屋根葺であったならば、その重さを支えるに足る貫や桁や垂木の構造合理性も説明されなければなるまい。

 

これまでの予備的な発掘の結果から、塔があったとされる地域から瓦の破片・断片がほとんど出土しないことから、この塔は板葺ではなかったかの推論もある。日本では木葺の神社、仏閣は普通に見られる。木葺の塔としては、例えば奈良県桜井市の談山神社の十三重塔などが知られている。ただ、当時の技術で100メートルの高さの塔の建設が可能であったかは、様々な角度からの技術的な検証が必要である。この七重の塔が建立されていた京の都は、今からは及びもつかない景観であった事であろう。話は変わるが、奈良・東大寺にも同規模の七重の塔があったとされ、その基壇の場所は特定されている。再建計画が実行に移せるかどうか、これから約5年をかけて詳しい規模や礎石の配置などを調べるという。古代人・中世代人の知恵と技術と馬力には感服するしかない。

先頭に戻る


 

金閣寺(きんかくじ)

お札拝観券金閣寺(鹿苑寺)の紅葉日本一の建物    京都観光のメッカ、臨済宗相国寺派・金閣鹿苑寺(きんかくろくおんじ)は誰もが知るところである。特に、金色に輝く第二、第三層の金閣の姿を見た者は、忘れがたい感銘を受ける。最下層の第一層は法水院(ほっすいいん)と呼ばれる寝殿造りで、阿弥陀堂仏堂として作られている。第二層は潮音洞(ちょうおんどう)という書院造りの観音堂である。また最上層は究竟頂(くっきょうちょう)と言われる禅宗様の建物であり、そして、塔頂にはまさに飛び立たんと羽根を拡げた鳳凰が佇んでいる。三つの異なった信仰のコンセプトが縦に積み上げられたユニークな構造である。

 

前には鏡湖池(きょうこち)を持ち、借景は衣笠の穏やかな峰々である。足利義満は引退後の棲家としてここにこの世の極楽浄土を表現した環境を造った。また別名を鹿苑寺と呼ぶが、鹿苑は義満の法名である。

 

有難い入場券    金閣鹿苑寺に入園すると、入場きっぷの代わりに、「金閣舎利殿御守護」と大書したお札が配られる。これが入場券を兼ねているが、家に持ち帰って毎日、目にする所に貼るといい。開運招福、家内安全のお札である。私は何回か参拝しているので、書斎と台所にこのお札を貼っている。

 

当然のことながら、金閣鹿苑寺を背景に皆が写真を撮影するため、唐門の入場口をくぐってすぐの、金閣が最初に見える場所はいつも黒山の人だかりである。外国人観光客、修学旅行生、それから国内の遠方からの観光客、、、ありとあらゆる人がここに溜まる。京都の観光地でこの場所が最も人口密度が高いと断言できる。池を半周して、金閣鹿苑寺をもっと近傍から、さらに近づいて裏側から見学できるように参道が付けられているが、最初に目にする池に反射した金閣と衣笠山の借景のこの景色がベストである。絵葉書や、観光本の表紙や京都カレンダーの写真等々、ほとんどがここから撮られた写真である。

 

桜を背景に、新緑の中で、真っ赤な紅葉に包まれて、そして、うっすらと屋根に雪を載せた風景など春夏秋冬、どの景色も絵葉書そのものであり、誰もが名写真家になれる場所である。兎も角、金閣鹿苑寺では、最初にベストショットを見せられるので、正直言って後の庭の印象がどうしても希薄にならざるを得ない。

http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2003_winter.jpg

 

参道に沿って歩くと、小高い丘を登って夕佳亭と言われる江戸年間の数寄屋造りの茶席、それに不動堂や小さな滝がある。境内はそれほど広くなく、ともかくも迷うことなく金閣鹿苑寺に意識を集中させて歩くとよい。

 

利用した交通:京都駅から市バス、417205系統で河原町丸太町へ。徒歩5分で新島旧邸へ。京都御苑、同志社大学キャンパスから相国寺へは徒歩約2キロメートル。烏丸今出川バス停から市バス、59102系統で金閣寺道へ。金閣寺参拝後、金閣寺道から市バス、101205系統で京都駅へ戻る(約30分)。

先頭に戻る


 

第9回:嵐山・渡月橋(あらしやま・とげつきょう)    0217日(2014年)

https://www.kbs-kyoto.co.jp/koyo/images/arashiyama_20151209_092129.jpghttp://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/1995_summer_02.jpg交通の要所・嵐山    名勝、嵐山に架かる橋が渡月橋であり、そこを流れる川はこの橋を境として保津川から桂川へと呼び名が変わる。保津川の亀岡よりさらに上流は大堰川と呼ばれるし、桂川は下流域では伏見で鴨川と合流し、さらに大阪府との境付近で宇治川、木津川と合流し、最後には淀川と名を変えて大阪湾に注ぐ。この川は普段はおとなしい清流であるが、時に上流で大雨があった時には、激しい濁流がこの地域一帯を襲う。

 

渡月橋をわたる道路は府道幹線29号線であり、橋桁の形状や木の装飾で覆われた桁と木製の高欄のため、一見、木を思わせるが、コンクリート製の橋脚と鋼製の桁を有する2車線の自動車道であり、両側には歩道が付設されている。

 

ここ嵐山は京都の西の交通の要衝である。JR山陰線(JR嵯峨野線)の嵯峨嵐山駅、京福電鉄の嵐山駅、阪急電車の嵐山駅、嵯峨野観光鉄道のトロッコ嵐山駅が、ここ渡月橋の周辺に集まる。また、船頭さんが操船する小舟に乗って、亀岡の馬堀から急流を楽しむ保津川下りの終点がここ、渡月橋の近くの船着き場である。当然のことながら、観光客の密度は常に高い。

 

優雅な三船祭    嵐山の近郊の太秦(うずまさ)にある車折神社(くるまざきじんじゃ)は太秦の映画村からも近く、芸能神社として多くの芸能人が芸の上達の祈願に訪れる。毎年、5月の第三日曜日に、車折神社の三船祭がここ渡月橋の上手の川域で執り行われる。保津峡の狭い谷筋を抜けた保津川は、ここにきて流れも緩やかな幅二百メートルの浅瀬の川になる。古式ゆかしく明るい装飾を施した龍頭船が川面に浮かび、のどかな管弦の音楽、乙女の舞、和歌などの詩が吟じられる。

 

http://catdiary.sunnyday.jp/blog/jms_5679a.jpg  私の中・高生時代の友が車折神社の宮司(今は故人)であり、何回かこの祭事に呼ばれたことがある。しばしの間、古の優雅に浸るが、毎回、自作の句を一首持参しなければならず、雅から程遠い生活の私には優雅な時間の中にあって、苦吟の時であった。今となっては懐かしい思い出である。

 

嵐山を背景にした渡月橋の景色が最も好評なのは、秋の紅葉の季節である。京都中の神社・仏閣・公園の樹々が一斉に紅葉するが、嵐山の人気はその中でも群を抜いている。渡月橋の木の欄干と背景のまだら模様の紅葉のコントラストが人気である。嵐山は決して全山紅葉にはならない。緑の木々の中に散りばめられた、ひときわ燃える赤い樹々が一層の輝きを増す。

http://supermerlion.com/wp-content/uploads/yapb_cache/dsc_0397.2fewh46kt7ok08ws4448g44w4.2pzvxpor0iec0884g84ggw8s8.th.jpeg

モンキー・パーク    もう一つ、嵐山で忘れてはならないのは、岩田山の嵐山モンキー・パークである。私が子供の頃にも確かに岩田山にはお猿の公園があった。それが今となっては、「京都に岩田山あり!!」というメジャーな存在に変貌している。何故か?海外からの観光客には、野生のサルが非常に珍しく、自然な状態で生きるサルの姿を見たいというのがその理由らしい。サルにエサを与えるのは、サルを呼び寄せる効果は絶大であっても、非常にしばしば手にした餌を強奪されたり、観光客に挑んだりと危険を伴う。そこで考えられたのが、人が檻の中に入り、外のサルの集団にエサを与えるなどして、その姿を楽しむものである。日本ではサルが自然に群れている姿を見るのは、田舎に行くとほぼ日常的な風景であるが、これが外国人には愛くるしくて微笑ましい情景なのであろう。所変われば、品変わるである。

 

十三参りに特化    法輪寺は、麓から約100メートル上がった嵐山の中腹に位置する古いお寺である。奈良時代に僧・行基によって創建され、その後、874年に根本道場として、荘厳な伽藍が整備された。ご本尊の虚空蔵菩薩は大空(宇宙)の自然現象を広く支配するとされ、その後、電波の祖師を祀るという電電宮などが建立された。以来、電気事業関係者の信奉が篤いとされる。

法輪寺

http://www.hankyu.co.jp/area_info/arashiyama-navi/img/spot/item1_01img.jpg  また、法輪寺は京都では子供が13歳に達した時、その後の人生の安寧、勉学向上などを願う「十三参り」に訪れる所として特に有名である。参拝を済ませて帰途に着くときに、「渡月橋を渡り終えるまでは、決して後を振り帰ってはいけない。授かったすべてのご利益が消える。」と言われている。私も13歳の時に、この寺を参拝し、ご利益を授かった筈であるが、その後の人生に結果を伴ったかどうかは「??」である。そういえば13歳以来、法輪寺を訪れていない。一度、お礼参りに行かなければならないのかも知れない。

 

このほか、嵐山の保津川界隈には尋ねるべき名所が多くある。丹下左膳の名優・大河内伝次郎が百人一首で知られた嵐山・小倉山に建てた大河内山荘は庭と京都市街の眺望が評判で訪れる人も多い。京都風味の最高級別荘であり、落ち着いた雰囲気の回遊式庭園がある。このほか、保津川沿いには京都吉兆嵐山本店、旅亭嵐月、京都嵐山・らんざん、など京都が誇る高級旅館・料亭がある。いつも前を通るだけで中に入ったことはないが、今回もそうだ。天龍寺に向かう。

先頭に戻る


 

天龍寺(てんりゅうじ)

http://www.kuraryoko.com/kyoten21.jpg禅寺の格付け、五山十刹    天龍寺は右京区嵯峨野保津川近くに14世紀の半ばに、足利尊氏が夢想国師を開山の祖として創建された。臨済宗天龍寺派大本山であり、雲亀山天龍資聖禅寺が正式な名称である。京都では、臨済宗大本山の禅寺にしばしば出くわす。調べてみると、興聖寺(上京区、堀川寺之内)、建仁寺(東山区、大和大路四条)、相国寺(前出)、大徳寺(北区、紫野)、東福寺(東山区、本町)、南禅寺(左京区、南禅寺町)、妙心寺(右京区、花園)など名だたる禅寺が臨済宗大本山である。

 

それぞれの禅寺は朝廷や幕府によりそのランク(官寺の寺格)が決められた。五山十刹(ござんじっさつ)という。時の権力によりその寺格が決まったのであろうか、「五山第一、建長寺、南禅寺。第二円覚寺、天龍寺、、、、」という風である。この禅宗の寺格は原則として三年二夏(満二年)と決められていたというから、一度、いい評価を得ても、いいランクを維持し続けるためには、たえざる自己変革が要求されたのであろう。このあたりの詳細をまた、学習してみたいものである。

 

天龍寺のパンフレットを見ると、夢窓国師は伽藍の完成のための資金調達の為に天龍寺船を建造し、中国との交易を行った、とある。1343年には七堂伽藍が完成し、天龍寺は京都五山第一位の寺格を誇るようになったとある。足利尊氏が天下を治めた時期と一致する。寺格の話しは他の寺との関係もあるので、この辺りにとどめておこう。

 

http://www.kuraryoko.com/kyoten11.jpg法堂・大方丈    ここ天龍寺は参道に多くの塔頭が並び、その渋い雰囲気はいかにも禅寺である。左手に天龍寺前庭を見て、奥に進むと大きな庫裏が見え、その前に受付がある。法堂の天井には大きな加山又造画伯の書かれた9メートルもある大きな円形の雲龍図が掲げられている。ここは基本的に土日が公開日なので、我ら、平日歩き組にはなかなか拝見の機会がない。

 

大方丈がこの境内で最も大きな建物であるが、これまで何度も被災に遭い、この建物は明治中期のものである。内部は襖で幾部屋にも分かれているが、ご本尊の祀られている釈迦如来坐像は幸いにも被災をまぬがれた平安期作の像である(重文)。方丈の使用には欄干が巡っており、そこからの曹源池庭園の眺めは禅寺に特有の落ち着いた風情である。秋の紅葉の季節が大にぎわいだそうである。

 

http://www.kuraryoko.com/kyoten41.jpg  庭園拝観コースを歩く。広大な庭は典型的な池泉回遊式庭園であり、池を取り囲んでの周遊コース、また山手には多宝殿や百花苑などの建物が庭の植栽との調和を保っている。庭園の最も高い所は望京の丘と言われ、京都市街の奥に比叡山、如意ガ岳等が望まれる。すぐ近くには多宝塔の屋根が見える。庭園のベストシーズンは紅葉期、そして桜の季節だそうである。北門を出て、嵯峨野の諸寺巡りをしながら、化野(あだしの)に向かう。

先頭に戻る


 

化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)

https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=360x10000:format=jpg/path/s0e24a1fd53ccc83e/image/i7049ebdf4a8636ef/version/1331309495/image.jpg念仏寺への道すがら     天龍寺を北門から出て、奥嵯峨のひなびた社寺の前を通過して化野の念仏寺に向かう。最初に出くわしたのが、突然の数百メートルにわたる竹林のプロムナードである。この道(竹林の道)はTVコマーシャルや、京都紹介の写真集などでよく見るシーンである。この場所がどこであるか、おそらく京都西山のどこか、向日町市か、長岡京市あたりの山林かと思いきや、何とその場所は嵐山の天龍寺の北だったのだ。外国人を含めて、この道を歩くのが目的の観光客もいるようだ。結構、行き交う人が多い。本来はこのような場所は、静寂、枯淡の雰囲気に包まれるべきなのであろうが、今回、その目論見は外れた。兎も角、竹林プロムナードの場所がわかった。

 

http://www.kino-drama.com/2008-9-adasino-sainokawara2.jpg  竹林の終点を右に折れると、眼下に複線化したJR山陰線と、単線の嵯峨野観光鉄道(トロッコ列車)の線路がみえた。線路はこれから山に入るところで、二本のトンネルがあった。しばらくすると、 ゴーーッという次第に大きくなる響きが聞こえた。トンネルから出て来たのはJR山陰線のトンネルから京都行きの電車であった。赤・黒のツートン・カラーのジーゼル機関車DE10が牽引する観光トロッコ列車の登場を期待したのだが、、、。 奥嵯峨のひなびた道を北に向けて歩く。常寂光寺(じょうじゃっこうじ)、落柿舎(らくししゃ)、二尊院(にそんいん)、瀧口寺(たきぐちでら)、祇王寺(ぎおうじ)、檀林寺(だんりんじ)など、なにやら平家物語か、徒然草か、小倉百人一首などの日本古典にご縁のありそうな名前の寺が続く。

 

少し廻り道をすれば、宝筐院(ほうきょういん)、観音院(かんのんいん)、清凉寺・嵯峨釈迦堂(せいりょうじ・さがしゃかどう)などにも立ち寄れる。この界隈は静かで落ち着いた古道で、大きな観光名所に飽いたら、次は、こういう所をゆっくりと一日かけて散策するのも味わい深い小旅になるであろう。今日は玄関前通過だけで失礼する。すこし行くと、清滝に通じる釈迦堂清滝道の車道に出た。

 

石仏、石仏、石仏・・・     化野念仏寺に着く。私にとっては初めての化野巡礼だ。車道沿いに着けられた緩やかな石段を登ると、簡素で小さな建物の受付があった。中に入ると、もうそこは小さな石仏で一杯である。全部で八千体を数えるという。元々、化野という地名の化(あだし)は「空しい」、「はかない」の意が語源であり、京都の嵯峨の奥にあってはかない場所の象徴として、集落を外れたここには火葬、鳥葬場などが置かれた。京都の周辺では、鳥部野(六波羅付近)、化野に平安時代から火葬場、風葬場があった。人が生活を営む上で、葬場と墓地は欠くべからざるものである。

 

ここ化千灯供養野では、数世紀ものあいだに、無縁仏になって付近に散乱ないし埋没していた無数の石仏が明治年間に一か所に集められた。元々、寺伝によれば、この地には約千百年前に弘法大師が開山された五智山如来寺が、法然上人の時代に常念仏道場となった。現在の正式の名称は、華西山東漸院念仏寺と称し浄土宗に属する。

 

境内には最も広い場所の中央に十三重の石塔が建立され、多くの石仏がその石塔を拝むように配列されている。その密度の高い石仏群は、一つ一つを見れば、顔の形も大半が擦れており、前後の判別の付かないものもある。無機質な石の筈であるが、ここにある石仏達は皆、お互いがお喋りしているように見える。石仏たちが集合して、寂しげでない様に思えるのは私にとって有難い。散乱して荒れ放題だった石仏をこのような形に整えた先人の功徳に感謝したい。何となく化野念仏寺と言えば、陰気で、じめじめしていて、怖いところと思い、足が向かなかったが、それは誤りであった。天候のせいもあるかもしれないが、乾燥して明るいところであった。

 

この化野の念仏寺が世に知られようになったのは、毎年823日、24日に境内にまつられている数千体の無縁仏にロウソクを灯し、供養する宗教行事がTVや新聞などで報道されるからであろう。この日の念仏寺は、特に夜の帳が降りてからロウソクを灯す為に訪れる人が多く、一帯は厳かな空気に包まれると聞く。このロウソクの炎は、京都五山の送り火と同様に、盂蘭盆(うらぼん)の終わる夜に、祖先の霊をあの世に送り届けるためのものである。夏のお盆の諸行事を締めくくる大切な行事である。

 

化野念仏寺 仏舎利塔http://www.gef.or.jp/activity/media/heritage/india/imagenes/india004.jpgインドの仏塔が日本に?    大変に驚いたことがある。インドで最古の仏塔とされる仏教聖地サーンチの第一仏塔と瓜二つの仏塔が目の前にあるのである。左の写真が化野念仏寺のもの、右の写真がサーンチのものである。塔の高さなどその規模は日本のものが小振りのようではあるが、このような本格的インド式仏塔が日本にあることを私はこれまで知らなかった。日本の仏塔と言えば奈良時代より、五重の塔と相場が決まっているが、何故このようなものが造られたのか? これも先祖の無縁仏に対する供養なのだろうか? 宗教的な動機を調べてみたいものである。いつかサーンチの本物の仏塔群を是非、この目で見たい、触ってみたいというのが、たっての私の強い希望である。もしそれが叶う時には、この化野の仏塔の事をもう少しよく調べて、是非、インドの仏僧に見せたいものである。いい訪問になった。次は、旧嵯峨御所と言われる大覚寺である。

先頭に戻る


 

大覚寺(だいかくじ)

大覚寺時代劇撮影のメッカ    大覚寺は時代劇映画のロケによく使われる。最もお馴染みなのが、40年以上の超ロングランTV時代劇、池波正太郎作の「鬼平犯科帳」であろう。今の鬼平役の二代目中村吉右衛門は四代目であるが、八代目松本幸四郎、丹波哲郎、萬屋錦之助などと名だたる名優が鬼平を演じてきている。その屋外での殺陣シーンの大部分はここ大覚寺で撮影されている。

 

そして、いつもエンデイングで流れる哀愁を帯びたギター曲「インスピレーション」は、フランスの音楽バンド、ジプシー・キングスの演奏である。フラメンコにラテンの要素の混じった音色が小気味いい。(Inspiration - Gipsy Kings - YouTube) 最初から、話がそれてしまったが、大覚寺訪問記を始める。

 

ここ大覚寺は弘法大師空海を開祖とする真言宗大覚寺の大本山で、正式名称は旧嵯峨御所大覚寺門跡と呼ばれる。平安時代の初期に嵯峨天皇がこの場所に離宮を建てたのがその前身である。大覚寺はとりわけ般若心経信仰に篤く、嵯峨天皇による心経の真筆は勅封心経殿で寺宝として大切に保管されており(内部非公開)、60年に一度だけ開扉されるという。その建物は法隆寺の夢殿を模したと言われる正八角形の端正な小さな建物である。定期的に写経法会が催され、多くの信徒が般若心経の写経のお勤めを行い、法話に聴き入る。

 

五蘊大覚寺回廊古の天皇家の暮らしぶり    旧嵯峨御所ともいわれる大覚寺は、境内の西側には玄関に相当する宸殿(しんでん)がある。これは典型的な寝殿造りの建物であり、建屋の中には多くの豪華な装飾が施され、眩いばかりの天皇家の別荘である。また、廊下や広縁には、御所に特有のうぐいす貼りが施されている。この宸殿は我々、一般拝観者の入り口に使われている。次の間には御影堂があり、その内陣には歴代の天皇、弘法大師空海等の肖像画が飾られている。

 

堂の南を向いた正面には非常によく手入れされた端正な庭を挟んで勅使門(ちょくしもん)がある。普段はこの門は玄関としては使われることはないが、唐破風の屋根には豪華な装飾が見られ、平安時代の天皇一族の優雅な生活が見せつけられる。ほかにも御影堂からは、周辺の正寝殿、五大堂、霊宝館、御霊殿など主要な建物は「村雨の廊下(むらさめのろうか)」という屋根付きの高床の磨き抜かれた通路でお互いが繋がっており、そこに立つと、廊下の向こう側から麗しいお姫様が フッ と現われて出でても不思議でないような錯覚に落ちる。

 

しかし、濡れることなく、草履を履き変えることなく建物から建物に移動出来るというのはなんという贅沢か。文官束帯や十二単の装束で、シャナリ、シャナリ、と夜の通いにいそしむ。そういう平安人の葛藤の日々を連想する。建物と、そこに生活しただろう人々の平安時代の貴族の生活を垣間見る気分である。

Daikakuji Temple Pagoda, Kyoto, Japan.

寺や神社など多くの人が集うところに行った時に、いつも気になるのはその当時のトイレ事情である。大概のガイド本にはそのあたりの説明はないし、一渡り周囲を見回しても当時のトイレを思わせるような小さな空間がない。平安時代、トイレの事を「樋箱(ひばこ)」と言ったらしい。どんなものかは見たことはないが、底に砂を敷いたポータブル便器の一種だろうと、大体の想像は付く。どうも現代に生きる我々に比べて、トイレ事情は相当に不自由であったに違いないと確信するが。

 

ここは仏教寺院    五大堂まで行くと、その先に広々とした眺望の中に大沢池がある。龍頭を飾った遊覧船に乗って天皇が水遊びをされたのであろう。池面には季節ごとに様々な植物が咲き乱れるというし、湖畔には桜、紅葉などが植生し抜群の景観を造形している。池の遠く左手の奥の方に、心経宝塔というこの寺域で唯一、朱色に塗られた二層の端正な基壇風の建物がある。その内部には真珠の小塔と弘法大師の尊像が祀られているという。この心経宝塔の左手に大きな石の碑があり、「五蘊(ごうん)」と大書されている。これは世の中の全ての存http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2007_autumn.jpg在は五つの原理、色(しき)・受・想・行(ぎょう)・識で捉えることができ、一切の存在は「五蘊」で成り立つという般若心経の冒頭の部分で説かれる言葉である。心経によって学んだ「五蘊」を忘れないという、信仰告白なのであろう。

大沢池の周囲には、大小さまざまな石仏が祀られている。光背を背景にした坐像、頭と胴体だけの簡単なお地蔵さん。化野念仏寺で幾千体もの石像を見て来た直後であるが、ここの石仏は慈悲心を持ち、微笑んでいるように見受けられる。今は緑を背景の坐像であるが、これらも桜や、紅葉の季節には愛でる人も多いことと思う。

 http://kazesasou.com/hotoke_ka/kyotosi/hotoke_kyouto076_oosawanoike_01_600.jpg

大覚寺は嵯峨御流といういけばなの流派を主幹している。そのせいか、各部屋の棚にはバランスのいい、季節のいけばなが飾られていた。いけばなの細かいことはよくわからぬが、外の庭にも盆栽や、様々な工夫を凝らした鉢植えの植物があり、大覚寺全体にしっくりと馴染んでいた。今日は色々と変化にとんだ見学行の一日であった。大覚寺から徒歩15分でJR嵯峨嵐山駅にたどり着いた時は、かなり疲労困憊であった。

 

利用した交通:京都駅からJR山陰線、嵯峨嵐山駅下車(京都駅から約15分、240円)。駅から渡月橋、天龍寺、化野念仏寺、大覚寺からJR駅まで、全行程徒歩約3.5キロメートル。嵯峨嵐山駅から京都駅に戻る。または、大覚寺前バス停から市バス、28系統または、京都バス7174系統で京都駅へ行くことが出来る(230円。但し、60分以上かかる)。

先頭に戻る


 

10回:龍安寺(りょうあんじ)              0426日(2014年)

32957 normal 1444747330 %e9%be%8d%e5%ae%89%e5%af%ba %e7%9f%b3%e5%ba%ad  龍安寺は石庭で非常に有名な禅寺で、ひっきりなしに観光客がやって来る。私もこれまでに45回は龍安寺を訪ねているが、どうも私は感受性が粗野なのであろう。あの庭を見ても浮かぶのは、毎回、雑念ばかりである。静かな気持ちでとくと鑑賞すべき庭なのだろうが、いつも人が多すぎる。縁側の最前列に座れることはまれである。

 

石庭をめぐって    この庭、何故にそんなに有名なのか。志賀直哉は随筆「龍安寺の庭」でこの石庭を禅と結びつけて、 「あまりに厳格」とか、「不思議な歓喜踴躍(ようやく:おどりあがること)を感じる」と書き、厳しい中に歓喜を見出す最大級の喜びを表現している。1924年の事である。庭には計15個の大小の石が全部で5つの塊となって配置されている。一つ一つの石には名前が付けられ、見る人が様々な空想や瞑想の世界に浸る。「大海原の島々」などの表現は見たそのままの印象であろう。

 http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2012_spring.jpg

「人生行路を見る」というものもあるというし、作者不明のこの庭の設計は禅僧か庭師か?という造り手を巡る盛んな議論もある。1975年にエリザベス女王II世が、この庭を見て絶賛され、それを機に禅文化と共にこの庭が世界的にブレイクしたと言われている。一方、小説家、立原正秋は随筆「龍安寺論」の中で、志賀直哉の精神性を痛烈に批判している。さまざまな見方が渦巻いているようである。

 

私の目に見えるこの庭は、無機質な白っぽい岩石と、その周囲の苔と白砂の砂利の世界である。人為的と言えば極めて人為的だ。一風変わった背景の赤茶けた土塀にも何かの意味があると思わせたいのであろうが、いったい何なのか?・・・・沈思黙考に集中できず、雑念ばかりが膨れ上がって行く。結局、今日も枯山水を味わう挑戦は失敗だった。今日も人はすこぶる多いし、雰囲気も雑然としている。

 

島の周辺には白砂が敷き詰められており、檜製の砂熊手で掃き清められた綺麗な幾何学模様が一面にひろがっている。これは砂紋というらしい。龍安寺の白砂は三分粒形でその粒度区分は「豆」というそうだ。枯山水の庭によって用いられる砂の粒度は異なるようである。さて、その砂紋であるが、一筋書きの要領で、人の足跡を付けずに描くのは可能か?私はいつもこの疑問に突きあたる。

 

島石の苔にそって円形の砂紋がつけられており、島から離れた所は、建屋や油土塀と平行に直線の模様が描かれている。この砂紋を描く作業手順がどうにも分からない。風で付近の木々から落ち葉も舞い落ちるが、砂紋の上に落ち葉は見当たらない。イタチや野良猫が庭を歩かないのだろうか?庭を管理する人の日々の作務としての大変さが垣間見える。庭の恒常的な維持は禅僧の修行なのであろう。

 

http://tama3.org/picture/12/ryoanji2.jpg  調べてみたら、あった。京都新聞出版センター刊の「京の名脇役」に次のような記述があった。『、、、、砂紋の作業は龍安寺で約一時間かかるという。模様を描くのに順番はあるのかと聞いてみると、龍安寺の場合は、「どこに何を引かなければならないかはありますが、順番は学僧達が各々考えながら引きます」とのこと。』

 

砂紋の描き方はそれぞれの学僧の課題らしいし、人によって模様の描き方の手順が異なるようで、どうも正解は一つという事では無いようだし、学僧によってその出来は大分ばらつくそうだ。十日に一度くらいの間隔で砂紋造りの作務があるそうだが、お邪魔でなければ、一度その作務現場をとくと拝見したいものだ。(蛇足:何と、ボードゲーム「枯山水」というものが市販されている。砂紋の作成を競うらしい。なんでも遊びのネタ、金儲けのネタになるのか!〈Amazonで検索できる〉)。

 

龍安寺の説明をしなければならない。龍安寺は1450年に臨済宗の寺院として開創された。妙心寺派に属し、山号は大雲山という禅寺である。応仁の乱、その他で何回か焼亡したが、現在の方丈は18世初頭に建造されたものである。枯山水の庭がとくに有名で、1994年に世界文化遺産の一つと認定された。

 

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/07/1ccb7b26f9597672d93083d41b16362c.jpg?random=e9a14167a12723e72f9ac6bcb820789c吾唯足知    もう一つ、龍安寺の方丈の裏庭にひっそりと手水鉢の蹲踞(つくばい)が置かれている。禅寺でよく見みかけるが、この蹲踞は水戸光圀公が寄進した由緒正しいものである。一見して、五、隹、止、矢の文字に読めるが、中央の水のたまる「口」を共用すれば「吾唯足知(われ、ただ、たるを、しる)」となり、自からの分量を心得て必要以上に求めない事を意味する。「質素倹約を旨とした生活を心がけよう」、「日々を慎め」という古からの教えである。右の写真は龍安寺で売っている蹲踞をデザインにした文鎮である。中国ではこのデザインの古銭があるというが、真偽のほどはわからない。しかし、この世の中、どこもかしこも何という金満世界か!いつまでたっても、人の世は複雑怪奇で欲まみれである。

 

寺西乾山筆「雲関」ここは禅寺    折角の世界文化遺産の龍安寺のページに、ボヤキばかりを書きつらねて申し訳ない。龍安寺の入り口の広い石段を登ると立派な庫裏がある。そこが寺の入り口だ。玄関を入ると、「ここは禅寺だ!」と言わんばかりに、「雲関」と大書した衝立がある。明治時代の漢学者・寺西乾山によるものだそうで、ここ龍安寺の玄関を「雲山の玄関」すなわち「雲関」と表現したものと言われる。

 

禅宗の言葉で「関」は悟りへの関門という意味だそうである。龍安寺の山号は大雲山というのは上で述べた。「ここを越えたら、あなたはこれから外の世界とは隔絶した雲の世界(龍安寺)に入るのですよ」という一種の戒であろう。思わず見入ってしまう迫力のある力強い筆跡だ。このほかにも、龍安寺には方丈の中の襖絵、鏡容池の周りの庭園、桜苑など多くの魅力的な所がある。枯山水だけが龍安寺ではない。

 

龍安寺の項はいきなり枯山水の庭から入り、最後に入り口の衝立の話しへと、順番が逆になってしまった。お許しあれ。龍安寺から次の仁和寺までは徒歩で5、6分である。世界文化遺産から、世界文化遺産への豪華な巡り歩きである。

先頭に戻る


 

仁和寺(にんなじ)

仁和寺メイン写真http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2010_spring.jpg  仁和寺は別名、旧御室御所と言われる。境内地図を見ると、玄関の二王門は共通しているが、参道の左に勅使門があり、中は御室御所である。一方、参道の正面には朱に塗った中門があり、その中は仏教世界の真言宗御室派総本山の仁和寺で正面に金堂(国宝)、経蔵、五重塔、御影堂、大黒堂、観音堂など、仏教寺院の一式が揃っている。また、この境内には、遅咲きで有名な御室桜の名勝苑があり、満開の4月の中旬頃はすごい人出である。仁和寺は皇室関連の旧御所と、仏教寺院の二つの名所がお互いを容認しあって存在している所と見た。

 

西門から外には、約2時間で一巡出来る四国八十八ヶ所巡りのミニ版、御室八十八ヶ所霊場がある。結構の人気で訪れる人も多い。その奥の、金閣寺背景の山の裏側の谷筋に、近年、にわかに人気の花が咲き乱れる個人庭園、原田苑がある。さてこれが私の認識する仁和寺およびその周辺の概況である。以下、つまみ食い的に気に留まった事柄を記してゆく。

 

私が仁和寺を身近に感じたのは、徒然草の「仁和寺にある法師」のくだりである。学生のときに学んだ、古文の学習に出て来た、あわてん坊の法師が修行した仁和寺は随筆上の話しで、まさか実在の寺とは思っていなかった。ご興味の方は、徒然草の52段を読んで戴きたい。ごく短い文章である。中学生時代、私は野球部に所属していたが、練習日は仁和寺正門までのランニング往復が課題であった。ただ、それだけの話しである。ランニングの仁和寺と、いにしえの随筆・徒然草の仁和寺が、ある時、結びついたのだ。思い返すに、我が人生も仁和寺の法師と同類の「早とちり人生」で、よくここまで生きて来たものだ、とため息が出る。

 

仁和寺宸殿北庭天皇家の旧居    嵯峨野・衣笠界隈は京都全体を見渡しても、神社・仏閣が位置するに最も適したところと思う。北山を背に、そして南側は平野で眺望のいい明るいロケーションである。その中でも仁和寺のこの場所は一等地である。後ろは衣笠山の、そして目の前にはゆったりとした丘陵の双ヶ岡の緑が迫っている。しかも、この地域は、住宅が密集した御土居(おどい)の外側にあり、生活環境もそれなりに閑静に保たれていたと想像する。

 

http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/1997_spring_02.jpg勅使門はその造りの立派さから見て、皇族方が来られた時の正式な入り口であった。我々、一般人は左手にある本坊表門から、入場料を支払って旧御室御所に入る。この表門には総本山仁和寺の表札がかかる。大玄関は唐破風造りの重厚感のある建物である。御殿には宸殿、白書院、黒書院と三つの主要な建物があり、それぞれは大覚寺で見たのと同様の渡り廊下で繋がっている。それぞれの建物の襖絵は基本的に太い松の木が隆々と描かれている。

 

宸殿から見えるのは北庭と呼ばれ、池泉式の庭園である。手前の白砂、その奥に池と植栽があり、木々の間から五重塔の先端部分が少しだけ顔を出す。仁和寺の旧御所の部分は細かいところまで手入が行き届き、平安時代の王朝文化の息遣いが今も聞こえてくるような所であった。

 

 

御室桜併設の仏教寺院    仁和寺全体は衣笠山の裾の傾斜地の上に建立されている。中門を通っていよいよ仁和寺の仏教部分に入る。中門の手前には十数段の石段があり、仏教部分はやや高い位置にある。左手には、まだわずかの八重桜が咲き残っているが、今シーズンは殆ど営業終了の御室桜の苑である。ここの桜は樹高が低いのが特徴で、花の殆どが目の高さで鑑賞できるように育てられている。この苑の桜は老齢期を迎えたものが多く、我々鑑賞者がむやみに苑を歩き回って、土を固めてしまって桜の根の呼吸を止めてしまわない様に、我々が歩行通路からはみ出さない様に、しっかりとした境界が設けられている。御室桜を少しでも長生きさせようとする寺の関係者の気持ちが伝わってくる。

 

仁和寺五重塔  正面に金堂が見えるが、先ずは右手に見える五重塔に向かう。この塔(重文)は江戸初期の寛永年間の建立というから、築後400年に近い建物である。江戸期の五重塔は初層から最下部の第五層まで、屋根の大きさが殆ど変わらないのが特徴である。その分、塔は高く見える。世界で最も古い木造建築である法隆寺の五重塔は屋根の逓減率が高く、初層の屋根面積は最下層の約半分である。その分、法隆寺の塔はバランスよく建っているように見える。仁和寺の五重塔は36.2メートルの高さで、京都では東寺、醍醐寺に次ぐ三番目の高さになる。

 

その内部は特別拝観時以外は非公開であるが、写真で見る限り、東寺と同じ真言宗であるから、四方の須弥壇には四尊(東:阿閦如来、南:宝生如来、西:阿弥陀如来、北:不空成就如来)の坐像が祀られているように見えるし、心柱は大日如来と思う。塔を一周した後、金堂に向かった。

 

http://kinukake.com/img/sights-map/omuro.gif  金堂(国宝)は御所の紫宸殿に酷似していると思いきや、やはり江戸時代の初期に京都御所の建物をここに移築したとの事である。ただ、ご本尊の阿弥陀三尊(国宝)を祀るために、新たに須弥壇が移築時に設けられた。日本の木造建築は元々、百年〜二百年に一度は全体を分解し解体修理することが、建物メインテナンス上の基本であるから、建物の転用や移築は頻繁に行われた。これは石建築が基本の西欧世界では考えられない事である。日本建築文化の融通性に優越感を感じる。社寺巡りをしていると、本当にしばしば移築の話しが出てくるのには驚かされる。

 

金堂から西方の最奥に開祖空海が祀られた御影堂(重文)がある。この御影堂は、同じく江戸時代の初期に、御所の清涼殿に使われていた古材を使用して、現在の建物を作り上げたというから、増々驚く。仁和寺の皇室との強い結びつきを感じずにはいられない。明治期の廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた時、この寺も随分と荒廃したというが、今やその当時の苦難の跡は見えない。

 

 

ミニ巡礼・八十八ヶ所    最後に、御室八十八ヶ所霊場に簡単に触れておく。数年前に、原谷苑の花園が素晴らしいと聞いて出かけた。どこから原谷に向かおうかと思案したが、その時は仁和寺を通過し、西門から原谷を目指すルートをとった。途中にいくつかの祠が見え、何でこんなところにと気になったが、帰宅してそれは 「御室八十八ヶ所霊場」 という事がわかった。これも弘法大師空海の遺徳か。様々な八十八か所巡りのミニ・コースは色々なお寺で見かけるが、この霊場巡りは、時の仁和寺29世門跡済仁法親王の本願により、四国八十八ヶ所霊場の砂を持ち帰り、仁和寺の裏山に埋め、その上にお堂を建てたとされる。

 

http://kinukake.com/img/sights/omuro1.jpg  本格的なミニ・コースである。3キロメートルの山道には緑と鳥の鳴き声が響き、納得のお参りが出来るそうだ。私の四国の巡礼はまだ満願に達しておらず、中途半端な状態にある。そういう私のような無精者の為に先人は御室八十八所霊場を開設されたのであろう。  次は、双ヶ岡の東に位置する禅寺、妙心寺である。今日は忙しい。

先頭に戻る



 

妙心寺(みょうしんじ)

私は妙心寺を訪問するのは初めてである。何となくこれまでのイメージでは、塔頭が沢山あるところという程度の認識しかなかった。文献を調べて驚いた。山内塔頭が38寺、境外塔頭が10寺である。妙心寺の広い境内はこれらの塔頭で相当の面積を占めるが、それらの内、公開ないし期間限定で公開される塔頭は少なく、その多くは優れた庭園や建築を有すると言われながら、一般の我らの目に触れる機会は少ない。多くが祈りと瞑想の中にある。

 

仁和寺から約500メートル、細い路地を通り抜け、嵐電(京福北野線)の妙心寺駅を横に見て、妙心寺の北総門に着く。西には双ヶ岡の丘陵が目前である。妙心寺は南門と勅使門を正面の入り口とし、順次北に向かって放生池、山門、仏殿、法堂、寝殿、大方丈、小方丈、大庫裏が並んでおり、多くの塔頭を過ぎた所に北門がある。従い、今回、我々の歩む順路はお遍路で言うところのいわゆる「逆打ち」である。

 

受難の禅寺    南北朝時代、時の花園上皇は大徳寺を開かれた宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)禅師に深く帰依され、新たな禅の修道場建設を計画された。その禅寺を臨済宗正法山妙心寺と命名し、宗峰妙超禅師は亡くなられた。禅師の亡くなられた建武4年(1337年)を妙心寺では開創の年としている。その後、伽藍の建設が始まった。1399年の応永の乱が起こり、その混乱のさなかに、将軍足利義満は妙心寺を没収し、妙心寺は龍雲寺と改名され、途絶えた。第一世代の妙心寺は六十余年をもって終焉を迎えることとなった。

 

足利義満と言えば、同じく臨済宗の禅寺・相国寺を発願した人物である。1432年になって妙心寺は活動再開を許され、日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)禅師が妙心寺を中興するも、応仁の乱の戦火で再び、すべては失われた。その後、再び寺は中興され室町後期から江戸年間には多くの塔頭を従え、妙心寺伽藍は大いに隆盛を誇るに至った。明治年間には廃仏毀釈で多くの荒廃を受けるが、その後、再興され現在の臨済宗正法山妙心寺がある。まさに、波乱万丈の寺史である。

 

http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2007_summer.jpg輝く雲龍図    厳しい歴史を経て現在に生きる妙心寺には、創建当初からの建物や文化財などは殆ど残っていない。下の写真は江戸時代に再建された時に法堂(はっとう)(重文)の鏡天井に描かれた雲龍図である。55歳の狩野探幽が8年の歳月をかけて描いた渾身の力作である。これはJR東海の連続企画、「そうだ京都、行こう!」シリーズの宣伝ポスターの一枚であり、新幹線の中や、駅貼付のポスター等で見た記憶がある(2007年)。京都の禅寺では雲龍図をよく見かける。東福寺、南禅寺、天龍寺のものが記憶に残るが、この妙心寺の作品も一級品である。

 

http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2013_spring.jpg  以前、法堂の西にある鐘楼に架けられていた梵鐘(国宝)はその刻印された銘より、今から1300年前の白鳳時代に、九州の筑前で鋳造された日本最古の梵鐘(黄鐘調の鐘)とされる。今、この梵鐘は法堂内で大切に保管されており、外の鐘楼にはレプリカが架かる。さらに丁寧に接すればここ妙心寺には、劇的な歴史を体験した禅寺だけあって、色々と驚くような話があることと思う。

 

38か所もある山内塔頭はそれぞれが土塀で囲われ、今は外から塀越しに中を垣間見るだけであるが、特徴のある門構えに、端正に刈り込んだ庭の樹々、その奥の独自の禅寺建築など、・・・・それぞれに傾聴する価値のある個々の歴史があることと思う。もう少しゆっくりとしたかったが、次があるので、本日の最終の訪問の寺院である広隆寺に向かった。

先頭に戻る


 

広隆寺(こうりゅうじ)

広隆寺も、前記の妙心寺と同じく、私には初めてのお寺である。お目当ては当然ながら、弥勒菩薩半跏思惟像である。

 

京都一番の古寺    広隆寺のある太秦(うずまさ)の「秦」は、古代の渡来系の有力氏族、秦(はた)氏族にちなむと言われる。秦氏族については、中国系(秦の始皇帝の末裔説)、新羅系、百済系など諸説があるが、地名の「太秦」が今もこの地に残るのは、「秦」の名を冠することが、そこに住む人にとって誇らしかったからなのであろう。

 

広隆寺は聖徳太子の時代に建立された日本七大寺(聖徳太子建立七大寺)の一つとされ、京都最古の寺院である。古くは蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺(うずまさでら)などとも呼ばれたが、今は地名を冠して太秦広隆寺と呼ばれる。今の住所表記は右京区太秦蜂岡町である。という事はこの寺は創建以来、ずっとこの場所からは動いていないという事なのであろう。

 

楼門を通り、域内に入る。左手すぐに薬師堂があり、薬師如来立像(重文・平安時代前期)が祀られている。少し奥の右手に別名、赤堂といわれる講堂がある。中には、阿弥陀如来坐像(国宝)が地蔵菩薩、虚空蔵菩薩(いずれも、重文)を脇侍として祀られている。この建物、赤堂は永万元年(1165年)に再建されたもので、京都では現存する最古の建築物の一つとされる。また左奥には聖徳太子が興された八角円堂といわれる建長年間(13世紀半ば)に再建された桂宮院本堂(国宝)があるが、中は非公開である。一つ一つのお堂はそれほど大きくはないが、祀られている像は文化財として価値高いものが多く、境内はゆったりと緑も多い。

 

http://i2.wp.com/japantemple.com/wp-content/uploads/2015/07/miroku.jpg  さて、楽しみの新霊宝殿に入る。新霊宝殿は1982年に建造されたコンクリート製の現代建築であるが、もちろんその外観は周囲との調和に配慮されたものである。中は空調設備が整い、仏像にとって大敵の湿度管理もしっかりとなされている。我々にも心地よい。天井は高く、内部の照明も落ち着いた色調と照度が保たれている。この新霊宝殿の中に、広隆寺の大切な国宝と重要文化財の殆どが壁際に沿って展示されている。

 

広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像  お目当ての木造弥勒菩薩半跏像(通称「宝冠弥勒」)、木造弥勒菩薩半跏像(通称「泣き弥勒」)、木造不空羂索観音立像 (奈良時代末〜平安時代初期(8世紀末〜9世紀初))、木造千手観音立像(像高266センチメートル。平安時代初期)、木造十二神将立像(像高113 - 123センチメートル。『広隆寺来由記』によれば、康平7年(1064年)、仏師長勢の作)と、以上が新霊宝殿に展示の国宝である。この他にも、重要文化財として認定された彫像が、約30体、展示されているが、ここでの記述は省略する。

 

半跏思惟像と雑念・・・    さて、あまりにも有名な木造弥勒菩薩半跏像は国宝指定第1号(1950年)である。私がイメージしていたのと、ほぼ同じ大きさの123センチメートルの坐像である。見るからに穏やかな表情で、すべてを包み込む慈悲の象徴として人々の間で長い間、支持されて来ているのがよくわかる。期待以上に素晴らしい思惟像である。しかし、奈良のガイドの時によく訪れた、同じく人気の中宮寺の伝如意輪観音像にあまりにも似ている。何が? 中宮寺の観音像は光背を有しており、広隆寺の像に較べるとかなり小さい。また、中宮寺の観音像の色調は木彫であるにもかかわらず、黒光りしており、まるで銅の像を思わせるが、広隆寺の像は木彫の素肌である。

 

どちらも半跏像であるが、サイズと色調は随分と異なる。しかしながら、その姿勢はあまりにも酷似している。半跏のポーズ、すなわち左足を垂れ、右足を曲げた左の膝頭に乗せて腰かけ、右手を頬のあたりに挙げ思考にふける姿(広辞苑)である。これらの像はほとんど同類・同根としか思えない。大陸から仏師がやって来て彫像したのか、それとも完成された彫像が日本に運ばれたのか。このあたりの素人的興味は尽きないが、両者の類似性と相違性の史学会的決着はもうついているのであろうか?

 

考える人  昔、テレビ番組で中宮寺の如意輪観音像のスタイル(姿勢)を追求した番組があった。興味深く見たが、その詳細の記憶は今となっては定かではないが、剛力彩芽さんがナビゲーターをしていた。その内容は、かいつまんで言うと、現実の人間(手足のすらっとした美人のモデルさんを使って)にあの半跏のポーズをとってもらおうとしても、どうしても無理(腕の長さが足りない、などなど、、、)であることが分かったというものであった。如意輪観音像を彫った仏師の技術的、美学的なチャレンジと、我々が目にする(ヒトではとりえないが)全く違和感のない如意輪観音像の完成された姿が誉め讃えられていた。

 

そしてどう見ても、この広隆寺の弥勒菩薩半跏像も同じスタイルである。現実の生身の人間がこの姿勢を無理なく平静に保つのは可能か? これは、悟りをひらく菩薩様にのみに許されたポーズなのであろうか? 少なくとも私はまったく駄目であった。このあたりの現実離れしたところに、この思惟像の有難さがあるのかもしれない。 蛇足であるが、ロダンの 「地獄の門」 の中の 「考えるひと」 の写真を添付した。右腕がクロスして、右足ではなく、左足の太腿に置かれている。

 

日本の半跏像以上に難しいポーズと思われる。このポーズをとることは果たして現実に可能なのだろうか?試してみようとも思わない。筋骨隆々の男性が、如何にも深い思考に耽っているように見える名作であるが。しかし、ほぼ同じスタイルで西欧では「地獄の門」、日本では「慈悲の観音」か。 ・・・・、ところ変われば、品変わるである。

 

利用した交通:京都駅から市バス、50系統または205快速系統(平日のみ運転)で龍安寺前まで(約40分)。龍安寺仁和寺妙心寺は徒歩(約1.5キロメートル)。妙心寺前から京都バス、61または62系統で太秦広隆寺前まで(約8分)。太秦広隆寺前から市バス、11系統で四条大宮へ。市バスを乗り換えて京都駅へ(バス乗車、計30分程度)。

先頭に戻る


 

11回:銀閣寺(ぎんかくじ)と大文字送り火体験   0614日(2014年)

http://www.kino-drama.com/kyoto-gin-ginkakugigaki.jpg銀閣寺  銀閣寺をあとにして、哲学の道への道すがら、我々「同行三人」のうちのひとりが言った。「銀閣寺は金閣寺が銀色に輝いたものとばっかり思っていたが、予想外!!」と。そう言われてみれば、そう思うのも無理はないかもしれない。金閣の印象が乗り移った銀閣である。いや、ひょっとすると、多くの人がこの疑問を持っているのかも知れない。私もうまく説明は出来ない。いささか、「銀閣」について調べてみた。(註:ちなみに京都祇園には銅閣寺・大雲院という寺が実在する。京都には、金・銀・銅の三寺が揃っているのだ!!

 

銀閣、名の由来は    銀閣寺というのは後の世の俗称で、正式には東山慈照寺という。臨済宗相国寺派の禅寺である。文明14年(1482年)に室町幕府の八代将軍・足利義政(よしまさ)公が建立した。義政公は相国寺や鹿苑寺(金閣寺)を建立した三代将軍・義満の孫にあたる。義政公は、退位後の隠遁生活のために、東山のこの地に慈照寺を建立した。その建築様式が鹿苑寺(金閣寺)の影響を受けたのは当然である。鹿苑寺、慈照寺は京都の北西、北東と対称の地点にある。

 

足利家によって建てられた、相国寺派の鹿苑寺と慈照寺が同根の禅寺とおもわれるのは肯ける。両寺の違いは、鹿苑寺は足利朝が隆盛を極めた時の金装飾の禅寺であるのに対し、慈照寺は応仁の乱の直後という、総てが疲弊しきった時に建立されたものであり、金装飾はおろか、メタリックな建築にしようという意図は全くなかったようである。

 

人々の間で鹿苑寺が金閣寺と俗称で呼ばれ、それが定着するのは当然の成り行きである。やがて、その弟分の慈照寺が銀閣寺と、人々の間で呼ばれるようになり、それを特に誰も否定しなかった。そして、慈照寺=銀閣寺は同格になり、やがて後の世になって、「銀閣寺」が独り立ちしたというのが、どうもその経過らしい。

 

平成191月に、創建当時の建物に銀箔の貼り付けがあったかどうかの精密調査が行われたが、どこにも銀の痕跡は認められなかった。結論は「金閣寺あっての銀閣寺」である。以下、通称名の銀閣寺を使わせていただく。どこにも銀が使われていないことが分かった銀閣寺である。しかしいぶし銀的魅力に満ちた世界文化遺産の禅寺である。多くの観光客が訪れる。

 

http://www.phototravels.net/japan/pcd2633/daimonji-3.3.jpg大文字の送り火    白川道と今出川通の交差点、銀閣寺道バス停でバスを降り、東に向かって約700メートルの所に、銀閣寺の入り口がある。この参道から如意が岳(大文字山、472メートル)がほんとうに近くに見える。816日の夜、炎で「大」の字に燃える火床の一つ一つがそれとわかる。

 

平成元年(1989年)3月に私は父を亡くした。その年の8月の五山の送り火に乗せて、父の霊をあの世に送り届けたいと思った。しかし、京都の五山の送り火は格式の高い宗教行事で、大文字保存会の固い結束で長年、維持運営されている事を知っていた。懇意にして戴いている京都大学教授の先輩が保存会の町内にお住まいで、この伝統的行事に例年参加されていた。本来なら一元さんである私などはとてもお近づきになれないのであるが、ご厚意にあずかり、結束の固い保存会のメンバーの臨時会員として戴いた。

 

当日は8月16日の朝から、山で燃す材料を運び上げる。午後3時ごろまで、重たい護摩木と薪束を肩に担いで45回、麓と山の上の火床とを往復した。汗だくになった。火床では護摩木と薪を数メートルの高さに積み上げるが、これには保存会の方達の流儀がある。父の戒名を記した護摩木もここで一緒に燃してもらう。今回、私達たちが担ったのは「大」の字の第一画目の横棒(一文字という)の、中央の交点(金尾の火床)から右に4つ目の火床であった。

 

午後6時ごろには大方の準備が整った。西の山はまだ明るいが、多少の涼風が吹いて来た。午後8時の点火を待つ。745分頃に、金尾の火床の周辺に多くの人が集まり、読経が始まった。山から見下した京の街も点火に備えて、ネオン照明を落とすなど次第に暗くなってきた。陽もすっかり西の山の陰に沈んだ。8時。大きな掛け声に合わせて一斉に点火され、私達たちの火床も大きく燃え上がった。般若心経を一巻唱えた。

 

http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2005_early_autumn.jpg  京の町を見下ろすと、大通りのあちこちから、こちらに向かってフラッシュが焚かれる。そうなんや。皆、この燃えさかる「大」の写真を撮っているのだ。いつもとは逆の位置に立つ私が何とも不思議であった。

 

20分ほどして、火勢が静まってくると、消火をしっかりと確認し、送り火に参加したものは速やかに下山しなければならない。私は送り火の消炭が、魔よけになると聞いていたので、ご近所にお配りの分を含めて、小さめの消炭を一本持って下山を急いだ。送り火の行事の間、関係者以外は完全に入山禁止であるが、火が鎮火し、送り火の行事が終ると入山禁止令は解かれる。・・・・すると、待ちかねたように、麓から魔除け、厄除けの消炭を求めて多くの人達が一斉に登ってくるのである。大概はご老人達である。勢いよく下山する我々と、登山の老人が暗くて細い石段ですれ違う。危険なこと甚だしいが、これがいつもの情景だそうだ。下山すると大学の先生と私は客人として、保存会町内会の方の家に招かれ、精進落としという事で鳥の水炊き(すき焼きだったかも)を皆で食した。これで一連の行事が無事終了する。一度きりの、夏の送り火体験記である。父にはいい供養になったと思いたい。19http://www.kino-drama.com/kyoto-gin-takadaikarano-ginkaku.jpg89年、私は数え年齢で43歳の後厄であった。

 

銀閣寺の白砂の庭    さて、銀閣寺に戻る。銀閣寺垣と呼ばれる独特の生垣が入り口まで続く。両側が5メートル以上もある刈込の生垣であり、このようなアプローチは他で目にすることはない独特のものである。入口を過ぎると早速に、お目当ての銀閣寺観音殿(国宝)が至近距離から目に飛び込んでくる。この観音殿は唐様仏殿風の第一層と書院風の第二層の二層からなっており、閣上には金閣と同型の鳳凰が舞う。ここで義政公は湖面に浮かぶ月を眺めて浮世の憂さを晴らそうとしたのであった。

  「わが庵は月待山の麓にて かたぶく空の影をしぞおもふ と詠っている。

 

左手の日本式庭園には背の高さほどの白砂の円錐台(向月台・こうげつだい)が、その向こうには銀沙灘(ぎんさだん)という二種の色調の異なる白砂と灰色の砂が大柄のストライプ模様で履き清められている。いずれもあるがままの自然を求める日本庭園の姿からは相当に異質な人工物である。義政公は観音殿と付属する錦鏡池の簡素な日本式庭園で、そこで静かに月待ちを楽しもうとした。しかし残念なことに、公は銀閣の完成を目前にして病で没したという。実のところ、これら白砂装飾は後の江戸年間の創作である。

銀沙灘(ぎんしゃだん)

この地に多量の人工白砂が運ばれたのは、月の夜の観音殿に月光が少しでもよく射し込むために、白砂を敷き詰める月光反射強化作戦が具象化され、円錐台やストライプ砂となったらしい。これが現代の観光客には、銀閣寺が渋味を持つモダンアートとして受け止められることとなり、「銀閣寺には格別にモダンな庭がある。」という事になったのであろう。結果として観音殿の周辺の景色は義政公の希求した「わび、さび」とは縁遠いものになってしまった。この庭をどう受け止めるかは各人の審美眼の問題だ。

 

http://www.shokoku-ji.jp/img/sanpai_img/g/img/sengetsusen.jpg完成された山水庭園     庭園を周回する石段の山道に入ると、季節の植栽を左右に見ながら高みの展望所に至る。そこからは観音殿のほか、方丈、東求堂(とうぐどう、国宝)などが眼下に見え、遠くには真如堂や吉田神社のある吉田山が遠望される。この銀閣寺の庭の周回コースには、大小の起伏があり、また参道にはお茶の井や洗月泉などの清水の湧き出る井戸や小滝があり、目と耳の両方から季節の潤いを感じることが出来る。回遊路は非常に細かいところまで気の配られた、京都でも随一と呼んでいい名園である。今回は緑の蒸す梅雨の合間の時期の訪問であるが、春・夏・秋・冬とそれぞれの季節には、四季折々の変化を堪能できるように配慮されている。

先頭に戻る


 

 

哲学の道(てつがくのみち)

http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/1997_spring.jpg  明治年間に銀閣寺から南禅寺に至る東山山麓に琵琶湖から水をひいて疎水が通された。疎水は東山山麓に沿って北から南へ流れる。その疎水は川幅3から4メートル、深さも同じく3から4メートルであるが、水が漏示せぬように、しっかりと川床から側面には石とコンクリートが張られている。相当の大工事であったものと想像する。この疎水のメインテナンスの為に幅2から3メートルの側道が付けられ、その周辺には土を固める目的で、桜やその他の樹々の植樹がされた。

   哲学の道(左・右上)途中で出会った人懐っこいネコ(右下) 埋め込み画像 9 (哲学の道)

時の経過とともに街並みと疎水の景色がマッチして静かな環境が育って行った。疎水周辺には北から順番に、銀閣寺、法然院、安楽寺、霊鑑寺、大豊神社、若王子神社、永観堂、南禅寺と大小さまざまな社寺が点在している。その距離は約2キロメートルである。

 

この側道が  「哲学の道」  と呼ばれるようになったのはいつ頃からかははっきりしない。ここは近くの京都大学からは徒歩で1520分の距離であり、静かな思索に最適な道と言わんばかりに、京都大学の著名な哲学者、西田幾多郎先生、田辺元先生などの名前を借りて、「哲学の道」と名づけられ、それが次第に有名になって今に至ったのであろう。西欧の有名な思索家達、ルソー、カント、ゲーテ、ベートーヴェン、ニーチェなどはそれぞれに思索にふける散歩道を持っていたといわれるが、その連想の上にこの「哲学の道」があるように思う。

 

実際はどうであったのか? いずれにしても大正期以降に名付けられたものと思う。この道がいい風情を醸し出すのは、二本の平行の石畳のおかげである。戦後、昭和三十年代の後半から京都市内の市電が順次撤去され、その石畳は懐かしい市電道のリサイクル再活用である。

 

http://www.kintetsu.co.jp/spot/spot_info/upimage/003_15837_20010608.jpg  今では、どの京都観光ガイドブックにも、「哲学の道」は記載されており、それをお目当てに遠くから散策に来る人が多い。特に、春の桜のシーズン、秋の紅葉のシーズンはこの細い道は、行き交う人たちでいっぱいになり、ゆったりした思索からはほど遠いほど混雑する。昔は全く静かなせせらぎと木々の緑の散歩道であったのが、最近では通行人を目当てにこぎれいな茶店、喫茶店などが店を構えるようになっている。まあ、これが時代の変化というものなのであろう。

 

実は、哲学の道の中ほど、法然院の近くの疎水の山手に私の親戚が住んでいる。兎も角、シーズンがやって来ると都会の繁華街並みに人が押し寄せ、のんびりと犬の散歩と言うわけにもいかないらしい。その親戚宅を車で訪ねていく時、どうしてもその疎水を越えなければならない。そのためには、どうしても哲学の道を20メートルほどではあるが通らないといけない。

  埋め込み画像 5 (法然院)

別にこちらはすき好んで哲学の道をドライブしようと思っているわけではないのだが、哲学の道の散策を楽しむ人たちは「こんなところを車で通りよって!」と胡散臭い目で睨みつける。何も悪いことはしていないのに、なんともバツの悪い気分を味わう。しかし、「これは観光都市・京都の宿命だ」と自らを納得させる以外にいい案は思いつかない。有名な観光地の周辺に住む人たちには常についてまわる問題である。

先頭に戻る


 

清水寺(きよみずでら)

二年坂1観光のメッカ    哲学の道の散策を終え、天王町からバスを乗り継ぎ、清水寺へ移動した。清水寺はこれまた、京都では金閣寺に次ぐ、修学旅行生たちが訪ねる定番の寺であるが、外国人観光客にも人気が集中しており、常に混雑している。最近の流行であろう、和装スタイルで街を散策する若い外国人カップルをよく見かける。街には和装のレンタルショップが多く開店している。清水寺境内に行くには、いくつかのアプローチがあり、清水坂、清水新道などがそれぞれに趣向を凝らして、清水焼や、日本風味の数々の土産店、それに和風旅館が軒を連ねている。この全体の和風の雰囲気が訪れる人々には何ともエキゾチックと魅了するのであろう。日本は最近、海外からの観光客が劇的に増加傾向にあるというが、観光客層も随分と変化してきているように思う。その変化を一番にキャッチしているのがここ清水界隈であろう。

 

清水坂を登り切ったところに、清水寺の玄関、朱色の仁王門がある。その奥には朱色鮮やかな三重塔が見える。お寺の入り口は石燈籠であるが、ここでは一対の狛犬が我々を迎えてくれる。寺の入り口で狛犬を見るのは珍しい。ここでは狛犬、石燈籠、そして仁王門の中の仁王像の順である。その門前の一対の狛犬であるが、神社の入り口には口を開けた狛犬と、口を閉じた狛犬の阿形、吽形の狛犬が対で置かれるが、よく見ると、ここ清水には吽形の狛犬がいない。阿形が二頭、向き合っている。兎も角、ちょっと変わった狛犬達である。戦前、この狛犬達は青銅で出来ていたらしいが、戦時中の金属供出で徴収され、それ以来、石像だそうである。

 

弁慶の鉄杖と下駄  お目当ての本堂に至る参道には仁王門、三重塔、西門、鐘楼、梵鐘、経堂、開山堂などの建物があるが、いずれも鮮やかな朱色であり、普段に見るお寺とは随分と違って見える。いよいよ清水の舞台で有名な北法相宗の音羽山清水寺の本堂に入る。本堂は重厚な茶褐色の大きな建物である。法相宗と言えば、唯識論を典拠とする南都六宗の一つで、奈良の興福寺、薬師寺がよく知られている。北法相宗の 「北」 は南都・奈良に対して北の京都に立地するという意味らしい。本堂は傾斜地に建てられているためであろうか、参拝の順路はコの字型に歩む。

 

 

仏像がぎっしり    入口左側に、重さ90キログラムの大錫杖と14キログラムの小錫杖、12キログラムの高下駄がある。昔、山岳修行した修験者から奉納されたものらしい。力比べの展示物であるが、「弁慶の錫杖と高下駄」とも呼ばれる。私も若い時に、大錫杖に挑戦したことがあるが、ほんの数秒を上げるだけで渾身の力がいる。持ち上げられたら、周囲から拍手が聞こえる。ご本尊は十一面千手観音立像であるが、これは33年に一度しか開帳されない秘仏である。次回は平成45年(2033年)だ。

 

  随分、先の話しである。普段の参詣者の為に、本堂の須弥壇の内陣の前に清水型十一面千手観音立像お前立ちが置かれそれを拝むようになっている。それと、一見して驚くのは二十八部衆と四天王、風神・雷神の像が須弥壇にぎっしりと満員御礼、札止め状態で展示されている。一つ一つは非常に精巧に完成された像であり、この詰め詰めの展示が如何にもモッタイナイ。総計30体の守護神には誠に気の毒なことである。しばらく、それぞれの像に見入った。

埋め込み画像 3

ここが清水の舞台    さて、清水の舞台である。上から下を見てもそれほどの迫力はない。むしろこの舞台は下から上を見上げた時に、この傾斜地に組まれた巧みな構造美に感銘を受ける。巨大な欅の柱を「懸造り」という手法で、釘を一本も使わずに組み上げたものらしい。舞台からだと肝心のその木組みの土台が見えない。ところで、「清水の舞台から飛び降りる決心で、、・・・」は決心表現の一つであるが、清水寺の古文書調査によると、実際に飛び降りた人は17世紀の末から170間で234件、その生存率は85.4パーセントとの記録があるらしい。この舞台の高さは4階建てのビル相当で、恐らく飛び降りても、その衝撃は土台の土の斜面とその上に生えた草で上手くソフト・バウンドするのであろう。「清水の舞台」という決めセリフは、江戸時代の庶民にとってはあの高さが、「驚天動地だったのだ!!」と覚えておきたい。

 

   東山の裾に位置する清水の舞台からは、京都市街の南半分をよく望むことが出来る。東本願寺、西本願寺、それに東寺・五重塔のお互いの大きさと距離関係がよくわかる。しかし、今や、京都タワーと京都駅ビルが威容を誇っている。また、眼下には三本の音羽の滝が音を立てて落下している。この水は東山三十六峰の一つ、清水山から染み出たものであるが、いつもかなりの水量である。また、南の木立の中に子安の塔が見える。片道、約10分程度の静かな森林浴が楽しめる散歩道である。子安の塔から見る清水の舞台は、さすがに大きく見える。清水寺全景を見渡す写真のいいアングルになりそうなスポットである。

先頭に戻る


 

地主神社(じしゅじんじゃ)

恋占いの石 手前地主神社総門恋の成就に特化    これは、「じぬしじんじゃ」ではなく 「じしゅじんじゃ」と読む。多くの大寺院は寺院に隣接して、鎮守社を祀り、厄除けとした。明治時代に入り、厳しい神仏分離政策が敷かれるようになり、これまで渾然一体となっていた、寺院と神社が分離独立して運用されるようになった。清水寺の舞台の北側に位置する地主神社は元々、清水寺の鎮守社であり、神社の縁起も清水寺と一体であった。やがて、戦後期から地主神社は京都地主神社と改名し、その運用には縁結びの神様に特化した自主独立路線を貫くようになった。カタログには「京都最古の縁結びの神」とある。主祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)であり、因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ)を助けた心優しい神様であり、縁結びのご利益がある神様と解説されている。

 

さて、縁結びの神様の顧客は誰か。結婚願望の強い若い女性、出来たばかりの若いカップル、娘を早く嫁にと焦る両親、修学旅行の中・高生(特に女性)などであろうか。境内に入ってビックリである。あらゆるご縁に関する願い事が受け付けられている。恋占いの石、厄除け祈願、縁結び特別祈願、芸事上達、幸福祈願所の幸せのドラ、水かけ地蔵さま、などなどである。また縁結びのお守りや神札なども各種販売されている。お守りは郵送もするそうである。一度、行かれるといい。恋に関するあらゆるグッズが揃っていて楽しいことこの上ない。童心に戻れる。

 

 

地主神社のお守り郵便でご利益祈願受付     縁結び特別祈願というものがあり、その申込書によると、一か年祈願で15万円、一か月祈願で1.5万円、一週間祈願で5千円である。遠隔地の方の為に郵送による祈願申し込みも可能である。また祈願が終了すると神社から祈願修了書が送られるそうであるが、送付を希望しない方は「下記にをおつけください」 という欄が用意されている。なかなか当人にとってはsensitiveな問題だけに、運用は細心を極めている。これからも京都地主神社は繁栄を続けてゆくものと思う。

 

なお、パンフレットには京都地主神社は「世界文化遺産」と書かれている。肝心のご本家の清水寺はどう認識しているのか。Wikipediaによると、明治の神仏分離により清水寺から独立しているが、歴史的経緯から地主神社は世界遺産「古都京都の文化財」の清水寺の一部として登録されているとある。地主神社の清水寺の鎮守社としての関係はいまも健在なようである。しかし、文化庁の発刊する世界文化遺産認定の資料「古都京都の文化財」の中に京都地主神社の記載はないので、ここでは一応、割愛した。

小さい字で書く。もしも当人が「このご縁は不幸」と感じた時は、近くに縁切り寺がある。地主神社から北西に約1キロメートルの所にある安井金毘羅宮(やすいこんぴらぐう)である。「悪縁を切り、良縁を結ぶ」とある。人生に困り、万策尽きたら併願という手もある(笑)。

先頭に戻る


 

西本願寺(にしほんがんじ)

西本願寺8http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2011_summer.jpg  本願寺は浄土真宗の大本山であるが、西本願寺は本願寺派の本山で正式には龍谷山本願寺という。今の建物の基本は豊臣秀吉の寄進によって建てられた。一方、東本願寺は浄土真宗大谷派の本山である。どちらも親鸞を教祖に仰ぐが、東本願寺は徳川家康の援助を得て1602年に西本願寺から分離独立したものである。

 

西本願寺は京都人からは「お西さん」と呼ばれる。御影堂(ごえいどう)は親鸞聖人の像が安置された場所であり、本堂である阿弥陀堂よりも大きい。ご本尊の阿弥陀様が祀られた本堂が一番大きくってもよさそうなものであるが、ここでは親鸞聖人信仰の力が圧倒している模様である。西本願寺と東本願寺を比べて最初に「オヤッ」と思ったのは阿弥陀堂と御影堂の位置がお互いに逆であることである。すなわち、西本願寺では阿弥陀堂は向かって右側に、御影堂は左側に位置するが、東本願寺はそれが逆である。何かの理由があるのであろうが、元々、全く同じ教義を信奉して来た両本願寺であるから、今となってお互いが同じであることを避けようとした結果ではないかと単純に思う。

 

両本願寺は同根であるが、歴史は西本願寺の方が古い。パンフレットやホームページでは、西本願寺はみずからを積極的に西本願寺とは名乗っていない。「浄土真宗本願寺派本願寺(西本願寺)」または「龍谷山本願寺(西本願寺)」である。あくまでも西本願寺はカッコで表記されている。

 

日本一    境内は広大で、多くの建物、仏壇などの装飾工芸品は豪華絢爛を極める。また、西本願寺は日本で最大の信者数を有する教団であるから、そのスケールたるや膨大である。本願寺の周辺は仏具店、法衣店、信徒のための旅館、修学旅行生を収容する施設、等々、一大門前町を形成している。西本願寺の全国に分布する別院は一万件以上と言われるし、僧侶の数は32千人を越えるというから、その規模たるや全国随一であることは間違いないであろう。

 

毎日、西本願寺提供の宗教番組その他のTV、ラジオ番組が全国に向けて発信されている。僅か2時間程度の滞在で西本願寺について書こうとすること自体が不遜であるし、京都には「お西さん」が多いから、思わぬところから石が飛んでこないとも限らない。ここでは調べ上げた数字を写す事でもって、西本願寺の威容を浮かび上がらせたい。

 

阿弥陀堂:本願寺本堂。内陣中央に阿弥陀如来像を安置。両脇掛にはインド、中国,日本の6高僧。両余間には法然上人と聖徳太子の影像。再建年度は1760年(宝暦10年)、高さ25メートル、東西42メートル、南北45メートル。外陣には285枚の畳敷き、収容人員800名。

西本願寺のイチョウ(御影堂前)御影堂:内陣中央に親鸞聖人の御真影(木像)。両脇掛には本願寺歴代の影像。両余間には十字名号(帰命尽十方無碍光如来)、九字名号(南無不可思議光如来)。再建年度は1636年(寛永3年)、高さ29メートル、東西48メートル、南北62メートル。外陣は441枚の畳敷き、1200名以上の収容人員。227本の柱で本体を支え、瓦の枚数は115,000枚。世界最大級の木造建築である。2011年の親鸞聖人750回大遠忌法要のために、1999年から大修復工事を実施し、完工した。

 

大銀杏    境内の御影堂の正面に大銀杏がある。樹齢400年もので、市の天然記念物に指定されている。一目でそれと分かる。銀杏の木と言えば私は御堂筋の銀杏並木の様に背は高く、横にはあまり広がらないのがその姿と思っていた。しかし、この銀杏の木は背は高くなく、横への枝振りは30メートルほどもあり、見事である。幹の太さは屋久杉にも負けないような勢いである。こんな銀杏の木を見たことはない。昔、本願寺に火災があった時に、この銀杏の木から水が噴き出て火災を消し止めたという言い伝えから別名「水吹き銀杏」とも呼ばれる。

 

この銀杏の背は高くはないと書いたが実はその高さは15メートル余ある。あまりに枝振りが立派なために、高さへの印象がどうしても薄くなるのは仕方がない。それと目の前の御影堂、阿弥陀堂の大建物を前にしては、銀杏の木もそれらに負けないようにと、横へ横へと広がったのであろう。

 

西本願寺14超弩級工芸品・唐門    本願寺を出て、堀川通を南に下がり、塀沿いの北小路門をくぐって北小路通を西に進む。塀の右側が本願寺、左側が興正寺である。交通量は少なく静かで人通りは少ない。左手の先には本願寺の経営する龍谷大学・大宮学舎がある。北小路門から約100メートル歩いた右側に、大きな檜皮葺の唐破風屋根の四脚門からなる、国宝、唐門がある。何故ここにこのような不釣り合いに豪華な門が設置されているかについては、様々な説があるが、元伏見城の遺構がここへ移築されたという説がある。桃山時代の豪華な装飾が隅々まで行き届き、極彩色で金銀がふんだんに使われている。信仰の寺には必要以上に派手すぎる門であるが、旧文化の遺構がここに置かれているのだと思えば納得である。

 

細かく見ると軒の部分には、故事に則った、様々な人間模様、動・植物が極彩色で装飾されている。これは玄関ドアという実際上の用途を越えた、権威を発揚するためのシンボル的な美術品と思われる。わび・さびが基本の京都の禅寺文化とは対極にあるもので、このような印象は丁度、昔々、日光の東照宮に訪れた時に持った印象と類似している。今、唐門は表門を見ているのであるが、写真で見る限り本願寺境内の内側からの装飾も同じように豪華絢爛たるものである。この建築に接したら、一日中見ても飽きたらず、気が付けば夕暮れになっていた、、、という事で「日暮門」ともいわれるが、なるほどそうだ。

 

確かに、10分程度の立ちよりではこの門のすごさを味わい尽くすことが出来ない。また、いつかの機会に七条大宮界隈に来る機会があった時には、この門を思い出して改めてゆるりと、見学したい。龍谷大学の構内を通り、七条通りに出て、帰路に着いた。

 

今回は、銀閣寺哲学の道清水寺地主神社西本願寺と世界文化遺産を三つも詰め込んだ強行軍であった。一日の小旅行では、世界文化遺産は一か所、それにプラス一か所の社寺の訪問が適量である。あまり欲張りすぎると、疲労だけが残り、折角の見学行が無駄になる。社寺にも失礼である。今回の大いなる反省である。

 

利用した交通:京都駅から市バス、517系統または100系統で銀閣寺道まで(約40分)。銀閣寺道バス停銀閣寺哲学の道東天王町は徒歩(約2.5キロメートル)。東天王町から市バス、100号系統で清水道へ(約20分)。清水寺、地主神社散策(往復で1.5キロメートル)。清水道から市バス、207号系統で七条大宮へ(約15分)。七条大宮から市バス、205206号系統で京都駅へ(約10分)。

先頭に戻る


 

12回:高山寺(こうざんじ)                0729日(2014年)

石水院南面  今日の旅は高雄方面である。京都駅からJRバスで山道を縫って約1時間で清滝川のせせらぎの傍の栂尾(とがのお)・高山寺バス停に到着する。途中には北山杉の美しい植林が見える。京都市街の喧騒からは遠く離れたと感じられるところで、さすがにここまでくると観光客は少ない。

 

しかしここはまだ、京都市右京区内である。順路図とは逆で、手近な裏参道から栂尾山・高山寺に入る。白壁の土塀沿いに山道を上がると、簡素な門扉があった。そこが入り口であり、さらに境内の庭を歩き、靴を脱いで客殿に上がった。見るからに苔むす感じの山寺である。渡り廊下を経て、高山寺の誇る国宝・石水院に入った。四方が渡り廊下の縁でつながっており、大きく開けられた蔀戸からは三方向の山の緑が望まれる。

 

石水院は上の丘にあった当時の建物が明治期になってこの地に移され今に至っているが、かなり老朽化が激しく、わびを感じずにはいられない。しかしこの静寂さの中にあって、この院の佇まいは周囲の景色と調和しており、その当時の時代を偲べる住宅建築の傑作とされる。この地は、夏は蒸すような暑さであり、冬はほぼ毎日が雪に閉ざされる厳しい環境である。暫し、庇の間の前の縁に座して緑の濃い庭を眺める。

 

ついに、鳥獣戯画   石水院の裏手に廻るとそこは畳敷きの部屋で、やはり蔀戸は跳ね上げられており、外気は部屋の中に入りこんでいた。ここには長いガラスのショーケースにあの「鳥獣戯画」の巻物が展示されていた。ちょうどこの時期に、京都国立博物館で鳥獣戯画の展覧会があるので、高山寺を訪問しても本物の作品が見ることが出来ない事は最初からわかっていた。展示されているレプリカをじっくりと拝見した。これだけ近くで「鳥獣戯画」を見るのはもちろん初めてである。この作品は動物の面白い表情を漫画的に断片的に描いたものと思っていたが、実は、物語が展開されている巻物である。

 

水彩画の素描である。筆の勢い、筆致の確かさ、みずみずしさ、如何にも軽く見える筆さばきは驚嘆に値する。中学か、高校の時の日本史の教科書や、美術の読本で見るあのユーモラスな画集である。目の前のものが、レプリカであるとは知りつつも、時代を感じるし、国宝認定も肯ける。描いた画家は、今となっては歴史の中に埋もれてしまい誰の作品かも分からないらしいが、素晴らしい名画が残されたものである。これがひっそりとした高山寺に残され、現在まで受け継がれて来たというのも驚きだ。専門家の間ではこの作品を、真作、贋作、修正作、補筆作、、、などと様々な議論があるようであるが、私はこれを完成された作品として見ることに何の違和感も、躊躇もない。

http://kosanji.com/image/cyoujyuu/1_r1_c1.jpg

 

http://kosanji.com/image/cyoujyuu/1_r3_c1.jpg

 

http://kosanji.com/image/cyoujyuu/4_r1_c1.jpg

ウサギとサルが川で水浴をしている図と、ウサギとカエルが木切れを持っていたずらをしたサルを追う図はとくによく知られる。このウサギ、カエル、サルの動物画は四巻(甲・乙・丙・丁)のうち、甲巻に収載されている。一巻の長さは約11メートルもあるロングな巻物である。乙、丙、丁巻と進むにつれて、左に示したように、獅子に似た想像上の動物が火を噴き威嚇する様子や、囲碁に興じる大人や子供など庶民の生活が微笑ましく描かれている。

 http://kosanji.com/image/cyoujyuu/4_r3_c1.jpg

また、賭け事に興じていると思われる絵もある。世の東西を問わず、いつの世も賭け事に興ずる人はいるものだ。いずれも、長い絵巻物であるが、一枚が60センチメートルくらいの長さの紙が糊付けされたものである。その継ぎ目には 高山寺 の朱色の割り印が押されている。

 

ここ栂尾高山寺は774年に光仁天皇の勅願によって開創され、神願寺都賀尾坊と言われた。その後、何回か寺名の変更等があったが、鎌倉時代に明恵上人(みょうえしょうにん)が後鳥羽上皇などの援助を得て、堂を中興開山し(1206年)、名を高山寺と改称した。南都東大寺の華厳を根本教理とし、戒密禅の修行も行った。

http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2004_summer.jpg

石水院を出て、参道を登ると、右に開山堂、左に仏足石碑がある。登りきったところに旧石水院跡、それに金堂がある。金堂は釈迦如来像を本尊とするが、この金堂は江戸年間に仁和寺の古堂を移築されたものと言われている。参道の左右に茶畑がかなりの面積で植栽されている。明恵上人は茶の祖としても知られ、鎌倉初期に栄西禅師が宋に渡り、持ち帰った茶種を大きく発展させたと言われる。

 

この栂尾の茶は宇治にも移され、大きく発展したし、天皇家には毎年、今も献茶されている。今は、実質上の茶園の管理は宇治の生産者が担当しているという。金堂を後に、茶畑参道、石畳参道、坂道、再び石段を降りると、そこは表参道の入り口であり、大きな「栂尾山・高山寺」の寺標が建立されていた。やはり寺の案内書の順路に沿って歩むべきであったか。いずれにしろ、静かな山の景色と、鳥獣戯画に癒されたひとときであった。

先頭に戻る


 

高雄山・神護寺(たかおやま・じんごじ)

高雄山神護寺  高山寺から次の神護寺までは直線距離にして1.5キロメートルほどであるが、神護寺は急峻な山の斜面に位置するため、エネルギー節約の為に、高山寺から最寄りの高雄バス停まではバスを利用した。神護寺らしい建物が高雄川を挟んで対岸のかなり高いところに見える。ここ高雄バス停も川からはだいぶ高いところにある。これは上り・下りが相当に大変だ。大汗を覚悟で目的地を目指した。

 

高雄と言えば紅葉狩りで有名であるが、今は盛夏で人はまばらである。川べりまで降りると朱色に塗られた高雄橋があった。どうもこの景色は断片的ではあるが見た記憶がある。昔々、父に連れられて、初めての飯盒炊飯をしたのは確か、この高雄川の川縁だったはずだ。こういう野外活動の楽しみ方もあるのだという幼い時の新しい体験であった。

 

高雄橋を越えてつづら折りの坂をゆっくりと登る。石段を登り切って、楼門にやっとのことでたどり着く。対の仁王像が我々を迎えてくれる。境内はほぼ平地に均されており、広い敷地である。まずは御目当ての金堂に向かう。ここに祀られている薬師如来立像は170センチメートルの高さで、カヤ材の一木彫である。平安期の彫像とされ、もちろん国宝である。素朴で彩色を施さない造りで重量感にあふれる像である。脇侍に日光、月光の立像が祀られているが、後世の補作とされ、補修部分が多いとされる。

 

板彫弘法大師像 薬師如来立像 伝源頼朝像頼朝像?    ここには源頼朝の唯一と言われるイケメンの肖像画があることが知られている。高校の日本史の教科書にも堂々と掲載されている肖像画である。国宝であるが、これが本物かどうかの真偽についての決着がいまだ解決しないためか、この名称は「絹本着色伝・源頼朝像」と名付けられている。不正確で何らかのいわくの付くものには「伝」が付けられるらしいというのを今回、初めて学んだ。手元に山川出版社1999年発行の詳説・日本史の高校教科書(文部省検定済)があるが、同じ写真が掲載されていて「伝源頼朝像(藤原隆信筆)、鎌倉時代の肖像画の傑作である。(縦139cm、京都・神護寺蔵)」の説明がある。

 

この肖像画の実物は、5月初旬の「宝物虫払い行事」の5日間だけ公開され、普段は書院に収蔵されているらしい。今回、書院に入ることは出来なかった。私が今回、神護寺で見たのはそのレプリカである。確か、金堂の入口近くの隅っこに、この肖像画は置かれていた。この肖像画の前史を知らなかった私は、それがレプリカであろうとは想像したものの、何ともぞんざいな配置に、がっかりしたものであった。天下の頼朝像である。もう少し敬意を込めた展示方法があるのではないかと思ったが、上記の事情を知った今となっては、「まあ仕方ないか」と思うに至った。

 

http://www.kuraryoko.com/kyjin11.jpghttp://damien.douxchamps.net/media/showphoto/_0041126/紅葉の一大名所    高雄渓谷は紅葉で有名であるが、確かにここ神護寺の境内にも紅葉の木は多い。紅葉期には素晴らしい景色が楽しめるであろうが、恐らく、それをしのぐ人出であろう。今は閑散としているがどちらをとるかである。しかし一度は紅葉のシャワーに洗われてみたいものである。本堂の前に組み上げられた幅の広い石段は見事な出来である。石段上に本堂の大屋根は見えるが、一気登りはいささかきつい。ゆっくりと登る。本堂の眼の前に経楼、書院、明王堂、宝蔵など、かなり時代を経た建物が建っている。ここ神護寺は空海師が中国から帰朝された時に、最初に招かれた寺で、当時の日本の仏教界はここから新風が送りこまれることになった。

 

その後、空海師は東寺や高野山で壮大なる真言宗の学問所の建設に勤しむことになる。空海がこの寺に残したものは多くないが、灌頂歴名(かんじょうれきみょう)という弘仁3年に空海が神護寺の前身である高雄山寺で灌頂の儀式を行った際の受者の名簿が残されている。これは名筆家・空海の普段の筆跡を伝えるものとして、書道史上にも重要な作品であり、国宝に指定されている。これも伝源頼朝像と同じく、書院に所蔵されており、五月の虫干し期に拝察できる。

 

  あと、神護寺には本堂から少し離れた地蔵院が、急峻な山斜面から下の川筋を目がけてのかわらけ(ゆうやくを塗っていない素焼きの小皿)投げの場所として有名である。一種の厄除けであり、ここがその発祥地として知られる。私には桂文楽(8代目)師匠や桂枝雀師匠の落語「愛宕山」の中のかわらけ投げの語りが馴染みで、愛宕山がオリジナルかと思っていたが、ここ神護寺のかわらけ投げが正真正銘、日本での発祥の地という事になっている。

今回の旅は、盛夏でバテが心配であったが、多少の汗はかいたが、気持ちのいい森林浴満喫の一日であった。

 

利用した交通:京都駅からJRバス、高雄行きに乗車、終点の高山寺バス停で下車(約60分)。高山寺バス停から高雄バス停までJRバス(5分)。帰路は、高雄バス停からJRバスで京都駅まで(約60分)。高雄バス停から神護寺への徒歩は急峻な谷筋の上り・下りがあるため、各20分は見ておく必要がある。(高雄フリー乗車券(JR800円が便利。)

 

ここまで、順調に京都歩きを続けてきたが、びっくり仰天、私の体に胃ガンが見つかり201410月に手術を受けた。その後、順調に回復を見たが、冬季の間、特に体力に自信が持てなかったため、翌春の東福寺まで活動休止となった。

先頭に戻る


 

13回:東福寺(とうふくじ)                0316日(2015年)

3月も半ばを過ぎ、日差しがようやく少し暖かくなってきた。今回は約8か月ぶりの京旅である。東福寺とお隣の泉涌寺(せんにゅうじ)の訪問を計画したが、結局は東福寺で満足し、泉涌寺は次回以降という事になった。

 

http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2009_summer.jpg名前の由来    東福寺は鎌倉時代中期に摂政関白・藤原九條道家によって九條家の菩提寺として発願された。開山には聖一(しょういち)国師を仰ぎ、天台宗、真言宗、禅宗の三宗を合わせた壮大な、都で最大とされる伽藍が創建された(1243年)。元々、寺の名前・東福寺の由来は、奈良の東大寺、興福寺からそれぞれ一字を戴いて付けられたと言われるが、それは東福寺が両寺にあやかって末永く栄えるようにと願っての名称であり、両寺それぞれの華厳宗、法相宗の教義とは直接の関係はない。創建以来、東福寺は何度も被災の難を被っているが、修復された現在の境内を見渡すに、建物の配置や庭のつくりには、禅寺の色彩が強い。東福寺は日本の禅宗では最も大きな集団である臨済宗・大本山の一つである。

 

涅槃会に描かれた魔除けの猫http://souda-kyoto.jp/travel/life/img/ceiling/10.jpg  最寄りのJR東福寺駅から南東の方向にしばらく歩くと、東福寺の北門、仁王門に着く。本院への参道沿いには多くの塔頭がある。全部で25寺院あるというから、本格的な禅宗寺院の陣容を保持している。東福寺正門を目指して、境内を南北にはしる参道を辿って六波羅門を目指す。途中、深い谷にかかる臥雲橋を越える時に、左手にあとで詳しく述べるが、紅葉の時期に京都随一とされる通天橋と、若葉のモミジの木々の樹海が見える。

 

六波羅門をくぐると目の前に三門、その前に思遠池、そして三門の奥に本堂(仏殿兼法堂)が一直線に南北に並んでいる。まず、国宝の三門であるが建築様式は大仏様を思わせる一見、二重の屋根構造を持つように見える重量感にあふれたものである。室町時代の禅宗寺院に典型的なものであり、現存する三門の中では最も規模の大きいものである。楼の上部には様々な様式の仏像が安置されている。

 

 

大涅槃図と蒼龍図    次に本堂に入る。普段は本堂の中には入ることが出来ないが、今回は春の特別公開の期間中であったために堂内に入ることが出来た。禅式の須弥壇の上には釈迦如来立像と脇侍、そして四方に四天王が祀られている。なんといっても眼をひくのは天井に画かれた畳の面積にして150畳もある壮大な蒼龍図である。これは京都出身の画家、堂本印象の力作であり、わずか1か月で描き上げられたという渾身の作品である。

 

また、写真では小さくしか映っていないが、正面奥に架けられたのは室町時代に画家・明兆によって描かれた大涅槃図であり、京都三大涅槃図の一つである。普段は非公開の作品である。悲しむ群衆に混じって様々な動物が描かれているが、その中に「魔よけの猫」が最下段の中央左に一匹小さく描かれている。明兆がこの涅槃図を製作中に何度も絵具を銜えて現われたので、作品の中にその姿を特に留めたと言われる。「幸せをもたらす猫」として信仰される。

 

禅寺の昭和庭園    東福寺は京都市内にあって、主要観光施設からはちょっと離れた南東域にあるためか、紅葉の季節の通天橋の狂騒的な賑わいの時期の他は、いつも閑散とした寺である。静かに時を過ごしたい人にはここは絶好の場所である。また東福寺にはいくつかの有名な庭があり、その一つは方丈庭園と呼ばれるものである。方丈の東西南北四方にそれぞれに全く趣向の異なった作庭がある。昭和の名庭作家、重森三玲の作である。その中でも、最も面積の広いのが南庭で典型的な枯山水の庭園である。右奥の方向に五山を模す築山がありその部分だけ、こんもりと盛り上がり苔が生えている。

 

枯山水の石の個数は龍安寺のそれよりも多く、またそれぞれの石は鋭角的に尖っており、荒々しく戦闘的な印象を受けるが、私にはこれ以上の説明も鑑賞眼もない。西庭は市松模様のさつきの刈込、北庭は市松の敷石に苔が絡んだもの、東庭はこれまでに見たこともない作庭で高さ不揃いの円柱が北斗七星状態で並んでおり、さしずめ現代アートの枯山水という感じか。様々な禅寺の庭を楽しむには、時間に余裕をもってここを訪ねて、東福寺を満喫することをお勧めしたい。

 

http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/1997_autumn.jpgはるかなる通天橋    さて、東福寺といえば、紅葉と通天橋は避けて通るわけにはゆかない。東福寺の境内を横切って東から西へ向けて一本の洗玉澗(せんぎょくかん)と呼ばれる渓流が流れている。この流れに対して、三本の屋根付きの橋が架けられ、上流から龍吟庵に通じる偃月橋(えんげつきょう)、開山堂に至る通天橋、そして下流に架かる臥雲橋がある。

 

いずれも屋根付きの木造橋であり、如何にも時代を感じる代物である。このうち特に、真ん中に架かる通天橋が名高い。通天橋の上から渓流を見ると結構、谷底は深く切れている。私が子供のころ、南の伏見稲荷大社と、ここ東福寺は徒歩圏内にあり、何回もこの通天橋に遊びに来た記憶がある。但し、紅葉の季節には来なかったのであろう。境内が赤一色に染まる情景は全く記憶にない。

 

ただはっきりと覚えているのは、通天橋の橋上に立った時、子供数人で歩いても、通天橋は上下に振動した。これが面白くて、小さな足でわざわざとドンドンと足音を高くして歩いたものだ。禅寺の中の橋であるから、静かにすり足で歩くべきだったのであろう。兎も角、記憶にあるのは「通天橋=ゆさゆさ橋」であった。今回、通天橋を歩いてみての感触であるが、全く揺れない。この5060年の間に改造されていた。すなわち、目に見える地上部の通天橋は昔のイメージ通り、古式通りの木製の屋根付き渡り廊下様式の橋であったが、眼下の目に見えない橋下の構造部分が鉄筋コンクリートに造り替えられたという事である。

 

どうりでしっかりと安定が保たれているはずだ。いささかがっかりであったが、しかし、今や紅葉のシーズンには多くの人が東福寺にわんさと押しかけ、通天橋を渡るか、紅葉に包まれた通天橋の写真を撮る。それこそ、大きな事故にでもなったら笑い事ではすまされない。確か、今でも繁忙期は通天橋の通行者の人数制限は行われていると聞く。そうすべきだ。

 

それほどに有名なモミジであるが、早春のこの時期に来てみても確かに紅葉、楓などの秋には紅葉する植物が多い。この洗玉澗の両岸には約2千本の広葉落葉樹が植わっている。本当は秋に来るべきなのであろうが、人で混雑するところを私は好まない。TVでの報道や、観光パンフレットの写真集でベストな紅葉の景色を楽しめたらそれでいい。

 

 

東福寺東司http://www.zoukei.net/images/00088/kaizan01.jpg聖一国師像     通天橋を越えるとその先は、普門院(重文)と開山堂(重文)である。ここにも市松模様の砂石と、その奥の庭園が出迎えてくれる。開山堂には開山の師、聖一国師が祀られている。師は若くして宋に渡り、6年間禅道の修行を積んだ。多くの典籍を持ち帰り、その後の日本での文教の興隆に大きく貢献した。また、水力を用いた製粉機械の導入や、茶の種子を持ち帰り故郷の静岡でその育種に成功し、茶祖とされる。開山堂まで来るとさすがに観光客は少なく、静かである。開山堂は典型的な禅宗の建築様式で作られており、その中は格子の間からしか覗けないが、石の土間の奥に聖一国師の像が祀られている。

 

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/79/71f3f11017780baff7e9e019742a3698.jpg修行僧のトイレ事情    最後に、東福寺の項を終えるにあたってどうしても書いておきたいことがある。六波羅門をくぐって境内に入ると右手には大きな三門と本堂が見えるが、目の前に東司(重文)と禅堂(重文)という細長い建物がある。禅堂はその名の通り、学僧がこの場所で禅を学び、修行をしたところである。禅様式の格子窓を有し、見るからに学び舎と分かる単層、切妻造りの建物である。その規模からして、相当数の学僧(おそらく3400名程度)が修行したと思われる。

 

その横にひっそりと建っている細長い建物があるが、東司(とうす)とよばれる。これは実は禅様式の便所である。通称を百雪隠(ひゃくせっちん)という。現存する室町時代の最古で最大の雪隠である。他の社寺を訪問した時に、特に学問寺とされるところは多くの学僧が在籍したはずであるが、禅堂、宿舎、食堂の紹介の説明は耳にするが、学僧が絶対に必要とした雪隠に関しては、寺の関係者に聞いてみても曖昧な返答しか返ってこない事が多かった。ますます、疑問が膨らむばかりであったが、さすがここ東福寺は堂々と雪隠のことを実物で説明してくれている。何も隠すようなことではないのだ。禅宗僧の用便の環境と作法がわかった。昭和42年に発行された光文社カッパブックス「京都の旅、第12集」(松本清張、樋口清之著)がある。

 

今から約50年前に刊行された書物であるが、当時の京都観光のポイントが抄録され、また松本清張氏の独特の史観・興味に基づく記述が実に興味深い。さて、その中に「東福寺」の項(第2集、6369頁)があるが、東福寺の記述の半分がこの東司についてである。『便ツボは全部で1メートル間隔、約50個位が見えた。どういう作法で用を足したのか? 何人ぐらいでこの便所は使えるか? 一人一回5分として、、、、と延々と彼の自問自答と、机上の計算が続く。・・・・結論は42個のトイレで1000人はまかなえる。もし、沈思黙考に10分以上かかっても500人以上は大丈夫である。さすがは雄大な規模、便所においても、東大寺、興福寺に次ぐことになりそうだ。』まさに、東福寺の名前が、

(東大寺+興福寺)÷ 2 = 東福寺

この公式から由来していることを論証したかったのであろうか、稚気あふれた熱筆に感心したものである。約半世紀ぶりに訪れた東福寺はこれまでの私自身の古い記憶を一新する、新しい再会であった。これからもこの寺を大切に想ってゆきたい。

 

利用した交通:京都駅からJR奈良線(みやこ路線)で京都駅から一つ目の駅が東福寺駅(新快速も停車)(片道2分)(140円)。

先頭に戻る


 

14回:上賀茂神社(かみがもじんじゃ)        0427日(2015年)

http://kyoto.wakasa.jp/images/view/image_306.jpg  この項目を書き始める前に、先ず調べておきたいことがあった。上賀茂神社と下鴨神社の名前の由来である。両神社は、少なくとも葵祭を共同で執り行う兄弟関係にある神社である。しかし、その漢字名は「賀茂」「鴨」と異なる。調査の結果、以下のことが分かった。

 

鴨、賀茂、加茂??    上賀茂神社、下鴨神社はいずれも通称である。正式な名称はそれぞれに、賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)であり、「上がも神社」は鴨でも加茂でもなく、「賀茂」を用いる。昔々、この地を治めた豪族は賀茂氏一族であり、地域の名前も「上賀茂」、「下賀茂」と使い分けられていた。文献上でもそういう記述が認められるとの事である。全国に賀茂社の末社は約1000社近くあるというが、鴨、賀茂、加茂が渾然としていて、様々な「かも」が使われている。色々と問い詰めても、結局は「通称です。」という事にどうもなりそうである。

 

ちなみに川の名称であるが、上賀茂神社のそばを流れる賀茂川は、八瀬・大原方向からくる高野川と合流して、鴨川と名前が変わる。下鴨神社は鴨川ではなく、高野川が最も近い川である。もう一つ、京都には上鴨警察署と下鴨警察署があった。それぞれの所轄にはそれぞれの神社があった。上鴨警察署と上賀茂神社。どうもおかしい。調べ直してみると、上鴨警察署は京都北警察署と(私の知らぬ間に)名前を変えたようだ。お役所としては柔軟な対応と思う。「鴨沂高校」の校名はそれでよし。「先斗町・鴨川をどり」も、合格であろう。

 

http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2007_spring.jpg  さて、上賀茂神社編を始める。京都駅から乗車したバスが渡る大きな川が賀茂川であり、そこにかかる橋が御薗橋である。御薗橋バス停で下車し、橋を渡ると、もうそこは終点の上賀茂神社バス停である。この付近の賀茂川の流れは緩やかで、水清く、両岸の川堤は綺麗に整備された公園で、ジョギングする人たち、散歩する人たち、ご近所の老人たちの談笑の声と、長閑な空気に満ちている。丁度、このJRのキャンペーン写真そのままの景色である。

 

賀茂競馬    一の鳥居を越えると目の前に一筋の細かい砂利を敷き詰めた参道があり、その両側は綺麗に刈り込まれた広々とした草原である。ここで、毎年55日に伝統行事の賀茂競馬(くらべうま)が行われる。これは515http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/1995_spring_03.jpg日の葵祭の前段の位置づけの祭事である。柵に囲まれた馬場が神社西方の草地に設けられ、そこで二頭の馬が速さを競う。柵の周囲は見学者で一杯である。

 

現在は計10頭の馬が右方、左方に別れ勝負を競う。出発地点には「馬出しの桜」、ゴール地点には「勝負の楓」の大樹がある。そしてちょうど真ん中あたりに「鞭打ちの桜」があり、ここで一気に加速する。走行距離は約200メートル。これは五穀豊穣・天下泰平の祈願の行事であり、1093年にこの祭事は始められた。古くは吉田兼好の徒然草(第41段)にも書かれたし、源頼朝や、徳川家康も見学したという。

(上賀茂神社、賀茂競馬の動画:  https://www.youtube.com/watch?v=hmvQpmrdWk0

 

 

葵祭    515日に京都御所から下鴨神社を経由して、上賀茂神社へと練り歩く賀茂祭り(葵祭)が執り行われる。この日は市中を一日かけて練り歩くが、祭り日に先立っては、斎王代(さいおうだい)一行の御禊の儀、神官お清めの儀、神社内清掃などの諸儀式がある。葵祭の後日には献茶の儀が執り行われ、表千家と裏千家が隔年で担当する。人々の注目は古式ゆかしい葵祭の祭列である。約500名が平安時代の装束に身を包み、馬36頭、牛4頭、牛車2基と共に市中を練り歩く。見るからにカラフルで明るい祭りである。

 

クライマックスは御所車に乗った斎王代(さいおうだい)であり、十二単(30sの重さだそうだ!)に身を包んだお姫様の近づくのを待つ。斎王代を目にした人たちは温かく拍手で迎える。待ちわびる我々にも、斎王代一行の近いことがわかるのである。行進は非常にゆったりとしたペースで進むが、行進を待っていて気になるのが、一緒に歩む牛、馬の糞である。行列の人達もうまく歩かないと、踏んづけてしまったらチョットした悲劇である。

 

しかし、感心したことに、斎王代の御所車のあとの最後列では、手押しのリヤカーが道に散らばった糞を、箒と塵取りで手早く集めてゆく。道路は元の綺麗な状態に戻る。これで一安心である。「立つ鳥、跡を濁さず」は祭事にも当てはまることである。これがこの祭りが1000年間も持続する一つの理由であろう。これは大学の馬術部学生諸君のアルバイト奉仕と聞いたことがある。

 

さて、祭りの中心人物である斎王代であるが、どのようにして選ばれるかはまったく公開さ https://pbs.twimg.com/media/CieghQFXIAAVZ38.jpg https://pbs.twimg.com/media/CieKVyGWkAAAPkg.jpg http://www.e-kyoto.net/upload/upload_20100527150843.jpgれていない。 京都在住の 民間の未婚女性というのが基本の条件であるが、毎年一人の厳しい関門であることには変わ い。それだけに「今年はどんな人が?」というのが京都庶民の好奇の話題となる。

https://pbs.twimg.com/media/CieKVyGWkAAAPkg.jpg:largehttps://pbs.twimg.com/media/CieKVyGWkAAAPkg.jpg:large

本殿権殿  上賀茂神社の本殿は御水井川と御手洗川の二つの渓流に囲まれた域にある。この本殿には御神体が存在しないという。本殿の奥にある神山(こうやま)を神殿とし、いわゆる森や山そのものを神体とする考え(神奈備信仰)で山岳信仰の社である。従って、神殿・本殿は祭典や礼拝のための標識にすぎないと考える。確かに本殿には、普通の神社に見られる本坪鈴も、鈴紐も、賽銭箱もない。

 

できるだけ早く食べよう。買ってすぐがベストだと思う。 の画像式年遷宮    本殿をよくよく観察すると、左右に全く同じものが対で建てられている。いずれも国宝であるが、上賀茂神社の権殿(上)は、本殿が非常の場合でも滞りなく神事を行えるよう、内部まで本殿とまったく同じ造りになっている予備の神殿である。上賀茂神社、下鴨神社、共々、21年毎に、式年遷宮という一大行事が執り行われる。上賀茂神社は今年、平成27年(2015年)10月に式年遷宮が執り行われる。式年遷宮の21年毎というのは、社殿の補修技術の継代伝播を維持するために設定されたという。本来の式年遷宮は、ご神体を除くすべての建物を新しい宮へ移すことを言うが、両神社は社殿のほとんどが国宝や重要文化財に指定されているため、伊勢神宮の様にすべてを新しく造り替える事はせず、屋根の檜皮葺の葺き替えや建具・金具の補修、漆喰壁(しっくいかべ)の塗り替えなどの大修理を行って傷んだところを直し、装いを新たにして祭儀を行っている。

 

https://static.gbooks.jp/images/article/420x315q80cc333333/17568.jpg?v=1405346593&s=6cf53618158d5a9b7b8fc7dd77a5c71d(ちなみに、伊勢神宮の式年遷宮は20年毎に執り行われる。伊勢神宮は世界文化遺産、国宝いずれの指定も受けていない。理由は20年毎に全く新しい建物に建て替えられる為である。)

 

最後に、ご参考までに。    上賀茂神社からバスに乗って次の目的地、下鴨神社に向かった。私は、バス停左手の「神馬堂のやきもち」が大好物である。一つ売りからでもOK(@130円)。上賀茂神社を訪問される時は是非、食されては如何? 長蛇の列の時もあるが、10分も待てば買えると思う。

先頭に戻る


 

下鴨神社(しもがもじんじゃ)

京都に行ったらコレ!「出町ふたば」の名代豆餅!!https://retrip.s3.amazonaws.com/article/24032/images/240323c036b8f-4cf4-4e6a-a277-f32519ddf274_m.jpg  上賀茂神社に引き続いて下鴨神社にやって来た。バス路線の都合で、河原町今出川で下車した。そこから河原町通りを北上し、賀茂川にかかる葵橋を渡り、糺の森(ただすのもり)に至るルートをとった。この迂回ルートの選択には2つの理由があった。

 

そのは、賀茂川が鴨川に名前を変える高野川との合流点を見ておくこと、そのAは、河原町今出川を上がった左手の「出町ふたばの豆餅」での買い物である。いつもバスから豆餅ファンの長い行列を見るが、今回は約15分でゲットできた。毎度、留守番の家人へのいい土産である。最近はこの店も有名になり、京都駅や四条の百貨店にも販売コーナーが出来た。京都に銘菓は沢https://ssl-stat.amebame.com/pub/content/8265872137/user/article/203742662914968877/3b7a805968b4e5c80c1169e0afa3e36b/cached.jpg山あるが、これは庶民派京菓の代表の一つである。

 

河合神社縁起    下鴨神社境内に入る。左手に河合神社がある。「河合」という名前は二つの川が合流する地点を表す所の名前を連想させるが、果たしてどうか? ここは小さな神社であるが、女性の美をつかさどる神社である。丸い手鏡の絵馬がユニークだ。如何に美しくお化粧するかを競っての願懸けである。化粧道具一式を持参しての、お参りである。彼女たちの完成した作品を一同に奉納した様子は、何とも微笑しい。目の表情を如何に愛らしく見せるかがポイントのようだ。つい、見惚れてしまい時間の経つのも忘れるくらいだ。

 

http://livedoor.blogimg.jp/ascension_coaching/imgs/5/6/56c2fc28.jpgshi2  A境内の片隅に、粗末な方丈の庵がある。鴨長明の住んだ庵を復元したものである。なんと、方丈記の作者、鴨長明はこの河合神社の禰宜の息子との事である。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、・・・」なるほど、この無常観を嘆じた長明の名随筆は、女性の美について嘆じたものであったか!?

 

B古事記や日本書紀の世界で日本国家の起源、天皇の守護鳥として暗躍した三本足の鳥、八咫烏(やたがらす)は、ここ河合神社を仮本宗と位置づけている。我々には神話の世界を離れて、日本サッカーのシンボルとしての大和魂の象徴としての「ヤタガラス」に馴染みが強い。

 

https://static.gbooks.jp/images/article/420x315q80cc333333/18163.jpg?v=1407823016&s=5490fec53a66bcc1687da7cdea9a54afhttp://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2015_summer.jpg糺の森のイベント    糺の森の参道に入る。白砂の参道と緑のコントラストが美しい。この欝蒼とした森のなかにいると、すぐ近くに車の行き交う大通りがあることをほとんど忘れるくらいである。下鴨神社、正式な名称は賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)と呼ばれるが、通称の呼称が一般的であり、正式名称で呼ばれるとどこの神社か分からないのが実際であろう。本殿はこの糺の森の奥にあるが、この参道はまず、京都三大古書市の開催地として知られている。毎年「下鴨納涼古本まつり」が、811日〜16日の大文字の送り火の日まで開催される。持ちこまれる古本はそれこそ玉石混淆であり、古書籍の古典文学大系のようなお堅い本から、それこそ大衆小説や漫画本まで数十の古書店がテント張りの店を連ねる。愛書家風の老人男性から、子どもたち、家族連れと様々な客層が集まる。疲れた時は糺の森の木々の下でくつろげる。京都の盛夏は例年、酷暑であるがこの森にいる間は納涼気分を味わえる。

 

流鏑馬    糺の森の西に参道に沿う形で古馬場と呼ばれる馬の走る道がある。ここは例年53日に515日の葵祭本祭の前儀として、古武道の流儀による乗馬と弓道を組み合わせた流鏑馬(やぶさめ)の神事が行なわれる。古装束を着けた武士が全力疾走する馬上から、一尺四方の板片を弓で射抜く競技で、射抜く板の数を競うものである。全力疾走する馬の蹴音と、矢が的に当たる時の「パーン」という乾いた音は気持ちを高鳴らせる。ここは多くの見物者が至近距離で爆走する馬を見ることが出来る貴重な馬場である。

 

式年遷宮の真只中    糺の森に沿って、左・右に瀬見の小川、泉川が流れる。いつも水量が豊かで澄んだ流れである。糺の森の木々の間からせせらぎの水音が聞こえる。この二本の小川は上流で一本に合流し、御手洗川と呼ばれ、神社本殿の中を流れる。ここで、葵祭のヒロイン・斎王代が祭りに先立ち、この流れに手を浸して身を清める禊の神事が行われる。本殿神殿の域は塀で囲まれているがその面積はそれほど広くない。楼門をくぐって境内に入る。中門の奥には、対になった西本殿、東本殿の屋根が見える。これは上賀茂神社と同じ考え方で、一方の本殿が非常の場合でも滞りなく神事を行えるよう、もう一方は予備の神殿であると思われる。

埋め込み画像 2 (下鴨神社)

我々は運が良かったのか、それとも悪かったのか、その日427日は正に21年に一度の下鴨神社の式年遷宮の当日であった。この日の夜に遷宮式典のクライマックスにあたる御遷座(ごぜんざ)の儀[正遷宮]が行われることになっており、本殿周辺は式典に備えて白い布ですべてがカバーされており、関係者以外は近づくことが出来なかったし、神社の関係者は前庭、本殿の砂などの清掃に余念がなく、神社全体が一種、緊張感に包まれていた。もちろん我々一般人はたとえ夜まで待ったとしても、この神聖な遷宮の儀式は垣間見ることすら出来ない特別なものである。

 

店内イメージ02みたらし団子、再び、ご参考までに。    長居をしても準備に忙しい関係者の邪魔になるだけなので、境内にある結婚式場、社務所、御車舎を見て西参道から下鴨本通へ出た。下鴨本通の向かい側に有名な 「加茂のみたらし茶屋」がある。赤い毛氈の床几が茶屋の横のこぎれいな庭に設けられ、下鴨神社の参拝者の憩いの場になっている。ここで一息入れることにした。まず、この5連の串団子であるが、御手洗川で池に湧き出る水泡をかたどったものとも言われ、また、上の大きい団子が頭、下の4つは胴体を表した人の形との説明もある。これも有名な京土産の一つであるが、ここで戴くと、神様に守られるというご利益に授かれると言われている。一人前はこの写真にある「一皿3串+お茶」で500円ほどであった。我々ジイサン3人に、一人三串の団子は “too much” なので、お店のお姉さんに、お茶は各人一服、団子は三人で一皿という変則注文をお願いした。

 

何とか赤い毛氈に座らせていただき、茶をすすりながら、みたらし団子を一本ずつ頂いた。甘辛いタレが美味であった。これでは下鴨神社の神様からのご利益は1/3しか授かれないが、それは仕方がない。今日は、上賀茂神社で神馬堂のやきもち、出町でふたばの豆餅、それに下鴨神社の加茂のみたらし団子と、甘いもの尽くしの神社参拝の一日となってしまった。

 

利用した交通:京都駅から市バス、9系統で上賀茂御薗橋まで(約50分)。御薗橋から上賀茂神社へは徒歩5分。上賀茂神社前から市バス、4号系統で河原町今出川へ(約20分)。河原町今出川から糺の森までは徒歩(約1キロメートル)。下鴨神社前から市バス、4または205号系統で京都駅へ(約25分)。

先頭に戻る


 

15回:桂離宮(かつらりきゅう)             0519日(2015年)

 

『ひとたびは訪ねて見たく思へども 近くて遠きはああ桂離宮』 正和

 

http://img-cdn.jg.jugem.jp/df1/691292/20090113_2380250.jpg  大阪に向かう阪急電車が桂川を越えるとき、左方向の川岸にこんもりとした森が見える。そこに近くて遠い桂離宮がある事は知っていた。しかし、ここの見学には何カ月も前から宮内庁に申請をし、身分を明かし、審査を経て、漸く入場許可書が発行されるという、一般人にとってはとっても高い敷居がある事も知っていた。私はかねがね離宮を訪ねたいと思う一人であったが、これまでその機会はなかった。しかし、待ち続けても扉は開かない。

 

 

桂離宮事始め    今回、桂離宮訪問の機会が実現したのは、京都御苑にある宮内庁京都事務所参観係を訪問し、職員から直接に詳細を聞くことが桂離宮略図出来たからである。参観申請には、参観希望の日時、見学者全員の氏名、住所、年齢(18歳以上のみ許可)を示し、往復はがきで申し込む、A事務所で直接に申し込む、Bインターネットで申請する、の方法がある。Bは元々、人数枠が少ない、Aは三か月先まで申請出来る(ただし、申請当日の参観はだめ)との事であり、@の往復はがきによる応募が主流のようであった。今回、約二か月先の519日をAの方法で尋ねたところ、「OK」という事で許可書が発行された。一つの大きな関門を通過した。あとは、519日に当方に不都合な事態が発生しないことである。

 

阪急電車、桂駅に集合し、徒歩で桂離宮に向かった。結構、通行量の多い車道を歩くが、離宮は独特の笹垣(竹藪の竹をそのまま利用し、一定の高さで竹を押し曲げて編んだ素朴な意匠の生垣、別名:桂垣)で囲まれていた。左上の写真にあるように見事な穂垣の参道に沿って参観者出入口を目指す。いたるところ、整った自然づくしの景色である。入場にあたっては、身分証明証と入場許可書を提示し、予め離宮に登録された参観者名簿と照合されて確認が取れた者は、見学開始までの間、参観者休所で待つ。見学はグループツアーで、約1時間。ツアーは一日6回実施される。

 

http://img-cdn.jg.jugem.jp/81d/68086/20061109_245837.jpg  一回のツアーは最大25名位であるから、一日の見学者は150名である(土・日・祝、休み)。桂離宮はこのように簡単には入ることが出来ないが、雑誌やTV特番などではしばしばこの偉大な芸術作品を目にする機会はある。記憶の中の離宮と実物を見ての落差が、一体どれほどのものかは大いなる関心事であった。

 

 

参観会に随行員    出発時間になり、案内役の女子職員がマイクを持って先頭に立った。あらかじめ、周りの建物や植物への配慮、カメラはOK だが一脚、三脚の禁止、また、奇声・大声の禁止等、諸注意があった。そして、我々一行の最後尾には、制服の皇宮警察の男性が一名付いた。時々、参加者の員数を数えて、一人の遅滞者もいない事を確認することが任務である。通路の石畳は決して広くはないが、その周囲の苔を踏むことは厳img_01222.JPGhttp://blog.nagocre.com/wp-content/uploads/2013/12/ximg20131125_22.jpg.pagespeed.ic.VOTu_9fYpg.jpgしく禁じられていた。もし違反者を見たら厳重注意する事も大切な任務である。我々の参観の時も、外国からの訪問者が石畳を外して苔の上に立ち、後方から警笛と大声の警告が発せられた(英語で)。

 

離宮の地図を見ると、その面積の半分は池であり、その周囲を様々な意匠の山水庭園や簡素ではあるが粋を極めた建物が取り囲んでいる。離宮の広さは約7万平方キロメートルである。建物としては順路順に、松琴亭、賞花亭、園林堂、笑意軒、古書院、月波楼などがあるが、中でも古書院が規模においても造型においても圧倒的である。数寄屋造りの古書院は棟続きで中書院、新御殿に連なる。

 

桂離宮のコンセプトは池に反射する月を鑑賞することにある。古書院の前には池の方向に竹簀子で作られた広縁があり、ここから月を愛でるそうである。そのほかの建物も、例えば、月波楼も正面の土間が開放的に作られており、月を愛でることを意識した建築という。

http://blog.nagocre.com/wp-content/uploads/2013/12/ximg20131125_30.jpg.pagespeed.ic.W-1AwAyZYq.jpg

一つ一つの建物は決して大きなものではなく、力強さを表現する大寺院の建築とは全く趣が異なる。茶室を注意深く精巧に作り上げたものという表現で当を得ているかどうかは分からないが、各建物の障子、襖、壁、家具調度品など、適当に持ち込んで据えつけたものはない。一つ一つが細部にわたって考え抜かれて配置され、しかも全体としてのバランスを失わず、決して華美に走ることはない抑制された調和の美の極致という評は如何なものであろうか。庭の植栽も苔はもちろん細心の注意で維持管理されているし、木々も四季の変化に応じて様々な色彩の変化を見せるように配置されている。

 

写真で見る、紅葉の桂離宮は超逸品と言えるであろう。池に接してなだらかな浜がある。州浜と呼ばれるその場所一帯は、大きさの揃った黒みを帯びた扁平楕円の形をした石で敷き詰められている。参道の石畳でないところには細かい石粒が敷かれている。その大きさも一つ一つが吟味されたものが敷かれており、どこかから持ってきた石粒を適当に敷き詰めたというものではない。ここまで細部にわたっての創意と執着心は尋常を越えるものを感じる。

 

離宮の歴史    この桂離宮は戦災に会うこともなく、創建当時の状態を忠実に維持していると言われる。離宮の基本は17世紀初頭に御陽成天皇の弟、八条宮初代智仁親王の創建であり、二代目の智忠親王の時に新たな増築があったと言われる。詳細は一見しただけではよくわからないが、二人の美的感覚には微妙な差異があり、そのあたりの変遷も今の桂離宮はよく保存されているという。深く知ろうと思えば、まだまだ見届けておかなければならないところが一杯ありそうだ。

 

タウトの審美眼    桂離宮を世界に知らしめたのは、昭和8年(1933年)に来日したドイツ人の建築家ブルーノ・タウトである。世界大戦前の時代に数回、離宮を訪れたタウトはその著作の中で、古書院の広縁から張り出した竹縁(月見台)から庭園を見た。その時の感興を「ここに繰りひろげられている美は理解を絶する美、すなわち偉大な芸術のもつ美である。すぐれた芸術品に接するとき、涙はおのずから眼に溢れる」と最上級の言葉で表現した。私はタウト自身の審美眼や、建築家としての業績等について詳細は知らない。ドイツをはじめヨーロッパの近代の庭園は、直線を生かした植栽、造園が基本である。その世界で生きて来た人間が桂離宮を見ての感興は、もしそれを美しいと感じたのならば、心の琴線に触れるものを見たというのが実感なのであろう。タウトの柔軟な感受性と審美眼に共感する。

 

一方、タウトの弁に乗るわけではないが、彼は後日、日光東照宮を訪れ、桂離宮との対比で、すさまじい建築に驚愕し、「建築の堕落だ、 ・・ しかもその極致である。」と著書の中で述べている。何をどう感じるかは個人の感受性の問題であるが、この両者がほぼ同じ時代に造られたということ、桂離宮は公家の京都文化を、東照宮は将軍家の江戸文化を象徴したものである事を考えわせると、両者の極端には興味深いものが感じられる。

 

今の京都で、二条城の門扉、西本願寺の唐門を見た時に、日光東照宮に類似の意匠を感じたが、これは江戸文化の京都浸透の一つの結果なのであろう。私の個人的嗜好は、桂離宮の洗練されたシンプルな風流の極みに共感する。これから先、四季折々の桂離宮を見るのは望むところである。叶わぬことであるが、池に反射する 「中秋の名月」 は写真とDVDでしか鑑賞できないのは残念だ。

http://blog.nagocre.com/wp-content/uploads/2013/12/ximg20131125_19.jpg.pagespeed.ic.t4xj8o1Cox.jpg

http://blog.nagocre.com/wp-content/uploads/2013/12/ximg20131125_12.jpg.pagespeed.ic.wPlqeodVbJ.jpg  個人の離宮への参観は多くとも月一回がルールである。しかし、年間12回、定期的に桂離宮に訪れる愛好者がいるとの事である。ガイドさんの説明は丁寧だし、ツボをしっかり押さえた説明をしてくれる。皇宮警察官の監視があるが、これは離宮が如何に丁寧に管理されているかという事を正しく理解すれば、厳しく叱責されることもない。そして、入場は無料である。京都には、この他にも宮内庁が管理する公開施設として、京都御所、仙洞御所、修学院離宮がある。入場許可のルールは分かったし、中の施設は洗練された一級品揃いであることもわかった。幸いにも私は、京都という地理的に非常に有利な場所に居住している。今後、京都の宮内庁施設見学の優先順位を上げてゆきたい。

 

『こよひみる 月の桂のもみぢばの 色をばしらじ 露もしぐれも』 

智仁親王

先頭に戻る


 

王将1号店(おうしょういちごうてん)

餃子の王将発祥の地碑http://www.ohsho.co.jp/image/1001_image_shop1.jpg王将発展史    昭和42年に「餃子の王将」は京都で誕生した。その当時、京都の餃子文化は「aa」(みんみん)が圧倒していたように思う。私がよく通ったaaは今も三条大橋西詰に存在する。餃子の王将はその後、どんどんと店舗・規模を拡大し、京都から大阪へ、関西一円に、そして関東一帯に積極展開をしている。あと残るは南九州と沖縄それに東北地方の数県であり、全国制覇は目前である。今や全国で約700店舗というから、グルメ事業としては大成功である。

 

王将1号店は、四条大宮から京都では珍しく北西に斜め45度に走る後院通(こういんどうり)の西側にある。私には開店当初の王将1号店の記憶はない。創業時の王将は店はひとつで、おそらく四条店とか、四条大宮店と名乗っていたのではないか。

 

最近になって創業時代を記憶に留めるべく、誇らしげに「1号店」と名乗るようになったのであろう。1号店に入るのは今回が初めてである。4階建ての自社ビルである。店は、どこの王将とも同様、活気にあふれ、店員の元気な声が響いていた。メニューもほかの店と同じだが、ジャストサイズという小皿の点心メニューが私には目新しかった。

 

http://livedoor.blogimg.jp/gurum22/imgs/f/c/fc08bcfc.jpg餃子の王将1号店 看板庶民の味の殿堂    我が家系は昔から王将派である。宇治市内の店にはよく通った。何が気に入っているかと言うと、提供される餃子が口に合い、価格がリーズナブルであるというのは勿論であるが、この店に来る客はいずれもが賑やかで元気な庶民である事だ。すました人は来ない。みんな元気な胃袋の持ち主で、家族連れ、若者、労働者が黙々と餃子やラーメン、チャーハンをパクついている。美味そうに食事をする人たちを見るのは実に気持ちがいいものだ。お父さん、お母さん、それに子供2人の4人の家族連れが、着席するなり「餃子12人前!」なんていさぎよい注文を聞くと、こちらまで嬉しくなる。ここではつまらない表情で食事をしている人はいない。「客が客を呼ぶ」この雰囲気が店の繁盛のポイントであろう。

 

私は今から1年少し前に胃の手術を受け、その後、王将に通う回数が減ってしまった。若い時は、餃子3人前を平らげるくらいは平気であったが、今は餃子1人前で精一杯と、弱ってしまった。これからも体調のいい時は昔を思い出して、餃子に挑戦したい気持ちは衰えていないのだが・・・。残念、至極である。

 

平成25年(2013年)師走の早朝に、当時の社長・大東さんが何者かに射殺されるという驚きの事件が起こり、いまだに解決を見ていない。店はその後も繁盛を続けているが、早く解決して欲しいものだ。

先頭に戻る


 

壬生寺(みぶでら)

日中の寺院が共同で複製した2体の鑑真像(12日午前8時12分、中国・江蘇省揚州で)=田村充撮影http://www.mibudera.com/keidai.jpg  壬生寺で思いつくことと言えば、新選組屯所、節分、壬生狂言であるが、いずれにもほとんど馴染みがない。寺の場所もウロ覚えであったが、四条大宮から京福電車嵐山線の踏切を横切って、間違えることなく壬生寺北門に辿りついた。付近は京都の古民家の街並みで、数十年、この雰囲気が続いていると思わせるものがあった。

 

壬生寺の表門壬生寺縁起    壬生寺は、奈良の唐招提寺を開いた鑑真和上の創建とされるが、現在、この寺に鑑真和上に関連したものは何も残っていない。最近の新聞報道(平成28512日・読売新聞)によると、『京都市の壬生寺と中国・揚州市の文峰寺が共同で、国宝・鑑真和上坐像(唐招提寺所蔵)を旧来の製法で2体複製し、文峰寺で日中の約500人の関係者の見守る中、開眼法要が営まれた。和上を顕彰するため壬生寺の松浦俊海貫主が呼びかけて実現した。

 

法要の後、近々に一体は壬生寺に奉納される。』との事である。古の縁起を大事にする温故知新の発想であろう。オリジナルの鑑真和上像(国宝)は奈良・唐招提寺に祀られているが、年に数日しか公開されない貴重な塑像である。これと同じレプリカが今回作成され、近々壬生寺に安置されるとの事である。壬生寺観光の一つの目玉になるのかどうか、新しいご縁に注目したい。

 

近藤勇の像http://www.kanshundo.co.jp/img/gif/gyoji09_02.jpg壬生狂言と節分    京都の節分には四方参りというものがあり、4か所を合わせてお参りすると厄除けのご利益に授かれるとされて来た。その四か所とは、吉田神社、八坂神社、壬生寺、北野天満宮である。仏教系は壬生寺のみである。この時期、特に吉田神社と壬生寺は参拝者が多い。節分と言えば、成田山の豆撒きが有名であるが、ここ壬生寺では豆撒きは行われない。ここでは、壬生狂言、すなわちお面をかぶった演者が無言で繰り広げる仮面劇で、「節分」という題目が上演される。

 

これは、勧善懲悪・因果応報を面白おかしく伝える狂言であり、これを見た参拝者は厄除・開運を授かる功徳があるとされる。節分は22日〜4日であるが、炮烙(ほうらく)と言って、素焼きの皿に名前、壬生寺阿弥陀堂年齢などを書き、それを奉納し、狂言上演中にそれらの素焼き皿が壇上から落とされて、しっかりと割れたらそれで功徳に授かれるというものである。

 

壬生寺は、鑑真和上とご縁があって創建され、唐招提寺と同じく律宗をその教義としている。寺内には本堂、阿弥陀堂、鐘楼がある。ご本尊は本堂に安置される地蔵菩薩立像 (重文)であり、唐招提寺から移されたものである。寺内には、これらのほかに、お稲荷さん、一夜天神堂、千体仏塔、水掛地蔵堂、夜泣き地蔵、中院、壬生寺会館、壬生塚、保育園、老人ホーム、マンションなど様々なものが渾然一体として存在し、何となく雑然とした印象はぬぐい得ない。

 

新選組のねぐら    境内東方に池があり、朱色の橋が架けられている。池の中の島は、壬生塚と呼ばれ幕末の新選組隊士の墓などがある。新選組局長・近藤勇の胸像と遺髪塔や他の隊士が合同で埋葬されている。近藤勇の胸像を見ても、その当時の新選組の活動に疎い私には特別の感興は起こらないが、境内にあるミュージアムの土産物売店には、新選組関連のグッズが多数売られていた。おもに中・高生がお目当てのアイテムである。

 

寺内を散策している間にも、修学旅行と思しき中・高生のいくつかのグループが、ここ壬生寺を訪ねてやって来た。近藤勇の胸像の撮影や、お土産のグッズの選定に興じているのを見た。新選組の何が中・高生にアピールするのか。京都で尋ねるべきところは他にいくつもあるのに、ちょっと不思議な感じを持った。いま、新選組の志士達はアニメやコミック本の世界で人気者なのだろうか

 

 

http://momo.her.jp/images/mibu.4.jpg歴史を造るか、千体仏塔    最後に、千体仏塔についての印象である。本堂の左側にミャンマーの仏教寺院(パゴダ)でよく見かけるような形の仏塔があった。円形の基台はセメントで固められており、金色に光輝くミャンマーの仏塔とは大きく異なるが、その天に向かった高さはなかなかのものである。近くからよく観察すると、塔から突き出た先端部は十三重の塔であり、日本でよく見る仏塔の形を踏襲している。そして、周囲に散りばめられた石は、よく見ると一つ一つが仏石像である。平成元年(1989年)の建立と聞く。

 

これらの石像は明治時代に市内各所で行われた区画整理の為に、元の所在地が不明になつたり、引き取り手がなく無縁仏化した石像を集めて、このような形に組み上げられたという事である。この中には室町時代からの阿弥陀如来像や地蔵菩薩像なども含まれており、石像の数があわせて1000体である事から、千体仏塔と名付けられた。これは平成時代に建造された新しい仏塔であり、これから先、しっかりと祀られ続け、歴史に残ってゆくことを願うものである。

 

利用した交通:京都駅から市営地下鉄で四条駅下車(約5分)乗換、阪急電車・烏丸駅から桂駅まで(特急、急行、普通に乗車できる。約10分)。桂駅から桂離宮へは片道徒歩15分。桂駅に戻り、阪急電車で大宮駅へ(普通電車のみ、約8分)。大宮駅から、王将1号店は徒歩2分。壬生寺へは徒歩片道10分。四条大宮に戻り、市バス(2628206系統)または京都バス(71727374系統)で京都駅へ(約15分)。

先頭に戻る


 

16回:岩船寺(がんせんじ)               0608日(2015年)

http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/2006.10.62.jpg  近鉄電車の奈良駅から奈良交通の急行バスに乗り、浄瑠璃寺まで行き、そこで木津川市コミュニティバスに乗り換えて約10分で岩船寺前に到着する。近鉄奈良駅からわずか40分程度のバス乗車であるが、岩船寺周辺はすっかり山中であり、随分遠くに来たなあ、はるばる田舎に来たなあ、感で満たされる。この地域は行政的には京都府に属するが、地理的には奈良に近く、文化的にも南都奈良の影響が強い。

 

岩船寺は木津川市加茂町にある真言律宗の寺院である。真言律宗は大和西大寺を総本山とする奈良仏教の宗派で、大和、山城、伊賀、河内などに広がっている。アジサイで知られた山間の寺院で、花の季節には訪問者も多い。バスの停留所から岩船寺の入り口の山門まで無人販売の小店が数件あるが、タケノコ、乾燥した山菜、青菜に大根と、この付近で採れる農作物が竿にぶら下げて売られている。郷愁を感じる売り方だ。改めてここ、加茂町の岩船寺を地図で確認すると、あと1キロメートルほどで奈良県との県境である。

 

こんなところに・・    岩船寺は、かなり狭い山あいに位置する。山門は簡素なつくりで周囲は緑でおおわれていた。奥にはこの寺の誇る朱塗りの三重塔が見える。先ずは参道の右手にある本堂に参拝する。岩船寺は8世紀の天平年間、聖武天皇の銘により東大寺建立で知られた僧行基によって阿弥陀堂が建立されたのが始まりとされる。その後、幾多の変遷を経て今に至っているが、鎌倉時代の末期には最も栄え、三十九もの坊舎を有したが、承久の乱でほとんどが一旦、荒廃に帰してしまった。いまここは花や、鳥や、虫に、囲まれて平穏な境内を保っている。

http://www.pref.kyoto.jp/yamashiro/no-hana/images/gansen2.jpg

http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/2006.10.63.jpg  本堂には平安時代のケヤキ一木造りの阿弥陀如来坐像(重文)と、その周囲には鎌倉期に彫られた四天王立像が坐像を囲んで祀られている。建物の内部は白壁も新しく、一部金箔の剥がれ落ちた三メートルもある大きな阿弥陀様とのコントラストが面白い。本堂の前には阿字池があり、その向岸には鎌倉期の十三重石塔(重文)がある。ゆらゆらと湖面に反射する姿が長閑である。小高い丘の上には、知られた岩船寺の朱色の三重塔がある。伝によれば仁明天皇が九世紀の中ごろに建立したとされるが、現存の塔を詳しく調べhttp://mori70silver.dousetsu.com/Isibotoke/IMG_0984.JPGると室町時代の刻銘があり、これはその時に建立されたものとされる。内部は公開されていないが、最近、壁面の文様や色彩が復元され、今はきれいに南都仏画の世界が描かれているとの事である。さらに上の高台に登り、ちょうど三重塔の塔頂の高さ位にある広場で昼食をとった。鳥がさえずり、涼風のそよぐ、長閑な時間を楽しんだ。

 

愛すべき野仏たち    ここから、次の目的地の浄瑠璃寺までは楽しみにしていた田舎山道の散策である。距離にして2キロメートル程度であるが、有名な石仏街道である。いくつかの散策ルートがあり、実に様々な石仏があった。このあたりには彫刻材料に適した花崗岩が多い。風雨に晒された石仏をながめると、作者はプロの彫刻師ではなく、その付近に住んだ住人が競って彫ったものと思われる彫人知らずの石仏達である。三人仏、阿弥陀様、お地蔵さま、様々なものがある。笑い仏、ねむり仏、やぶの中三尊、首切地蔵、、、などなど、この地域には40体を越えるオリジナルな野仏が彫られている。

 

中には、かろうじて石仏と判別は出来ても、何を彫ったのかが分からなくなったものもある。これらは言ってみれば路傍の野http://shigeru.kommy.com/kubikirijizou1.jpg石で、継代保存される文化財の対象にはならないが、幾世紀にもわたって、この地域の人々のこころを支え、彼等の生きざまを見つめて来たものである。金色に輝く仏像でなくとも、思わず手をあわせたくなる素朴さがこれら石仏から伝わって来る。

先頭に戻る


 

浄瑠璃寺(じょうるりじ)

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/e6/6e2fef9be2c5e13780a346374ecd24f5.jpg前評判    これまで浄瑠璃寺(九体寺・くたいじ)を訪ねたことのある知人から 「遠いけど、良かった。」 とか、「いままでに見たことのない素晴らしい所だった。」などと、一様に褒め言葉を聞いていた。随分と、交通の便が悪くて遠い所らしいが、一度は訪ねておきたい所とのイメージを持ち続けていたが、今回、やっと訪問の機会を得た。浄瑠璃寺という独特の音楽的な響きに魅せられて、何の予備知識も持たずに同寺を訪問した。

 

 

寺の縁起    年表を見ると、浄瑠璃寺は1047年西小田原浄瑠璃寺(本尊:薬師如来)として創建された、岩船寺と同じく大和西大寺を総本山とする真言律宗の寺院である。約半世紀後の1107年に池の東側に浄瑠璃寺九体阿弥陀堂が造られ、また半世紀後の1150年に浄瑠璃寺庭園が造られ、寺観の基礎が整えられた。1157年には東にあった阿弥陀堂が池の西側に移され、本堂とされた。

 

左の浄瑠璃寺蔵の絵図は江戸時代に描かれたもので、今日、我々が見る伽藍とほぼ同じ配置である。池を挟んで東方に三重塔が、西方に本堂である細長い阿弥陀堂がある。周囲はかなり急峻な山に囲まれた窪地で、中央には池が、そして手前の北に向かって寺への出入口である参道が通じている。

 

 

薬師如来様    松並木の参道を過ぎると北大門があり、それを過ぎると、すぐ右手に大日如来が祀られた潅頂堂(かんじょうどう)と、左手には鐘楼が見える。目の前に広がる池は宝池と言われる。朱塗りの三重塔は本堂を見下ろすやや高いところに位置しており、その初層には薬師如来坐像(重文)が祀られている。塔の高さは16メートル、薬師如来坐像は86センチメートルである。金色に輝く秘仏の薬師様を納めた塔扉は毎月1回、8日の好天の日に限って午後三時まで開かれる。本堂にある九体の阿弥陀如来と池を挟んで向かい合う形に配置されている。我々の訪ねたのは68日と、ちょうど三重塔の御開扉の日であり、運よく対面することが出来た。池を半周して本堂の方に廻る。

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/d9/ecd46b8c130f5b5fe26966fdd731e3aa.jpg

奈良や京都にある多くの古い寺院は、本堂、金堂、そして大極殿などはほとんどが南を向いて建造されている。しかしながら、京都の宇治の平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)にあるように、平安時代の中期頃から阿弥陀仏信仰の寺院は、東を向いて建てられ、その前には池を配するのが一つの形式となった。ここ浄瑠璃寺では、太陽の昇りくる東方浄土の教主が薬師如来であり、太陽が進み沈んでゆく西方浄土の教主が阿弥陀如来として、それぞれに配置された。この配置は、例えば興福寺の五重塔初層内陣の東側に薬師如来が、西側に阿弥陀如来が祀られているのと合う。

 

法隆寺では、金堂は南を向いて建てられており、仏像はいずれも南を向いて坐しているが、釈迦如来を中央に、東方に薬師仏が西方に阿弥陀仏が位置している。一方、ここ浄瑠璃寺では、東=薬師如来、西=阿弥陀如来がお互いに向き合った配置をとる。薬師如来は苦悩を救い目標の西方浄土に送り出す遣送仏、阿弥陀如来は西方未来の理想郷の楽土に迎えてくれる来迎仏である。浄瑠璃寺はそれを具現化した。それでは満を持して阿弥陀如来が祀られる本堂に入る。

 

たかの坊地蔵尊阿弥陀如来様たち    本堂は大勢が参拝中であり、般若心経を唱和する声が聞こえる。堂の裏側の外廊下を廻り、南側の入り口から堂内に入った。障子戸を通してうっすらと明かりがさしている。東を向いて威風堂々と坐す、寄せ木造りの九体の阿弥陀仏(いずれも国宝)を見て正直、心底から驚愕した。何故に、こんな山中の古寺に九体もの金色に輝く阿弥陀如来像が整然と祀られているのか?! 中央の一体はやや大きく阿弥陀如来中尊像(2.2メートル高)(左右四体の阿弥陀仏は約1.4メートル高)と呼ばれる。

 

日本に現存する、唯一、最古の九体仏である。何故、九体も祀られているのかという素朴な疑問について、若い寺僧は「現世には様々な人が生きている。功徳を積んだ人から、普通の生活を送った人、また大嘘をついたり、殺めたりの悪事を働いた人もいる。いずれもが亡くなった時には阿弥陀様がお迎えに来られるが、そういうあらゆる人をお救いになるために、様々な人に対応して九体の阿弥陀様が準備されてお待ちになっています。」と答えていた。すなわち、人間の品には、上品から下品まで九つの段階があって、それに対して阿弥陀仏の迎え方が九通りあるということ(九品来迎)をわかりやすく説いたものと思われる。夕方の日が沈む頃には、本堂の障子戸が全部開かれ、九体の阿弥陀仏に照明が当てられ、そのお姿が宝池の水面にゆらゆらと反射し、まさに夢幻の極楽世界が拝めるという。

 

http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/2006.10.38.jpg  毎日このようなご開扉があるとも思えないが、今回はその事実を知らず、早々に寺を辞してしまった。本堂には九体阿弥陀仏の他に、本堂には子安地蔵菩薩像(重文)、四天王像(国宝)、不動明王像(重文)なども、両脇に祀られていたが、どうも九体阿弥陀仏に圧倒されて印象が薄い。モッタイナイ話である。京都の府境にこんなとんでもないお寺がある事を知ったのは大いなる慶びであり、知人から聞いた熱い前評判は本当であった。

 

 

ここにも環境問題が    最後になったが、ここ浄瑠璃寺は数百メートルで奈良市との境界に接する。今、奈良市にはゴミ焼却場を京都府との境付近に建設する計画がある。もし、これが建設されたら山の稜線から、ゴミ焼却の煙が立ち上ることになり、この宗教的景観が台無しになる恐れがある。寺の関係者はこぞって建設反対運動を行っているが、開発と歴史的景観の保存には常について回る悩ましい問題である。行く末を注視してゆきたい。

 

利用した交通:京都駅から近鉄・京都線で、近鉄奈良駅へ(急行で約45分)。近鉄奈良駅から、奈良交通バスで浄瑠璃寺へ(約25分)。木津川コミニュテイバスに乗り換えて、岩船寺へ(約10分)。岩船寺から浄瑠璃寺まで、徒歩(ゆっくり歩きで)約1時間。浄瑠璃寺からは往路と逆のコースで京都駅に戻る。

先頭に戻る


 

17回:京都御所(きょうとごしょ)            0629日(2015年)

桂離宮に引き続いての宮内庁施設の参観である。年に数日、京都御所の一般公開が行われ、TVなどでも大きく報道される。しかし、京都御所はこの時期だけが一般人に公開されているのではない。ここ、京都御所はやはり、手続きに従って申し込めば、年中ガイド付きでの参観が可能である。

 

http://www.zoukei.net/images/00095/gosho002.jpg御所内ツアー    京都御所は京都御苑の中央部分に位置する。周囲を五本筋築地塀で囲まれ6つの門があるが、外から中の様子はうかがい知れない。南北に450メートル、東西に250メートルの長方形の形をしている。清所門で参観許可書を提示し、入場を許されると参観者休所で参観までの時間を過ごす。ここでは京都御所略図施設案内のビデオが流されており、記念品や関連書籍なども販売されている。

 

見学時間は1時間と少々。一日4回、ツアーは催行される。先頭にはガイド役の女性がマイクを持って立ち、最後尾にはここでも皇宮警察官が付いた。見学は左の図の赤い線に従って歩む。我々は約25名位の一団であり、広い苑内の散策は静かですこぶる気持ちがいい。最初は車寄せ、諸太夫の間から始まる。あらゆる調度品は丁寧で緻密な造りであり、昔は牛馬に曳かれた御所車がここに到着したのであろう。

 

南に進み建礼門の前を通る。内裏の南庭が承明門から見える、有名な右近の橘に左近の桜だ。多くの神社で橘、桜の植樹が見られるが、やはりここのものはオリジナルだけあって姿・形が雄大で素晴らしい。その奥が御所の中で最も名の知れた紫宸殿(ししんでん)である。

 

https://irs0.4sqi.net/img/general/width960/404298_iY0Z5zSDK77fTo76VVUML5NLOpX6rpyfS2OA2Spj42k.jpg  ここは天皇が政務を司るところであり、「君子南面す」とあるように政務を司る時は、南を向いて座るとされた。そのためであろう。紫宸殿は建築の発想が南に向いて大きく開かれた、入母屋桧皮葺の書院造りで、御所の中でも人目を惹く大きな建物である。左の写真手前の朱色の門は承明門である。何となく全体の色調が中国調である。紫宸殿の内部はいくつもの部屋に分かれている。特別な機会でもないと中に上がっての内部参観は出来ない。

 

紫宸殿は明治天皇から3代の天皇の即位の礼が行われた場所で、大正天皇即位の際に作られた高御座と皇后が座る御帳清涼殿台が保存されており、独特の流麗な襖絵が沢山描かれているという。しかしながら、ここは今や主のいない建物となって一世紀以上が経った。ただただ儀式のある時にのみ、その役目を果たしてきた。

 

京都の寺院では、どこを訪ねても、このクラスの建物の内部には、立派な仏像や須弥壇が備え付けられて随分と賑やかな様相を呈しており、あくまでも信仰の対象である。しかし、ここには精緻さや繊細さがあっても、賑やかさに欠けるのではないか。信仰心とも無縁である。内部を見ていないので、勝手なことは言えないが、今となっては、何とも寂しい空間と思えなくもない。立派な建物を前にしてヒガミ根性が勝るようだ。

 

冬の御所は寒い?!    紫宸殿の裏に廻る。清涼殿(せいりょうでん)である。ここは天皇および皇族方の昼間の常の居所とされたところである。近世になって、さらに奥の常御殿というところが常の棲家とされ、清涼殿は専ら儀式用の場所に変わっていった。清涼殿は呉竹、河竹が植えられた中庭に面して東に向いた建物である。ここも内部は襖でいくつかの部屋に区分される。建物の真ん中あたりに昼御座という、天皇の席がある。この席は建物の最も内側であり、昼間も薄暗い所ではないかと思われる。夏の間は分厚い天井屋根の下で、それこそ清涼感はあったと思われるが、陽が射さないとなると、それこそ冬の寒さは大変だったのではないか。

 

天井は張られていないし、中の仕切りが几帳や屏風ではいかにも心許ない。空間を温めるストーブという発想の無い時代に、天皇はどのようにして暖を取ったのだろうか。おまけに夜間の照明は灯台という油を灯したものであったから随分と暗かったはずだ。快適な生活の現代人には、如何に立派な建物でも一夜を過ごせば逃げ出したくなるのではないか?

 

御池庭  冬の寒さで思い出したが、以前、中国・北京の故宮博物院(紫禁城)を訪ねた時に、皇帝の日頃、住まわれる部屋を見たことがある。それこそ、北京の冬は、京都の冬よりも一層寒い。皇帝の日常の間は驚くほど狭く、それこそ6畳程度の個室であった。ベッドがあり、椅子があり、そして床暖房のオンドルが建物には組まれていた。

 

それに比べて、この清涼殿はどう考えても寒かったのではないか。近世になって天皇の日常の棲家は御常御殿(おつねごてん)に移された。そこでは、石灰壇の中に塵壺(ちりつぼ)という炉(土がこんもりしている所)があり、冬季にはそれに火が焚かれ暖かくしたそうであるから、多少とも寒さは凌がれたのであろう。広い部屋を見せられると、寒さ対策は大丈夫だったのかと余計な方向に考えが行ってしまう。

 

主のいない住処    どうも、京都御所は建物を外部から見るだけでは物足りない。写真集や、インターネットで紹介される様々な部屋や、天皇の座られた高御座や、御帳台、寝室である御夜殿などの丁寧な家具調度のつくりをこの目で是非見たいものである。その時に初めて京都御所のすばらしさを知るのではないか。しかし、住人の去った建築は如何に立派であっても、何とも物悲しいものがある。優雅な調度に囲まれた平安人の生活を想像して、羨望はあっても決してそこで生きたいとは思わない自分を再認識した次第である。

 

最後になるが、京都御所の築地塀の東北の角が欠けている。いわゆる鬼門の方向である。陰陽道では鬼が出入りするとして万事に忌み嫌う方角であり、この塀の細工は 「京都御所には鬼門はありません」 ということの意思表示なのであろう。陰陽道は平安時代以降、宮廷・公家の日常行動を縛って来たとされるが、それがこんなところに今も残されているのである。

先頭に戻る


 

京都大学(きょうとだいがく)

http://www.seibu-la.co.jp/project/files/2012/01/kd_110929-1.jpg吉田山にある紅もゆるの石碑食堂はどこに?    京都御所の後の、京都大学訪問は大学生協での昼食にありつくことである。昔は大学構内には生協食堂でAランチ、Bランチなどの安価な定食メニューが一般的なチョイスであったが、最近は大学食堂も綺麗になった。構内を歩き、記憶にある時計台の地下に食堂はなかった。そういう時は、学生さんに聞くに限る。中央食堂は移動しており、時計台の北側の建物の地下にあった。

 

今や、ここもカフェテリア形式で、料理は品目ごとに選択し、食事の席も随分と小ぎれいでゆったりとしている。私の学生時代には教養部、西部構内、本部、医学部、北部構内とそれぞれに生協食堂があり、ローカル色が豊かであったが、今はどうなのか?おそらくどこも清潔さを競う同じようなスマートな食堂に変わっているのであろう。しかし、現在の価格と提供される食事の質には満足である。あと、時計台の中にフランス料理のレストランがあり、結構人気だそうな。私は夜に2、3度利用したことがあるが、街のフランス料理店と比べても遜色はない。大学関係者だけでなく、町の人も利用すると聞く。

 

京都大学(旧:第三高等学校、紅燃ゆる・・)と言えば、学問の府であるから、それについて少しは書かなければならないと思うが、あまりにも多岐にわたり私の任を越えている。昔、本部構内で広い場所を占めていた工学部が、桂地区と宇治地区に移転し、構内の勢力図もかなり変化したかなと思って地図を見ても、どうもあまり大きな変化はないようだ。

埋め込み画像 7 埋め込み画像 11 埋め込み画像 1 

(左から農学部正門、農学部四明会本部(旧:演習林事務所)、人文科学研究所)

今も工学系はやはり東域を占めているし、文系は法・経・文・教育学部それぞれ、ほぼ昔の位置から変わっていないように思う。今回は足を踏み入れていないが、北部構内は変わったのだろうか? 山中伸弥教授のiPS関連の研究施設として、構内にいくつかの新研究棟を建設中と聞いた。頑張れ!! 兎も角、学問の進展に伴って、古い学識と新しい発見がシンクロする京都大学の伝統がこれからも成長していってほしいものである。

 

 

http://i.gzn.jp/img/2015/07/29/yoshidadormitory/CNNgo-yoshidaryo-1.jpg嗚呼!吉田寮    昔の教養部、今の吉田南キャンパスの南端に吉田寮という名物寮がある。しかし、最近、前を歩くと新しい茶色の鉄筋の寮が建っている。吉田西寮というらしい。もともとの吉田寮は木造二階建ての相部屋制である(120部屋、1913年建築)。名物寮は今も壊されずにあるが、大学当局は耐震性が著しく欠けるため撤去したいらしい。しかし、学生諸君の強い抵抗で、いまだに果たせずにいる。

 

この寮は学生の自治意識が強く、来る者は拒まずの気風があり、知らない間に見知らぬ人が住み込んでいるというような事も間々発生したらしい。動物も出入り自由で、猫、犬、ヤギ、ダチョウなどとの共同生活もあったと聞く。私も若い時、必要に迫られて何回か寮の住人を訪ねたことがあるが、玄関から部屋までは瓦礫の山で、廊下は不要と思われる荷物で溢れていた。しかし、当の住人は快活で、自分達の生活を楽しんでいたし、勉学にも励んでいた。不潔至極ではあったが、あの寮の開放的、いや解放的(!!)な気分は、今も懐かしい思い出である。『吉田寮、撤去反対!!

先頭に戻る


 

吉田神社(よしだじんじゃ)

http://www.yoshidajinja.com/honden.jpghttp://www.yoshidajinja.com/daigengu.jpg吉田神社の知恵者    京都大学本部の正門前の東一条通りを突き当った所に吉田山(123メートル)があり、吉田神社はその麓から山麓一帯を占めている。この山麓は古くは神楽岡と呼ばれた。室町時代の文明年間、足利義政が隆盛を極めていたころ、吉田兼倶(よしだかねとも)が国中の神道を合同し、かつ仏教を一切排除した独自の吉田神道(宗源唯一神道)を創設した。

 

人々は、吉田神社にお参りをすれば、全国の神社を拝むのと同じご利益が得られるという事で、大変な興隆を見た。言ってみれば伊勢神宮も、春日大社も、出雲大社も、そして稲荷大社も吉田神社コンツェルンの配下に位置するという、身勝手な主張である。これで当時の神道世界に大きな混乱が起こったかどうかは知らない。

 

併せて、兼倶は将軍・足利義政とその夫人の日野富子に近づき、それまでは神社の格付け順位にあたる位階(勲何等など)や神号(〇〇大権現とか、XX大明神など)は、朝廷から授かるものであったが、これからは大元宮に仕える吉田家が管轄し、宗源宣旨として発するという規則を決めてしまった。大胆な神社支配の策である。初期には新興神道宗教の一つとして胎動を始めた吉田神道であったが、こういう仕組みが定着してくるに従い、吉田家は明治年間に至るまで、絶大な権力と経済力を占有することになった。

 

http://www.yoshidajinja.com/setubun06.jpghttp://souda-kyoto.jp/travel/saijiki/img/setsubun/01.jpg神道世界を支配    境内を見ると、確かに神社風の朱色の神殿がいくつもある。なかでも、本殿は 「ここは春日大社?」 と見間違うくらいにそっくりに造られている。どちらがどちらのまねをしたのか、お互いの神社の間に縁組があるかどうかは知らないが、創建年代的には春日大社の方がはるかに古いと思う。その吉田神道の教理を具現化するものとして、山の中腹に位置する「大元宮」(重文)がある。この建物の造り方がケッサクである。前室が八角形、うしろには六角形の唐破風の屋根を持った建物が合体している。

 

屋根は入母屋の茅葺で、屋根を飾る千木は前方に内削ぎ(伊勢内宮型)、後方には外削ぎ(伊勢外宮型)の千木が取り付けられている。おまけに屋根中央には露盤+宝珠(仏法のシンボル!)が飾られている。この百貨店的ななんでもありの建物の中には八百万神が祀られているらしい。そして、この大元宮の周囲には日本を六十六の国に分け、各々の国に三十三の祠を設けた。各地の神様をこの地に呼び寄せ、ここに祀ることにより、吉田神社が中心という唯一神道の教理を具現化した。神道の世界では色々と議論があるのかもしれないが、少なくとも吉田家の吉田神社は日本の神道をこのように仕切っていた。

 

吉田の節分    民間の信仰の場として、毎年2月の234日に催される吉田神社の節分は一大祭事である。この期間には50万人もの人が参拝に訪れ、800の露店や夜店がたつ。参道の東一条通の大変な混雑は例年の風景である。大元宮で行われる 疫神祭では疫神すなわち災いをもたらす神に 「荒ぶる事なく山川の清き地に鎮まる」 ことが祈られる。

 

厄除けや招福のご利益が得られるお札として、梔子色の神札(厄神斎)を参拝者たちは買い求め、各戸の玄関先に厄除け札として取り付ける。この他に、節分の期間中には追儺式という厄鬼を退散させる行事が行われ、金棒で退散させたり、弓矢で追ったり、豆を撒いたりとお馴染みの光景が繰り広げられる。

 

吉田山を登ってゆくと、参道に菓祖神社といういかにもそれらしい名前の神社があった。果物の祖と言われる橘を日本に持ち帰ったとされる田道間守命と、日本で初めて饅頭をつくったとされる林浄因命の2神菓子の祖神が祀られている。当然のことながら、信奉するのは京都の菓子業界の関係者であるが、昭和32年に菓祖神社創建奉賛会が結成され、創建された新しい神社である。

 

吉田山には京都大学のページに掲載した「紅燃ゆる 丘の花」の歌碑が建っている。昔の学生たちはここで京都市街を眺めて三高の寮歌を高吟したのであろう。二昔以上、昔の話しである。それともう一つ、吉田山の頂上には古風な二階建ての民家風の建物で、喫茶、軽食それに茶会や茶碗つくりのワーク・ショップや寄席などを提供する「茂庵(もあん)」という一風変わったお店がある。なんでこんなところにと思うような吉田山の頂上付近である。果たしてお客さんが来るのかと心配になるようなロケーションであるが、20年以上もお店が続いているという事は、それなりにお馴染みさんが定着しているのであろう。

cafe_img01

ここからだと大文字の送り火の火床が近くに見える。次の訪問先、真如堂を目指して、緑豊かな吉田山の坂を南東に向かって降った。

先頭に戻る


 

真如堂(しんにょどう)

https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=90x10000:format=jpg/path/s73cc5be3c6af43f3/image/i7c227d615ea70e54/version/1347525526/image.jpghttp://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2002_autumn.jpghttp://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/a8/a05fb0bbb3d48083a22783ebecf01fda.jpg天下一の紅葉名所    真如堂はいわゆるバスツアーで観光客がどんどんと押しかけるような名物観光地ではない。ただ、普段は静かで閑静な真如堂も秋の紅葉のシーズンだけは、人、人、ヒト、ヒト、で溢れかえる。真如堂、金戒光明寺、法然院、永観堂、南禅寺などの東山山麓界隈の寺院はいずれも、紅葉の名所であるが、特に京都人には真如堂の紅葉はこの地域での人気度はNo.1ではないかと思う。数十年前には、「隠れた紅葉の名所として人気上昇中」と紹介されているのを見たが、今や完全にメジャーな紅葉の名所と化してしまった。

 

しかし、6月末の平日の真如堂は緑が濃くなり始める頃で、人影はほとんどない。狙った通りの訪問となった。

 

うなずきの弥陀    真如堂は正しくは真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)呼ばれる天台宗の寺院で、平安時代の半ばに比叡山の常行堂にあった阿弥陀如来を移して創建されたという。本堂にはご本尊の阿弥陀如来像が祀られているが、これは年に一日、紅葉のシーズンの真最中、1115日にのみ御開帳される秘仏である。この阿弥陀如来仏像が完成するときに、慈覚大師が「比叡山の修行僧のためのご本尊になって下さい」とお願いをし、眉間に白毫(びゃくごう)を入れようとすると、如来は首を振って拒否された。

 

それではと、「では京に下って女人をお救いください。」 と改めてお願いしたところ、うなずかれたとか。そのため、この如来像は「うなずきの弥陀」と呼ばれ、額には白毫を持たない珍しい如来様である。今も、特に女性の間での信仰が篤く、非常に柔和な表情の如来像という評判である。どんなお姿かと、四方、手を尽くして探してみたが、やっとのことで小さなスケッチ画を一枚見つけた。カヤ木の一本造りで高さは約1メートルの立像だそうである。11月の御開帳の日に、お会いできればと思ったが、当日は本堂のご本尊の前は女性で大変に混み合うとの事である。並んで待っても、一人数秒しかその前には立てないという事のようだ。如来像の写真集でも見かけたら、ゆっくりと鑑賞させていただこう。

埋め込み画像 4 (真如堂・三重塔)

三重塔    遠くからの真如堂の目印は三重塔(府指定文化財、高さ約30メートル)である。この塔は江戸時代(1817年)の竣工であり、寺内では最も新しい建造物の一つである。しかしながら、真如堂が紅葉で知られるようになり、ほとんどの紅葉の写真には背景にこの三重塔が映される。この三重塔は実にバランス良く造られており、私の眼には規模も高さも全く違うが、屋根の形状および、相輪とのバランスなど、東寺の五重塔に非常に似ているように見える。

 

http://www.geocities.jp/kawai5510/IMG_64591.jpg京都の三重塔で思いつくものと言えば、清水寺、山城の浄瑠璃寺と岩船寺、宇治の三室戸寺、金戒光明寺と、ここ真如堂http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/28/6fb2203df1f0a4e9de41a964c75d2db0.jpgである。たまたまなのかもしれないが、お隣の金戒光明寺と真如堂以外の三重塔は朱色に塗られている。真如堂の三重塔が東寺の五重塔を連想させるのは、その形状のバランスに加えて、黒褐色の木目が醸し出す塔の軒回りの組物の構造美のせいかもしれない。

 

新しい庭    本坊書院の横に、新しい感覚でデザインされた庭が出来、最近、話題になった。写真で見ると石と、木と、撒かれた砂の色の配色でその美を表現しようとしているが、まだすべての造形が新しすぎて、庭が落ち着いた状態にはならず、苔生す雰囲気には至っていない。あと10年もすれば少しは落ち着いてくると思うが、今はまだ熟成期間中というところと思った。

 http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/6f/1ec3bb3f9bd17bd6e1e52abdec4b8ba6.jpg

真如堂の参道は、紅葉の木で一杯である。今回は新緑モミジの参道であるが、清々しい緑は周囲の寺院や参道とマッチしていて落ち着いた見応えである。木々の間を漂う空気も和やかである。ここまで景色が落ち着いてくると、セミが鳴いてもヨシ、しとしとと雨が降ってもヨシ、木々の間から漏れる木洩れ日もヨシ、ヨシ、ヨシ、、、ここは訪れた者を長閑な気持ちにしてくれる魅力がある。この時期、周りには、土産物屋もなく、うどん・そば屋もなく落ち着いた風情の6月末の真如堂である。緑の樹木に囲まれた参道を南に、次の目的地、金戒光明寺をめざす。

先頭に戻る


 

http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2010_autumn.jpg金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/2e/51babe0bb32bb7eb5a5d65f700755718.jpgくろ谷さん    金戒光明寺は、京都の人達からは「くろ谷さん」または「こんみょうじさん」と親しみを込めて呼ばれている。法然上人は比叡山での修行を終えて、町に下りられた時に、この地に念仏道場を開場されたのがその始まりとされる浄土宗七大本山の一つである。ときに法然上人43歳、承安5年(1175年)で、平安時代の末期、平家の滅亡が近く、世の中に不安が渦巻いた時期と重なる。

 

京都守護職の基地    山門、本堂などは南を向いて建てられているが、今回は普段はほとんど通ることのない裏口の真如堂側の北門からの訪問である。幕末期、幕府からの要請で会津藩の松平容保(かたもり)公が京都守護職の命を受けた(1862年)。ここ黒谷の金戒光明寺に本陣を構え、約千名の兵が駐屯することになった。また、幕末期、尊王攘夷の急先鋒・新選組は、京都壬生に屯所を置いたが、都の治安維持という任務の下、京都守護職に属するようになった。混迷に満ちたこの時代は、様々な映画や小説に登場する。

f:id:kazenokomichi:20151202011737j:plain

数ある京都の社寺の中で、当寺が京都守護職の本陣に選ばれたのには、@地形が城構えである、A要所(=御所)に近く、早馬で5分の距離である、B千名の軍隊が駐屯できる、のが理由と言われる。元々、見晴らしのいい場所に位置し、山門を閉鎖すると持久戦にも耐え得るという城としての機能を併せ持つことが、戦略家の目に留まったのは歴史の皮肉である。北門を入ると、会津藩殉難者の墓所がある。ここには会津藩が守護職にあった5年余の間に亡くなった会津藩の戦病死者と、鳥羽伏見の戦いの死者の352霊が慰霊されている。

 

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/9c/e84a05fecbfdff0a8385c5f13e5ceaa2.jpg毎年、6月の第二日曜日に松平家当主の列席の下、京都会津会の主催で法要が執り行なわれている。今や、幕末の混乱期の数々の悲劇は歴史の渦の中に飲み込まれようとしているが、この静寂の場所に立つと、故郷の会津を離れ、幕末の倒幕と佐幕の壮絶な戦いの中で散っていった多くの人びとの無念が偲ばれる。金戒光明寺の北の墓所は鎮魂と祈りの場である。

 

三重塔    会津藩の駐屯のご縁でもないだろうが、この金戒光明寺は時代劇映画撮影の名所であり、『新選組』、『新選組!』、『大奥』ー庭園、『憑神』ー山門、などが撮られている。最近のNHKの大河ドラマ『八重の桜』では当地が会津藩の悲劇の舞台であった。

 

f:id:kazenokomichi:20151202011933j:plainhttp://www.kurodani.jp/about/img/img4.jpg  室町末期の応仁の乱で金戒光明寺は寺内のほぼ全てを焼失した。その後、織田・豊臣・徳川家の庇護を受け復興は進められた。寺内を歩むと、墓地の間から高さ22メートルの三重塔(文殊塔)(重文)が見えてくる。この塔の二層目に「日本三文殊隋一」と記された扁額が架けられているとおり、文殊菩薩をその本尊とした。その像と脇侍は今は本堂の御影堂に移されている。この塔は1634年に徳川秀忠を追悼するために建てられた現存する金戒光明寺の中では古い建造物の一つである。この三重塔は黒谷の丘陵では最も高い所に位置し、市内が一望出来る。天気の良い澄み渡った日には新しく建てられた大阪・あべのハルカスの高層ビルを遠くにはっきりと見ることが出来る。

 

アフロ石仏    (アフロ石仏の写真は巻頭の目次の後に掲載)三重塔から西の方向に石段が続いており、これを歩むと本堂の御影堂に到着する。その石段を降り切る少し手前の右手に『黒い出来そこないの、イチゴのようなぶつぶつとした、グロテスクな石の塊』が見える。前に廻って覗き込むと、すまし顔で坐する如来様である。これが有名な黒谷の「アフロ石仏」こと、五刧思惟阿弥陀如来像(ごこうしいあみだにょらいぞう)である。なぜこのような仏像が彫られるようになったのかという話を紐解くと、仏教世界の気の遠くなるような話がある。あまりに長い時間を修行したため、気が付けば頭髪は伸び放題で、螺髪(らほつ)が、このように大きなサイケデリックな髪形になってしまったという。

 

「無量寿経」 の説くところによると、『阿弥陀仏は世の中、全ての者を救うべく四十八の願いを立てて修行に入られた。その修行期間は五劫に及んだ。』とされる。劫(こう)とは時間の単位で、一劫は「四十里立方の大岩に天女が三年に一度舞い降りて羽衣で撫で、その岩が無くなるまでの長い時間」という気の遠くなる想像を絶した時間単位であり、計算するとその時間は、一劫=43億年との事である。「苔生すまぁーで・・・」と、どこかの国では歌われているが、それをはるかに越えた時間が仏教世界にはある。

 

奈良・東大寺の勧進所にも五劫像があるが、屋内で大切に秘仏として扱われている。ここ黒谷の五劫さまは、屋外で四季折々の変化や、日照り、雨露を全身で受け止められる。「アフロ石仏」というワイルドな名前がぴったりだ。(落語、「寿限無」のなかに「五劫のすりきれ」という長い名前が出てくるが、五劫の正確な意味がやっとわかった。)

 

本堂    御影堂(本堂)に着いた。静寂の本堂の中に入る。この建物は火災で一度は焼失したが、戦時中の昭和19年(1944年)に再建された。中の調度品などはまだ見るからに新しい。内陣の正面には宗祖法然上人が75歳の時の御影(座像)が祀られている。獅子に乗る文殊菩薩像は元々、三重塔に祀られていたものであるが、御影堂に移された。

http://cdn.jalan.jp/jalan/img/0/spot/0010/KL/26103ag2130010591_1.jpg

金戒光明寺納骨堂平成20年(2008年)は法然上人の八百年大遠忌であったが、この時、文殊菩薩像はこれまでに傷んだ個所が修復され、新たに左脇に須弥壇が設けられそこに祀られている。今を時めく、伊藤若冲の「群鶏図」屏風や、虎の襖絵も、良く知られている。本堂の横にある「紫雲の庭」は枯山水と白砂と杉苔がいい調和で植わっている。やはりベストシーズンは秋の紅葉期のようであるが、この期間以外でも落ち着いた庭の風情は京都の風情を感じさせる、素晴らしい庭だと思う。

 

阿弥陀堂、納骨堂    本堂を出て左手に阿弥陀堂がある。それほど大きくはないが、慶長十年(1605年)豊臣秀頼により再建されたもので、当山で最も古い建物とされる。本尊は阿弥陀如来であり、如来の腹中に一代彫刻の使用器具が納められてあることから「おとめの如来」と呼ばれている。御影堂の正面に、以前は経蔵であった二層の建物が法然上人の八百年大遠忌の記念事業として平成23年(2011年)に、納骨堂として新たに生まれ変わった。まだピカピカの金色に輝く阿弥陀如来像は納骨された骨で組まれているという。浄土宗の家系の私の父・母・兄はここでねむっている。いずれ私も行くところである。

 金戒光明寺山門埋め込み画像 8

(金戒光明寺・山門)

山門と塔頭群    最後に残ったのが、寺の玄関である山門である。別に寺の格は山門の大きさや造形によって決まるものではないが、我々、凡人にはその威容はみた眼で判断できるだけに、どうしても較べてみたくなるものである。京都での私の個人的な基準では、一位が知恩院、二位が南禅寺、三位がここ金戒光明寺の山門である。他にも、仁和寺、妙心寺、東福寺、、等のほか、立派な山門がいくつもあるが、あくまでもこれは個人的な好みである。

 

この山門は応仁の乱で一度完全に焼失したが、万延元年(1860年)に再建され、正面には後小松天皇の「浄土真宗最初門」の扁額がかかる。楼上には、釈迦三尊像、十六羅漢像が安置され、天井には「蟠龍図」が描かれているという。普段は入場できないが、秋の紅葉の季節には公開されるというから、是非一度見ておかなければならない。

最後になったが、金戒光明寺の本堂の西側一帯に山内塔頭が全部で十八ヶ寺ある。これまで特に塔頭を意識することはなかったが、幕末期に京都守護職が千名の兵を引き連れて上洛した時、これらの塔頭は兵士の宿舎として利用されたのだろうか? また、新選組はどこかの塔頭を占拠して、武闘訓練をしたのだろうか? もしそうだとしたら、潤沢な塔頭の存在が、お寺の命運を左右した一因なのであろう。

 

利用した交通:京都駅から市営地下鉄で今出川駅へ(約12分)。今出川駅から京都御所は徒歩で往復。烏丸今出川バス停から市バス(201系統)で京大正門前へ(約10分)。京都大学吉田神社真如堂金戒光明寺は徒歩で約2.5キロメートル。岡崎道バス停から市バス(100号系統)で京都駅へ(約30分)。

先頭に戻る


 

18回:宇治上神社(うじがみじんじゃ)         0727日(2015年)

http://www.kyoto-uji-kankou.or.jp/others/spot/ujibashi2.jpg宇治川&宇治   JR宇治駅から駅前通りを500メートル程進むと宇治川に当たる。そこに架かる橋が宇治橋である。宇治川の上流には日本最大の琵琶湖があり、流れは早く、水量は常に豊富で、近畿の他の河川とは異なった趣である。宇治橋は646年(大化2年)に奈良・元興寺の僧・道登(どうと)によって初めて架けられたと伝えられるわが国最古級の橋で、古今和歌集、源氏物語、平家物語の「宇治橋の合戦」などにも登場する、京都奈良を結ぶ基幹街道を結ぶ交通の要所である。

 

現在の橋は1996年に新しく建造されたもので、橋桁は頑丈なコンクリート製であるが、ヒノキ造りの高欄は昔の面影を保つ。上流側に張り出した独特の造りは「三の間」と呼ばれ、秀吉が茶の湯に使う水を汲ませたところである。今も、茶まつりや、初釜にはここで汲んだ水が使われる。ここからの眺めは、観光都市・宇治が誇る自慢の絶景である。

京都・宇治橋 

 

最小規模の世界文化遺産    宇治川の右岸道を上流に少し歩くと三叉路に出会う。そこで川を離れて、ゆるい坂をしばらく歩むと、「世界文化遺産・宇治上神社」と大書した石碑が建つ。これは世界文化遺産に認定(1994年)されて、しばらくしてから建立されたものである。宇治上神社は、京都の世界文化遺産の中では最も規模の小さいもので、本殿と拝殿(いずれも国宝)が緑深い木立に囲まれて建っているだけである。藤原頼通が平等院を建築する際に、地元にあった離宮社を宇治川の対岸に移動し、平等院の守護神として宇治上神社を定めたといわれるから、ここ宇治上神社は宇治のもう一つの世界文化遺産・平等院とペアで認定されたと考えてもいいのではないだろうか。

  の画像

本殿は最奥の階段の壇上に位置し、神社建築として日本最古の遺構である。その建築年代は、年輪測定法で藤原時代の1060年と判定された。この建屋の中には三社が内殿として治められており、約千年も持ちこたえたのは、雨が入りにくい大きな屋根(覆屋)構造によると言われる。また、本殿の手前にある拝殿は同じく1215年と判定されている。この拝殿は神社建築様式をとっているが、当時の住宅建築を推量する上で注目される寝殿造りの建物である。直線的で横長の檜皮葺の屋根が特に印象的である。

 

http://www.marutake-ebisu.com/ns/img/ujigami-jinjya01.jpg宇治上神社本殿  本殿の左右には香椎社、住吉社、厳島社、稲荷社の末社が祀られ、参拝する人の信仰を支えている。社殿の右手前に桐原水と呼ばれる祠があり、中ではこんこんと清水が湧き出ている。この水は、宇治が宇治茶で名が知られるようになって以来、「宇治七名水」の一つとされたが、今、現存するのはここの名水のみという貴重なものである。世界文化遺産に認定されてから、これまでほとんど人には知られていなかったこの小さいけれども古い社が、一躍脚光を浴びるようになって訪れる人も増えた。ところで、私はうん十年前、この拝殿で静かに結婚式を挙げた。その当時から、拝殿も国宝であったが、その後、この拝殿がこんな展開になるのは、全くの想定外であった。(右:本殿、左:拝殿)

先頭に戻る


 

平等院(びょうどういん)

次の目的地は、最近、本格的な改修を終えた名勝・平等院である。しかし、宇治上神社から塔の島を経て平等院に至るアプローチには、どうしても触れておかねばなるまい。

あんずさんの宇治神社前ポケットパークへの投稿写真4

http://www.kyoto-uji-kankou.or.jp/others/spot/13ju.jpg宇治神社の兎    宇治上神社を出て、すぐ下手にある宇治神社も古い由緒ある神社で、鎌倉期に創建された。境内の広さは宇治上神社よりも数倍広い。言い伝えによると、道に迷われた神官の前に一匹のウサギが現われ、正しい帰路を振り返りながら導いた。このウサギは道に適った正しい行いを人に教える神様のお使いとされ、後の世に、「みかえり兎」と呼ばれ宇治神社のシンボルとなった。ウサギの示す道、「莵道(とどう)」は、この付近の地名として今も存在する。

 

宇治神社を出て川沿いの道を歩くと、向こう岸の宇治公園(塔の島)に架かった朝霧橋(歩道橋)が見える。一直線に伸びる朱色の欄干の橋である。橋の真ん中で下を覗くと、目も眩まんばかりの急流である。この橋は観光用に1972年に新しく架けられた。この橋のお蔭で、宇治川の右岸と左岸は本当に近くなったし、二大観光名所の平等院と宇治上神社が歩いて通える距離になった。両社寺が世界文化遺産に選定された理由の一つには、おそらく現地調査がされたであろうから、この橋の貢献があったかもしれない。

 

鵜飼い漁、十三重塔    塔の島は宇治川にある中の島である。流れの穏やかな左岸には、数艘の屋形船が岸につながれている。ここは宇治川鵜飼いの地で、季節になると夕方から夜にかけて、松明を灯して鵜飼い漁が行われる。この鵜達であるが、観光シーズン以外は塔の島の鳥小屋を棲家としており、我々を迎えてくれる。鵜も猛禽類なのであろう。近くで見ると眼光鋭く、くちばしの形状も攻撃的に見える。

 

塔の島の歴史的な史跡としては、宇治川先陣の碑や、十三重塔がある。十三重塔は高さ約15mの国内最大級の石塔で、鎌倉時代後期の1286年に西大寺の僧・叡尊により建立された。この塔は漁業の盛んであったこの地に網代や漁具を埋め、魚霊の供養と、宇治橋の安全を祈ってきた。

 

この世のおわり・・   平等院に入場する。誰もが知る、日本国の十円銅貨に刻印された平等院鳳凰堂で知られる阿弥陀堂(国宝)がある。日本の数ある寺院建築の中で、どの角度から見ても、最もバランスのとれた建物である。平等院は1052年(永承7年)、藤原時代の中期に、時の関白藤原頼道が、父道長の別荘跡を改装して寺院としたのが始まりである。この時代は釈迦入滅から2000年がたち、これを一つの時代の終わりと考える末法思想が人々、特に貴族階級に蔓延していった。疫病が流行し、飢えや病で行き倒れた人達を犬や鳥が食い荒らす悲惨を目の前にして、増々の厭世思想と仏教への傾斜が拍車をかけた。

 

完璧なる浄土世界    頼道の平等院が完成したのは正に釈迦入滅の2000年目の年、1052年であった。彼等が夢に見た現世での極楽浄土の完成である。2.5メートルの高さの本尊の阿弥陀如来像(国宝)は東を向いて坐し、その周囲には52体の楽器を手にした透かし彫りの雲中供養菩薩(すべて国宝)が壁一面に懸架されている。阿弥陀如来坐像の背後の光背や、頭上に飾られた天蓋の超極細細工はとても人が作ったものとは思えない。この他にも、四囲の壁や、板扉に極楽浄土の極彩色の絵(国宝)が描かれており、装飾的要素の非常に多い建物である。これぞ、頼道たちが夢に見て願った極楽浄土の立体的な表現ではなかったか。ものすごい集中力と執念の結晶である。平等院は、天台宗と浄土宗を兼ねたが、現在は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院である。

 

  今、我々が目にする鳳凰堂は平等院全体のほんの一部で、平等院境内古図によると、創建された当時は金堂、講堂、五重塔、三重塔、法華堂、宝蔵、釣殿、鐘楼、大門など、本格的な伽藍建築が揃っていたらしい。平等院全体は、我々が想像を絶する規模であったことは確かなようだ。しかしながら、この地は宇治川の南岸に位置し、交通上、軍事上の防衛線として極めて重要であった。そのため、繰り返し、繰り返し、戦禍を浴びることになり、様々な戦記文学に度々登場するのは悲痛である。

 

http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2008_early_summer_02.jpg  平等院の境内にある阿字池、藤棚、頼政の墓、鐘楼、そして美術品の宝物展示館である鳳翔館など、総てが一見の価値のあるものだ。今回の京旅は7月末の盛夏だったので、クーラーの効いた鳳翔館は実に快適だった。展示物の紹介も工夫されていて近い距離で見ることが出来る。我々現代人は少しの暑さにもすぐに音をあげる。弱くなったものだ。

 

平等院の他にも・・    今回は、裏門から入苑し、通常の平等院参拝とは逆の歩き方になった。表門を出ると参道が続き、平等院通りには瀟洒なみやげ物店、飲食店、お茶屋さんなどが軒を並べている。宇治橋からJR宇治駅に至る宇治橋通りにも、お茶のかんばやし、中村藤吉本店、福寿園宇治喫茶館など人気の店が並んでいる。土産話の一つに立ち寄られては。宇治にはこの他にも、黄檗山万福寺、三室戸寺、興聖寺など、見て戴きたいものは沢山あるが、これくらいで我が町・宇治の紹介を終わることにする。

 

利用した交通:京都駅からJRみやこ路線で宇治駅下車(みやこ路快速で約20分、各駅停車で約30分)。JR宇治駅宇治上神社塔の島平等院→JR宇治駅と徒歩で、全行程は約3キロメートル。帰路は往路と同じJR 線で京都駅に戻る。

先頭に戻る


 

19回:醍醐寺(だいごじ)                0921日(2015年)

http://guide.jr-odekake.net/spot/173/image/no/1/size/10http://www.jisyameguri.com/images/20140726-panf01.jpg  醍醐寺は上醍醐、下醍醐と二つの地域からなる、その総面積は200万坪(660ヘクタール)以上とその敷地は広く、京都でも有数の大寺院である。醍醐という場所は京都盆地からひと山向こうの山科盆地の南にある。ここは観光客には少し不便なところである。しかし、この寺は美しい庭園、歴史的建造物、そして、国宝、重要文化財の宝庫である。桜の季節には、秀吉には最後の遊興となった「醍醐の花見」に多くの人が訪れるが、その時以外は、境内は閑散としており、静かで落ち着いた寺である。

 

醍醐寺は、もともと醍醐山(高さ453メートル)の山頂付近の上醍醐域に五大堂、開山堂、薬師堂(国宝)、清滝宮拝殿(国宝)などが創建されたのが醍醐信仰のはじまりとされる(876年)。その後、約50年たって、上醍醐から徒歩で約1時間下った下醍醐に、金堂(国宝)、大講堂、五重塔(国宝)、三宝院などの第二番目の伽藍が順次建設された(926年)。上・下醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山であり、本尊は薬師如来である。

 

醍醐の由来    さて、醍醐は後醍醐天皇等の名前などで、中学生でも読むことが出来る言葉ではあるが、その意味するところは広辞苑によると、「乳を精製して得られる最も美味なるもの。黄金色をしたオイル様のものとも言われる。仏教の最高真理にたとえられる。」とある。また、深い味わいを表す「醍醐味」は同じく「醍醐のような最上の教え。天台宗で五時教の第5、法華涅槃時をいう。」とある。どうも醍醐は、深い真理を表現する深淵な言葉らしい。

 

http://www.kyotodeasobo.com/art/houmotsukan/assets_c/2011/01/yakusinyorai_daigoji-thumb-220xauto-3393.jpghttp://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2009_spring.jpg大花見会    「秀吉の醍醐の花見」は、醍醐寺を象徴する一大エポックである。醍醐の花見は慶長3年(1598年)の春に行われた。それはどういう時代だったかを見ると、花見の二年前の慶長元年7月には、京都を慶長大地震が襲い、築城間もない伏見城はほぼ崩壊状態、方広寺の大仏も崩れ落ちて修理に手が回らない状況であった。さらに慶長二年の冬には朝鮮出兵作戦が失敗に終わり、秀吉の下には敗戦濃厚の報が耳に届いていた。

 

そして慶長3年を迎えるわけであるが、2月初めに醍醐寺にやって来て、秀吉は「今年の花見はここでやる!」と宣言した。慌てたのは取り巻きである。急遽、近畿各地から700本の桜の木を集めて、境内の各所に植えた。また、客人接待と盛大な宴の為に、金剛輪寺(今の三宝院)の周囲に立派な「間」をいくつも建設した。併せて、今も残る、表書院、宸殿、庫裏、唐門など豪華な建物をほんの少しの期間で建築した。秀吉と言えば、姫路城、大阪城、和歌山城、伏見城、長浜城、小田原城、、、、と短期間に大きな城を築く早業の名人であったから、この程度の突貫工事は手慣れたものだったのであろう。

 

しかし、何という技術と気合か!! 当時の人間の方が、現代人よりもパフォーマンスが良かったに違いないと、感心せずにはいられない。かくして、醍醐の花見は大盛況に終わり、今、我々が目にするのは後年に描かれた金ピカの 『醍醐花見図屏風』(国立歴史民族博物館蔵)である。そして、彼はこの年の8月に63歳で病死する。「生者必滅、会者定離」の無常を感じる。

 

国宝・重文展    二年前、2014年の夏に奈良国立博物館で、「国宝・醍醐寺のすべて」と題する醍醐寺文書聖教7万点・国宝指定記念特別展があった。醍醐寺でもほとんど見ることない多くの国宝、その他が出展展示された。全部で7つのテーマがあり、第1章:醍醐寺の成り立ち(理源大師聖堂)、第2章:密教寺院の姿、第3章:密教の祈り(修法と本尊画像)、第4章:白描図像の世界、第5章:受け継がれる教え(三宝院流の相承)、第6章:醍醐寺と修験道、第7章:繁栄の歴史(秀吉と「醍醐の花見」)であった。

 

この特別展開催の少し前に、上醍醐寺に祀られ、今回、山から初めて降りる五大明王を人力で運びだす運送会社の美術品輸送班の人達のまさに神経をすり減らす作業が放映された。山に登らなくても目の前に五大明王の一列に並ぶ姿が拝察できること、またこれまで門外不出であった寺宝で本尊の薬師如来坐像と両脇侍の登場も極めて魅力的であり、大いなる期待をもって奈良に向かったものである。

 

醍醐寺 五大明王像http://www5a.biglobe.ne.jp/~kazu_san/200904070062.jpg  展示品保護の為に照度を落とした薄暗い室内には、多くの仏典、図録、仏画が展示されていた。本尊の薬師如来坐像は176センチメートルの高さであり、平安時代の前期に造られた漆塗りの木造一木造りである。胸やひざの部分は多少黒ずんでいるが光背や、蓮花にはしっかりと金色が残っている。よくもここまで保存されて来たものである。今回の特別展の圧巻は、やはり山を下りた五大明王立像群である。それぞれが最大級の怒りの表情を持ち、悪霊に立ち向かう勇姿を見せている。

 

今回、上醍醐寺の五大堂に祀られていたが、特別展の後は、より管理条件のいい、下醍醐に祀られるようである。製作年代は江戸期のものが多いが、大威徳明王像は平安期の作と言われる。(左から大威徳明王、軍荼利明王、不動明王、降三世明王、金剛夜叉明王)

 

醍醐寺の桜と五重塔  醍醐寺を折角、訪ねたのであるから、その建造物についても触れないわけにはゆかない。醍醐寺には余りに多くの歴史的な建造物があるが、ここでは金堂と五重塔に関して記すことにする。

 

力比べ    醍醐寺の西大門(仁王門)をくぐると右方に鐘楼、その奥に五重塔が、正面には大屋根の朱色の柱、白壁、そして緑色鮮やかな連子窓の金堂が見える。この建物は醍醐天皇の時代・延長4年(926年)に創建された建物である。創建当時は釈迦堂と呼ばれたが、二度焼失した。現在の金堂は豊臣秀吉によって紀州の湯浅から移築され、秀頼の時代、慶長5年(1600年)(秀吉の死の3年後)に完成した。この金堂は、醍醐寺の中心のお堂であり、広い空間の中に、薬師如来坐像(醍醐寺の本尊)と脇侍である日光・月光菩薩が祀られている。平安初期を代表する檀像彫刻を模した鎌倉初期の復古を意識した作品と言われる。

 

薬師三尊の左右には、四方を守る四天王立像(平安時代)が配されている。醍醐寺の主な行事はここで執り行われる。たとえば、毎年223日には、「五大力さん」という厄除祭が開催され、金堂の前の広場での護摩法要や、男、女がそれぞれ、15090キログラムの鏡餅をどれだけの時間(秒数)持ちあげることが出来るかを競う。その力を奉納し、無病息災、身体堅固を願うものである。これを毎年のTVニュースで、「ああ、今年もやっているなあ――」との思いで見る。数秒間も持ちこたえる自信のない私には参加の資格はない。

 

 

五重塔    次に、五重塔である。醍醐寺に五重塔がある事は知っていたが、しっかりとそばで見る機会はなかった。法隆寺、興福寺、そして東寺の五重塔を何回も鑑賞した眼には、正直言って、醍醐寺の五重塔には違和感を覚える。醍醐天皇の冥福を祈るために、その子である村上天皇の時代(951年)五重塔は完成した。京都府下で最も古い木造建築物である。初層内部には両界曼荼羅図や真言八祖像が描かれており、日本の最初の密教絵画である。

 

この絵画は塔とは独立して国宝に指定されている貴重なものらしい。塔の高さは約38メートルで、屋根の上の相輪は実に13メートルもあり、相輪が塔全体の1/3を占める。一見、安定しているように見えるが、塔頂の上にあまりにも大きい相輪を乗せているのではないかとの違和感を私は持ってしまう。五重塔の屋根面積の逓減率が上層と下層であまり変わらない事、また、白壁の五重塔も他であまり見かけたことがないため、つい違和感を持って見てしまう。これは醍醐寺の塔が、他に比べて劣るという事では決してなく、五重塔にも様々な建築様式があり、様式の違いで印象が随分と変わるのだという事を言いたい。

 

利用した交通:京都駅からJRみやこ路線(奈良線)で六地蔵駅下車(みやこ路快速で約15分、各駅停車で約20分)。JR六地蔵バス停から22、または22A 系統のバスに乗車、醍醐寺前まで(約15分)。復路は往路の逆行。

先頭に戻る


 

20回:三千院(さんぜんいん)              1130日(2015年)

 京都 大原 三千院 恋に疲れた女がひとり・・・・

(作詞:永六輔、作曲:いずみたく、歌:デューク・エイセス)。 ご存知、「女ひとり」は昭和40年(1965年)、全国https://d3ftecjsng6jy5.cloudfront.net/images/topic/1433/content/0621b86e0cf744b4aaf90307dd9433221a8c036d_p.jpeg的にヒットした。それまでは、京都人には知られた京都・大原・三千院であったが、一気にメジャー・デビューすることになった。学生時代、私はワンダー・フォーゲル部に属し、週末は琵琶湖湖西の比良山系で過ごした。比良山へはいつも大原を経由して行ったが、そこは私にとっては、単なる通過点でしかなかった。大原に三千院や寂光院がある事は知っていたが、それは「女ひとり」の歌詞からの知恵であり、私が実際、それらの寺院を訪れたのは学生時代から約20年を経てのことであった。

 http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2008_autumn.jpg

観光客・・・    今、大原に出かけても、「女ひとり」を見つけるのは至難の業である。いつも、観光客で大賑わいである。特に、春、秋の混雑はすごい。この地域に入るにはバスの便しかないために、ひとたび大原の入り口である八瀬や修学院あたりで交通渋滞があれば、大変な余波がこのあたりを襲う。静かな大原は2月か、12月に限るというのは私の持論である。今回の大原訪問は、晩秋の最後の紅葉鑑賞の時期であるが、月曜日のため、人の大波に呑まれることはなかった。

 

https://d3ftecjsng6jy5.cloudfront.net/images/topic/1433/content/61dea0b32fbb338f3b4b5973b6be503545613dfa_p.jpeg  大原のバス停から三千院の御殿門まで、小川沿いにみやげ物を売る賑やかな店が立ち並んでいる。門に着くと、大きな石段がある。院内に入る。最初が庫裏、客殿、宸殿(本尊:薬師瑠璃光如来)である。ここは額縁庭園(聚碧園)として有名で、赤い毛氈に座して、庭の植栽をながめる。ここでは樹齢700年以上の五葉松が見ものである。そして、庭を眺めている間、録音された声明(僧集団が唱和する仏教音楽)が聞こえてくる。ここは比叡山の流れをくむ天台宗のお寺である。早朝なり、薄暮にひとり縁に佇み、声明を聴けば心の中に何かが芽生えそうな気もするが、今、周囲にはスマホでカシャ、カシャと写真を撮るのに熱心な人達が通りすぎてゆくので、とても「静」を楽しむ環境はない。残念だが仕方がない。

 

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/d3/154ff39bc98c292921d68a9c5b338473.jpghttp://lapizlazuri.net/070715sanzenin.jpg苔の美    宝泉院を出て、三千院の大きな庭に出る。苔と、頭に苔をまとった小仏、それに大きな檜が素晴らしい景観を造りだしている。京都の庭でももっとも、典型的な苔庭である。ここでは苔と小仏達が主人公である。昔、ここを訪れた時に、庭師数人が苔の養生をしている現場に遭遇したことがある。苔を痛めない様に底の分厚い地下足袋のようなものを履き、それこそ苔の間に生えて来る望まない種類の苔や、小さな雑草、落ち葉などをそれこそ、ピンセットで丁寧に掃除していた。じ〜っとしゃがみ込んでの気の遠くなるような作業に感心した。苔の養生は難しいとは聞いていたが、このような庭師の努力で一見自然に見える、美しい人工の苔庭を見ることが出来るのだ。三千院ほど苔を大事に養生している庭は他にあるだろうか?

 

極楽浄土院    その庭のほぼ中央に、極楽浄土院(重文)がある。相当に古いお堂に見えるが、このお堂は船をさかさまにした形の天井(舟底天井)があり、その須弥壇には阿弥陀三尊像が祀られている。これら三尊像は平安時代を代表するもので、国宝に指定されている。院の中に入った。そこにおられた住職とお話をする事が出来たが、今となってはこれら三尊が誰によって彫られたのかは分からないという事であった。

 

真ん中に阿弥陀如来坐像(高さ2.3メートル、結跏跌坐(胡座すわり))、そして右手に勢至菩薩坐像(正座!)、左手に観音菩薩坐像(正座!)が祀られている。もし、仏像の解体修理でも行われたら、胎内から製作者の名を刻んだ何かが出てくるかもしれないが、今はこのまま静かにされていた方がよいと思う。浄土院の扉を開け放つと、庭にいる我々から阿弥陀三尊の全身を拝むことが出来るが、三尊様もまた間近に苔庭を見ることが出来る。冬は雪が多くて寒くて大変だろうが、幸せな三尊様かもしれない。

 

三千院は、最澄の時代に比叡山に建立された円融房が起源である。その後、何回も移転を繰り返し、明治になって(明治4年)に現在地に移った。一方、今の往生極楽院(旧称・極楽院)は、平安時代末期から大原の地に阿弥陀堂として存続していたが、明治時代に滋賀・坂本から三千院の本坊がこの地に移転した時に、その境内に取り込まれたという、複雑な経緯がある。

 

また、大原の里は、古くから公家、貴族や佛教修行者が都を離れて隠棲する場であった。大原の隠遁史を丁寧に紐解けば、都人の公家たちの葛藤の心情が読み解けるように思う。「平家物語」の大原御幸に書かれた世界である。

先頭に戻る



 

寂光院(じゃっこういん)

http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/1995_spring_05.jpghttp://www.jakkoin.jp/image/rekishi/honzon.jpg  三千院から寂光院へは大原盆地の山麓を歩く。三千院は東の山麓に、寂光院は西に位置する。道すがら考えた。寂光院という庵がこの地に初めて結ばれた時、そのころの周囲の風景はどのようなものだったか。今、寂光院に向かう小川沿いの参道の両側には商店や民家が並んでいる。しかし、当時は、庵への道すがら、そのような建物などはなく、大原の小さな盆地はまるまる見通しだったのではないだろうか。この盆地も今は米や野菜の耕作地であるが、当時は一面が萱の原で、おもわず寂しさがこみあげてくるような場所ではなかったか?

 

火事    そのような古の風景を思うと、谷筋の奥に位置する寂光院という名前の庵は隠遁生活を送る人にとって、格好の隠れ家ではなかったか。門前に着くと、粗い石で積み上げた石段が上に続く。段上まで登り切るとそこには簡単な山門があり、目の前は新たに建てられた本堂である。「新たに・・」 と書いたのは、2000年(平成12年)5月の未明に、寂光院本堂から出火、本堂は全焼したのだ。併せて、本堂内の国の重要文化財の本尊と健礼門院像・阿波の内侍像も消失した。石油を使った放火らしいが、今に至って犯人も動機も未解決であるが、2007年に、すでに時効を迎えた事件である。「けしからん!!」の一喝だ。今回、訪ねて見てわかったが、谷間の水利の極めて悪いところである。おまけに、消防車が行き交うような道幅もない。消火鎮圧はさぞかし、難渋したことと思う。

 

http://www.jakkoin.jp/image/rekishi/kenreimonin.jpg歴代の住持たち    寂光院は天台宗の尼寺である。その歴史は古く、推古2年(594年)に、聖徳太子が父である用明天皇を弔うために建立したとされる。本尊は、聖徳太子が祀られた六万体地蔵尊であったが、火災によって焼失した。現在あるのは、鎌倉時代の技法に則って模刻された本尊地蔵菩薩像を、六万体地蔵尊として本堂に安置したものである。代々、尼僧により寂光院は支えられてきているが、初代住持は聖徳太子の御乳人であった玉照姫(たまてるひめ)(慧善比丘尼)であった。

 

院は、その後、高貴な家門の姫君が法燈を守り続けてきた。その第2代の住持は阿波内侍(あわのないじ)である。出家のあと入寺し、証道比丘尼と称した。出家以前には、宮中にあった建礼門院徳子に仕え、寂光院のある草生の里では柴売りの「大原女」のモデルとなった女性とされている。

http://souda-kyoto.jp/js/spot_img/0000417_1.jpg

DSC01494寂光院 (19)  そして、第3代が有名な建礼門院徳子(平清盛の娘、高倉天皇の皇后、安徳天皇の生母)で、文治元年9月(1185年)に入寺し、真如覚比丘尼と称した。その時代の悲劇のヒロインである。壇ノ浦で滅亡した平家一門と、我が子安徳天皇の菩提を弔うために、終生をこの地で過ごした。新しく作られた建礼門院坐像は、木造、ヒノキ材の寄木造で、結跏趺坐(胡座座り)である。そういえば、三千院の勢至菩薩、観音菩薩坐像も結跏趺坐像であった。胡座すわりは大原特有の座り方なのか?! 

 

いずれにしても、ここ寂光院の彫像は全てが新調された。これらを見て、「きれい!」とか「かわゆい。」という声を聞くが、私にはやはり黒光りして時の年輪を背負った彫像の方が有難い。寂光院本院の東隣に建礼門院大原西陵(宮内庁管轄)がある。そこは長い石段を、登り切ったところにあり、大原盆地の眺望が開ける。石鳥居が石柵で囲まれた、静かな墓所である。

 

本堂新築    本堂は新品で、こじんまりとした造りである。中央には本尊の白く輝く六万体地蔵菩薩立像が祀られている。五色の糸が立像に結ばれており、それをにぎりしめて念を入れてお参りをするのが礼拝の仕方である。また、左右には第2代、第3代の住持、新しくなった阿波内侍と建礼門院が祀られている。寂光院は、それこそ三千院よりも「恋に疲れた女がひとり・・・」の舞台には似合っていると思う。しかし、そのためには全体的にもう少し古びた風情が欲しい。今はまだ、ピカピカに過ぎる。寂光院はこれから新たにその歴史を刻んでゆくことと思う。この地は川を流れる水は細く、水利はやはり心配だ。今後の完璧な防火対策が望まれる。

 

利用した交通:京都駅から市営地下鉄で国際会館へ(20分)。京都バスで大原・古出石行き(19系統)に乗車(約30分)、大原下車(350円)。大原バス停から三千院へは徒歩10分。寂光院へはバス停から徒歩20分。復路は往路の逆行。京都バスが京都駅から大原までの直行バス(1718系統)を運行するが、時間がかかる(7080分程度)(550円)。

先頭に戻る


 

21回:仙洞御所(せんとうごしょ)            0204日(2016年)

http://www.kakae.sakura.ne.jp/machinami/sentogosho/sentogosho01.jpg  二月初旬の京都は最も寒い季節であるが、今日は京都の宮内庁施設二か所を続けて参観する。先ずは京都御苑内にある仙洞御所である。紫宸殿のある京都御所は、春・秋の一般公開もあり、TVなどでの報道の機会は多い。

仙洞御所略図

隠居皇族の住処   しかし、京都御所の南東にある仙洞御所は一般公開されることはなく、馴染みは薄い。この区域は京都大宮御所と、池や庭の仙洞御所からなる。現在の皇族が京都に宿泊されるときは、京都大宮御所が使われるし、海外からの皇室関係の賓客を京都でおもてなしする場合も、ここ京都大宮御所と仙洞御所が使われる。建物の外観は立派な御殿建築であるが、内部は大正年間に洋式のライフスタイルで過ごせるように改装されている。今日の参観は京都大宮御所の車寄せなどの玄関部分と、皇族方が庭遊びに興じられる仙洞御所の池泉回遊式庭園をゆっくりと参観する。

 

参観に当たっては、先導のガイド役と、最後列にはやはり皇宮警察官が一名付いた。我々一行は25名ぐらいであった。午前11時が参観開始時間であり、その前に参加登録の確認を済ませ、参観者休所で出発時間を待った。今回のガイド役は男性であり、最初に入苑の諸注意があったが、桂離宮、京都御所と同じ趣旨である。このガイドさんは五十路を少し超えた位の方で、ユーモアのツボを心得た歯切れのよい解説で、時には苦笑を誘うなど、ウイットに富んだものであった。一言も聞き逃すまいと参観の間、耳をそばだてた。

http://www.kakae.sakura.ne.jp/machinami/sentogosho/sentogosho03.jpg

http://www.kakae.sakura.ne.jp/machinami/sentogosho/sentogosho04.jpg  出発しての最初は大宮御所の車寄せなど、玄関に相当する場所である。その奥には住まいの御常御殿が見えるが、その屋根は切妻型が幾重にも重なった複雑な形状であり、車寄せの玄関にあたる部分の屋根は唐破風であった。正確な形状は覚えていないが、何となく二条城の二の丸御殿の玄関と似た作りであった。見学者は我々一行だけであり、わずかな時間だけでもこのような高貴な場所を独占する気分はなかなかのものである。松、竹、紅梅、白梅の植えられた南庭を通過して、木戸をくぐり抜けて仙洞御所域に入る。

http://www.kakae.sakura.ne.jp/machinami/sentogosho/sentogosho05.jpg

http://www.kakae.sakura.ne.jp/machinami/sentogosho/sentogosho17.jpghttp://www.kakae.sakura.ne.jp/machinami/sentogosho/sentogosho08.jpg  「仙洞」という言葉は、聞きなれないが、「上皇の御所。院の御所。かすみのほら。」を意味し、政務を終えられた上皇が余生を過ごされる場所の意味である。上の仙洞御所の略図をよく見ると、きっちりとした長方形でないのは、少々、気になるところである。実際、グーグルの航空写真を見ても、敷地は長方形には見えない。ひし形とまではいかないが、ひし形前期状態である。京都御苑の成立史を紐解けば何かが見えてくるのであろうか。

 

北池    最初、左手に見えるのは又新亭(ゆうしんてい)という名の茶室である。近衛家から明治年間に献上された。目の前に北池が広がっている。北池の周りを時計方向に周遊する。最初に渡る石橋の辺りを阿古瀬淵(あこせがぶち)と呼ぶ。名前の由来は、かつて、このあたりに平安時代の歌人紀貫之の邸宅があったとされることから、彼の幼名「阿古久曾(あこくそ)」 から名付けられたといわれるが定説ではない。

 

通路は大きな敷石と、小さな敷石が不規則に敷き詰められており、その変化が楽しい。スニーカーだと歩けるが、ハイヒールでの歩行は少々危険である。小半島のうぐいすの森から、北池と南池の境にかかる紅葉橋を渡る。写真で見ると、このあたり紅葉期には本当に真っ赤に染まっている様子である。

 

南池    南池に入る。南池は真ん中に中島が点在する。中島に渡る橋(八つ橋)はやや幅広になっており、その橋の両側は藤棚で覆われている。中島を経由して対岸に渡るが、橋は丸みを帯びたり、反った形であったりと、趣向が凝らされている。南池を周回して州浜に来ると、ここは海岸を模した造りで、この浜には楕円形のやや平たい形の揃った黒っぽい石が111千個敷き詰められている。

 

町の人にこの石一個を、この場所に運んでくると、米一升を与えたという話が残っており「一升石」ともよばれる。このようなつくりの浜は、桂離宮にも、そして京都御所にも見られたが、ここの州浜の規模は圧倒的である。

http://www.kakae.sakura.ne.jp/machinami/sentogosho/sentogosho27.jpg

南池の南の小高い丘に醒花亭(せいかてい)という茶室がある。南池をゆっくりと座して眺める構図である。書院の部分も庇が長く作られている。雨の日の鑑賞のための配慮だろうか。昔人は実に風流である。ゆっくりと歩いて約1時間余、優雅な時間を楽しむことが出来た。仙洞御所は非常に密度の濃い庭で、手入れもよく、季節の変化もうまく取り入れている。

 

この庭は一般に公開されない分、何となく秘密を知り、得をした気分だ。京都の街中にこんなところがあるとは、あまり知られていないし、日本もまだまだ捨てたものではない。最後になるが、ここ京都御苑の豊富な水は、琵琶湖疎水の水利と繋がっている。特に、明治年間以降、御苑は水の心配をすることなく、思う存分に池泉回遊式庭園の展開が出来たようである。

 

新装なった京都迎賓館の壁に沿って、御苑を今出川通りまで北上する。次は、同志社大学の学生食堂で腹ごしらえだ。昼からは京都の宮内庁施設では最後の参観となる修学院離宮に向かう。京都御所の東北にある離宮と、南西にある離宮は創りの構想を異にするというし、離宮の史的背景も異なる。まだ、私の記憶に新しい桂離宮と、修学院離宮との対比が楽しみである。

先頭に戻る


 

修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)

修学院離宮略図昔の記憶    今から20年ほど前のことである。当時、外国からの来訪者が離宮を見学したい時には、パスポートを提示すれば見学が許可された。その際、随伴の日本人も少人数なら入場することが許された。今、海外からの観光客が激増しており、宮内庁施設の参観で特権的な外国人枠が存在するのかどうかは知らないが、少なくとも当時はそういう運用がなされていた。

 

https://irs0.4sqi.net/img/general/width960/41444698_QP-LhGkNqHjqpqdkx1v0tNS_B7TG_8auMZYAyfFhvwk.jpg長年、私の研究上のライバルであり、協力者でもあった英国人の大学教授が、退官するにあたって京都に来られた。「日本の庭を見たい」という事で、修学院離宮を案内することにした。私が離宮の事情は分からないながらもお供した。参観のための来訪を告げると、兎も角も、離宮の中に入ることが出来た。

 

中は空いており、離宮の案内者もなしで、地図を片手に我々二人で広い離宮内をトボトボと歩いたのを覚えている。兎も角、広くて何に焦点をあわせて見学すればよいのか、よくわからないままに終わってしまったという印象だけが残った。20年ほど前のことである。

 

市バスを修学院離宮道で降り、山麓のゆるい坂道を15分位歩くと、修学院離宮の玄関に着いた。同行となる参観者らしい人達が門前にいたから迷う事はなかったが、閉ざされた表総門の前には「修学院離宮」を示す表示はない。ちょっとした驚きだが、周辺の状況からして、ここが離宮の表正面玄関である事は間違いない。参観出発までのしばしの時間を、休所で待機した。今回は離宮内の上り下りを含めて約3キロメートルを歩く。参観時間は1時間40分である。参観は例により、先導者(今回は若い男性職員)と最後には皇宮警察官が付いた。

 

修学院離宮は、上離宮、中離宮、下離宮の三か所に分けられるが、上離宮が最初に造られ、次いで下離宮、中離宮と続いた。この三つの離宮の間には相互の有機的な関連はなく、それぞれは独立した発想で構築された。互いを結びつけるのは一本の松並木である。上離宮が建造されたのは、八条宮家の親王父子が桂離宮(1620年ごろ完成)を建造してから約40年後のことである(上離宮の完成:1659年)。

 

修学院離宮、下離宮・御幸門天皇と幕府の確執    当時の御水尾天皇は幕府と深刻な対立関係(紫衣勅許事件など)が続き、幕府は様々な政治的意思の遂行が困難になってきた。幕府は御水尾天皇が早く天皇の地位から退任して戴くべく、隠居用の屋敷として仙洞御所の建築工事を開始した。しかし、16歳で即位した天皇は、自らの意に反して36歳の若さで天皇の地位を退き、上皇(後に法皇)になることを決して心よしとはせず反幕府感情はくすぶり続けた。新築の仙洞御所での生活が始まるが、幕府にとっては煙たくて、煩わしい上皇の気持ちをなだめるべく、上離宮(修学院山荘)の造営計画を持ちかけた。上皇はこれを受け、新しい離宮の建設に一木一草に至るまで全情熱を注いだというのが、その建設の背景である。

 

他にも様々な付随する理由があったことと思う。付け加えるに、御水尾上皇は歴代の天皇の中では、極めて長命で85歳で崩御された。この間、上離宮完工の後に、下離宮を設計・製作し、これも完工された。これらの建設に相当の幕府の資金が使われたことは言うまでもない。中離宮は、林丘寺として御水尾天皇の皇女の為に造営されたものであったが、後の明治年間になって修学院離宮の一部として編入されたものである。

 

粋人    御水尾上皇は、文芸全般に対する豊かな才能に恵まれ、寛永文化の中心として活躍された。歌学、諸学問、華道については池坊専好との深い交際があったし、茶道、香道、禅にも精通されていた。このような粋人が精魂を傾けて造ったという上離宮とはどのようなものか。古の文化に不粋な私でも興味がそそられる。目的とする上離宮の前に、順路に従ってツアーの概略を記す。

 

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/16/7908af4925bade2a122e3b3d6e30de1b.jpghttp://www.kakae.sakura.ne.jp/machinami/shugakuin/mathunamiki01.jpg下離宮    五、六段の石段の上にしっかりとした造りの御幸門がある。観音開きの戸は施錠されている。先の案内者が鍵を開けて我々を中に導く。全員の入場を確認したら、後続の皇宮警察官が、内側から御幸門を施錠した。すべての門を通過するたびに、員数確認が行われた。外部からの闖入者を防いだり、我々一行が集団からはぐれたり、無断で勝手な行動をすることを防ぐためなのであろう。

 

それだけ厳重な管理をする価値のある文化的資産である。下離宮に入る。小さな池と数部屋からなる寿月観がある。柿葺入母屋数寄屋風の入り組んだ屋根の形状である。ここは茶室にもなり、宴会場にもなり、寝室にも使える、多目的な建物である。寿月観を周回し、裏門から外に出る。

 

松並木    一気に視界が広がった。松並木が正面と右側に見えるが中離宮に向かうために、右側の松並木を歩く。松の一本、一本が丁寧に剪定され、見るからに自然風味の適正サイズの松に仕上げられている。数名の庭師が、これから手入れをする松の剪定中であった。この松並木の上下左右には広い水田跡がある。松並木以外の場所は農作地である。離宮の承認をえた近郊の農家が、これらの農地で米や野菜などを栽培しているのである。農家の人達は長年、この土地を耕し、離宮の職員ともお互いが顔なじみである。

 

ただ、農地とは言っても、ここは離宮の中にあり、農地は大事な借景の一部である。おのずと耕作、栽培には離宮庭とのバランスが要求されると思われるが、写真で見る限りにおいては、古来の農法に従い、伝統的な稲作が行われている。この耕作地は、緩やかな傾斜地で、水田が階段状に、各十枚、切られている。四季折々に変化する水田の眺望は、我々日本人には馴染みで、もっとも落ち着きを覚える風景である。その水田の風景を庭に取り込むという発想は素晴らしいと思う。

 

ここ修学院離宮は松や塀で囲まれており上・中・下離宮の総面積は全敷地の三割程度であり、残りの約七割はおもに水田である。水田が借景、そして時には主役という斬新な発想である。ここからの景色は手前に松ヶ崎の丘、正面の遠くには愛宕山などの西山連山、そして左手には、京都御苑と市街が見える。

 

中離宮    次は中離宮である。楽只軒(らくしけん)と客殿がある。粋を凝らした違い棚などの家具調度の細工や、数々の襖絵が描かれている。元々、女院御所にあった調度の多くがこの場所に移されており、全体的に優しい意匠のものが多いように感じる。一枚の板戸に大きな鯉が二匹(作者不詳)描かれているが、その鯉たちが逃げない様にと、よく見ると網掛けがしてある。この網は丸山応挙が書き加えたと伝えられている。

 

http://find-travel.cdn-dena.com/picture/articlebody/97863http://mohsho.image.coocan.jp/shugakuin11.jpg上離宮    いよいよ目指すは上離宮である。松並木を通り、上離宮の域内に入ると狭い急な石段が続き、高みの見晴らしのいいところに出る。ここにあるのが、写真に示した隣雲亭(りんうんてい)である。振り向けば眼下には浴龍池(よくりゅうち)が大きく広がっている。池の中には中の島が二つあり、手前が万松塢(ばんしょうう)、奥の島が三保ヶ島である。この池は西の方にはかなりしっかりした堰堤が造成され、この池を造るために西浜部分は相当の大掛かりな土木工事が行われたものと思う。お陰で、この傾斜地に相当の大きな池が出現した。

 

http://www.kakae.sakura.ne.jp/machinami/shugakuin/kamirikyu06.jpg絶景かな!!    隣雲亭からの浴龍池の眺めは圧巻である。下の二枚の写真は同じ場所から、違う季節に撮られたものであるが、万松塢に生える樹木と、木々の池への反射が美しい。また左手の西浜の遊歩道の両側には適当な間隔で植生がなされ、これまた西浜の遊歩道を歩くときの両側の眺望をいい感じに演出している。右手には隣雲亭と二つの中の島、そして左手には緩やかに下る傾斜地に造られた水田がある。池の向こうに遠望されるのは鞍馬山から大原に至る山々である。また左手方向には松並木で振り返った、京都西山と京都市街が一層はっきりと望まれる。

 

隣雲亭はそれこそ御水尾上皇の美意識の結晶したものかと思いきや、意外とシンプルな造りの印象である。足元の漆喰で固められたたたき石には、赤や白の丸い小石がいいアクセントで埋め込まれており、これは 「一二三石」 と呼ばれ面白い。この隣雲亭は部屋の調度を楽しむよりは、やはり眼下に展開する、まさに日本的な調和の絶景を満喫することろではないかと思う次第である。

 

池を周遊    階段を降りて、浴龍池を一周の遊歩道巡りをする。隣雲亭からは見えなかった二つの中之島に架けられた千鳥橋をはじめ、楓橋、それに土橋、船着き場などそれぞれの趣向を凝らした工作物には感嘆しかなかった。いずれも湖面への反射が素晴らしい。今日は、宮内庁の施設を二か所参観したが、いずれも案内の人が丁寧にポイントを解説してくれたから、細部まで目がゆき届いたと思う。また、今度訪れる機会がある場合にはさらに新たな発見がある事と思う。

 

利用した交通:京都駅から市営地下鉄で丸太町へ(12分)。徒歩で仙洞御所へ(5分)。仙洞御所から今出川、同志社大学へ、徒歩10分。烏丸今出川から市バス(102203系統)で銀閣寺道へ(10分)。銀閣寺道から修学院離宮道まで市バス(5系統)(7分)。バス停から修学院離宮までは徒歩約15分。帰路は修学院離宮道から市バス(5系統)で京都駅へ(約45分)。

先頭に戻る


 

22回:南禅寺(なんぜんじ)               0303日(2016年)

「絶景かな、絶景かな。

春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。

この五右衛門の目からは、値万両、万々両、・・・・」

 

大見得   ご存知! 歌舞伎「楼門五三桐(さんもんごさんのきり)」の「南禅寺三門の場」。銀の大煙管をくわえた石川五右衛門の名調子である。石川五右衛門は歴史上、実在の人物であり、数々の盗みの末、鴨川河原で1594年に油釜で煮られて刑死した。一方、これも史実であるが、南禅寺の山門が竣工したのは、五右衛門の刑死後、約30年の1628年の事である。残念ながら、あの「大見得」の名場面は創作という事http://hayakusouki.com/wp-content/uploads/2015/04/image316.jpgになる。

 

ちなみに愛すべきこの大盗賊が、どこの出身かについては諸説があり、伊賀国・遠江国・河内国・丹後国などが名乗りを上げている。地方活性化のシンボルにしようとの魂胆(!?)が見え隠れする。五右衛門の墓は京都祇園の銅閣寺・大雲院(通常は非公開・浄土宗)にある。その戒名は「融仙院良岳寿感禅定門」と随分と立派である。やはり、これも盗品か、はたまた盗作か?? それでは、南禅寺の部を開始する。

 

http://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2008_spring.jpg  南禅寺・永観堂道のバス停で下車し、約500メートルを戻って疎水のインクラインの見える交差点を東に折れ、南禅寺への参道に入る。左右にはここの名物、精進料理である湯豆腐料理を提供する立派な料亭が並んでいる。それらを横目に見てさらに進むと中門があり、その向こうに大きな三門が見える。ここが臨済宗大本山の南禅寺である(臨済宗には総本山はなく、総ての臨済宗の大きな寺は大本山を名乗る)。禅宗の数々の寺の中でも、この三門はとりわけ立派である。境内を一渡り廻って、帰る時に三門の楼上へ登ることにし、先に進む。

 

法堂    法堂は南禅寺のメインの建物である。創建当初の建物は応仁の乱で焼失し、すぐさま再建されたが明治26年にふたたび火災に見舞われ焼失した。現在見る法堂は明治の末に再再建されたものである。須弥壇の中央には釈迦如来、左右には獅子に乗る文殊菩薩、象に乗る普賢菩薩の三尊像が祀られている。天井には禅寺法堂の定番、幡龍(今尾景年画伯畢生の大作)が描かれている。いずれも歴史的には新しいものであり、立派なつくりではあるが、国宝、重要文化財の指定は受けていない。まだ、しばらくの時間を要するものと思われる。法堂を中心に南禅寺の他の建物が配置されているが、今はそのいくつかは失われているが、13の塔頭が法堂を取り囲んで配置されている。

 

http://sanpo02.lolipop.jp/sanpo/2012/kinki/1211tenjyu0211.jpghttp://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2013_autumn.jpg下賜の産物、方丈     大方丈、小方丈が法堂の奥に建てられている。方丈は禅寺においては、住持や住職の住居兼、客殿を兼ねたもので、法事やその他の催しに使用される。江戸年間であるが、天皇が亡くなられた時は清涼殿やその他の御所内の大きな建物は取り壊され、新しく建て替えられていた。その時に発生する取り壊された建物は、順次、勢力のある寺に移設された。

 

この大方丈も移設されたものであり、その由来は、寺伝によると、慶長16年(1611年)の天正年間(15731592年)に、京都御所の内裏の清涼殿であったものが移築されたものである。このような順次移築という運営方式で新たな需要と供給の関係が成り立ち、当時の江戸経済が回り、土建業、大工業などが成り立ったのであろう。それに何よりも重要なのは、天皇家と周辺の社寺の縁をしっかりと繋ぎ止める上で、絶大な効果があったものと思われる。

 

建物だけでなく、中の調度品の多くが移されたものと思われる。また、小方丈は寛永年間に伏見城の遺構が移設されたという。この建屋の間には、方丈庭園、小方丈庭園があり、いずれも名庭園との評価が高い。これらすべてを併せて、南禅寺の大・小の方丈は国宝に指定された。

 

南禅院    塔頭の一つ、法堂の南に位置する南禅院に入った。ここにはかつて亀山上皇の離宮・禅林寺殿があった。離宮は上の御所と、下の御所に分かれていたが、上の御所は弘安10年(1287年)建立され、南禅院と呼ばれた。これが南禅寺発祥の起源とされる。何度も火災に遭ったが、応仁の乱で徹底的に荒廃した。その後、徳川綱吉の母、桂昌院により南禅院は再建された。

 

池泉回遊式庭園があり、こじんまりしているが、南禅寺の奥の地で静かで落ち着いた佇まいを見せている。庭園の南の隅に廟がありそこには亀山法皇が埋葬されている。この地をこよなく愛された証である。しかし、この南禅院を取り囲んでおよそ禅寺にふさわしくないとんでもない建造物が建てられている。

 

http://sanpo02.lolipop.jp/sanpo/2012/kinki/1211nanzen2111.jpgインクライン・疎水道慨嘆    インクラインである。広辞苑によるとインクラインの説明はこうだ。「傾斜面にレールを敷き、動力または重力によって貨物や船を乗降させる一種のケーブルカー。日本では琵琶湖疎水の京都蹴上にあったものが有名」。明治年間に、インクラインが南禅寺のごく近傍に付設され、あわせて京都市内に琵琶湖の水を通す一大疎水道計画が起案された。そして、何んと、その疎水道が南禅寺の境内の真ん中に、古代ローマの水道橋を思わせる、重厚なレンガ造りのアーチ橋が出現することになった(「南禅寺水路閣」全長93.2メートル、高さ14メートル)。ガイドブックなどには「珍しい景色!」とか、「京都近代化のシンボル」のように紹介されている。確かに水路には今も満々と水が流れている。用水に、発電にと、かつての京都の近代化を支えて来たものなのであろう。今や、京都市の史跡にも指定されており、観光の一つのスポットになっている。しかし、しかし、これはあり得ない建築物ではないか?という思いが脳裏をよぎった。

 

明治の中頃、廃仏毀釈の吹き荒れる時代、明治政府は水路の確保の為にプランを練った。そして起案されたのが、数百年以上も前からの京都の代表的な禅寺、南禅寺を分断する(横断する!!)レンガの水路建設である。これまでの静かな求道の禅寺が大変なことになる。当時の時代風潮や、仏教会と官憲との力関係からして、建設反対運動はあったのだろうか。結果として、喧噪の建設工事が始まり、水道橋は完成した。南禅寺にとってこれは、見方によっては屈辱的な建築物ではないか。この水路は京都市民にいくらかの恩恵を与えても、南禅寺には分断の風景以外に、何も得ることがなかったに違いない。

 

ちなみに、南禅寺紹介の公式ホームページには、インクラインの事は触れられていないし、南禅寺が発行する案内の小冊子にも、「疎水」として、ほんの数行が記されているだけである。決してインクラインを受け入れているわけではないという、静かな不同意が見てとれる。しかし、今や、観光パンフレットでは、紅葉の水道橋の写真があたかも南禅寺を代表する風景というのが、私には解せない。不同意である。

 埋め込み画像 6 (南禅寺・三門)

三門に登る    堂内を一周して、三門に戻る。靴を脱ぎ、非常に急な梯子段を、ロープの助けを借りて這いつくばるようにして登る。この三門は前述の通り、1628年に竣工されたが、藤堂高虎が大阪夏の陣に倒れた家来の菩提を弔うために再建したものである。禅宗の重量感にあふれる三門であり、特に列柱の並びの迫力は眼を見張るものがある。三門楼上には宝冠釈迦如来坐像を中心に多くの脇侍と羅漢が左右に祀られている。天井には狩野探幽らにより、鳳凰、天女の舞う姿が描かれ、完成時の極彩色の時には息をのむ美しさであったことと思う。内陣は板敷きであるが、結構の広さである。楼の外縁は周回することが出来る。

 

http://www010.upp.so-net.ne.jp/teiryu/950003.jpg西の方向は、石川五右衛門が望見した景色である。確かに、「絶景かな!!」である。西の方向には御所の森、それに平安神宮の大鳥居が手近に見える。少し北に目を転じると、吉田山、その手前に金戒光明寺の三門と本堂がこれまた近くに望まれる。秋にはここからの景色はさぞ、眩しいことであろう。

 

参道を後にして、次の目標地、平安神宮に向かう。小腹も空いて来たが、今日は湯豆腐はお預けだ。

先頭に戻る


 

平安神宮(へいあんじんぐう)

http://www.kyoto-okazaki.jp/zf/file/modelcourse/key/18/w/305/rakuchu_shashingumi_torii_.jpg平安神宮のご利益、神苑の見所、京都駅からのアクセスなどhttp://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2006_early_spr_winter.jpg  大鳥居、緑屋根の大極殿、広大な前庭、四季をいろどる周囲の神苑。絵葉書から抜け出たような、平安神宮は外国人観光客、また修学旅行生にとって最も京都を感じさせる所として、抜群の人気を誇る。周囲には岡崎公園、動物園、博物館、勧業館、図書館、音楽ホール、など様々な文化施設が整い、しかもゆったりと配置されている。

 

ネット時代の影響であろう。情報伝達の速さ・広さにおいて、最近、外国からの観光客の間では、伏見稲荷大社が京都で、いや日本で一・二位を争う人気スポットになっている。平安神宮はやや劣勢に立つようにも思われるが、実際、平安神宮を訪れてみると、やはり相変わらずの人出である。1022日、古式豊かな時代祭は、平安神宮の祭りである。

 

明治時代に創建     平安神宮は岡崎の一等地に2万坪(6.6ヘクタール)の敷地を有する。この神社は明治28年(1895年)に平安遷都1100年を記念して創建された。主祭神は平安遷都を実行した桓武天皇と、1866年に崩御された第121代の孝明天皇である。孝明天皇は近代日本の胎動期である幕末期に21年間、天皇の地位にあり明治維新の基を築いた。

 

当初の平安神宮の創建計画は、元々、内裏のあった場所(上京区下立売通土屋町付近)を中心に考えられたが、用地の確保が困難であり、https://irs1.4sqi.net/img/general/width960/t4X76gHZskJFGegxG37p3utx6qUFDWfabJKqnkoQ8fU.jpgまた本来の内裏の広さをそのまま確保することも困難との判断から、岡崎の地への計画変更、さらに内裏の規模も約半分に縮小されたという。1995年には遷都1200年と平安神宮100年を迎えたが、記憶に残る記念行事はなかった。地下鉄東西線の建設とか、京都迎賓館が建設された・・・とか言われるが、別にこれは関連の記念1200年事業とも思えない。兎も角、遷都1200年は過ぎた。

 

平安神宮苑の泰平閣官幣大社    明治期から世界大戦終了まで、国は全国の神社に近代社格制度を敷き、神社を等級化した。平安神宮はその一位である官幣大社に列格された。神社にとっては栄誉なことである。神社前には白砂を撒いた広庭があり、戦争前夜、多くの学徒が戦勝祈願をしてここから出陣していった。この事はもうほとんど忘れられている。今は、観光客集客と結婚式事業に力が入っているように見える。神社を取り囲む神苑(庭園)には様々な植物が植えられ、季節の変化に富む。また、苑の東池にかかる橋(泰平閣)は楼閣付の屋根付橋で、和風カバード・ブリッジ(「Madison郡の橋」で有名になった)である。一度は見ておく価値があると思う。

先頭に戻る


 

祇園界隈(ぎおんかいわい)

大阪と台湾台北からお越しのCHENさんカップル達http://tabinoshiori.web.fc2.com/img_main_gion/gion_main_1.jpg  今日は、これまでの京旅では何回となく前を通過した八坂神社前でバスを降りた。神社の前は、いつものごとく多くの観光客で賑わっている。先ず、四条通りを挟んで南北に通るいくつかの小路の探索である。花見小路を南に下がると、街の雰囲気が変化する。江戸時代から続いている旧家の造りの割烹店や、料亭や、お茶屋が軒を連ねて並んでいる。道を歩く人たちも周辺の非日常の街の風景を楽しむべく、左右をキョロキョロし、時にはカメラを構まえたり、と全体がゆったりと動いている。

 

はやりの着物散策    そういう人達の中で、最近、とみに目立っているのが、着物を着た若者である。よく見ると、日本人もいるが、どうも海外、それも中国、台湾、タイなどからと思われる女性が多い。歩き方(裾のさばき方)を見るとそれとわかる。中には西洋人の女性もおられるがまだまだ少数派である。それぞれの楽しみ方で、京都をエンジョイしていただくのは非常に結構なことだ。

 

十数年前にはほとんどなかった散策用のレンタル着物店が最近は非常に増えた。京都の街を歩いていてもそれらの店は散見されるが、例えば、「京都・レンタル着物」で検索するとビックリするほどのお店がヒットする。十数年前、毎年三月、女子大生が卒業の時に着用する袴や晴れ着のレンタル店があった。そのレンタル業が観光客の激増と、和装での散策が結びついたことで通年のビジネスに発展したのだ。面白い展開である。和装での街歩きには、人を誘うエキゾチックな刺激があるのであろう。

 

をどり    祇園新地甲部歌舞練場や弥栄会館はこの界隈ではひときわ目立つ大きな建物である。歌舞練場では毎年、春の都をどりのシーズンには全国から、京都らしい華やかな雰囲気を目指して、多くの観光客が押し寄せる。京都にはこの季節、先斗町では鴨川をどり、上七軒では北野をどり、宮川町では京おどり、そして祇園会館で祇園をどりと目白押しである。「をどり」と「おどり」は同じようなものに思えるが、それぞれの主催者には歴史的な因縁もあり、頑なに「を」と「お」を区別しているようだ。

 

いずれもそれぞれに趣向を凝らした演目で、それぞれの華やかさと豪華絢爛さを競う演目である。祇園コーナーあたりを散策していると、舞子さん達がポックリ下駄を履いて歌舞練場の稽古場にhttp://souda-kyoto.jp/campaign/img/archives/2009_winter.jpg通う姿を目撃することがある。勿論、彼女たちの周辺にはカメラを構えた人たちが一杯であるが、何とも微笑ましい風景である。

 

路地に入る    メイン通りはそぞろ歩きの観光客で一杯でも、一筋路地に入ると、これまた全く別の雰囲気を祇園は持つ。小さな小料理屋が並んでおり、客待ちのための呼び込みもなければ、提供する食事の見本冊子や値段表示は表には示されていない。一見さんは玄関を開けるのに勇気を必要とする、普通の古風な民家調である。

 

私もこのようなお店には数回訪れたことがあるが、お馴染みさんの友人としてのご相伴である。小奇麗にしつらえられた部屋には、客への対応になれた女将が挨拶に訪れ、宴が始まるが、そのもてなしの詳細は忘れてしまった。もともと、私にはこのような世界にはご縁が薄く、路地を歩く機会もそれ程はないが、雰囲気がどういうものかはおよそ感じて戴けると思う。

 

今回は同行三人のうちのひとりが、かつて祇園に来た時に、目に留まったreasonableと思われるお店があるというので、雰囲気を楽しむためと、小腹を満たすために、その店を訪れた。そこは、花見小路通りの一筋西側の狭い路地で、突き当りにはこれまた、祇園風情にあふれた写真スポット、巽橋(たつみばし)がある。何でもないような路地の風景であるが、これが京都の風情というものである(左の写真)。その店は巽橋のまさに角にある、お好み焼き屋「たんと」であった。

 

靴を脱ぎ、畳敷きの部屋に通された。着席したのは正に白川の川面が目の前の窓側の席であった。三月の始めであり、まだ外気は冷たかったが、暖かい部屋は居心地がよかった。お好み焼きを食し、しばし寛いでいると、外は次第に帳が降りて来て暗くなって来た。店を出て、白川沿いの遊歩道を鴨川に向かって歩いた。このあたりも祇園情緒豊かな所であって、道沿いの店の中で寛ぐ外国人の酔客達もその眺めを楽しんでいる様子であった。

 

先斗町    四条大橋を渡り、川沿いのこれまた路地風の先斗町(ぽんとちょう)筋を三条までそぞろ歩きした。やはり花見小路と同じ様な風情であるが、こちらの方がお店の数も多く、多様性にも富むようであるが、今回はただキョロキョロ歩きだけである。このあたりの店に入るには、もう少し大きめの財布を用意しておく必要がありそうだ。しかし、花見小路、先斗町を歩いたのは、それこそ10年以上も前の事だったと思う。そういう意味では、このあたりの風情も、京都の社寺と同じく古のものを受けついでおり、大きくは変化していない様に見える。三条河原町の明るい通りに出て、そこから京都駅行きのバスに乗って帰途に着いた。

 

利用した交通:京都駅から市バス(5系統)で南禅寺・永観堂道下車(約30分)。徒歩で南禅寺散策、平安神宮散策(徒歩2.5キロメートル)。岡崎公園美術館・平安神宮前から市バス(46100系統)で祇園下車(15分)。祇園界隈そぞろ歩き(徒歩約3キロメートル)。三条河原町から市バス(4517205系統)で京都駅へ(約20分)。

先頭に戻る


 

23回:嵯峨野観光鉄道(さがのかんこうてつどう)  0613日(2016年)

古都京都涼をもとめて  今日は乗り物デーである。生憎、昨夜からの雨は今朝も降り続き、お目当ての嵯峨野観光鉄道(観光トロッコ)は雨の中、ズブ濡れの乗車体験になりはせぬかと危惧したが、幸いにも出発駅の嵯峨嵐山駅に着いた時は、小雨であった。

 

このトロッコ列車は気動車DE51が、5両のトロッコを牽引して渓谷を走る。トロッコという事で青天井を心配していたが、ちゃんと屋根はついており、それなりの雨対策はされていた。このトロッコ客車はかっては無蓋用の貨車からの改造転用であり、確かに乗り心地は良くない。

 

嵐山から亀岡までは約30分の乗車であるが、沿線の左右に展開する保津川の渓谷美を楽しむものである。急流の「保津川下り」は歴史も古く有名であるが、この日は生憎、川の水量の急増で運航中止であった。確かにこの日、トロッコ列車の運行に問題はなかったが、川の水量は多く、かつ水は濁っており、川下りを楽しむには危険である。

 

旧線・新線    京都−亀岡間の高速複線電化運転の為に、京都西山の山間区間に新たに直線のトンネルが掘られた(19893月)。この渓谷を縫うように走るトロッコ観光列車は、かつての山陰線の旧線(単線、非電化区間)を利用したものである。新線に移行後、旧線はしばらくの間、放置されたままであった。

 

しかし、無分別なハイカーなどの旧線侵入が後を絶たず、危険防止を兼ねて、旧線は動態保存、すなわち観光トロッコとして再活用されることになった(1991年)。JR西日本が主要株主である。最初はなかなか営業成績が安定せず、経営に苦慮した時期もあったようであるが、最近は経営も安定し、京都観光の一つの目玉として成長し、今日の大繁盛を迎えるに至った。

 

中国人観光客    開業25年になるトロッコ観光列車であるが、我々には初めての乗車体験であった。行ってみて分かった。月曜日の午前中でしかも、雨模様なので、ガラガラの車内を想像していたが、なんと、嵯峨嵐山駅のトロッコホームは満員札止め状態であった。理由は簡単。中国人の集団である。乗り合わせた乗客の8割は、中国人団体観光客だった。

車内のアナウンスも当然、中国語放送があり、記念写真販売のお嬢さんスタッフも中国語がペラペラ。呆気にとられた。そういう事なのだ。予約席をとるのは確かに難しかったが、片道料金620円でこの景色は決して高くない。観光施設ならもう少し、高い値段でいいのではと思うのであるが、そこはお膝下のJR西日本のお目付が効いているのであろう。という事で、山間を縫って走るトロッコ列車は観光ビジネスとして立派に独り立ちしている。今回は夏前の季節で若葉が眩しかったが、パンフレットを見ると、この沿線は紅葉期が最も売りのようである。次回、訪れるのは晩秋だ。

 

山間を抜けると、亀岡盆地の平坦な水田の眺望に変わる。しばらく行くとトロッコ亀岡駅終点だ。まだまだ周囲はのんびりした田舎景色であるが、歩いて10分の所にJR馬堀駅がある。この駅からは京都駅は25分だ。駅の周辺はこれからの開発を見込んでか、高層のマンションが数件、立ち並んでいた。ここにも開発の波が押し寄せて来ている。

先頭に戻る


 

京都鉄道博物館(きょうとてつどうはくぶつかん)

http://www.kyotorailwaymuseum.jp/images/main-visual_grandopen.jpg  山陰線・馬堀駅で乗車し、丹波口駅で下車した。昼食を済ませたのち、高架線路の下にある京都中央卸売市場を通り、京都鉄道博物館を目指した。この京都中央卸売市場は、京都の鮮魚、青果の流通の中心である。いつもは山陰線の高架線の車内から卸売市場を見おろす風景に馴染みであったが、市場のそばを通るのは初めてである。卸売市場は実際に歩いてみると距離にして1キロメートルあり、随分と広い。

 

本年オープン    京都鉄道博物館に来る見学者の為に、来年、2019年に山陰線の丹波口−京都駅間に新駅(仮称:梅小路駅)を建設する計画があり、新駅が出来れば、中央卸売市場の周辺を歩く事もないだろうと思うと、今日の歩行は貴重な体験である。

 

梅小路の公園地区は、これまでは梅小路公園と、梅小路蒸気機関車区があり、あまり人の集まる所ではなかった。2012年に開業した人気の京都水族館は、100%完全人工海水使用の内陸型水族館である。京都鉄道博物館は、従来の蒸気機関車区を取り込んだ形で、JR東海やJR東日本が展開する鉄道博物館よりも面積、展示車両に於いて日本最大を売り物にして、今年の429日に華々しく開館した(2018年)。これまで、世間の発展から取り残された感のあった梅小路地区であったが、水族館と鉄道博物館の新設で最近にわかに活気づいて来た。

 

開館してまだ一カ月半しかたっていない新しい鉄道博物館であるが、平日の月曜日にもかかわらず子供たちを連れた家族づれが多く来場しており、入場制限こそなかったが、かなりの人出であった。これが土・日曜日だとそれこそ、人・人でごった返すと思うし、夏休みに入ればまたまた混雑する事、必定である。この場所はまだ、外国人観光客には馴染みが薄いらしい。京都は今や、人の集まる場所はどこも外国人で満杯であるが、この鉄道博物館は、まだ日本人がmajorityであった。

 

実物展示の数々    館内に入ると、新幹線500系先頭車両、寝台特急電車、昔の東海道線を華々しくデビューした特急電車「こだま」がお出迎えである。その奥には鉄道のあゆみコーナーとして国鉄、JR各社が誇った往年の名車両が数十台、実物展示されている。また、構内の横の特別展示コーナーにはJR 西日本がかつて誇った「トワイライトエクスプレス」の先頭機関車や、寝台車両、食堂車両、等の趣向を凝らした実物展示があった。ここにも多くの見物人が集まっていた。いずれも、すぐそばで直接に車両に手を触れることが出来るように展示されている。展示車両は合計53両というから、さすがのコレクションである。

 

https://wordleaf.c.yimg.jp/wordleaf/thepage/images/20160401-00000002-wordleafv/20160401-00000002-wordleafv-2420bfad092d5c7b56f0ad9c419a3c083.jpg日本最大のジオラマ    2階に上がる。ここの「目玉」の一つが、日本最大級と言われる鉄道ジオラマである。一日56回、模型車両の全運転がされるが、一回の運転時間は20分程度である。見学者は200名前後で、総入れ替え方式である。見学機会を得るためには約1時間程度の待ち並びが必要である。普段は並ぶことの大嫌いな私であるが、この日ばかりは機会を逃してはいけないと、鉄道ジオラマの見学の為に小一時間を立ち並んだ。現在、JR各社で走る現役の各種車両を中心にプログラムが組まれた運転である。

 

非常に精巧につくられた実物の180のジオラマで総運転距離は1キロメートルである。但し、見学者が接触するトラブルを防ぐために、電車・列車はガラス越しの向こう側で走行している。朝の薄暮のシーンから始まり、昼間の各種車両の運転、夕方から夜になると貨物列車や、寝台特急などが走行する。一日の鉄道の変化をうまく演出している。なかなか見ごたえのあるジオラマであった。今日は月曜日であるから、土・日曜日はさぞかし大変な混み方と思う。これから先、上手に楽しむには、時間を選んでうまく見学する知恵が見学者にも必要である。

 

スカイテラスからの眺望     3階のスカイテラスに上がる。ここからの景色は壮観である。東山連峰が一望できるし、京都のシンボルの東寺・五重塔もすぐ近くに見える。そして、手前に転車台を前に、20余の蒸気機関車が動態保存される半円の巨大な車庫があるし、そして何よりも眼をひくのは、東海道線、新幹線、山陰線、それと京都貨物線が複雑に入り組んだ目の前のジオラマさながらの線路である。新快速、関空特急「はるか」、新幹線は頻繁に目の前を往復するし、長いコンテナの貨物列車も走る。

 

このスカイテラスはこのように開放的で気持ちの良い空間であるが、今、テラスの前面にはカメラを構えた人達が百数十人、何かを待っているのである。どうも彼等のお目当ては、目の前を走行する普段見かけることのない車両のようである。雷鳥型の特急電車か? 蒸気機関車のデモ運転か? とも思ったが、どうもそうではなさそうである。我々も20分ほど、周囲の景色を楽しみながらそこで寛いでいた所、カメラを構えた数人の歓声が聞こえ、どよめきが走った。何かと思って目をやると、新幹線の下り線に京都駅を出たばかりの、Dr.イエローが見えたのである。新幹線の架線と線路状態の点検の為に不定期に昼間運転される専用列車である。鉄道写真愛好家(鉄チャン)の間では、その運行状況がリアルタイムでシェアーされる非公式の情報網があるらしい。

 

例えば、「今日の午前11時に東京・品川の電車区をDr. イエローが出発したから、京都駅は14XX分に通過する筈。」という類いである。鉄チャン達はそういう情報を共有し、この一等地で、Dr.イエローの登場を今か今かと待っていたという訳である。私も慌てて、携帯のカメラのシャッターを押した。添付の写真である。観客の中には感極まって、「何とラッキーか!もう死んでもええわ。」ちょっと大げさとは思うが、このような興奮冷めやらぬ声も聞こえて来た。彼等にはさぞかしいい写真が撮れたことであろう。Dr. イエローは10日に一度くらいの運転という事であるから、やはり待っても遭遇するのは難しいようだ。我々も、「死んでもええわ」とは決して思わないが、ラッキーな出会いは幸運と思う。遭遇した時間は1503分であった。

 

蒸気機関車、旧二条駅舎    まだまだ館内に興味深い展示は色々とあったが、蒸気機関車車庫を一巡見学した後に、出口に向かった。ここで、また思わぬ再会があった。出口の建物が旧二条駅の駅舎なのである。私が中・高生時代、二条駅の前を市電で通学した時に、毎日、眺めた立派な駅舎である。二条城の正面玄関の駅だったからだろうか。兎も角、立派な格式の建物であった。山陰線が電化、高速化運転されるようになり、二条駅は超モダンな高架駅に変貌した。旧駅舎はすっかりオシャカになったものと思っていたのであるが、古寺の修復や保存に関しては、技術蓄積の豊富な京都である。あの旧駅舎はどこかに保存されていて、見事に京都鉄道博物館の一部として京都らしい復活を遂げたのであった。

  

私にとってはとっくに壊されたと思っていた建物とのおおよそ40年振りの再会である。博物館の出口である旧駅舎の一部は、博物館のショップになっている。子供連れの家族が多いが、みやげ物を盛んに親にせがむのであろう。財布のひもを緩めた父子で随分の混みようであった。ショップに入るのにも30分の時間待ちとか。お父さんはもうくたくたである。この新装の鉄道博物館は様々な展示で人々を楽しませる京都の新名所として、これから先、育ってゆくことと思う。

 

利用した交通:京都駅から山陰線(嵯峨野線)で嵯峨嵐山駅へ。トロッコ列車に乗り換え。トロッコ亀岡駅まで乗車。JR馬堀駅まで歩く(徒歩10分)。JR山陰線乗車、丹波口駅まで、徒歩15分で京都鉄道博物館へ。市バス(88103104110系統)に乗車、京都駅へ(約10分)。

先頭に戻る


 

24回:苔寺(こけでら)                  0704日(2016年)

往復ハガキで拝観申請    京都の世界文化遺産訪問17番目の最後の社寺として、京都西山にある苔寺(西芳寺)に行った。苔寺は様々な苔の密生する庭で有名であるが、近年観光客の増加により庭の質的な維持が難しくなって来たという事で、今から約40年前の1977年に、苔寺の拝観は往復はがきによる完全事前予約を行う方法に改められた。庭の拝観だけでなく、般若心経の写経に参加することになっており、写経冥加料は3,000円で、これは1977年の予約制導入から変わっていない。

 

苔寺がインターネットで発信する参禅要領は以下の通りである:

西芳寺(苔寺)はかつては誰でも参観できる観光寺院でしたが、1977年からは一般の拝観を中止し、往復はがきによる事前申し込み制となりました。また拝観に際しては、写経などの宗教行事に参加する事が条件となっています。写経をした後に庭園の見学という流れになります。拝観料は13,000円と京都のお寺拝観としてはちょっとお高く感じますが、これは住職さんの説法・般若心経の唱和・写経を行い、写経に願い事を書いたものを祈りを込めて本尊に永久奉納していただけることから、祈祷料やお布施の意味合いが込められているのです。     

以上。

 

koke_06  我々は、事前に申し込みを済ませ、74日の午前10時という日時の指定を受けて、写経冥加料と新品の小筆を準備し、写経を奉納した後には、美しい庭を見学するべく苔寺に向かった。京都駅からバスでちょうど一時間を要して苔寺に着いた。ここから先、ほとんど信じられない状況に出くわした。

 

写経道場となっている本堂に入る前に、冥加料を納め、般若心経を印刷した用紙と、座禅和讃、境内の簡単な地図、それに願い事を奉納する木片を受け取った。道場に入るとそこには数百名が写経するための小机が用意されており、その一席に座して、写経の開始を待った。

 

写経は?    しばらくして、僧侶が入場し、般若心経を三回読経し、特に説法はなく、この後は「願い事をお渡しした木片に記載して、仏前にお供えください」との説明であった。写経用紙(薄紙)は配布されず、この席に参堂した人は般若心経の写経をすることなく、「木片に願い事を書き終えた方から、庭の方に廻ってください」という声に促され、流れ作業に乗せられた人形の如く、道場から出るように促された。兎も角も、寺は参拝者が写経するという行為の準備は全くしていなかったのである。

 

http://matome.naver.jp/odai/2140603940299750401

上記は、京都のお寺で代表的な写経道場を情報検索したものである。写経を含めて1,0001,500円が相場で、いずれのお寺も名の通ったところである。大原・三千院では写経料は無料である。苔寺にどういう事情があるのかは知る由もないが、いかに宗教行事は価格で評価されないとはいえ、写経と庭拝観を目的に訪問した参拝者に対する対応の粗雑さには、本当に面喰らった。

 

一期一会の気持ちで訪問した苔寺であったが、全く失望した。これまでに京都の16か所の世界文化遺産、およびその他の寺社をいくつも訪問したが、これだけの落差を感じることはなかったし、返す返すもこの対応は残念であると言わざるを得ない。

 

苔寺縁起    苔寺の縁起について簡単に調べてみたが、庭園は確かに名勝に指定されているが、見るべき文化財がほぼ皆無であることがわかった(重要文化財:湘南亭 2棟(本家、待合及び廊下)、絹本著色夢窓疎石像の2件)。思い返せば、建物の説明もなかったし、どのような仏像が祀られているかの説明もなかったが、要するに、語るほどの事がないという事なのであろう。

 

庭の巡回コースは約10分程度で、庭の入り口では僧侶から庭の簡単な説明があった。庭の苔は確かに、広い面積を有していたが、素人目に見ても決して丁寧に養生された苔には見えなかった。京都の他の寺院で、これまで多くの苔むす日本庭園を見てきたが、どこもしっかりと養生・管理されており、見ごたえのあるものであった。日本庭園の美に「苔」は欠くべからざる存在であり、要は育てる人の気持ちと、見学する者の気持ちが「苔庭」を通じて逢いまみえる、というのが本来の姿であろう。しかし、この寺がインターネットで発するメッセージと、実際に行っていることには明らかに乖離がある。 危ういぞ苔寺!! 同行三人は皆、同じ印象を持った。世界文化遺産の最後の訪問地のこの印象は実に残念であった。先を急ごう。

先頭に戻る


 

松尾大社(まつおたいしゃ)

お酒の神様のお墨付き。第3回松尾大社 酒-1グランプリ松尾大社格式高い松尾大社    松尾大社の停留所でバスを降りると、目の前の大きな「一の鳥居」が我々を迎えてくれる。これは「平成の大鳥居」と呼ばれるそうであるが、なかなか重量感にあふれる立派な鳥居である。参道を進むと左手に京都府神社庁の建物がある。

 

神社庁がこの松尾大社に併設されているところを見ると、この松尾大社は神社が多くある京都市内にあって、その伝統と格式に於いて一目以上の存在感を有する神社なのであろう。松尾大社は平安時代に正一位の神階に任じられた格式を誇る神社である。場所は京都四条通りを真西に詰めた京都西山の麓に位置する。

 

お酒の神様    また、松尾大社は醸造の神様を祀るところとして知られ、醸造祖神が住まわれる。「二の鳥居」を越えるとそこから先が境内である。正面には江戸時代初期に建造されたと言われる立派な入母屋屋根を有した楼門があり、普通、京都の神社の楼門は朱色に塗られたものが多いが、ここの楼門は木質をそのまま生かした、茶褐色の色合いで、風格を感じさせるとともに、どっしりとした落着きがある。何かの祈願のためであろう。しゃもじに願い事が書かれたものがいくつか楼門の金網に取り付けられていた。

 

中門中央には拝殿があり、同じく入母屋屋根を有している。境内の中央に位置し、様々な祭り事に用いられているのであろう。今は、人はまばらであったが、七夕前である。拝殿の左右には大きな笹の木が取り付けられており、子供たちの願い事を書いた多くの短冊が風に揺れていた。お馴染みの季節を感じる風情である。

 

酒の資料館    やはり、お酒の神様に関係しての願い事なのであろう。境内には立派なお酒の資料館があり、古来からの日本酒の醸造の様々な道具の実物展示をしている。また本堂の拝殿の右側には神輿庫があり、関西の主要な酒造メーカーの酒樽が展示されている。醸造家の信仰が厚いのがよくわかる。私は下戸なので、酒殿、酒大社の有難味がよくわからないが、酒を生業とする醸造主にとってはこの大社はなくてはならぬ存在のようだ。

 

名園の数々    本殿の左奥には南末社があり3基の小さな社が鎮座しており、本殿右手には結婚式の執り行われる葵殿をはじめ、曲水の庭、上古の庭、あじさい苑、などの京都有数の名園があり、参集殿の反対側には蓬莱の庭がある。曲水の庭、上古の庭、蓬莱の庭は松風苑三庭と呼ばれ、松を巧みに配置した昭和の名園として知られ、昭和50年に庭師、重森三玲によって作庭された。

 

現代風の庭園の傑作との評価が高いものである。それと、松尾大社は京都の西山の麓に存在するが、庭の借景としての嵐山に近い山群のこんもりとした樹々の緑は大変に豊かであるし、庭とのバランスも極めて優れているように直感した次第である。全体として古風な色彩の大社であるが、この大きな面積の庭はこれから先、増々と評価が高まってゆくことと思われる。

https://pbs.twimg.com/media/CjYwmKEUkAEw2ij.jpg

利用した交通:京都駅から京都バス(73系統)で苔寺へ(約60分)。苔寺から松尾大社へは同じく京都バスで、松尾大社前で下車。松尾大社前から京都駅までは同じく京都バスで約60分。市バス・京都バスの一日乗車券(500円)が使える。

先頭に戻る


 

 


25回:鞍馬寺(くらまでら)               0725日(2016年)

仁王門http://www.cablecar.jp/13_kuramadera/201409/kurama2014-25.jpg  京都市内は連日の35度近い猛暑続きである。今回の鞍馬方面行きは天候よりも高温高湿から熱中症で倒れないようにと万全の準備で臨んだ。出町柳から二両編成のローカル電車(叡山電車)に乗って、鞍馬に向かった。車中、ここでも中国人の家族ずれと乗り合わせ、特有の喧騒の中にあった。一体どのような旅になるのかと先に不安があったが、彼等は鞍馬の一つ手前の駅、「貴船口」で3040名全員が降車した。結局、鞍馬まで向かったのは我々を含めて67名であった。「貴船」に多くの中国人が来るのは何故か? それについては貴船神社の次項で説明する。

 

山門風景    鞍馬寺の駅前では大きな赤ら顔の天狗のお面が迎えてくれる。駅を右折すると写真等で朱色の馴染みの仁王門(山門)が見えた。三門前の左右には、狛犬ではなく、一対の阿吽の虎(あうんのとら)の石像が鎮座していた。何故ここでは虎なのか? それは当寺のご本尊の一つである毘沙門天が出現したのが、トラの月、トラの日、トラの刻であったことから鞍馬山ではトラを神獣として祀ってきているとの事である。例によって、阿吽のポーズの口を大きく開けたトラと、口を堅く閉じたトラの対である。

 

http://buzzap.net/images/2013/07/02/kuramayama-walking/top.jpghttp://buzzap.net/images/2013/07/02/kuramayama-walking/P1050743.jpg山中を巡る    入り口で300円の入山料を支払い、山の案内図、本のしおり、参拝記念のシールなどを戴いた。これらの情報はこれから山道を歩く上のいい道しるべになった。本殿の金堂や霊宝館などは山の頂上付近にあり、かなりの急坂を登らなければならない。寺はお年寄りの為に、日本でも珍しいお寺が運営管理するケーブルカーを運用している。利用しない手はない。乗車賃は200円。ケーブルカーに乗車するがこれは、寺への寄進行為ということである。ケーブルカーの乗務員は作務衣を着た人であった。修行者であろう。ケーブルカーでの高低差は200メートルほどと思われるが、多宝塔のある山頂駅に着いた時には、周囲には涼風がそよぎ、比叡山の雄峰が眼の前にあった。整備された平坦な山道に沿って歩くこと約500メートルで、本殿金堂に着く。

 

鞍馬寺はその縁起によれば、鑑真和上の高弟である鑑禎(がんちょう)上人が、鞍馬の地に来た時、この地に仏法を守護するためのお告げに従って草庵を結んだことがその起源とされている。平安時代以降、朝野の信仰を集めて大いに栄えた。東寺の重僧である峯延上人(竹伐り会式の起源とされる人)や、重怡上人などの入山と勤行で末法思想が盛んに信じられるようになり、現世の福徳を祈る鞍馬山に来世の幸せを希う浄土の教えが広く定着するに至った。鞍馬山の信仰は、宇宙の大霊であり大光明・大活動体である「尊天」を本尊と仰いで信じ 、「尊天」の心を我が心として生きてゆくことにあり、これを尊天信仰と呼ぶ。

 

小さな牛若丸碑!!    また、鞍馬山は武の道の修行場としてよく知られており、かの牛若丸が7歳から10年間、武修行に励んだのがこの地である。山の稜線近くで、木の根が参道に競り出した大杉権現の近くには、「義経公背比石」なる石碑が建立されているが、身の丈は僅か70センチメートルくらいの小さいもので、もしこれが本当なら、奥州に下る前の牛若丸はかようにも小さい存在であったのかと驚かざるを得ない。この山の木の根道の根の張り方は独特で、足の運びを注意しないとすぐに躓きそうになる。牛若丸の難路での飛び跳ねの繰り返しの訓練が、ゆくゆく伝説となる義経の壇ノ浦・八艘跳と結びつけられる、というのが源平合戦の中の義経ロマン伝説であるが、果たして真実か?

 

霊宝館周辺    生憎、本日は月曜日であったため、鞍馬の宝物を収蔵した霊宝殿は休館であった。与謝野晶子と鉄幹の歌碑が、そのすぐそばに建立されていた。鞍馬出身の信樂香雲(しがらきこううん)は歌人としても知られた人物で、晶子の直弟子だったご縁で、与謝野夫妻は何度も鞍馬山で過ごしたようである。霊宝殿の2階は与謝野記念館として生前の遺品がいくつも展示されているという。

何となく君にまたるるここちして いでし花野の夕月夜かな   晶子

遮那王が背くらべ石を山に見て わがこころなほ 明日を待つかな  寛(鉄幹)

 

http://www16.plala.or.jp/yasu310/kurama/CIMG010200111.jpg  ここの木立の影のベンチで昼食を摂った。そよ風が吹き、山の木々の間からの木洩れ日や遠望の比叡山を楽しみながらの昼食であった。さぞかし下界は暑いことであろうが、ここは天国だ。

 

木の根道を過ぎ、義経堂、僧正が谷不動堂の静かな祠、魔王殿を過ぎて、つづら折りのよく整備された急坂を下る事約15分で、鞍馬山の西門に到着した。ここでも入山料を徴収していたので、鞍馬山に入るには、鞍馬側からにしろ、貴船から入山するにしろ、300円は治めるという事である。市内の普通の社寺への入場料に較べると、あれだけ歩いて、仏閣を巡り、森林浴に浸り、いにしえ人の文化に接することが出来て、なんと立派なコスト・パフォーマンスである事か。また、般若心経のお写経をしたい人には、月に二回、山麓の修養道場でその機会もあるという。前回の京旅で尋ねた某寺とは大きな違いだ。この寺の訪問で、我々の第一回の京旅シリーズを結ぶことが出来るのは大いなる喜びである。

 

最近、この鞍馬の山系にも、クマが出没するらしい。今年の6月後半に、人的な被害こそなかったが、クマが目撃されたそうである。参道に「クマ注意」の看板(日本語、英語、中国語)が多く立てられていた。阿吽の虎たちにはクマ撃退の功徳はないのであろうか? ここでも、シカの出没は日常茶飯事らしい。

鞍馬寺・祈りの言葉:

月のように美しく(慈愛)、太陽のように暖かく(公明)、大地のように力強く(活力)、総ては尊天にてまします。

Beautiful as the Moon (Love)Warm as the Sun (Light)Powerful as the Earth (Power)We trust in Sonten for all things. 

先頭に戻る


 


貴船神社(きぶねじんじゃ)

http://www16.plala.or.jp/yasu310/kurama/CIMG010500141.jpg本殿中国からの観光客は    貴船口で多くの中国人が一斉に下車をしたが、その理由は貴船のお話し好きの喫茶店のおばさんとの他愛ないお話の中でわかった。中国からの観光客の中では、「貴船神社の水占い」がとっても評判との事である。インターネットのなせるわざであろう。多い日には、一枚200円の水占いクジ札を求めて、本殿に至る石段に数百メートルもの列が出来るとの事である。下にそのクジ札の写真を示したが、願望、恋愛、出産・・・など、どこの神社にでもある普通のおみくじである。ただ、このクジ札を水につけると文字が浮かび出るという点が新しいのかと言うと、このような「水占い」は、貴船神社たらずとも、他の神社でも、特に恋占いに関しては多く見受けられる。貴船だけに人気が特化した経緯はよくわからない。まあ、観光客が大勢来てくれるのであるから有難い話ではある。

 

最近、朱色の鳥居の伏見稲荷大社が海外からの観光客の発信するネット情報で、日本で訪れたい所の「No.1」になったというのは地元民にとっては有難い不思議な驚きであるが、この貴船の水占いラッシュもその類いなのであろう。ただ、お稲荷さんには欧米系の観光客が多いのに比べ、水占いはやはり漢字の持つ発信力であろうか。中国人が多いのは肯ける。ところで、中国にはこのような水占いは無いのだろうか??(尚、この神社の水占いには「大凶」があるらしい。神社は「気にかけることはない」と言っているが、安易な気持ちでの占い参加には気を付けよう!!)

 

クリックすると新しいウィンドウで開きます拝殿狭い街道筋    さて、本論の貴船神社に戻る。貴船川に沿って主にその狭い谷筋に沿った西側(右岸)に神社、料理旅館、喫茶店などが点在する。貴船街道と呼ばれる府道361号線は、京都市内から一応、若狭に通じた道であるが、ほかにも幾つかのルートがあり、日本海に抜ける主街道にはなっていない。川沿いの為に道幅は思い切り狭く、観光バスが一台通行しようものなら、たちまち完全に道路は閉鎖状態になる。それほどの交通の難所である。この地に貴船神社が開かれなかったらおそらくこの場所は、単なる貴船川沿いの急峻な谷筋を一本の道が通っているということで終わったであろう。

 

貴船神社は上流から、奥宮、結社、本宮の三宮があり、いずれにも社屋に通じる石段がある。その左右には朱色に塗られた木製の灯篭が建つ。中でも本宮の石階段は写真で紹介されることも多く、紅葉シーズンにはこの狭い街道筋はヒト、ヒトでごった返す。とても静かな紅葉狩りの雰囲気からは程遠い様相を呈する。貴船神社には水の神である貴船大神が祀られており、その記述は古くは古事記、日本書紀に遡ることが出来るというから、とても古い格式を供えた神社である事には違いない。本宮は2007年に新たに再建されており、見るからに新しい建物である。

 

川床    あと貴船で有名なのが貴船川の上に設けられた川床である。涼し気な環境での食事提供が売り物である。アユの塩焼きや、流しそうめんなどが人気とか。しかし、同じものは京都市内でも食べられる。財布に余裕のある人、または是非ともここで特別な話のあるカップルなどは利用されたらいいであろう。ただ、初夏から秋の半ばまで位が営業の適期なので、川床の開店を確認してから予約を入れた方がよさそうである。我々は川床を横目に、この京旅の間に慣れ親しんだ、コンビニの「三角おにぎり」である。低価格+簡易なパッキング+ゴミ持ち帰り容易と、我々の旅にはこれが一番と納得している。風景と建造物の見学を主に考えたら、時間をとる食事旅はもう少し歳を取ってからにしたいものだ。

 

利用した交通:京都駅から市バス(4系統)で出町柳へ(30分)。出町柳から叡山電車で鞍馬へ。終点で下車(25分)。鞍馬寺の山門から寺設のケーブルで中腹へ。あと山の中を巡って貴船に向かう(約2時間、2.5km)。貴船神社参拝後、貴船から貴船口まで京都バスの臨時運航便にて貴船口へ(5分)。貴船口から国際会館駅まで京都バス(20分)。国際会館から京都駅までは地下鉄利用(20分)。                                           

先頭に戻る

 


おわりに

 

つれづれなるままに、日暮らし硯に向かひて、

心にうつりゆく由なしごとを、

そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそもの狂ほしけれ。

(徒然草・序段、卜部兼好)

 

64歳半ばで、社会人を卒業し、奈良で外国人を対象にした観光ガイドのグループ活動に参加した。そこでは「はじめに」で述べたように、貴重な昔人の文化遺産に接することが出来た。それが、京都に関心が向く誘導動機となった。京都を訪ねる旅を始めた。この年になって、京都をこれだけ楽しめるとは思わなかった。これは、私が宇治という、日本の多くの文化財が集まる京都と奈良の間に住んでいるからこそ、可能であったのだと思う。咀嚼しながらのゆっくりとした旅であった為、足掛け5年を要してしまった。

 

京旅の間、色々なところで、歴史遺産−時間−を引き継ぐ事の難しさを見た。それは、今、目の前にあるものを見て、昔の状況を簡単には想像することが出来ないことを意味する。十年間にわたる応仁の戦乱で、京都はほとんどが一旦は灰燼に帰してしまった。しかし、宗教も、政治も、民衆の生活も、それぞれの時代の様々な要請に応じて、フレキシブルに蘇ってきた。我々が今回尋ねる現代の京都は、まぎれもなく平安時代、室町時代、安土桃山時代、そして江戸時代を経験してきた京都である。

 

私には50年後の京都は何とか想像できそうな気もするが、100年後、200年後の京都は全く想像出来ない。願わくは、我々が昔人から受け継いだ、木と紙によって作られた文化が、100年後、200年後の世の中でも同じ文化価値を持ち続けている事である。我々は昔の人、未来の人とは直接に語り合うことは出来ないが、継承する文化で繋がっている。京都という場所を通じて、昔−現在−未来は繋がっている。しかし、昔人が何とかして後世に残したい、伝えたいと、木を刻み、紙に記したものを、我々はどれだけ掬い取っているか? それこそ「川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず・・・」の感は大きい。抗しがたい時間の流れをひしひしと感じる。万物流転。我々はそういう大きな時間の流れの中で「ほんの一瞬を生きている」のである。

 

ひとまず、私の、我々の京都を訪ねる旅はここで一段落とする。これからも京都は歩き続ける。新たな出会いや、古都の風情との再会が楽しみである。「同行三人」は、小澤聖一さんと、三宅繁治さんと、私自身である。楽しく有益な京旅の共有に多くの感謝をしたい。小澤さんには、原稿を精読戴き、数々の有益なご助言を戴いた。この場を借りて深謝したい。

2016.07.31.了]

 

先頭に戻る