Chapter 11:

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京都市電の辿った道

History of Kyoto Streetcar, Past and Future

 

宮門正和(京都府・宇治市)

Masakazu Miyakado (Uji, Kyoto, Japan)

(described June, 2018)

 

Apr. 2019                                           by Akio Higo

 

 

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はじめに

京都市電小史

黎明期(明治28年~明治45年)

発展期(大正元年~昭和20年)

絶頂期(昭和20年~昭和45年)

晩年期(昭和46年~昭和53年

市電と他社路線との交差

併用軌道と専用軌道、市電撤去後の敷石の余生

海外は、、、

私案、現代の京都市内交通の問題点と提案

北野線、私のノスタルジア!!

おわりに

 

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1.はじめに

私はこれまでの生活のかなりの年数を京都洛外のさらに郡部(南区勧進橋近辺と、宇治市)で過ごしている。 昭和34年~昭和47年の14年間、そこから京都市内を縦断して、はるか北区、左京区にある学校(予備校も)に通った。 その頃は市電が庶民の一般的な足であり、結果として、私は京都市電のヘビー・ユーザーとなり、あわせて体験的に京都の市電事情に明るくなった。 くしくも、昭和30年代後半、京都市電は総数で約350輌の車両を走らせた最興隆期であった。

 

しかし、世の中が忙しくなり、トロトロ走る市電は「慢性的な交通渋滞の元凶!」と人々から次第に疎まれるようになった。 当時、交通局は「市内は市電、新市域は市バス」の標語をかかげ、路線建設費や維持費のかからない、小回りのきく市バスの普及を急いだ。 洛西ニュータウンなどの人口のドーナツ化現象が市バス交通への傾斜に拍車をかけた。 昭和45年以降、京都市電は伏見線を皮切りに、秋冷の風に吹かれる落葉のように、ひとつ、またひとつと、線路の撤去が相次いだ。 そして、昭和53年(1978年)に京都から市電は完全に消滅した。 今から40年前に起こった京都の地殻変動である。街の風景は一変した。

 

昭和期を京都で過ごした京都人は街を思うとき、頭の中では無意識に市電路線を思い描いてはいないか? 私の頭の中の京都地理は、線路が撤去されて久しい「北大路通-西大路通-九条通-東山通」の外周ルートや、その内側を方形で区切る市電道がその基本である。 例えば、「洛中、洛外を論ずるとき」、「御土居の域を思うとき」、「葵祭、祇園祭、時代祭など、京都の街を練り歩く祭列を思うとき」、また、「正月に都道府県対抗女子駅伝をTV観戦するとき」、それぞれのルートを電車道と重ねてしまう。 また、京都市電の道は平安京の街路を受け継いで、碁盤の目に沿ってほぼ規則的に敷設されたために、交差点の名前で、その場所を思い至ることは簡単である。 東京や、大阪ではこうはいかない。 ともかく、私の頭の中には絶えて久しい京都市電が今も走っている。

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2.京都市電小史

これから、京都市電の誕生から路線撤去までの、そしてこれから先の京都の都市交通に思う夢、などを記してみたい(昭和7年~44年、四条通を走った無軌条線(トロリーバス)は省く)。

 

今年は明治150年の節目である。 明治時代に入り、文明開化の象徴として「京都近代化三大事業」が提起された。 それは第3代京都府知事・北垣国道によれば、「明治維新による東京遷都のため、沈みきった京都に活力を呼び戻す!!」ための事業であった。 その三大事業とは、①琵琶湖疎水開削、②上水道整備、③道路拡築および市電敷設、であった。 呼応した京都の関係者は、当時の土木技術を結集して、わずか5年で「疎水」を完成させた。 京都に琵琶湖の豊富な水が供給され、それは蹴上で水力発電機を動かし、恒常的な市内への電気の供給を可能とした。 明治時代には様々な産業が電気で興されたが、とりわけ、日本初の京都の市電走行は、輝かしい京都三大事業遂行の象徴的な成果であった。

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2-1.黎明期(明治28年~明治45

明治28年(1895年)、日本で初めての電気を動力とした乗り物―電車―が京都に誕生した。 事業の創始は、京都市交通局ではなく、私企業の京都電気鉄道(株)によった。

 

京都市電路線図

テキスト ボックス:   


京都市電の路線図(明治28年~昭和53年)


路線(レール幅1.067メートルの狭軌軌道)建設は明治28年の開業必達を目標に、猛烈な勢いで進められた。 この年は、岡崎での第4回内国勧業博覧会の開催、平安遷都1100年祭(この時、平安神宮を造営)、第一回・時代祭の挙行、などの記念行事が相次ぎ、行事会場である岡崎~京都駅間の市電運転は国の威信をかけた必達の課題であった。 

市街地を電車が走行するという日本人が見たことのない新事業は、明治時代の官とのすさまじいエネルギーを結集して成し遂げられた。 開業当初、馬よりも早く走るものを見たことがない市民は、疾走する電車の怖さを正しく認識できなかった。 実行された事故回避策は、先導役に速足の少年を雇い、「電車、来まっせ。危ないでーーー!!」と声を張り上げて事であったという。しかし、京都市を周回する環状線の建設は大正時代以降の事業として残された。 また、一旦は敷設された路線も、経済合理性に乏しいものは、維持に汲々とせず廃止された。 明治期に建設された区間を以下に纏めた

明治期(明治28年~明治37年)に敷設されて、

    戦後まで活用された路線:伏見線(京都駅前―中書島)、稲荷線(勧進橋―稲荷)、北野線(京都駅前―北野)、蹴上線(蹴上―東山仁王門)の四路線。

    戦前に廃止された路線:鴨東線(岡崎―木屋町二条)、木屋町線(京都駅―木屋町二条)、間の町線(七条間の町―新寺町上珠数屋町)、東洞院線(塩小路東洞院―七条東洞院)、出町線(寺町丸太町―青竜町)、城南線(堀川押小路―二条駅前)など。

狭軌I型の車輌

 

黎明期の車両

 京都電気鉄道(株)が市電事業を開始した時、車輪の幅が狭いサイズの狭軌I型の車輌、136輌が投入された(製造会社は不明)。 あわせて、同じ台車を用いて散水車(水6トン)3輌、貨車8輌(一部は花電車として昭和期まで活躍)が製造された。運転手、車掌は電車箱の外のオープンデッキで乗務した。 乗車定員は38名で、自重は6.6トンであった。 同形式の一軸台車の車両は、昭和36年まで北野線で運転され、「チンチン電車」として馴染みの車輛である。

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2-2.発展期(大正元年~昭和20年)

 大正元年(=明治45年(1916年))、京都市交通局が設立され、京都電気鉄道(株)から既設路線、車両、関係工場など資産の総てを引き継いだ。 市交通局は大正から大戦終戦までの間に、京都市を周回する環状新線や、市内の主な道路を縦横する新線の敷設を進めた。

 

最初に、市交通局が取り組んだのは、それまで狭軌であった路線幅を(北野線を除いて)全面的に広軌(1.435メートル)に切り替える事業であった。 京都電気鉄道(株)から譲渡された136輌の狭軌電車(狭軌I型)は、順次、廃車ないし他社へ売却譲渡された(北野線用の28輌を除いて)。 広軌化によって市電の高速運転、乗客の大量輸送、重連運転、並びに車重の重たい車両の走行等、が可能になった。戦前とは言え、日本の製造業の足腰の強靭さがあったからこそ可能となった広軌軌道への変更であった。 大正10年の年間乗客数は7880万人、昭和3年には11481万人と初めて1億人を突破し、終戦時には2億人と順調に乗客数を伸ばした。

 

大正期~終戦までの期間に敷設された路線:今出川線(銀閣寺道―千本今出川)、四条線(四条大宮―祇園)、七条線(東山七条―西大路七条)、東山線(高野―東福寺)、烏丸線(塩小路高倉―河原町今出川)、大宮線(壬生車庫前―九条大宮)、千本線(壬生車庫前―千本北大路)であった。暫くして、北大路線(高野―千本北大路)、河原町線(洛北高校前―河原町今出川)、西大路線(千本北大路―西大路九条)、九条線(東福寺―西大路九条)など。 これにより、京都市の外周を囲む環状路線は、ほぼ完成された。

 

発展期の車輛

 広軌I型の車輌は、大正年間を通じて製造され、その総数は172輌に及んだ。 この電車は、台車は広軌用のものであるが、客室などの車体は狭軌型のそれと同型であった(台車は海外製、車体は国内製。自重約6トン、定員は48名)。 大正年間、このチンチン電車形式の車輛が京都市内を席捲した。

広軌I型の車輌

市電の発展、すなわち乗客数が増加するに従い、大型車両の導入が必要となった。 大正時代末期~昭和初期にかけて、40両の3枚扉の画期的な大型の新型500型の車輌(乗車定員は80名)が投入された。従来の一軸形式(台車は台枠と一体であり、首振り機能は持たない)の台車から二軸形式(車体に対して水平方向に回転可能な装置をもつ台車の総称)の車輌の導入は、高速走行と、圧倒的な安定走行を可能にし、その後の市街電車設計の基本型となった。 500型の車輛は昭和40年代に京都市電が終息するまで活躍した。 車体塗装は京都市電開業時から一貫していたあずき色を踏襲している。

 

次に500型をコンパクトにした、600型の車輌が作られた。 この車両の最初の製造は、昭和12年であった。この形式がその後の京都市電設計の基本形となった。 窓の部分はクリーム色に、そして胴の部分には緑色の塗装がなされ、その後の京都市電の基本カラー(「青電」)として親しまれた。 全体として車姿は箱型から流線形となり、ドアには空気式自動開閉扉が採用された。 定員は64名で、計95輌が製造された(この600型以降、全てが日本で製造)

500型の車輌

600型の車輛

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2-3.絶頂期(昭和20年~昭和45年)

  京都市街の大きな道の殆どに市電線路が敷設された。600型の形式を踏襲した車輌である700型(48輌)、800型(90輌)、900型(35輌)、1600型(63輌)、1800型(70輌)が順次、製造された。 最盛期となった昭和40年には約300輌の市電が、年間に2億2000万人の乗客を運んだ。単純計算で60万人/日の乗客数である。(参考までに、平成28年度の1年間に、京都市バスは1.32億人、市地下鉄は1.38億人の総計、2.70億人の乗客を運んだ。) 路線の総距離は76.8キロメートル、全線複線で、駅の数は総計163駅を数えた。

 

戦後に敷設された路線:白川線(銀閣寺道―天王町)(昭和29年)、河原町線(河原町今出川―洛北高校前)(昭和30年)、今出川線(千本今出川―白梅町)(昭和33年)(この区間、北野―白梅町間、は京福電車が営業していたが、昭和33年に京都市電に売却された)。 遂に、計画の市電の環状網が完成した。 この環状線の内側は、「現代版、洛中」と呼ばれ、従来の洛中より地域が約2倍に拡がった。

 

最盛期には、市電は烏丸車庫、北野車庫、壬生車庫、錦林車庫、九条車庫をそれぞれの運行基地として、市街を縦横無尽に走行した。

昭和40年に各車庫が運行した主な路線:

 烏丸車庫4号系統(京都前駅烏丸通西大路通七条通京都駅前)、6号系統(京都駅前烏丸通東山通七条通京都駅前)が 看 板の循環運転路線。盤面の地色:緑地に白数字。他に5131415系統など。

北野車庫10号系統を狭軌I型で運行したが、昭和36年に廃線。盤面の地色:白時に赤数字。廃線後、この路線に近接した運転は壬生車庫の(新)10号系統が引き継ぐ。

 

壬生車庫1号系統(壬生車庫⇔四条通⇔東山通⇔今出川通⇔千本通⇔壬生車庫)の循環運転、10号系統(北野線廃止後に運用:京都駅前⇔七条大宮⇔千本今出川⇔北野⇔白梅町)。盤面の地色:赤地に白数字。他に、112021号系統など。

 

錦林車庫2号系統(西大路九条⇔円町⇔丸太町通⇔錦林車庫⇔今出川通⇔河原町通⇔京都駅前)。盤面の地色:白地に青数字。緑地に白数字。他に、1222号系統など。

 

九条車庫7号系統(九条車庫⇔祇園⇔四条通⇔大宮通⇔九条車庫)の循環運転、9号系統(京都駅前⇔塩小路高倉⇔勧進橋⇔中書島)、19号系統(京都駅前⇔塩小路高倉⇔勧進橋⇔稲荷)。盤面の地色:濃紺地に白数字。他に、81718号系統など。

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2-4.晩年期(昭和46年~昭和53年)

路線の廃止は、昭和45年の伏見線をかわきりに、昭和47年に千本線、大宮線、四条線、昭和51年に今出川線、丸太町線、白川線、昭和52年に烏丸線、そして昭和53年の101日には一気に七条線、東山線、北大路線、河原町線、西大路線、九条線が廃止された。 これで83年間続いた京都市電の灯は消滅した。 昭和46年には、未だ年間1900万人を輸送していたが、統計数字のある最終年の昭和52年には、乗客数は2115万人であった。

 

市電に変わる新しい交通手段として、昭和58年に北大路京都間に市営地下鉄が提供され、平成20年には東西線の六地蔵⇔太秦天神川間が開通し、現在に至っている。

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3.京都市電、よもやま話

3-1.市電と他社路線との交差

平面・立体交差 市電と市電が平面で直行交差する時、独特のガタン、ガタンという甲高い音が街に響いた。懐かしいレール音である。 市電が私鉄線と交差する時も、原則、平面交差であった。 京阪・京津電車とは4個所(東山三条、四条京阪南座前、七条京阪、それと稲荷駅の手前)、京福電車とは2個所(西大路三条、叡電元田中)で交差した。 この中で最も多忙だったのは、何といっても、四条京阪南座前の平面交差であろう。 京阪電車も市電もお互いの路線の運転本数は大変に多く、また、無謀に踏切通過をする通行人が絶えず、警手の鋭い笛が鳴った。 懐かしの手作業による踏切・交差点であった。

 

一方、市電と国鉄との交差事情は私鉄線とは異なり、全てが立体交差であった。 当時の国鉄は国の威信で、圧倒的立場にあった。東海道本線は(4個所:伏見線が高倉跨線橋、大宮線が大宮跨線橋、東山線が東福寺駅付近の今熊野橋、西大路線では市電は国鉄線の下を潜る)で市電と立体交差した。 山陰線は(2個所:七条千本附近、円町付近で高架下を)市電が潜った。 あとは九条線の市電(東福寺九条河原町)間で、京阪電車、国鉄奈良線、疎水、師団街道、そして鴨川を一気に跨ぐ巨大な九条大跨橋(約700㍍、昭和8年竣工)の大立体交差があった。 さらに市電と私鉄との立体交差では、奈良電(後の近鉄・京都線)は市電・九条線の上を高架で、同じく伏見線の棒鼻付近では高架を走った。 阪急電車は四条通りを地下で走り、平面交差を避けた。 以上が市電の平面・立体交差ストーリーである。

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3-2.併用軌道と専用軌道、市電撤去後の敷石の余 

市電は街中を走る時は、道路上に敷設された軌道(併用軌道)上を走った。 そこには上質の御影石の敷石が敷き詰められた。 市電廃止後、これらの敷石は膨大な量に及んだが、廃物とはならず、各所で様々な余生を送っている。 学校関係(小学校や大学の敷石)、寺社の参道や庭石、また個人家屋の柱石、敷石、沓脱石(くつぬぎいし)等に、再利用されている。 それらの中で、最も幸せな余生を楽しむのは、銀閣寺から若王子神社間の疎水道に沿った「哲学の道」(約1.5キロメートル)に敷かれた敷石であろう。 元敷石は二人の恋人が並んで歩きやすい間隔(狭軌?)で敷かれた二本のレールだ。

 

京都市電は郊外を走る時、一部ではあったが、敷石の敷かれていない専用軌道があった。 伏見線では、勧進橋⇔稲荷間の殆どが、また中書島⇔京橋間、棒鼻⇔丹波橋⇔肥後橋間がそうであった。 ここでは市電に人や車の接近はなく、かなりの高速運転が可能であった。 今となっては懐かしい市電の郊外電車風景である。 その他では、七条通で市電が山陰線の下を潜る線路が敷石の無い専用軌道だったように思うが、記憶は定かではない。 

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4.妄想・京都新交通網計画

4-1.海外は、、、

ライプチヒ(ドイツ)の市内鉄道路線図

 

話題を海外に移す。 ライプツィヒ(旧東独領)は人口約50万人のドイツ中東部の多くの歴史遺産に囲まれた中規模の都市である。 市内交通にはヨーロッパのこの規模の都市によく見られる、電車交通網(LRTLight Rail Transit、都市の新交通システム)が張り巡らされている。

 

この市内交通網を見れば見るほど、ドイツ人の緻密さを感じる。このLRT路線図では、中央の円形の環状線(ループ)に多くが集中している。 そこにはドイツの高速鉄道(DB)のライプツィヒ中央駅がある。 市街を周回するのは、直径1キロメートル程の小さな環状線である。 郊外からの電車は、街に入ると環状線に入る。 乗客は車両が環状線を周回する間に、自分の乗りたい方向の電車に乗り換える。 環状線から、四方八方に延伸する路線(支線)(例えば、京都市電で言うと、(旧)伏見線の様なイメージ)が全部で20路線ほどあり、周辺の町と繋がっている。 街の中央の環状線区は許可車以外の車の乗り入れは禁止で、LRTの定時運行が確保されている。 環状線内の電車運転はスローだが、郊外に出ると専用軌道を高速で走る。車両は3~5両連結で、運転手一人で大勢の乗客を運び、快適な市民生活を支えるインフラとして活躍している。 これがライプツィLRTの概況である。(乗客は乗車したらすぐに切符を車内自動販売機等で購入しなければならない。 乗客の無賃乗車を防ぐ為に、不定期(!)に乗務員が車内検札にやってくる。 もし無賃乗車が摘発されたなら、言い訳無用で法外なPenaltyが課せられる。 NATO諸国でLRTは、原則この方式で運用されている。 従って、車両に車掌さんは不要である。)


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4-2.私案、現代の京都市内交通の問題点と提案

 京都市内の現交通システムは地下鉄と市バスを基本としている。 地下鉄は路線が網目状にならず、有機的に市内交通を繋げているとは言い難い。 また市バス網は市内各地に張り巡らされているが、各私鉄線との連携が不足している。 市民のニーズは多様であるが、その焦点は京都の主要ターミナル(京都駅、四条河原町、三条京阪、二条駅)間の効率的な移動の提供である。

 

 現在の京都は、LRTの姉妹である市電が撤去されて久しい。 さて、ライプツィヒLRTモデルを、京都に適用したらどうなるか? ライプツィヒが、効率的な交通システムを構築出来たのは、第二次世界大戦で街の殆どが破壊され、一から新交通システムを作らなければならなかったからである。 今となっては、それがライプツィヒにとって幸いした。 一方、京都は、幸いにも戦禍を免れたが、明治時代からの市電交通システムが残った。

 

提案1。新LRTの建設

もし、京都市電が、戦後に撤去されずに継続使用されていたなら、京都市電のLRT 化はちょっとした応用問題として解決を見たかもしれない。 新たにLRT路線を計画する場合、出来るだけ運用形態をシンプルに考えることである。 そのコンセプトは、

 

    LRT線は単線で。京都駅が起点。(環状線一周の時間:10分程度を目標に)

    LRT運転は一方通行。反時計方向回り。 定時運転を確保。街路は、歩道-線路-車道を区別。(停留所は歩道に接して設置。歩道、LRT線路、自動車道を完全に分離する)

    将来、LRT運転は自動化される。(運転手の人件費は問題であり、自動運転技術が完成すれば、無人運転LRTが街を走る。)

    思い切って、LRT線路が空中を走るモノレール運行はどうか。

 

これらが実現するかどうかは、やる気が第一である。 是非、議論が巻き起こってほしいものだ。 今の状況に無策であれば、京都市内の交通は早晩、窒息するであろう。 市交通局のバス事業は年々、採算が厳しくなっていると聞く

 

では、環状LRT路線はどこに? 京都駅を出発駅として、㋐川端通御池通(東西線と併用)大宮通の環状線や、㋑川端五条五条通大宮通の環状線は? 便利になるか? 「否。」 は環状の輪が大き過ぎ、は主要ターミナルを繋げない。これらの環状LRT構想はかえって、市内交通を混乱させる。 この案は残念ながら却下だ

 

提案2。ターミナル間を新地下鉄路線で繋ぐ。JR-地下鉄-京阪-阪急をもっと便利に!

それでは、地下鉄またはモノレールの新路線を京都駅⇔四条河原町⇔三条京阪間に敷設してはどうか? これでJRと各私鉄線、近鉄線と京阪線(京津線)、近鉄線と阪急線、京阪線と阪急線が新路線で繋がる。様々な交通チョイスが可能となり、利便性は格段に向上する。 さらなる利便性の向上のためには、主要ターミナルから、郊外線を四方八方に拡げるといい。成功のモデルはヨーロッパにいくつもある。

 

提案3。蛇足ながら、私の居住区の交通問題。京都市電の話しではないが、、、

京都府下では、特に南部域で東西間の交通の便が悪い。木津川、宇治川、鴨川、桂川、そして淀川を渡る鉄道路線は少ない。 例えば、(宇治、八幡、京田辺)⇔(長岡京、高槻)間は京都駅か、四条を経由して、大きく迂回しなければならない。

ところで、北陸新幹線が京都駅を経由して新大阪駅に延伸する計画がある。今の計画では、着工は2031年、想定工期は15年である(営業開始は2046!!)。 京都駅と新大阪駅の間に、新幹線・松井山手駅が新設される。 今の松井山手駅(JR学研都市線)は、交通の便に乏しい孤立駅であり、周辺には、空き地、畑地が多い。 最近、京都南部の高速道は久御山JCTの建設で、周辺域の自動車の交通事情は格段に良くなった。 これを機に、(宇治、大久保)⇔(樟葉、高槻)の鉄道線に松井山手駅を噛ませることが出来たなら、京都南部の交通の利便性は格段に向上する。この案に乗らない手はない。 JR東海道線、阪急、京阪、JR学研都市線、近鉄、JR奈良線を一気通貫、南京都で繋ぐ案である。 大阪、京都間に立派な第2の副都心が誕生する。 検討してくれているのかなあ?

 

 ああ……しかし、これは所詮、夢物語だ。 この先、京都周辺の都市交通がどう整備されようとも、私にはそれらを見届ける寿命は残っていない。 ただ、現状の不便を嘆く。

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付録:北野線、私のノスタルジア‼  北野線を走ったレトロな電車は、永らく明治風景のチンチン電車として、京都のシンボル的景観として親しまれた。 しかし、昭和36年に廃止された。 私は路線廃止までの約1年半、このチンチン電車で通学した。 停留所名から思い浮かぶ当時の景色が懐かしい。 電車のモーター音、車輪の軋む音、警鐘、発停車のチンチンとなる鈴の合図、車掌さんの声、などなど‥‥、文明開化を告げる音を聞いた。 どこかに当時を録音した音源はないのだろうか? 以下はその全停留所名である。 皆さん、それぞれに思い浮かぶ景色があると思う。

北野下ノ森(北野車庫)千本中立売西陣職業安定所前堀川中立売堀川下長者町堀川下立売(堀川を渡る)

掘川丸太町二条城前堀川御池堀川三条堀川蛸薬師四条堀川西洞院仏光寺西洞院松原西洞院五条

西洞院六条西洞院正面七条西洞院(三哲車庫)京都駅前

(総延長6.3キロメートル、停留所数:21


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おわりに

 京都から市電が撤去された。 そして、東京(都電・荒川線を除いて)も、大阪も、名古屋も、市電を撤去した。 しかし、東京、大阪、名古屋では張り巡らされた地下鉄網が複数の環状・交差を形成し、市電時代を凌駕するターミナル間の効率的移動に成功している。 強制撤去された京都市電の一部は、今も広島鉄道や伊予鉄道で立派に現役選手だ。 一方、ヨーロッパの各都市では、LRTは庶民の足として定着している。 単に、古いものを懐かしむ復古趣味ではないが、京都市電の再興はもうないのだろうか?

 

(しず)かに(おも)へば、(よろず)()ぎにしかたの(こひ)しきのみぞ、せむかたなき

徒然草・29段)

 

<参考文献>

ウイキペディア・京都市電(20184月)

ウイキペディア・京都市交通局のあゆみ、トップページ、ページ番号6730

市電保存館on WWW、ページ番号6824、~年表~、ページ番号21924020184月)

Weikipedia Leipziger Verkehrsbetriebe (LVB) 20184月)       

(完)

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