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Chapter 3

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 「邱山(きゅうざん)」顛末記

(A Brief Story of "Kyuzan", a Mountain Cottage)

 

(201356月記述)

京都府・宇治 / Uji, Kyoto, Japan

 宮門正和 / Masakazu Miyakado

 


つれづれなるまゝに、日くらし、硯(スズリ)にむかひて、

心に移りゆくよしなし事(ゴト)を、そこはかとなく書きつくれば、

あやしうこそものぐるほしけれ。

徒然草・序段


 

(目次)

1.はじめに

2.学生時代

3.社会人

4.先輩達の山小屋

5.自分達は

6.議論・挫折、議論・挫折

7.一念発起

8.候補地選び

9.地元の人達との交流

10.村元稔さんとの出会い

11.候補地決定

12.建築開始

13.鎮め石、地鎮祭

14.本格基礎工事

15.設計図

16.冬季現場訪問

17.「邱山」という名前

18.棟上げから竣工へ

19.竣工式

20.十周年

21.二十周年

22.現在。皆、年老いて

 

 

 

 

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1.はじめに

滋賀県彦根市武奈の奥深い山中に小さな山小屋を仲間と建設した。「邱山(きゅうざん)」という名前である。「邱山」を建設することで様々なことを経験した。苦しいことも多かった筈であるが、今となってはそれらの殆どは昇華され、心地よい思い出が抽出されて残っている。竣工は1984年。来年で30周年である。私の部屋には竣工の翌年の雪に包まれた「邱山」の写真が壁に掛かっている。この写真を前にして心に映る事柄をとりとめなく記載する。最近、頓に細くなった50年、40年、30年、20年前、、、の記憶を辿った斑ボケに近い老人の述懐である。建設の前後には手元に多くの資料があったが、それらもどこかにいってしまった。もとよりこれは、正確を期した報告書ではなく、私的で気儘な顛末記であることをお断りしておく。

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「邱山」(19851月)(撮影:野口裕志さん)

 

 

2.学生時代

大学生になるまでは、山とはほとんど無縁の生活であった。時々、山へ行くことがあっても、それは京都の社寺周辺の東山や嵐山界隈の小高い丘を散策する程度であった。

 

苦い思い出がある。中学3年生の時に、富士吉田から富士登山をする恒例の学校行事があった(富士山、3,776メートル)。五合目までバスで行き、そこから数珠繋ぎの蟻の行列で登行する例の登山である。スタミナには十分に自信があった筈であるが、豈図らず、八合目付近で、急に悪寒と頭痛に襲われダウン。いわゆる高山病に罹ってしまった。不思議なことに、ほんの百メートルを下るだけで、嘘のように悪寒と頭痛は氷解した。再び気を取り直して、元の場所に戻ると同じ苦痛に襲われた。ということで、学校行事に参加したものの、富士山の頂上を踏むという達成感なく帰ったという、面映い思い出がある。中学、高校生活を通じて、軟式・硬式野球部に在籍し、それなりの活躍があったのだが、高い山登りに関しては成果が得られなかった。

 

大学生となり、山野をめぐり自然を満喫するワンダーフォーゲル部で活動した。当時、いくつかの大学の体育会系のワンダーフォーゲル部で悲惨な「しごき事件」があり、何人かの死者が出るなど社会問題化したことがあった。家族から、特に、母親からは猛烈な反対があった。しかし、在学中、親不孝にも山活動を続けた。普段の活動は近くの山々(主に京都北山)を歩きまわり、山に慣れ親しむことであった。京都北山は数百メートルの小高い山々が、京都市内から若狭まで、連綿と続く。

山に入ったら、道を失うのは毎度のことで(もともと道のないところを好んで歩いたが、、、)、どのような状況になっても、落ち着いて行動し、そこから如何にして脱するかという体を張ったゲームを楽しんだ。また、滋賀県の西に位置する比良山系・蓬莱山(ほうらいさん)の北斜面に我が部は小さな山小屋を持っていた。そこを舞台に、春夏秋冬、それぞれの季節の山歩きを楽しんだ。次第に普通のルートの登行では飽き足らなくなり、沢登りなどの変化を求めた。ということで、週末の多くは京都近郊の山で過ごした。

 

大学生活が進むにしたがって、富士登山の苦い経験はすっかり忘れて、高い山にも出かけた。南アルプスの全山単独縦走行、台湾・新高山登山、八ヶ岳縦走、穂高・霞沢岳周辺での滞留生活、、、などは眩しい体験であり、体力的には絶頂期にあった。山を満喫した。その後、家族の富士登山をサポートするなどの名目で、富士山の頂上には計5回立つたが、幸いにも高山病にはなっていない。

 

しかし、山に出かけるとはいっても、いい天候に恵まれてばかりではない。雨の中、全身びしょ濡れになっての山歩きは辛い。さらに辛いのは、冬、雪の山を一日中歩き、雪上にテントを設営し、冷え切った登山靴を凍結しないようにビニール袋に入れ、寝袋の中でそれを抱いて寝なければならないような時である。自然と口数も少なくなり、『何で好き好んでこんなことをしているのか?』と、自己矛盾的な自己嫌悪に陥ることもしばしばであった。しかし、何とか蓬莱の山小屋にたどり着き、ストーブの燃えさかる炎で、衣類や靴を乾かしながら、降りしきる雪を眺め、雨音を聞く安堵感は堪らない。もうこれ以上、冷たい目にあったり、濡れたりしなくてもいいと思えるだけで静かに嬉しい。山小屋の有難さを身に沁みて感受したものだ。私の山小屋の原点である。無造作な造りの山小屋であったが、それに命を預けた。

 

大学生時代、山に関して様々な体験をし、多くを歩んだが、結局は京都北山、比良山系が自分の山の嗜好を育ててくれた。今ながらに、近郊の山々に安らぎを覚えるのは、その頃の活動が原点にあるのであろう。 

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3.社会人

25歳で我が会社生活が始まった。幸いにも満員電車に揺られて通勤し、大都会の大きなビルでネクタイを締めて働くサラリーマン生活のそれではなかった。研究所での研究員生活であり、研究所は都市郊外の比較的閑静な田園地帯に位置した。サラリーマン的服装で通勤することはなく、所内では白衣ではなく現場労働者と同様のねずみ色の作業着を着た。この服装は慣れてくると極めて快適であった。まず、新入社員教育と称して、社会人としての人間関係、特に上下関係、労使関係など会社の常識を教え込まれた。私自身、会社に順応するため、我は控えて研究効率と人間関係に配慮する生活を心掛けたつもりであった。

 

元来、スポーツ等で体を動かすことは大好きであった。昼休みや就業後、屋外でサッカーやソフトボールなど様々な球技に興じたものだ。しかし、その中に「山」活動は入ってこなかった。大学生活と違い、会社生活では、相当の時間を拘束されるため、数日以上を要する山行きは選択肢として難しかった。所内に色々なクラブ活動があったが、「山」クラブはなかったように思う。また、周囲にも、山好きの人間がいるような様子はなかった。学生時代の山仲間は、ほとんどの事柄を許しあえる気楽な結びつきであったし、ほぼ無限といっていい時間を共有することが出来た。しかし、強固な目的を共有する集団に属し、上下・左右の関係のある社員同士での山行きとは一体どういうものなのか。楽しさは共有できるのか?

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4.先輩達の山小屋

会社生活にも次第に慣れ、諸先輩たちそれぞれの立ち居振る舞い、行動、思考、嗜好、個性も次第に会得するようになった。その先輩たちといっても、年齢的には私とは十歳以上も離れ、既に研究所の中堅としてしっかりと実績を上げ、自らの研究分野を築き上げている方々達である。その諸先輩の中の一人で、普段は寡黙であるが、音楽をこよなく愛し、また、山スキーなどを時々楽しむという北海道・札幌出身の先輩とお近づきなった。元々、私も山スキーの装備一式は、その後も大切に保管していたので、雪と聞けば近郊の山であれば即応できる体制にあった。

 

入社後、3年目頃の冬だったと思う。その先輩とスキー登山について話し、二人の山行プランは簡単に纏まった。行き先は、滋賀県・岐阜県・三重県にまたがる鈴鹿山系の最北端に位置する霊仙岳(りょうぜんだけ)(標高:1,084メートル)である。私はそれまで、鈴鹿山系への馴染みは殆どなく、もちろん霊仙岳は初登行であった。その後、「邱山」建設に絡んで、この山域へは頻繁に出入りする事になる。しかし、それは様々な偶然と、多くの人々との廻り合わせの結果であり、後々の記述が楽しみである。

 

週末の土曜日、大阪から在来の東海道線で彦根に行き、そこから登山口の出来るだけ近くまで、芹川沿いの集落の行ける所までタクシーを走らせた。そこから、ツボ足とスキーで、汗ふき峠という鞍部まで快適なピッチで進んだ。さらに稜線に沿って登行した。そろそろ日暮れも近くなってきたので、風と更らなる降雪を避けるべく、雪崩の心配のなさそうな小さな沢の雪上斜面にツェルトを設営し、野営地とした。野菜炒めか何かの簡単な夕食の準備中、先輩からポリビンに入った自家製のワインを渡された。

「寒いから温まろう」と。私はアルコール類が全く駄目な下戸であるが、その時は喉が渇いていたので思わず「グビグビ、、、」と飲んでしまった。夕食の調理を続けたが、急に酔いが廻り、見事にダウン。夕食調理は途中で放り出し私は寝袋の中で一晩中、震えながら「苦」を我慢した。その後の先輩は快眠で、鼾はうるさく、時々狭いツェルト内で寝袋越しに体を押し返したりもしたが、もちろんそんな私のささやかな抵抗に本人は気付いていない。

 

翌朝、酔いは治まった。快晴であった。簡単な軽食を摂って登行を続けた。30歳に近くなったとはいえ、20歳代後半の私にはまだまだ体力があった。雪原を先頭切って、霊仙岳の頂上までラッセルし、先輩を頂上に導いた。他の登山者が全くいない頂上で、久しぶりに山の醍醐味を噛み締めた。霊仙岳は地形図を見ても分かるが、山頂部はだだっ広い笹原で三つのピークがあり、その地形は結構複雑である。私は本能的に危険を感じたものだ。雪がべったりと積もった頂上部は、天候のいい時は機嫌のいい山であるが、ひとたびガスが出て、風が吹き視界が狭くなると、簡単に道を失う。千メートル級の山とはいえ、危険な所である。確かにあの山では、私の記憶に残る中でも何回か遭難事故があった。暫らくの間、山頂部で過ごした後、汗ふき峠に戻り、そこから往路とは反対側の醒ヶ井方面に抜けて帰路に着いた。

 

その後、この先輩には「邱山」の建築でも様々なアドバイスを貰うのだが、口癖のように、この時の私の酒席での失態をよく語ってくれたものだ。その彼は、定年後、幼年時代から親しんだヴァイオリンのレッスン受講中に楽器を手にしたままハート・アタックで急逝した。いきなりの訃報を聞いた時の驚愕は忘れられない。彼はヴァイオリン奏者として、大阪のアマチュア合奏団に所属し、彼の出演する定期演奏会を何回か聴かせて戴いた。ヴィヴァルディの合奏協奏曲「四季」を聴いたし、ペルゴレージの「スターバト・マーテル(悲しみの聖母)」の心静かな演奏は永く私の記憶に留まった。

 

註:余談であるが、スターバト・マーテルの練習に取り組んでおられる時に、「町のレコード屋さんでこの曲のCDが見つからないので、全体のイメージが掴みにくい」と言っておられるのを聞いた。たまたま、私はコレクションの中に1983年にC.アバドがロンドン交響楽団員と録音したCDを持っていたので、早速それをコピーして差し上げた。また、付記として、あのアカデミー賞をいっぱい受賞した「アマデウス」の映画は、当然、モーツァルトの音楽が満載であるが、その中で、唯一、生涯モーツァルトをライバル視する少年時代のサリエリが父の葬儀に参列するシーンがあるが、そこでペルゴレージのスターバト・マーテルの中の曲、「肉身は死して朽つるとも」などが歌われていますよ、ということを参考情報として知らせた。演奏会当日、そのパンフレットを見ると、しっかり、映画「アマデウス」の中で、、、と記されていたのを懐かしく思い出す。

 

その先輩達であるが、かなり以前から鈴鹿山系のほとんど廃村状態の保月(ほうずき)という山村に山小屋を建設する計画があり、その準備を進めていた。積み立て活動資金もかなり揃い、そろそろ着工というところまで来た。山小屋の名前は何と「アマデウス」。そのメンバーは全員で8名である。いずれも本社、研究所、工場の製造現場などで重責にある脂の乗り切った中堅社員達である。恐らく人生で最も多忙な時期にあり、多くの実務をこなしている諸先輩方である。俄かには信じがたかった。しかし、よく観察すると、そのメンバー構成はリーダーシップ格の人がいて、その人が皆をしっかり牽引するという建築現場の組織体系ではなく、適材適所というか、お城の城壁が大小さまざまな石材で上手く組みあげられているのにも似た、実にバランスのいい布陣であることを看て取った。もちろん、会社生活とは一線を画した自由人としての活動である。

 

2年の歳月を費やして基礎工事から棟上げ、外装工事、ベランダ工事、水道工事など順次作業が組みあがっていった。私はボランティアとして、作業補助に人夫として出かけることもしばしばで、大体どのような経過で「アマデウス」が仕上がっていくのか、そのほぼ全工程をつぶさに見ることが出来た。

 

昼間の建設作業に疲れ、夕食後の酔いが回った先輩達から、「次の世代には我々に続く元気のある連中はいるのか!?」と叱咤とも、ゆすりとも付かぬ台詞を私はよく聞かされたものだ。言っている本人達は、酔いが回っての「適当な発言」だったのか、実は「真剣な叱咤だったのか」はよく分からなかったが、このような活動を満更否定する気持ちのない自分には諸先輩たちの身を挺した動きに大きく心を揺さぶられたものだ。まして、私は終始、素面で話を聞いていたのである。会社生活においても学生時代の気楽さは無いものの、その中で身を挺して自己を主張することは必要だし、また、しなければならないと次第に確信してきた。ただ、ひとりで出来ることと、ひとりでは到底できないことがある。

 

「アマデウス」の竣工式は確か1978年の盆休みに盛大に行われた。先輩達、その家族、保月部落の人たち、大工さん達など、多くがその完成を祝した。私も招待された。信じられないような事業が目の前で完成した。結果として、「アマデウス」のお陰で、大きな人の輪が形成されるのを見届けた。

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5.自分達は、、、

我々世代が活動するとして、何から始めるか。特に、先人の山小屋建設を真似しなくてもてもいい。先ずは、

① 有志を募ること、

② 長期計画を持続すること、

③ 同年輩だけで構成せず、適当に年齢も職種も散らばせること、

④ 資金積み立てを始めること、

⑤ 会社活動とははっきりと一線を画すること、、、

などを思った。しかし、何とも実に適当であった。

 

手始めに趣意書を作成したわけではなく、上記のおおよその考えに沿って、研究所内に在籍の気の合いそうな人たちに順次、声かけを行った。その中に、将来の活動を想定し、自動車運転の出来る人、数名の確保は必須であった。結果として9名が集まった。

 

何はともあれ、先ずは資金積み立てをスタートすることである。毎月の給与から、また、ボーナスからも醵金を徴収することにした。当然ながら、各メンバーは職階ランクも異なれば、査定成績も異なる。徴収に当たっては、各人からは一定額を徴収するのではなく、収入に見合う歩合性を基本とした。すなわち、給与もボーナスも支給額の一定%(何%だったかの記憶は定かではないが、35%前後であったか?)を自分で計算し、会計担当に納入という、あくまでも自己申告という自発的な方法をとった。会計担当は淡々黙々と集金をした。一年に一度、積立金額の報告があった。

 

しかし、時として何のための集金だったのか、目的共有がぼやけることもしばしばであった。私自身も「これは元金保障の貯蓄。いざ何も起業出来なかった時は、山分け資金で沢山のレコードを買おう。」程度の希薄な意識の時もあった。ともかくも歩みは継続した。

 

蓄財行為以外には、とくに何をすることもなく数年が過ぎた。徐々に資金は貯まってゆくが、それに比例して確実にお互いの腰は重たくなって来た。次第に募って来る各人への仕事の重圧、家庭生活の束縛など、色々な事情が腰の重さに拍車をかけたことは言うまでもない。当初、9名のメンバーはいずれも研究所の所属であったが、5年経った頃には、本社の管理部門、製造現場等々、適当に所属する部署は分散していった。しかし、いずれも(元)技術屋であることは変わらない。これは、「アマデウス」の先輩達とほぼ、同様の経過であった。その後、「アマデウス」の先輩達は盛んに施設を利用し、春夏秋冬、それぞれの自然を楽しんでいた。時々、その招待を受けたが、先輩たちの「君達、本当にやれるの?、、、」的発言には、少々辟易気味の時もあった。

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6.議論・挫折・議論・挫折

いよいよ何らかの行動を起こさねばという時期になって来た。しかし、一体、何から手をつけたものか、焦点は定まらなかった。進め方のノウハウや、指南書があるわけではない。山小屋、海小屋、キャンピング・カー的な発想、、、次々と意見は出るが、いずれも議論は深まらず、放談がしばし続いた。汗を流して自分達で基礎から総てを手作業で建設するのか、かなりの工程は業者に委託するのか、、、。山にするのか、海にするのか、、、。山小屋ひとつをとっても、雪のあるところ派、雪の降らないところ派など、、、。話だけは百出したが。

 

しかし、当初、アイデアの一つであった「海の家」的発想は、元々、我々メンバーの中にヨット・釣りなどの海のレジャーに親しむ者が少なかったこと、海に近いところは山に比べると一般的に土地の値段が高いということ、海水浴のフル・シーズンはわずか一ヶ月余、その他の期間をどう活用するのか、等々について有効なアイデアが浮かばず、自然とドロップ・アウトしていったというのが、私の認識である。

 

近畿一円、およびその周辺の地図を見た場合、メンバーの平均的な居住地・大阪をベースに考えた時、中国道では兵庫県・岡山県の県境あたりの山々、および名神道周辺では湖東、湖西の山々、伊吹山、関が原など岐阜県の入り口の山々あたりまでが候補地として適当であろうと思われた。氷ノ山、京都北山、丹後半島、大峯、大台が原、また南紀方面などは山々としては確かに魅力的ではあるが、交通の便を考えると選定の候補地としては二の足を踏んだ。個人的には信州、飛騨の山々には限りない憧れを持つのであるが、自力での建築、その後の利用を考えると、どうしても候補に入れるのは難しい。「アマデウス」先輩たちの、建築期間中の集中力、および、その後の活用状況を見た場合、車を利用して高速道路で大阪から片道2時間以内というのが限度であろうということは何となくお互いの共通認識として持った。

 

山小屋建設地探索と称する活動を開始したのは私の年齢で3334歳位の時であったと思う。「アマデウス」先輩とは一線を画すべく、中国道の西方向、すなわち岡山県、兵庫県の山中を数名で思い思いに出向き、ドライブがてらの探索を開始した。主に、佐用や山崎インターチェンジから北の方向の山々である。一見して、杉・檜の植林があまりなされていない、雑木林で照葉樹、広葉樹林の山林のようなところを探そうとした。それぞれに出かけた者から候補地探索のレポートが報告された。候補地にふさわしいと思われる箇所がいくつか集まった。

 

次のステップである。その山林といっても、それが村有林なのか、個人の林なのか、誰の管理下にあるのか、どのように進めていったら購入の交渉が始められるか、その為にはどこでどのように情報を集めたらいいのか、暗中模索もいいところであった。今となっては、どこの山村だったかの記憶は定かでないが、次のステップに踏み込むべく、さる村役場の林業課を尋ねたことがある。我々の活動の趣旨を説明し、「土地購入」の相談を持ちかけようとした。村役場の担当者は、都会からやってきた信用が出来ない、活動の趣旨がよく理解できない我々の突然の訪問に、どう対応したものか困惑を隠しきれない様子であった。後々、山林というものは村の基本構造の一つで、それは売り買いをするような対象では無く、現状を動かすという発想は役場にはなかった。もちろん村の人にも全くそのような発想は無いということが分かった。ということで、役場の人に村の人を紹介してもらったり、面会するというところまではとても至らなかった。

 

我々は、五里霧中、全く方向違いの方向に歩もうとしていたのだということを知った。全く歯牙にもかけてもらえなかった。土地の売り買いという行為は、まさしく都会的商行為であり、山村には馴染まないということを学んだ。しかし、この事に気付くまでに、一年余の歳月を費やしてしまった。ともかく、車で山に出かけて候補地を探すというやり方は、日本中のどこに出かけても無為ということである。ここで、アプローチの方策を一から再検討する必要があった。「双六」でいえば、否応なしに振り出しに戻らされてしまった。

 

当初、研究所に在籍の9名のメンバーで活動をスタートしたと記したが、時間の経過に伴い、研究所からひとりまた一人と他の部署に転籍していった。しかしながら、これまでの活動の反省や、今後の方針等を起案し、全員に諮問するのは依然として研究所に残留したメンバーの主たる任務であった。あくまでもこの活動は会社の業務とは一線を画している。殆どの情報共有や、意見交換はお互いが顔を突き合わせて行った。勤務時間外や昼休みなど、目立たないことを配慮しながら。もちろん、今では当たり前の電子メール等で情報の共有化が進められたならば、はるかに効率的に事が運べたかも知れない。会社の電子メールなどの情報通信設備をこのような私的な活動に使うことがご法度であることは「百」も承知しているが、生憎、我々がこの様なレベルでもがいていた時代は、これら便利なオフィス機器が導入されるおおよそ15年以上も前の事であった。

 

今後の方針である。

これまでに探索したところで、候補地と目するところをめげずにしつこく何度も訪れ、そこを管轄する村役場、特に、山林の関係者と出来るだけ懇意になること、そうしてその中で、我々の集団の認知を得てから、おもむろに山林の所有者とコンタクトをする。先ずは、このような従来から考えていた正面突破の行動の継続はどうかと考えた。山に入る前に、人間関係の構築が第一と考えた。しかし、相手は日ごろビジネスでお付き合いする人々とは全く異なる世界の人達で、相手方の思考パターンや価値観はよく分からなかった。信用を得ることが大事といっても、その具体的方策を考えると、どのような点に注意を払ったらいいのか、これまた大変に難しい課題であった。

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7.一念発起

基本戦略の練り直しを迫られる中、ひとつの耳寄りな情報をキャッチした。その情報がどこから我々の耳に届いたのか、その経緯は今となっては定かではない。「アマデウス」の先輩の誰かの仲介だったのかも知れない。滋賀県の大学に人文地理学の現役教授がおられた。その先生の専攻は過疎対策で、滋賀県およびその周辺の山域の事情に精通され、実際、いくつかの山々では産業振興等のプロジェクトを指導されているとのことであった。しかも、この先生は我々の会社の本社・海外営業畑で活躍され、欧州駐在員をされている方の「お父上」とのことである。私が始めて欧州出張をした折には、この先輩にお世話になった。その出張の折には、先々「お父上」にお近づきなることなど、ついぞ思いはしなかったが。

 

また、我々メンバーの中に滋賀県の大学の出身者がおり、彼がその先生の講義を受講したかどうかを私は覚えていないが、「確かに、その先生は知っている」という。これは、大変に有用な情報である。首尾よく、先生のご指導を受けて山小屋を建設することになるとして、それが「アマデウス」と同じ滋賀県内というのは、二番煎じで、やや照れくさい思いもあるが、そのようなことを言ってはいられない。先ずは、この先生にお会いして、我々の目的と現状(窮状)をよく説明し、出来れば先生のアドバイス、ご指導を賜わるべく、コンタクトを取らせて戴こうということになった。

 

最初の先生へのコンタクトが手紙だったのか、電話だったのか、これも記憶は定かではない。後日、彦根の旧市街にある先生の大きなお宅を数人でお邪魔し、面会にあずかった。

 

先生は和服で登場された。背が高く大柄である。体つきは先生のご子息である我々の先輩によく似ておられた。話は順番に、我々の会の設立の経緯、これまでの経過、今後の展望、特にどのようなものを作りたいか、まだ、共有した山小屋のイメージもなく、設計図も何も無い状態で、説明を進めた。ただただ、熱心に。先生はすでに我々の事はあらかたご存知で、我等の話を聞き、「岡山・兵庫のようなやり方で探索活動を続けても無理でしょう。」と即答されたのを今もはっきりと覚えている。滋賀県の過疎山地域といっても、湖東の鈴鹿方面、湖西の比良山系方面、余呉湖あたりの湖北方面とそれぞれの過疎地域にはそれぞれに特有の問題があり、先生もその指導・対応に色々と知恵を絞っていることをお聞きした。

 

早速ではあるが、近い週末に、先生の心に思い当たる候補地をいくつかご案内して戴くことになった。我々は車二台を用意し、先頭車の助手席には先生に座っていただき、何とか足が地に着くと思われる活動を開始することになった。新緑で眩しい季節であったと記憶する。

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近畿地方

 

 

8.候補地選び

分け入ったのは、かつてワインで失敗した苦い経験のある鈴鹿山系の最北部、霊仙岳の西側である。「アマデウス」からは北方向に約20キロメートル離れた所であった。このような山の中にも林道は通され、また、主に杉・檜であるが整然と植林された人工林では所々で、枝葉伐採や維持管理の作業をする山人に出会った。先生はその中の幾人かとはすでに面識があり、最近の山の状況の聞き出しなど、親しくお話をされた。ついでに、ぞろぞろとついて回る我々グループの紹介もして戴いた。しかし、山人と我々の間に何とも埋め尽くしがたい距離があるのは察しのとおりである。

 

林道を車でゆっくりと走り、また時々車から降りたりして、勝手に山小屋建設によさそうな箇所に分け入って歩いたりもした。先生に寄せる山人達の信頼感のお陰で、我々はまだまだ、足が地に着いているわけではないが、山人の幾人かと簡単な話をすることが出来た。

 

このあたり一帯は、彦根市街からは地図上の直線距離ではわずか45キロメートルであるが、二重、三重の山々に隔たれ、すでに十分に奥深い。町からは、すでに忘れ去られたような場所というのが我々の持った第一印象であった。5万分の1の地形図を見ると、そこには武奈(ぶな)、明幸(みょうこ)という互いに隣接した二つの小さな集落(跡)があり、そこには寺院、神社、学校の記号が記されている。殆ど耕すための平らな土地も無いこの地域に何故、人が住むことになったのか私達には大きな謎であったが、かつて、確かにこの山系には人が居住していた。武奈には30件程度の家が建ち、山での生活が営まれていたようだ。しかし、我々が通うようになった時は、すでに最後の山人が彦根の里に下山してから数年が経ち、降雪のない期間だけ、山作業の人が休息や仮眠のために旧住居を利用しているという状態であった。

 

部落の大部分の大きな茅葺の家はすでに屋根や床が抜け落ちた無残な状態にあった。積まれた石垣でかろうじてそれと判別できるようなところもあった。部落の中には小さな水の流れがあり、山人はその水をあらゆる生活用水として利用していたようである。部落の最下手の窪地には、どんな日照りの夏でも水が枯れることがないといわれる井戸があった。直径約1メートルばかりの底を抜いた木製の樽を埋め込んだ井戸である。すでに大分、朽ちかけていた。確かに枯れることなく、清水が湧き出ていた。部落の人たちはこれを『弘法さんの井戸』とよび大切に世話をしていた。井戸の傍らには小さな祠が祀られていた。この水は、芹川となり、やがては琵琶湖に注いでいる。

 

武奈のひとつ南の沢に沿ってもうひとつの部落、明幸があった。明幸の離村は武奈よりも早く、荒廃はさらに進んでいた。小学校の跡地は幽霊屋敷のようで、いつ倒壊するや知れず中にわけ入るのも躊躇された。ただ、明幸の部落の入り口には殆ど色が朽ち落ちていたがトーテム・ポールが立っていた。かつて、小学生が学んだというかろうじての証である。

 

すでに山人は里に降りたとはいえ、かつての武奈および明幸の部落の人々の共同体団結意識は大変に強く、春と秋には彦根から武奈部落へ通じる林道の共同補修作業(道普請)は山人総出で行われていたし、神社では毎年、春祭り、秋祭りと祭事が催され、仏事もしかるべきときには執り行われていた。周囲を見渡しても、緑の豊かなことは申し分ない。街から近いわりには一旦、山に入ると殆ど樹林の中で、我々の感覚で言うところの森林浴には最適であった。また、冬季には相当の積雪もある。

 

我々は、今後、この山系に出入りさせて戴くことにした。先ずは、道普請や村祭りなどにはできる限り参加し、お互いの距離を縮めるところから徐々に取り組むことにした。最終的な目標は山小屋建設であるが、騒がず、慌てず、その候補地探索は山人から色々なことを聞き取りながら進めようという事になった。先生のご指導・ご紹介のお陰で何とか、第一歩を歩み始めることが出来た。これから先、すべては自己責任で取り組まなければならないと覚悟を決めた。

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9.地元の人達との交流

近々、道普請を行うという連絡が入った。秋の日曜日である。集合場所は、武奈の部落の入り口の三叉路、時間は午前9時であった。武奈と明幸の出身者の共同作業である。我々も車一台4名で颯爽と現場に向かった。総勢で450名が集まった。道普請というのは、車輪で出来た轍に土砂を埋める補修作業、車の通行の邪魔になる林道にせり出してきた枝の伐採、道端の草の刈り込みなどであった。道具として必要なのは、シャベル、スコップ、草刈用の大鉈である。大きな土砂崩れなどがあった場合は、彦根市の土木課にショベルカーの出動を要請することもあった。また、草の刈り込みには、山人が持参したエンジン駆動の草刈機は絶大な威力を発揮した。皆さん野良衣、長靴、麦藁帽、腰手拭といういでたちである。

 

作業を始めるにあたって、一年毎に持ち回りの区長さんから、今日の作業がどこからどこまでかという区画の説明があり、個々人の分担作業場所が指定された。また、昼食は各自持参であるが、菓子パンや飲み物の配給があった。我々は今日から道普請に参加する新顔であるが、当然の事ながら、我々の氏素性に皆さんは興味津々である。区長さんからは、「これから時々武奈の作業を手伝っていただけること」、「この山のどこかに山小屋を建てたいという希望を持っている集団であること」の紹介があった。我々は決して固有名詞で呼ばれる事はなく、「住友さん」という有難い呼称を戴いた。

 

作業は2班に分け、南班、北班がそれぞれ一番遠い地点まで行き、そこからお互いが合流するまで作業を進めるという方式である。10時過ぎには早速に大休止があったし、昼休みはしっかり1時間は休んだ。道に座り込んだり、軽トラの荷台で仮眠をしたり、皆さん思い思いに参加をしていた。休憩の時間は動いてはいけない。皆さんと行動を合わせること、平等に労働を分かち合うこと、和をなすこと、そして何よりも参加をする事が基本であった。また、道普請は当然、山人との共同作業であるが、その中で我々は黙々と作業を進めるのではなく、話好きの人との軽い世間話等に心がけ、その中に、山小屋に繋がる情報をキャッチした時は心に留めるようにした。技術屋も営業的センスを必要とした。大体、午後3時ごろに両班は合流し、道普請は終了、そのまま流れ解散になった。

 

こういうことで、春・秋の道普請には山小屋完成後も可能な限り参加し、山の人との親交を深めるように努めた。

 

武奈の『弘法さんの井戸』の木桶が設置してからかなりの時間が経ち、腐食も激しくなって部分的に崩壊して来ていた。木桶を新たに半永久的に長持ちするコンクリート製の円筒チューブに取替えようとする工事が計画された。コンクリートのチューブはかなりの重量があり、井戸に近づく通路はかなり急峻な狭い坂道で、チューブを据え付ける作業に重機の利用は難しかった。かなりの人力を必要とする作業になることが判っていた。我々、若者(?!)の戦力も期待された。

 

井戸の底には鎮め石というものがあり、部落にはその石が井戸を守っているとの長年の言い伝えがあった。それは神聖な石であり、当然、井戸枠の取替え作業中は外に出し、その間、石は綺麗に磨かれ再び新しい井戸に埋め戻される手筈になっていた。手順としては、誰がやってもよさそうであるが、実は、この石は純粋無垢の乙女しか触れてはいけないという厳とした言い伝えがあり、男性が井戸の中身に触れるのはご法度であった。区長さんの奥さんを唯一の「生娘」ということにして、ひとり冷たい井戸に入るのが許され、丁寧に石を取り出した。この間、周りの男達のガヤガヤとうるさいこと。「あんた、いつから生娘になったんや」「うち、昔からズーーッとやで」というような軽い掛合いが弾んだ。

 

古い木枠をはずし、周囲を少し大きめに掘りなおし、コンクリート製のチューブに取り替える作業に入った。我々の出番で、山の男性陣と息を合わせて、一気に作業は進んだ。ぶれないように周囲は新たにセメントで固め、そこに磨き直した鎮め石を「生娘さん」に再度、埋め戻して戴き、めでたく工事は終了した。これまで、どれ位の頻度で井戸の補修が行われてきたのかは知らないが、この行事は山の人にとっても非日常的な出来事であったようだ。この体験は、一気に山の人と我々の間の距離を縮めてくれた。伝統はしっかり受け継ぎ、出来る限り後世に伝えていこうとする武奈の人々のものの考え方、保守的と言ってしまえばそれまでだが、その中に彼らの団結を守って生き抜く智慧が深く刻まれているのを強く感じた次第である。

 

この間、山小屋の候補地探索を適宜、進めた。判ってきたことはこの山林帯はすべてがほぼ個人の所有であり、その区分は当事者にしかわからない大変に混み入って複雑なものであるということである。我々の基本的な考え方として、

① 人工林は避け広葉樹林に囲まれたい、

② 霊仙岳の眺望のいいところがいい、

③ 水場が近くにあって欲しい、

④ 林道からあまり遠いと運搬作業に難儀するが是非とも林道から見通せないところを希望したい、、、

と言いたい放題であった。

 

山の有力者からも、そこかしこの場所の紹介を受けたが、杉・檜林のど真ん中であったり、霊仙が全く見通せないところであったり、、、となかなか、我々の我儘なメガネに叶う候補地が見つからなかった。

 

そのうち、この山域が如何に広いと言っても、すべての条件を満たす候補地を見つけるのは難しいという結論に達した。例えば、①の人工林云々という議論は、例えば、杉・檜林であればその杉・檜を買い取り、伐採し、広場を造り、そこに好きな広葉樹を植樹すればいいのではないかというふうに考え方を変えた。しかし、②の霊仙は動かせない。霊仙の眺望のいいところに焦点を絞って、候補地探索を繰り返した。その中で、一箇所、霊仙の稜線全体が見渡せる恰好の場所を発見した。その土地が誰の所有かはわからなかったが、山の長老に相談すると、「あそこは稔君のとこや」と教えてくれた。③、④に関しては、不便にいかに耐えるかという問題であり、その受容は想定の範囲内と判断した。その人の名前は村元稔(むらもとみのる)さんである。


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10.村元稔さんとの出会い

武奈には同じ姓の家が何軒もあり、村元姓もその中のひとつであった。従い、山人の間ではお互いを姓で呼び合うことは稀で、皆さん普通に名前(ファーストネーム)で呼び合っていた。「村元稔さん」とはこれまでの道普請で既に顔を合わせていたかもしれない。しかし、当方にはどの方かは分からずじまいである。村元さんにとっては自分の土地に白羽の矢が立つことになり、それは驚きだろうし、また迷惑千万なことかもしれない。ともかく、名前が分かった以上、早速、こちら側の意志を伝えるべく、ご本人にコンタクトを試みた。初めての出会いは、彦根城の近くの大きなホテルの喫茶ルームだった。

 

先ず、当方の自己紹介とこれまでの経緯については詳細にお話しをしたが、ここでは略す。村元さんは私より5歳ほど若い青年であり、県の養護学校の教員をされている。今は彦根市街の琵琶湖に近いところに居住されているが、彼は武奈で生まれ、少なくとも小学校は武奈学区で学び、中学校以降は積雪の期間以外は徒歩で森の中を歩いて麓の学校まで通い、冬季の積雪期は寄宿舎生活を送ったというその生い立ちを聞いた。武奈に対する愛着は会話のすみずみから感じられ、また、幸いにも我々の活動にも興味を示してくれた。

私達と出会った時はすでに武奈を離れて大分経つが、父上は健在で、夏の期間は時々一緒に山で過ごすというような話を聞いた。彼の生家は武奈の部落の最下手で、『弘法さんの井戸』に一番近いところに位置していた。大きな茅葺の家は我々が訪れたときは既に屋根が抜け始めており荒廃の一途にあった。細い道を挟んで向かい側には、物置小屋があり、ここはまだ多少の修理を施せば十分に雨露は凌げた。基礎工事の期間中、この物置小屋を宿舎として使わせていただいた。

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11.建設地決定

我々が彼の土地に興味を示したのは、彼にとっては意外だったようだ。その場所は牛蒡の栽培等、畑耕作地であったと言う。彦根の里に下山する時に、耕作放棄地にするに忍びなく、杉・檜の植林を行ったという。その土地にはまだそれほど大きくはない樹齢10年未満の杉・檜が植わっていた。霊仙の眺望が我々にとっては決め手となったわけであるが、彼にしてみれば霊仙の眺望は日常的なものであり、その場所からの景色がどうだったかの記憶はないという。恐らく、耕すことに集中の日々であったのであろう。

 

土地の購入に関して、当方の予算等を提示して交渉を開始した。彼の反応はこの土地は、先祖から代々受け継いで来たもので、自分の代で手を離れるのはとっても納得できないというものであった。また、一部とはいえ土地の所有者移転の登記をし、我々の代表者の名前を記載することになるような場合は、山人全体の了解を得ることが必要と思うが、それは難しいと思う。話が複雑にならないように、賃貸租借ということでどうかと逆に提案を持ちかけられた。当方としては、地上に建築物を建てる以上、その土地も当然、所有しておかなければならないと考えていたが、何回かの交渉の末、長期間にわたる賃貸ということで了解した。賃貸契約書を作成し、契約を締結した。1983年の8月頃だったと思う。

 

 

「邱山」周辺図

 

 

そこは武奈の集落から北方向に1.5キロメートルほど離れた日当たりのよい場所である。土地は全体として東南向きの緩やかな斜面で、林道からは2030メートル離れている。水利は無く、降水を貯めるか、毎回訪問時にかなり遠くの沢から水を運ぶ必要があった。賃料は都会のそれとは比較にならない価格であった。賃料は5年毎に支払いという条件で、およそ1,000坪の土地を借用することになった。

 

恒例の秋祭りが武奈の神社で開催され、既に顔なじみとなった山人が多く集まった。ここに我々は村元さんと出席し、神事の前に区長さんの司会進行で、山小屋建設の場所、おおよその構造、利用形態、地鎮祭を行うこと等を説明した。特に、火気使用については、そこが水の無い場所であること、また森林火災が最も恐ろしい災害であることを考え、細心の注意で対応すること、消火器を設置する、、、等を縷々お話しした。出席者から、特に反対意見は出なかった。社殿前でのしめやかな神事のあとは、皆で飲めや歌への賑やかな宴となった。やっとここまで来た。

 

後日、「邱山」を建設することが出来、人の輪も広がり、幸いにも山の人達とも気持ちが分かち合える関係になることが出来た。しかし、最初の頃、我々が武奈に出入りするようになった時、山の人の不信感のボルテージは上がり、村会では、『あいつら、おとなしそうに山小屋を建てたいと言うとるが、ほんまは「赤軍」ちゃうんかいなあ。』というような話があったと山の長から後々になって聞かされたことがある。なかなか我々に対する警戒心が解けなかったということだ。彼らからしてみれば当然のことであろう。何も平穏な山に見ず知らずの物騒な厄介者を入れることはない。今となっては「笑い話」なのかも知れないが、当時の我々はおおよそこのような状況に置かれていたのである。

 

頭の中には色々な思いが巡った。雪が降るまでの3ヵ月足らずの間にやっておかねばならないことが色々とある。11月末までは何とか車での往来は可能であるが、例年12月~3月末までは、鹿や野うさぎなどが餌を求めて森の中を歩き廻るほかは、この山域は深い雪で静寂に包まれる。

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12.建築開始

いよいよ、晴れて山小屋建設の運びとなった。おおよそのプランとしては、雪の季節までの3ヶ月程の間に、基礎工事を仕上げる。翌春、雪が解ける4月になったら、資材を山に上げ、棟上げを少なくとも5月の連休中に行う。骨組みが組みあがった所で、順次、屋根、外壁、内装等の丁寧な突貫工事を行い、8月の盆休みに竣工式に漕ぎ着ける。無理を承知で、おおよそこのような計画を立てた。恐らく、5月の棟上げから8月の竣工までは死に物狂いの週末が続くことであろう。もちろん、ウィークデイは仕事である。怪我なくやり遂げたいというのが切なる願いであった。

 

我々は熱い部分もあったが、醒めた部分もあった。馬力に自信があっても、建築技術に精通しているわけではない。山小屋は骨組みだけはきっちりと組み上げておかないと、後々、合理的な耐久性と美観はとても追求出来ないことは分かっていた。迷うことなく、基礎工事の指導と骨組みとなる木材加工に関しては地元の大工さんに頼ることにした。もちろん、労力は我々が提供する。幸いにも、一人の大工さんを知っていた。彼は保月出身で、「アマデウス」の建設の時の技術顧問であり、今は南彦根に住む。宮田俊雄(みやたとしお)さんである。

 

早速、宮田棟梁を現地に案内し、何をどうしたいか、その概略を説明した。元々、山で生活をされた人である。大体の要領は理解いただいた。場所が傾斜地で、林道からの距離が約2030メートルあるため、基礎(鉄筋+コンクリート)構造をどうするかがたちまち問題となった。都会での建築のように多量のセメント、砂それに水を確保するのは基本的に無理があった。生コンの活用しかないとの結論になった。そして、傾斜地はそれなりに平坦にする必要があった。しかし、いくらか平坦にした傾斜地に布基礎(四方をコンクリートで囲み込む構造)を貼るとして、ざっと十数トンという生コンが必要と計算された。これは資金的にも人力運搬能力的にも無理があり、立派な基礎工事だけで資金が枯渇してしまえば、それこそ笑止千万である。

 

山小屋本体の設計にはまだ時間的な余裕があったが、基礎をどうするかについては一刻の猶予も無かった。盛んに知恵を出し合い、議論の応酬を経て、至った結論は正倉院の発想、独立基礎方式である。温故知新といえばカッコいいが。基盤の部分には十分量の栗石を使い、地盤をしっかりと搗き固め、その上にコンクリートを流せば、かなり頑丈なものが出来る筈であると算段した。その基盤の上に、独立基礎を立てるという考え方である。前面部分(縦)に計5本、横面に4本と計20本の独立基礎が必要である。従い、基盤の穴も計20穴を掘らなければならない。傾斜地であるため、各々の独立基礎の高さは異なるが、もちろんそれぞれの頭頂部の高さは水平に保たれなければならない。縦3.5間、横2.5間すなわち、建坪が約9坪というのがその床面積である。これで基礎工事の方針も決まった。

 

「いざ、出陣!!」という感じで、建設地に生育する数本の杉・檜をたちまちになぎ倒し、おおよその場所を決めた。3.5件x2.5間という寸法だけが頭にあったので、ともかく最初は穴掘りだということで、うなぎの寝床のような穴を掘った。それを見た棟梁は「あんたら、馬力だけはあるけど、独立基礎でやるんやからな。こことここには穴は要らん。埋め戻しなはれ。」と早速のイエローカードであった。そういえば、この建設工事の期間中、イエローカードは何枚も出た。イエローカードが二枚でレッドカード退場というルールだったら、工事はたちまちに遅滞したことであろう。

 

基盤の位置決め、蛸を使っての土の搗き固め方、傾斜地での水平の出し方、20本の独立基礎の頭頂の水平の揃え方等々、始めて体験する事柄であったが各々が納得の工法であった。

 

独立基礎は垂直に保持した円筒の中に鉄筋を骨組み、それに上から生コンを流し込むのであるが、その円筒については、下水配管に使われる直径2530センチメートル位の塩ビのパイプを考えた。しかし、現場での切断は材質が硬すぎて難渋することが予想された。これについては、たまたま研究所の中で増設工事の現場を通りかかったメンバーの一人が、廃材置き場にあったボイド管(直径20センチメートルくらいの紙製の筒)を拾った。これが大きなヒントになり、彦根の資材店で適当なサイズの資材を買い求めた。紙製であるので、生コンさえ固まれば、後ほど紙筒は破り取ろうと思っていたが、これが意外と丈夫な資材で30年経った今も、その紙筒は健在である。軽くて細工が容易な資材に助けられた。窮すれば知恵は出るものである。

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13.鎮め石、地鎮祭

入り口の左から二番目の基盤を大黒柱の位置と見做し、その基盤部分には直径30センチメートルほどの平らな石に棟梁と9名が名前を寄せ書きし、鎮め石とした。鎮め石には各人が日本酒を振りかけ工事の安全を祈った。

また、本格工事を開始するに当たって、地鎮祭を執り行った。山小屋の建設位置の四方を笹竹で囲み、笹竹は注連縄(しめなわ)で結んだ。縄には紙四手(かみしで)を下げた。神主さんを米原の神社からお呼びし、即席の祭壇を設え、昆布やスルメや大根など、海の幸、山の幸を供え、この土地の災いを清めていただいた。我々のほかに、村元さん、棟梁にも参列いただいた。地鎮祭を行うのは山人との約束であり、我々にとっては工事の安全遂行に神頼みの心境であった。地鎮祭の時に始めて、メンバー9名全員が現場に揃った。

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14.本格基礎工事

本格作業に突入した。生コンの運搬は正に人力勝負であった。ドラムを回転した中型の生コン車がやってきた。林道の道端のビニール布の上にどろどろの生コンを落とし、生コン車は帰っていった。当然、生コンは時間の経過とともに硬化する。時間との闘いである。棟梁から「約45時間、死に物狂いで運べ」との指示が出た。生コンは少しずつ一輪車で運んだ。坂道の特に急坂部分には足場板を敷き詰め出来るだけ車輪がスムーズに転がるようにした。一輪車は一人が両手でハンドルを保持し、二人がザイルで引きずりあげるという三人一組体制であった。

私は主に一輪車部隊で働いた。途中、あまりの重さに生コンをこぼしそうな目に何度もなったが、腕、腰の疲れを我慢して何とか乗りきった。林道にはシャベルを持って空の一輪車に生コンを積む係りが一人、独立基礎の部分には棟梁の助手に一人が張り付いた。昼食を摂る間もないくらい集中した作業であったが、何とか時間内にやり終えることが出来た。生コンの量もほぼ計算どおりで収まった。もし生コンが足らなかったらと思うとゾーツとする工程であった。20本の紙筒が所定の場所に並び立った。壮観といえば壮観。これで、年内の冬季前の所期の作業は何とか達成することが出来た。ひと時の安堵感である。

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15.設計図

山での工事から離れて、関西の下界でのメンバーのやり取りである。

翌年の棟上げにまず必要なのは、山小屋の設計図である。3.5x2.5間という敷地の上に何を乗せるかである。設計図を描けたら、棟梁に説明し、冬の間に必要な材木の加工をしてもらおうという算段であった。山小屋のイメージについて、様々なアイデアを出しあった。雨の日もベランダのようなところで外を見ながら寛ぎたい。この山小屋の主題は霊仙の眺望であり、東向きには可能な限り大きな窓が欲しい。部屋の中がごちゃごちゃしていても二階に上がればいつでもすっきりと寝られる場所を確保したい。だから、二階建てだ。丸太小屋のイメージは確保したい。総檜作りだ、、、。本来なら、こういう状態では意見の集約は難しいところである。

 

メンバーの最長老、といっても我々の平均年齢と5歳程しか年齢差はないのであるが、常々、「会長様」と奉り、契約、山人への説明会等、重要議事の時にはご出馬を願っていた。その彼が、酔った時に口癖のように言っている事があった。「僕は本当は建築をやりたかったんや!特に化学が好きで専攻したわけではない。」と。彼の仕事は実に緻密で定評があった。化学の分野であっても、仕上がった製造工程の設計図はまるで建築設計図のように整然として美しかった。これは、所内のみならず、製造現場、本社の管理部門の皆が知るところである。

 

彼に設計を頼もう。設計図が出来上がってから、もし何か注文することがあれば書き加えてもらおう。ということになった。彼はもちろん我々の百出の議論を承知している。数週間後、第一次設計図案が提示された。山小屋というより、まるで大邸宅でも建ちそうな整った設計図である。私は特別に修正するような箇所は見出せなかった。小さい片流れの屋根と大きい片流れの屋根の組み合わせ。中二階。中二階に至る渡り廊下。二階の小さい窓。雨や雪で濡れないベランダ。基本構造はこれで決まりとなった。

 

ただひとつ、激しい議論になったのが東向きの窓の大きさである。部屋の中に寝転んでいても霊仙の稜線が見えるように、窓は都会のマンションのように床面から背の高さを超える2メートル位の高さにしたいと主張するもの(私はこれ派)、いや、大きい窓は何かのときに危険であり、せいぜい1メートルちょっとあればいい。少し大きめにして朝日が部屋に差し込める程度で十分とする派であった。お互いが一歩も譲らず、感情的な対立にもなりかねないちょっと深刻な平行線を辿った。仲間内で揉めていても始まらない。ここは、第三者であるが山小屋やこの地の山の気象を熟知する彦根の宮田棟梁に判断願おうということになった。両派の主張を聞いた棟梁は、即断。「大きな窓なんて考えられへん。山小屋の窓は出来るだけ小さくが鉄則や」と。これで、方向性は決まったが、棟梁には「しかし、せめて中程度の大きさの窓をお願いします。」と懇願した。棟梁の返事は、「考えとくわ」であった。

 

翌年の棟上げから竣工までの約3ヶ月間は殆どの土・日の家庭サービスを犠牲にして、お父さんは山遊びに耽ることになる。一応は健全な遊びの筈であるが、拘束時間は結構長い。お父さんが何をやっているかの家族の理解は必須と考え、設計図が出来上がった時点でその模型(縦、横、高さ、ほぼ30センチメートル程)を造った。冬の期間、この模型は各家庭を持ち回りで回覧された。お父さんが何をしようとしているのかの理解を得る上で、少しは役に立ったのではないかと思う。お陰で、棟上げ式から竣工までの本格工事期間、殆どのお父さんは精勤であった。その模型、今は「邱山」の壁棚に鎮座し、我々の来訪を暖かく迎えてくれている。

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16.冬季、現場訪問

この年の冬は大寒波が何度か襲来し、我々の山小屋周辺は大変な豪雪に見舞われた。1月の下旬頃であったか、「独立基礎は大丈夫か?」「あの周辺の景色は?」と色々なことが気にかかり、行ける所まで行ってみようと武奈行きを思い立った。登行者は私を含めて2名。同行者はゲレンデ・スキーの経験はあっても、シールを着脱してのスキー登山の経験は無かった。今後のことも考え、先ずは経験を積んでおこうということになった。普段、車だと下界から武奈まで約30分程度のドライブであるが、林道沿いのルートは雪が多いときに、雪崩の心配な箇所があったので、普段、車では通らない芹川を遡行するコース、すなわち、河内から落合を経て武奈を目指す事にした。

34時間の行程を想定していたが、雪は想像をはるかに絶した量であり、途中、思ってもいない箇所に雪崩の危険な斜面があったため、慎重を期して高巻きをしたり大変に難渋した行程となった。日もすっかり暮れた頃に、やっとの思いで武奈部落の入り口である村元さんの家屋跡に辿り着いた。物置小屋を借用する予定であったが、一階のドアは完全に雪で埋没しており、出入りが出来るような状況ではなかった。仕方なく、二階の窓から侵入という無礼な行為に及んだ。何とか部屋に入り、暖を取るのも適当に、簡単に食べられる夕食を平らげ、すぐに就寝した。お互いは疲労の極地に達していた。初めての雪山経験の彼には、さぞや思い出深い山行になったことと思う。

 

翌朝、早めの行動開始で物置小屋を出発した。車では通いなれた道であるが、今は林道かどうか殆んど区別もつかない程の雪深い斜面をスキーで沈まないように、慎重に山小屋の現場に向かった。かなりの杉・檜が雪の重みで倒伏し、道を塞いでいた。現場に到着した。先ず、独立基礎を設置した我々の土地へ辿り着くのがままならなかった。ほんの1メートル少々の急傾面を登れず、つぼ足で何度ももがきながら何とか辿り着いた。現場は独立基礎が見える状態ではなかった。しかし、何とか倒れていないようであるという状態は確認することは出来た。あまり大休止をとっている時間的な余裕は無い。

 

帰途は、普段の林道を利用し、鳥居本に抜けることにした。峠が二箇所ある。その度ごとにスキーシールを着脱しなければならない。このあたりを、素早く手馴れた感じでやるのが格好のいい山男である。雪山賛歌の歌詞に「シール外してパイプの煙、、、」とあるが、この歌詞は、苦しいシール登行を終え、やっとの思いで峠に辿り着いた。さあ、これから待ちに待ったスキー下降なのだ、という喜悦を「パイプの煙」に託したものである。

 

我々の場合も、二番目の峠から麓の集落までの下降は普段、車で走るよりも早い快適なペースで滑った。所々の倒木を避けながら。ひとりでに思わず笑みがこぼれる。ウサギの足跡だけが転々と続くバージン・ロードにシュプールを残す快感である。地元の人が、山から降りてきた我々を見て、「信じられん。山から来たんけ。上の様子はどうや。」と尋ねられた事を懐かしく思い出す。

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17.「邱山」という名前

我々の山小屋にどういう名前を冠するかは、長い間の協議事項であった。こだわりの塊の山小屋である以上、思いつきのいい加減な命名はつまらない。この「邱山」という名称は皆の総意で決定したが、それが、基礎工事の前か後か、棟上げ式の時か、竣工の時か、今となってはあまりはっきりとした記憶はない。この名前が決まった経緯は次の通りである。

 

メンバーの一人が、陶淵明に「故郷に戻り、やっと心が和む」という趣旨の詩があることを紹介してくれた。彼が鞄から取り出したのが、岩波書店の陶淵明詩選集(編著者:一海知義)であった。先ず、彼と陶淵明の信じられないような(失礼!)組み合わせに驚愕した。なんという教養人か!その詩「帰園田居」を以下に全文引用する。官吏の生活に疲れ切った陶淵明が、やがて故郷の田園に閑居する時の心情をしみじみと綴ったものである。特に、最初の2行、

若い頃より俗世間と調子が合わず、生まれつき丘山を愛した、

と、最後の2行、

      しばらく役人生活に繋がれていたが、また自然に帰ることができた。

というフレーズは泣かせどころである。5世紀初頭の詩人の作であるが、その感情はあまりにも現代的で、かつ生々しい。その詩作の中から、「田舎ののんびりした里山」を意味する「邱山」という名前を拝借することにした。満場一致である。

 

「帰園田居」          「園田の居に帰る」                 陶淵明


少無適俗韻          少きより俗に適うの韻無く         若い頃より俗世間と調子が合わず、
性本愛邱山          性本邱山を愛す                   生まれつき丘山を愛した、
誤落塵網中          誤って塵網の中に落ち             ところが誤って役人生活に落ち、
一去三十年          一たび去って三十年               30年もがたってしまった、
羈鳥戀旧林          羈鳥は旧林を戀い                 繋がれた鳥は林にあこがれ、
池魚思故淵          池魚は故淵を思う                  池に飼われた魚は淵にこがれるものだ、
開荒南野際          荒を南野の際に開かんとし      こんなわけで、南の野に荒地を開こうと、
守拙帰田園          拙を守って田園に帰る             世渡り下手の性質を大事にして、田園に戻ってきた、
方宅十餘畝          方宅は十餘畝                      四角い宅地は十餘畝、
草屋八九間          草屋は八九間                      あばら屋といえども部屋が8つか9つある、
楡柳蔭後簷          楡柳  後簷を蔭い                  楡柳は軒端に陰を落とし、
桃李羅堂前          桃李  堂前に羅なる               桃李は家の前に連なっている、
曖曖遠人村          曖曖たり遠人の村                  遠くには村落が霞んで見え、
依依墟里煙          依依たり墟里の煙                 里の煙がなつかしそうに立ち上る、
狗吠深巷中          狗は吠ゆ深巷の中                巷では犬がほえ、
鶏鳴桑樹頂          鶏は鳴く桑樹の                     桑の木のうえでは鶏が鳴く
戸庭無塵雑          戸庭  塵雑無く                     庭には塵ひとつなく、
虚室有余間          虚室  余間有り                     がらんとした部屋はゆったりと静かだ、
久在樊籠裏          久しく樊籠の裏に在りしも         しばらく役人生活に繋がれていたが、
復得返自然          復た自然に返るを得たり           また自然に帰ることができた。
                                                                   (樊籠は鳥かご、束縛された生活から役人生活を意味する)
                                                                  
(中国名詞選(中)、松枝茂夫編、岩波書店)

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18.棟上げから竣工へ

再開。4月に入ったら早速、資材を運ぶ計画であったが、この年の冬の異常な積雪で4月の始めはまだとても車で山に近づける状態ではなかった。おまけに、林道の荒廃もあちこちで発生し、一度、ブルドーザーで全林道の状態をチェックしないと入山の許可が出ないという状況だった。こればかりは致し方なく、彦根からの報を待つより仕方なかった。基本となる木材はすべて、棟梁所管の倉庫に刻まれて保管されていた。

 

色々と気を揉んだが、5月の連休に入るまで資材の運搬は出来なかった。ゴー・サインが出て、刻んだ柱類、コンパネ、床板、足場板、屋根材料、周囲を取り囲む無数とも思える半木の檜丸太、等々、ありとあらゆる資材がトラック何台にも分けて運ばれ、現場近くの林道の脇に下ろされた。気の遠くなりそうな量の資材をわずか2030メートルとは言え、何とか山小屋の現場まで担ぎ上げたのだ。よくもこれだけの物量を人力だけで運んだものだと、後になって感心こそすれ、その時どういう布陣で運搬にあたったのかという記憶がまるで残っていない。兎も角、アリのように一本一本を、一個一個を、一歩一歩、黙々と少しずつ運び上げたのだ。

 

結局、棟上げ式は55日、連休の最終日となった。この日は、若手の大工数人が作業に入り、棟梁の指揮の下、何と大きな木槌でコンコンと2時間程度であっという間に骨組みは組み上がった。ともかく、雨露を凌げるようにということで、屋根部と周囲の壁に相当する場所にコンパネを打ちつけた。アルミサッシの窓も取り付けた。ドアも簡易ドアを打ちつけた。突貫作業であったが大体、こういう型のものが出来るのだということを実感することが出来た。2階の高さが思っていたよりも高いのには多少ともびっくりしたが、どうも、棟梁と我々の間に高さの認識にずれがあったようだ。もう修正は効かない。酔っ払って2階から落ちると十分に怪我をする高さである。

2階部分は天井との距離に余裕がなく、天井の一番高いところでやっと立てる程度であり、少し低い部分から先はどうしても匍匐前進のポーズでないと進めなかった。寝る場所としては何の問題も無く、考えようによってはこの狭さは、心地よい空間になっていくのかも知れない。特に、子供たちが来たときは大喜びの狭さであろう。2階部分が高くなったことで、1階部分から上を見上げたとき、十分な空間量があり、内壁を丁寧に打ち上げてゆけば、壁の綺麗さも十分に楽しめる事が予感された。問題となっていた東向きの窓は、高さ130センチメートル程の2枚開きで、この窓からでも十分に霊仙の稜線の眺望が楽しめることが分かった。棟梁の熟慮に感謝である。

 

建設に当たってはガソリンエンジン動力の発電機を1機、購入した。主な用途は電気鋸を使用して木材を切断するためである。これは強力な武器であった。あとは、五寸釘を打つために、大きい金槌を必要量揃えた。のこぎり、のみなどの手作業小道具は共用装備としていくらか購入したものもあるが、各自が自宅から持ち込んだものが各種あった。作業のときに棟梁や大工さんが腰からぶら下げている腰釘袋(正式な名称は分からない)がやたらと括弧よく見えたので、皆で競って腰から釘袋をぶら下げたものだ。

 

作業は毎土・日に行うが、個人的には2週間に1回出動の輪番制ということにし、基本的にローテンションでまわすことにした。その週の作業を終えたら、続く課題を翌週の出動者に伝え、また、必要な道具も適宜、購入ないし補充することにした。山小屋の型が整ってくるに従い、現地での寝泊りが可能になった。自然発生的に、金曜日の夜に山に入るようになった。集合場所は研究所であったり、待ち合わせやすい阪急の豊中駅であったり、また、時にはJR彦根駅ということもあった。先ず、彦根に到着したらインター出口近くの「餃子の王将」に立ち寄り、当日の山での夕食兼夜食をたんまりと購入して山に上がった。金曜の夜はウィークデイの仕事の疲れもあり、翌日朝からの作業もあるので、皆さん早めの就寝を心がけた。朝は朝日とともにそれこそ、電気鋸の音、五寸釘を打つ快調な音を近隣の山に響かせた。山の人への挨拶「頑張ってやっていますよ」という意味を込めての槌音であった。

 

作業には平均すると35名で取り組んだ。しかし、3名だけだとサボっているわけではないのだが、何となく作業全体に活気が感じられなかった。金鎚を打つ音もコン、コンと散発的で、大きな山肌にすべての音は吸収されていくように感じられた。また、5名での作業になると逆に活気が溢れ気味で、オーバー・ペースに填まっているのではないかと思うこともしばしばであった。この規模の山小屋の作業には4名が適性人員と経験的に学んだ。

 

作業は工程表に縛られて分担するのではなく、基本的には各人は自分がやらなければと思う箇所の作業に取り組んだ。工程表自体は前進するように作成されていたが、その内容はあまり厳密なものではなくかなりラフであった。

 

しかし、各人には次第に得意とする作業が絞られて来た。例えば、五寸釘1本を打つのに相当のパワーがいる。私なんかは810回叩いてやっとシメシメ上手くいったというところであった。また、途中で釘の頭を叩き損ねて釘を曲げてしまうことも度々であった。しかし、豪腕の手にかかると、34発で五寸釘は曲がることなく確実に打ち込まれた。次第に、五寸釘を打つのが難しい場所や、厳しい姿勢をとらないと打ち込めないような場所は、いきおい、彼に「頼んだで」と委ねられることが多くなった。

 

屋根は防水シートの上に、濃茶色のカラー・ベストを貼った。その敷き方(打ち方)には流儀があった。先ず、棟梁から作業手順の指導を受け、夏の暑い季節に向かっていたが、カラー・ベストの材質を損傷することのないように、作業は必ず、素足か、靴下履きで行うよう厳命された。また、ベスト材の位置が歪まないように上下、左右、斜めからの配置チェックは欠かせなかった。屋根の上部と両サイドの3辺に水切りを付け、下部には雨樋を設置して屋根は完成した。屋根の製作は短期集中の作業で長期には亘らなかったが、焼ける屋根の上で、立ち眩みをこらえながらの気を使う作業であった。

 

外壁の全面を飾る半木丸太は「邱山」を最も「邱山」らしく魅せるチャームポイントである。この丸太打ちには多くの労力と細心の注意を要した。先ず、運んできた半木丸太を所定のサイズに切断しなくてはならない。そして、一本一本の檜丸太の皮を表面が傷つかないように小さな鎌を使って丁寧に剥ぎとってツルツルの表面をむき出しにした。材に虫害や割れが無いものが外壁として打ち付けられた。皮剥ぎは自動化の出来ない手作業で結構、時間がかかった。次第に、作業の律速が皮剥ぎになった。そうなると槌音やエンジン音は止み、皆が思い思いの姿勢で一心不乱に黙々と檜の皮剥ぎに励むという光景になった。周囲には剥いだ皮の山が出来た。この作業は、夜、暗くなってからも蝋燭の灯りをたよりに黙々と取り組むことが出来た。そのうち、檜の皮剥ぎを専業とする者が現れた。

 

床張りの内装は山小屋建設の中では、かなり精密さを要する作業であった。棟梁からの指導の下で、床張りは進められた。私は、この精密作業に参加するチャンスを逃し、時々、外から小屋の中を覗いて羨ましくその進行状況を見守った。もともと、この床材は里のどこかのお寺の床の張替えのために用意した板材であったが、寸法か何かに不都合があり、不良在庫になっていたものを格安の価格で入手出来たものらしい。上品な白木の板で、これからの山小屋ライフを豊かにしてくれそうな気品のある床が次第に出来上がっていった。

 

山小屋完成も近くなり、竣工式には女性・子供を含めて多くの来訪が予想された。トイレを作っておかなければいけないということになり、山小屋から北方、約20メートル離れた場所に、先ず、人の背丈の2倍程の深い穴をひたすらに掘った。たっぷり溜めることの出来る肥壺である。その横で本宅の屋根と同じ濃茶色のカラー・ベストを貼り付けた切妻屋根の構造物をつくり、56名でエイヤーと持ち上げ、穴の上に安置して、簡易トイレを完成させた。私は個人的に屋外の開放空間が好きなので、その後もこのトイレを利用することは殆ど(全く)無い。

 

アプローチ整備。林道から山小屋までの距離は2030メートル、また高度差は78メートルであった。元々のアプローチは人がやっと通れる程度の細い獣道であったが、山小屋建設による頻繁な資材運搬と人の通行のお陰で、道は随分と荒れてしまった。建設作業中は仕方が無いが、今後、山小屋を静かに楽しむに当たり、アプローチを荒れた状態そのままで放置しておくわけにはゆかない。ということで、これも応急の処置であったが、山小屋の完成も近くなった頃に、アプローチ道を狭めるべく小木を組み合わせて小幅の足踏みステップを20段ほど作った。一年もたてば、周囲に草が茂り、元の狭い獣道程度のアプローチに戻ることが期待された。

 

作業円滑進行にとって最も大切な事のひとつが食糧調達である。食事当番は山に入ってから「くじ」で決めた。皆、誰しも現場に残って作業をしたい。しかし、貧乏くじを引いたものは、皆から食べたいもの、飲みたいものの注文を聞きとり、往復2時間程度をかけて、里に下り、人数分の土曜日の昼食、夕食、日曜日の朝食の買出しとその準備が義務付けられた。全員が厳守したことがひとつあった。それは、作業がどのような状態にあっても日曜日の正午がくれば、すべてをストップし、片付けに入った。そして、次回の作業者への申し送り事項を整理・確認し、速やかに下山した。誰もが、せめて日曜日の夕餉は家族と過ごす必要があった。日曜日の昼食には、黒丸や菩提寺などの高速道路のパーキングでうどん、ソバを食べる事が多かった。また、そこでの1100円のアイス・モナカは疲れを癒す上で、欠かすことの出来ない嗜好品となった。まだ、ノン・アルコール・ビールは世の中になかった。

 

「邱山」から霊仙を望む眺望には自信があったが、周囲は杉・檜林であり、身近な庭先の景観には多少とも改善の余地があった。周囲で成長をしている杉・檜の多くは、他の山林所有者のものであり、我々には如何ともし難い。何とか照葉樹を植えたいものだと思案し、とりあえず的な発想で近くの雑木林に生えている木々の中から適当な大きさのものを選んで、山小屋の近くに植林した。数年間は単なる幼樹であったが、30年を経た今となっては、山小屋の屋根を覆うばかりの巨樹に成長している。樹木による景観は、短時間的には対応するのは難しく、やはり数十年の計画で取り組むものだということを今回、実地学習で学んだ。また、竣工当時は、か細かった周囲の杉・檜も、今や堂々と聳立している。我々世代は年々、衰亡の一途を辿っているが、木の生命力は本当に逞しい。霊仙のはるか手前にあった、杉・檜で造林されたなだらかな小山の木々も随分と成長し、山小屋からの霊仙の眺望もやや怪しくなりかけている。木の生命力の勝利であろう。

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19.竣工式

山小屋計画の思いたちから、完成まで約5年を要したが、ここにやっと完成を見た。1984815日竣工式を執り行った。竣工式は神事ではなく、「邱山」に関係のある多くの方々をお招きし、ご披露と感謝を申し上げる祝宴である。あわせて、この日から我々はこの山小屋を「邱山」と呼ぶことを我々の会長から、当日参集していただいた方々に説明した。出席者は、我々首謀者の9名、その家族大勢、武奈の紹介者の大学の先生、村元稔さん、宮田俊雄棟梁、「アマデウス」の人たち、武奈の人たち、総勢で何人くらい集まったか正確な人数は分からないが、40名位ではなかったかと思う。多くの人に参集を戴いた。これは「邱山」が我々に与えてくれた大きな「人の輪」である。我々9名は、梅良隆、大野信夫、笠松紀美、北村重義、小島(津田)一郎、鈴木幸雄、野口裕志、平井元、宮門正和(アイウエオ順)である。

 

この竣工式は、我々メンバーにとっては、前年秋の地鎮祭以来の2回目の全員集合であった。その後も、全員が「邱山」で集まることはなかったと思う。ともかく、いくつもの危険な作業や、山道のドライブ等があったが、全員怪我無く今日の日を迎えられたことを素直に喜んだ。都会育ちの家族の子供達にとっては、自然の中の「邱山」の内も外も珍しい事だらけで、ハイテンションで大汗をかいて、あちこちを叫びながら駈けずり回っていたのを懐かしく思い出す。これから、ここをベースに様々な楽しい活動が展開されることであろう。

 

5年かけて積み上げた建設資金も順調に消費し、あとは村元さんに支払う借地代といくばくかの小さな補修のための活動資金を残すのみとなった。ひとまず大成功といえるであろう。昼は、皆が思い思いでバーベキューに群らがったり、村の人が差し入れてくれたお寿司など、ワイワイ、ガヤガヤと何を食べ、何を飲んだか分からない食事風景になった。午後2時ごろ、三々五々に解散となり、「邱山」も徐々に静けさを取り戻しつつあった。多量のごみを車に積んで、各人帰路に着いた。

 

私は8月の末から家族同伴で約2年間の予定でアメリカのコーネル大学の化学科に留学派遣することになっていた。やっと、竣工式を迎えたばかりではあったが、しばしの間の「邱山」との別離であった。

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20.十周年

1984年の「邱山」竣工後、我々「邱山」のメンバーも、春夏秋冬とそれぞれの「邱山」を楽しんだ。家族と親戚、会社の仲間、大学時代の友人、仕事上でお付き合いのある知人・友人、海外からの友人、何かあるとお互いの予定を調整して山に向かった。近くには清龍の滝、醒ヶ井の養鱒場、河内の風穴、など色々な楽しみがあった。周囲は基本的に広葉樹の雑木林と杉・檜の混成林であったが、よく見ると、竹藪もここかしこにあり、また、山人が過疎対策で奨励されたシイタケ栽培や、トマトの促成栽培の開墾農地もあった。

これらの作物栽培は次第に、サルなどの野生動物の格好の餌となり、動物からの防御のためにそれら作物はフェンスで囲われた。「わざわざ山まで出かけて、我々がフェンスの檻の中に入って作物栽培に精を出す。なんと滑稽なことか」と山人の長が自虐的に語っていたのを思い出す。それらの栽培地も今は放棄され、すっかり荒廃し荒地になってしまっている。山で事業を起こすということはなかなか一筋縄でいくものではない。

 

また、あるとき、都会の巨大資本がこのなだらかな山塊を取り崩し、ゴルフ場にしようという計画があることを、道普請か何かの折に、山人から聞いたことがある。確かに、京都からだと1時間とちょっと。一瞬、「すわ、これは三里塚の闘士として戦わねばならないか!!」と思ったものだ。山人の反応も、自然のままの山を残しておきたい派と、この際いい仕事にありつける派に分かれるかも知れないと山村の分裂を心配する声も聞かれた。、、、しかし、結局のところゴルフ場計画は沙汰止み、お取り潰しになった。その理由は、「雪」である。12月~4月までの積雪で5ヶ月間も使えないとなると、年間採算が難しいということのようであった。「邱山」の周りの騒々しさは消え、また、静かな恒久の時間が流れようとしていた。

 

1994年、やがて「邱山」も10年を迎えようとしていた。「邱山」の様々な楽しみ方にも慣れてきたが、唯一、不満があった。庭先でバーベキューをしても、屋外で作業をしても、全体が傾斜地にあるため、常に足を踏ん張っていなくてはならないということである。せめて、少しの面積でいいから、「邱山」の前にベランダが欲しいということになった。「邱山」建設の時に、あらん限りの力を出し切った我々の腰は重たかった。しかし、10周年の式典は是非、水平の新ベランダでということで、重い腰を上げる決心をした。またまた、宮田棟梁に相談を持ちかけると、「ベランダは簡単や」。「邱山」の床面積くらいの3.5x2.5間位やったら45人いたら一日で出来るというのが彼の答えであった。難しい話ではないので、即断。設計図は今回は棟梁の頭の中に。場所は「邱山」の前の東斜面。ということで、お任せでとんとん拍子に話は進んだ。

 

地上部の重さが、「邱山」に較べると極端に軽いので、基礎部分は土をよくよくタコ(蛸胴突き)で叩き固めるということで、その穴は20箇所。「邱山」基礎の時と同じ数である。搗き固めた穴の上に、ブロックを各一個置き、その上に直にベランダの柱を置いた。そうして、骨組みが組みあがったら、あとはその上に踏み板(足場板を用いた)を乗せるだけである。やる前にもかかわらず、既にゴールは見えた!!整地事業を一日で済ませ、必要資材が準備出来たとの連絡を棟梁から受けて、ベランダ着工に取りかかった。

 

作業中、私がベランダの構造物の梁の上に立った時に、迂闊にも足を滑らして、腹部を梁で強打し、そのまま約1.5メートルを落下してしまった。一瞬、息が止まった。自分の身に何が起こったかということはよくわかっていたが、その後、立ちあがったもののどうも強打した腹部は痛み続け、深呼吸もままならない状態であった。しばらく床で寝そべったが、早く検査した方がいいだろうということで、自分ひとりで自動車を運転して京都に戻り、そのまま、病院に直行した。痛みはその後も続いていた。内臓に傷でもついたら大変だと思いながら、様々な検査を受けたが、レントゲン、CT、尿検査などの所見に異常は特に認められなかった。

しかし、念のためということで、一晩、その病院に緊急入院ということになった。翌日、無事に退院したが、その後の経過は幸いにも特別の異変は無かった。後々、私は片方の腎臓がよくない状態が続くが、特段そのことと、今回の落下は関係が無いと思っている。痛打したのは腹部前面の右部であり、ほぼ肝臓の場所である。アルコールには相変わらず弱いが、この時から飲めなくなったということではないので、肝臓は大丈夫。腎臓は確か、背面からのほうが近かった筈だ。病院から戻ってしばらくすると、ベランダを完成させた仲間が、なんと帰宅の道すがら自宅まで見舞い(!)に立ち寄ってくれた。有難い話である。

 

というわけで、祝宴にはまたまた多くの関係者をお呼びして、体が斜めになることなくゆったりと10周年を祝った。私も当然、祝宴には出席したのであるが、そのときの記憶はもうほとんど完璧に消えてしまっている。雪が降れば、簡易打ち付けのベランダの板は撤収して、「邱山」の床下に収納すれば長持ちするということであった。しかし、次第にずぼらになって来ている我々は結局、一回も板の撤収をした事は無いと思う。当然の報いとして、ベランダ建築後20年の今となって、ベランダは見るも無残な姿に朽ち落ちてしまっている。

 

私の最も気に入っている利用形態は一人での「邱山」行きである。京都の我が家から「邱山」までは、車で約1.5時間あれば十分に到着できる。特に、雨の降っている土曜日で特段の予定の無い時がベストである。軽食を用意し、ゆっくりと山道をドライブすれば、ドライブに疲れることなく「邱山」に辿り着く。窓を開け放ち、あとは寝そべるなり、2階に上がって午睡を楽しむなり。シトシトと降る雨の音は枕草子の世界のようで格別、また、ザアザアと降りしきる雨の音を聞くと、山にいるのに濡れなくてすむという学生時代に求めても求められなかった快感に浸れる。特に、何かに集中して考えを纏めようという気はさらさら無い。ここでは沈思黙考ではなく、完全弛緩の時間を持つために一人「邱山」をしばしば楽しんだものだ。

 

もうひとつ、個人的に特筆すべき「邱山」+音楽にまつわる思い出がある。アメリカで仕入れた情報を基に、日本に帰国して鍵盤楽器の源流であるクラヴィコードのキットを購入し、それをほぼ一年がかりで組み立てたことがある。私は全く楽器の演奏は出来ないが、この楽器製作のお陰で音楽関係の交友が多少とも拡がった。その中の一人に京都大学を卒業し、大阪の会社で今で言うところのシステム・エンジニアを職業とする、私より20歳以上も若い独身の青年に出会った。彼は、若い時からピアノ演奏に通じ、東京で編成される器楽合奏団で、チェンバロ演奏を担当するという。現代の若者とは少し異なったライフを追求する青年で、京都の左京区・吉田で下宿生活をしていた。

彼は私の製作したクラヴィコードに感心を持ってくれた。何回かお互いの家を往来し、彼はこの楽器に直接に触れて、その可能性に興味が増大したようだ。この楽器のやさしい音色の音楽を録音しておきたいという彼の希望と、誰か正統に演奏できる人にこの楽器を演奏して貰いたいという私のたっての希望が合致し、それでは近いうちに「邱山」へということになった。当時でも、既にデジタルでステレオ録音できる携帯の録音装置があり、その方面にめっぽう詳しい彼は、それを持参した。私はクラヴィコードを細心の注意で「邱山」に運んだ。季節は初夏であったと思う。やがて夕陽は沈み、あたりは次第に薄暮から漆黒の夕闇に変わった。先ず、クラヴィコードの音を正確に合わせるために電子チューニング装置で総ての弦の調弦を確認した。運搬と気温の変化で微妙に楽器の音程が変わる。部屋の温度が変化しないように、窓は常時閉鎖とした。

今回の演奏で選んだ選曲は、双方からの要望を出し合い、J.S.バッハの「2声と3声のためのインヴェンションとシンフォニア(BWV772801)」と決定した。彼は下宿にある電子ピアノで運指の練習をやったという。明かりは蝋燭数本だけであり、「邱山」はそれ自体が総木製なので、クラヴィコードの音を随分と引き立てくれているように聴こえた。欲目(欲耳?)かもしれないが。

 

録音が始まると私は彼の集中力を削がないように、動くことなく、じっと椅子に座った姿勢で音楽に聴き入った。彼はひとつの曲を納得が行くまで何回も弾き直し、少しずつその度ごとに演奏が仕上がっていった。元々は全曲で50分程度の曲集であるが、総ての録音を終ったのは午前2時か3時になっていたと思う。最後に、私からのリクエストとして、G.F.ヘンデルの有名な「調子の良い鍛冶屋の主題による変奏曲」をお願いした。蝋燭3本が燃焼する熱と彼の発する熱で室内は随分と暖かくなっていた。深夜の冷えた外気、虫の鳴き声それに木々にそよぐ微風が心地よかった。後日、彼から編集したテープを受領した。プロの演奏と較べてはいけないが、これは私にとって記念すべきひとつの作品である。当時を思い出し、時々、テープを取り出す。

 

我々メンバーもいよいよ仕事に忙殺される年代に入り、また、勤務地も日本全国に散らばり、海外に赴任する者もあり、「邱山」で出会うということ自体が徐々に難しくなってきた。せめて年の暮れに年に1回位は集まろうとしても、それは精々67人がいいところであり、しかも集合場所は大阪・梅田の飲み屋というある意味、当然の帰結を迎えつつあった。

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21.二十周年

2004年、20周年を迎えたが、その宴の準備に特に熱が入るわけではなく、今から思えば、仕事のついでに行事をこなしたという程度の情けない状況であった。これでは後悔が残るかも知れないと、イラスト才のあるメンバーの一人に「邱山」をデザインした図案画を一枚描いてもらい、その下に「KYUZAN 1984-2004」と記入した記念T-シャツを作成して、メンバーに配布した。周年の宴には村元さんが駆けつけてくれた。あの時に差し入れていただいた彦根の隠れた名物、磯田寿司直売所の「鱒寿司」を美味しく戴いた。それ以来、彦根に出かけたときは、磯田直売所に営業時間と残りの寿司数を確認して、時々、鱒寿司を買いに行くようになった。

 

また、この10年間には我々「邱山」の会長であった平井元さんが急逝されるという不幸な出来事があった。葬儀に出席し、皆で冥福を祈った。退職後、お互いの人生を咀嚼するときになって、落ち着いて本当の付き合いが出来る人と楽しみにしていただけに寂寞の思いひとしおである。

 

「邱山」周辺の森の木々の生長度合いによるのか、それとも地球温暖化などの気候変動の影響なのか、この頃になって夏季にスズメバチが「邱山」に大きな営巣をすることが多くなった。彼らとまともに戦ってもとても勝ち目の無い我々は、如何に優秀な殺虫剤を持った軍団とはいえ、迂闊に「邱山」に近づくこともままならず、1シーズン放棄となる事も間々発生した。残念ではあるが、自然の生態系の中にある「邱山」は大きな流れには逆らわないほうがいいのであろう。

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22.現在。皆、年老いて

来年(2014年)には「邱山」は30周年を迎える。本宅はほぼ健在であるが、ベランダは朽ち果て、使い物にならない。また、周囲の杉・檜林の成長は著しく、自慢の霊仙の稜線も杉・檜に見え隠れする状態である。また、霊仙には日本鹿が異常に生息し、頂上稜線付近の自慢の緑の笹原はその食害で壊滅状態にあり、土が見え隠れする大変に無残な状況を呈している。我々9名のメンバーの中には既に、鬼籍に入った者もいる。他のメンバーは、それぞれがそれぞれの場所で老後生活に入っている。年賀状でかろうじてお互いの安否を確認する程度になって来た。30周年は自分の中で静かに祝いたいと思っている。

 

村元稔さんには知り合ってから今日まで本当に色々とお世話になり、「邱山」を見守っていただいて来ている。心から御礼を申し上げたい。彼とは奇なる縁で、私の父と彼の父は平成元年の3月末日の同じ日に亡くなった。お互い、連絡を取り合ったが、弔電を互いに打ち合うという変則的なエール交換をすることになってしまった。というわけで、私は彼のお父さんの葬儀には出席できなかった。彼にお願いしたい。「「邱山」をこれからも可愛がって見守り、そして利用して欲しい。また、これから先の人生、気持ちよくお付き合い続けさせていただきたい。」と。

 

最後に「アマデウス」先輩の中で故人になられた、佐藤香重さん、藤田義雄さん、鴨下克三さんのご冥福をお祈り致します。また、我々、「邱山」の長老・会長であられた故・平井元さんのご冥福をお祈り致すとともに、この雑文を捧げます。彼ら4名とはよく議論をし、また、共に汗も流した。一緒に「遊ぶ」ことが出来たことを心から感謝致します。 合掌

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(完)