万葉集・般若心経解説
万葉集とは政治コメントを集めた大巻 全20巻4,516首
第1巻---84首---雑歌(ジャプノレ)=国取り歌、政権取りの歌(政争歌の事)
巻1-1 雄略天皇---即位宣言の歌、巻1-2 舒明天皇---国見の歌(望国之時御製歌)
巻1には天智天皇と天武天皇系との政争関連歌を掲載。
巻2には「相聞」(贈答歌)と「挽歌」を通して7世紀後半〜8世紀初めの政治事件を掲載。
巻3には高市皇子をめぐる政争歌を掲載。
*政治コメント、政治的行動を促す檄であり、政情を報告するリポ−トであり、且つ体制批判、
社会風刺、陳情などの歌集である。
**大伴家持は優れたジャナリストで日本書紀を意識し、その「歪曲」に対し歴史の真実を残そう
と云う編集意図を最も表しているのが「万葉集1-1 雄略天皇の即位宣言御歌である。
その理由:日本書紀と古事記の第一歌謡が日本建国者である素戔嗚尊の
「勝鬨」(かちどき)の歌であるから。
(解説:李 寧熙女史)
日本書紀の天皇の本当の姿は以下の通りと推察される。
第1代.神武天皇(神日本磐余彦)=「神の国日本の製鉄祈り男」天武天皇のもう一つの顔、
第5代.孝昭天皇(観松彦香殖稲天皇)=孝徳天皇の分身なり、
第6代.孝安天皇(日本足彦國押人天皇)=孝徳天皇の分身なり、
第7代.孝霊天皇(大日本根子彦太瓊天皇)=孝徳天皇の分身なり、(隠岐島から日吉津に上陸)
第8代.孝元天皇(大日本根子彦国牽天皇)=孝徳天皇の分身なり、
第12代.景行天皇(大足彦忍代別)=天智天皇のもう一つの顔、
第21代.雄略天皇(大泊瀬幼武天皇)=百済・昆支、
第27代.安閑天皇(広国押武金日天皇)=天智天皇の双子の兄、大碓尊の事、
第28代.宣化天皇(武小広国押盾天皇)=日本武尊=高市皇子の事、
第29代.欽明天皇(天国排開広庭天皇)=百済・聖明王、
第30代.敏達天皇(渟中倉太珠敷天皇)=高句麗・威徳王、
第34代.舒明天皇(息長足日広額天皇)=百済・武王
第36代.孝徳天皇(天萬豊日天皇)=高句麗・太陽王=百済・義慈王、
第38代.天智天皇(天命開別天皇)=百済王子・翹岐(武王=舒明天皇の子)、
第40代.天武天皇(天渟中原瀛真人天皇=高句麗将・蓋蘇文、
第42代.文武天皇(倭根子豊祖父天皇)=新羅・文武王(蓋蘇文=大海人皇子=天武天皇の息子)
以上李 寧熙女史著:「まなほ」より
2019年7月29日書改
源氏物語は紫式部が彼女が生きた約200年前の出来事を、後世の我々に
真実を伝えてくれている。大変興味を惹かれます。
1.桐壺帝(光源氏の父)=天武天皇(文武天皇の父)
2.桐壺更衣(光源氏の母)=宝姫(文武天皇の母)
3.皇子(光源氏)=皇子(文武天皇・アゴ様)
4.弘徽殿女御(桐壺帝妃・朱雀帝の母)=鏡王女(天武天皇妃・藤原不比等の母)
5.藤壺女御(先帝皇女・桐壺帝皇后・冷泉の母・源氏と関係)=持統天皇
(★先帝皇女・天武帝皇后・多紀・舎人の母・文武天皇と関係)
6.左大臣(葵上の父)=藤原鎌足(五百重娘の父)
7.大宮(左大臣の妻・桐壺帝の妹)=鏡王女(藤原鎌足の正妻・★天智天皇の妹)
8.葵上(源氏の正妻・夕霧の母)=五百重娘(新田部の母)
9.頭中将(葵上の兄・左大臣の息子)=藤原不比等(★五百重娘の兄・★鎌足の息子
実は大海人皇子の子)
10.空蝉(常陸介の後妻・源氏と関係)=五百重娘のダブルイメ−ジ(天武の若妻・文武と関係)
11.前春宮(桐壺の弟)=前皇太子草壁皇子(天武皇子)
12.六条御息所(前春宮妃・女児の母・源氏の愛人)=元明天皇(前春宮妃・
氷高皇女の母・文武の愛人・斉宮)
13.惟光(源氏の乳兄弟)=弓削皇子(文武の兄弟)
14.乳母(惟光の母)=大江皇女(弓削皇子の母)
15.紫上(藤壺の姪・兵部卿の娘・源氏の妻)=石川刀子娘(持統の姪・品治の娘・文武妃)
16.兵部卿宮(藤壺の兄・先帝皇子・紫上の父)=多臣品治(持統の兄・石川刀子娘の父)
17.冷泉帝(桐壺帝皇子・実は源氏の子)=舎人皇子(天武皇子・実は文武の子)
18.朧月夜尚侍(朱雀帝尚侍・弘徽殿女御の妹・右大臣の娘)=県犬養橘三千代(不比等の妻・
鏡王女の妹分・県犬養東人の娘)
19.朱雀帝(桐壺帝皇子・弘徽殿女御の息子・右大臣の孫・源氏の兄)=藤原不比等
(鎌足の子・鏡王女の息子・実は天武の子・文武の弟)
20.夕霧(源氏の長男・葵上の息子・左大臣の孫・雲井雁と結婚)=新田部皇子(文武の子・
五百重娘の息子・左大臣鎌足の孫・☆但馬皇女と結婚)
21.右大臣(弘徽殿女御・朧月夜の父)=県犬養東人(鏡王女・県犬養三千代の父)
22.明石入道(源氏の母方の祖父の甥・先の播磨守で近年入道・明石上の父・
明石女御の祖父・大臣の子)=三光(文武の従兄弟・出家者・光明子の祖父・
新羅将軍・大臣金ユ信の長男・別名道行)
23.明石上(明石入道の娘・源氏の妻・明石姫君の母)=三光の娘(文武の妻・光明子の母)
24.六条御息所の娘前斎宮(春宮の娘・斎宮)=元正天皇(氷高皇女・春宮草壁の娘・実は文武の娘)
25.入道の妻の尼君(明石入道の妻・祖父は親王)=三光の妻(三光の妻・☆祖父は親王)
26.槿(桃園式部卿の娘・加茂斎院)=広瀬女王または上道広川女王(長皇子の娘)
27.槿の父桃園式部卿(桐壺帝の弟・源氏の叔父)=長皇子(★天武皇子・実は文武の従兄弟)
28.雲井雁(頭中将の娘・夕霧の従妹・妻)=但馬皇女(不比等の妹・新田部の従妹・妻)
29.柏木(雲井雁の兄・頭中将の息子)=柿本人麻呂(不比等の兄貞慧の子・☆不比等の娘婿)
30.蛍兵部卿宮(源氏の弟・桐壺帝皇子・真木柱と結婚)=穂積皇子(文武の弟・天武皇子・
坂上郎女と結婚)
31.鬚黒の妻(式部卿宮の娘・紫上の異母姉・真木柱の母)=石川郎女(☆品治の娘・
☆石川刀子娘の異母姉・坂上郎女の母)
32.真木柱(鬚黒の娘・式部卿宮の孫・蛍兵部卿宮と結婚・頭中将の息子紅梅大臣と再婚)=
坂上郎女(品治の孫・穂積皇子と結婚・★不比等の息子藤原麻呂と再婚)
33.春宮(朱雀帝の皇子・明石姫君の夫・二人はいとこ)=聖武(★不比等の娘婿・
光明子の夫)
34.女三宮(朱雀帝皇女・源氏の正妻・柏木と密通・薫の母)=宮子(不比等の娘・文武夫人・
人麻呂と密通・聖武の母)
35.藤壺女御(朱雀帝妃・女三宮の母・兵部卿の妹)=加茂朝臣比売(不比等の妻・宮子の母・☆品治の妹)
36.明石女御の皇子・春宮(明石女御の皇子朱雀帝の子・夕霧の娘と結婚)=阿倍内親王(孝謙)
(皇太子・光明子の子・不比等の曾孫・新田部の子と結婚)
37.女二宮(落葉宮)(朱雀帝皇女・柏木の妻・夕霧と再婚)=依羅娘子(☆不比等の娘・
人麻呂の妻・新田部と再婚)
38.男子(薫)(源氏の息子・実父は柏木)=聖武(文武の息子・実父は人麻呂)
39.匂宮(明石女御の三男・紫上に育てられた)=石川広世(文武皇子・実母石川刀子娘に育てられた)
40.紅梅大臣(頭中将の息子・柏木の弟・真木柱と再婚)=藤原麻呂(★不比等の息子・坂上郎女と再婚)
41.宇治の八宮(桐壺帝皇子・源氏の弟・優婆塞)=役行者(品治の息子・文武妃石川刀子娘の弟・優婆塞)
42.大君(夕霧の娘・春宮妃・従兄弟と結婚)=道祖王(新田部皇子の子・従妹孝謙の夫)
★は形式上の人間関係 ☆は推定
主要人物は殆ど網羅されている。これを見れば「源氏物語」がモデル小説であるという事を
納得して頂けるであろう。
また、これらは全て「万葉集」の新解読と「日本書紀」や「続日本紀」などの資料を
比較する中から導き出された結論です。
「万葉集」と「源氏物語」は日本史真相解明の虎の巻なのである。
以上 李 寧熙女史著「まなほ」第55号より
2024年4月9日書追加
※「源氏物語」各巻の名称と概略
1.「桐壺」(きりつぼ)誕生から12歳まで。
「桐壺帝」の寵愛を受けた大納言の娘「桐壺更衣」は皇子(源氏)を生むが、
他の女御(特に最古参で皇太子の母、右大臣の娘である弘徽殿女御)・
更衣らの嫉妬に悩み、早世する。
更衣にそっくりの先帝皇女「藤壺女御」が後宮に入り、「源氏」は母の面影を
「藤壺」に追うが、それはやがて恋心となって行く。
「桐壺帝」は、後見のない皇子を「源氏」として臣籍に下し、12歳で元服後、
4歳年上の左大臣の娘「葵上」と結婚させる。
2.「帚木」(ははきぎ)17歳の夏。
五月雨の夜宮中の宿直所で葵上の兄「頭中将」と女の品定めをする。
いわゆる「雨夜の品定め」。話に出た常夏の女「夕顔」と後に出会うことになる。
翌日、方違え(悪い方位を避け、他の場所で宿る)で「伊予介」の家に出かけた
「源氏」は、伊予介の若い後妻「空蝉」と一夜を共にする。
3.「空蝉」(うつせみ)17歳の夏。
「空蝉」を忘れられない「源氏」は「空蝉」の寝室に入り込むが、
間違えて継娘の「軒端萩」と契ってしまう。「源氏」は「空蝉」の残した衣を持ち帰る。
4.「夕顔」(ゆふがほ)17歳の夏から10月まで。
「六条御息所」の元へ通う途中、「惟光の母」である乳母の病気見舞いに行った
「源氏」は、夕顔の咲く隣家の「女」に目を留める。
「女」をあばら家に連れ出すが物の怪に襲われ、死んでしまう。
侍女「右近」から、女が「雨夜の品定め」の「常夏」の女で、頭中将との間に
女の子(玉鬘)までいた事を知る。
5.「若紫」(わかむらさき)18歳の3月から10月まで。
わらわ病み(マラリヤ)に罹った「源氏」は、北山の僧都に加持祈祷をして貰う。
その合間に、山中の家で尼君と暮らす10歳ほどの藤壺によく似た「少女」(後の紫上)
見いだす。「少女」は藤壺の兄「兵部卿宮」の娘だった。
「源氏」は王命婦の手引きで、里帰りしていた「藤壺」と密会するが、
ほどなく「藤壺」は懐妊する。「北山の尼」が亡くなり、父「兵部卿宮」に引き取られる寸前、
「源氏」は「少女」を自邸に連れ去ってしまう。
6.「末摘花」(すえつむはな)18歳の正月から19歳の正月まで。
故「常陸の宮」の「姫君」を頭中将と争って手に入れたが、「姫君」は鼻の頭の赤い不器量者で、
しかも古風で融通のきかない女性だった。「末摘花」とは「紅花」の異名。
7.「紅葉賀」(もみじのが)18歳の秋から19歳の秋まで。
「桐壺帝」は朱雀院に行幸して先帝の賀の祝いを催す。「源氏」は「頭中将」と青海波を踊る。
「藤壺」のお産が予定よりだいぶ遅れ、2月10余日に「源氏」そっくりの皇子(後の令泉帝)
が生まれた。「藤壺女御」は中宮になった。人々は、どういう訳で先妻格の「弘徽殿女御」を
さしおいて「中宮」になるのかと噂した。
8.「花宴」(はなのえん)20歳の春。
紫宸殿の花の宴で詩を作り、春鶯囀(舞楽)を舞って絶賛された「源氏」は、
弘徽殿の細殿(渡り廊下)で、「朧月夜に似るものぞなき」と口ずさむ「女性」と契りを結ぶ。
女は素性を明かさなかったが、右大臣邸の藤の宴で、女が弘徽殿女御の妹で、
近く春宮妃になる人(朧月夜尚侍)と知る。
9.「葵」(あふひ)21歳の4月から22歳の正月まで。
桐壺帝が譲位して、朱雀帝(弘徽殿女御腹)が即位。六条御息所の娘が斎宮となる。
加茂祭りの行列見物で、妊娠中の葵上と御息所の車争いが起き、御息所は葵上を
恨みに思うようになる。やがて、葵上は男の子(夕霧)を生むが、御息所の生き霊に
取り殺されて死んでしまう。
10.「賢木」(さかき)23歳の9月から25歳の夏まで。
桐壺帝崩御。藤壺中宮出家。右大臣家が権力を持つ。里帰りしていた朧月夜との
密会を父右大臣に発見され、弘徽殿大后は激怒する。
11.「花散里」(はなちるさと)25歳の5月20日。
源氏は、故桐壺帝の女御の一人であった麗景殿女御の妹「花散里」を訪れた。
12.「須磨」(すま)26歳の3月から27歳の3月まで。
最悪の事態を避け、自ら須磨に移ることを決意。源氏は須磨で淋しい暮らしを始めた。
明石では明石入道が娘(明石上)を娶合わせようと心を砕いていた。
3月1日、お祓いの最中から暴風雨が起こった。
13.「明石」(あかし)27歳の3月から28歳の8月まで。
夢で桐壺帝が「須磨を去れ」と源氏に告げた。船で迎えに来た明石入道と共に明石に移る。
明石上と結ばれ、妊娠するが、夢で桐壺帝に睨まれた朱雀帝は眼病を患い、源氏を都に召喚する。
14.「澪標」(みをつくし)28歳10月から29歳11月まで。
朱雀帝が退位し、冷泉帝が即位する。伊勢から戻った六条御息所が死去する。
明石姫君が生まれる。源氏は占い師が源氏の三人の子供の将来を予言したことを思い出す。
15.「蓬生」(よもぎふ)28歳の秋から29歳の春まで。
源氏は花散里を訪ねた帰りに、困窮しながらも以前の暮らしを続けていた
末摘花の荒屋敷に寄る。末摘花は、やがて源氏の邸宅・二条院の東の院に住む事になる。
16.「関屋」(せきや)29歳の晩秋から11月頃まで。
夫の任地常陸に共に下っていた空蝉は、石山詣でをした源氏と出会い、
源氏は空蝉に手紙を書く。常陸介死後、義理の息子に言い寄られた空蝉は出家する。
(空蝉は後に源氏の二条邸に引き取られる)
17.「絵合」(えあはせ)31歳の3月。
六条御息所の娘前斎宮は朱雀帝が執着していたが、結局、
冷泉帝の女御として入内した。
18.「松風」(まつかぜ)31歳の秋。
花散里は二条院の西の対に移った。東の対へは明石上が住むはずだったが、
明石上はなかなか上京しなかった。入道の妻の尼君の祖父にあたる
中務親王の旧邸を修理して上京してきた。入道は一人明石に残った。
19.「薄雲」(うすぐも)31歳の冬から32歳の秋まで。
12月、明石上は姫君を手放し、紫上の養女にする。翌年、葵上の父太政大臣や
藤壺尼君が死去する。夜居の僧が、冷泉帝に実父は源氏と秘密を告げる。
斎宮の女御が里帰りし、春秋の優劣を問われ「秋は御息所が亡くなった季節なので秋」
と答えたことから「秋好中宮」と呼ばれるようになる。
20.「槿」(あさがほ)32歳の9月から冬の雪の降ったある日まで。
源氏は槿を訪れたいと思ったが世間体を憚って同じ桃園邸に住んでいる
叔母の女五宮を訪ねる。槿は依然として源氏を受け入れない。
夢で藤壺中宮が死後苦患を得ていると知り、供養する。
21.「少女」(をとめ)33歳の4月から35歳の10月まで。
叔母は槿の源氏との結婚を勧めるが、槿は応じない。夕霧は12歳になり、
祖母の大宮の邸で元服する。本格的に学問をさせようとする源氏の方針で、
六位という低い身分だった。夕霧と共に祖母大宮に育てられ、
恋仲になっていた従妹雲井雁は、父頭中将が東宮妃にと望んでいた為、
父邸に引き取られてしまった。源氏は、紫上の父式部卿の五十の賀を催した。
六条邸が完成し、源氏・紫上ほか花散里などが移り住んだ。
22.「玉鬘」(たまかづら)34歳の暮から35歳の12月まで。
夕顔の忘れ形見玉鬘は4歳の時、乳母と筑紫に下って育った。
美しく成長した玉鬘に言い寄る地方役人に危険を感じ、乳母が玉鬘を連れて
上京した。泊瀬(長谷寺)詣でをした玉鬘と、夕顔の侍女で夕顔の死後源氏に
仕える右近が偶然出会い、玉鬘は源氏の六条邸に引き取られた。
源氏は夕霧同様、花散里に玉鬘を託す。
23.「初音」(はつね)36歳の正月。
正月行事に参加する夕霧の姿が勝れていて、源氏は嬉しく思う。
24.「胡蝶」(こてふ)36歳の春。
3月20日ころ、紫上が船遊びと管弦の催しを行った。
玉鬘の美しさが評判になるが、源氏自身も言い寄るなどして玉鬘を困惑させる。
25.「蛍」(ほたる)36歳の5月。
源氏と玉鬘は、「物語論」をする。
26.「常夏」とこなつ)36歳の夏。
源氏は玉鬘に和琴を教える。内大臣(葵上の兄)は、源氏への対抗心から
隠し子近江君を引き取るが、笑い者になる。内大臣は夕霧に雲井雁を許しても
いいという気持ちになるが、きっかけがなくいらいらしている。
27.「篝火」(かがりび)36歳の秋。
内大臣の息子柏木のは玉鬘が姉であることを知らず、好意をもつ。
28.「野分」(のわき)36歳の8月。
夕霧は野分(台風)の見舞いに訪れた六条院で紫上を垣間見、陶然となる。
また、源氏と玉鬘の親しげな様子に顔をしかめる。
29.「行幸」(みゆき)36歳の12月から37歳の2月まで。
源氏は玉鬘への思いで悩んでいたが、尚侍としての出仕を勧めた。
源氏は大宮に玉鬘のことを打ち明け、それを聞いた内大臣は驚いた。
彼岸の2月16日に玉鬘の裳着の儀が行われ、内大臣と玉鬘は
親子対面を果たした。
30.「藤袴」(ふじばかま)37歳の8月から9月まで。
大宮が亡くなった。喪に服す玉鬘には、たくさんの恋文が来ていたが、
源氏の弟蛍兵部卿宮にだけ返事を書いた。
31.「真木柱」(まきばしら)37歳の10月から38歳の11月まで。
玉鬘は尚侍に出仕することを決意するが、鬚黒大将(春宮の叔父)に
力づくで奪われてしまう。鬚黒大将の北の方は式部卿宮の娘(紫上の異母姉)。
ノイロ−ゼになり、父邸に引き取られる。鬚黒と北の方の娘真木柱は、
父への歌を詠み、柱に差し込んで残して行った。玉鬘は11月に男子を産んだ。
32.「梅枝」(うめがえ)39歳の正月から3月まで。
明石姫君は11歳になって、裳着の儀式と入内の準備に忙しかった。
春宮も2月20日過ぎに元服した。入内準備に書を揃えたことから、
筆跡について意見を述べる「書道論」も展開された。
源氏は、夕霧に結婚について教訓をした。
33.「藤裏葉」ふじのうらば)39歳の3月から10月まで。
内大臣は大宮の法要を機に夕霧と和解、藤の花の開花時に夕霧を招き、
雲井雁の婿になることを許した。4月下旬、明石姫君は春宮妃として入内、
実母の明石上が付き添うことになった。中納言に昇進した夕霧は、
それまで住んでいた内大臣邸を出て、大宮の住んでいた三条邸に移った。
冷泉帝と朱雀院は同時に六条邸に行幸した。
34.「若菜」(わかな)(上)39歳の12月から41歳の春まで。
朱雀院は出家し、女三宮を源氏に託す。翌年2月、女三宮が降嫁。
内大臣の息子柏木や夕霧は、女三宮へ好意を持っていた。
3月のある日、六条邸で蹴鞠の催しがあった。子猫が御簾の奥から
飛び出したはずみに、女三宮を垣間見た柏木の恋慕の情は、益々募った。
3月、明石女御が皇子を産んだ。祖母の尼君は入道の悲願を語り聞かせた。
入道は喜びのあまり家を寺にし、家人に財産を分け与え、山へ入ってしまった。
35.「若菜」わかな)(下)41歳の3月から47歳の12月まで。
数年後、冷泉帝は春宮に譲位、明石女御の第一皇子が春宮になった。
紫上が病気になり、二条邸で静養生活に入る。柏木は女三宮の姉女二宮
(落葉宮)を妻に迎えるが、女三宮への思いは断ち切れず、とうとう密会した。
女三宮は懐妊し、柏木の手紙を源氏が見たことから、二人の秘密を知ることとなる。
延び延びになっていた朱雀院の五十賀が、12月25日に行われた。
柏木は病の床に就く。
36.「柏木」(かしはぎ)48歳の正月から秋まで。
女三宮は男子(薫)を生んだ。女三宮は出家する。柏木の病状は益々重くなり、
夕霧に落葉宮の事などを遺言して死んでしまった。
37.「横笛」(ゆこぶえ)49歳の2月から秋まで。
夕霧は、柏木の遺言の真相に疑念を持つ。秋の夕暮れ、落葉宮とその母
一条御息所を訪ねた夕霧は、柏木遺愛の笛を贈られるが、夢に現れた柏木は
「その笛は夕霧以外の人に譲る筈のものだ」と告げる。翌日、源氏を訪ねて
その話をすると、源氏は柏木の笛を預かるだけで、他の事は一言も言わなかった。
38.「鈴虫」(すずむし)50歳の夏から8月まで。
女三宮は持仏の供養をした。秋好中宮が、出家の気持ちを伝えるが
源氏は思いとどまらせた。
39.「夕霧」(ゆふぎり)50歳の8月から12月まで。
夕霧の本心が分からず、落葉宮の母御息所が悩んで亡くなった。
夕霧は強引に落葉宮に迫った。雲井雁は、怒って子連れで実家に帰ってしまった。
40.「御法」(みのり)51歳の3月から秋まで。
紫上はここ5年の間、病に苦しんできた。3月、法華八講を盛大に催すが、
夏にはますます衰弱し、秋の八月14日に息を引き取った。
源氏は出家の決意をする。
41.「幼」(まぼろし)52歳の正月から12月まで。
紫上の死後、うつうつと暮らす源氏は、年の暮れに身辺の整理をはじめた。
この帖のあとに「雲隠れ」という、帖名だけで本文の全くない帖がある。
源氏の死去を暗示させるものとされている。
以下「薫」と「匂宮」が主人公となる。
ここから第二部と分類する説もある。
42.「匂宮」(にほふみや)薫14歳の春から20歳の正月まで(匂宮15歳から21歳まで。
匂宮は、紫上の二条院に住んでいる。花散里も、二条院の東院に住んでいる。
夕霧は落葉宮を六条院の一画に移し、三条邸の雲井雁とを交互に半月ずつ
行き来している。薫は母三宮邸で成長したが、出生の秘密を薄々知っており、
仏道に心が引かれている。薫には特別な体臭があり、それに対抗しようとする
匂宮は様々な香を焚きしめている。「匂ふ兵部卿、薫る中将」と並び称され、
匂宮はことごとく薫に対抗する。
43.「紅梅」(こうばい)薫24歳の春から冬まで(匂宮25歳)。
柏木の弟後の紅梅大臣は、蛍兵部卿宮と死別した真木柱の元に
忍んで通っていたが、正式に結婚した。真木柱は連れ子・大臣の前妻の子・
二人の間の子という複雑な親子関係を取り仕切っていた。
44.「竹河」(たけかわ)薫14歳から23歳の秋まで(匂宮15歳から24歳まで)。
鬚黒は天皇の伯父でもあり、太政大臣になったが、玉鬘47歳のおりに
世を去った。二人の間には男3人、女2人の子があった。
普通、以降を「宇治十帖」と呼ぶ。
45.「橋姫」(はしひめ)薫20から22歳の10月まで(匂宮21歳から23歳まで)。
源氏の異母弟で、桐壺帝の第八皇子である八宮は、朱雀帝の
母弘徽殿大后によって皇太子に立てられようとした事もあったが、
今は二人の姫君(大君と中君)と共に宇治に隠棲している。
仏道に惹かれている薫は、八宮の生き方に感動し、たびたび訪れていた。
八宮は薫に姫君たちを託す旨を伝える。姫君たちに仕える弁の御許は、
柏木の遺書を持っていた。弁の御許は、薫の実父が柏木であると告げる。
46.「椎本」(しひがもと)薫23サ歳の2月から24歳の夏まで(匂宮24歳から25歳まで)
死期を感じた八宮は、姫君たちに遺言し、山寺に隠ったまま他界してしまう。
47.「総角」(あげまき)薫24歳の8月から12月まで(匂宮25歳)。
大君は薫の求婚を拒み、中君を薫にと考える。匂宮に熱心に頼まれた薫は、
中君を取り持つが、浮気な匂宮は中君を大切にしない。
悩んだ大君は死んでしまう。
48.「早蕨」(さわらび)薫25歳の正月から2月まで(匂宮26歳)。
薫と中君の間を疑った匂宮は、中君を京に移す。
49.「宿木」(やどりぎ)薫24歳の夏から26歳の4月まで(匂宮25歳から27歳まで)。
薫は今上帝の女二宮と結婚するが、大君にそっくりな異母妹浮舟に惹かれる。
50.「東屋」(あづまや)薫26歳の8月から9月まで(匂宮27歳)。
浮舟をめぐる匂宮と薫。
51.「浮舟」(うきふね)薫27歳の正月から3月まで(匂宮28歳)。
匂宮は、薫に偽装して浮舟と会った。浮舟は匂宮の熱情に心惹かれながらも、
薫の愛情も忘れられず、進退窮まって入水自殺を図る。
52.「蜻蛉」(かげろふ)薫27歳の3月(匂宮28歳)。
浮舟の失踪後、死体のないまま、匂宮との関係を薫に知られないようにと
侍女が強引に葬儀を行った。薫は49日の法要を手厚く行い、浮舟の母に感謝される。
53.「手習」(てならい)薫27歳の3月から28歳の4月まで(匂宮28歳から29歳まで)。
失神状態で倒れていた浮舟は、横川の僧都に救われ、僧都の妹の手厚い看護を
受けるが、出家の意志を持つ。女一宮の祈祷で上京した僧都は、明石中宮に
行き倒れの女の話をして帰った。中宮は、この女が浮舟であると察し、
薫にこっそり告げる。
54.「夢浮橋」(ゆめのうきはし)薫28歳の夏(匂宮29歳)。
薫は横川お僧都を訪ね、行き倒れと出家のいきさつを聞き、
浮舟の異父弟を使いにやる。手紙を見た浮舟は泣き伏すが、人違いであると
言って弟にも会わず、手紙も書かない。薫は誰かが浮舟を隠している
のではないかと疑う。
以上 李 寧熙女史著「まなほ」第55号より
2024年5月4日書 追記
神功皇后の真実とは?
結論---持統天皇の功績を神功皇后として創作したのもと思われる。
神功皇后は「日本書紀」巻第9「気長足姫尊(神功皇后)」のありて、
歴代天皇と同列に登場する唯一の皇后である。
持統天皇---645年生まれ(蛇・巳年)
文武天皇---626年生まれ(犬・戌年)
朱鳥(あかみとり)元年(686)の是年条に、「蛇(おろち)と犬が相交(つる)めり」
の記述あり。これは、持統と文武のセックスをあらわす暗喩である。
蛇(巳)年生まれの持統と、犬(戌)年生まれの文武を蛇と犬で表現したもの。
「古事記」には仲哀天皇記中の第2・第3・第4・第5に
仲哀の死、新羅征伐、仲哀の息子達の反乱、角鹿(つぬが)の気比(けひ)
大神の応援、政権取りを祝う酒楽の歌と神功皇后の政治的活躍ぶりを記載。
日本書紀は初代神武天皇紀は天武天皇の初期の活躍を、
第2代綏靖天皇紀は即位前の天智こと中大兄皇子暗殺事件を
詳細に述べたた記録である。
また、巻第8足仲彦天皇(たらしなかつひこ)(仲哀天皇)紀には
末年の天武の姿が描かれている。
そして、巻第28と29は天渟中原瀛真人天皇(アマノヌナハラオキノマヒトのスメラミコト)
(天武天皇)として、即位前の天武(大海人皇子)が起こした壬申の乱(672年)
前後の記述がある。持統の兄多臣品治(おほのおみほむち)はサイ(エエ)系の
製鉄王で壬申の乱の際、助力した。天武の母方はサイ(エエ)系の製鉄家門であった。
「日本書紀」は虚実取り混ぜ「巧妙に作り上げられた」歴史書である。
新羅征伐の真相---神功皇后紀に記述あり。
「西に財宝の国新羅のあることを知った」神功皇后(持統天皇)は
仲哀天皇の死後仲哀9年9月10日、実際は天武11年(682)9月10日
その宝の国を手に入れようとした。
地方に命令し、船舶を集め、兵力を訓練しようとしたが、郡卒集まらず、
大三輪社を立て刀矛(武器)を奉納、郡卒自ずと集まった。
奈良の大三輪社は新羅系の神社(新羅からやって来た製鉄コンビ)である。
神功皇后(持統)は氏子の新羅人を味方にして、やっと計画を立てた事を表している。
仲哀9年10月3日、和珥津(対馬上県郡鰐浦)を出発、新羅に至る。
その時、船を乗せた波が国の中まで及んだ。これは、天神地祗がお助けに
なっているらしい。これをみて新羅王は白旗を上げて降伏、
地図や戸籍は封印して差し出した。また、今後は末永く朝貢を約束した。
新羅王「波沙寐錦」(ハサムキム)は微叱己知波珍干岐(ミシコチハトリカンキ)を人質
とし、金・銀・彩色・綾・羅・カトリ絹(紗)を日本に送った。
高麗(高句麗)と百済の王は新羅が降伏したと聞き勝つことは出来ないと判断
朝貢を絶やさないと言った。そして内官家屯倉を定めた。これが征伐された
三韓である。皇后、新羅から帰国、12月14日、後の応神天皇を筑紫で生んだ。
時の人はその産処を名付けて、宇瀰(ウミ)(福岡県糟屋郡宇美町)と言った。
以上「日本書紀」全現代語訳・宇治谷孟・講談社学術文庫より抜粋要約。
以上李 寧熙女史著:「まなほ」より
2019年8月7日書
西暦681年7月新羅王「文武」が新羅の都徐羅伐(ソラボル)で亡くなる。
王は亡くなる前に以下の遺詔をしたためた。「我が死後10日には火葬し、
喪の制度は最大限倹約せよ」と述べ、その遺言どおり「東海(日本海)口の
大石(慶州市東海岸の大王岩)上で、葬礼を行った」と「三国史記」
新羅本紀巻第7文武王記」にある。
しかし、文武はこの直前、日本へ旅立った。「新羅で死んだ事」にして
急遽日本に亡命したのである。
文武は宮廷内に「親唐ク−デタ−」が起こる事を事前に察知、「王の死」
という前代未聞の偽計で、謀反に対応した。
文武の指示どおり、文武王の長男「神文王」が即位、8月8日王妃の父
金欽突(ギムフムドル)と興元(第四品官)・眞功(第五品官)や関連軍官らも
謀反のかどで伏誅された。速やかに平定され、8月13日には高句麗の
継承者「安勝(アンスン)」が神文王に逆賊の平定を祝った。
一方、謀反直後、新羅王に即位すべく唐の都から帰郷途中の「金仁問」
(ギムインムン)は、また、唐に戻った。金仁問は、結局唐で亡くなり、死後
遺骸は帰郷した。
その2年後神文王は新しい王妃迎えた。8月16日有罪者は誅し、有功者に
賞を与えた。軍隊もこの時点で復帰している。
「日本書紀」天武天皇9年7月1日条に「秋7月、飛鳥寺の西の槻の枝、
自ずからに折れて落ちる」これは隠喩で、「西の槻」の「西」は日本の西に
ある「新羅」を表す。「槻」は同音の「月」つまり新羅の王宮「月城」(ウオルソヲン)
(半月城とも)を指している。王宮の南側に流れる南川(ナムチョン)の川べりが、
半月形に見えるのでこのように名が付けられた。
つまり、「槻の枝が自ずから折れ落ちた」とは、「月の一部が自ら折れ落ちた」
つまり、王宮の誰かが自らその地位を降りた事を表している。
文武王の「自作薨去」を表す隠喩に他ならない。
天武天皇9年は西暦680年で文武亡年(つまり亡命年を指す)は681年。
その亡年の1年前の記述に嵌め込んでいる事は、文武の日本亡命を1年前に
「予告」している事になる。日本書紀は恐ろしい「史書」では?
また、その翌年の天武10年、文武亡命年681年だが、この7月の記述には
「朱雀見ゆ」とあり、「上瑞」・「瑞鳥」となっている。681年の文武亡命は、
文武にも日本にも「上瑞」という事であった。
681年7月4日、日本は大使として小錦下采女臣竹羅、小使として當摩公楯を
して新羅に援軍を送った。そして9月には帰国した。(書紀9月2日条に、
新羅・高麗(高句麗)に派遣の使臣ら共に帰国、拝朝との記述あり。)
この年9月24日、飛鳥寺西の河辺で「多禰島の人々」を招き、饗宴開催。
この「多禰島の人々」とは新羅に派遣された日本の水軍を指すのであろう。
以上李 寧熙女史著:「まなほ」より
2019年8月10日書
日本書紀は「仲哀紀」及び「神功皇后紀」という仮の時代を創り、
実際にあった天武末期の新羅朝廷に於ける反乱及びその平定、
文武王の日本亡命など、激動の様子を細かく記述している。
天武紀の天武9年秋7月1日、「飛鳥寺の西の槻の木が折れる」
これは、次の年の文武の日本亡命予告編。
8月1日から3日間雨が降り大洪水が起こる。
8月14日には大風が木を折り、家を破る。
これもこの年ではなく、翌年天武10年に起こった災害を表したもの。
つまり681年8月の事件である。
この時、文武は日本の南端、伊勢南部、志摩半島南東部の小島
である大王島(三重県志摩市大王町)にいて、台風にあい遭難していたが
この地にいた新羅の渡来人達により、かろうじて救助された。
文武は新羅の東海岸大王岩を出発、九州北端の海辺に到着する。
瀬戸内海を通り難波に上陸しようとしたが、天武の息子達は激しく反発。
文武を殺害すべく戦いを挑む。
天武のもう一つの顔である仲哀天皇の子、カゴ坂王(カゴサカノミコ)・忍熊王は、
「皇后が皇子を生んだ。必ず彼を天皇に立てるであろう。
兄である我々が弟に従う事は出来ない」と言い、亡くなった仲哀の山陵を
明石に作るふりをして明石海峡を塞ぐ。筑紫から瀬戸内海を通り、難波に
上陸する一行の航路を明石で迎え撃つ計画だった。
ところがその途中で、カゴ坂王は「赤い猪」に咋い殺された。
これを見て忍熊王は怖じけ後退した。
このカゴ坂王は大津皇子、忍熊王は草壁皇子のもう一つの顔と見做される。
一方、神功皇后は明石海峡を避け、鳴門海峡を渡る難コ−スをとった。
皇后は武内宿禰に皇子を抱かせ紀伊国の日高に行かせ、自身は
忍熊王を追い攻める。この後、皇后は日高に行き皇子に会っている。
文武は新羅系製鉄集団の地、志摩に向かったが、台風に巻き込まれ
遭難も、救助された。この救出劇を再現した「わらじ曳き祭り」が
大王町で今も行われている。
この年(天武9年)、「初めて薬師寺が建立される」の記述が「書紀」に見える。
薬師寺は皇后(持統)の病平癒の為建立されたとされている。
しかし、東西両塔を伴う薬師寺は、天武・文武親子及び日本と新羅の
国家安泰の為の寺院である。
文武が創建し神文王が完成させた新羅の感恩寺も、東西両塔を伴う
薬師寺形式である。
日本の薬師寺も、文武の日本亡命を期に創建されたと思われる。
つまり、天武9年ではなく、天武10年(文武亡命年の681年)に
建立が開始されたと考えられる。
東西両塔を持つ薬師寺形式の寺院は、もっと古くから建立されていた。
知多半島にある法海寺である。金ユ信の長男三光こと道行法師が
7世紀末ごろの創建とされている。文武の志摩行きは、この寺も視野に
入れての事だったのか?文武と三光は従兄弟である。
(三光の父は「新羅統一」に寄与した新羅の名将金ユ信)
天武9年11月24日、新羅は沙サン(ササン)(第8位の官吏)金若弼(コムニャクヒツ)、
大奈末(ダイナマ)(第10位の官吏)金原升(コムグエンセウ)ら高官を日本に送り、
調を進呈している。この一行には習言者(日本語を学習する者)3人も同行。
文武の日本行きに先立ち、文武のための通訳官を養成する為の同行者であった。
文武の日本亡命は、日本と新羅両政府によって、漏れなく準備されていたことが
良く判る。そして、天武10年文武亡命の年を迎える。
天武10年7月、朱雀、赤すずめの記述あり。日本朝廷は采女臣、當摩らを
新羅に、高麗(高句麗)に佐伯連らを遣わす。当時高句麗は滅亡していたが
文武王は臨時措置として半島西部の益山を高句麗継承国の都とし、最後の
高句麗王の王子安勝を王位に就かせていた。
8月20日、新羅の使臣金若弼らは帰国する。この使臣達は、日本から
送り込んだ援軍がク-デタ−を完全に制圧した後、やっと帰国している事になる。
以上李 寧熙女史著:「まなほ」より
2019年8月11日書
神功皇后は男装姿で新羅戦に挑む。神が神託を垂れ、宝の国新羅の存在を
教えてくれたものの、夫仲哀天皇がその神託に従わず、祟られて亡くなったので、
自ら出征することにしたのである。皇后は、たまたま臨月になっていたので、石を
取って腰にはさみ、「事が終わって還る日、ここで生れてほしい(その後、生まれた
皇子は応神天皇。応神は文武のもう一つの顔である)」と言って祈った。
その石は今筑前怡土郡の道のほとりにあるという。
冬10月3日、鰐浦(対馬上県郡)から出立。順風に乗り帆船は波に送られたので、
舵や楫を使わないで新羅についた。
「書紀」によると、神功皇后は自ら新羅戦に出征した事になっているが、持統天皇は
新羅に出向いていない。
新羅の大王岩から出立して九州北端の渚に着いた文武を迎えたのは持統だが、
持統はおそらく新羅を訪れるた事は一度もなかったと思われる。
神功皇后紀の「新羅王」とは誰か?文武亡命後、新羅で反乱を起こした
首謀者の蘇判(ソバン)(第三位にあたる高位官)「金欽突」(キムフムドル)を¥である。
金欽突は文武王の長男神文王の舅で、親唐派だった。
神功紀によると、新羅王はすぐ素旆(シロキハタ)(白旗)を挙げて降伏したので、
皇后は「殺すのは不祥(サガナ)し」と、飼部(卑賤な役の者。「朝廷の馬を飼い、
養い扱う人」とされている)とさせたとあるが、「三国史記」には誅(罪を責めて
殺すの意)したとある。
一方、「書紀」神功紀の「一云(あるに云はく)」によると、新羅王は虜にされ
海辺に連れて行かれ殺され、砂に埋められたとある。
「海辺」とは、おそらく慶州東海岸の大王岩近辺の海辺であろう。
新羅の王宮月城からは約4km程の距離である。
日本からの援軍(水軍)は、このあたりから上陸、一部はここに駐屯していた
ものと思われる。
「吹くと敵兵が退く」という横笛「萬波息笛」を、後日「神文王」が授かったのも、
この付近の海辺という事なっている。文武もここから船出した。
ともあれ、少なからぬ援軍が、新羅の内乱鎮圧の為、日本からやって来ていた
ということになる。
これが、「神功皇后の新羅征伐」の真相である。
神功皇后は持統天皇のもう一つの顔である。持統は文武を愛していた。
「源氏物語」では、文武は「輝く日の君」つまり「光源氏」として描かれている。
当代最高のプレイボ−イ。一度の逢瀬の後は徹底して源氏を拒み通した「空蝉」や、
源氏の求愛を受け入れなかった「朝顔」も、心の底では惹かれていた。
源氏も、一度関わりを持った女君を決して見捨てない情のある男として描かれている。
その、「三国一の男」が日本に亡命して来た。持統は全力をあげて迎え、
かつ日本と新羅における反文武勢力を潰す事に総力を尽くした。
その奔走の模様をまとめたものが、所謂「新羅征伐」を含む「神功皇后紀」なのである。
以上李 寧熙女史著:「まなほ」より
2019年8月14日書
百済の武王(舒明天皇)---翹岐王子(中大兄皇子---後の天智天皇)
翹岐の母---天豊財重日足姫(善花公主---新羅真平王の娘)(後の皇極・斉明天皇)
(香櫛娘とも言われている)の子供達(中大兄皇子・間人皇女・鏡王女(押坂皇女他)は
百済・武王死後、王位を継いだ義慈王に追放され642年(皇極元年正月)に倭国に亡命。
新羅・善花公主には姉の天明夫人(太宗・武烈王(金春秋)を生んだ)や善徳女王がいる。
尚、香櫛娘とは香り高く端に咲く花(善花の意味になる)
2018年3月12日書
巻1-2 高市岡本宮御宇天皇代 息長足日広額天皇
天皇登香具山望国之時御製歌(舒明天皇)
真の訓み下し文
イッド オルラソヲ ハジャ
ヤマトニハ ムラヤマアレドドリヨ ロベ アメノ カグヤマ ノボリタチテ クニミ ヲスレハ
山常庭 村山有等 取与呂布 天乃香具山 騰 立 国見乎為者
ウナハラハ ケブリタチタツ ウナハラハ カ マメ タチタツ リョウカコクゾアキヅシマ ヤマト ノ クニハ
国原波 煙立竜 海原波 加万目立多都 怜柯国曾 蜻嶋 八間跡能国者
大和には群山あれど 多くの鳥が見える天の香具山登り立ち 国見をすれば
国原には 煙が立っている。水原にも 煙が立っている。
両カ国であるぞ あきづ島 大和の国は。
その大意
大和には多くの山がある。中でも多くの鳥の棲む 天の香具山に登り国見をすると、
飛鳥野の民家のかまどから 煙が立ちのぼっているのが見える。
曲がった河原の工場のかまどからも 煙が立ちのぼっているのが見える。
大和と百済の両カ国は、なんと素晴らしい鉄作りの場であろうか。
ほんとによい国だ。鉄作りの島、大和は---。
解説
鳥は鉄の象徴
トリヨ ロベ
取与呂布=多くの鳥が見える。(取=鳥)天の香具山を「多くの鳥が見える山」としている。
ガマ メ
加万目 =釜煙
怜柯国曾(リョウ カ コク ゾ)=両カ国であるぞ。(怜は百済系の読み方
柯は(カギ)型に曲がる黄河を指す。
蜻嶋嶋(アキヅシマ)=「あきづ」(秋の昆虫)=「とんぼ」の事。鉄の鏃(とんぼ)の事。
この歌は鉄の国「やまと」を称えた讃歌であった。
以上:李 寧熙女史著「まなほ」より当時の百済・新羅言葉で解説
参考 従来解釈
大和には群山があるが、とくによい天の香具山に登り立ち
国見をすると、広々とした平野にはかまどの煙があちこちから
立ち上がっている。広々とした水面には「かもめ」が盛んに
飛び立っている。ほんとうに結構な国だ(あきづ島)大和の国は。(全集)
2019年2月1日書
万葉集 巻3-264 柿本朝臣人麻呂、近江国より上り来る時に、
宇治河の辺りに至りて作る歌一首
「物乃部能 八十氏河乃 阿白木尓 不知代経浪乃 去辺白不母」
この歌を朝鮮半島よりの渡来人言葉で解釈すると、以下のとおりになります。
尚、柿本人麻呂の祖先は百済よりの渡来人と思われる。
真の解釈 (A)表詠み 「物部は八十氏側だ。新羅の末端なので、
頼りにするのは、止める。行く先は新羅ではない。」
真の大意 (A)表詠み 「物部の官吏たちは八十氏一味の者だ。彼等は新羅の端くれではないか。
だから、頼りにしたくない。私の行くべき所は新羅ではない。」
真の解釈 (B)裏詠み 「物部は「売春」を良くやる。新羅の子等だから。
不(不比等)に頼って過ごそう。
佐留(私、柿本人麻呂)の味方は新羅ではない。」
真の大意 (B)裏詠み 「物部は節操を良く売る。新羅の輩だからさ。いっそ不比等を頼りにしよう。
私佐留の味方は新羅ではないのだ。」
解説 柿本人麻呂は何故頑なに新羅を拒否しているか?それは、「文武拒否に」につながる。
持統天皇まで含む「新羅系文武政権」に向けられた長年の反感によるものと言える。
「日本書紀」「続日本紀」等によれば、文武天皇は草壁皇子の子とされているが、軽皇子こと
文武天皇は天武天皇の長男であり、しかも日本に来る以前は新羅の文武大王であった。
日本側の史書と韓国側の史書(「三国史記」三国遺事」など)を比較検討、これに「万葉集」の
真の解読を照らし合わせて得た歴史の真相である。
以上 李 寧煕女史著 「まなほ」創刊第一号より 2025年01月31日 西川健二 追記
万葉集 巻2-226 丹比真人名闕、擬柿本朝臣人麻呂之意
「荒浪尓 縁来玉乎 枕尓置 吾批間有跡 誰将告」
真の詠み下し文 「アラナミニ ブチゴゴシルヲ ビゲニドウ
アレチャガンアラト ニウイマジャチュゲ」
真の大意 「下伽耶」(金官伽耶を指す)の勢力が滔々と押し寄せて来たので
「藤の子」(藤原鎌足の子、不比等を指す)が寝返りした。
刺し刀を懐に入れて置いて「アレ」(「?」・人麻呂を指す)を捕らえて
行った「下人」(「アラガヤの一味を指す」)よ。
この次は一体誰をまた殺すのだろうか。」
注 柿本人麻呂を殺したのは親新羅系「伽耶」勢力。人麻呂は巻3-264で新羅は
いやだと拒絶。そこから死への道を歩き出している。
従来の詠み下し文 「荒波に寄り来る玉を枕に置き、我ここにありと
誰(たれ)が告げけむ。」
従来の解釈 「波に打ち寄せられて来た玉を枕にするような場所で
私が眠るよと、誰があなたに教えたか。」
以上 李 寧煕女史著「まなほ」より 2025年2月26日 西川健二 追記
万葉集 巻2-225 柿本朝臣人麻呂死時、妻依羅娘子作
その2
「直相者 相不勝 石川尓 雲立渡礼 見乍将偲」
真の詠み下し文 「ジグアビシャ アビアニガチ
イパガバニ グモダチュバダレ ミサマジャシ
真の大意 「水刑死にされたあの人が、かっての夫の姿のままであるはずがない。
もしかしたらあの屍体は夫だったのかも。考え直してまた行ってみたら、
海水に洗われ、狛人たちが到来する海に押されて、より一層腐敗していた。」
従来の解釈 「直接逢うと言う事は出来ないだろうが、石川に雲湧き立って飛んで来い。
それ見て君を偲ぶから。」
以上 李 寧煕女史著 「まなほ」創刊第一号より 2025年2月24日 西川健二 追記
万葉集 巻2-224 柿本朝臣人麻呂死時、妻依羅娘子作歌二首
その1
「旦今日旦今日 吾待君者 石水之 貝尓 交而有登 不言八方」
真の詠み下し文 「アシゲブアシゲブ ナデギミシャ イパミガ ガビニ
サカデイシドウ アニガヲドウモエエモ」
真の大意 「水際に行って探してみよう、行ってみよう。毎日のように
あちこちと歩き廻り続け、水際をずっと見続け、行ってみたところ、
或る死体に出逢ったが、ほとんど腐敗していた。
誰の死体かも分からないので、そのままにして行く。」
以上 李 寧煕女史著 「まなほ」より 2025年2月22日 西川健二 追記
万葉集 巻3-265 長忌寸奥麻呂歌一首
「苦毛 零来雨可 神之埼 狹野乃渡尓 家裳不有国」
当時の渡来人言葉で解釈すると以下のとおりとなります。
従来の解釈 「せつなくも降ってくる雨だ。三輪の崎の佐野の渡し場に家の者もいないのに。」(全集)
真の解釈 「苦しい。座り込んでお願いしょうか。お上(かみ)が逝かれたので、佐野らが継ぐだろう。
行こう。不比等も知っている。」
真の大意 「私の立場が苦しい。土下座して拝んで頼めば聞いてくれるのか?
お上(文武天皇)が亡くなられたので、泉佐野たち(元明・元正)が位を継ぐ事になるだろう。
だから京(みやこ)に行こう。不比等も了解済みなのだ。」
語句解説 「苦毛」(ゴロブモ)=苦しい。
「零来雨可」(エンコビカ)=座って(土下座して)懇願しようか。・座り込みお願いしようか。
「神之埼」(ガムガサキ)=お上(文武天皇)が逝かれたので。
「狹野乃渡る尓」(サノネバダリニ)=佐野(元明・元正)らが継ぐだろうから。
「家裳」(ガモ)=行こう。
「不有国」(ブアルグニ)=不(不比等)も知っているから。
この歌の詠まれた背景は以下のとおり。
「(柿本)人麻呂クン、君の帰京については不比等サマも知っておられるのじゃ。だから行こう。」
このような意味合いの奥麻呂の歌句は、一連の措置について不比等の内諾を得た事実を意味する。
文武天皇の死にあたり、不比等は何故、柿本人麻呂を京に呼び寄せようとしたのだろうか?
今後の解読からこの謎が明らかになる事を期待したいと思います。
以上 李 寧煕女史著 「まなほ」創刊第一号より。 2025年01月31日 西川健二 追記
万葉集 巻2-223 柿本朝臣人麻呂 在石見国臨死時、自傷作歌一首
「鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨不知等妹 之待乍将有」
真の詠み下し文
「ガモメエジ バエブリジマルアラ アレヲガモ ブジドメ ジデサマジヤアラ」
真の大意 「死ねというのか。死のう。首締められて死のう。
(行けというのか。行こう。縛られよう。)
しかし、頼む。どうか斬り殺さないでくれ。頼んだ後、行く事にしよう。
藤原不比等が心変わりしたので、頼りにしてはじめて全てが判った。」
注 柿本人麻呂は首を切り落とさないで呉れと懇願している。その望みが叶えられたものか
どうかは判然としないが、妻依羅娘子が死体を探し求めて海辺を尋ね歩いている事から
水刑死させられた事が類推される。
以上 李 寧煕女史著 「まなほ」創刊第一号より。 2025年01月31日 西川健二 追記
580年〜645年までの歴史的事実
580年?百済武王(後の倭国王兼務の舒明天皇)誕生。
600年 百済武王即位。
610年 ヨン・ゲソムン(後の大海人)誕生。
627年?額田王誕生。
636年 百済・新羅講和成立(額田王、金春秋の嫁に10才で入質)。
641年 百済・武王没と発表、額田王入質解消。(倭国王兼務の舒明天皇崩御と発表)。
642年 中大兄皇子(百済の翹岐王子)、耽羅(済州島)に流刑。
この間に中大兄皇子高氏との間に高市皇子をもうける。
643年 中大兄皇子、倭国に亡命(宝姫(後の皇極天皇)、間人皇女、
鏡王女、額田王ら40人余りと)。
尚、鏡王女は百済武王(舒明天皇)と新羅真平王の
娘善花公主との間に生まれた女性。
645年 中大兄皇子ク−デタ−を起こし政権奪取に成功。
万葉集 巻4-488 額田王の歌
君待登吾恋居者我屋戸之簾動之秋風吹。
従来解釈
君待つと我(あ)が恋ひ居れば我(わ)が宿の簾動かし秋の風吹く。
あなたのおいでを待って私が恋い募っていると。
真の解釈
あなたに抱かれて、おとなしく赤ちゃんを生もう。赤ちゃんよおいでよ。
足を動かし赤ちゃんを待つ。
解説
額田王は天智天皇に抱かれて、あきらめの眼をつぶり、
子供を生む事だけを念じ「行為」をしているのです。(悲しい歌である)
額田王は天智天皇の後宮に入った。(召し出されたようだ)
以上 李寧煕女史解説 2025年01月28日 西川追記
巻1-73 長皇子作(父=金ユ信でその次男(元述・蘇判の事)、
母=智召夫人=武烈王第三王女)
金ユ信の父=舒玄、母=万明夫人
(第24代真興王の姪)
吾妹子 乎早見濱風倭有吾松椿 不吹有勿
真の意味
私は誓います。倭(ヤマト)の砂鉄で鉄作ることを。
私は迎えるでしょう。
貴方が皇位に就かれる日を。その日に向けて鉄を焚くのです。
海越え、行きて---
以上のように「日本にやって来る時の決意として詠んだ作」であります。
吾姉子=私は誓います。それに「妹」と「子(娘)」まで
連れて日本にやって来た事実まで明らかに。
従来解釈
私が妻を早く見たいと思うように吹く浜の風よ、
大和で私を待っている椿、そして妻に届くように吹いてくれ。
以上 李 寧熙女史著:「まなほ」より
2019年3月13日書
以上、李 寧熙著「もう一つの万葉集」より。
2019年01月15日書
巻1-41 柿本人麻呂歌 伊勢国に持統天皇が行幸された時に、
京にとどまって作った歌
釼著 手節乃埼二 今日毛可母 大宮人之 玉藻苅良武
従来の解釈
クシロ サキ ケフ オオミヤヒト タマモ
釧つく たふしの崎に今日もかも 大宮人の 玉藻刈るらむ
釧つく 答志の崎で 今日あたり 官女たちは 玉藻を刈っていることだろうか
真の意味(その1) 柿本人麻呂が本当に言いたかった事。
(レ) (ゴスルモ)
ゴジレ チャゴ スジョレ ゴジネ オナルド ガモ オオミヤサラメ タムオツ ベラム
釼 著 手節乃 埼二 今日毛 可母 大宮人之 玉藻 苅良武
カタナ ツ オオミヤヒト タマモ
刀 着け 守節の崎に 今日も 行く 大宮人の 玉藻(または目障り)刈りせよ
(腰にさし刀を帯び 守節の崎に 今日も 行くのだ 大宮人の玉藻を 切るのだ)
真の意味(その2)
(レ)
ゴジレ チャゴ タフシネ ゴジネ グムイルド ガモ デグンインネ タマモ ベラム
釼 著 手節乃 埼二 今日毛 可母 大宮人之 玉藻 苅良武
釧着け 手節の崎に 今日も 行く 大宮人よ 玉藻 刈りせよ
クシロ ツ タフシ タマモ
(釧を着け 手節の崎に 今日も 行きなさる 大宮人よ 玉藻を刈りなされ)
注 玉藻をお刈りなさい=玉藻を切るのだ=大宮人を切るのだ。
解説
人麻呂は、持統天皇に対して、天武の皇后で
あった者が、その子である文武との交際にうつつを抜かすとは
何事であるか、操を守れと言う一方「文武を切れ」と息巻いていた。
語句解説
釼(または釧)(ゴジレ)======さし刀(または腕輪)
著(チャゴ)===========着け
手節乃(スジョレ)=========守節の(または手節の)
埼二(ゴジネ)(またはゴジレ)====崎に
今日毛(オナルド)(またはグムイルド)=今日も
可母(ガモ)===========行くよ
大宮人之(オオミヤサラメ)======大宮人の
(または大宮人之)(デグインネ)===大宮人よ
玉藻(タムオツ)==========大宮人の
(または玉藻)(タマモ)=======大宮人よ
(または玉藻)(ゴスルモ)======目障り
苅良武(ベラム)==========刈れよ
以上、李 寧熙著「もう一つの万葉集」より。
巻1-42 幸于伊勢國時、留京柿本朝臣人麻呂作歌
潮左為二五十等兒乃嶋邊榜船荷妹乗良六鹿荒嶋廻乎
(真の解読・裏詠み)
(その大意)
ほとがざわめいているので、「男性自身」をあたしにおくれ。
夫のお腹なのだから妻がこれに乗れないことはなかろう。
いくら荒っぽくてもいいから抉(えぐ)っておくれ。
※人麻呂は文武と持統の年齢を暴き、年増と年寄りの
情事を皮肉っている。
2020年3月22書
以上、李 寧熙著 「まなほ」第2号より。
巻1-47 柿本人麻呂作
マセガル アレネシャ スイアルイプリ ジネガルグミガ ガタミ トジュオルサ
真草刈 荒野者 雖有 葉 過去 君之 形見跡曾来師
(従来の詠み下し文)
ま草刈る荒野にはあれど、黄葉(もみじば)の過ぎにし
君が形見とぞ来(き)し。
(従来解釈)
安騎野は草を刈るしかない荒野だが、黄葉のように去っていった
君の形見としてやって来たことだ。
(真の解読・その大意)
恋にうつつを抜かす持統と文武。草壁皇子(天武と持統の子)
の死で、齟齬があったことを示唆。持統に操(みさお)を守れと迫り、
アレガヤの者、文武を討とうといきまいている。
人麻呂は高市皇子のブレ−ンだった。
軽皇子よ、鉄物づくりのアレカラ(金官伽耶)人である君は、
すぐ事をさとって言うであろう、懐刀にひびが入ったので
取り入れに問題が生じたと。
(語句解説)
真草刈(マセガル)=鉄を研ぐ。
荒野者(アレネシャ)=アラ人は。
雖有葉(スイアルイプリ)=すぐ悟り言うであろう。
過去(ジネガル)=懐刀。
君之(グミガ)=ひび入り。
形見(ガタミ)=取り入れは。
跡曾来師(トジュオルサ)=失敗する。
2020年3月22日書
以上、李 寧熙著 「甦る万葉集」第6章より。
巻3-262 柿本朝臣人麻呂献新田部皇子歌一首并短歌
(反歌原文)
矢釣山 木立不見 落乱 雪驪朝楽毛
(真の解読・その大意)
始祖天武の女よ 子供達同士争い仲違い
ああ どうしよう 浮気野郎がとうとう(政権)
盗って行ってしまったよ。
2020年3月22日書
以上、李 寧熙著 「まなほ」第23号より。
巻3-264 柿本朝臣人麻呂、近江国より上り来る時に、
宇治河の辺に至りて作る歌一首
物乃部能 八十氏河乃 阿白木尓 不知代経浪乃 去辺白不母
(真の大意)
物部は節操をよく売る。新羅の輩だからさ。
いっそ不比等を頼りにしよう。
私佐留の味方は新羅ではないのだ。
(解説)
「部・白・不・代・経・白・不」は
「否・新羅・否・新羅・否・新羅・否」
を暗示している。強烈な新羅否定である。
2020年3月22日 書
以上、李 寧熙著 「まなほ」創刊第1号より。
巻3-266 柿本朝臣人麻呂歌一首
淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛 思努尓 古所念
(真の大意)
父御伸(の)し出し、別れ波立つ。君が為泣かむ。
無念で死ねぬ 世継ぎ世話役用心せよ。
2020年3月22日書
以上、李 寧熙著 「まなほ」第2号より。
巻3-282 春日蔵首老の歌一首
チノヲツジャブ イッパレドアニジナ バッチュセメエ
角 障経 石村毛 不 過 泊 瀬山
ヲヌテ トマジャ ノヲモヲ バムシャギプヲ ガ トト
何時 毛将 超 夜者 深 去通都
(従来の詠み下し文)
つのさはふ 磐余(いはれ)も過ぎず 泊瀬山(はつせやま)
何時(いつ)かも越えむ 夜(よ)はふけにつつ
(従来の大意)
(つのさはふ)磐余さえ通り過ぎていない。
泊瀬山はいつ越えるのだろうか。夜は更けて行くのに。(新大系)
(真の意味解釈)
男根入れたい! 王に入れたい!
磐余も過ぎず 「鉄受け山」
何時 また越せる 夜は更けて行く。
(真のその大意)
男根、入れたい! いや、王にさせたい!
「たて続け鉄掘れ」も過ぎず 「鉄受け山」ぞ
何時 また 越せる もう夜は更けて行く。
(語句説明)
角障経(チ ノヲツジャブ)=@男根 入れたい。
A王に させたい。
石村毛不過(イッパレド(モ)アニジナ)=磐余も過ぎず。
泊瀬山 何時毛将超(バッチュセメエ ヲヌテトマジャノヲモヲ)
=@泊瀬山(鉄受け山)、何時また越せる。
=A捧げよう!の山 何時また越せる。
夜者深 去通都(バムシャギプヲ ガ トト)=@夜は深まり行く。
=A余(吾)は沈まり行く。
以上、李 寧熙著 「まなほ」第89号より。
2020年5月12日書
巻2-165 大伯皇女の歌
(反逆罪で自刃させられた大津皇子の屍体を
葛城の二上山に移葬する時詠まれた)
宇都曾見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見
従来の解釈
ワ フタカミヤマ イロセ ワ
うつそみの 人にある吾れや 明日よりは二上山を 弟背と吾が見む
この世に生きる身の私 明日からは 二上山を愛おしい弟として眺め
偲びましょう。
真の意味
どうやって生きていこう、人である私が(山でない私が)明日から
二上山を弟として眺めていくとは。
解説
愛する弟は「山」、つまり二上山に眠る土となってしまった、
ああ悲しい、再び姉弟になるためには、自分も「山」になるしかない。
以上、李 寧熙著「もう一つの万葉集」より。
巻1-7 天豊財重日足姫天皇(斉明天皇) (代詠)額田王
648年(孝徳天皇大化四年)作(十市皇女を生んだ年)
額田王17歳(生年は631年)
金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百磯所念
従来の解釈
カ フ ウジ カリイホ オモ
秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 仮廬し思ほゆ
秋の野の 萱を刈って屋根に葺き 旅宿りした
宇治のみやこの 仮の庵(イオリ)が思われる
真の解釈
セボルネ ミセガルジ オクジョエマルジ ウ チネ ミヤコヌン カ リオンゲトヨミョ
金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百磯所念
ソボル ナカ ウエ カタナ
徐伐は 鉄磨く 締め苦しむること勿れ 上の都は 刀来るぞよ 陣地固めよ
新羅は刀を磨いて戦にそなえている。
(戦争の準備をしているからお上の地(百済の事)は防備なされ!)
締め苦しめないといいのに。
吾がお上の、百済の都(扶余)は、敵が襲って来るから、
陣地をお固めなされ。
語句解説
金野乃(セボルネ)=新羅(徐伐)よ(百済方言)
美草苅葺(ミセガルジ)=刃(ヤイバ)磨き
屋杼礼里之(オクジョエマルジ)=締め苦しむ勿(なか)れ
兎道乃宮子能(ウチネミヤコヌン)=お上の都(扶余)よ
借五百磯所念(カリオンゲトヨミョ)=来襲に備えよ
詳細解説
金野(セボル)=徐伐(ソボル)(新羅)
乃(ネ)=達・「・・・は」・「・・・の」
美草(ムセ)(ミセ)=鉄
苅葺(ガルジ)=磨ぐ
屋杼礼(オクジェオ)(オクジョエ)=締め苦しめる
里之(マルジ)=勿(なか)れ
兎道(ウチ)=お上(カミ)・家
乃(ネ)=・・・の
宮子(ミヤコ)=(都・扶余)
能(ヌン)=・・・は
借五(カリ)=刀が
百磯(オニカ)(オンゲ)=来るから
所(ト)=城・陣地
念(ヨミョ)=締めよ・固めよ
キムチュンチュ
注1 648年、新羅王族「金春秋」(後の武烈(ムヨル)王)その子「文王」
のちの文武(ムンム)王(日本に亡命、文武天皇になった)が
唐に百済征伐の援軍請願、唐太宗これに応諾(三国史記・新羅本紀)
この事が15年後、新羅・唐連合軍により百済が滅亡(663年)する
重大なきっかけになった。
斉明天皇はこの金春秋の対唐外交情報を得ていて、百済に黒雲が
立ちこめていると案じ、戦争予告の歌を詠ませたわけである。
歌の上半句は新羅の攻撃準備について、下半句は百済に守備態勢を
整えるよう警告して歌つているのである。
注2 斉明天皇は百済第30代「武王」(ムワン)の娘宝(ボ)(たからの意。
斉明天皇の名「天豊財重日足姫」にも「たから」が入っている)王女であり
百済最後の王、第31代「義慈王」(ウイジャワン)の妹である。
従って、斉明天皇の「百済びいき」が異常なのも納得がいく。
即位早々「百済大寺」建立や大使として来日した翹岐王(のちの「天智天皇」)
を大歓迎した。(日本書紀、皇極天皇条)
注3 新羅でも女帝の時代で、善徳女王、真徳女王が即位していた。
以上、李 寧熙著「もう一つの万葉集」より。
巻20-4516 最終歌 大伴家持作(42歳時)
三年(天平宝字三年)(759年)春正月一日に、
因幡国の庁にして饗を国郡の司等に賜ふ宴の歌一首
新年 乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家余其騰
従来解釈
新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪のいやしけ吉事(よごと)
従来大意
新しい年の初めの初春の今日降る雪の積もれよ良い事(全集)
真の訓み下し
サラドウジネシネ パト ハルヌン ヤホ ブル ユキヌン イヤ ジケ ヨグヲドウ
新年 乃始乃 波都 波流能 家布敷流 由伎能 伊夜之家 余其騰
真の意味
新羅咎めお出しになられる 防禦正す矢、降り浴びせる靫(ゆき)(武具)
続けて作れ夜なべして。
その大意
新羅征討の旨 お出しになられる。防備を固め
矢、降り浴びせよう。靫など武具は日に夜を継いで作れよ。
用語解説
新年(サラドウジ)=新羅・斯羅(サラ)・咎め
乃始乃(ネシネ)=お出しになられる
波都(パト)=防御
波流能(パルヌン)=正す(きちんとする)
家布敷流(ヤホブル)=矢、降り浴びせる
由伎能(ユキヌン)=靭(ゆき)は
伊夜之家(イヤジケ)=引き続いて
餘其騰(ヨグヲドウ)=夜なべして
巻1-75 長屋親王(676年生〜729年)
(高市天皇(皇子)の第一皇子)
木簡に「長屋親王宮」との記入あり。
697年作(高市天皇(皇子)没後の作)
宇治間山 朝 風 寒 之 旅尓尓手 衣応 借妹毛 有勿久尓
ウ チ ガンメ アサガゼチャムジ タビイ シ ソ ゴロムン ガルメ ト ア ル ク ゙イ
(従来訳)
宇治間山の朝風が寒い旅先で衣を貸してくれそうな女(ひと)もいないのに。
(本来の訳)
お上(かみ)(高市天皇)が亡くなられたのだから 権力や財産などを奪われても
耐え忍ぶしかない。すべて放棄しなさい。そうすれば配流にすることも
自ら弁(わきま)えて、なさらぬであろうから。
(李 寧熙女史解説)
*この御歌は「吉備内親王」(後の元正女帝)宛のメッセ-ジ也。(至急電)
高市天皇(皇子)は654年生〜696年8月13日没。
元明天皇は草壁皇子の妻。
高市天皇(皇子)は天智天皇の第一皇子(母は済州島(耽羅国)高氏)。
2017年2月3日書
2017年5月12日改
1月23日、キトラ古墳(埋葬者:高市皇子?)壁画「玄武」像の修復実物展示と
高松塚古墳(被葬者:忍壁皇子?又は天武天皇?)壁画「西壁女子群像」
公開他を雪が舞う中、見学してきました。
往時にタイムスリップした感じで大変よかっです。
特に、高松塚の被葬者である忍壁皇子?又は天武天皇が生前に遺言として
「石室内壁面に兄弟姉妹や知人友人に見送って欲しい」ので、
その様子を藤原京で祭礼儀式で着飾った姿で描いて欲しいと
頼んでいたのでは、と考えれば良く理解できるのではないでしょうか。
2017年1月23日書 5月12日改
巻1-17 天智天皇御歌(この御歌は中大兄皇子の心を額田王が代詠したもの)
(慶尚道(新羅と伽耶の故地)方言で歌っている。)
味酒 三輪乃山 青丹吉 奈良能山乃 山際 伊隠万代 道隈 伊積流万代尓 委曲毛
見管行武雄 数々毛 見放武八 万雄 情無 雲乃 隠障倍之也
(従来訳)
三輪の山よ、奈良山の山の間に隠れてしまうまで道の多くの曲がり角ごとに、
よくよく見て行こうと思う。しばしば眺めてやろうと思う。
その山を無情にも雲が繰り返し繰り返し隠してもよいものであろうか。
(本来の訳)
うまし酒の三輪の者よ集まれ(彌鄒(みつ)人よ、私を憎まないで欲しい)
ぽっかり空いている盆地の奈良の者は集まる。
(一致団結して勝つ国の者は集まる)集まって近江に行くのだ、
新しい都に、全部行くのだ。
長い行列を組んで引っ越して行くのだ。
これをどう止めようとするのかね。(李 寧熙女史訳)
(真の意味)
皆の者、信じて一緒に行って欲しい。行ってくれ、どうか一緒に行ってくれ。
私への憎しみには誇張が多すぎる、無念なことだ、貊(くま)の者たち、
どうだ一緒に行きたがっているように見えないか。
*貊(くま)=北方系渡来系半島人。
(解説)
この歌は額田王が狛(コマ)=高麗(コマ)つまり高句麗将の「蓋蘇文」こと「大海人皇子」に
天智天皇の近江遷都に従うよう促している歌である。
しかし、大海人が近江京に居を移した様子はない。
百済滅亡---660年(新羅と唐の連合軍によって)
百済国完全滅亡---663年(白村江の戦)
百済王子(翹岐(ギョウギ)(後の天智天皇)北九州より大和に帰った---666年
近江遷都---667年3月19日
天智天皇即位---668年正月
巻1-18 井戸王
三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳 情 有 南 畝 可苦佐布倍思哉
ミバ ヤマオ グラモガクガ グモダニモ ヲゴロアランナ モ ガ コ ゙ジャブペサジュ
(従来訳)
三輪山をそんなに隠すことか せめて雲だけでも思いやりがあってほしい
隠してもよいものか。
(本来の訳)
憎まないでおくれ そう言えば行ってくれるのか 貊(くま)が歩き廻るっている
心を察したたであろう行きたがっているように見えるだろうが。(李 寧熙女史訳)
(真の意味)
憎まないでおくれと言えば一緒に行ってくれるか 三輪の貊(くま)たちが
行ったり来たりしている。私の心を察してくれたのであろう。
しきりに行きたがっているように見えるがね。
*貊(くま)=北方系渡来系半島人。
天智天皇は百済からの渡来一世。倭大后は百済からの渡来三世。
天智天皇と古人大兄の父は舒明天皇
古人大兄は天智天皇によって殺害された。
*倭大后は天智天皇の皇后で古人大兄の娘。
2017年2月2日書
巻1-28 持統天皇御歌
はるすぎてなつきたるらししろたえのころもほしたるあめのかぐやま
春 過而 夏 来 良之 白妙 能 衣 乾 有 天 之 香 来山
ポムジナイ ヌヨルムオル ラン ガ サロダペヌン ゴロムプシアル ジアビガ ヒャンゴンメ
(従来の解釈)
春過ぎて夏が来たらしい真っ白な衣が干してある天の香山に。
(真の解釈)
春が過ぎて夏がやって来るのでしょうか、
白い肌着の衣の紐をおほどきになる
貴方から(いつになく強い)香りが漂います。
*貴方=文武天皇の事。
**ようやく私たちの時代が来るのだろうか、
新羅との繋がりをほどくあの人が香しいので。
唐の後押しや高市皇子と組んで大津皇子が「親(天武天皇)斬り」の反乱を起こした。
そして8月5日天武没する。その後、持統天皇により(大津皇子の反乱)は拡大せず
高市皇子側の勝利となって収束、(大津皇子没)その10年後、高市皇子をも成敗、
文武天皇を即位させた後、その5年後、持統天皇は没した。
尚、高市皇子は天武と共に天智天皇に反旗を掲げ壬申の乱を起こしたが、
乱後は仲間割れし大津皇子と共に「天武排除」 に動いた。
持統は大津皇子の「親殺し」を煽った人物では?
以上 李 寧熙女史解説。
2017年2月1日書
巻1-7 天豊財重日足姫天皇御歌(あめとよたからいかしひたらし姫のすめらみこと)
(皇極天皇648年作)代詠 額田王?
金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百磯所念
セボルネ ミ セ ガルジ オクジヨエマルジ ウ チ ネ ミヤコヌン カリオンゲ ト ヨミョ
秋の野の み草刈り葺き宿れりし 宇治のみやこの仮盧(かりいほ)し思ほゆ。
(従来訳)
秋の野の萱を刈って屋根に葺き、旅宿りした宇治のみやこの、
仮の庵(いおり)が思われる。
(本来の訳)
徐伐(そぼる)は鉄磨く、締め苦しむること勿(なか)れ、
上(百済)の都は刀来るぞよ、陣地固めよ。
(真の意味)
新羅が戦争の準備をしているから、お上の地(百済のこと)は防備をなされ。
新羅は刀を磨いて戦いに備えている。締め苦しめないといいのに。
吾がお上の百済の都(扶余)は敵が襲って来るから、陣地をお固めなされ。
(百済方言で歌っている)
(李 寧熙女史訳)
皇極天皇は百済第30代武王の娘宝(天豊財重日足姫)王女で
百済最後の王である第31代義慈王の妹。
来日した義慈王の子翹岐を大歓迎した。
また、即位早々百済大寺舒明11年7月発願(九重の塔、吉備池廃寺)(大官大寺)の
建立(642年完成)した。
皇極天皇642年〜645年在位、斉明天皇655年〜661年在位
*額田王:631年生 17歳頃の648年に十市皇女を生んだ。
その頃に代詠したのでは? 2017年1月31日書
巻6-1042 市原王 御歌
一松 幾代何歴流 吹風乃 声之清者 年深香間
(一つ松 幾代か経ぬる吹く風の声の清きは年深みかも)
(従来訳)
このひともとの松は幾代を経ていることであろうか、この松を吹く風の音が清澄なのは
久しい年を経ているからであろう。
(真の意味)
藤原不比等とその子藤原房前(藤原「北家」の祖)派に頼って過ごしなさい。
「寒さ(貧乏・恐怖)」をしのぐことが出来ます。兎に角、ひねくれず、絡まないようにしましょう。
咎が手強くて手に負えませんからね。(李 寧煕訳)
*養老16年(744年)1月11日 活)の岡に登り、一株の松の下に集いて飲む歌二首。
大伴宿禰家持(718年生) 巻6-1043一首とペア
解説(翻訳)
一松=藤原不比等とその子房前 幾代何歴流=頼って暮らせ 吹風乃=寒さが失せる
声之清者=絡まないようにしよう 年深香間=咎めが手強い
2017年1月30日書
巻2-148 倭大后御歌(天智天皇の皇后)(古人大兄の娘)
青旗乃 木幡能上乎 賀欲布跡羽 目尓者雖視 直尓不相 香裳
ゴラギネ ナムギヌンウベオ ガ ヨ プトウバ メ イ ジャスイシ ジョギプルサ コ モ
あおはたの こはたのうえを かよふとは めにはみえれども ただにあはぬかも。
(従来訳)
山科の木幡のあたりを御魂は通っておられると目には見えるけど、
もはや直接には天皇にお逢い出来ないことである。
(本来の訳) 天智暗殺の真相
「青(大海人)」にやられた!遺言なされる天皇を見つけ、
駕籠を留め、お乗せしましたがすぐ息をお引き取りになりました。
誠にお可哀相でした。 (李 寧煕女史訳)
*大海人=後の天武天皇 天智10年(671年)8〜9月に暗殺されたのでは?
近江天皇聖躰不予御病急かなる時、大后の奉献るご歌一首(御病急時)
また、倭大后は父(古人大兄)を殺した叔父である人(天智天皇)を夫としていた悲劇の女性
天智天皇(百済の王子翹岐)は百済国からの渡来一世
倭大后は百済国からの渡来三世
2017年1月30日書
この度、地元朝倉を歌ったタイトル「朝倉讃歌」を作ってみました。
作詞 N.K.ASAKURA 変ホ長調 BPM=86
作曲 West River
「朝倉讃歌」
1.朝日が昇る 山里(やまざと)に
小鳥さえずり 若葉が萌える
遠くに浮かぶ 山脈(やまなみ)も
心きらめく わたぼうし
あゝ ここは朝倉
ぬくもりの里
2.風に舞い散る 遊歩道
時節(とき)を感じて もの思う日も
神奈備山に こだまする
祈りの叫び いまもなお
あゝ ここは朝倉
古代(いにしえ)の里
3.茜(あかね)に染まる 二上山
鎮(しず)む夕日に 想いをはせば
今は昔しか いつの世界(よ)も
明日(あす)は無常の 人ごごろ
あゝ ここは朝倉
やすらぎの里 2016年10月14日書改
日本書紀、崇神天皇条にある疫病対策として大田田根子(茅淳県陶邑出身)が
大物主大神他の神を拝祭のところ、疫病がおさまったとあるが、実際拝むだけで、
可能なのでしょうか?現代のインフルエンザでもワクチンを接種していても、
流行することがある。でも、ある程度時間が過ぎれば自然とおさまるのも事実です。
古代でも、時間が経てば、おさまったと考えるのが自然ではないかと思います。
大王やいわゆる神を偉大なものと、表現するため記紀編纂時に
このように記載したのではないでしょうか。一方、大田田根子は陶邑出身の為、
陶器を用いて料理を良く沸騰させて、病原菌を消毒させたので、
疫病が治まったのではないかとも考えられる。
2016年11月5日書改
高松塚古墳の被葬者は誰か?私は、天武天皇の第9皇子である弓削皇子(699年没)
(母:天智天皇皇女の大江皇女)ではないかと思います。
それと、卑弥呼は神功皇后時代の仲哀天皇の第二夫人であり仲哀天皇の死後
神功皇后の弟の(息長)日子王と再婚、弟姫と呼ばれた。與狗奴國男王 卑彌弓呼は
神功皇后の弟の日子王の事。とのWEB情報あり。これが事実では。
2016年10月10日書
今春、天王山古墳(崇峻天皇の陵墓?)の石室内部に初めて入りました。
家形石棺内部に「○○参上」他の落書きがありました。
また、粟原寺(和同8年・715年建立)跡を訪れ、1,300年の時を経て
額田王とシンクロした気持ちになりました。
2016年4月30日書
本日、特別史跡キトラ古墳(696年〜築造開始・埋葬者高市皇子「天武天皇の長子」?)の
石室内壁画のうち今回初公開の天文図(天井)他、朱雀(南壁)と白虎(西壁)(二度目の公開)を
見学してきました。
特に天文図は被葬者が北枕で横たわった状態で見られるように、
頭上が北で右側が西に描かれている事が良く判りました。
興味ある方は是非ご覧ください。(10月23日まで・要予約)
2016年9月27日書
万葉集 巻1の1 (即位宣言の御歌) 雄略天皇(大泊瀬稚武天皇)御歌
在位 西暦479〜599年(418〜479年)両説あり。
こもよ み籠持 ふくしもよ みぶくし持ち
(籠毛与 美籠母乳 布久思毛与 美夫君志持)
この岡に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね
(此丘尓 菜採須児 家吉閑名 名告紗根)
そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ
(虚見津 山跡乃国者 押奈戸毛 吾許曾居)
しきなべて 我こそいませ
(師吉名倍手 吾己曾座)
我こそば 告らめ 家をも名をも
(我許背歯 告目 家呼毛名雄母)
( )内原文表示
従来訳
籠も良い籠を持ち ふくしも 良いふくしを持ち
この岡で菜をお摘みの娘さんよ 家を聞きたい 名のっておくれ
(そらみつ)この大和はことごとく私がすべている国だ
すみずみまで私が治めている国だ
私こそ告げよう家も名も
本来の約(意味)(即位宣言の御歌也)
貊よ瑞穂の貊たちよ 復旧よ瑞穂の復旧の者たちよ
この丘(脇本)に私は(先代と)並び立ち ここに宮殿造営宣言をし住もうと思う
斯盧(新羅の前身徐羅ソラ)弥鄒(百済系)からの渡来人が住む、
このやまとの国は私が平定し、その統治者は私である
鎮めねかし私は自ら王位に就く
私は急ぎ来て皆に宣言する ここに来る 出て来ると
李 寧熙女史解説(一部解説付き)
以上、万葉集編纂(806年)より今年で1,210年となります。
これを記念し当時の百済系言葉で書かれたこの御歌を当時の百済系言葉で
読み取り翻訳された「李 寧熙」氏の表現と筆者の私見を付記しました。
万葉集 巻1-9 額田王 斉明天皇が紀伊の温泉に行幸された時に作った御歌
莫囂円隣之大相七兄爪謁気 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
(従来の読み下し文)
莫囂円隣之大相七兄爪謁気 わが背子(せこ)が
い立たせりけむ厳橿(いつかし)が本(もと)
(従来の解釈)
莫囂円隣之大相七兄爪謁気 わが君 そばに立たれたという 厳橿の木の下
(本来の意味)
メホル ドングルジ クンサチエ ジュアリゲ オラジャッジ ソ イッス ニ オガセ ヨロボン 歌の前半句
莫囂 円隣之 大相七兄 爪謁気 吾瀬子之 射立為兼 五可新 何本 莫隣之大相=高句麗の
淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)=天武天皇
本来の意味A 囂気大兄=百済王子の
翹岐(ギョウキ)=天智天皇
(水郷を廻らして都(岡本の宮)を造営しなさい。そして大城に拝復しなさい。 円大七爪謁=額田王
さあおいでなさい お城が出来たので行き来しましょう、何回も) 中大兄(天智天皇)は皇極天皇
元年(642年)、百済から日本にやって来た。
水郷廻らせまつれ城立ちぬ通いて伏さむ幾たびとなく。 大海人皇子(天武天皇)は高句羅
の大宰相で伊梨柯須弥である
(真の意味)B 持統天皇は伽耶系渡来人の娘
マゲドングルリジ クンサチエ ジョッアルゲ オラジャジ ソ イッス ニ オガセ ヨロボン で天武の叔母である。
莫囂 円隣之 大相七兄 爪謁気 吾瀬子之 射立為兼 五可新 何本
麻具を廻せよ 大股の麻具を識らせよ 来たれ麻具立ちにけりに 行き来せむ幾度 蓋蘇文は唐との激戦に敗れ
日本に亡命、壬申の乱で政権取り
麻具まわせ 識らむとぞ思う 王(天智天皇)のさち立ちにけり ゆかむ幾たび。 に成功、天武天皇となる。
武烈王の長男、蓋蘇文の子
は文武王(新羅第30代)となる。
後に唐の攻撃を受け新羅の東海岸
から日本に亡命した文武王は、
高市皇子(天皇)の死後、
持統天皇の協力を得て文武天皇として即位。 上記語句解説
莫囂(マゲドン)=水郷・(麻具)
円隣之(グルリジ)=廻らせよ
大相七兄(クンサチエ)=大城に・(大股の)
爪謁気(ジョッアルゲ)=拝謁せよ・(麻具を識らせよ)
吾瀬(オレ)=来たれ
子之(ジャッシ)=城が・(麻具)
射立為兼(ソイッシカネ)=立にけり
五可新(オガセ)=行き来せむ
何本(ヨロボン)=幾度
李 寧熙女史解説
2019年12月12日書
万葉集 巻2-107 贈石川郎女御歌 大津皇子
あしびきの やまの しづくに いもまつと われ たちぬれぬ やまの しづくに
足日木乃 山之 四付二 妹待跡 吾 立所沾 山之 四附二
従来の訳 (中西 進 訳)
あしひきの山の 雫に 妹待つとて 私は 立ちつづけて濡れたことだ 山の雫に
足日木乃 山之四 付二 妹待跡吾 立所沾 山之四 附二
アシゲネ サンガサ チュゲニ メマジュデヲ ダンチトテ サンガサ チュゲニ
本来の訳(百済言語で翻訳)
長枕 生ばさみ 行かせんとす ほとをあわせよ ほてりまら吹き出る
生ばさみ行かせんとす。
(長枕を腰にあてると、まらは締め付けられてすぐ行こうとします、
ほとをしっかりあわせて下さい。ほてりまらが吹き出そうとします、
まらが行こうとするのです。)
足日木乃 山之四 付二 妹待跡 吾立所沾 山之四 附二
アシビゲネ メガシ チュゲニ メマジュデ ヲショトテ メガシ チュゲニ
真の意味
姫枕 山辺殺さんとす 女に差し向かい 早々に事おこせ 山辺殺さんとす
解説:持統天皇らが山辺を殺そうとしているので、持統天皇らに対抗し、
早急に事をおこしてほしい、山辺を殺そうとしているのです。
(日木)脂肪ぶとりの女=持統天皇の事
石川郎女のバックである大伴安麻呂が大津ばなれする事によって、
大津の皇子は失脚し死に追いやられた。
巻2-107 贈石川郎女奉和歌 大津皇子
吾乎待跡 君之沾計武 足日木能 山之四附二 成益物乎
あおまつと きみがぬれけむ あしひきの やまのしづくに ならましものを
従来訳
私を待つと あなたがお濡れに なったという山の雫に私はなりたいものです。
中西 進 氏 訳
吾乎待跡 君之沾計武 足日木能 山之四附 二 成 益 物乎
ナオマジュデ クンガセバガム ア シ ゲヌン サンガシチュゲニ ニルマンムルオ
本来の訳
来たれ あてあわせ 大鋏を入れよ 長枕は生鋏行かせんとす 相立ち はさまむ
(おいでなさい 私にあわせて大きいそのはさみを、お入れなさい。長枕はいきり立っている
生ばさみを行かせようとするようですね。立ち上がり相対してはさみましょうか。)
吾乎 待跡 君之沾計武 足日木能 山之四 附 二 成益物乎
ナ オ マジュデ クンガセバガム アシビゲヌン メ カ ゙シ チュゲニ ニルマシムルオ
真の意味
出(いで)よ 女(め)に向かい大改新 打ち込まれよ
姫枕(持統天皇)は山辺殺さんとす、相立ちて戦われよ。
真の意味
出ていらっしゃいませ 持統天皇らに立ち向かい
大改新の旗をおあげなさい、彼女(持統天皇)らは
山辺皇女を亡き者にしようとしています。
立ち上がり相対してお戦いなさいませ。
(激励のメッセ−ジである)
巻7-1262 作者不詳
足病之 山海石榴 開八峯越 鹿待君 之伊 波比嬬可聞
従来の詠み下し文
あしひきの 山つばき咲く 八つ峰越え
鹿待つ君の 斎ひ妻かも
従来の解釈
あしひきの やまつばきさく やつをこえ
ししまつきみが いはひつまかも
真の解釈
長枕がほと受け廻す 入れなよ 売りほとさし
押し臥せ 大ばさみで こすってやろうか。
真の大意
長枕がほとを持ち上げて廻してくれる
入れなよ「売りほと」串刺し押し臥せて
大きいはさみ(まら)でこすってやろうか。
以上 李 寧熙女史解説
2020年4月15日書
巻12-2951 作者不詳
海石榴市之 八十衢尓立平之 結紐乎 解巻惜毛
従来の詠み下し文
つばいちの 八十(やそ)の街(ちまた)に立ち平(なら)し、
結びし紐(ひも)を、解(と)かまく惜(を)しも。
従来の解釈
海石榴市(つばいち)のいくつもの分かれ道で地をならして踊って、
結び合った紐を、解いてしまうのは惜しいことです。
真の解釈
ほと廻しまらが「売り(買い)ほと」に行く
ほてりまら広げよう(出そう) ほとお呉れ
はさみまら来られたぞ。
真の大意
ほとを廻すまらが「売りもの」のほとを買いに行くのさ、
いきり立っているまらを出そう、ほとをお呉れ
はさみまらがいらっしゃったのさ。
以上 李 寧熙女史解説
2020年4月15日書
巻8-1511 舒明天皇御歌(中大兄皇子作が真実なり)
(漢詩風の歌)
ジョムロガジャ ヲ-グリヤ メ イ
暮 去 者 小倉乃 山尓 鳴鹿者
グムヤハプルミョン ジャルジャカ ラ シ モ
今夜波不 鳴 寐 宿 家 良思母
(従来の詠み下し文)
夕されば小倉の山に鳴く鹿は
今夜は鳴かず寝(い)ねにけらしも。
(従来の解釈)
夕方になると、いつも小倉の山に鳴く鹿は
今夜は鳴かない、寝てしまったらしい。
(真の解釈)
夕暮れになり、蘇我の石川麿や入鹿が
今宵は鳴かぬので、ぐっすり寝られよ。
語句解説
暮去者(ジョムロガジャ)=夕暮れになると
小倉乃山尓(ヲ-グリヤ)=この鹿(入鹿の事)め、来たらば来たれ
鹿よ、永久に休めよ。
小倉(ソリヤ)=射ようか
小倉(ジョ-グラ)=休めよ。
小倉山(ソ グラ メ)=蘇我倉山石川麻呂
(蘇)我(倉)(山)
以上 李 寧熙女史解説
2020年4月18日書
巻9-1664 雄略天皇御歌
ジョムロガジャ ソリヤメ イ ヌプンシカ ガ
暮 去者 小椋山尓 臥 鹿 之
グムヤジャ プルミョン シイガラソリ
今夜 者 不 鳴 寐家良霜
(従来の詠み下し文)
夕されば小倉の山に伏す鹿(しか)し
今夜は鳴かず寝(い)ねにけらしも
(従来の解釈)
夜になると小倉の山に伏す鹿は
今夜は鳴かずに寝てしまったらしいな。
(真の解釈)
夕闇せまり「休めよ」(または射ようか)山に臥す鹿が
今宵は鳴かぬ、寝よというらし。
(真の大意)
夕方になって「休めよ」(または射ようか)山の小椋山で
いつも私を狙っていた「鹿」が、今宵は声もない。
それもそのはずだ、私の手にかかって死んだのであるから。
ああ今夜こそぐっすり休めと、この静けさが私に語りかける。
*夕暮れがやって来た 今夜はいつも鳴く鹿がいない
当然のことだ 私の王座を狙う鹿(市辺皇子)は、
この私の手にかかって死んでしまったのだから。
ああ、これで私もやっと枕を高くして休めと言われても
簡単に寝つかれはしないが。
市辺皇子をわが手にかけ、亡きものにして
「今宵は鳴かなぬ」と歌っている。
説明
臥鹿=市辺押磐皇子の事。安康天皇3年(455年)鹿狩りをしている。
以上 李 寧熙女史解説
2020年4月18日書
巻8-1520 七夕歌 山上憶良(逢瀬の歌)
724年(神亀元年)7月7日作
牽牛者 織女等 天地之 別時由 伊奈牟(宇)之呂 河向立 思空
不安久尓 青浪尓 望者多要奴 白雲尓H者尽奴 如是耳也
伊伎都枳乎良牟 如是耳也 恋都追安良牟 佐丹塗之 小船毛賀茂
玉纏之 真可伊毛我母一云 小棹毛何毛 朝奈芸尓 伊可伎渡
夕塩尓 一云 夕倍尓毛 伊許芸渡 夕方之 天河原尓 天飛也
領巾可多思吉 真玉手乃 玉手指更 余宿毛 寐而師可聞(宿毛寐而師可聞)
一云 伊毛左祢而師加秋尓安良受登母 一云 秋不 待登毛。
真の意味
牽牛と織女ありき 天地が 別れる時なりき
すぐには離れられぬなり いとも愛しくありて
恋しくありて たまが膨らむなり
麗わしくありて たまが膨らむなり
奥まるる ふくろは 毛 いとも多くあり
清らかな あなからは 水 いとも多く出(い)ずるなり
だしぬけに 息作りするらむ だしぬけに 交わりするらむ
鉄泥(せに) 押さむ 背負われてもせむ 逆さにも 廻せよ
相挟(はさみ)もせむ 一云、 伏せてもせむ
魔羅(まら)釣りなれば たて続け 削り受けよ
別れ蕃登(ほと)なれば 一云、別れ舟(腹)なれば
たて続け 抉(えぐ)り受けよ 硬くある 天(おみな) ひろげり
雨ぞ 降る 領巾(ひれ)あて 押し臥せ 突き当て 合わせり
合わせ終えたる 股の茎 咎めたりせば
たやすく(誤り)洩らせば 一云、この端に洩らさむ
子 生(な)すなり 蓋(けだ)し 一云、生(な)さぬなり
(大意)(セックス情景歌)
牽牛と織女がおりました。
夫婦が別れるときでありました。
すぐには離れられぬこの二人。
とても愛しいからでありました。
恋しくて、陰嚢が大きくなるからでありました。
麗わしくて、陰嚢が大きくなるからでありました。
奥まったところにある、ふくろは
毛、いとも多く、
清らかな、あな(穴)は、
水 いとも多くありました。
急に、キスしましょうか。
急に、交わりしましょうか。
鉄泥(せに)を押して、こねましょう。
おんぶされてもみましょう。
逆さに入れて廻そうではありませんか。
相挟(あいはさみ)もしようではありませんか、
(伏せてもしようではありませんか)。
魔羅(まら)釣りをするのですから、
たてつづけに削り受けなさい。
別れの蕃登(ほと)ですので、
(別れ舟ですので・別れ腹ですので)
たてつづけに、抉(えぐ)り受けなさい。
硬い
天(おみな)が、ひろげます。
雨が、降り出しました。
手拭をあて 押し臥せ
奥深く突き合わせましょう。
合わせ終えた股の茎は
咎めないでください。
たやすく(誤って)洩らしたりすると
(この端に洩らしましょうか)
赤ちゃんが出来るかも知れませんから。
(赤ちゃんが出来ませんよ)。
以上 李 寧熙女史著 「もう一つの万葉集」より
従来の解釈
彦星(ひこほし)は 織女(たなばたつめ)と 天地(あめつち)の
別れし時ゆ いなむしろ 川に向き立ち 思ふそら
安けなくに 嘆くそら 安けなくに 青波(あをなみ)に 望みは絶えぬ
白雲に 涙は尽きぬ かくのみや 息づき居(を)らむ かくのみや
恋ひつつあらむ さ丹塗(にぬ)りの 小舟(をぶね)もがも玉巻きの
ま櫂(かい)もがも (一に云ふ、「小棹(をさを)もがも」)朝なぎに
いかき渡り 夕潮(ゆふしほ)に (一に云ふ、「夕(ゆうへ)にも」)
い漕ぎ渡り ひさかたの 天の川原に 天飛(あまと)ぶや
領巾(ひれ)片敷き ま玉手(たまで)の 玉手(たまで)さし交(か)へ
あまた夜も 寝(い)ねてしかも(一に云う、「眠(い)もさ寝てしか」)
秋にあらずとも(一に云う、「秋待たずとも」)
従来の意味
彦星は 織女星と 天と地が 別れた時から(いなむしろ) 天の川に
向きあって立ち 思う胸の中も 安らかでなく 嘆く胸の中も
苦しくてならないのに 青波で 何も見えなくなった
白雲にさえぎられて 涙も涸れた こんなに ため息ばかりついておれようか
こんなに恋しく思ってばかりおれようか 赤く塗った 舟がないものか
玉をちりばめた 櫂(かい)がないものか (また「竿(さお)がないものか」)
朝なぎに水をかいて渡り 夕方の満ち潮に (また「夕方にでも」)
漕ぎ渡り (ひさかたの) 天の川原に (天飛ぶや) 領巾(ひれ)を敷き
うるわしい 手をさし交(かわ)し 幾晩も 寝たいものだ (また「共寝もしたいものだ」)
七夕の秋でなくても (また「秋を待たなくても」)
2019年01月16日書
三重県無形文化財「大王町わらじ曳き」神事の祭文---三重県志摩郡大王町波切神社
これは新羅第30代の文武大王(在位661〜681)が倭国(日本)に亡命、先ず大王島に着き
それを迎えに行った様子を再現したものとみられる。
尚、この文武大王とは倭国の第42代の文武天皇(軽皇子)と考えられる。
神社祭文 「祭如神在 如神在 礼也 非祠乃廃祀乃 非非 非祀乃廃祀乃 本正直也」 礼也 謐無波楽者也
サイジジザイ ジジザイ イヤ ヒ ス ノ ハス ノ ヒ ヒ ヒ ス ノ ハ ス ノ ホンシンチヤ イ
ヤ ビ シ ハ ラ シ ヤ
現代語訳 祭ること神在ますがごとくす。神在ますがごとくす。斬り給え、叩きのめし給え、
斬りに斬り、斬り給え、叩きのめし給え、すべて直ちに正し給え。---討伐望む者なり。
文字の解説 礼也(イヤ)=「お辞儀しなさい」という掛け声。
反乱軍一網打尽を祈願 非祠(ビサ)=斬り給え。
廃祀(ペサ)=叩きのめし給え。
非非(ビビ)=斬りに斬り。
非祀 廃祀(ビサ ペエサ)=斬り給え、叩きのめし給え。
本正直也(モドバロバルヤ)=すべて直ちに正し給え。
謐無波楽者也(ビムパラジャヤ)=討伐、望む者なり。
新羅第30代文武大王(ムンムデワン)は第29代武烈(ムヨヲル)王の長男で
母は文明(ムンミョン)皇后(文姫ムンヒ)、金ユ信(ギムユシン)の末娘である。
文武大王は三国統一後の681年7月新羅国東海岸の大王巌より倭国(日本)に亡命、
翌8月上旬に和歌山県日高市に上陸(陰暦8月)、そして三重県志摩郡
の大王崎に無事上陸、同8月申の日の事であった。
以上 李寧熙女史解説
2018年11月1日書
巻9-1667 大宝元年辛丑冬十月、太上天皇・大行天皇幸紀伊国時歌十三首
為妹 我玉求 於伎辺有 白玉依来 於伎都白浪
従来の解釈
大宝元年辛丑の冬十月、太上天皇(持統)・大行天皇(文武)、紀伊国に幸す時の歌十三首
妹(いも)がため 我玉求む 沖辺(おきへ)なる 白玉寄せ来(こ) 沖つ白波
(従来の大意)
妻のために、わたしは玉を求める 沖辺にある白玉を押し寄せて来てくれ 沖の白波よ
真の訓み下し文
為妹 我玉 求 於伎辺有 白玉 依来 於伎都白浪
ナスメ ナレタマモドム オ キ ベニス シラタマ ヲリオ オ ギツ シラナミ
その大意(真実の)
政権取りに乗り出したので、私は王位を得た 渡来の者が居るので
新羅王である私が頼って来て 渡来新羅人に後押しされた
注=文武天皇は、「新羅系渡来人のおかげで倭国(日本)の王位に就くことが出来た」と
歌を通して謝意を表している。
言葉の説明
為妹(ナスメ) = 乗り出したので。(「妹」の字を使用したのは「持統」の為に乗り出した事を表したのでは。)
我玉求((ナレタマモドム)= われ王位集めり。(かって新羅王であった人間が倭国(日本)の天皇になったので。)
「王位を二度集めた」意味として使ったものと見られる。
於伎辺有(オキベ・ニス)= 渡来者がいるので。
白玉依来(シンラ・タマ・ヲリオ)=新羅王・依り来。(新羅王文武が、新羅系鉄づくり集団の地であった志摩に
やって来たことを表す句である。)
於伎都白浪(オギツシラナミ)=渡来新羅人、押し出し。
以上 李寧熙女史解説
2018年11月03日書
巻1-74 大行天皇(文武天皇)幸于吉野宮時歌
見吉野乃 山下風之 寒久爾 為當也 今夜毛 我獨宿牟
右一首、或云、天皇御製歌
従来の解釈
み吉野の 山のあらしの 寒けくに はたや今夜(こよひ)も 我(あ)がひとり寝む。
真の詠み方(1)
見吉野乃 山 下 風 之 寒 久爾 為當也 今 夜毛 我 獨 宿 牟
ミエ シノ ネ メエ アレ ガセガ チバグ イ ハ タ ヤ グムヤ ト ナホボル ジャモ
その意味(1)
水の吉野の 山の下風 寒さをつのらす よもすがら 今宵も 我ひとり寝む。
真の詠み方(2)
ミエシ ノネ メエ レ ガセガ チバグイ ハ タ ヤ グムヤト ナホポルジャモ
見吉野乃 山 下 風 之 寒 久爾 為當也 今 夜毛 我 獨 宿 牟
ポジボルレ メエ アレ ガセジ チバグ イ ハ タ ヤ グムバッモ ナホボル チャモ
その意味(2)
裾をひろげ その下を漱(すす)ぎ給え 刺し込もうではないか
(高市の皇子を暗殺しよう)
しかし、「こみ価格」で頂くとしよう 私は天下を独り占めしたいのだ。
注:「天皇を暗殺する」意図を込めた歌から、当時の天皇は持統ではなく、
高市皇子が天皇だった事を暗示している。
天武天皇(=淵蓋蘇文)が680年、鵜野讃良皇后の病気平癒祈願の為
薬師寺建立を発願、686年没すると、持統、文武天皇(=新羅、文武王)に
引き継がれ、698年(文武2年)完成した。東塔は天武、西塔は文武を
象徴する建造物であると云われている。
文武天皇は681年唐に追われ日本に亡命、後に文武天皇になった。
文武天皇は(新羅第30代の文武王(ムンムテワン)の事。
日本書紀では文武天皇は15歳で即位、25歳で崩御と書かれている?
以上 李寧熙女史解説
2018年11月07日書
巻16-3870 雑歌、枕詞、民謡、歌謡、恋愛、譬喩
紫乃粉滷乃海尓 潜鳥 珠潜出者 吾玉尓将為
現状の解釈
コガタ カヅク タマコヅ イデ ワ
紫の 粉滷の海に 潜く鳥 玉潜き出ば 我が玉にせむ
主体は「玉」=「女性」を意味する。
紫のこがたの海に潜(もぐ)る鳥が 玉を探し出したら わたしの玉にしよう
巻11-2780 集歌
紫之名高乃浦之靡之情者妹尓因西鬼乎
現状の解釈
紫の 名高(なたか)の浦の なびき藻の 心は妹に 寄りにしものを
主体は「妹」=「女性」を意味する。
紫の 名高の浦のなびき藻のように 心はあの娘に 寄りついてしまった。
巻12-3099 恋歌
紫草乎 草跡別々 伏鹿之 野者殊異為而心者同
現状の解釈
ムラサキ コト オナ
紫草を 草と別く別く 伏す鹿の 野は異にして 心は同じ
主体は「心」 「紫」=「女性」または「女性の性器」を意味する。
紫草を他の草と区別して 寝る鹿のように わたしたちは
住む所は別々でも 心は同じだ。
巻12-3101 問答歌(奈良、桜井、歌垣、染色、問いかけ、求婚)
紫者 灰指物曽 海石榴市之 八十街尓 相兒哉誰
現状の解釈
ムラサキ ハヒ ツバキチ ヤソ チマタ ア タレ
紫は 灰さすものそ 海石榴市の 八十の衢に 逢へる児や誰
主体は「児」 「灰指(灰さす)」=男性の性器
紫染めには その灰をさす椿 椿市の八十の別れ道で 今逢っている あなたは誰
紫(女)は男性の物なのだといっている。
以上、李 寧熙女史著 「もう一つの万葉集」より
2019年01月15日書
「迎日冷水里新羅碑」(503年建立)碑文解説
1989年 韓国東南部(慶尚北道浦項市北区神光面冷水理里)
旧新羅の都、徐羅伐(ソラボル)(現在の慶州キョンジュ)北方
東仍音県珍而麻村(ドンインウムケンジンイマムラ)で出土。
国宝264号指定となった。
碑文内容
前面
新羅喙斯夫智王乃智王此二王教用珍而
麻村節居利為證尓令其得財教耳
癸未年九月廿五日沙喙至都盧葛文
王斯徳智阿干支子宿智居伐干支
喙尓夫智壹干支只心智居伐干支
本彼頭腹智干支斯彼暮斯智干
支此七王等共論教用前世二王教
為證尓取財物盡令節居利
得之教耳別教居利若先
死後令其第兒斯奴得此財
教耳別教末鄒斯申支
此二人後莫更導此財
後面
若更導者教其重罪耳
典事人沙喙壹夫
智奈麻到盧弗須 仇
「」喙耽須道使心 誓公
喙沙夫那斯利沙 喙
蘇那支此七人踪 踪所白了
事熟牛抜 詰故記
上面
村主臾支干
支須支壹
今智此二人世中
了事
故記
現代読み
斯羅(新羅)喙部の斯夫智王と乃智王、この二人の王は、
かって珍而麻村「節居利」の証言をもとにして、彼をして財を
得るよう命令されました。
癸未年九月二十五日、沙喙部の至都盧葛文王と、斯徳智干支、
子宿智居伐干支、喙部の爾夫智壹干支、只心智居伐干支、
本彼部の頭腹智干支と斯彼部の暮斯智干支、以上七人の王は
相談の結果、両王のかっての教令をよりどころとし、節居利に財を
尽く取らしめるよう命令なされました。
また、節居利の死後は、その息子の「斯奴」(または弟の児斯奴)が、
財を取得するよう命じました。
別に、末鄒と斯申支の二人は、今後財について一切言及すること無きよう(以上、前面)
若しこれに反すれば重罪に処すと申し渡されました。
命を受けた沙喙部の壹夫智奈麻、到盧弗、須仇「」と喙部の耽須道使心誓公、
喙部の沙夫、那斯利、沙喙部の蘇那支の七人は、任務を終え牛を殺して
広く知らしめ、ここに記録致しますことを、跪(ひざまず)き謹んでご報告申し上げます。(以上、後面)
村主臾支干支と須支壹今智、二人の責任のもとに任を果たしましたので、
ここに記録いたします。(以上、上面)
解説
節居利(テョヲルゴヲリ)=(節=鉄、居利=濾す)=「鉄濾し」さん---職名
財= 砂鉄採取権及び鉄濾し権の事。
斯奴(サノ)= (斯=鉄・金属、奴=野・壌土)=「鉄野」君。
末鄒(グッチュ)= 「固め」=「固め屋」=「製鉄屋」の事。
斯申支(サペキ)= 斯(サ)=「鉄」(新羅言葉)、申(ペ)=「伸・延」の事。
支(チ)=「挿し込む」、「挿し込む事」
「鉄延ばし挿し込み」=「鍛冶屋・鉄器作り屋」の事。
つまり、新羅王が「鉄作り」や「鉄器作り」に優れた「末鄒」、「斯申支」を排除し
「節居利」を保護したのは、その武器製造能力を警戒したからであろう。
「三国史記」新羅本紀の倭兵侵攻記録新羅
346年 倭兵、新羅の風島に至り抄掠、金城(慶州市内?)を囲む。
364年4月 新羅、倭兵を東原で撃破。
393年5月 倭人、新羅の金城を包囲。新羅これを大破。
405年4月 新羅の明活城(慶州市普門里)に倭兵侵入。
407年3月 倭、新羅の東辺を侵す。夏6月、南辺を侵し、100人を奪掠。
415年8月 倭と新羅の風島で戦い撃退。
431年4月 倭兵、新羅の明活城包囲。程なく敗走。
440年 倭、新羅の南辺を侵し、生口(奴隷)を掠取して去る。
440年夏 倭、また新羅の東辺を侵す。
444年4月 倭兵、10日間新羅の金城包囲。
459年4月 倭、新羅の月城(新羅の王城)包囲。
462年5月 倭、新羅の明活城攻撃。
463年2月 倭、新羅の歃良城(慶尚北道梁山)攻撃。
476年6月 倭、新羅の東辺を侵す。
477年5月 倭、新羅に侵入するが功なく帰る。
482年5月 倭、新羅の辺境に侵入。
486年4月 倭、新羅の辺を犯す。
497年4月 倭、新羅の辺境に侵入。
500年4月 新羅の長峯鎮、倭兵により陥落。
これ以降、倭兵の侵攻記述なし。
「鉄」は古代日本(倭国)にとって重要な輸入品であり、
倭国で本格的な製鉄が行われていなかった5世紀、
「鉄」は朝鮮半島南部から輸入され続けていたと考えられる。
「魏志」韓伝弁辰条に「国鉄を出す、韓、(ワイ)、倭、皆従いて之(鉄)を取る---」
倭兵は「鉄」を盗りにやって来ていた。500年(智証王即位年)以降、
倭の侵攻記述がなくなるのは、新羅の防備徹底と日本の製鉄技術が
向上したので、盗りに行く必要がなくなったものと思われる。
幸魂・奇魂の正体
「日本書紀」の神代上のくだりから抜粋
アヤ ウナ タチマチ
時に、神しき光海に照して、忽然に浮び来る者有り。
イ モ ワレア イマシイカニ ヨ
曰はく、「如し吾在らずは、汝 何ぞ能く此の國を
ム ワ ユエ
平けましや。吾が在るに由りての故に、
イタハリ
汝其の大きに造る績を建つこと得たり」といふ。
オホアナムチノカミ ノタマ コレタレ
是の時に、大己貴神 問ひて曰はく、「然らば汝は是誰ぞ」とのたまう。
サキミタマ クシミタマ
對へて曰はく、「吾は是汝が幸魂 奇魂なり」といふ。
ノタマ カ リ スナハ
大己貴神の曰はく、「唯然なり。廼ち知りぬ、汝は是吾が幸魂奇魂なり。
イズコ オモ
今何処にか住まむと欲ふ」とのたまう。
コタ ヤマトノクニ ミモロノヤマ
對へて曰はく、「吾は日本國の三諸山に住まむと欲ふ」といふ。
カレ カシコ ツク ユ マ コレ オオミワ
故、即ち宮を彼処に営りて、就きて居さしむ。此、大三輪の神なり。
コ カモノキミタチ オホミワノキミタチ ヒメタタラ イスズヒメノミコト
此の神の子は、即ち甘茂君等・ 大三輪君等、又媛蹈鞴五十鈴姫命なり。
上記の現代語訳
大己貴神、すなわち大国主神と幸魂・奇魂のやり取りは以下のとおり。
幸魂・奇魂 「もし私がいなかったら、お前はどうしてこの国を平らげる事が
出来ただろうか。
私があるからこそお前は大きな国を造る事が出来たのだ。」
大己貴 「ではお前は何者か。」
幸魂・奇魂 「私はお前の幸魂・奇魂だ。」
大己貴 「ああ、そうですね。分かりました。あばたは私の幸魂・奇魂です!
今どこに住みたいとお考えですか。」
ヤマトノクニ ミモロノヤマ
幸魂・奇魂 「日本国の三諸山に住みたいと思う。」
この幸魂・奇魂は傲漫(ごうまん)きわまりない。しかし、大国主は「幸魂・奇魂」と
聞いて態度が一変する。幸魂・奇魂の存在を前もって知っていた事になる。
この幸魂・奇魂はどこから来たのか何者なのか。また、大国主はどうして彼らを
知っていたのだろうか?
幸魂=「さきみたま」または「さちみたま」と呼ばれる。
「さき」・「さち」=「鉄挿し」・「鉄嵌め」の意。
つまり、磨いだ鉄に柄に挿して(嵌めて)作る「鉄器」の事。
=「鉄器作り」も意味する。
「たま」=「王」「首領」「最善」「丸」などの意の新羅の
韓国語タムから日本語になった言葉。これが日本語の「玉」の語源なり。
つまり、「さき(さち)たま」は「鉄器王」・「鍛冶王」の事。
奇魂=「くしみたま」=「固める」「固くする」の韓国語グチダの語幹グチが、
日本に渡り「奇し」(くし)「奇すし」(くすし)に転じた。
「奇し」「奇すし」=「神秘的だ」「不思議だ」の意。
「くしみたま」=「固め屋」つまり「製鉄王」の事也
新羅から出雲に到着した鉄作りのハイテク集団が大国主は大歓迎、
彼らの指定する三輪山のふもと狭井川べりに工場を建設することになった。
製鉄と鍛冶が奈良で本格的にスタ−トするのである。
この事件は、「記・紀」に神話として扱われているが、6世紀初めの「史実」と
して見るべきではないでしょうか。
「大国主」は歴史前史を生きた一人の支配者ではなく、紀元前から古墳時代に
かけての複数の人物と見做される。
大国主が、特に別名の多い神とされているのもそのせいではないでしょうか。
結論
サペキ グチュ
6世紀初頭の新羅で砂鉄採りを禁じられた「斯申支」と「末鄒は
その後日本にわたった。それが、「日本書紀」と「古事記」の
幸魂・奇魂ではなかったか。新羅の故地神光から出土の
「迎日冷水里碑」の231文字の金石文がこの事を裏付けている。
「日本書紀」神代篇の記述「神光」について
アルフミニイ
「日本書紀」神代上第八段「一書」第六は、「一書曰はく」と前提、
大国主の別名紹介あり。
オホクニヌシノカミ オホモノヌシノカミ クニツクリノオ ホアナムチノミコト マウ
---大国主神・ 亦の名は大物主神、 亦は国作り 大己貴命 と號す。
アシハラノシコヲ マウ ヤチホコノカミ オオクニタマノカミ
亦は葦原醜男 と曰す。または八千戈神と曰す。亦は大国玉神 と曰す。
ウツシクニタマノカミ
亦は顕国玉神 と曰す---
スクナビコナノミコト トコヨノクニ
そして、少彦名命 と力を合わせて国作りをしたものの、命が常世郷に
行ってしまった今、誰と一緒に天下を治めて行くべきかと嘆いている時、
「神(あや)しき光」が海を照らして忽然と浮かんで来るというくだりに至る。
原文は「神光照海」である。
503年に石碑建立その時点は東仍音県。そこが新羅真興王代(540年〜576年)に
「神光」(あやしきひかり)と新たに名づけられた。
新羅人の鉄の二人組(幸魂・奇魂)が日本に渡って来た事実を、後代の「日本書紀」の
作者は、「神光」(あやしきひかり)と云うその出身地を示す綴りで暗示しようとしたのでは?
「佐伯」さんと云う苗字について
「佐伯」氏=「大伴氏の一族」=(大伴室屋の子)=「談」(かたり)を祖。
「佐伯」=古音=「サヘギ」=その古音「サペキ」=(新羅神光の鉄屋)
「斯申支」(サペキ)と同名なり。
「佐伯」氏のご先祖は鉄作り(鉄製武器作り)の鍛冶王だった事が判る。
しかし、「サペキ」は職名にあたる。三輪の幸魂こと斯申支が佐伯氏の元祖
であるとは言い難いが、鍛冶一族であったことは確かである。
幸魂・奇魂は出雲到着直後、「三輪行き」を宣言する。三輪山は鉄の山であり、
この山から発源する狭井川は砂鉄の川であった。しかも、米作りにも最適の場所
であった。確かな情報を彼らは握っていたと思われる。
技術有り、情報有りで幸魂・奇魂こと斯申支・末鄒は、最初から「神」であった。
以上、李 寧熙後援会報「まなほ」第19号より
2019年01月22日書
古代朝鮮半島と倭国(日本)との関係考察
神話時代から日本列島には朝鮮半島から渡って来た二大部族(ワイ・貊)が住んでいた。
ワイ(ヱエ)=紀元前8世紀以前から豆満江岸茂山(ムサン)の嵌入(ガンニュウ)地帯、砂鉄の
豊富な三日月地帯に製鉄国を建設した部族。
倭国にも進出し勢力を広げていった。
また、釜山金海の大河洛東江の支流域に伽耶諸国を建国した。
製鉄に優れた国々だった。
吏読=官吏の読み方の事。
吏読を応用したのが万葉仮名である。
古事記・日本書紀・風土記等の地名・神名・人名・官職名は
吏読式に表記されている。
吏読の知識なくしては、万葉集や日本の文献、韓国の古文書の
真の解読は不可能である。
伊奘諾尊(イザナギノミコト)=繋ぎの生み王。
伊弉由尊(イザナミノミコト) =繋ぎの生み女王はワイ(ヱエ)の兄妹であった。
伊弉=去来、ヱエ、ネと読む=ワイ(ヱエ)の者、ワイの国を表す。
伊奘諾尊(イザナギノミコト)=伽耶の盟主大伽耶の伊珍阿鼓(イジンアチ)
の事である。「国を生んだ」とはその地方に
勢力を張ったという事。
倭国の例では淡路島、四国、隠岐、筑紫(九州)
対馬、佐渡島、吉備児島、小豆島、大八洲等を生む。
ワイ族=虎をト−テムとしていた。
貊族=熊をト−テムとしていた。
古朝鮮の建国の精神=人間になり損ねた虎と人間の女になって朝鮮の始祖
である天帝の子を生む熊の話しは、このワイと貊との
関係を表している。
日本神話では素戔嗚と八岐大蛇の争いが代表的な
ワイ貊戦争である。従来、妻問いの歌とされた歌謡一番
「八雲立つ---」は「ワイと貊とが戦って貊が勝った---」
という貊の戦勝歌なり。
雄略天皇 巻1-1 「興毛興呂毛」なる題詩が添えられている。
「興毛」=「貊」の事。
「興毛興呂毛」はゴモゴロモと読まれ「コマ平定す」を意味する。
巻1-1歌は、雄略天皇のダブルイメ−ジである天武天皇の
独立宣言歌であった。
高句麗人である天武天皇は檜隈つまり「日本クマ(コマ)」と
呼ばれていた。
古事記・日本書紀等の古文献に記載の「八」または「夜」の
字のつく神名や地名・人命・神宝名は殆んど「ワイ」とかかわりが
あると見做されている。
「八」「夜」の名のつく人名・神名は以下の通り。
1.八岐大蛇(ヤマタノヲロチ)(出雲簸川に住んでいた「をろち」と言われた男)
2.八島士奴美神(ヤシマジヌミカミ)(須佐之男命の子。母は櫛名田比売)
3.八野若日女命(ヤヌノワカヒメのミコト)(須佐之男命の女で出雲国神戸郡八野郷
に座し、大穴持命が屋を造って通った神)
4.稲田宮主簀狭之八箇耳(イナダノミヤヌシスサノヤツミミ)(八岐大蛇退治後、
須賀に宮を作った須佐之男之命が、その宮の首として足名椎に与えた名)
5.八千矛神(ヤチホコノカミ)(大国主命の別名の一つ)
6.八嶋牟遅能神(ヤシマムジチカミ)(大国主神の妻、鳥耳神の親)
7.八重事代主(ヤヘコトシロヌシ)(大国主神の子。八尋熊鰐(ヤヒロノワニ)となり
三嶋溝織姫(ミゾクヒメ)のところに通い神武天皇妃の姫蹈鞴五十鈴姫命を生んだ)
8.八上比売(ヤカミヒメ)(大国主神に嫁ぎ木俣神を生む)
9.八坂刀売命(ヤサカトメノミコト)(大国主神の子、建御名方神(タケミナカタノカミ)の妃。
諏訪神社下社の祭神)
10.八意思兼神(ヤゴコロオモヒカネカミ)(天の石屋戸から天照大御神を引き出す。
天孫降臨の際には爾爾芸(ニニギ)命に随伴して、伊須受宮(イスズノミヤ)を祀る)
11.八束水臣津野命(ヤツカミヅオミツヌノミコト)(出雲風土記の国引きの神)
12.登美夜毘売(トミヤビメ)(登美の長髄彦(ナガスネヒコ)の妹。
邇芸速日命(ニギハヤヒのミコト)との間に宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)を生む)
13.八咫烏(ヤタカラス)(神武天皇一行を吉野まで案内する)
14.八十梟師(ヤソタケル)(土蜘蛛。東征した神武天皇らに斬られる)
15.神八井耳命(カムヤイミミノミコト)(神武天皇の皇子。弟の神沼河耳命(カムヌナカハミミノミコト)
こと綏靖天皇に天下を譲る。多臣品治で持統天皇の兄)
16.夜麻登登百百曽毘売命(ヤマトトモモソビメノミコト)(孝霊天皇皇女・最古の前方後円墳
とされる箸墓の被葬者とされる)
17.波邇夜須毘売(ハニヤスビメ)(河内青玉の女で、孝元天皇妃となり、
建波邇夜須昆古命(タケハニヤスヒコノミコト)を生んだ)
18.八坂之入日子命(ヤサカノイリヒコノミコト)(崇神天皇の子)
19.八田姫(ヤタヒメ)(応神天皇の皇女。仁徳天皇妃)
20.美夜受比売(ミヤズヒメ)(尾張国造の祖)
朝鮮半島より倭国への流入民
第1波は紀元前3世紀頃から紀元2世紀にかけて、伽耶、新羅及び
その前身部族国家グル−プの波。
その中心はワイ(ヱエ)部族である。(農耕、鉄器文化と共に)
第2波は4世紀末の「百済の波」、高句麗の広開土大王(391年即位、413年没」
が百済を攻め、百済より王族・高官・学者・将軍が技術集団をつれて倭国に来た。
砂鉄10tに対し炭は12t必要、木材を求めて倭国に来た。
応神天皇(王仁)(ワニ)=百済王子辰孫王。
第3波は7世紀後半の「百済・高句麗の波」、660年百済滅亡、663年倭国援軍大敗。
斉明天皇(百済武王(ムワン)妃宝(ボ)王女)その息子中大兄(天智=百済王子翹岐)
も倭国に亡命して来た。
668年高句麗滅亡、高句麗・百済両国の権力者が学者・僧侶・医者その他の
専門家や技術者達を伴い、倭国に集団亡命した。
これが「今来(イマキ)の人々」、高句麗将軍淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)など。
文武天皇は天武天皇の長男で新羅の文武大王(ムンムテワン)その人である。
母は金官伽耶の直系子孫、金ゆ信の妹「宝姫(ポビ)」なり。
三国遺事(一然著)、「古朝鮮」
天帝桓因の息子桓雄は父帝の許しを受け3,000人の配下を連れて太白山の
神檀樹に降りてきた。桓雄が世を治めている時、熊と虎が同じ洞窟に住んで
毎日人間になりたいと祈っていた。桓雄は熊と虎に一握り蓬(ヨモギ)と20個の
大蒜(ニンニク)を与え「これを食べて百日の間、太陽の光に当たらなければ、
人間になれるだろう」と言った。
虎は辛抱出来ずに逃げ出し、熊は百日たって人間の女になった。
熊女の子供が欲しいという願いを桓雄は人間の男に変わって叶えてやった。
生まれた子供は檀君となった。紀元前2,333年、今の平城を都にして
国名を「朝鮮」とした。----
伊奈牟之呂(イネモツガラ)=すぐ行けぬ。
伊奈武思呂(イネムジルロ)=すぐ攻めて、すぐ押し伏せて、稲筵。
伊奈宇之呂(イネウラジ) =すぐ泣くので。
以上、「やまと言葉を遡る」仕田原 猛氏著より抜粋。
2019年2月27日書
日蓮聖人の立正安国論
南無妙法蓮華経・・・人の世の三種の苦とは?
@苦々(くく)=病と怪我それに別離。
A行苦=万物の変化。順風に見えていても、いつか苦がやって来る。
B壊苦(えく)=地震や津波、火事、水没それに元来の生老病死。
一切経
大集経・・・三種の災い。
仁王経と薬師経に七難。
金光明経・・・13種の災い。他国侵逼(ぴつ)の難と自界叛逆(ほんぎゃく)の難。
2019年6月1日書
「般若心経」とは
般若心経は紀元前100〜紀元後200年?に完成したと言われている。
お釈迦様---BC463年〜BC383年入滅(80才)
翻訳者---玄奘三蔵法師(600〜664年)
鳩摩羅什初代三蔵法師(AD334〜413年)
法相宗(清水寺・薬師寺)
倶舎宗
般若心経の漢訳---AD649年玄奘三蔵法師が完成した。
この年は大化の改新と同年である。
2017年10月28日書
「摩詞般若波羅密多心経」
大いなる叡智を完成する事についての心のお経。
マハ−パンニヤ パ−ラミタ−心経。
肝心要のお経です。
摩詞=大きい事
般若=叡智=人間を始めとするあらゆる森羅万象の現象の
背後に隠れている本質をズバリ見抜く事の
出来る眼の事を「般若」と云う。
波羅密多=こちらの岸から、かなたの岸に渡り終わった事。
即ち「ある物事を完成し終わった状態」の事。
2017年10月30日書
「観自在」( テシバラ)とは=観音さま=
叡智と慈悲の働きを持つ如来の分身の事
「観自在菩薩」とは=自由・自在に人間をも含めたこの天地大宇宙の本質を観る、
如来の叡智の働きを象徴する事。
「観世音菩薩」(アバロキタ スバラ)とは=世の中の悩める衆生の音、
即ち声を観ていつでも、
どこでもすぐ助けに来て下さる如来の
慈悲の働きを象徴している事。
菩薩(ボ-ディサッタ)(パ-リ語)とは=悟りを求めている人、
悟りを開きつつある人即ち求道者、
修行者という意味。
古代訳経僧は「菩提薩?」=菩薩になった。
「観音菩薩」とは=我々人間と同じ菩薩の形をとった如来の事。
菩薩という名前で我々の礼拝の対象とされているものは、
すべて人間の形に化身された如来なのです。
2017年10月31日書
「深般若波羅密多」とは---六波羅密--- @布施
A持戒
B忍辱(にんにく)
C精進
D禅定
E般若
以上@〜E全てを含むという意味である。
「五蘊」(ごおん)とは---人間を構成している五つの構成要素の事。
@色---あらゆる物質の事
A受---感覚の事
B想---イメ−ジ又は表象の事
C行---追う求めや逃げ出しの意志の事
D識---色々の知識が形成される事
識の明細---視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚
(眼識(げんしき)、耳識(にしき)、
鼻識、舌識、自識、意識)
人間は「水素」、「窒素」、「炭素」、「酸素」、「カルシウム」、
「硫黄」、「燐」、「ナトリウム」、「カリウム」、「塩素」の集合体。
2017年11月1日書
五蘊の色は---肉体を表している。そして、受、想、行、識は精神(作用)を表している。
人間が生きているとは、その肉体と精神作用が結合している事であり、
死はその肉体から精神が分離していく事であり、生まれると云う事は
またその精神が、どこかの動物の胎内又は卵を借りてそこに宿り、再び
精神と肉体が結合する事を云う。
即ち、生は死の始まりであり、死は次の生の始まりなのである。
2017年11月3日書
「五蘊皆空」とは--- @他のあらゆる物が存在しているからこそ、自分が存在しているという事。
自分以外のあらゆる物が生じたからこそ、自分も生じたのだ、という事。
A自分以外のあらゆる物が無いとなれば、自分という物もありえない。
また自分以外のあらゆる物が無くなってしまえば自分も無くなってしまうのだ。
(自分には何も実体はないのだ)これを諸行無常と表現する。
Bあると思っているのは単なる夢、まぼろし、錯覚にすぎないのである。
結論---自分の体も心も、自分以外の人の体と心も、みんなその実体は
無いのだと云う事をはっきりと腹におさめて生きておれば、その人は
すべての苦悩から解放されるものなのです。
*釈尊とその弟子---竜樹菩薩、世親菩薩、達磨大師、伝教大師、弘法大師、栄西禅師
隠元禅師、道元禅師、法然聖人、親鸞聖人、一遍聖人、日蓮聖人。
「舎利子」(鷺家の子)---お釈迦様の弟子(智慧第一)千数百人中の10人の一人
(舎利弗)(シャリホツ)---シャ−リ・プトラ
「色即是空」=色すなわち我々の肉体も我々以外に存在しているありとあらゆる物質・現象にも
すべて恒常不変ないし、それ自体として独立して存在している実体は何も無いのに
等しいと云う事であります。
空---@相依性の側面---他との関係(空間)
A変化性の側面---それ自体の物の本質(時間)
*現実否定の精神---この世には執着の対象となるべき実体は何も無い。
否定し、否定し、否定しつくしたそのどん底で、その否定した
眼でもって、もう一度現実を肯定する。
これが、「空」はすなわちこれ「色」なりの世界になる。
2017年11月4日書
相依性とは--- 此れが有るが故に、彼れが有る。
此れが無きが故に、彼れが無い。
此れが起こるが故に、彼れが起こる。
此れが滅するが故に、彼れが滅する。
変化性とは---あらゆるものは、絶えず変化するもの。
2017年11月7日書
「愛想行識」とは---私たちの精神作用を云う。 例えば、亦復如是=またまたかくの如し。
「是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不滅也」とは---ある日突然生まれるものでもなければ、
ある日ある時無くなってしまうものでもなければ、汚いものでもなければ、綺麗な
ものでもなければ、増えるものでもなければ、減るものでもない。
つまり、「はじめ無き過去から、終わりなき未来にかけて、この天地大宇宙を
生き続けて生きている永遠の命、永遠の光の事である。」
訳:この諸々の物や現象を空相なりと見る如来の世界は不生不滅、不垢不浄、不増不滅なり。
諸法とは物事・現象の事。
天界(神様の世界)、人間界、修羅界、畜生界、食我鬼界がある。
「無色無受想行識」=色は即ちこれ空にして、空即ちこれ色なり、
受も想も行も識も、またまたかくの如し。
「無眼耳鼻舌身意」= 眼---色---眼界
耳---声---耳界
鼻---香---鼻界
舌---味---香界
身---触---身界
意---法---意識界
(六根)(六境)(六界)
眼も聴覚も匂りも味覚も夢まぼろしである。
「無色声(しょう)香味触法」=視覚、聴覚、味覚、匂感覚もそれ自体がなく、まぼろしである。
「無眼界乃至無意識界」=六界は全て無し。 2017年11月8日書
「無無明亦無無明盡乃至無老死亦無老死」とは---
12因縁
@無明---無知(物事の真理に対する無知の事)
A行-----行為
B識-----六道に対する執着心生まれる。(受胎)
C名色---名--心、色--肉体。
D六入---六根(眼耳鼻舌身意)
E触-----六感で何かを感じる事。
F受-----良い悪い、好き嫌い、気持良い、悪いを受ける。
G愛-----トリスナ-楽しい事を求め、苦しい事を嫌がる欲望の事。
H取-----執着の働きと、逃避の働きの事。
I有-----行動が原因となって色々な結果を引き起こす働きの事。
J生-----(受)と(愛)と(取)と(有)によって、人生が形成される事。
K老死---いずれ必ず老い、必ず死ぬ事。
*死ぬと@「無明」の世界にもどる。
@「無明」からA「行」を経て、
B「識」に行き、どこかの胎内に宿る、これを無限に繰り返す。
2017年11月9日書
12因縁の第2(もう一つ)の意味は----
上記とは逆になる。
@老死-----老の原因は「生」である。 生=病、 生=死
生きている限り、時には病み、そしていつかは必ず老い
そして死んでいく、と云う鉄則を腹の底に入れ込んで生きて
いる事が、即ち、病と老と死の苦しみから我々を救ってくれる のである。
病む時は病むのが良い事で、死ぬ時は死ぬのが良い事である。
これ病死よりも救われる事である。---良寛(仏教の精神)
@我々は何故生きているのか?
それは我々の行動により、その結果として現在の人生、生活が
あるからです。即ち「有」(う)である。
Aでは何故「有」(う)があるのか?
それは我々が自分の欲するものに執着し、自分の欲せざるものから
逃避しようとして来たからである。即ち「取」があるからである。
Bその執着心はどこから生じたのか?
それは欲望、即ち「愛」があるからである。
Cその欲望はどこから、また、何故生じたのか?
それは我々が好悪を感受するいろんな感覚を持っているからである。
即ち「受」があるからである。
D何故「受」があるのか?
それは我々が生まれた時から、眼や耳や鼻や舌や手や第六感で
いろんなものに触れて来たからである。即ち「触」があったからである。
Eでは何故「触」が生じたか?
それは母親の胎内において六っの感官を与えられてしまったからである。
即ち「六入」である。
Fでは何故「六入」が生じたのか?
それは「六入」の受け入れ態勢である肉体と心が胎内で形成されていた
からである。即ち「名色」である。
Gそれでは何故「名色」が出来上がったのか?
それは、ある時母親の胎内で受胎という現象が起きたからである。
即ち「識」である。
Hしからば、何故受胎されてしまったのか?
ア−トマンが女性の胎内にへばりついたから、受胎という現象がおきたからである。
I何故そのア−トマンはその胎内にへばりついたのか?
それは中有(過去世界と現世との中間にある世界の事)におけるア−トマンが
仏界に生まれ変わるほどには浄化されず、まだこの六道、特にその中の人間界
に執着心を持っていたからである。
Jでは何故人間界に対する執着心はどこから生じたのか?
即ち、過去世においてなした、もろもろの行為の積み重ねの中から生じた
ものなのです。即ち「行」である。
Kではその「行」は何によって作られたのか?
それは闇々たるまっくらな「無明」によって形成されて来たのです。
結論:我々の現在の悩み苦しみの根源を、これでもか、これでもかと追求して行くと
結局は「無明」に至ると云う事である。
2017年11月10日書
十二因縁の否定とは---無明の尽きる事もなく、乃至老死の尽きる事もなし。
つまり、サラサラと水の如く生き、
ゆうゆうと雲の如く生きる事である。
流れる水と云うのは、岩にぶっかっても、
何ごとも無かったかのように、
また、サラサラと流れていくことなのです。
そのように、サラサラと我々も生きる事なのである。
四諦(したい)=「無苦集滅道」=「苦も集も滅も道もなし」と
「明らかにされた物事の本質」、「真理」の事
苦諦(くたい)=人間の場合には「人生」の事。(苦であるという真理の事)
苦の本来の意味=デユツカ=「意の如くにならない事」
生死病死(四苦)=愛別離苦
怨憎会苦---十二八苦
求不得苦
五蘊盛苦---四苦八苦
生苦=生きていると云う事は苦しみである。
病苦=病気で苦しむ事。
老苦=好きで年をとっている人はいません。
死苦=死ぬ事を望んでいる人はいません。
愛別離苦=愛する人・物とは、必ず別離しなければならない苦しみである。
怨憎会苦=怨み、憎んでいる人とは、必ず会わなければならないのが、
人生であるという事。
求不得苦=求めて得られざる苦しみの事。
五蘊盛苦=五つの蘊が盛んになると出てくる苦しみの事。
釈迦曰く---「絶望のどん底に落ち込んだ者はそこからはじめて
真の悟りを得る事が出来る」と。
2017年11月13日書
道元禅師(1200〜1253年)---
正法眼蔵---「美しい花は皆んから愛され、惜しまれる。
だから花は散ってゆくのだ。
逆に路傍に生えている雑草は、皆んなから
棄てられ、嫌われる。
だから草は増々生えてくるのである。」
幸をも求めず、不幸をも嫌わず、と云う世界に
どっぷり我が身をゆだねると、本当にあらゆるものが
楽しくなってきてしまうのである。
2017年11月14日書
集諦(じったい)=とにかく人生は「苦」で表現される。ではどのように考えればよいか、
その「苦」の根源は「何なのか」を考えなければならない。
そのことを「集諦」(じったい)と云う。
(集まった真理と云う意味である。)
苦の根源は「迷い」や「煩悩」による「業」であると考えるのである。
滅諦=(制諦)=苦の根源を制御しなければならない。これを「滅諦」と表現する。
滅=ニロ−ダ=制御する。あやつる。支配する。と云う意味。
2017年11月18日書
道諦(どうたい)=その煩悩を制御する事の出来る道、方法は何かと云う事が問題となる。
この事を道諦と云う。これには八つあると考えられる。
八正道とは
@正見---四諦の道理を正しく見る事。
A正思---四諦の道理を正しく思う事。
B正詰---嘘を云わない事。(不妄語と同じ)
C正業---正しい行動をとる事。
D正命---正しい生活をする事である。
E正精進-悟りを開く事。自らの煩悩から自らを解放する為に
努力する事。
F正念---正しい道を念ずる事。
G正定---心を定める事。
2017年11月22日書
八正道の正の基準は「十重禁戒」である。
つまり、この十重戒に合致した見解を持ち、
それに従おうと云う決意を持ちそれに合致した言葉を話し、
それに合致した行動と生活をし、それに向かって
努力し、それをいつも心に念じ、それに合致した
肝っ玉を持つ事が「八正道」である。
十重禁戒とは
@不殺生戒
A不偸盗戒
B不邪淫戒
C不妄語戒
D不?酒戒 (5)不綺語戒
E不説過戒 (6)不悪口戒
F不自讃毀他戒 (7)不両舌戒
G不慳法財戒 (8)不慳貧戒
H不瞋恚戒 (9)不瞋恚戒
I不諤三宝戒 (10)不邪見戒
2017年12月5日書
四諦・八正道に対する否定
無苦集滅道とは「苦諦もなく、集諦もなく、滅諦もなく、道諦もなし」と
そんなものはないんだよ、と言われた。
「裏切られた」と思った瞬間に、必経の世界、すなわち「空」の世界に
一歩足を踏み込んでしまっているのであります。
朝から晩まで「ジッタイ」「ジッタイ」とそればかり考えているのは「ダメ」と云う事です。
同様に滅諦もなく、道諦もなし、となるのです。
否定の否定
「無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽」の
次に「無苦集滅道尽」=(「苦と集と滅と道の尽くる事もなし」と)の言葉が略されている。
本当の道はその中道にあるのである。
2017年12月6日書
両極端の否定、即ち「苦集滅道」と「無苦集滅道」のどちらからも自由なる境地が、
「般若心経」の世界であり、また、「空」の境地なのである。---僧湛道(たくどう)著
「心経決談抄」
苦中に苦を離し、楽中に楽を離る。かくの如く障碍なければ苦集滅道もなきにあらずや。
苦は苦で良し、楽は楽で良し。苦楽空相なれば、苦ある時は苦に遇って良し、
楽ある時は楽に遇って良し。何の妨ぐる事や、これあらん。
「病む時は病むが良くて、死ぬ時は死ぬのが良い事なり」---(道諦に対する否定)
*あらゆる執着に対する否定。つまり、仏教に対する執着をも否定される。
2017年12月7日書
座禅だけに執着してもいけない。
良寛の言葉として
@悟りとは悟らで悟る悟りなり、悟る悟りは偽の悟りである。
無智=智もなく、また得もなし=悟りもないと云う意味也。
お釈迦様
竜樹菩薩
達磨大師
天台大師(中国)
如浄禅師
伝教大師
弘法大師
栄西禅師
道元禅師
法然聖人
親鸞聖人
一遍聖人
日蓮聖人
2018年01月23日書
@尋牛------まず牛を探しに出かける。牛とは、「悟り」の事である。
A見跡------牛を尋ねて深い山に入り、ようやくその「足跡」を見つける。
足跡とは文字に書かれた「お経」の事である。
B見牛------やっと「牛の影」を見つける。浅い悟りを開いた段階である。
C得牛------その牛に手綱を付けて、「自分のもの」にしようとする。
ちょっと悟りかかったもので、おもしろくて修行が止められない。
D牧牛------牛を良く「飼いならす。」即ち、悟った後の修行である。
E騎牛帰家--ならした牛に乗って、わが「家に帰る。」悟りを開いた上で、
このドロドロとした娑婆世界に戻ってくる事。
F忘牛存人--牛の事をすっかり「忘れてしまう。」自分が悟った事を忘れてしまう事。
G人牛倶忘--牛の事だけでなく、自分のいる事も「忘れてしまう。」
即ち、悟りの事も自分の事も、忘れてしまう。
H返本還源--本(もと)に返って「源に」還る。つまり、宇宙の根源である永遠の命と
一体になってしまう。
I入廛垂手--廛(てん)、即ち町の中に入って衆生済度の為に手を垂らす。
つまり、永遠の命の世界から、またこの現実社会に戻って来て「人類」を救う。
般若心経---「空」---7個
「不」---6個
「無」---13個
仏教は---否定の否定したる肯定である。
色即是空と空即是色の世界である。
2018年2月1日書
無得とは---@智もない(得もない)
A何かを得ようとする事もない(得ようと意志なし)
つまり、幸福を所有しようとしない処にこそ、幸福があるのです。---
金子文子(1926.7.23)
菩薩とは---以無所得故---菩薩薩?は般若波羅密多に依る。
@所有しているものは何もない。
A何ものも得ようとしていない、
幸福などを追い求めようとしないことによって
「般若波羅密多」を得ることが出来るのである。
2018年2月14日書
トップペ−ジに戻る