万葉集・般若心経解説

 

 万葉集とは政治コメントを集めた大巻 全20巻4,516首
 
 第1巻---84首---雑歌(ジャプノレ)=国取り歌、政権取りの歌(政争歌の事)
 巻1-1 雄略天皇---即位宣言の歌、巻1-2 舒明天皇---国見の歌(望国之時御製歌)
 巻1には天智天皇と天武天皇系との政争関連歌を掲載。
 巻2には「相聞」(贈答歌)と「挽歌」を通して7世紀後半〜8世紀初めの政治事件を掲載。
 巻3には高市皇子をめぐる政争歌を掲載。
 *政治コメント、政治的行動を促す檄であり、政情を報告するリポ−トであり、且つ体制批判、
  社会風刺、陳情などの歌集である。
 **大伴家持は優れたジャナリストで日本書紀を意識し、その「歪曲」に対し歴史の真実を残そう
   と云う編集意図を最も表しているのが「万葉集1-1 雄略天皇の即位宣言御歌である。
   その理由:日本書紀と古事記の第一歌謡が日本建国者である素戔嗚尊の
  「勝鬨」(かちどき)の歌であるから。
   (解説:李 寧熙女史)
 
 
 
 日本書紀の天皇の本当の姿は以下の通りと推察される。
 
 第1代.神武天皇(神日本磐余彦)=「神の国日本の製鉄祈り男」天武天皇のもう一つの顔、
 第5代.孝昭天皇(観松彦香殖稲天皇)=孝徳天皇の分身なり、
 第6代.孝安天皇(日本足彦國押人天皇)=孝徳天皇の分身なり、
 第7代.孝霊天皇(大日本根子彦太瓊天皇)=孝徳天皇の分身なり、(隠岐島から日吉津に上陸)
 第8代.孝元天皇(大日本根子彦国牽天皇)=孝徳天皇の分身なり、
 第12代.景行天皇(大足彦忍代別)=天智天皇のもう一つの顔、
 第21代.雄略天皇(大泊瀬幼武天皇)=百済・昆支、
 第27代.安閑天皇(広国押武金日天皇)=天智天皇の双子の兄、大碓尊の事、
 第28代.宣化天皇(武小広国押盾天皇)=日本武尊=高市皇子の事、
 第29代.欽明天皇(天国排開広庭天皇)=百済・聖明王、
 第30代.敏達天皇(渟中倉太珠敷天皇)=高句麗・威徳王、
 第34代.舒明天皇(息長足日広額天皇)=百済・武王
 第36代.孝徳天皇(天萬豊日天皇)=高句麗・太陽王=百済・義慈王、
 第38代.天智天皇(天命開別天皇)=百済王子・翹岐(武王=舒明天皇の子)、
 第40代.天武天皇(天渟中原瀛真人天皇=高句麗将・蓋蘇文、
 第42代.文武天皇(倭根子豊祖父天皇)=新羅・文武王(蓋蘇文=大海人皇子=天武天皇の息子)

 以上李 寧熙女史著:「まなほ」より
 2019年7月29日書改
 
 
 源氏物語は紫式部が彼女が生きた約200年前の出来事を、後世の我々に
 真実を伝えてくれている。大変興味を惹かれます。
 
 1.桐壺帝(光源氏の父)=天武天皇(文武天皇の父)
 2.桐壺更衣(光源氏の母)=宝姫(文武天皇の母)
 3.皇子(光源氏)=皇子(文武天皇・アゴ様)
 4.弘徽殿女御(桐壺帝妃・朱雀帝の母)=鏡王女(天武天皇妃・藤原不比等の母)
 5.藤壺女御(先帝皇女・桐壺帝皇后・冷泉の母・源氏と関係)=持統天皇
  (★先帝皇女・天武帝皇后・多紀・舎人の母・文武天皇と関係)
 6.左大臣(葵上の父)=藤原鎌足(五百重娘の父)
 7.大宮(左大臣の妻・桐壺帝の妹)=鏡王女(藤原鎌足の正妻・★天智天皇の妹)
 8.葵上(源氏の正妻・夕霧の母)=五百重娘(新田部の母)
 9.頭中将
(葵上の兄・左大臣の息子)=藤原不比等(★五百重娘の兄・★鎌足の息子
  実は大海人皇子の子)
 10.空蝉(常陸介の後妻・源氏と関係)=五百重娘のダブルイメ−ジ(天武の若妻・文武と関係)
 11.前春宮(桐壺の弟)=前皇太子草壁皇子(天武皇子)
 12.六条御息所(前春宮妃・女児の母・源氏の愛人)=元明天皇(前春宮妃・
   氷高皇女の母・文武の愛人・斉宮)
 13.惟光(源氏の乳兄弟)=弓削皇子(文武の兄弟)
 14.乳母(惟光の母)=大江皇女(弓削皇子の母)
 15.紫上(藤壺の姪・兵部卿の娘・源氏の妻)=石川刀子娘(持統の姪・品治の娘・文武妃)
 16.兵部卿宮(藤壺の兄・先帝皇子・紫上の父)=多臣品治(持統の兄・石川刀子娘の父)
 17.冷泉帝(桐壺帝皇子・実は源氏の子)=舎人皇子(天武皇子・実は文武の子)
 18.朧月夜尚侍(朱雀帝尚侍・弘徽殿女御の妹・右大臣の娘)=県犬養橘三千代(不比等の妻・
   鏡王女の妹分・県犬養東人の娘)
 19.朱雀帝(桐壺帝皇子・弘徽殿女御の息子・右大臣の孫・源氏の兄)=藤原不比等
   (鎌足の子・鏡王女の息子・実は天武の子・文武の弟)
 20.夕霧(源氏の長男・葵上の息子・左大臣の孫・雲井雁と結婚)=新田部皇子(文武の子・
   五百重娘の息子・左大臣鎌足の孫・☆但馬皇女と結婚)
 21.右大臣(弘徽殿女御・朧月夜の父)=県犬養東人(鏡王女・県犬養三千代の父)
 22.明石入道(源氏の母方の祖父の甥・先の播磨守で近年入道・明石上の父・
   明石女御の祖父・大臣の子)=三光(文武の従兄弟・出家者・光明子の祖父・
   新羅将軍・大臣金ユ信の長男・別名道行)
 23.明石上(明石入道の娘・源氏の妻・明石姫君の母)=三光の娘(文武の妻・光明子の母)
 24.六条御息所の娘前斎宮(春宮の娘・斎宮)=元正天皇(氷高皇女・春宮草壁の娘・実は文武の娘)
 25.入道の妻の尼君(明石入道の妻・祖父は親王)=三光の妻(三光の妻・☆祖父は親王)
 26.槿(桃園式部卿の娘・加茂斎院)=広瀬女王または上道広川女王(長皇子の娘)
 27.槿の父桃園式部卿(桐壺帝の弟・源氏の叔父)=長皇子(★天武皇子・実は文武の従兄弟)
 28.雲井雁(頭中将の娘・夕霧の従妹・妻)=但馬皇女(不比等の妹・新田部の従妹・妻)
 29.柏木(雲井雁の兄・頭中将の息子)=柿本人麻呂(不比等の兄貞慧の子・☆不比等の娘婿)
 30.蛍兵部卿宮(源氏の弟・桐壺帝皇子・真木柱と結婚)=穂積皇子(文武の弟・天武皇子・
   坂上郎女と結婚)
 31.鬚黒の妻(式部卿宮の娘・紫上の異母姉・真木柱の母)=石川郎女(☆品治の娘・
   ☆石川刀子娘の異母姉・坂上郎女の母)
 32.真木柱(鬚黒の娘・式部卿宮の孫・蛍兵部卿宮と結婚・頭中将の息子紅梅大臣と再婚)=
   坂上郎女(品治の孫・穂積皇子と結婚・★不比等の息子藤原麻呂と再婚)
 33.春宮(朱雀帝の皇子・明石姫君の夫・二人はいとこ)=聖武(★不比等の娘婿・
   光明子の夫)
 34.女三宮(朱雀帝皇女・源氏の正妻・柏木と密通・薫の母)=宮子(不比等の娘・文武夫人・
   人麻呂と密通・聖武の母)
 35.藤壺女御(朱雀帝妃・女三宮の母・兵部卿の妹)=加茂朝臣比売(不比等の妻・宮子の母・☆品治の妹)
 36.明石女御の皇子・春宮(明石女御の皇子朱雀帝の子・夕霧の娘と結婚)=阿倍内親王(孝謙)
   (皇太子・光明子の子・不比等の曾孫・新田部の子と結婚)
 37.女二宮(落葉宮)(朱雀帝皇女・柏木の妻・夕霧と再婚)=依羅娘子(☆不比等の娘・
   人麻呂の妻・新田部と再婚)
 38.男子(薫)(源氏の息子・実父は柏木)=聖武(文武の息子・実父は人麻呂)
 39.匂宮(明石女御の三男・紫上に育てられた)=石川広世(文武皇子・実母石川刀子娘に育てられた)
 40.紅梅大臣(頭中将の息子・柏木の弟・真木柱と再婚)=藤原麻呂(★不比等の息子・坂上郎女と再婚)
 41.宇治の八宮(桐壺帝皇子・源氏の弟・優婆塞)=役行者(品治の息子・文武妃石川刀子娘の弟・優婆塞)
 42.大君(夕霧の娘・春宮妃・従兄弟と結婚)=道祖王(新田部皇子の子・従妹孝謙の夫)
   ★は形式上の人間関係 ☆は推定

  主要人物は殆ど網羅されている。これを見れば「源氏物語」がモデル小説であるという事を
 納得して頂けるであろう。
 また、これらは全て「万葉集」の新解読と「日本書紀」や「続日本紀」などの資料を
 比較する中から導き出された結論です。
 「万葉集」と「源氏物語」は日本史真相解明の虎の巻なのである。

 以上 李 寧熙女史著「まなほ」第55号より
 2024年4月9日書追加

 ※「源氏物語」各巻の名称と概略
 
 1.「桐壺」(きりつぼ)誕生から12歳まで。
   「桐壺帝」の寵愛を受けた大納言の娘「桐壺更衣」は皇子(源氏)を生むが、
  他の女御(特に最古参で皇太子の母、右大臣の娘である弘徽殿女御)・
  更衣らの嫉妬に悩み、早世する。
   更衣にそっくりの先帝皇女「藤壺女御」が後宮に入り、「源氏」は母の面影を
  「藤壺」に追うが、それはやがて恋心となって行く。
   「桐壺帝」は、後見のない皇子を「源氏」として臣籍に下し、12歳で元服後、
  4歳年上の左大臣の娘「葵上」と結婚させる。

 2.「帚木」(ははきぎ)17歳の夏。
   五月雨の夜宮中の宿直所で葵上の兄「頭中将」と女の品定めをする。
  いわゆる「雨夜の品定め」。話に出た常夏の女「夕顔」と後に出会うことになる。
  翌日、方違え(悪い方位を避け、他の場所で宿る)で「伊予介」の家に出かけた
  「源氏」は、伊予介の若い後妻「空蝉」と一夜を共にする。

 3.「空蝉」(うつせみ)17歳の夏。
   「空蝉」を忘れられない「源氏」は「空蝉」の寝室に入り込むが、
  間違えて継娘の「軒端萩」と契ってしまう。「源氏」は「空蝉」の残した衣を持ち帰る。

 4.「夕顔」(ゆふがほ)17歳の夏から10月まで。
   「六条御息所」の元へ通う途中、「惟光の母」である乳母の病気見舞いに行った
  「源氏」は、夕顔の咲く隣家の「女」に目を留める。
  「女」をあばら家に連れ出すが物の怪に襲われ、死んでしまう。
  侍女「右近」から、女が「雨夜の品定め」の「常夏」の女で、頭中将との間に
  女の子(玉鬘)までいた事を知る。

 5.「若紫」(わかむらさき)18歳の3月から10月まで。
   わらわ病み(マラリヤ)に罹った「源氏」は、北山の僧都に加持祈祷をして貰う。
  その合間に、山中の家で尼君と暮らす10歳ほどの藤壺によく似た「少女」(後の紫上)
  見いだす。「少女」は藤壺の兄「兵部卿宮」の娘だった。
  「源氏」は王命婦の手引きで、里帰りしていた「藤壺」と密会するが、
  ほどなく「藤壺」は懐妊する。「北山の尼」が亡くなり、父「兵部卿宮」に引き取られる寸前、
  「源氏」は「少女」を自邸に連れ去ってしまう。

 6.「末摘花」(すえつむはな)18歳の正月から19歳の正月まで。
   故「常陸の宮」の「姫君」を頭中将と争って手に入れたが、「姫君」は鼻の頭の赤い不器量者で、
  しかも古風で融通のきかない女性だった。「末摘花」とは「紅花」の異名。

 7.「紅葉賀」(もみじのが)18歳の秋から19歳の秋まで。
   「桐壺帝」は朱雀院に行幸して先帝の賀の祝いを催す。「源氏」は「頭中将」と青海波を踊る。
  「藤壺」のお産が予定よりだいぶ遅れ、2月10余日に「源氏」そっくりの皇子(後の令泉帝)
  が生まれた。「藤壺女御」は中宮になった。人々は、どういう訳で先妻格の「弘徽殿女御」を
  さしおいて「中宮」になるのかと噂した。

 8.「花宴」(はなのえん)20歳の春。
   紫宸殿の花の宴で詩を作り、春鶯囀(舞楽)を舞って絶賛された「源氏」は、
  弘徽殿の細殿(渡り廊下)で、「朧月夜に似るものぞなき」と口ずさむ「女性」と契りを結ぶ。
  女は素性を明かさなかったが、右大臣邸の藤の宴で、女が弘徽殿女御の妹で、
  近く春宮妃になる人(朧月夜尚侍)と知る。

 9.「葵」(あふひ)21歳の4月から22歳の正月まで。
   桐壺帝が譲位して、朱雀帝(弘徽殿女御腹)が即位。六条御息所の娘が斎宮となる。
  加茂祭りの行列見物で、妊娠中の葵上と御息所の車争いが起き、御息所は葵上を
  恨みに思うようになる。やがて、葵上は男の子(夕霧)を生むが、御息所の生き霊に
  取り殺されて死んでしまう。

 10.「賢木」(さかき)23歳の9月から25歳の夏まで。
   桐壺帝崩御。藤壺中宮出家。右大臣家が権力を持つ。里帰りしていた朧月夜との
  密会を父右大臣に発見され、弘徽殿大后は激怒する。

 11.「花散里」(はなちるさと)25歳の5月20日。
   源氏は、故桐壺帝の女御の一人であった麗景殿女御の妹「花散里」を訪れた。

 12.「須磨」(すま)26歳の3月から27歳の3月まで。
   最悪の事態を避け、自ら須磨に移ることを決意。源氏は須磨で淋しい暮らしを始めた。
  明石では明石入道が娘(明石上)を娶合わせようと心を砕いていた。
  3月1日、お祓いの最中から暴風雨が起こった。

 13.「明石」(あかし)27歳の3月から28歳の8月まで。
   夢で桐壺帝が「須磨を去れ」と源氏に告げた。船で迎えに来た明石入道と共に明石に移る。
  明石上と結ばれ、妊娠するが、夢で桐壺帝に睨まれた朱雀帝は眼病を患い、源氏を都に召喚する。

 14.「澪標」(みをつくし)28歳10月から29歳11月まで。
   朱雀帝が退位し、冷泉帝が即位する。伊勢から戻った六条御息所が死去する。
  明石姫君が生まれる。源氏は占い師が源氏の三人の子供の将来を予言したことを思い出す。

 15.「蓬生」(よもぎふ)28歳の秋から29歳の春まで。
   源氏は花散里を訪ねた帰りに、困窮しながらも以前の暮らしを続けていた
  末摘花の荒屋敷に寄る。末摘花は、やがて源氏の邸宅・二条院の東の院に住む事になる。

 16.「関屋」(せきや)29歳の晩秋から11月頃まで。
   夫の任地常陸に共に下っていた空蝉は、石山詣でをした源氏と出会い、
  源氏は空蝉に手紙を書く。常陸介死後、義理の息子に言い寄られた空蝉は出家する。
  (空蝉は後に源氏の二条邸に引き取られる)

 17.「絵合」(えあはせ)31歳の3月。
   六条御息所の娘前斎宮は朱雀帝が執着していたが、結局、
  冷泉帝の女御として入内した。

 18.「松風」(まつかぜ)31歳の秋。
   花散里は二条院の西の対に移った。東の対へは明石上が住むはずだったが、
  明石上はなかなか上京しなかった。入道の妻の尼君の祖父にあたる
  中務親王の旧邸を修理して上京してきた。入道は一人明石に残った。

 19.「薄雲」(うすぐも)31歳の冬から32歳の秋まで。
   12月、明石上は姫君を手放し、紫上の養女にする。翌年、葵上の父太政大臣や
  藤壺尼君が死去する。夜居の僧が、冷泉帝に実父は源氏と秘密を告げる。
  斎宮の女御が里帰りし、春秋の優劣を問われ「秋は御息所が亡くなった季節なので秋」
  と答えたことから「秋好中宮」と呼ばれるようになる。

 20.「槿」(あさがほ)32歳の9月から冬の雪の降ったある日まで。
   源氏は槿を訪れたいと思ったが世間体を憚って同じ桃園邸に住んでいる
  叔母の女五宮を訪ねる。槿は依然として源氏を受け入れない。
  夢で藤壺中宮が死後苦患を得ていると知り、供養する。
 
 21.「少女」(をとめ)33歳の4月から35歳の10月まで。
   叔母は槿の源氏との結婚を勧めるが、槿は応じない。夕霧は12歳になり、
  祖母の大宮の邸で元服する。本格的に学問をさせようとする源氏の方針で、
  六位という低い身分だった。夕霧と共に祖母大宮に育てられ、
  恋仲になっていた従妹雲井雁は、父頭中将が東宮妃にと望んでいた為、
  父邸に引き取られてしまった。源氏は、紫上の父式部卿の五十の賀を催した。
  六条邸が完成し、源氏・紫上ほか花散里などが移り住んだ。

 22.「玉鬘」(たまかづら)34歳の暮から35歳の12月まで。
   夕顔の忘れ形見玉鬘は4歳の時、乳母と筑紫に下って育った。
  美しく成長した玉鬘に言い寄る地方役人に危険を感じ、乳母が玉鬘を連れて
  上京した。泊瀬(長谷寺)詣でをした玉鬘と、夕顔の侍女で夕顔の死後源氏に
  仕える右近が偶然出会い、玉鬘は源氏の六条邸に引き取られた。
  源氏は夕霧同様、花散里に玉鬘を託す。

 23.「初音」(はつね)36歳の正月。
   正月行事に参加する夕霧の姿が勝れていて、源氏は嬉しく思う。

 24.「胡蝶」(こてふ)36歳の春。
   3月20日ころ、紫上が船遊びと管弦の催しを行った。
  玉鬘の美しさが評判になるが、源氏自身も言い寄るなどして玉鬘を困惑させる。

 25.「蛍」(ほたる)36歳の5月。
   源氏と玉鬘は、「物語論」をする。

 26.「常夏」とこなつ)36歳の夏。
   源氏は玉鬘に和琴を教える。内大臣(葵上の兄)は、源氏への対抗心から
  隠し子近江君を引き取るが、笑い者になる。内大臣は夕霧に雲井雁を許しても
  いいという気持ちになるが、きっかけがなくいらいらしている。

 27.「篝火」(かがりび)36歳の秋。
   内大臣の息子柏木のは玉鬘が姉であることを知らず、好意をもつ。

 28.「野分」(のわき)36歳の8月。
   夕霧は野分(台風)の見舞いに訪れた六条院で紫上を垣間見、陶然となる。
  また、源氏と玉鬘の親しげな様子に顔をしかめる。

 29.「行幸」(みゆき)36歳の12月から37歳の2月まで。
   源氏は玉鬘への思いで悩んでいたが、尚侍としての出仕を勧めた。
  源氏は大宮に玉鬘のことを打ち明け、それを聞いた内大臣は驚いた。
  彼岸の2月16日に玉鬘の裳着の儀が行われ、内大臣と玉鬘は
  親子対面を果たした。

 30.「藤袴」(ふじばかま)37歳の8月から9月まで。
   大宮が亡くなった。喪に服す玉鬘には、たくさんの恋文が来ていたが、
  源氏の弟蛍兵部卿宮にだけ返事を書いた。

 31.「真木柱」(まきばしら)37歳の10月から38歳の11月まで。
   玉鬘は尚侍に出仕することを決意するが、鬚黒大将(春宮の叔父)に
  力づくで奪われてしまう。鬚黒大将の北の方は式部卿宮の娘(紫上の異母姉)。
  ノイロ−ゼになり、父邸に引き取られる。鬚黒と北の方の娘真木柱は、
  父への歌を詠み、柱に差し込んで残して行った。玉鬘は11月に男子を産んだ。

 32.「梅枝」(うめがえ)39歳の正月から3月まで。
   明石姫君は11歳になって、裳着の儀式と入内の準備に忙しかった。
  春宮も2月20日過ぎに元服した。入内準備に書を揃えたことから、
  筆跡について意見を述べる「書道論」も展開された。
  源氏は、夕霧に結婚について教訓をした。

 33.「藤裏葉」ふじのうらば)39歳の3月から10月まで。
   内大臣は大宮の法要を機に夕霧と和解、藤の花の開花時に夕霧を招き、
  雲井雁の婿になることを許した。4月下旬、明石姫君は春宮妃として入内、
  実母の明石上が付き添うことになった。中納言に昇進した夕霧は、
  それまで住んでいた内大臣邸を出て、大宮の住んでいた三条邸に移った。
  冷泉帝と朱雀院は同時に六条邸に行幸した。

 34.「若菜」(わかな)(上)39歳の12月から41歳の春まで。
   朱雀院は出家し、女三宮を源氏に託す。翌年2月、女三宮が降嫁。
  内大臣の息子柏木や夕霧は、女三宮へ好意を持っていた。
  3月のある日、六条邸で蹴鞠の催しがあった。子猫が御簾の奥から
  飛び出したはずみに、女三宮を垣間見た柏木の恋慕の情は、益々募った。
  3月、明石女御が皇子を産んだ。祖母の尼君は入道の悲願を語り聞かせた。
  入道は喜びのあまり家を寺にし、家人に財産を分け与え、山へ入ってしまった。

 35.「若菜」わかな)(下)41歳の3月から47歳の12月まで。
   数年後、冷泉帝は春宮に譲位、明石女御の第一皇子が春宮になった。
  紫上が病気になり、二条邸で静養生活に入る。柏木は女三宮の姉女二宮
  (落葉宮)を妻に迎えるが、女三宮への思いは断ち切れず、とうとう密会した。
  女三宮は懐妊し、柏木の手紙を源氏が見たことから、二人の秘密を知ることとなる。
  延び延びになっていた朱雀院の五十賀が、12月25日に行われた。
  柏木は病の床に就く。

 36.「柏木」(かしはぎ)48歳の正月から秋まで。
   女三宮は男子(薫)を生んだ。女三宮は出家する。柏木の病状は益々重くなり、
  夕霧に落葉宮の事などを遺言して死んでしまった。

 37.「横笛」(ゆこぶえ)49歳の2月から秋まで。
   夕霧は、柏木の遺言の真相に疑念を持つ。秋の夕暮れ、落葉宮とその母
  一条御息所を訪ねた夕霧は、柏木遺愛の笛を贈られるが、夢に現れた柏木は
  「その笛は夕霧以外の人に譲る筈のものだ」と告げる。翌日、源氏を訪ねて
  その話をすると、源氏は柏木の笛を預かるだけで、他の事は一言も言わなかった。

 38.「鈴虫」(すずむし)50歳の夏から8月まで。
   女三宮は持仏の供養をした。秋好中宮が、出家の気持ちを伝えるが
  源氏は思いとどまらせた。

 39.「夕霧」(ゆふぎり)50歳の8月から12月まで。
   夕霧の本心が分からず、落葉宮の母御息所が悩んで亡くなった。
  夕霧は強引に落葉宮に迫った。雲井雁は、怒って子連れで実家に帰ってしまった。

 40.「御法」(みのり)51歳の3月から秋まで。
   紫上はここ5年の間、病に苦しんできた。3月、法華八講を盛大に催すが、
  夏にはますます衰弱し、秋の八月14日に息を引き取った。
  源氏は出家の決意をする。

 41.「幼」(まぼろし)52歳の正月から12月まで。
   紫上の死後、うつうつと暮らす源氏は、年の暮れに身辺の整理をはじめた。

   この帖のあとに「雲隠れ」という、帖名だけで本文の全くない帖がある。
  源氏の死去を暗示させるものとされている。

   以下「薫」と「匂宮」が主人公となる。
  ここから第二部と分類する説もある。

 42.「匂宮」(にほふみや)薫14歳の春から20歳の正月まで(匂宮15歳から21歳まで。
   匂宮は、紫上の二条院に住んでいる。花散里も、二条院の東院に住んでいる。
  夕霧は落葉宮を六条院の一画に移し、三条邸の雲井雁とを交互に半月ずつ
  行き来している。薫は母三宮邸で成長したが、出生の秘密を薄々知っており、
  仏道に心が引かれている。薫には特別な体臭があり、それに対抗しようとする
  匂宮は様々な香を焚きしめている。「匂ふ兵部卿、薫る中将」と並び称され、
  匂宮はことごとく薫に対抗する。

 43.「紅梅」(こうばい)薫24歳の春から冬まで(匂宮25歳)。
   柏木の弟後の紅梅大臣は、蛍兵部卿宮と死別した真木柱の元に
  忍んで通っていたが、正式に結婚した。真木柱は連れ子・大臣の前妻の子・
  二人の間の子という複雑な親子関係を取り仕切っていた。

 44.「竹河」(たけかわ)薫14歳から23歳の秋まで(匂宮15歳から24歳まで)。
   鬚黒は天皇の伯父でもあり、太政大臣になったが、玉鬘47歳のおりに
  世を去った。二人の間には男3人、女2人の子があった。
   
   普通、以降を「宇治十帖」と呼ぶ。
   
 45.「橋姫」(はしひめ)薫20から22歳の10月まで(匂宮21歳から23歳まで)。
   源氏の異母弟で、桐壺帝の第八皇子である八宮は、朱雀帝の
  母弘徽殿大后によって皇太子に立てられようとした事もあったが、
  今は二人の姫君(大君と中君)と共に宇治に隠棲している。
  仏道に惹かれている薫は、八宮の生き方に感動し、たびたび訪れていた。
  八宮は薫に姫君たちを託す旨を伝える。姫君たちに仕える弁の御許は、
  柏木の遺書を持っていた。弁の御許は、薫の実父が柏木であると告げる。

 46.「椎本」(しひがもと)薫23サ歳の2月から24歳の夏まで(匂宮24歳から25歳まで)
   死期を感じた八宮は、姫君たちに遺言し、山寺に隠ったまま他界してしまう。

 47.「総角」(あげまき)薫24歳の8月から12月まで(匂宮25歳)。
   大君は薫の求婚を拒み、中君を薫にと考える。匂宮に熱心に頼まれた薫は、
  中君を取り持つが、浮気な匂宮は中君を大切にしない。
  悩んだ大君は死んでしまう。

 48.「早蕨」(さわらび)薫25歳の正月から2月まで(匂宮26歳)。
   薫と中君の間を疑った匂宮は、中君を京に移す。

 49.「宿木」(やどりぎ)薫24歳の夏から26歳の4月まで(匂宮25歳から27歳まで)。
   薫は今上帝の女二宮と結婚するが、大君にそっくりな異母妹浮舟に惹かれる。

 50.「東屋」(あづまや)薫26歳の8月から9月まで(匂宮27歳)。
   浮舟をめぐる匂宮と薫。

 51.「浮舟」(うきふね)薫27歳の正月から3月まで(匂宮28歳)。
   匂宮は、薫に偽装して浮舟と会った。浮舟は匂宮の熱情に心惹かれながらも、
  薫の愛情も忘れられず、進退窮まって入水自殺を図る。

 52.「蜻蛉」(かげろふ)薫27歳の3月(匂宮28歳)。
   浮舟の失踪後、死体のないまま、匂宮との関係を薫に知られないようにと
  侍女が強引に葬儀を行った。薫は49日の法要を手厚く行い、浮舟の母に感謝される。

 53.「手習」(てならい)薫27歳の3月から28歳の4月まで(匂宮28歳から29歳まで)。
   失神状態で倒れていた浮舟は、横川の僧都に救われ、僧都の妹の手厚い看護を
  受けるが、出家の意志を持つ。女一宮の祈祷で上京した僧都は、明石中宮に
  行き倒れの女の話をして帰った。中宮は、この女が浮舟であると察し、
  薫にこっそり告げる。

 54.「夢浮橋」(ゆめのうきはし)薫28歳の夏(匂宮29歳)。
   薫は横川お僧都を訪ね、行き倒れと出家のいきさつを聞き、
  浮舟の異父弟を使いにやる。手紙を見た浮舟は泣き伏すが、人違いであると
  言って弟にも会わず、手紙も書かない。薫は誰かが浮舟を隠している
  のではないかと疑う。
   
 以上 李 寧熙女史著「まなほ」第55号より
 2024年5月4日書 追記



 神功皇后の真実とは?
 
 結論---持統天皇の功績を神功皇后として創作したのもと思われる。
 神功皇后は「日本書紀」巻第9「気長足姫尊(神功皇后)」のありて、
 歴代天皇と同列に登場する唯一の皇后である。
 
 持統天皇---645年生まれ(蛇・巳年)
 文武天皇---626年生まれ(犬・戌年)
 
 朱鳥(あかみとり)元年(686)の是年条に、「蛇(おろち)と犬が相交(つる)めり」
 の記述あり。これは、持統と文武のセックスをあらわす暗喩である。
 蛇(巳)年生まれの持統と、犬(戌)年生まれの文武を蛇と犬で表現したもの。
 
 「古事記」には仲哀天皇記中の第2・第3・第4・第5に
 仲哀の死、新羅征伐、仲哀の息子達の反乱、角鹿(つぬが)の気比(けひ)
 大神の応援、政権取りを祝う酒楽の歌と神功皇后の政治的活躍ぶりを記載。
 
 日本書紀は初代神武天皇紀は天武天皇の初期の活躍を、
 第2代綏靖天皇紀は即位前の天智こと中大兄皇子暗殺事件を
 詳細に述べたた記録である。
 また、巻第8足仲彦天皇(たらしなかつひこ)(仲哀天皇)紀には
 末年の天武の姿が描かれている。
 そして、巻第28と29は天渟中原瀛真人天皇(アマノヌナハラオキノマヒトのスメラミコト)
 (天武天皇)として、即位前の天武(大海人皇子)が起こした壬申の乱(672年)
 前後の記述がある。持統の兄多臣品治(おほのおみほむち)はサイ(エエ)系の
 製鉄王で壬申の乱の際、助力した。天武の母方はサイ(エエ)系の製鉄家門であった。
 
 
 「日本書紀」は虚実取り混ぜ「巧妙に作り上げられた」歴史書である。
 
 新羅征伐の真相---神功皇后紀に記述あり。
 
 「西に財宝の国新羅のあることを知った」神功皇后(持統天皇)は
 仲哀天皇の死後仲哀9年9月10日、実際は天武11年(682)9月10日
 その宝の国を手に入れようとした。
 
 地方に命令し、船舶を集め、兵力を訓練しようとしたが、郡卒集まらず、
 大三輪社を立て刀矛(武器)を奉納、郡卒自ずと集まった。
 奈良の大三輪社は新羅系の神社(新羅からやって来た製鉄コンビ)である。
 神功皇后(持統)は氏子の新羅人を味方にして、やっと計画を立てた事を表している。
 
 仲哀9年10月3日、和珥津(対馬上県郡鰐浦)を出発、新羅に至る。
 その時、船を乗せた波が国の中まで及んだ。これは、天神地祗がお助けに
 なっているらしい。これをみて新羅王は白旗を上げて降伏、
 地図や戸籍は封印して差し出した。また、今後は末永く朝貢を約束した。
 新羅王「波沙寐錦」(ハサムキム)は微叱己知波珍干岐(ミシコチハトリカンキ)を人質
 とし、金・銀・彩色・綾・羅・カトリ絹(紗)を日本に送った。
 高麗(高句麗)と百済の王は新羅が降伏したと聞き勝つことは出来ないと判断
 朝貢を絶やさないと言った。そして内官家屯倉を定めた。これが征伐された
 三韓である。皇后、新羅から帰国、12月14日、後の応神天皇を筑紫で生んだ。
 時の人はその産処を名付けて、宇瀰(ウミ)(福岡県糟屋郡宇美町)と言った。
 
 以上「日本書紀」全現代語訳・宇治谷孟・講談社学術文庫より抜粋要約。
 
 以上李 寧熙女史著:「まなほ」より
 2019年8月7日書
 
 
 
 西暦681年7月新羅王「文武」が新羅の都徐羅伐(ソラボル)で亡くなる。
 王は亡くなる前に以下の遺詔をしたためた。「我が死後10日には火葬し、
 喪の制度は最大限倹約せよ」と述べ、その遺言どおり「東海(日本海)口の
 大石(慶州市東海岸の大王岩)上で、葬礼を行った」と「三国史記」
 新羅本紀巻第7文武王記」にある。
  しかし、文武はこの直前、日本へ旅立った。「新羅で死んだ事」にして
 急遽日本に亡命したのである。
 文武は宮廷内に「親唐ク−デタ−」が起こる事を事前に察知、「王の死」
 という前代未聞の偽計で、謀反に対応した。
  文武の指示どおり、文武王の長男「神文王」が即位、8月8日王妃の父
 金欽突(ギムフムドル)と興元(第四品官)・眞功(第五品官)や関連軍官らも
 謀反のかどで伏誅された。速やかに平定され、8月13日には高句麗の
 継承者「安勝(アンスン)」が神文王に逆賊の平定を祝った。
  
  一方、謀反直後、新羅王に即位すべく唐の都から帰郷途中の「金仁問」
 (ギムインムン)は、また、唐に戻った。金仁問は、結局唐で亡くなり、死後
 遺骸は帰郷した。
 その2年後神文王は新しい王妃迎えた。8月16日有罪者は誅し、有功者に
 賞を与えた。軍隊もこの時点で復帰している。
 
  「日本書紀」天武天皇9年7月1日条に「秋7月、飛鳥寺の西の槻の枝、
 自ずからに折れて落ちる」これは隠喩で、「西の槻」の「西」は日本の西に
 ある「新羅」を表す。「槻」は同音の「月」つまり新羅の王宮「月城」(ウオルソヲン)
 (半月城とも)を指している。王宮の南側に流れる南川(ナムチョン)の川べりが、
 半月形に見えるのでこのように名が付けられた。
  つまり、「槻の枝が自ずから折れ落ちた」とは、「月の一部が自ら折れ落ちた」
 つまり、王宮の誰かが自らその地位を降りた事を表している。
 文武王の「自作薨去」を表す隠喩に他ならない。
 
  天武天皇9年は西暦680年で文武亡年(つまり亡命年を指す)は681年。
 その亡年の1年前の記述に嵌め込んでいる事は、文武の日本亡命を1年前に
 「予告」している事になる。日本書紀は恐ろしい「史書」では?
 また、その翌年の天武10年、文武亡命年681年だが、この7月の記述には
 「朱雀見ゆ」とあり、「上瑞」・「瑞鳥」となっている。681年の文武亡命は、
 文武にも日本にも「上瑞」という事であった。
 
 681年7月4日、日本は大使として小錦下采女臣竹羅、小使として當摩公楯を
 して新羅に援軍を送った。そして9月には帰国した。(書紀9月2日条に、
 新羅・高麗(高句麗)に派遣の使臣ら共に帰国、拝朝との記述あり。)
 この年9月24日、飛鳥寺西の河辺で「多禰島の人々」を招き、饗宴開催。
 この「多禰島の人々」とは新羅に派遣された日本の水軍を指すのであろう。
 
 以上李 寧熙女史著:「まなほ」より
   2019年8月10日書
 
 
 
 日本書紀は「仲哀紀」及び「神功皇后紀」という仮の時代を創り、
 実際にあった天武末期の新羅朝廷に於ける反乱及びその平定、
 文武王の日本亡命など、激動の様子を細かく記述している。
 
 天武紀の天武9年秋7月1日、「飛鳥寺の西の槻の木が折れる」
 これは、次の年の文武の日本亡命予告編。
 8月1日から3日間雨が降り大洪水が起こる。
 8月14日には大風が木を折り、家を破る。
 これもこの年ではなく、翌年天武10年に起こった災害を表したもの。
 つまり681年8月の事件である。
  この時、文武は日本の南端、伊勢南部、志摩半島南東部の小島
 である大王島(三重県志摩市大王町)にいて、台風にあい遭難していたが
 この地にいた新羅の渡来人達により、かろうじて救助された。
 
 文武は新羅の東海岸大王岩を出発、九州北端の海辺に到着する。
 瀬戸内海を通り難波に上陸しようとしたが、天武の息子達は激しく反発。
 文武を殺害すべく戦いを挑む。
 天武のもう一つの顔である仲哀天皇の子、カゴ坂王(カゴサカノミコ)・忍熊王は、
 「皇后が皇子を生んだ。必ず彼を天皇に立てるであろう。
 兄である我々が弟に従う事は出来ない」と言い、亡くなった仲哀の山陵を
 明石に作るふりをして明石海峡を塞ぐ。筑紫から瀬戸内海を通り、難波に
 上陸する一行の航路を明石で迎え撃つ計画だった。
 ところがその途中で、カゴ坂王は「赤い猪」に咋い殺された。
 これを見て忍熊王は怖じけ後退した。
 このカゴ坂王は大津皇子、忍熊王は草壁皇子のもう一つの顔と見做される。
 
 一方、神功皇后は明石海峡を避け、鳴門海峡を渡る難コ−スをとった。
 皇后は武内宿禰に皇子を抱かせ紀伊国の日高に行かせ、自身は
 忍熊王を追い攻める。この後、皇后は日高に行き皇子に会っている。
 
 文武は新羅系製鉄集団の地、志摩に向かったが、台風に巻き込まれ
 遭難も、救助された。この救出劇を再現した「わらじ曳き祭り」が
 大王町で今も行われている。
 
  この年(天武9年)、「初めて薬師寺が建立される」の記述が「書紀」に見える。
 薬師寺は皇后(持統)の病平癒の為建立されたとされている。
 しかし、東西両塔を伴う薬師寺は、天武・文武親子及び日本と新羅の
 国家安泰の為の寺院である。
  文武が創建し神文王が完成させた新羅の感恩寺も、東西両塔を伴う
 薬師寺形式である。
 日本の薬師寺も、文武の日本亡命を期に創建されたと思われる。
 つまり、天武9年ではなく、天武10年(文武亡命年の681年)に
 建立が開始されたと考えられる。
  
  東西両塔を持つ薬師寺形式の寺院は、もっと古くから建立されていた。
 知多半島にある法海寺である。金ユ信の長男三光こと道行法師が
 7世紀末ごろの創建とされている。文武の志摩行きは、この寺も視野に
 入れての事だったのか?文武と三光は従兄弟である。
 (三光の父は「新羅統一」に寄与した新羅の名将金ユ信)
 
 天武9年11月24日、新羅は沙サン(ササン)(第8位の官吏)金若弼(コムニャクヒツ)、
 大奈末(ダイナマ)(第10位の官吏)金原升(コムグエンセウ)ら高官を日本に送り、
 調を進呈している。この一行には習言者(日本語を学習する者)3人も同行。
 文武の日本行きに先立ち、文武のための通訳官を養成する為の同行者であった。
 文武の日本亡命は、日本と新羅両政府によって、漏れなく準備されていたことが
 良く判る。そして、天武10年文武亡命の年を迎える。
 
 天武10年7月、朱雀、赤すずめの記述あり。日本朝廷は采女臣、當摩らを
 新羅に、高麗(高句麗)に佐伯連らを遣わす。当時高句麗は滅亡していたが
 文武王は臨時措置として半島西部の益山を高句麗継承国の都とし、最後の
 高句麗王の王子安勝を王位に就かせていた。
 8月20日、新羅の使臣金若弼らは帰国する。この使臣達は、日本から
 送り込んだ援軍がク-デタ−を完全に制圧した後、やっと帰国している事になる。
 
 以上李 寧熙女史著:「まなほ」より
   2019年8月11日書
 
 
 
  神功皇后は男装姿で新羅戦に挑む。神が神託を垂れ、宝の国新羅の存在を
 教えてくれたものの、夫仲哀天皇がその神託に従わず、祟られて亡くなったので、
 自ら出征することにしたのである。皇后は、たまたま臨月になっていたので、石を
 取って腰にはさみ、「事が終わって還る日、ここで生れてほしい(その後、生まれた
 皇子は応神天皇。応神は文武のもう一つの顔である)」と言って祈った。
 その石は今筑前怡土郡の道のほとりにあるという。
 
  冬10月3日、鰐浦(対馬上県郡)から出立。順風に乗り帆船は波に送られたので、
 舵や楫を使わないで新羅についた。
 「書紀」によると、神功皇后は自ら新羅戦に出征した事になっているが、持統天皇は
 新羅に出向いていない。
 
 新羅の大王岩から出立して九州北端の渚に着いた文武を迎えたのは持統だが、
 持統はおそらく新羅を訪れるた事は一度もなかったと思われる。
 
 神功皇后紀の「新羅王」とは誰か?文武亡命後、新羅で反乱を起こした
 首謀者の蘇判(ソバン)(第三位にあたる高位官)「金欽突」(キムフムドル)を¥である。
 金欽突は文武王の長男神文王の舅で、親唐派だった。
 神功紀によると、新羅王はすぐ素旆(シロキハタ)(白旗)を挙げて降伏したので、
 皇后は「殺すのは不祥(サガナ)し」と、飼部(卑賤な役の者。「朝廷の馬を飼い、
 養い扱う人」とされている)とさせたとあるが、「三国史記」には誅(罪を責めて
 殺すの意)したとある。
 
 一方、「書紀」神功紀の「一云(あるに云はく)」によると、新羅王は虜にされ
 海辺に連れて行かれ殺され、砂に埋められたとある。
 「海辺」とは、おそらく慶州東海岸の大王岩近辺の海辺であろう。
 新羅の王宮月城からは約4km程の距離である。
 日本からの援軍(水軍)は、このあたりから上陸、一部はここに駐屯していた
 ものと思われる。
 「吹くと敵兵が退く」という横笛「萬波息笛」を、後日「神文王」が授かったのも、
 この付近の海辺という事なっている。文武もここから船出した。
 ともあれ、少なからぬ援軍が、新羅の内乱鎮圧の為、日本からやって来ていた
 ということになる。
 
 これが、「神功皇后の新羅征伐」の真相である。
 
 神功皇后は持統天皇のもう一つの顔である。持統は文武を愛していた。
 
 「源氏物語」では、文武は「輝く日の君」つまり「光源氏」として描かれている。
 当代最高のプレイボ−イ。一度の逢瀬の後は徹底して源氏を拒み通した「空蝉」や、
 源氏の求愛を受け入れなかった「朝顔」も、心の底では惹かれていた。
 源氏も、一度関わりを持った女君を決して見捨てない情のある男として描かれている。
 
 その、「三国一の男」が日本に亡命して来た。持統は全力をあげて迎え、
 かつ日本と新羅における反文武勢力を潰す事に総力を尽くした。
 その奔走の模様をまとめたものが、所謂「新羅征伐」を含む「神功皇后紀」なのである。
 
 以上李 寧熙女史著:「まなほ」より
   2019年8月14日書
 
 
 
  百済の武王(舒明天皇)---翹岐王子(中大兄皇子---後の天智天皇)
 翹岐の母---天豊財重日足姫(善花公主---新羅真平王の娘)(後の皇極・斉明天皇)
         (香櫛娘とも言われている)の子供達(中大兄皇子・間人皇女・鏡王女(押坂皇女他)は
         百済・武王死後、王位を継いだ義慈王に追放され642年(皇極元年正月)に倭国に亡命。
         新羅・善花公主には姉の天明夫人(太宗・武烈王(金春秋)を生んだ)や善徳女王がいる。
         尚、香櫛娘とは香り高く端に咲く花(善花の意味になる)
         2018年3月12日書
 
 
 
 巻1-2  高市岡本宮御宇天皇代 息長足日広額天皇
       天皇登香具山望国之時御製歌(舒明天皇)
 
 真の訓み下し文
          イッド               オルラソヲ       ハジャ
 ヤマトニハ ムラヤマアレドドリヨ ロベ アメノ カグヤマ ノボリタチテ クニミ ヲスレハ
 山常庭 村山有等 取与呂布 天乃香具山 騰 立   国見乎為者
 ウナハラハ ケブリタチタツ ウナハラハ カ マメ タチタツ  リョウカコクゾアキヅシマ ヤマト ノ クニハ
 国原波  煙立竜  海原波 加万目立多都 怜柯国曾 蜻嶋  八間跡能国者
 
 大和には群山あれど 多くの鳥が見える天の香具山登り立ち 国見をすれば
 国原には 煙が立っている。水原にも 煙が立っている。
 両カ国であるぞ あきづ島 大和の国は。
 
 その大意
 
 大和には多くの山がある。中でも多くの鳥の棲む 天の香具山に登り国見をすると、
 飛鳥野の民家のかまどから 煙が立ちのぼっているのが見える。
 曲がった河原の工場のかまどからも 煙が立ちのぼっているのが見える。
 大和と百済の両カ国は、なんと素晴らしい鉄作りの場であろうか。
 ほんとによい国だ。鉄作りの島、大和は---。
 
 解説
 鳥は鉄の象徴
 トリヨ ロベ
 取与呂布=多くの鳥が見える。(取=鳥)天の香具山を「多くの鳥が見える山」としている。
 ガマ メ
 加万目 =釜煙

 怜柯国曾(リョウ カ コク ゾ=両カ国であるぞ。怜は百済系の読み方
                   柯は(カギ)型に曲がる黄河を指す。

 蜻嶋嶋(アキヅシマ)=「あきづ」(秋の昆虫)=「とんぼ」の事鉄の鏃(とんぼ)の事。
 
 この歌は鉄の国「やまと」を称えた讃歌であった。

 以上:李 寧熙女史著「まなほ」より当時の百済・新羅言葉で解説
 
 参考 従来解釈
 
 大和には群山があるが、とくによい天の香具山に登り立ち
 国見をすると、広々とした平野にはかまどの煙があちこちから
 立ち上がっている。広々とした水面には「かもめ」が盛んに
 飛び立っている。ほんとうに結構な国だ(あきづ島)大和の国は。(全集)

 2019年2月1日書
 
 
 
 

万葉集 巻1-64
慶雲3年丙午、幸ニ于難波宮一時 志貴皇子御作歌(706年10月作歌)
原文
「葦辺行 鴨之羽我比尓 霜零而 寒暮夕 倭之所念」(全集)
従来の訓み下し文
慶雲3年丙午、難波宮に幸す時に志貴皇子の作らす歌
「葦辺(あしへ)行く 鴨の羽がひに 霜降りて 
寒き夕(ゆふへ)は 大和し思ほゆ」(全集)
従来の解釈
慶雲3年に、難波宮に行幸された時に志貴皇子が作られた歌
「葦辺を浮かんで行く 鴨の翼に 霜が降って
寒い晩には 郷里の大和が思われる」
真の訓み下し文
「葦辺行 鴨之羽我比尓
霜零而 寒暮夕 倭之所念」
(ウィビョンヘング ガモガウガビニ シモリョンイ
チャムモヨフ ウェガトヲヨミョ)
真の解釈
「危変(ウィビョン)(危うい変事)
逝く逝く、「上」が空(あ)く
鉄集め令下(くだ)し
「別れ」耐え忍び
「倭」よ行け、陣地固めよ」
真の大意
「上様(文武天皇)が逝去される変事が起きる
逝って逝ってしまわれ「上様」の席が空になる
鉄集め令を下(くだ)して
死別を耐え忍んで
日本よ行け!陣地固めよ」
語句解説
「葦辺行」(ウィビョンヘング)=危変(ウィビョン)
(危うい変事(ヘんじ)行き。
「葦辺」=葦=韓国式漢字の音読みでウィ。
 辺=ビョン。
「危うい変事」を指す韓国語である。
「行」も韓国式音でヘング。
=「行き」の意味。
「鴨之羽我比尓」(ガモガウガビニ)=逝く逝く、
「上」が空(あ)く。
「鴨之」は韓国式漢字音では(ガモガ)と読まれ
「逝(ゆ)く逝(ゆ)く」を表す。
(ガ=「行く・逝く」モ=「更に」ガ=「行く」)
「羽我」は(ウガ)つまり「上(さま)が」と読める。
「比尓」はビニ、「空(あ)くので」の意の韓国語。
「霜零而」(シモリョンイ・シモネンイ)=鉄集め令下し。
「霜」は日本式でも「しも」と読める漢字で
「鉄集め」の意の韓国語(シモ)に当てている。
11月の異称である霜月(しもつき)の(シモ)も、
この「鉄集め」の意の言葉である。
農作業の終わった旧暦11月、使い古された鉄の農機具は、
集められ、翌年の農作業に備えて作り直された。
旧暦12月の異称「師走」(しはす)は、シバス(鉄壊し)を意味する。
霜月・師走とは、この一連の作業を行う月である事を表わしている。
空気の乾燥する冬は、鉄作りに向いてもいた。
「零」は韓国式音読みで(リョン)。
これを「命令」を表す同音の「令」(リョン)の意に当てている。
「霜零」二文字で「鉄集め令」と訓ませている。
これに「而」(イ)を続けると「零而」(レンイ)になる。
これで「ネンイ」つまり「下し」を表している。
「零」という漢字を使う事で、「令」と「下し」を
 同時に表現したものと思われる。
「寒暮夕」(チャムモヨフ)=「別れ」耐え忍び。
「寒」の韓国音は(ハン)
「寒さ」と同時に「冷たさ」を指す。
この「冷たさ」を表す韓国語が(チャブダ)または(チャダ)である。
志貴皇子は、この漢字「寒」を(チャム)と詠み、
「耐え忍ぶ」の意の韓国語(チャム)を表現している。
「暮」は韓国式読みで(モ)。
「寒暮」ニ字で(チャムモ)と詠んで「こらえよう」
「耐え忍ぼう」と詠みあげているのだ。
漢字「夕」は、日本式に「ゆう」と読む。古語では「よふ」。
この「よふ」音で「別れ」の古代韓国語(ヨフ)を表している。
志貴皇子は、韓国語と日本語、漢文に堪能な高度の知識人であった。
「別れ」とは、文武天皇との死別を表わす言葉である。
「倭之所念」(ウェガトヲヨミョ)=「倭」よ行け、陣地固めよ。
「倭之」は(ウェガ)と読める。つまり「倭(日本)よ、行け」の意。
戦を前にした日本の戦士達を勇気づける命令である。
「誰との戦い」かと言えば
藤原不比等の孫首皇子(おびとのみこ)を
「皇位」に就けようとする一派と、その反対派との戦いである。
首皇子(おびと)(源氏物語では薫)は、
文武天皇の夫人であった藤原宮子(源氏物語では女三宮)と
柿本人麻呂(源氏物語では柏木)との間に生まれた子であった。
「首を皇位に就けてはならむ!」
朝廷に一斉に巻き起こった与論を、不比等は全力で阻止、
反対派を根こそぎ殺害する事変を起こす。
その戦いの最前線にいた人物が、志貴・穂積・長、三人の皇子達である。
三人のうち、最年長であったと見做される
志貴皇子が詠み上げたこの歌は、特に難解で厳しい。
志貴皇子の歌の結句は「所念」(トヲヨミョ)=「陣地固めよ」
と命令している。味方への強力な呼び掛けである。
「所」は韓国式(トヲ)。「所」の意。
「念」も韓国式音読みで(ニョ厶・ヨヲ厶)。
これで「守れ(命令形)」の(ヨミョ)を表わした。
この表現は
万葉集
巻1-7額田王が斉明天皇に代詠んだ「所念」=「陣地固めよ」
であり以下も同じ意味で詠まれている。
巻3-266柿本人麻呂歌
巻6-1029大伴家持歌
「所念」が従来「思ほゆ」と解釈しているが、
とてもその様には詠めない。
万葉集の歌に返り点は必要ない。
日本語でないものを日本語に、
漢文でないものを漢文に、
無理矢理詠もうとすると、
こうした矛盾を露呈することになる。
以上 李 寧熙女史解説 2021年01月27日書

 
 
 
 
 
 
 巻1-73   長皇子作(父=金ユ信でその次男(元述・蘇判の事)、
                母=智召夫人=武烈王第三王女)
                金ユ信の父=舒玄、母=万明夫人
                         (第24代真興王の姪)
 
 吾妹子 乎早見濱風倭有吾松椿 不吹有勿
 
 真の意味
 
 私は誓います。倭(ヤマト)の砂鉄で鉄作ることを。
 私は迎えるでしょう。
 貴方が皇位に就かれる日を。その日に向けて鉄を焚くのです。 
 海越え、行きて---
 
 以上のように「日本にやって来る時の決意として詠んだ作」であります。
 
 吾姉子=私は誓います。それに「妹」と「子(娘)」まで
 連れて日本にやって来た事実まで明らかに。
 
 従来解釈
 
 私が妻を早く見たいと思うように吹く浜の風よ、
 大和で私を待っている椿、そして妻に届くように吹いてくれ。
 
 以上 李 寧熙女史著:「まなほ」より
 
 2019年3月13日書
 
 
 

 巻2-91 天智天皇、鏡王女に賜う御歌一首 
 イモガ ガモ ゲェイミ マシ オ ヤマトヲアラ オボヲシマ ミネニ ガモアラ マシオ
 妹之 家毛 継而見麻思乎 山跡有  大嶋  嶺尓 家母有 猿尾
 
 妹之家毛=妹が行かれよ。
 継而見 麻思乎=怪異な動きに対峙されよ。
 山跡有=大和の子。
 大嶋嶺尓=「大鍛冶場」動き出したので。(大鍛冶場=鎌足の事)
 家母有 猿尾=行き、「子」に対峙されよ。
 
 (本来の意味)
 妹がいかれよ。怪異な動きに対峙されよ。大和の子 大嶋が動こうとしているので
 行き それに対峙されよ。
 (大意)
 あなたがお嫁に行って下さい。不穏な動静を鎮めて下さい。大和の者である
 大鍛冶場主(藤原鎌足)が動き出そうとしています。行って、その者を鎮めて下さい。
 

 以上 李 寧熙女史著「まなほ」より
 
 
 参考 従来解釈
 あなたの家だけでも、いつも見られたらよいのに、大和の国の
 大島ノ嶺にあなたの家でもあればよいのに。(全集)

 
 
 
 
 巻2-92 鏡王女の和へ奉る歌一首
 アキメエガ コアラガクリ ガミネ  ナオジュク マッスモ ミヨヲメ ヲリジャ
 秋山之  樹下隠  逝水乃 吾許曾  益目 御念 従者
 
 秋山之=「秋」(天智)の女が。
 樹下隠=子一存で育てよう。
 逝水乃=行き、「動き」に。
 吾許曾 益目=吾、ひたすら、対峙せむ。
 御 念 従者=身をただし嫁ぎましょう。
 
 (本来の意味)
 秋(天智)の女が 子は一存で育てよう。
 行き、ひたすら「動き」に対応せむ。身をただし嫁がむ。
 (大意)
 あなたの女が、(大海人の)子供はうまく取り計らい育てます。
 (鎌足の所に)行ってひたすら不穏な動きにあたり、
 身をただし交わるようにしますのでご安心下さい。

 
 以上 李 寧熙女史著「まなほ」より
 
 参考 従来解釈
 秋の山の木の下を ひそかに流れて行く水のように
 私のあなたへの思いはあなた以上でしょう。

 



 
 
 万葉集 巻2-92
 
 鏡王女の和(こた)へ奉る歌一首
 
 「秋山之 樹下隠 逝水乃 吾許曾益目 御念従者」
 
 従来の詠み下し文
 「あきやまの このしたがくり ゆくみずの われこそまさめ おもほすよりは」(全集)
 
 (この万葉歌碑は桜井市忍坂、舒明天皇陵近くにあり。)
 従来の解釈
 「秋山の 木陰をひそかに 流れてゆく水のように 
 わたしのほうこそ深く 思っているでしょう。あなたが思ってくださる以上に」
 真の詠み下し文
 「アキメェガ コアラガクリ ガミネ ナオジュク マッスモ ミヨヲメ ヲリジヤ」
 真の解釈
 「秋(天智天皇)の女が 子(大海人の)は一存で育てよう。
 (嫁)に行き、ひたすら(鎌足の)「動き」に対応せむ。身をただし嫁がむ」
 真の大意
 「あなたの女(鏡王女本人)が、(今、お腹にいる大海人の)子供はうまく取り計らい育てます。
 (嫁に)行ってひたすら(鎌足の)不穏な動きにあたり、
 身をただし交わるようにしますので、ご安心下さい」
 語句解説
 「秋山之」(アキメェガ)=「秋」(天智)の女が。
 天智天皇は五行で金徳にあたる。この金徳の人(天智)の
 五時(五行配当の時季・春・夏・土用・秋・冬の五季を言う)は秋。
 従って「秋」が天智天皇を表わす象徴語とされたのは、このせいである。
 因みに天武の五行は「木」五常は「仁」時季は「春」方位は「東」 色は「青」
 十干は「甲・乙」十二支は「寅・卯」星は「歳星(木星)」四獣は「青龍」、
 そして藤原不比等は順に「火」「礼」「夏」「南」「赤(朱)」「丙・丁」「巳・午」「けい星(火星)」「朱雀」、
 また、天智天皇は順に「金」「義」「秋」「西」「白(素)」「庚・辛」「申・酉」「太白(金星)」「白虎」を、あらわす。
 近江に遷都した後詠まれた歌なので、鎌足は天智天皇から「春」(大海人)か
 「秋」(天智)かの「政治的選択」を迫られていたようだ。
 どうも、鎌足は「春」つまり大海人に傾いていたようだ。
 「山」は「メェ」と訓める。「メェ」は「山」の事であり「女」の事でもある。
 日本語の「め」もまた「女」を指す。
 「之」は「ガ」として用いている。「・・・が」の意である。
 「秋山之」三字で「秋(天智)の女が」となる。
 「樹下隠」(コアラガクリ)=子一存で育てよう。
 「樹」は「こ」とよめる。この「こ」音を「子」の意の「こ」にあてている。
 「下」の古代韓国語訓は「アラ」(現代語では「アレ」)。
 この「アラ」音で「(自己の一存で)うまく取り計らう」の意の「アルア」を表わしている。
 「隠」は「がくり」とよみ、「よく育てよう」の意の韓国語「ガクリ」にあてている。
 いかにも、「秋の山の木の下を隠れて」行く水を表現する歌のような漢字の使い方を見せながら、
 「子供は、私の一存で取り計らいよく育てます」と言い放っている。
 子とは「藤原鎌足の子」不比等の事だが、鎌足に嫁ぐ前、鏡王女は既に孕んでいた。
 では誰の子か?
 天智天皇に向かい「子供は私がよく育てます」と言っているからには当然天智の子と思われるが、
 裏詠みで「樹」は「木」の事。木徳の大海人後の天武を示す。
 
 「下」は古代韓国語訓では「アラ」。この「アラ」音で「子」の韓国語「アラ」を表わす。
 「隠」は「がくり」とよみ、「よく育てよう」の意の韓国語「ガクリ」にあてている。
 「樹下隠」は「木(大海人)の子を育てよう」と訓まれる。
 ここで前述の「秋山之」が「秋(天智天皇)の女が」と訓まれる一方、
 「奪われ女が」とも訓まれる事に注目してほしい。
 裏詠み同士をつなぐと、「奪われ女が、木(大海人後天武天皇)の子を育てよう」になる。
 鏡王女は大海人(天武)に犯され、子を孕んでいたようだ。
 この事実は万葉集巻2-103天武天皇が藤原夫人(鎌足の娘)に賜つた歌の中に裏付けられている。
 また、巻2-94の鎌足作歌にも、不比等が天武の子である事実を詠んでいる。
 「逝水乃」(ガミネ)=行き、「動き」に。
 「逝」の韓国式訓は「ガル」。「行く」「死ぬ」の意である。これを「ガ」としている。
 「水」は古代韓国語で「ミル」。語末音を消して「ミ」としている。日本語でも「み」。
 「乃」は韓国音よみで「ネ」。「・・・の所」「・・・の所に」の意の「ネ」と酷似音。
 従って、前者の「ネ」音を後者の「ネ」として使っている。
 「ガミネ」は「行き、動きのある所に」と訓める。
 不穏な動きのある所に行く意を表わした句である。
 「逝」は「死」の意でもあるので、「鎌足の所へ行く(嫁ぐ)」と言う事は、
 鏡王女にとって「死ぬも同然」の表現と見做される。
 鎌足に嫁ぐ辛さを表わした用字であろう。
 一方「ガル」「ガ」は、「(鉄などを)磨ぐ」の「ガル」「ガ」と同音である。
 また、「ガミ」音は「鉄磨き」の「ガミ」、「神」の「ガミ」と同音でもある。
 鏡王女は、「ガミ」とよめる漢字「逝水」を用いる事で、
 鎌足が「鍛冶」(かぢ)と「神祇」の両方に関わりを持つ人物である事実を示そうとしたのかも知れない。
 素晴らしい感覚の持ち主であったようだ。
 「吾許曾益目」(ナオジュクマッスモ)=吾、ひたすら対峙せむ。
 「吾」の韓国訓よみ「ナ」。「我(われ)」の事。
 「許」の日本音よみ「こ」「きょ」。韓国式「ホヲ」。これを「オ」として用いている。
 発音上「オ」音に近かったからか。
 「曾」は韓国音よみで「ジュン」。
 「許曾」二字を従来の訓み下しは「こそ」として来たが、
 ここでは「ひたすら」「唯(ただ)」の意の「オジュク」に使っている。
 「オジュク」は、発音の流れの中で殆ど「オジュン」に聞こえるからである。現代語は「オジク」。
 「益」は日本訓の「ます」音を用いている。「益(ま)す」「益(ま)し」の語源が百済系の韓国語だからだろう。
 「益」という漢字は、「水」の字を横にした形と「皿」の会意文字から形成されて
 いて、「水がいっぱいになるさま」を示しているという。(学研漢和辞)
 「メシッ」という百済言葉がある。
 同じく百済言葉で「メ」は「水」「海」の事。
 韓国語の「エ」列音は日本に来ると頭音の場合「ア」列音になる。「メ」は「マ」になるのである。
 「シッ」は「載せ」「載せる」。
 「水載せ」「水がいっぱい」の意の百済言葉「メシッ」は、
 「まし」「ます」という日本語に転じている事が分かる。
 「水載せ」の意の漢字「益」を用いる事によって、
 鏡王女は、「多武(たむ)」(溜む・溜水)で象徴されていた鎌足を
 「載せる」つまり「交合する事」を暗示したのだろうか。
 「目」は「モク」と韓国音よみされる。語末音の「ク」を消し、「モ」に使っている。
 「益目」二字で「マスモ」。「マッスモ」の事で「対応せむ」「張り合わむ」「歯向かいあわむ」など
 強硬なニュアンスの語法といえる。
 「御念従者」(ミヨヲメヲリジャ)=身をただし嫁ぎましょう。
 「御」は「み」と訓める。この日本訓を「身(み)」にあてている。
 しかし、「身」を「み」と訓むよみ方は韓国式訓でもある。
 何故「御」を「み」と訓よみしたのか。
 「御」は「皇帝の動作や所有物につけて、尊敬を表す言葉」である。
 古代、人間は「水」が最も大事なものだった。「水」こそ生命の根源。
 水こそ最も尊い存在だったので、「水」の「み」を、
 尊敬を表わす言葉の「御」にあてて訓んだものと思われる。
 「念」は、額田王代詠の斉明天皇御歌(巻1-7)や柿本人麻呂歌(巻3-266)の詠み方と全く同じ。
 「守る」「防ぐ」「正す」の意の「ヨヲメ」である。
 舒明天皇の娘であれば鏡王女も百済系の女(ひと)と言える。
 百済人の詠みぶりで詠んでいるのは当然であろう。
 今までの訓み下しは「従」を「より」としている。
 「・・・から」という、時間的・場所的起点を表わす言葉である。
 意味は異なるが、この「従」を「より」と訓んでいるのは正しい。
 鏡王女は「ヲリ」という韓国語を「従」で書き表わしているからである。
 「ヲリ」「ヲル」は「嫁ぐ」「交合する」の意の古代韓国語で、原動詞は「ヲルダ」。
 この語幹「ヲル」が日本語「依(よ)る」の語源である。
 「依る」には元来「セックスする」という意味が含まれていた。
 飛鳥池遺跡から発掘されたエッチな落書きに「道(男根をあらわす)」字と共に
 「依」の字が書かれていたのはこのせいである。
 「者」は韓国式音よみで「ジャ」。
 「従者」は「ヲリジャ」となる。「嫁ごう」の意。
 「御念従者」のこの終句には、もう一つの義も含められている。
 天智天皇の「御念」つまり「心中」を深く思いはかり、
 それに「従う者である」という漢文そのものの義である。
 以上のように、この歌は完全な二重詠みとは言えないが、
 全体的に二重義を詠み込んでいる。
 多様なテクニックとバイリンガルな文字遣いから作者の広い教養が伺い知れる。
 さすが「王女さま」の歌と言えよう。
 尚、鏡王女は百済の武王(後の舒明天皇)と新羅王女「善花公主」(香櫛娘)との間の娘(押坂皇女)であろ。
 また、鏡王女の娘に元明天皇がおり、「姪娘」という名前も、
 それが鏡王女の別名であったのは、舒明天皇の皇后であった斉明にとって、
 舒明の他の女性との娘、鏡王女は「姪のような」存在だったのではと思われる。
 従って、不比等と元明は同母姉弟となる。元正とも同様である。
 文武天皇亡き後、権力を握っていた不比等が、
 辞退する元明を否応なく皇位に皇位に着けたのもこれで釈然とする。
 聖武を皇位に着ける為の時間稼ぎの大役は、
 信用出来る同母の姉を置いてはいなかったからと思えるのだ。
 万葉集巻一が天智天皇と天武天皇の覇権争いに焦点をあてて編集されているとすれば、
 巻二は天智天皇から天武天皇に政権が移っていった原因にスポット・ライトを当てて編集されていると言えよう。
 その権力の中核に鎌足・不比等父子がいたのである。
 以上 李寧熙女史解説
 2021年3月22日追記


 
 巻2-93 内大臣藤原卿、鏡王女を娉ふ時に、鏡王女、内大臣に贈る歌一首
 タマゴジゲ  ヲプヲルアンミ ゲイガルジャ ギミナジャシイアラ アレナガソヲクモ
 玉 匣   覆乎安美  開而行者  君名者雖有   吾名之惜裳
 (ゴヲシルガブ)
 
 玉 匣=@表読み・王刺殺(王の女)
      A裏読み・反逆するかも知れぬので。
 覆乎安美=反逆せぬこと。
 開而行者=怪異あきらかにせむ。
 君名者雖有=ひび割れ(仲違い)直ちにあらわれ。
 吾名之惜裳=我出て立てり。
 
 (本来の意味)
 王殺し・反逆せぬこと、怪異明らかにせむ。ひび割れ直ちにあらわれ 我乗り出たり。
 (大意)
 暗殺・反逆などの不穏な動きをなさらぬよう、仲違いはすぐあらわれますので、
 私が立って出たのです。
 (鎌足との初夜の歌にしては身も蓋もない政治的な「通告」である。
 この歌を聞かされた後の鎌足の顔が見たくなります。)
 
 以上 李 寧熙女史著「まなほ」より
 
 
 参考 従来解釈
 (玉くしげ)覆い隠すのはたやすいと、明けてから帰ったら
 あなたの名はともかく、わたしの名が惜しい。(全集)
 
 
 
 巻2-94 内大臣藤原卿、鏡王女に報へ贈る歌一首
 (表詠み)タマゴジゲ マジャミマロメ ネ サ ネガジュ  サ ブメ ジャ ス イ アラガジュ  マ シ ジ
        玉 匣   将見円山乃 狹名 葛   佐不寐 者 遂尓 有 勝   麻之自
 (裏詠み)タマゴジゲ マジャミマロメ ネ サ ナ ガジュラ ジャブメ ジャスイ  アラガジュ マ ジジャ
 
 (表詠み)
 玉匣=王の女(陰 ホト)。
 将見 円山乃=迎えて見たらマロの女だ。
 狹名葛=核孕(さねはら)めり。===(裏詠み=男児孕めよ)
 佐不寐 者 遂尓=鉄騒ぎ止んだので。===(裏詠み=男根、括って寝たので)
 有 勝 麻之自=弁えて所有し対応せよ。===(裏詠み=子供はもらって迎えよう)
 
 (表詠み翻訳)
 王の女(陰ホト)、迎えて見たらマロ(大海人皇子)の女だ。
 核孕めり。鉄騒ぎ止んだので、弁えて所有し対応せよ。
 
 (表詠み真の意味)
 中大兄皇子の女を娶って見たら、なんと大海人皇子の女ではないか。
 大海人の種を宿している。ぶんぶん音を立てるふいごのように騒がしい
 鉄騒動も止んだのだから、よく弁えて対応せよ。
 
 (裏詠み翻訳)
 王の女(陰ホト)、迎えて見たらマロの女だ。男児孕めよ。男根、括って寝たので
 子供はもらって迎えよう。
 
 (裏詠み真の意味)
 中大兄皇子の女を娶って見たら、なんと大海人皇子の女で妊娠もしている。
 男の子であれば良いが。男根縛ってセックスせずに、寝たのだ。
 せめて赤子は産んでもらって、私の子供にしよう。(この子が藤原不比等なり)
 
 以上 李 寧熙女史著「まなほ」より
 
 参考 従来解釈
 A.神のお山のサネカズラもしもあなたがどうしても
  私と寝ないと言うならば とても生きてはいられまい。
  ネットより
 
 B.美しい玉のような櫛を寝る時に納める函を開けて見るように
 貴女の体を開いて抱く その丸い形の山の狭名葛の名のような
 丸いお尻の間の翳り、そんな貴女と共寝をしないでいることは
 あり得ないでしょう。
  (私訳)ネットより
 
 以上 2018年3月17日書  
 
 
 
 巻2-95  内大臣藤原卿、采女の安見児を娶く時に作る歌
 
 吾 者毛也 安見児得有 皆人乃 得難尓為云 安見児衣多利
 
 真の意味
 皆の者がうらやむ美女安見児を賜り、私は寝るとも!
 そして、不穏な動きはしないよ。
 
 従来解釈
 私は、ああ安見児を手に入れることができました。
 宮廷の人々が皆思いをかけて遂げられなかった
 安見児をわがものとしました。

 解説
 吾(ナレ・アレ)=我の事。(古代韓国語)
 者毛也(ジャモヤ)=「寝よう」・「交合しよう」の強調語。
              「寝るとも!」・「交合するとも!」の意味。
 
 采女の安見児を得て「わたしは寝よう」と詠っている事から、
 「鏡王女と寝なかった」事が想定される。鎌足にとって
 鏡王女は一生「お飾りの正室」にすぎなかったのか?
 
 安見児(アンミア)=「見ない」「動かない」という意味の名前になる。(古代韓国式)
           =「見向きもしない」の意が込められているので、美女安見児は
            男どもの賛嘆のまなざしに見向きもしなかったと思われる。
 
 安見児(アンミア)=二重詠みされている。「動かない」の意で「不穏な動きをしない」
           とも二重に詠まれているのである。
           「不穏な動き」を自制した事で、鎌足は天智天皇から安見児という
           褒美を貰ったのであろう。
           そこで「安見児」の名に「動かない」の意を込めて忠誠を
           誓ったのではないか。「鉄騒ぎ」につながる一連の相聞歌の後に
           この歌を付け足している理由が釈然とする。
           「万葉集」の編集意図が見えて来るのである。
 
 参考:鏡王女は百済の武王(舒明の事)と新羅真平王の娘善花公主との間に
    生れた女性で、皇極元年(642年)正月、中大兄皇子(百済の翹岐王子の事)
    らと共に日本に亡命したものと推定される。(636年に百済の額田王、新羅の
    金春秋に嫁として10代で入質。641年百済武王・倭国王兼務の舒明天皇)崩御、
    額田王の入質も解消、中大兄らと共に倭国に亡命したと思われる---私見。)
 
 
 藤原鎌足の祖先について
 
 天児屋根命=「伽耶の者たち」又は「製鉄集団」の意味となり。
 天(アメ・アマ)=古代の韓国から「天降り」(あもり)した外来の神を指す。
 児屋(ゴヤ)=「伽耶」(ガヤ)で「ガ(鉄磨き)ヤ(国)」を意味した。
         要するに「製鉄国」の事。
 
 根(ネ)=「達」(たち)・「等」(ら)の事。
 
 藤原鎌足の先祖、中臣一族は、非火伽耶(ビッポヲルガヤ)(現在の慶尚南道
 昌寧一帯の地)の神職者ではなかったのか、555年の滅亡後、日本に
 集団亡命を計ったものと推理される。
 
 鎌足---614年生れ
      658年---鎌足、中大兄とその母斉明天皇を害そうとした。(日本書紀)
            同年、中大兄、孝徳天皇の皇子有馬を反逆のかどで殺害した。
            (鎌足は孝徳と特別な間柄であった。)よって斉明を亡き者にし、
            中大兄の継位も妨害すべく手を打とうとしたのでは?
            当時、中大兄---48歳?鎌足46歳?
            鏡王女も相当な年齢なり。
            そこで中大兄は異母妹鏡王女を鎌足に正室とさせた。
 661年 斉明天皇崩御
 669年5月5日---鎌足、大海人の呼びかけで鹿狩り(天智射殺目的)に参加、
            落馬し大怪我(骨折)をする。その5か月後の10月16日に
            合併症により死亡した。
            また、同年、天智天皇も巻2-148(倭大后歌)に詠まれているとおり
            大海人にやられたと言い残し崩御した。
 墓所:阿武山古墳。(高槻市大字奈佐原地区)
 以上 李 寧熙女史著「まなほ」並びに一部私見を含む。
 2019年8月30日書
 
 
 
 和風諡号「足」(たらし)の本当の意味。
 
 「38タラジ」---38度線を越え韓国に「逃れてきた人々」を云う。
 
 初代、神武(任武)天皇(神日本磐余彦)&(神倭伊波礼毘古命)
 =664年10月高句麗の大宰相莫離支淵蓋蘇文が倭国に。
 天武2年2月27日(673年3月20日)天武(任武)天皇として即位した。
 
 第36代孝徳天皇(天萬豊日天皇)(アメヨロズトヨヒノスメラミコト)
           第5代孝昭天皇〜第8代孝元天皇迄では
           この孝徳天皇」の分身であり、詳細は以下の通り。
 
 第5代孝昭天皇(観松彦香殖稲天皇)(ミマツヒコカエシネノスメラミコト)
           観松(ミマジュ)=「水(海)を相対する」の意味。
           香殖稲(ガエシネ)=「ほとりで、良い鉄を出す」の意味。
           伽耶と山陰の伯耆・出雲は「水を相対していた」地
           である。しかも、その水のほとりの地は、お互いに
           「良い鉄を出す」所でもあった。
           つまり、第5代孝昭天皇は第36代「孝徳天皇」の分身の一人であった。
 
 第6代孝安天皇(日本足彦国押人天皇)(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノスメラミコト)
           伽耶から倭国山陰・出雲に逃れてきた。孝徳天皇の分身の一人。
 
 第7代孝霊天皇(大日本根子彦太瓊命)(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)
           伽耶を出発、隠岐の島から日吉津(美保湾に面する米子平野辺り)
           に上陸したとされている。
           鳥取県西伯耆地方数ある「楽々福(ささふく)(佐々福とも)神社」の
           祭神はほとんど孝霊天皇とその妃、細姫命(くはしひめのみこと)・
           娘の福姫命(ふくひめのみこと)である。
 
           第7代孝霊天皇とは第36代「孝徳天皇」の分身で、一緒に
           祀られている細姫は孝徳皇后「間人」(はしひとの)皇女なり。
           細姫も福姫も「鉄」に関した名前であった。
           孝徳天皇は山陰地方の「鉄」を支配していた思われる。
 
 第8代孝元天皇(大日本根子彦牽天皇)(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト)
           伽耶から倭国山陰・出雲に逃れてきた。孝徳天皇の分身の一人。
 
 
 第12代景行天皇(大足彦忍代別)(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)
 =天智天皇のもう一つ顔である。天智天皇には双子の息子がいた。
 つまり、弟、小確尊(ヲウスノミコト)、亦の名日本童男(ヤマトヲグナ)、
 亦の名日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と兄、大確尊(オオウスノミコト)である。
 日本武尊=高市皇子の事。
 
 兄大確尊は美濃に弟小確尊(日本武尊)に出征し、日本武尊は確日嶺で
 「吾嬬はや」=「東国、討って(斬って)見せる!」と絶叫した。
 
 大確尊は小確尊(高市皇子)に殺害され、愛知県豊田市の猿投神社に祀られ、
 猿投山山頂に陵墓がある。
 
 参考1:安閑天皇(広国押武金日天皇)(ヒロクニオシタケカナヒのスメラミコト)
 ピロクニヲシタゲガネビで、「血で領地の山鉄を裂き蓋金(天武)を斬った」
 と訓み下される。
 漢風諡号安閑の「安」は、高市が気比(敦賀)で天武を斬った時
 「天武を押さえつけた」事をあらわし、「閑」は大確を表している。
 天智こと景行にとって、大確は「大切でなくてどうでもよい、
 そして、なおざりにした」第一皇子だった事が、この諡号からわかる。
 
 参考2:宣化天皇(武小広国押盾天皇)(タケヲヒロクニオシタテノスメラミコト)
 漢風諡号「宣」は「あまねくめぐらす」の意味。「化」は「姿を変える事」を表す。
 高市皇子は、天武との義理の親子関係から豹変、敵に「姿をかえて」天武を
 斬った者であり、シマ(鉄の間)を手に入れるべく、東(あずま)を
 「あまねくめぐった天皇」だった。
 
 日本武尊はこの後、尾張・膽吹山から能褒野に至って病に罹り遂に死を
 迎える。30歳だった言う。景行紀は「日本武紀」であると言える。
 以上、李 寧熙著「まなほ」より
 2019年7月16日書

 
 
 
 第13代成務天皇(稚足彦)(ワカタラシヒコ)=天智天皇の若い日の
 中大兄皇子時代の顔である。つまり、景行天皇と成務天皇は同一人物である。
 
 斉明天皇の子天智は、斉明の死後7年後にやっと即位している。
 すぐに即位できなかった理由は同母妹「間人」(ハシヒト)との恋であった。
 
 この同母妹との姦通事件は群臣や民が反発、斉明の崩御(661年)後4年目に
 間人が死去(665年)すると、その翌々年(667年)天智は斉明と間人を
 越智崗上陵に合葬、翌年(668年)ようやく即位できた。
 
 成務天皇即ち稚足彦の諡号は、この「7年間の中大兄皇子」に
 付けられた名前だったと思われる。
 

 天智と間人の姦通事件は、第19代允恭天皇の皇太子木梨軽皇子と
 同母妹木梨軽皇女の話として允恭紀に記されている。
 木梨軽皇子・木梨軽皇女の「軽」も伽耶をあらわしているが、
 「双子」の意味もある。双子大確・小確の父天智も双子だったのでは。
 

 
 第14代仲哀天皇(足仲彦天皇)(タラシナカツヒコのスメラミコ)
 この仲哀も天武のもう一つの顔である。仲哀紀には天武天皇の
 死の模様が描写されている。
 「仲」には「なかだち」の意がある。「哀」は「あわれ」「かなしみ」を
 あらわす。ことの半ばの「52歳で亡くなった」(仲哀紀の記述)あわれさ、
 かなしさを示す諡号である。
 

 神名「向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊」(ムカヒツヲモオソホフイツノミタマハヤサノボリノミコト)
 意味「人を縛ったり、捻ったり、襲ったり捻じ伏せたり、かつあおのけにしたりする、
 まったく荒々しい、水を司どる王、ライバル斬り殺し王となる尊」となる。
 つまり、天武が王位を奪った過程を表している。天智を殺害して皇位を奪った事を示す。
 

 和風諡号=足仲彦(タラシナカツヒコ)、「足」=逃げる。「仲」=出る、出た。「逃げ出た男」
 天武は高句麗最後の将軍宰相莫離支淵蓋蘇文(マクリジヨンゲソムン)(日本名伊梨柯須弥)
 (イリカスミ)である。息子男生・男建・男産に協力して国を守るよう言い、自身は来日し
 ク−デタ−(壬申の乱)を起こし政権を手にいれた。
 しかし、三兄弟は仲違いし高句麗は唐に滅ばされた。
 結果として祖国を失った蓋蘇文天武は高句麗からの逃亡者つまり「たらしなかつひこ」
 でしかないのである。

 
 
 神功皇后(オキナガタラシヒメノミコト) 
 斤烏支(クンオギ)新羅の地名(現在の浦項)、
 クン=「大きい」、オギ=「来ること」・「来る所」・「港」を意味する。
 つまり、「大港」の意。
 浦項港から真東に来ると隠岐の島に到着、そこから南下し美保関に上陸。
 (大きいオギから小さいオギにに渡るル−トなり。
 
 つまり、オキナガは「港を出た」人・ことを表す。
 オキナガタラシヒメとは「港を出て日本に亡命した姫(女性貴人)であった。
 
 神功紀には「魏志」を引用し、数回に「倭の女王」記述有。
 倭で最も強力な「邪馬壹国」(ヤマイッコク)であり、その最高権力者は
 卑弥呼女王であった。神功紀の最高権力者は神功皇后である。
 倭に二人の女性最高権力者が居るはずはなく、卑弥呼が神功皇后の
 モデルであった。また、持統天皇も神功皇后の顔であった。
 

 
 第34代舒明天皇(息長足日広額)(オキナガタラシヒヒロヌカのスメラミコト)
 
 「息長足」=オキナガタラシ=「港を出て逃亡した」の意。
 「日広額」=ヒヒロヌカ=「刀ひろげ抜く」の意。
 舒明は港から船で何処へ逃亡する途中で刺客に殺されたのでは?
 
 百済武王=舒明天皇、580年〜641年没
 百済武王在位=600〜641年
 舒明天皇在位=629年〜641年
 つまりこの天皇は百済王と倭国王を兼務していた。
 また、百済宮での葬儀は「百済の大殯」と呼ばれた。
 
 

 以上、李 寧熙著「まなほ」より
 2019年7月18日書

 
 
 
 第35代・第37代皇極・斉明天皇(天豊財重日足姫)(アメトヨタカライカシヒタラシヒメ)
 
 皇極天皇の前身は、百済武王(舒明天皇)妃宝(ボ)王女。
 武王の死後百済での政変の為、息子翹岐(後の中大兄=天智)や、
 娘間人等と済州島経由倭国に亡命の後、即位した。
 一旦、弟とされる孝徳に位を譲るが、重祚して斉明天皇となり、
 百済救援の為遠征した九州、朝倉宮で急死する。
 
 当然「たらし姫」つまり逃げ出した姫である。
 舒明の諡号が明かすように、武王(舒明)が殺されたのだとしたら、
 皇極達も命からがら逃げ出して来たことだろう。
 
 皇極の夫武王のもう一つの顔である允恭天皇の
 風諡号「雄朝津間稚子宿祢天皇」(ヲアサツマワクゴノスクネノスメラミコト)は
 「最高の山鉄の間(ま)の、傍系の、弟天皇」という名前だが、
 もう一つ「妻奪い男の、お妾さんの子の、小さい者」という義があった。
 この諡号から、皇極は再婚者であることが知れる。
 
 「天」=天の事。
 「豊」=「括る」(稲束を括ることは豊作を意味した)
 「財」・「宝」は「たから」と呼ばれた。「たから」=「タ(田)ガラ(耕す)」の事で
 土地を耕す事は財宝を生む行為だった。
 「重日」(イカシヒ)はイッガシビとよめる。
 「イッガ」=たて続けに磨(と)ぐの意。 
 「シ」=「鉄」。
 「ビ」=「刀」などの「刃物」つまり農機具や武器を意味した。
 
 つまり、貴重な鉄の刃物を作って、天空に沢山括り付け、
 空ごと足(タラシ)する(亡命する)姫の意味なり。
 
 以上、李 寧熙著「まなほ」より
 2019年7月24日書
 
 
 
 第44代元正天皇(日本根子高瑞浄足姫天皇)(ヤマトネコタカミズキヨタラシヒメノスメラミコト)
 「ヤマトネコ」=日本に渡来の伽耶系貴人の子孫に付けられている名前である。
 「タカミズキヨ」=「高」(たか)=「高句麗」・「高句麗系の人物」を暗示している。
 「瑞」(みず)=「百済」・「百済系の人物」を暗示している。
 「浄」(キヨ)=「はさまれて」の意味の韓国語。
 「「タカミズキヨ」=「高句麗系と百済系にはさまれて」の意味になる。
 
 元正天皇は八世紀初の日本で、引き続き覇権争いを繰り広げていた
 高句麗勢力と、百済勢力の葛藤に耐えきれず、某所に難を避けた女帝
 であった事がこの諡号から読み取れる。
 
 皇位を聖武天皇に譲る前年の養老7年(723年)9月条には
 「蛍惑(クエイコク)、太微(タイビ)の左執法(サシフハフ)の中に入る」とある。
 蛍惑は火星のことで、兵乱と関係のある星とされている。
 (太微の左執法とは乙女座のイ-タ星の事)
 この直前の8月には、新羅使たちが来日しているが、それまでに日本に
 派遣されて来た使節のうちでは最低階級の官僚たちで、新羅との関係も
 当時非常に険悪な状態であったと思われる。
 
 このような状況の中で、元正は聖武に禅位している。
 諡号にタラシのつくゆえんであろう。
 古代観光からの亡命貴人は以上の8人の他にもあまたいる。
 にもかかわらず、8人にだけ諡号に「タラシ」が付けられいるのは、
 ダブルイメ−ジの人物が多いせいだ。
 
 例えば、神功皇后の名にタラシを付けたので、そのもう一つの顔である
 持統天皇の諡号には付けなかったとか、仲哀天皇の諡号にタラシを
 付けたので、天武天皇には付けなかったというようなやり方だ。
 
 「タラシ」の名の付く人物は天武(仲哀)と持統(神功)の他は、
 全て天智一族だ。天智(景行・成務)とその父舒明(武王)、母(皇極)、
 母の弟とされる孝徳(孝安)、そして元正も天智の血を引いている。
 「日本書紀」はことさら天智一族を「亡命者」と言いたかったのか?
 ともあれ、古代韓国語で「記・紀」「万葉集」などの万葉仮名を訓まないかぎり
 古代日本史の追求は、諡号の「タラシ」に至るまで不可能であると断言して憚らない。
 
 以上、李 寧熙著「まなほ」より
 2019年7月24日書
 
 

 

 
 巻1-40 幸于伊勢國時、留京柿本朝臣人麻呂作歌
 
 鳴呼見之浦尓 船乗為良武 撼嬬等之珠裳乃須十二 四寳三都良武香
 
 (大意)
 ああ、ほとを見せています。「お腹に上がりなさい「洗い物」
 (男根)入れてお呉れよ」「朱蒙」(弓矢の達人)の鉄の鏃を
 射込むので、さぞかしほとは潤う事でしょうね。
 
 解説
 歌の中から数詞を全部拾い出すと「十二四三」連音して
 「シビササム」と発音される。「性行為を続けている」
 という意味の俗語なり。
 2020年3月22日書
 
 以上、李寧熙著「まなほ96号」より
 

 
 
 
 巻1-41    柿本人麻呂 伊勢国に持統天皇が行幸された時、
          京にとどまって作った歌
 
 釼著 手節乃埼二 今日毛可母 大宮人之 玉藻苅良武
 
 従来の解釈
 
 クシロ       サキ  ケフ     オオミヤヒト  タマモ
 釧つく たふしの崎に今日もかも 大宮人の 玉藻刈るらむ
 
 釧つく 答志の崎で 今日あたり 官女たちは玉藻を刈っていることだろうか
 
 本来の意味
 
 さし刀(腕輪)着け守節の(または手節の)崎に今日も行くよ
 大宮人の(または大宮人よ)玉藻(玉裳、または目障り)刈れよ

 

 真の意味
 
 人麻呂は持統天皇に対し天皇の皇后であった者が、その子である
 文武との交際にうつつをぬかすとは何事であるか、操を守れと言う

 一方「文武を斬れ」といきまいていた。
 
 巻1-48    柿本人麻呂 軽皇子が安騎野に宿られた時に作った歌
 
 東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡
 
 従来の解釈
 
 東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ
 
 東の 野にかげろうの 立つのが見えて 振り返って見ると 
 月は西に傾いている。
 
 真の意味
 
             
オメ モジ          ウナズ
 
暁の 星数え居て 御目文字し 嬉しがれば 頷かれ行く
 
 この歌の本当の意味
 
 夜明け星を数えていたら、明け空に草壁の皇子のお姿をみとめた。
 ああ、嬉しいなと思っていると、皇子はその私にお気づきになり、
 頷かれ、そして消えていかれた。

 以上、李 寧熙著「もう一つの万葉集」より。
 
 2019年01月15日書
 
 
 
 巻1-41    柿本人麻呂歌   伊勢国に持統天皇が行幸された時に、
                    京にとどまって作った歌
 
 釼著 手節乃埼二 今日毛可母 大宮人之 玉藻苅良武
 
 従来の解釈
 
 クシロ       サキ  ケフ     オオミヤヒト  タマモ
 釧つく たふしの崎に今日もかも 大宮人の 玉藻刈るらむ
 
 釧つく 答志の崎で 今日あたり 官女たちは 玉藻を刈っていることだろうか
 
 
 真の意味(その1) 柿本人麻呂が本当に言いたかった事。
 
               (レ)               (ゴスルモ)
 ゴジレ チャゴ スジョレ ゴジネ オナルド ガモ オオミヤサラメ タムオツ  ベラム
 釼   著  手節乃 埼二 今日毛 可母 大宮人之 玉藻  苅良武
 
 カタナ ツ                  オオミヤヒト  タマモ
 刀 着け 守節の崎に 今日も 行く 大宮人の 玉藻(または目障り)刈りせよ
 
 (腰にさし刀を帯び 守節の崎に 今日も 行くのだ 大宮人の玉藻を 切るのだ)
 
 
 真の意味(その2) 
   
               (レ) 
 ゴジレ チャゴ タフシネ ゴジネ グムイルド ガモ   デグンインネ タマモ  ベラム
 釼   著  手節乃 埼二 今日毛  可母  大宮人之 玉藻  苅良武
 
 釧着け 手節の崎に 今日も 行く 大宮人よ 玉藻 刈りせよ
 
 クシロ ツ   タフシ                         タマモ
 (釧を着け 手節の崎に 今日も 行きなさる 大宮人よ 玉藻を刈りなされ)
 
 注 玉藻をお刈りなさい=玉藻を切るのだ=大宮人を切るのだ。
 
 
 解説
 人麻呂は、持統天皇に対して、天武の皇后で
 あった者が、その子である文武との交際にうつつを抜かすとは
 何事であるか、操を守れと言う一方「文武を切れ」と息巻いていた。
 
 語句解説
 
 釼(または釧)(ゴジレ)======さし刀(または腕輪)   
 著(チャゴ)===========着け  
 手節乃(スジョレ)=========守節の(または手節の) 
 埼二(ゴジネ)(またはゴジレ)====崎に 
 今日毛(オナルド)(またはグムイルド)=今日も  
 可母(ガモ)===========行くよ  
 大宮人之(オオミヤサラメ)======大宮人の
 (または大宮人之)(デグインネ)===大宮人よ 
 玉藻(タムオツ)==========大宮人の
 (または玉藻)(タマモ)=======大宮人よ
 (または玉藻)(ゴスルモ)======目障り  
 苅良武(ベラム)==========刈れよ
 
 
 以上、李 寧熙著「もう一つの万葉集」より。
 
 
 
 
 巻1-42 幸于伊勢國時、留京柿本朝臣人麻呂作歌
 
 潮左為二五十等兒乃嶋邊榜船荷妹乗良六鹿荒嶋廻乎
 
 (真の解読・裏詠み)
 (その大意)
 ほとがざわめいているので、「男性自身」をあたしにおくれ。
 夫のお腹なのだから妻がこれに乗れないことはなかろう。
 いくら荒っぽくてもいいから抉(えぐ)っておくれ。
 ※人麻呂は文武と持統の年齢を暴き、年増と年寄りの
 情事を皮肉っている。
 2020年3月22書
 
 以上、李 寧熙著 「まなほ」第2号より。
 
 
 
 巻1-47 柿本人麻呂作
 
 マセガル アレネシャ スイアルイプリ ジネガルグミガ ガタミ トジュオルサ
 真草刈 荒野者 雖有 葉  過去 君之 形見跡曾来師
 
 (従来の詠み下し文)
 ま草刈る荒野にはあれど、黄葉(もみじば)の過ぎにし
 君が形見とぞ来(き)し。
 
 (従来解釈)
 安騎野は草を刈るしかない荒野だが、黄葉のように去っていった
 君の形見としてやって来たことだ。
 
 (真の解読・その大意)
 恋にうつつを抜かす持統と文武。草壁皇子(天武と持統の子)
 の死で、齟齬があったことを示唆。持統に操(みさお)を守れと迫り、
 アレガヤの者、文武を討とうといきまいている。
 人麻呂は高市皇子のブレ−ンだった。
 
 軽皇子よ、鉄物づくりのアレカラ(金官伽耶)人である君は、
 すぐ事をさとって言うであろう、懐刀にひびが入ったので
 取り入れに問題が生じたと。
 
 (語句解説) 
 真草刈(マセガル)=鉄を研ぐ。
 荒野者(アレネシャ)=アラ人は。
 雖有葉(スイアルイプリ)=すぐ悟り言うであろう。
 過去(ジネガル)=懐刀。
 君之(グミガ)=ひび入り。
 形見(ガタミ)=取り入れは。
 跡曾来師(トジュオルサ)=失敗する。
 
 2020年3月22日書
 
 以上、李 寧熙著 「甦る万葉集」第6章より。
 
 
 
 
 巻3-262 柿本朝臣人麻呂献新田部皇子歌一首并短歌
 
 (反歌原文)
 矢釣山 木立不見 落乱 雪驪朝楽毛
 
 (真の解読・その大意)
 始祖天武の女よ 子供達同士争い仲違い 
 ああ どうしよう 浮気野郎がとうとう(政権)
 盗って行ってしまったよ。
 2020年3月22日書
 
 以上、李 寧熙著 「まなほ」第23号より。
 
 
 
 

万葉集 巻3-236
天皇賜志斐嫗御歌一首
「不聴跡雖云 強流志斐能我 強語 此者不聞而 朕恋(戀)尓家里」(全集)
従来の詠み下し文
天皇(すめらみこと)志斐嫗(しひのおみな)に賜ふ御歌(おほみうた)一首
否(いな)と言へど 強(し)ふる志斐(しひ)のが 強(し)ひ語(かた)り 
このころ聞かずて 朕(あれ)恋ひにけり」(全集)
従来の大意
天皇が志斐(しい)の嫗(おうな)に遣わされたお歌一首
「いやだと言うのに 強いる志斐の老婆の 強(し)話(ばなし) 
このごろ聞かないので 聞きたくなった」(全集)
真の詠み下し文
「不聴跡雖云 強流志斐能 我強語 此者 不聞而 朕戀尓家里」
「アニデイ トスイイプ シブルシビヌン ガシビガタリ 
イジャ アニドウゥルイ ナレゴビニガリ」
「ならぬ!
ふたたび早々に言う 
喋(しゃべ)る志斐(シビ)は 
鉄刀(シビ)磨ぎが如く煩(うるさ)し
この頃聞かずに居れば
我(われ)「子殺(ゴビ)し」納得せむとす」
真の大意
「それは絶対駄目!聞き入れならぬ。
またも早々と切り返す。
喋りまくる志斐(シビ)の話は
鉄刀(シビ)作りの音のようにうるさい。
最近ずっと聞かずにいたら、
なんと、朕は「子殺し」のこと聞き入れるようになった」
「不聴跡雖云」(アニデイトスイイプ)=ならぬ!
ふたたび早々に言う。
「不聴」(アニデイ)=不は否定を意味する。
この二文字で「ならぬ」の意の古代韓国語である。
「跡」(トヲ)を「また」「再び」の意の
古代韓国語「ト」に当てている。
「雖」=「すい」音で、「早く」「たやすく」の意の
古代韓国語「スイ」を表わしている。
「云」=「いふ」と読み、これを「云う」の意の
古代韓国語「イプ」に当てている。
この「イプ」が「云う」の意の「いふ」(現代語「云う」)に転じて来た。
イプは日本語「云う」の語源なのである。
持統天皇は何度も「ならぬ」つまり「それは駄目」と繰り返し、
志斐という嫗に主張しているのである。
何を「ならぬ」と言ったのだろうか?
「強流 志斐能」(シブル シビヌン)=喋る(しゃべ)志斐は。
「強流」二字で「しふる」
この「しふる」を「しゃべる」の意の古代韓国語であり
現在の慶尚道方言でもある「シブル」に宛てている。
このような用語法から、「喋る(しゃべ)る」の意の
古代韓国語「シブル」が日本語「しゃべる」の語源である事が明らかになる。
天皇がこの歌を賜った人物の名「志斐」は、
日本式音読みで「しひ」と読めるが、韓国式音読みで「斐」は「ビ」と読む。
「シビ」!この嫗の名の意味は「シ(鉄)ビ(刀)」である。
嫗は鉄刀作り、つまり鍛冶の女親方か、
シバ(鉄の場・シマと同義)の祭祀者であったと推定される。
この強力なパワーを握る老女が、天皇に向かって、
何かを無理強(じ)いしているのである。
「能」は韓国式音読みで「ヌン」。「・・・は」の意の特殊助詞。
「我強語」(ガ、シビガタリ)=鉄刀磨ぎが如し。
「我」呉音も漢音も同じ「が」で、この音をそのまま「(鉄を)磨ぐ」「鍛冶する」の意の
韓国語「ガ」に宛てている。古語であり、現代語である。
「強語」は「シビ ガタリ」と読ませている。
「強」は日本式古訓で「しひ」。これを韓国式に「シビ」とする。
「シビ」の「シ」は「鉄」
「ビ」は「刀」を指す古代韓国語。「シビ」とは「鉄刀」の事なのである。
従って、「ガ、シビ」と言えば「鉄刀磨ぎ」を表わす。
「語」は日本式訓で「かたり」。この音で、韓国語の「ガタリ」を表わしている。
「如(ごと)し」の意である。
志斐の嫗が鉄刀作りと関連する者であった事を強力に暗示している。
「此者不聞而」(イジャ アニドウゥルイ)=今 聞かずに居れば。
「此」の韓国訓読みは「イ」。「者」は音読みで「ジャ」。
「此者」ニ字たわせて「イジャ」。「今」の意の古代韓国語である。
日本の唱歌「さくら」の「・・・いざや、いざや、見に行かむ」の「いざや」
このうちの「いざ」の語源が、「今」の意の「イジャ」なのだ。現代語では、「イジェ」。
「いざや」と言えば「イジャヤ」の事で「今や」になる。
現代語でも「イジェヤ」で、古語とあまり変わっていない。
「不」はアニで否定を意味する。
「聞」も韓国式訓読みで「ドゥル」。
「而」は韓国式音読みで「イ」。
「不聞而」(アニドゥルイ)で「聞かずに居れば」となる。
「朕戀尓家里」(ナレゴビニガリ)=我「子殺し」入れて(納得して)行く。
「朕」は韓国式に「ナレ」(我の意)なり。
「戀」は古代韓国語の「ゴビ」音で「ゴ」(子)ビ(斬り)に宛てて歌を詠んでいる。
「子殺し」の意。
「尓家里」三字は「ニガリ」と読める。「入れて行く」こと。
この場合は持統天皇は「子殺しを納得して胸に「入れて行く」のである。
以上 李 寧熙女史解説
2021年01月31日書


 
 
 
 
 巻3-264 柿本朝臣人麻呂、近江国より上り来る時に、
        宇治河の辺に至りて作る歌一首
 
 物乃部能 八十氏河乃 阿白木尓 不知代経浪乃 去辺白不母
 
 (真の大意)
 物部は節操をよく売る。新羅の輩だからさ。
 いっそ不比等を頼りにしよう。
 私佐留の味方は新羅ではないのだ。
 
 (解説)
 「部・白・不・代・経・白・不」は
 「否・新羅・否・新羅・否・新羅・否」
 を暗示している。強烈な新羅否定である。
 2020年3月22日 書
 
 以上、李 寧熙著 「まなほ」創刊第1号より。
 
 
 
 巻3-266 柿本朝臣人麻呂歌一首
 
 淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛 思努尓 古所念
 
 (真の大意)
 父御伸(の)し出し、別れ波立つ。君が為泣かむ。
 無念で死ねぬ 世継ぎ世話役用心せよ。
 2020年3月22日書
 
 以上、李 寧熙著 「まなほ」第2号より。
 
 
 
 巻3-282   春日蔵首老の歌一首
 
 チノヲツジャブ イッパレドアニジナ バッチュセメエ
 角  障経 石村毛 不 過 泊   瀬山
 
 ヲヌテ トマジャ ノヲモヲ バムシャギプヲ ガ トト
 何時 毛将  超  夜者 深  去通都
 
 (従来の詠み下し文)
 つのさはふ 磐余(いはれ)も過ぎず 泊瀬山(はつせやま)
 何時(いつ)かも越えむ 夜(よ)はふけにつつ
 
 (従来の大意)
 (つのさはふ)磐余さえ通り過ぎていない。
 泊瀬山はいつ越えるのだろうか。夜は更けて行くのに。(新大系)
 
 (真の意味解釈)
 男根入れたい! 王に入れたい!
 磐余も過ぎず 「鉄受け山」
 何時 また越せる 夜は更けて行く。
 
 (真のその大意)
 男根、入れたい! いや、王にさせたい!
 「たて続け鉄掘れ」も過ぎず 「鉄受け山」ぞ
 何時 また 越せる もう夜は更けて行く。
 
 (語句説明)
 角障経(チ ノヲツジャブ)=@男根 入れたい。
                A王に させたい。
 石村毛不過(イッパレド(モ)アニジナ)=磐余も過ぎず。
 泊瀬山 何時毛将超(バッチュセメエ ヲヌテトマジャノヲモヲ)
               =@泊瀬山(鉄受け山)、何時また越せる。
               =A捧げよう!の山 何時また越せる。
 夜者深 去通都(バムシャギプヲ ガ トト)=@夜は深まり行く。
                        =A余(吾)は沈まり行く。
 以上、李 寧熙著 「まなほ」第89号より。
 2020年5月12日書
 
 
 
 
 巻2-165   大伯皇女の歌
        (反逆罪で自刃させられた大津皇子の屍体を
         葛城の二上山に移葬する時詠まれた)
 
 宇都曾見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見
 
 従来の解釈
 
               ワ           フタカミヤマ  イロセ ワ
 うつそみの 人にある吾れや 明日よりは二上山を 弟背と吾が見む
 
 この世に生きる身の私 明日からは 二上山を愛おしい弟として眺め
 偲びましょう。
 
 真の意味
 
 どうやって生きていこう、人である私が(山でない私が)明日から
 二上山を弟として眺めていくとは。
 
 解説
 
 愛する弟は「山」、つまり二上山に眠る土となってしまった、
 ああ悲しい、再び姉弟になるためには、自分も「山」になるしかない。
 
 
 以上、李 寧熙著「もう一つの万葉集」より。
 
 
 
 巻1-7    天豊財重日足姫天皇(斉明天皇) (代詠)額田王
 
        648年(孝徳天皇大化四年)作(十市皇女を生んだ年)
        額田王17歳(生年は631年)
 
 
 金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百磯所念
 
 従来の解釈
 
           カ  フ         ウジ        カリイホ オモ
 秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 仮廬し思ほゆ
 
 秋の野の 萱を刈って屋根に葺き 旅宿りした 
 宇治のみやこの 仮の庵(イオリ)が思われる
 
 真の解釈
 
 セボルネ ミセガルジ オクジョエマルジ ウ チネ ミヤコヌン カ リオンゲトヨミョ
 金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百磯所念
 
 ソボル                 ナカ  ウエ     カタナ
 徐伐は 鉄磨く 締め苦しむること勿れ 上の都は 刀来るぞよ 陣地固めよ
 
 
新羅は刀を磨いて戦にそなえている。
 (戦争の準備をしているからお上の地(百済の事)は防備なされ!)
 締め苦しめないといいのに。

 
吾がお上の、百済の都(扶余)は、敵が襲って来るから、
 陣地をお固めなされ。
 
 
 語句解説
 
 金野乃(セボルネ)=新羅(徐伐)よ(百済方言)
 美草苅葺(ミセガルジ)=刃(ヤイバ)磨き 
 屋杼礼里之(オクジョエマルジ)=締め苦しむ勿(なか)れ
 兎道乃宮子能(ウチネミヤコヌン)=お上の都(扶余)よ
 借五百磯所念(カリオンゲトヨミョ)=来襲に備えよ
 
 
 詳細解説
 
 金野(セボル)=徐伐(ソボル)(新羅)
 乃(ネ)=達・「・・・は」・「・・・の」
 美草(ムセ)(ミセ)=鉄
 苅葺(ガルジ)=磨ぐ
 屋杼礼(オクジェオ)(オクジョエ)=締め苦しめる
 里之(マルジ)=勿(なか)れ
 兎道(ウチ)=お上(カミ)・家
 乃(ネ)=・・・の
 宮子(ミヤコ)=(都・扶余)
 能(ヌン)=・・・は
 借五(カリ)=刀が
 百磯(オニカ)(オンゲ)=来るから
 所(ト)=城・陣地
 念(ヨミョ)=締めよ・固めよ
 
 
              キムチュンチュ
 注1 648年、新羅王族「金春秋」(後の武烈(ムヨル)王)その子「文王」
    のちの文武(ムンム)王(日本に亡命、文武天皇になった)が
    唐に百済征伐の援軍請願、唐太宗これに応諾(三国史記・新羅本紀)
    この事が15年後、新羅・唐連合軍により百済が滅亡(663年)する
    重大なきっかけになった。
    斉明天皇はこの金春秋の対唐外交情報を得ていて、百済に黒雲が
    立ちこめていると案じ、戦争予告の歌を詠ませたわけである。
    歌の上半句は新羅の攻撃準備について、下半句は百済に守備態勢を
    整えるよう警告して歌つているのである。
 
 注2 斉明天皇は百済第30代「武王」(ムワン)の娘宝(ボ)(たからの意。
    斉明天皇の名「天豊財重日足姫」にも「たから」が入っている)王女であり
    百済最後の王、第31代「義慈王」(ウイジャワン)の妹である。
    従って、斉明天皇の「百済びいき」が異常なのも納得がいく。
    即位早々「百済大寺」建立や大使として来日した翹岐王(のちの「天智天皇」)
    を大歓迎した。(日本書紀、皇極天皇条)
 
 注3 新羅でも女帝の時代で、善徳女王、真徳女王が即位していた。
 
 以上、李 寧熙著「もう一つの万葉集」より。
 
 
 
 
 巻20-4516   最終歌 大伴家持作(42歳時)
           三年(天平宝字三年)(759年)春正月一日に、
           因幡国の庁にして饗を国郡の司等に賜ふ宴の歌一首

 
 新年 乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家余其騰
 
 従来解釈
 
 新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪のいやしけ吉事(よごと)
 
 従来大意
 
 新しい年の初めの初春の今日降る雪の積もれよ良い事(全集)
 
 
 真の訓み下し
 
 サラドウジネシネ  パト ハルヌン  ヤホ ブル  ユキヌン  イヤ ジケ ヨグヲドウ
 新年 乃始乃 波都 波流能 家布敷流 由伎能 伊夜之家 余其騰
 
 真の意味
 
 新羅咎めお出しになられる 防禦正す矢、降り浴びせる靫(ゆき)(武具)
 続けて作れ夜なべして。
 
 その大意
 
 新羅征討の旨 お出しになられる。防備を固め
 矢、降り浴びせよう。靫など武具は日に夜を継いで作れよ。
 
 用語解説
 
 新年(サラドウジ)=新羅・斯羅(サラ)・咎め
 乃始乃(ネシネ)=お出しになられる
 波都(パト)=防御
 波流能(パルヌン)=正す(きちんとする)
 家布敷流(ヤホブル)=矢、降り浴びせる
 由伎能(ユキヌン)=靭(ゆき)は
 伊夜之家(イヤジケ)=引き続いて
 餘其騰(ヨグヲドウ)=夜なべして
 

 当時の時代背景
 「宴」=儀制令に「元日は、国司皆僚属郡司等を率ゐて、
 庁に向かひて朝拝せよ。訖なば長官賀受けよ。
 宴設くることは聴せ」とある公式行事であった。
 単なる「個人」の見解を述べた歌ではない。
 
 天平宝字三(759)年、正月一日の「続日本紀」には、
 時の天皇淳仁が大極殿で、高麗(高句麗の後身である
 渤海国の事・今の中国東北部一帯に勢力を広げていた)
 国王大欽茂(デフムモ)(渤海第三代文王・737〜793在位)
 の国書を携えて来た使者揚承塵(ヤンスンギョン)らを謁見
 した記事が記録されている。
 
 当時の東北アジアは混乱していた。唐では安禄山の乱
 が起こり、渤海は日本と組んで新羅を圧迫しようと
 企図していた。
 
 新羅の景徳王は、即位元年(742)、既に日本国使節の
 「来朝」を拒絶している。
 日本と新羅の間は、先の見えない状況であった。

 以上、李寧熙女史解説 
 2019年7月9日書改
 
 
 
 巻3-304 柿本朝臣人麻呂下筑紫国時、海路作歌(二首)
 
 大王之遠乃朝廷跡蟻通嶋門乎見者神代之所念
 
 (従来の読み下し文)
 
 大君(おおきみ)の遠(とほ)の朝廷(みかど)とあり通(がよ)ふ
 島門(しまと)を見れば神代(まみよ)し思ほゆ。
 
 (その大意)
 大君の遠く離れた政庁へと行き通い続ける海峡を見ると、
 神代の昔が思われる(新大系)
 
 (真の読み下し文)
 デワンガトホノミカドトアリトホスシマトヲボジャガムデジトヨミョ
 大王之遠乃朝廷跡蟻通嶋門乎見者神代之所念
 
 (真の意味)
 大王が遠き朝廷と通われた島路を行かば
 上監(文武)に対峙、注意されよ。
 
 (その大意)
 大王でおられる天武天皇が、遠い朝廷として通い続けた
 (瀬戸内海の)島路を行かば、文武天皇に向き合い
 「陣地固めよ」
 
 以上の如く「陣地固めよ」と天武天皇に警告している
 「反文武の歌」である。「息子に注意せよ!」と云う通告なり。
 
 (用語解説)
 大王之(デワンイ)=大王(大王でおられる天武天皇)これを。
 遠乃朝廷跡蟻通(トホノミカドトアリトホス)=遠き朝廷としてあり続けた。
 嶋門乎見者(シマトヲボジャ)=島路を行かば。
 神代之所念(ガムデジトヨミョ)=上監(文武)対峙注意されよ。
 
 
 柿本人麻呂 天武天皇3年8月3日石見国(現、島根県西部)
 戸田郡山里に20余歳で新羅より倭国に来る。
 また、人麻呂は、製鉄豪族藤原鎌足の息子貞慧が、
 唐からの帰国途中の新羅で生み、新羅で育ったと見倣される。
 
 人麻呂は、和銅元年(猿の年つまり申年)(708年)、
 藤原不比等等一味によって死刑に処せられている。
 人麻呂と宮子(不比等の娘)との間に不義で生まれた
 首皇子を皇太子にさせる為には、どうしても人麻呂を
 消さなければならなかったのである。
 202年3月22日書
 
 以上、李寧熙女史解説
 
 
 
 巻3-338   沙弥満誓綿歌一首
          (造筑紫觀音寺別當俗姓笠朝臣麻呂也)
 
 シンラヌビ チュグシノ  バダシャ ミチャグニ ブルトジシャ ギネド  アダダショミ
 白 縫 筑紫 乃  綿者  身箸而 未者    伎袮杼 暖 所 見
 
 従来解釈
 
 「しらぬひ筑紫の綿は身に付けていまだは着ねど暖けく見ゆ」
 
 従来は「綿」を詠んだとされてきた歌。
 
 真の意味
 
 新羅(新羅が横行する)突き刺されるのか(お攻めになるのか)
 海は水 冷たければ「角(つの)生え」(お偉方)は来ねど手下着きにし。
 
 真の大意
 
 新羅の横行(支配)をお攻めになさるのか。海は今、冬。
 水が冷たく荒波なので、角(つの)冠のお偉方はまだ
 筑紫に来ていないけれど、手下の兵士たちはもう着いた。
 本当に戦争するらしい。
 
 当時の時代背景
 
 新羅王で日本国王でもあった「文武天皇」が707年に崩御した
 直後から日本国と新羅の関係悪化が始まった。
 
 満誓(飯豊青(いいどよのあおの)皇女こと元正の夫で文武の配下であった。
 当時の筑紫の海には新羅勢が屯していたことが、この歌から分かる。
 新羅人の満誓は気が気でなかったに違いない。
 
 聖武天皇は天平三年(731年)日本国の兵船300艘で
 新羅東辺に攻め入ったが、
 新羅兵に撃退され失敗した。
 翌天平四年(732年)正月20日、従五位下角朝臣家主を、
 遣新羅使に任命。同月22日新羅使臣来朝した。
 
 以降、孝謙・称徳天皇の時代も新羅との関係は改善されなかった。
 天平宝字三年(759年)正月、家持の歌が詠われた後、遣新羅使は
 20年間中断。
 延暦18(799)年、桓武天皇の時、遣新羅使の派遣中止を決定。
 
 以上、李寧熙女史解説 
 2019年7月9日書
 
 
 
 巻4-693   大伴宿禰千室の歌(754年・天平勝宝六年・左兵衛督に任じられた)
 
 
 如此耳 恋哉将度 秋津野尓 多奈引雲能 過跡者無二
 
 (従来の詠み下し文)
 かくのみし 恋ひや渡らむ 秋津野に たなびく雲の過ぐとはなしに
 
 (従来の解釈)
 こんなふうにして 恋し続けることであろうか 秋津のに
 たなびく雲のように 思いが消えてしまうというわけでもなく(日本古典文学全集)
 
 このように恋続けてばかりいることであろうか。秋津野に
 たなびいている雲のように、過ぎ去って忘れるということ無しに(日本古典文学大系)
 
 
 (真の解釈)

 
 
かく急に ともに棲まむと いわれても 秋津野に すべてをやめて
 
しりぞける くもは住み場の 多く無かれに
 
 
急に一緒になろうと 仰せられても 秋津野に すべてを辞めて退いている貊は
 住み場があまり無いのですから

 
 
かく急に ともに棲まむと 問われしが こもは住みかの 多く無けれに
 
 
 語句解説
 
 如此耳(ガブジャギ)=急に 
 恋哉(サルジャ)(サジェ)=棲もう・一緒になろう
 将度(ショド)=仰(オッシャ)られても・言われても 
 秋津野尓(アキヅノニ)=秋津野に
 多奈引(タナヒク・ダネビキン)=たなびく・すべてを辞め退いた
 雲能(クモノ・クモヌン)=雲の・貊は
 過跡(ジナルデ)=住み場・行く先
 者(ハ)=多く・あまり
 無二(オプスニ)(オプスイ)=無いので
 
 以上、李 寧熙著「もう一つの万葉集」より。
 
 
 
 巻4-694    広河女王(ひろかわのおおきみ)御歌
          (広河女王=天武天皇の皇子穂積皇子の孫娘)
 
 恋草呼 力車二 七車 積而恋良苦 吾心柄
 
 (従来の詠み下し文)
 こいぐさを ちからぐるまに ななくるま つみてこうふらく わがこころから
 
 (従来の解釈)
 恋草を 力車に 七台も 積むほどはげしく 恋するのも 自業自得だ。
 
 (真の解釈)
 さし(男性の性器)が力強いので(私に)載せよう、
 (貴方は)載せられて生きて行こうと私の心を攫(つか)んだのですか?
 
 あなたの(セックス)が力強いのでお載せしましょう。
 載せられて生きて行くための私の心を?んだのですか?
 
 
 以上、李 寧熙著「もう一つの万葉集」より。
 
 2019年01月16日書
 
 
 
 
 巻2-103    明日香清御原宮天皇代天淳中原瀛真人天皇
          諡日天武天皇
          天皇賜藤原夫人御歌一首
 
 「吾里尓 大雪落有 大原乃 古尓之郷尓 落巻者後」 (全集)
 
 従来の訓み下し文
 あすかのきよみはらのみやに あめのしたをさめたまふ 
 すめらみことのみよ あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと
 おくりなを天武天皇といふ。
 
 天皇、藤原夫人に賜ふ御歌一首
 
 「我が里に 大雪降れり 大原の 
 古(ふ)りにし里 降らまくは後(のち)」 (全集)
 
 その大意
 「わが里に 大雪が降った 大原の 
 古ぼけた里に 降るのは後だ」 (全集)
 
 
 
 真の訓み下し文
 アレリニ ヲボヲヲルギ ヲチユ ヲボヲボヲルネ
 「吾里尓 大雪     落有  大原乃   
 
 ボリニチ ゴ-ニ ヲチ マ−ルギ ハコ-
 古尓之  郷尓 落  巻     者後」
 
 申そうぞ。「親房事」いかにせむ。
 大原は
 捨て忘れし家よ。
 止め立ていかにせむ。
 
 真の大意
 「申しましょうぞ。子にあたる者とまぐわいするとは何事です。
 だが、大原(小原)は私から捨てた原(腹)。
 如何に止め立てできましょう。」
 
 天武天皇がうろたえている歌なり。
 
 つまり、大海人皇子16歳の時の長子文武が
 父の女である藤原夫人「五百重娘」(いほへのいらつめ)と
 密通、新田部皇子をもうけた為。
 
 源氏物語では光源氏と葵上との間にもうけた
 息子「夕霧」=(新田部皇子)のこと。
 
 巻2-103天武天皇御歌と巻2-104藤原夫人作は、
 新田部皇子誕生にまつわる椿事を詠み込んでいる。
 
 従来訓み下されてきたような、雪が降ったとか
 降らなかったとかいう、ジョ−クのやりとりなどでは
 決してない。
 妻のよろめきをめぐる痛烈な「始末の歌」と言うべきで
 あろう。
 以上 李 寧熙女史解説
 2020年12月26日書
 
 
 
 巻2-104 藤原夫人奉和歌一首 天武11年(682年)5月頃の御歌。
 
 「吾岡之 於可美尓言而 令落 雪之摧之 彼所尓塵家武」
 
 従来の訓み下し文
 「我が岡の ?(おかみ)に言ひて 降らしめし 
 雪の摧(くだ)けし そこに散りけむ」(全集)
 
 従来の大意
 「わが岡の竜神に頼んで 降らせた雪のそのかけらが
 そこに散ったのでしょう」(全集)
 
 「私の住む岡の水の神に言いつけて降らせた雪のかけらが
 そちらに降ったのでしょう。
 (だのに先に降ったなどおっしゃって得意になっていらして。
 まあおかしい。)」(大系)
 
 
 真の訓み下し文
 
  アレヲカジ ヲガミニイプイ リョヲン ヲチ ヲルギジグダケジ ピ トニ テイガム
 「吾岡之 於可美尓言而 令   落 雪 之 摧  之 彼所尓 塵家武」
                                         (チ)
 子、如何にせむ。お上(かみ)に言はむ。
 命令、如何に交合ぞ。
 貞節砕(くだ)きぞ。
 ひと(不比等)に始末させむか。
 
 真の大意
 「子供はどうしよう。お上に言おう。
 それは命令だった。浮気などではない。
 貞節が砕かれたのだ。
 子供は不比等の子にさせようか。」
 
 実在人物「五百重娘」(いほへのいらつめ)(モデル)
 =左大臣(藤原鎌足)の娘。
  老天皇天武の若き夫人(ぶにん)
  天武の息子である文武に犯され子
  (新田部皇子・「書紀」には天武の子とされている)を生む。
  明日香における文武の最初の女。
  後日、文武を愛するようになる。自尊心が強い。
 
 源氏物語中の人物「葵上」左大臣の娘。
  天皇桐壷帝(天武)の子光源氏元服の初夜、添い寝をする。
  源氏の最初の妻。源氏の子(夕霧)を生む。自尊心が強い。
 
 解説
 歌というより非痛な叫び、訴え。
 「出来てしまった子供はどうしよう・・・不比等との事にして置こうか」
 などと、苦し紛れな提案まで試みている。
 
 藤原不比等は五百重娘の異母兄。
 鎌足とその正室鏡王女の息子とされているが、
 実は天武と鏡王女との間に生まれた子である。
 従って文武と不比等は異母兄弟となる。
 
 兄の文武(天武16歳の時の長子)の不始末を
 弟不比等に負わせようとした事になろうか。
 しかし、息子の新田部は天武の皇子に編入された。
 五百重娘があくまで天武の夫人である以上、
 天武は苦虫を噛みつぶす思いで呑まざる得なかったであろう。
 
 この事件の10余年後、五百重娘は、不比等の息子
 「藤原麻呂」(695年〜737年)を生んでいる。
 彼女はその後、兄の不比等に嫁いだ事になる。
 
 この事実は五百重娘はこの時、もう一人の文武の子を生み
 兄不比等の子として入籍させたのではないだろうか。
 「万葉集」巻第2-104の歌の終句がこれを暗示する。
 
 695年(持統9年)の時点で、天武は既に亡き人。
 かといって文武の実の子にすることもままならない。
 結局、不比等にすがるしかなかったという事になろう。
 
 「源氏物語」の場合、葵上は、結婚10年後に
 源氏の子夕霧を生んでいる。
 夕霧のモデルは文武と五百重娘との出逢い1年目に
 誕生した新田部皇子である。
 
 それを敢えて「10年後」に生まれたと設定しているのは
 もう一人の息子が10余年後に生まれた事を示すものでは
 ないだろうか。
 「源氏物語」は、言うなれば「書紀」謎解きの魅力溢れる
 案内書、貴重この上ない「準史料」でもある。
 
 
 語句解説
 「吾岡之」(アレヲカジ)=子、如何にせむ。
 「吾」(アレ)=ア=子、レを付けるのは高句麗式。
 「岡」(ヲカ)=如何に。高句麗言葉。
 「之」(ジ)=・・・しよう。
 岡之(ヲカジ)を現代語で言えば「ヲトヲカジ」となる。
 
 「於可美尓言而」(ヲガミニイプイ)=お上(かみ)に言はむ。
 「於」(ヲ)=御(ヲ)。
 「可美」(ガミ)=天皇(かみ)。
 「於可美」(ヲガミ)=御上(おかみ)。
 「尓」(ニ)=・・・に。
 「言而」(イプイ)=言う・話す。
 
 「令落雪之」(リョヲンヲチヲルギジ)=命令、如何に交合ぞ。
 「令」(リヨヲン)=いいつけ・命令。
 「落」(ヲチ)=どうして・何で・如何に。
 「令落」(リヨヲン)=命令がどうして・・・。
 「雪」(ヲルギ)=絡まること・一つになること。(性交)
 「命令をどうして浮気のセックスと言えようか」なる
 弁解がましい状況説明と言える。
 
 「摧之」(グダケジ)=貞節くだきぞ。
 「摧」(グダ)=くだく・くだける・くじく
          「叩き折って形を壊す」
          「折れて崩れ落ちる」を表す。
 「之」(ジ)=・・・だぞ。
 「摧之」(グダケジ)=固いもの(固い貞節)壊しぞ
              貞節壊しだ、
              浮気で、セックスしたのではない。
              貞節が踏みにじられたのだ。と
              強く主張しているわけである。
 
 「彼所尓塵家武}(ピトニテイ(チ)ガム)=「ひと(不比等)」に始末させむか。
 「彼」(ピ)=ひ。
 「所」(トヲ)=所・場所。
 「彼所」(ピトヲ)=ひと。不比等は平素このように呼ばれていた事が
            五百重娘の歌から分かってくる。
            彼女は「彼所」という漢字で「不比等」をあらわすと同時に
            「彼の所」という意味まで歌に含めている。
            巧みな表記法である。
 
            「彼の所」とは、不比等の戸籍を指す。
            「不比等の子にしようか」と言っているのである。
 「尓」(ニ)=・・・に。 
 「塵」(テイ)=塵・ごみ・小さい瑕。「子供の問題はごく些細な瑕とでも」
         言いたかったのか?何故「塵」という文字遣いをしたのか気にかかる。
         非常に自尊心の強い女性であったと思われる。
 「家武」(ガム)=・・・しようか。(高句麗百済系)
 「塵家武」(テイガム)・(チガム)=高句麗言葉で「片付けようか」
         積もり溜まった不潔なものを取り除く、掃除する、片付けるの義がある。
 「彼所尓塵家武」(ピトニテイ(チ)ガム)=不比等の所に片付けようか、という
           疑問形の終句である事が明らかになる。
 
 最後に用いてる文字「武」(ム)で「事件」の主人公が、
 「文武」である事まで示している歌の詠み方は、
 繊細かつ堂々としていて、さすが左大臣藤原鎌足家の
 お姫様と溜息が出る。
 
 以上 李 寧熙女史解説
 
 2021年1月5日書  以上
 
 
 
 
 
 
 
 巻2-116  但馬皇子御歌
 
 ビトジオ バンミ  オチ イタミ イミ セニ イミガネ アチャネ ガネ
 人事乎 繁 美 許知痛美 己世尓未 渡 朝 川 渡
 
 (従来詠み下し文)
 人言(ひとごと)を繁み言痛み、己(おの)が世に
 いまだ渡らぬ朝川渡る。
 
 (従来の大意)
 人の噂が多くうるさいので、生まれてはじめて
 夜明けの川を渡ることよ。(中西 進先生解釈)
 
 (真の意味)
 日の出よ、夜はいかに継ぐるよ もはや夜明け
 君行くよ、奪われて行くよ。
 
 (真の大意)
 日の出よ、夜はどうすれば継げるものでしょう。
 もう夜明けです。君は行かれてしまうのです。
 日の出が君を奪って行くのです。
 
 (用語解説)
 人事乎(ビトジオ)=日の出よ
 繁美(バンミ)=夜は・夜が
 許知(オチ)=いかに・どうすれば
 痛美(イタミ)=継ぐるよ
 己(イミ)=すでに
 世尓(セイ--新羅系)=夜が明けるので
 世尓(セニ--百済系)=夜が明けるので
 未渡(イミガネ)=君が、行くよ
 朝川(アチャネ)=奪って・奪い取って
 
 *日の出よ(日が昇ります)夜はどう継げるものでしょう
  もう夜明け、君は行かれます、奪われて行かれます。
 
 以上、李 寧熙女史解説
 2019年11月1日書
 
 
 
 
 巻2-111 弓削皇子作
 
 ゴジゴブレドリカモエエミシウニムネミイヌンサンジャチャナギイガネノログ
 古尓恋流鳥鴨 弓絃葉乃 三井能上従   鳴 渡 遊久
 
 従来の訓み下し文
 
 古(いにしへ)に恋ふる鳥かも ゆずるはの
 御井(みゐ)の上より 鳴き渡り行く。
 
 従来の大意
 
 古(いにしえ)を慕う鳥だろうか ゆずり葉の
 御井の上から 鳴いて飛んでゆく。(全集)
 
 真の解釈
 
 「串」入れに(男女の行為)廻(めぐ)り行く。
 行列続く「水」(&「三代」)つなぐ上様に
 ロバは遊びながら付いて行く。
 
 用語の解説
 
 古尓(ゴジ)=串。(男性のシンボル)
 恋流(ゴブレ)=入れようと。
 鳥(ドリ)=廻(めぐ)る。
 鴨(ガモ)=行く。
 弓(エエミ)=行列が。
 絃葉乃(シウニムネ)=たて続けに連なる。
 三井能(ミイヌン)=水つなぐ・三代つなぐ。
 上従(サンジョチャ)=上様について。
 鳴(ナギイ)=ロバ。
 渡(ガネ)=行く
 遊久(ノログ)=遊びながら。&のろのろと。
 
 注 「三代つなぐ」・・・ここでの意味は天武・持統&大津、文武の事。
 
 高市皇子の死後、文武を天皇位に就けようとした
 持統に正面切って反対したのが弓削皇子だった。
 この時、反対意見を押さえたのが額田王の孫、葛野王
 「天智の皇子、大友皇子と十市皇女(天武と額田王の子)の子」
 であった。
 李 寧熙女史解説
 2019年6月1日書
 
 
 
 巻2-112 額田王、弓削皇子に答える歌(天武を偲んだ歌)
 
       吉野より蘿(こけ)生(む)せる松の柯(えだ)を
       折り取りて遣はす時、額田王の奉り入るる歌一首
 
 ゴジゴブラダゲドリジャガグゴセ インジュウルジ アガゴプレゴドウ
 古尓戀良武 鳥者 霍公鳥 盖哉 鳴之 吾恋流 碁騰
 
 古(いにしえ)に戀ふらむ鳥は霍公鳥(ほととぎす)
 けだしや鳴きしわが念(も)へる如(ごと)
 
 (従来訳)
 その鳥はほととぎすで、私が昔を恋しく思っているように
 昔を偲んで鳴いているのでしょう。
 
 (真の意味)(表読み)
 「串」入れにダゲ(宮滝)詣りする。反逆よ、
 今こそ泣くやアガ(子供)との恋で。
 
 (真の意味)(裏読み)
 「串」入れにダゲ(武)詣でする。逆入れよ、
 今こそ泣くや我が恋の如く。
 
 (解説その1)
 恋をしに宮滝に行くんですって、まったく反逆ものですよ。
 今こそ彼女もつらくて泣くことでしょう。
 まるで子供を恋しているようなもんですからね。
 
 (解説その2)
 恋の行為をしに「武」(天武のこと)に逢いに行くんですって
 逆入れするのでしょう。
 今こそ彼女の肉体も泣くのでしょうね、私の恋の時のように。
 
 用語の解説
 
 古尓(ゴジ)=串。(男性のシンボル)
 恋良(ゴブラ)=入れようと。・入れた。
 武(ダゲ)=宮滝。&武。(人物、この場合は天武)
 鳥者(ドリシャ)=廻(めぐ)りは。&廻りなんて。
 霍公鳥(ガク・コ・゙セ)=逆である、反逆である。
     (ガクゴジョツ)=逆入れ、逆体位の事。
 盖哉(イン・ジェ)=今こそ。(新羅言葉、慶尚道方言)
 鳴之(ウル・ジ)=泣く、泣くのか。
 吾(アガ)=子・子供。
  (ナ)=我。
 恋流(ゴブレ)=入れる事。(男女の性行為)
          恋する事。
 碁騰(グドウ)=・・・のようだ。・・・と同じだ。(新羅言葉)
 
 李 寧熙女史解説
 2017年10月16日書
 
 
 
 巻3-242 弓削皇子、吉野に遊しし時の御歌
 
 瀧上之 三船乃山尓居雲乃 常將有等 和我不念久尓
 
 瀧の上の三船の山に居る雲の常にあらむと、わが思はなくに。
 
 (意味)
 瀧の上の三船の上にある雲のように、はかない自分の身は
 いつまでもこの世にあるとは思っていない。
 (雲とか煙は死の意味あり、死も覚悟していた)
 李 寧熙女史解説
 
 
 
 巻2-111 吉野幽閉の弓削皇子が額田王に贈った御歌(天武天皇を偲んだ御歌)
 
 古尓戀流鳥鴨 弓絃葉乃 三井能上従 鳴済遊久
 
 古に戀ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡り行く
 
 (意味)
 昔を恋している鳥だろうか、ゆずるはの木のそばにある井戸の上を鳴いて渡る鳥は。
 
 (真の意味)
 また逢いに行くのか長い列を作ってさ、飛鳥から吉野川まで連なる列に、
 ロバどもが遊び遊びついていく。
 李 寧熙女史解説
 2017年10月15日書
 
 
 
 巻2-130 弓削皇子の兄への長皇子の御歌
 
 丹生乃河 瀬者不渡而 由久遊久登 戀痛吾弟 乞通來祢
 
 丹生の河瀬は渡らずてゆくゆくと戀痛きわが背いで通ひ來ぬ。
 
 (意味)
 危険な恋に溺れないで恋に悩む弟よ、さあわが家に来なさい。
 慰めてあげるから。(幽閉された)
 以上、李 寧熙女史解説
 2017年10月13日書
 
 
 
 巻2-107 大津皇子の石川郎女に贈れる御歌
 
 アシ ビケ ゙ネ サン ガサ チュゲニ メ マジュデ ヲ ダンチトテ サンガサチュゲニ
 足日木乃 山之四  付 二 妹待  跡吾 立所沾 山之四附 二
 
 (従来の読み下し文)
 あしびきの山の雫に妹(いも)待つと、われたちぬれぬ山の雫に
 
 (従来の解釈)
 あしひきの山の雫に、妹待つとて 私は立つづけて濡れたことだ
 山の雫に。(中西 進先生解釈)
 
 (真の意味)表詠み
 長枕、生ばさみ、行かせんとす ほと(女陰)をあわせよ
 ほてりまら(メニス)吹き出る 生ばさみ行かせんとす。
 
 (真の大意)表詠み
 長枕を腰にあてると、まら(ペニス)は締め付けられて
 すぐ行こうとします。ほと(女陰)をしっかりあわせて下さい
 ほてりまら(ペニス)が吹き出そうとします。
 まら(ペニス)が行こうとするのです。
 
 アシビケ ゙ネ メ ガシ チュゲニ メマジュデ ヲシュ ト テ メ ガシ  チュゲニ
 足日木乃 山之四 付二 妹待 跡 吾立所沾 山之四 附 二
 
 (真の意味)裏詠み
 姫枕、山辺(皇女)殺さんとす。女に差し向かい早々に事おこせ
 山辺(皇女)殺さんとす。
 
 (真の意味)裏詠み
 持統天皇らが山辺皇女を殺そうとしているので、持統天皇らに対抗し、
 早急にク-デタ−を起こして欲しい、山辺皇女を殺そうとしているのです。
 と頼んでいる。
 表向きはあからさまな性愛歌、裏向きは緊急ク−デタ−を予告する歌。
 
 *石川郎女のバックである大伴安麻呂が、大津皇子ばなれする事によって
 大津皇子は失脚し、死においやられた。
 
 以上、李 寧熙女史解説
 2019年5月19日書
 
 
 
 巻2-108 石川郎女作(大津皇子に贈った歌)
 
 ナ オ マ ジュデクンガセ  バガム ア シ ゲヌン サンガシチュゲニ ニルマシ ムルオ
 吾乎 待 跡 君之沾 計 武 足日木能 山之四 附 二 成益 物乎
 
 (従来の読み下し文)
 あおまつと、きみがぬれけむ あしひきの山の雫にならましお。
 
 (従来の解釈)
 私を待つとて、あなたがお濡れになったという山の雫に
 私はなりたいものです。(中西 進先生解釈)
 
 (真の意味)表詠み
 来たれ あてあわせ大鋏をいれよ、
 長枕は生鋏行かせんとす、相立ちはさまむ
 
 (真の大意)表詠み
 おいでなさい、私にあわせて大きいそのはさみを、お入れなさい。
 長枕はいきり立っている、生ばさみを行かせようとするようですね
 立ち上がり相対してはさみましょうか。
 
 
 ナ オ マ ジュデクンガセ  バガム ア シ ゲヌン メガシチュゲニ  ニルマシ  ムルオ
 吾乎 待 跡 君之沾 計 武 足日木能 山之四 附二 成益   物乎
 
 (真の意味)裏詠み
 出(いで)よ、女(め)(持統)に向かい大改新打ち込まれよ。
 姫枕は山辺(皇女)殺さんとす。相立ちて戦われよ。
 
 (真の大意)裏詠み
 出てらっしゃいよ、持統天皇らに立ち向かい大改新の旗を
 おあげなさい。
 彼女らは山辺皇女を亡き者にしようとしています。
 立ち上がり相対してお戦いなさいませ。

 立ち上がり相対して戦いなさいと、大津皇子の歌に答える形で
 激励のメッセ−ジを贈っている。
 以上、李 寧熙女史解説
 2019年5月19日書
 
 
 
 巻2-109 大津皇子が弓削皇子に贈った御歌
        
 大船之 津守之占尓 将告登波 益為尓知而、 我二人宿之
 
        津守連通(つもりのむらじとおる)が何らかの情報を
        洩らした事を怒っている歌で弓削皇子に贈ったものか。
 (従来の詠み下し文)
 大船の津守が占(うら)に告(の)らむとは、
 まさしく知りて我が二人寝し。
 
 (従来の解釈)
 津守連の占いで、明らかになるであろうとは
 もとより承知したうえで、我々二人は寝たのだよ。
 
 (真の解釈)
 「駄目になったようだ(または「親殺し」)、「津守」が洩らしたので、
 残りも続けて刺したい*****」と言っている歌。
 李 寧熙女史解説
 2019年5月19日書
 
 
 
 額田王の最後の歌(持統高市朝時代、弓削皇子に最後の歌を贈った。)
            弓削皇子は天武天皇の子で後の文武天皇(軽皇子)の妃の
            異母妹の紀皇女とは相愛の仲だった。
 
 高市皇子が没して誰を即位させるかの会議で天武妃の
 ウノ野皇女は文武を支持、弓削皇子は文武即位に反対したが、
 近江朝の大友皇子の息子の葛野王が文武天皇の
 即位を決定した。(懐風藻)
 
 
 
 巻2-113 従吉野折取蘿生末柯遣時額田王奉入歌一首
 
 
                        グンガオゴドウオジデガボジバグ
 サムジルヤネ ゴシルガジジャパサジルカモ  グムガミゴドオ ジデガヨクバグ
 三吉野乃 玉松之枝者 波思吉香聞 君之御言乎 持而加欲波久
 
 (従来の詠み下し)
 みよしのの たままつがえは はしきかも 
 きみがみことを もちてかよはく。
 
 (従来の解釈)
 み吉野の松の枝は、いとおしいあなたのお言葉を
 運んで来るとは。
 
 (真の解釈)
 大意@
 「水の吉野」の貴方との争いには負けましょう
 反対の意地など粉々になるかも知れません。
 それにしても、彼女に頼ったせいで苦労なされ
 事態にひびを入れるような事は、くれぐれもお控え下さい。
 ※相手は軽皇子後の文武天皇である。
  吉野には7年間に31回訪れている。
 
 大意A
 「水の吉野」の貴方の戦いは長引くでしょう。
 反逆の意志など粉々になるかも知れません。
 それにしても彼女に頼ったせいで、ほとさして
 大きい鋏を振り回す(セックスする)ような事は
 くれぐれもお控え下さい。
 相手は軽皇子、後の文武天皇(持統天皇とのセックス)
 2020年3月23日書
 
 以上李 寧熙女史解説
 
 
 
 
 弓削皇子、紀皇女を思う御歌四首(その1)
 
 巻2-119 芳野河 逝瀬之早見 須臾毛 不通事無 有巨勢濃香間
 
 吉野川逝く瀬の早みしましくも淀むことなくありこせぬかも。
 
 (意味)
 吉野川の川の流れの速いように、我々の恋も淀むことのないように。
 (恋に支障がないように)
 2017年10月9日書
 
 
 
 巻2-120 弓削皇子、紀皇女を思う御歌四首(その2)
 
 吾妹兒尓戀乍不有者 秋芽之而散去流 花尓有遠尾
 
 吾妹兒に戀ひつつあらずは 秋萩の咲きて散りぬる花にあらましを。
 
 (意味)
 あなたへの恋は苦しいから恋はしないで、秋萩のように散ってしまいたい
 ---死んでしまいたい。
   2017年10月10日書
 
 
 
 巻2-121 弓削皇子、紀皇女を思う御歌四首(その3)
 
 暮去者 塩満來奈武住吉乃 淺鹿乃浦尓 玉藻苅手名
 
 夕さらば潮満來なむ住吉の淺鹿の浦に玉藻刈りてな
 
 (意味)
 日が暮れたなら潮がみちてくる住吉の浅鹿の浦で玉藻(身体の体毛)を
 刈りたい。(共寝したいという意味)
 2017年10月11日書
 
 
 
 巻2-122 弓削皇子、紀皇女を思う御歌四首(その4)
 
 大船之 泊流登麻里能 絶多日二物念痩奴 人能兒故尓
 
 (従来の詠み下し文)
 大船の泊(は)つる泊(とま)りのたゆたひに
 物思ひ痩(や)せぬ人の兒ゆゑに
 
 (従来の解釈)
 大船が港で揺れているように思いみだれて痩せてしまった。
 どうしようもない人妻のあなたを恋したために。
 
 (真の意味)
 やれやれ!とけしかけておきながら、止めろといっている、
 もどかしい(歯がゆい)奴だ。
 (李 寧熙女史解説)
 
 弓削皇子が大津皇子と組んで天武天皇排除に動いたのでは?
 弓削皇子自身の決断力の無さを自己批判している。
 2017年10月12日書
 
 
 
 
 巻2-148  倭大后(やまとのおほきさき)御歌
         天智天皇の皇后(古人大兄の娘)
        近江天皇 聖躰不予御病急かなる時
        大后の奉献る御歌一首
        天智天皇暗殺の真相歌
 
 ゴラギネ ナムギヌンウベオガ ヨブトウバ メイジャ スイシ ジョギプルサ コモ
 青旗乃 木旗能上乎 賀欲布跡羽 目尓者雖視 直尓不相 香裳
 
 (従来の読み下し文)
 青旗の木幡(こはた)の上を通うとは
 目には見れども ただに逢はぬかも
 
 (従来の解釈)A
 木幡の山の上空を行き来なさるお姿は
 目に見えますが、直接にお会いできなくなりました。
 
 (従来の解釈)B
 山科の木幡のあたりを御魂は通っておられると
 目には見えるけど、もはや直接には天皇にお逢い出来ないことである。
 
 (真の解釈)
 「青」(大海人)にやられた!遺言なされる天皇を見つけ、
 駕籠を留め、お乗せしましたが、すぐ息をお引き取りになりました。
 誠にお可哀相でした。
 
 解説
 この事件は天智10年(672年)8〜9月頃?に起こされたのでは?
 天智天皇(百済のギョウギ王子)は舒明天皇(百済の武王)の息子である。
 これより前の大化元年(645年)古人大兄皇子は天智天皇により殺害されている。
 倭大后は父を殺した叔父である人(天智天皇)を
 夫としていた悲劇の女性。
 
 天智天皇は百済からの渡来一世。
 倭大后は百済からの渡来三世。
 (李 寧熙女史解説)
 2019年12月12日書
 
 
 
 
 巻2-151 額田王歌 天智天皇の「モガリ」の歌
              天智天皇は大津皇子と高市皇子らに
               よって殺害された。その時の嘆きの歌なり。
               天武元年(672年)8月作
 
 ガチュイシド アレガシアセバオボミベパクジドウマルリニ チメ メ  マシオ
 如是有刀 予知勢婆 大御船 泊之登万里人 標 結 麻思乎
 
 (従来の詠み下し)
 かからむと、かねて知りせば おほみふね 
 はてしとまりに しめゆはましを。
 
 (従来の解釈)
 こうなろうと 前から知っていたら、大君の舟が
 泊った港に標縄を張れば良かったのに。
 
 (真の意味)
 だしぬけです、やり直せるものならやり直したい。
 そうすれば、父親(天智天皇)殺しも止められましょうから、
 しめをめぐらさないで下さい。(葬儀をしないで下さい)
 
 (大意)
 やり直せば大津皇子らによる天智天皇殺しを止められる。
 すると、当然天智天皇は死なずにすみ、「葬儀」も
 しないで****という意味です。
 
 (語句説明)
 如是有刀(ガチュイシド)=だしぬけです。
 予知勢婆(アレガシアセバ)=やり直したい。
 大御船(オボミベ)=父親殺し。
 泊之登(パクジドウ)=刺しも。
 万里人(マルリニ)=止められるから。
 標(チメ)=しめ。
 結(メ)=結い。
 麻思乎(マシオ)=なさるな。
 (李 寧熙女史解説)
 2019年5月19日書
 
 
 
 巻2-152 舎人吉年(とねりのよしとし)の歌
        天武天皇殺害の現場にいた者の証言の歌か?
 
 エエシムシジンアゴデボワンネ オポミベ マジエガマジャゴバシガネ カラサキ
 八隅知之 吾期大王乃 大御船 待可  将恋   四賀乃辛埼
 
 (従来)
 やすみしし わが大君の大御舟 待ちか恋ふらむ志賀の唐崎
 
 (従来大意)
 (やすみしし)わが大君のお舟を 待ち焦がれていよう
 志賀の唐崎は(全集)
 
 (真の解釈)
 八島(日本)は知っていますよ、若き大君らが親御様(天武天皇)を斬り
 お迎えの者も続けて刺し、早々に行かれたのを、
 唐の手先であるのを。(早々に行く、唐小僧)
 
 (語句説明)
 八隅知之(エエシムシジン・アルジ)=八島鎮めた・八島知る。
 吾期(アゴ)=子供・若者。
 大王乃(デワンネ)=大君たち。
 大御船(オボミベ)=父親斬り。
 待可(マジュガ)=迎えに行く。お迎えの者。
 将(マジャ)=続けて・残りも併せて。
 恋(ゴバ)=刺し。
 四賀乃(シガネ)=早々に行く、たやすく行く。
 辛埼(カラサキ)=唐の手先。唐小僧。
 
 (解説)
 この歌は「親殺し」目撃レポ−トである。
  ウチデシエエ モンモ
 「于智弖之夜莽務」=大石に向かい攻撃せよ。
 「ウチ」つまり「大石」とは八十梟師(神武天皇)が
 立て籠った国見丘を指す名称。
 
 背景説明
 
 書紀天武11年8月11日、壬申の日の記述。
 物有りて形、灌頂幡の如くして、火の色あり。
 空に浮かびて北に流る。
 国毎に皆見ゆ、或いは曰く、越海に入りぬ。
 
 つまり、天武11年(682年)8月3日天武天皇が
 反乱軍蜂起の報に接し、同夜8時頃、飛鳥から
 美濃経由日本海側から旧高句麗方面に
 逃れようとしたが、敦賀付近で反乱軍に捕まり
 9月10日に斬首、殺害された。
 (高松塚古墳の被葬者は天武で首が斬られていた)
 
 1. 天武11年(682年)8月3日---午後8時頃、大星(太白星・金星)が
   東から西の空に渡る---天武に対する謀逆が起こった事を暗示。
   同日、天武天皇明日香宮を急遽脱出。
 2. 同年8月5日---造法令殿(浄御原律令編纂)の内に大きな虹が現れた。
   虹もまた反乱を示す。律令の編纂関係者が反乱のリ−ダ−だったのか?
 3. 8月11日---幡のような形の火の色(戦争を形容)が
   空に浮かんで北に流れて行った。全国でこれを見る事ができた。
   (反乱が全国的規模であった事を意味する)
   「越海(北陸の海)に入った」という者もいた。
   此の日、白気が東の山に起こった。
 4. 8月11日---天武天皇が角鹿(敦賀)に入った。
   白気(国喪の徴候)が東の山に見えたという。
 5. 8月12日---大きい地震あり。
   (戦いを示す。)
 6. 8月17日---地震あり。この日、虹が立ち
   天の中央の太陽に向かい合って現れた。
   (反乱軍が君主と対峙する事を意味する)
   天武の官軍と反乱軍の交戦があったのであろう。
 7. 9月10日---数百の鶴が浄御原宮に向かって空高く飛び
   しばらくしてから、皆散って行ったという。(書紀抜粋)
   この日(9月10日)に天武天皇崩御したものと思われる。
   官軍と反乱軍との戦闘は8月12日より9月10日までの
   約25日間にもわたって続けられた激戦であった。
 8. 683年正月2日---大津皇子を主体とする草壁・高市の皇子
   の連合政権誕生、筑紫から三足の雀が到着、親王や群卿らが
   観覧する中、大極殿前で宴が催された。
 9. 同年2月1日---大津皇子初めて朝政をしきる。
 10. 7月4日---亡き天武天皇の名代として持統天皇が鏡王女を見舞う。
    翌日、鏡王女薨かる。書紀
 11. 684年(天武13年)11月21日、軽皇子(文武法敏)除外の動きあり。
    同月末にはこの動きは収まり、逆に四足の鶏の時代に変わった。書紀
 12. 685年正月、三足の雀(草壁・大津・高市皇子)や
    川嶋・忍壁皇子らにも授位あり。書紀
 13. 686年(朱鳥元年)9月9日天武天皇崩御を対外的に発表。書紀
 14. 同年9月11日〜30日、天武天皇葬儀。
 15. 同年10月2日、大津皇子謀反の罪で逮捕。
 16. 同年10月3日、大津皇子処刑さる(享年24歳)、
    妃の山辺皇女も後追い自殺
 17. 同年11月16日、伊勢神宮の斎宮、
    大來皇女(大津皇子の同母姉)解任さる。
 18. 689年(持統3年)正月末、草壁が持統の吉野通い
    (文武法敏との逢引きを強烈に非難した。)
 18. 同年4月13日、草壁皇子、文武法敏一味に毒殺さる。巻2-167
 19. 同年7月5日、持統、高市皇子を太政大臣とする。
    書紀、巻1-75参照・長屋王
 20. 同年7月14日、草壁皇子の葬儀行われる。書紀
 21. 696年(持統10年)7月10日、高市太政大臣、
    東国巡行中病を得て薨かる。書紀、巻2-199
 22. 697年(文武天皇元年)8月1日、新羅大王文武・法敏こと
    文武天皇(天武の長男)倭国亡命15年を経て天皇に即位した。
    「白玉」つまり「新羅王」の時代がスタ−トした。
    (李 寧熙女史解説)
    2019年5月21日書改
 
 
 
 巻2-156 高市皇子作(十市皇女を悼む御歌)
               (高市皇子=中大兄皇子と済州島高氏との間の皇子)
 
 三諸之 神之神 須疑 巳具耳 矣自 得見監乍 共 不寝夜叙多
 
 ミモロジ ガムシガム スギ ペアムグニ
 三諸之 神之神 須疑 巳具耳
 
 ウイジャドクミガムサ ギョオン アニシムヨ ソダ
 矣自 得見監乍 共   不寝夜 叙多
 
 (従来の読み下し文)
 三諸の 神の神杉 夢のみに 見えつつ共に 
 寝(い)ねぬ夜ぞ多き。
 
 (従来の解釈)A
 三諸(みもろ)の神「三輪山」の神杉のように
 遠くの夢のなかでしか会えなくなった
 そんな夜が続いています。
 
 (従来解釈)B
 三輪山の神々しい神杉のようなあなた。
 夢ばかりに見えながら共寝せぬ夜の長かったことよ。
 (中西 進先生解釈)
 
 (従来解釈)
 三輪山の神杉を見るように、せめて夢にだけでも
 十市皇女を見ようとするけれども
 皇女を失った悲しみに眠れない夜が多いことである。
 
 (真の解釈)
 天武天皇の許にあって亡くなった十市皇女をせめて
 夢に見たいものだが、眠れない夜が多いので、
 夢で逢う事すらできない。
 
 (真の意味)
 天武よ、滅びよ、十市皇女は逝ってしまわれたのか。
 あの世でお目にかかりたいと祈っています。
 あなたが毒を呑まされて殺されたので、とうとう
 戦いになってしまいました。
 
 (解説)
 十市皇女の毒殺計画は、壬申の乱で高市皇子を出し抜いた
 天武天皇に対する高市陣営の宣戦布告だった。
 高市皇子と十市皇女は恋仲だったと見られる。
 十市皇女を見殺しにした高市皇子の痛哭と味方への檄。
 済州島方言で詠まれた難訓歌。
 (李 寧熙女史解説)
 2019年5月19日書
 
 
 
 巻2-157 高市皇子の御歌(十市皇女を悼む御歌)
                  (高市皇子=中大兄皇子と済州島高氏との間の皇子)
 
 神山之 山辺眞麻木綿 短木綿 如此耳故尓 長等思伎
 
 (従来読み下し文)
 三輪山の山辺 眞麻木綿(まそゆふ) 短木綿(みじかゆふ)
 かくのみ故(ゆえ)に長しと思ひき。
 
 (従来解釈)
 三輪山の山辺にまつる麻幣(しで)、その短い幣のようだった逢瀬。
 そうだったばかりに末永くと思ったことだ。
 (中西 進先生解釈)
 
 (真の解釈)
 三輪山の山辺(つまり天武天皇のそば)にある木綿は短かい。
 その短かい木綿のように十市皇女の命は短かったが、
 私は長いとばかり思っていた。
 
 (解説)
 木綿は「木」で木徳の天武天皇をかけている。
 つまり、天武朝は短かい(短命)だと、天武朝を呪った歌である。
 
 
 
 巻2-158 高市皇子作(十市皇女を悼む御歌)
                (高市皇子=中大兄皇子と済州島高氏との間の皇子)
 
 山振之 立儀足 山清水 酌尓雖行道之白鳴
 
 (従来読み下し文)
 山振(やまぶり)の立ち儀(よそ)ひたる山清水
 酌みに行かめど道知らなく。
 
 (従来解釈)A
 山吹の花が咲きにおう 山の清水を汲むために
 行きたいとは思うけど 道がどこだかわからない。
 
 (従来解釈)B
 山吹の花が美しく飾っている山の泉を酌みに行って
 蘇えらせたいと思うのだが、道を知らぬことよ。
 (中西 進先生解釈)
 
 (真の解釈)
 山吹(黄色で黄泉、あの世を表す)の花が
 立ちふさがっている山の清水に水を汲みに行こうと思うが
 あの世のことなので、道がわからない。
 
 (解説)
 あの世の山の清水にいる十市皇女は、死んだ今でも
 私、高市皇子のものです、と云いたかったもの。
 (李 寧熙女史解説)
 2019年10月1日書
 
 
 
 巻2-160 持統天皇御歌
 
 燃火物 取而果而 福路庭 入澄(または燈)不言八面 智男雲
 
 ヨムプルマン ドウリサ イ プダジルニバ
 燃火物  取而果而 福 路 庭   
 
 ドウリジ      プルゴドエエモ チサナクモ
 入澄(または燈)不言八面  智男雲
 
 (従来の詠み下し文)
 燃ゆる火も取りて果(つつ)みて袋には
 入ると言はずや面(おも)知らなくも(大系)
 
 (従来の解釈)
 燃える火でさえも、取って包んで袋に入れるというではないか。
 それだのに、今、私はお亡くなりになった天皇を何ともする事が
 出来ない事だ。
 
 (真の解釈@)
 お経ばかり「唱(とな)えて」いたので、戦いを家の中に
 引き入れたのです。
 「仏様」を集めて行かせましょう。「神様」が荒々しいようです。
 
 太鼓ごと(戦争)を庭(家の中)に引き入れたのだ。
 仏(戦火)集め去れ(収め行け)神(王・高市皇子の事)が荒々しい。
 高市皇子は実際は天智天皇の子。
 
 (真の解釈A)
 
 お経ばかり「めぐらして」いたので、戦いを家の中に引き入れたのです。
 戦火を収めて去らせましょう。「王君」(高市皇子?)が荒々しいようです。
 
 神様を大事にしないで、仏様ばかり崇めていたので、
 祟りにあったのです。つまり軍事を怠ったので、と、
 息子の管理もできなかったと、夫(天武)に対する批判のようにもとれます。

 解説
 
 このような事(天武殺害事件)になったが、時代は変わった。
 争ってはならぬ、「チ」(神・王・高市皇子)について行け。
 と持統が側近に言った
 天武殺害後、高市皇子が「王権」を掌握したのであろう。
 
 *高市皇子=中大兄の皇子(後の天智天皇)と済州島「高氏」との間の皇子。
 天武と組み、父天智が長子の自分(高市)を無視、大友皇子に譲位の意向を示した為)
 それに憤慨し壬申の乱をお越し勝利した。

 壬申の乱成功後には天武の皇子、大津皇子は(許嫁の山辺皇女を父天武が
 後宮にしようとしたので、大津は逆心を抱き父親殺しを決断した。
 そして天武打倒に動いた。
 高市皇子は大津皇子の「親殺し」をリモ−トコントロ−ルした陰の人物なり。
 また、草壁と高市は天武の長男、文武こと法敏に敵対心を持っていた。
 同床異夢の反乱はこうして起こされた。
 その背後にはさらに巨大な「唐」の姿があった。
 反唐国派の筆頭は天武天皇(高句麗出身のヨン・ゲソムン)であり、
 百済国出身のギョウキ王子(中大兄皇子・天智天皇)は親唐国派なり。
 
 持統は当初、高市と組み「大津消し」に成功、
 その10年後、「高市消し」が成就。
 遂に天武の息子、軽皇子こと文武法敏を文武天皇として
 即位させた5年後崩御した。
 
 文武天皇は即位前、相当の期間、吉野に住んでいた。
 文武と持統は性的交渉を続けていた。
 高市天皇の暗殺は文武と持統によりなされた。
 文武大王(文武天皇)は金官伽耶の
 王族「金ユ信」(金首露の12代孫)の甥である。
 
 天武2年(673年)一切経を川原寺に移す。
 百済大寺を再建---大官大寺と改めた。
 天武6年(677年)---飛鳥寺で設斎(おがみ)
 天武9年(680年)---金光明経、薬師寺建立。
 
 薬師寺境内の八幡神社
 祭神---神功皇后=持統天皇?
      仲津姫=天智の娘、大田皇女
      八幡神の木像=大海人
 
 語句解説
 
 燃火物(ヨムブルマン)=念仏ばかり・お経ばかり。
 取而果而(ドウリサイ)=上げていたので・めぐらしていたので。
 福路(ブクジル)=太鼓ごと・戦争。
 庭(ニバ)=庭・家の中。
 入澄(ドウリジ)(または燈)=入れた。
 不(プル)=仏・戦火。
 言八面(ゴドエエモ)=集め去れ・収め行け。
 智(チ)=神・王。
 男雲(サナクモ)=荒々しい・荒々しいようだ。
 (李 寧熙女史解説)
 2019年5月20日書
 
 
 
 巻13-3323   作者不詳 近江勢が蹶起して敢行したク−デタ−の歌・暗殺の歌。
           高市皇子側が飛ばした「天武殺害命令」の檄文か?
 
 師名立 都久麻 左野方 息長之 遠智能 小菅 
 不連尓 伊苅持来 不敷尓
 伊苅持来而 置而 吾乎令偲 息長之 遠智能 子菅
 
 (従来の読み下し文)
 しなたつ 筑摩狭野方(つくまさのかた) 息長(おきなが)の
 遠智(をち)の小菅(こすげ) 編まなくに い刈(か)り持ち来(き)
 敷かなくに い刈り持ち来て 置きて 我(われ)を偲(しの)はす
 息長の 遠智の小菅
 
 (従来の解釈)
 (しなたつ)筑摩狭野方(つくまさのかた)や 息長(おきなが)の
 遠智(おち)の小菅を 編みもせずに 刈って持って来
 敷きもせずに 刈って持って来 捨て置いて わたしに恋慕させる
 息長の 遠智の小菅のわたしを(全集)
 
 真の意味1(表向き)
 
 鉄作りたちが打つ、鉄を溶かして。
 そちらからは刺し込みなされ・・・。
 
 新羅国(鉄作り)の者、鉄作りが打つ、鉄を溶かして--
 新羅の者は突き刺そう、左の方を---ふいごの風が出るよ
 向かい側は、そちらでは刺し込め、息長が王(叔父)を刺すので
 火がついた。
 真の意味2(裏向き)
 
 新羅の者が突き刺す、左側(天武天皇)を。
 息長(大津皇子)が王(叔父)を刺すので・・・。
 
 
 用語解説
 師名立(シナイタチ)=鉄作りたち、
            又は新羅の者。
 都久麻(チクマ)=鍛鉄しよう、
           又は突き刺そう。
 左野方(セェノゲダ・サノカタ・サカタ)=鉄を溶かして、
                    又は左の方(天武天皇)を
 息長之(イプギムナガシ・オキナガガ)=ふいごの風がでるよ、 
                     又は息長(彦座王ヒコマスオウ)が・・・。
 遠智能(アチヌン・ヲジヌン)=向かい側は、そちらは、
                又は叔父、(アチ王)。
 小菅(ゴジゲ)=刺せ、刺すので(そちらで鉄の塊をさし込め。) 
          又は息長(大津皇子)が、王(叔父・天武天皇)を刺すので。
 不連尓=火を入れる。
 
 不敷尓=火がついた。(ク-デタ-の火の手が上がった事を表している。)
 
 
 解説
 新羅勢も我が方だ、王(天武)は大津皇子が刺す事になっているから
 早々に蹶起せよ・・・と。大津皇子は息長系の遠智娘の女、大田皇女と天武天皇
 との間に生まれた皇子なので「息長のもの」である。
 (李 寧熙女史解説)
 2019年5月29日書
 
 
 
         ギムメジ ワンニムダル ヨンソル ネ ショ-ジャ ショゥセ ウ マクヨン ソル ネ
 巻3-299  奥山之 菅 葉 凌 零 雪 乃 消 者  将惜 雨莫 零 行 年
         大伴安麻呂歌
 
 (従来の読み下し文)
 奥山の菅の葉しのぎ 降る雪の消なば惜しけむ 雨な降りそね
 
 (従来解釈)
 奥山の菅の葉をおおって降る雪の見事なことよ。
 消えてしまったら惜しいだろうから 雨よ降るな。
 中西 進先生解釈
 
 (真の意味)
 野良仕事なす王君たち いとも不慣れよ(下手なことよ)
 休もう、休もう小屋も不慣れよ(下手なことよ)
 
 (真の大意)
 仕事する王君たち、なんと不慣れであられる(下手でおられる)
 もう良いから小屋でお休みなされ。
 ところでこの小屋にも、なんと不慣れであられることよ(下手でおられることよ)
 
 (語句解説)
 奥山之(ギムメジ)=田や畑の草取りをしよう
 菅葉凌(ワンニムダル)=王君たち
 菅(ワン)=王
 葉(ニム)=君、様、殿
 凌(ダル)=たち、達
 零雪乃(ヨンソルネ)=非常に未熟だ、とても下手だ、いとも不慣れだ
 消者(ジョ-ジャ)=休もう(目上の者が目下の者又は同僚に使う言葉)
 将惜(ショゥセ)=休もう(相手に一目おいて許す言葉)
 雨莫(ウマク)=小屋(仮小屋)
 零(ヨン)=非常に、とても、いとも、全然
 行年(ヨンソルネ)=不慣れだ、未熟だ
 
 *大津皇子に対する小言。
 (李 寧熙女史解説)
 2019年10月12日書
 
 
 
 
 巻4-488   額田王の歌
 
 君待登 吾恋居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹
 
 従来の意味
 
 君待つと 我(あ)が恋ひ居れば 我(わ)がやどの簾動かし 秋の風吹く
 
 あなたのおいでを待って わたしが恋い募っていると 
 
 
 真の意味
 
 あなたに抱かれて おとなしく 赤ちゃんを生もう。赤ちゃんよ おいでよ。
 足を動かし赤ちゃんを待つ。
 
 (解説)
 額田王は天智天皇の抱かれて、あきらめの眼をつぶり、
 子供を生むことだけを念じ「行為」をしているのです。
 (悲しい歌である)
 額田王は天智の後宮に入った。(召し出されたようだ)
 
 
 
 巻8-1419  鏡王女の歌  666年(天智称制5年)春、詠まれた。
 
 神奈備乃 伊波瀬乃杜之 喚子鳥 痛莫鳴 吾恋益
 
 従来の読み方
 
 神奈備の 磐瀬の杜の 呼子鳥 いたくな鳴きそ 我が恋増さる。(全集)
 
 かむなびの いはせのもりの よぶこどり いたくななきそ あがこいまさる。
 
 神名火の伊波瀬の杜の呼子鳥いたくな鳴きそわが恋まさる。(大系)
 
 神名火のいはせのもりのよぶこどりいたくななきそわがこいまさる。
 
 従来の意味
 
 神奈備の 磐瀬の森の 呼子鳥よ ひどくは鳴いてくれるな 恋しさが増すから(全集)
 
 神なびの伊波の森の呼子鳥よ。はげしく鳴かないでおくれ。私の恋心が一層つのるから。(大系)
 
 真実の読み方
 
 神奈備乃 伊波瀬乃杜 之 喚子鳥 痛 莫 鳴 吾恋  益
 ガムナビネ  イ パセ ネ モルリジ カンコドリ イッタマグメ ア ゴビマッス
 
 その訳
 干(ひ)上がり払底、言屋(いふや)に群がる。「官庫廻り」、しきりに拒み 息子殺しで対峙されり。
 
 真実の意味
 
 官費が底をつき、鎌足の社に押し掛けて来ます。倉庫の鍵持つ鎌足は、
 これを頑としてしりぞけて、遂にアゴ(息子)が殺されました。
 
 詳細説明
 
 「神奈備乃」=@干上がり払底す。A干上がり物乞いす。(日照りが続き祈る)
 「伊波瀬乃杜之」=言屋(いふや)に群がる。
 「喚子鳥」=官庫(国の倉庫)廻り。=(藤原鎌足の事)

 「痛莫鳴」=しきりに拒み。(拒んだので、ことわったので)
 「吾恋益」=息子(鎌足の養子の長男、学問僧貞慧)殺しで対峙されり。
           (中大兄は貞慧を暗殺することで鎌足と張り合った。)
           (貞慧は「百済人」(中大兄=百済・翹岐王子)に殺された。)
 
 
 
 歴史的事実
 
 580年?、百済・武王(後の倭国王兼務の舒明天皇)誕生
 600年、百済・武王(後の倭国王兼務の舒明天皇)即位
 610年、淵蓋蘇文(後の大海人)誕生
 614年、鎌足(中臣鎌子)誕生
 626年7月21日 新羅・文武王(幼名:法敏)(後の文武天皇・父:大海人)誕生。
   同年、百済翹岐王子(後の天智天皇)誕生。
 627年、額田王誕生
 636年、百済・新羅講和成立(額田王、金春秋の嫁に入質)
 641年、百済・武王没と発表?額田王入質解消。
      (倭国王兼務の舒明天皇死亡と発表?)
 642年、中大兄、耽羅(済州島)に流刑
 643年、中大兄、倭国に亡命(宝姫(後の皇極天皇)、鏡王女、間人皇女等とともに)
 645年、中大兄、ク-デ-タを起こす
   同年、ウ野讃良姫誕生(伽耶系渡来人の金庭興の子孫)
 647年、志貴皇子(天武の最年長皇子)誕生
   同年、新羅、金春秋来倭
 658年、有馬皇子の変。---反逆のかどで中大兄に殺される。
   同年、藤原不比等誕生。
 659年、斉明天皇、近江に避難。
 660年(斉明六年)7月18日 百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされ、
           義慈王ほか13、000余名が捕虜として唐に送られた。
 
 660年10月、百済将軍、鬼室福信(キジルフクシン)は日本滞在中の
         百済王子「豊璋」(ホウショウ)を新王として迎える旨、連絡あり。
 
 660年12月、斉明天皇、百済救援の為、飛鳥宮より難波宮に移動。
 
 661年1月、斉明天皇・中大兄皇子が百済援助の為、筑紫に向かう。
  同年6月、新羅の武烈王陣中で病死。
  同年7月24日、斉明天皇没、皇太子中大兄が政治を執る。
 662年、草壁皇子誕生
 
 662年(天智称制元年)1月、中大兄皇子が百済将軍、鬼室福信に
        兵器・衣料・食料を援助。
  同年5月、百済王子「豊璋」を鬼室福信のもとに送り、百済の王位につける。
 
 663年3月、日本兵27,000人百済に向かう。
 
   同年8月28日、ヨン・ゲソムン(大海人皇子)率いる百済の日本軍が
         新羅・唐軍と白村江で戦い大敗。
         豊璋、高句麗に逃亡したが、高句麗王族と共に捕縛され、
         唐の都に連行、その後、嶺南地方に流刑にされた。
         その後の消息不明。
 
 664年2月、二十六階の冠位を制定(甲子の改革令)
 
  同年5月、唐の百済鎮将劉仁願が使者を日本に送る。
      また、唐・新羅の侵攻に備え、筑紫に大宰府防衛の為、水城を造る。
 664年10月、淵蓋蘇文(大海人・伊梨柯須彌)倭国に亡命
 665年 日本最大の大野城の土塁建設が筑紫で開始する。
   同年、葛野王誕生。
   同年2月、間人大后(中大兄の妹・孝徳天皇后)没。
 
   同年9月、唐使節「劉徳高」ら来日入京。この時、鎌足の長子「貞慧」(定恵?)も帰国。
 
   同年12月23日、明日香大原第で貞慧(定恵)が「百済人」(中大兄=百済王子の翹岐)
   によって殺害される。享年23歳
   この時、不比等は7歳。
 
 667年3月、都を近江遷す。
 
  同年11月、高安城(倭)、屋島城(讃岐)、金田城(対馬)を築造。
 
 668年(天智称制七年)1月3日、中大兄皇子、天皇位に就く。
  同年10月25日、三国統一完成---文武大王凱旋。(高句麗滅亡)
 672年1月7日、天智天皇没
  同年7月、新羅・文武王(後の文武天皇)倭国の壬申の乱に
       新羅軍を送り吉野軍を加勢。
       ヨン・ゲソムン(大海人皇子)が唐が承認の近江朝を滅ぼした。
       唐が新羅に派兵、金ユ信がこれを撃破。
 
 673年7月、金ユ信79歳で死亡。
 675年、天武天皇、肉食禁止令(牛、馬、犬、猿、鶏)
  同年、新羅、文武王が四天王寺発願。
 676年、文武王(後の文武天皇)が三国を統一、統一新羅王となった。
      ヨン・ゲソムン(大海人皇子)も日本から援軍を派兵した。
 679年、四天王寺完成。
 681年7月、唐軍、統一新羅に進軍。
  同年7月21日、唐軍に追われた文武王(後の文武天皇)が父(大海人)を頼って日本に亡命(56歳時)、
          和歌山県日高地方に一時滞在、最終的に、三重県大王島から本土に上陸。
  同年、ウ野讃良皇后が自分の息子を天武の跡継ぎとして確定する為、草壁皇子を皇太子に任命。
 683年7月5日、鏡女王没。
 686年10月1日、天武天皇病没後、(682年9月殺害されていたが)日本書紀崩御公式発表。
           大津皇子が唐の援助で天皇位に即位した。
  同年10月3日、大津皇子、高市皇子とウ野讃良皇后のワナにかかり処刑される。
 
 689年5月7日、草壁皇子27歳で病没(毒殺?)
 
 690年、高市皇子が即位した。(表面上は史実が改竄され持統天皇即位と表記。)
 693年、藤原鎌足没
 696年3月13日、皇位継承会議にて、葛野王(大友皇子と十市姫の子)が父子相続を進言、
           文武(軽皇子)即位が決定。
  同年、高市皇子没(43歳)
 697年8月22日、文武天皇(=新羅の文武王)が天皇位に71歳で就く。
 698年、大和、薬師寺完成。
 703年1月13日、ウ野讃良皇太后(持統天皇)58歳で崩御。
 705年、葛野王没(37歳)(大友皇子第一皇子・母:十市皇女)
 706年12月、文武天皇、国号を倭国から日本と改めた。
 707年7月18日、文武天皇81歳で死亡。
  同年、元明天皇即位
 710年、平城遷都 
 712年、古事記献上
 715年、元正天皇即位(粟原寺完成)
 720年、日本書紀撰上
 785年、大伴家持没
 859年、音羽流れ発生
 
 
 
 時代背景他の説明
 
 
以上の如く、中大兄が百済援軍と大規模な城築城に国費を使い果たした。
 また、白村江で大敗したので、戦争賠償品を唐・新羅に献納、苦境に陥った。
 頼りになるのは、資金力のある藤原鎌足であったが、資金拠出を承諾せず、
 揚句息子「貞慧」が殺害された。この歌は翌年春の葬儀の頃に詠まれたものであろう。
 「頼みを聞いてやらなかったので、アゴ(貞慧)を死なせることになったのだ!と」
 鏡王女は、夫の鎌足を責めているのです。
 
 以上 李 寧熙 訳
 
 2018年11月12日書追記
 
 
 
 巻1-5 大海人皇子が間人皇女天皇=中皇命に贈った御歌
 
 霞立 長春日乃 晩家流 和豆肝之良受 村肝乃 心乎痛見 奴要子鳥 卜歎居者
 珠手次縣乃宜久 遠神 吾大王乃 行幸能 山越風乃 獨座 吾衣手尓 朝夕尓
 還比奴礼姿 大夫登 念有我母 草枕 客尓之有者 思遺 鶴寸乎白土 網能浦之
 海處女等之 焼塩乃 念曾所焼 吾下情
 
 霞立つ 長き春日の暮れにける わづきも知らず 村肝の心を痛み 
 奴子島(ぬえこしま)うらなけ居(を)れば
 玉欅 懸けのよろしく 遠つ神 わが大君の行幸の山越す風の  
 獨り居る わが衣手に 朝夕に
 還らひぬれば 大夫と思へるわれも 草枕 旅にしあれば 
 思ひ遣る たづきを知らに 網の浦の
 海處女らが 焼く塩の 思ひそ焼くる わが下ごころ。
 2017年9月14日書
 
 
 
 巻1-6  間人皇女天皇=中皇命が大海人皇子に贈った御歌(巻1-5の反歌)
      639年(舒明11年)12月条、伊予にて
 
 山越乃 風乎時自見 寝夜不落 家在妹乎懸而小竹櫃
 
 山越しの風を時じみ寝る夜 おちず家なる妹を懸けて偲ひつ。
 
 (意味)
 春の夕方になると、讃岐に出かけた大君を偲んでわけもわからず心が痛い、
 ぬえこ鳥が鳴いて大君が出かけた先から山を越す風が朝夕に一人いる自分の
 衣に吹き寄せると、大夫と自分自身思っているが旅にあるので、この恋しい思いを
 知らせるすべもない、ただ海女が焼く塩のように私の下ごころは思いこがれているばかりだ。
 
 間人皇女は斉明天皇と行動を共にして伊予に行った。 斉明天皇一行が九州にある頃、
 大海人皇子は半島に渡って唐国と戦っていた。
 
 間人皇女天皇は664年に即位、翌665年2月に没した(即位1年後)
 中大兄皇子は大海人皇子の力が強く、大和に戻れなくなった。
 そこで667年(天智6年)3月近江遷都を決定した。
 
 665年9月 唐国と倭国が講和成立---劉徳高使者来日、中大兄皇子と唐国講和した。
 そして、倭国王として認知された。また、大友皇子も立太子になった。
 
 そして、中大兄皇子は大海人皇子の勢力圏の大和に帰れず近江遷都を決定、667年(天智6年)3月、
 翌年、額田王は大海人皇子に「あかねさす紫野---」の歌を贈った。
 2017年9月27日書
 
 
 
 巻1-12 間人皇女天皇(中皇命)御歌
 
 吾欲之 野嶋波見世追底深伎 阿胡根能浦乃 珠會不拾 或頭云 吾欲子嶋羽見遠
 
 わが欲りし野島は見せつ底深き阿胡根の浦の珠そ拾はぬ 或は頭に云はく、わが欲りし子島は見しを。
 
 大海人皇子は中大兄皇子の即位を妨害する為に、常に女帝を立てた。---斉明天皇、
 また、「書紀」によると大海人皇子は「壬申の乱」を前に、吉野にこもる時、天智天皇の正妃で
 古人大兄皇子の娘、「倭姫王」の即位を近江朝に進言した。
 女帝を立てて実権を握るのが、皇統にない大海人皇子の政策だった。間人皇女の
 天皇即位も同じであった。
 2017年9月13日書
 
 
 
 巻1-11 中皇命(なかつすめらみこと)=間人皇女(はしひとのひめみこ)天皇御歌
 
 吾勢子波 借盧作良須 草無者 小松下乃草乎苅核
 
 (現代語読み)
 わが背子は假盧作らず 草(かや)無くは 小松が下の草刈らさね。
 2017年9月12日書
 
 
 
 巻1-10 中皇命(なかつすめらみこと)紀の温泉に往(いでま)しし時の
       御歌(658年の御歌)
 
 君之齒母 吾代毛所知哉 盤代乃 岡之草根乎 去來結手名
 
 君が代も わが代も知るや 磐代の岡の草根を いざ結びてな
 
 (直訳)
 あなた(大海人皇子)の時代も 私の統治時代も、知っているだろうか。
 おそらく知っているその岩山の草を結ぼう。
 
 (真の意味1)
 あなた(大海人皇子)が権力をふるった時代も、私(間人皇女)の天皇時代も
 この岩は知っているだろうか、この岩山に生えている草を結ぶように、
 私たちの関係も続けよう。
 
 (真の意味2)
 仲違いして歯向うから潰されるのです。やたらあちこち動き廻って変な事すると
 叩かれますよ。いつも私が言ったでしょう、一体どうやってこの問題を解決する
 つもりなの?伽耶の人は、今、何人残っていると思う。
 
 この時(658年)有間皇子が謀反の罪で紀伊に連行され殺された。
 その時、大海人皇子は即位可能な有間皇子の殺害を傍観していた。
 
 有馬皇子(孝徳の皇子。母は阿倍倉梯麻呂の娘、小足媛(おしたらひめ)が
 白浜温泉に護送された時、間人皇后が付き添って行く途中の御歌である。
 斉明4年(658年)11月9日、白浜に護送、訊問、同年11月11日海南で
 絞首刑に処せられた。享年19才。
 
 注:中皇命(なかつすめらみこと)=間人皇女(舒明の皇女)=母は斉明で天智の妹。
 孝徳天皇の皇后。難波宮から中大兄皇子に連れられ斉明と飛鳥に帰った。
 孝徳天皇没後、間人皇女を名義上の天皇とし、間人皇女没後(665年2月)も
 天智は称制し、天智7年(668年)に天智は天皇に即位した。
 女帝、間人皇女の天皇位即位の事実は歴史から抹殺されたのでは。
 
 注2:磐代=和歌山県日高郡南部町岩代
 
 2017年9月11日書
 
 
 
 唐国の高宗は劉仁願を百済と新羅の和平の立会人に命じた。
 664年(天智3年)2月に和平が成立、5月に郭務宗を使者として
 筑紫に送った。
 郭務宗の目的は中大兄皇子の妹である「間人(はしひと)皇女」の
 即位の承認であった。
 664年(天智3年)2月、間人皇女は大海人皇子の後盾により
 天皇に即位した。
 
 中大兄皇子側は、郭務宗は正式な唐国使者でない事を理由に
 筑紫から唐国に帰国させた。
 劉仁軌も劉仁願の行為を認めず高宗に抗議の上奏をした。
 この事もあり、高宗は劉仁願の行為を撤回した。
 その後、高宗は劉仁願が高句麗に内通した、として流罪に処した。
 翌665年2月、劉仁軌は新羅の文武王と劉仁願、
 扶余隆の間で不戦の盟約を締結した。
 2017年9月8日書
 
 扶余隆は百済武王の子であり、百済滅亡後、唐国に降り
 「白村江の戦い」では唐国軍側として戦った。
 劉仁軌は扶余隆を熊津(ゆうしん)(旧百済王都)都督に任命し
 新羅・百済・倭人等を連れて唐国に帰国した。
 
 劉仁軌は劉仁願と内通する大海人皇子の野望を早くから見破っており、
 間人皇女朝を否定した。
 そして、中大兄皇子を相手に倭国との和平をさぐり、帰国した。
 
 しかし、扶余隆は新羅の圧力に負け、唐国に亡命した。
 大海人皇子は間人皇女擁立を劉仁願や郭務宗と結び努力していた。
 郭務宗は「壬申の乱」の時も来日し、大海人皇子側として戦っている。
 
 書紀天智3年(664年)2月条に「天皇(間人皇女)・大皇弟(大海人皇子)に命じて」
 官位の改定(甲子の宣)を行ったとある。
 
 664年斉明天皇没している。
 中大兄皇子即位は書紀に天智7年(668年)1月条にあり。
 2017年9月9日書
 
 
 
 642年10月 高句麗将「蓋蘇文」(後の大海人皇子)が
 親唐派の高句麗王「栄留王」を弑殺した。
 そして、大海人は自派の前高句麗王の子、
 太陽王(百済王になったことがある。)の息子の「宝蔵王」を
 唐国の承認なく高句麗王に擁立した。
 次に大海人は親唐国の新羅を攻めた。
 
 そこで、唐国第2代王の「太宗」は大海人に対し、
 再度新羅を攻めたら唐国は高句麗に軍を送ると威嚇した。
 644年10月唐国が認知の倭国の山背王朝を大海人皇子と
 倭国に亡命した百済王子こと中大兄皇子等が滅ぼしたので、
 翌年「太宗」は高句麗遠征を実行。戦は膠着した。
 この年(645年)は倭国では「大化の改新」の年で蘇我蝦夷・入鹿親子が滅ぼされ、
 大海人は倭国軍を対唐国戦に投入した。 
 2017年7月20日書
 
 翌646年大海人は自ら唐国に謝罪に行ったので、一旦は高句麗と和解した。
 しかし、帰国後大海人は新羅を攻めたので、翌647年、太宗は高句麗を
 攻めたが効果がなかった。
 この時までに大海人と高句麗の太陽王は武王亡き後の百済の内紛に介入、
 太陽王は百済王になっていた。それが百済の義慈王である。
 彼は倭国に来て「日本書紀」に「孝徳天皇」として名を留めた。
 こうして新羅を除いた高句麗、百済、倭国は大海人と
 太陽王の思いのままになった。 
 2017年7月21日書
 
 648年1月 太宗は大々的に第3次高句麗征伐に乗り出した。
 よって新羅を除く高句麗と百済それに倭国は危機的状況に陥った。
 この年が山上憶良が天皇、近江の比良宮に行ったとする648年である。
 
 孝徳天皇(百済・義慈王のこと)、648年(大化4年)書紀には、
 正月天皇難波碕宮に行ったとあるのは百済より難波に
 避難したことを記しているもの。
 
 647年(大化3年)新羅、金春秋(武烈王)倭国に。
 648年(大化4年)にも新羅より朝貢あり。(書紀)---倭国と友好関係にあった。
 659年(斉明5年)金春秋は新羅王になっていた。彼は額田王の前夫の武烈王である。
 そして、659年4月に唐国に対高句麗・百済戦への援兵を要請、
 翌660年唐国は山東半島から海路朝鮮半島に出兵した。
 名将「蘇定方」が百済を一挙に滅ぼし、義慈王(孝徳天皇)他を
 捕虜にして唐国に凱旋した。
 
 唐国は高句麗と連合する百済を先に滅ぼし、高句麗を孤立させ
 668年高句麗滅亡へと布石をしいた。
 従ってこの時の額田王の歌にいう「新羅」とは唐国と連合する武烈王の新羅をさす。
 
 もと武烈王妃だった額田王は唐国の後援によって新羅が百済を
 攻めるという危機を表立って言うわけにはいかないので、
 裏読みして中大兄皇子に「百済」が唐国=新羅連合によって
 危機的状況にある事を伝えた歌である。
 
 百済が攻められれば倭国に類が及ぶ「書紀」のとおり
 659年3月斉明天皇は額田王等の忠告受けて近江の平浦に避難したのである。
 2017年7月23日書
 
 
 
 巻1-8 額田王の歌(斉明天皇が額田王に代読させた)
 
 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな。
 
 熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
 
 (表の意味)
 「(伊予の)熟田津から(百済復興に向けて)船出しようと月を待っていたが、
 潮もちょうど良くなった。さあ今漕ぎ出そう」と戦意を奮い立たせる歌である。
 
 661年(斉明7年)1月、斉明天皇、中大兄皇子、大海人皇子は揃って、
 前年滅ぼされた百済復興の為、西征の途についた。
 1月4日には伊予の石湯(道後温泉)の行宮に着いた。
 熟田津はその地にある港なり。 
 2017年7月25日書
 
 
 
 巻1-8 
 (本来の意味)李 寧熙女史訳
 
 誰のせいだろう、船に乗ろうよ皆の者なだめられて嫌々ながも行くとみえる。
 今こそ漕ぎ出そうではないか。
 
 表の意味とは異なり嫌々ながら従う人物(斉明天皇)がいる事を歌っている。
 よって、斉明天皇(作)御歌となるわけ。
 中大兄皇子が百済復興に命を懸けていた。大海人皇子も百済を滅ぼした
 唐が次に狙うのは高句麗なので百済復興に期待した。
 山背王朝を滅ぼして以来、両者の利害が一致した。
 しかし、斉明天皇は消極的であった。理由:彼女は舒明天皇の皇后だが
 その前に高向王(高向玄理)と結婚、漢皇子を生んだ。(書紀)
 
 高向王は長年唐国に滞在、倭国が唐国と対立することに反対、唐国から
 帰途にあった金春秋時代の新羅武烈王を倭国に招聘したのは
 高向玄理(高向王)であった。
 孝徳天皇時代の648年唐国の高句麗遠征による倭国危機は
 高向玄理の手腕により回避された。
 
 しかし、高句麗の蓋蘇文こと大海人皇子と中大兄皇子(百済王子翹岐)は
 654年(白雉5年)2月玄理を遣唐使として唐国に送った。
 表面上は大使だが実質は追放だった。
 この年は金春秋が新羅武烈王として即位の責任を玄理に負わせ追放したもの。
 書紀には玄理と共に入唐の遣唐使らは迎の船便がなく悲惨な目に遭い、
 帰国不可との記述あり。
 2017年7月28日書
 
 百済復興の名目で倭国が半島に出兵すれば唐国は倭国大使の玄理が
 追放者と認め、どう出るか不明の為、斉明天皇は半島への出兵に
 消極的で反対した。
 事実、「白村江の戦い」の頃、唐国で監禁され没した。
 
 この歌(巻1-8)は斉明天皇が息子の中大兄皇子に請われて
 不承知ながら従わざるを得なかった
 内情を物語っている。
 
 大海人皇子等が、斉明天皇が大和に残っていると、密かに新羅の武烈王と
 結んで唐国と和平するかもしれないと恐れたので、大和から強引に連れだした。
 斉明661年1月中頃、伊予出発、女耶大津(ななおつ)(金海市周辺)に行った。
 同年3月25日、筑前の磐瀬行宮(いわせあんぐう)に帰った。
 斉明661年4月頃、朝倉宮(朝倉橘広宮)に遷居した。
 同年6月、新羅「武烈王」が謎の死、翌7月24日に斉明天皇が朝倉宮で没した。
 
 大海人皇子が半島滞在中に斉明天皇暗殺を指示、トリカブトで実行したのでは、
 との記述が書紀斉明紀にあり。
 
 トリカブトによる死亡の為、そばに仕える女人で、それは「額田王」であろう。
 (額田王は百済を唐国と連合して攻める武烈王を恐れていたので。)
 
 斉明天皇没後、宝姫(大海人15歳の時の相手)(後の持統天皇)の
 子、法敏(父は淵蓋蘇文・後の天武天皇)(金春秋・文姫の養子とした)が
 新羅王(文武王)になったが、663年の「白村江の戦い」では、
 いやいや唐国側として戦った。
 
 この動きを唐国は知っていた。672年「壬申の乱」では、新羅の文武王は
 大海人皇子側として倭国に出兵した。さらに「壬申の乱」時の新羅の倭国救援を理由に
 唐国軍が新羅に侵攻、その頃、金ユ信将軍が没し、
 内外の圧力に耐えかね「文武王」は倭国に亡命した。
 
 662年5月、大海人皇子は自分の派の前百済王の義慈王(孝徳天皇)の
 息子、扶余豊(豊璋)を百済王に任命した。
 この時から大海人皇子と中大兄皇子の間は「対立関係」になった。
 
 この事を予測していた唐国、則天の忠臣「劉仁軌」は662年6月、
 百済王(扶余豊)が中大兄側の将軍の「鬼室福信」を殺害したので、
 同8月に「白村江の海戦」で勝利、倭国軍を壊滅させた。
 2017年8月7日書
 
 
 
 巻1-7  戊申(648年)孝徳天皇が近江の比良宮に幸す時の御歌
       また、書紀に斉明天皇が(659年)3月に近江の平浦(比良宮)
       に行ったとある。
 
 秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の京の假廬し思ほゆ。
 
 金野乃美草苅葺屋杼礼里之兎道乃宮子能借五百磯所念
 
 (真の意味)
 徐伐は鉄磨く、締め苦しむことなかれ、上の都は刀来るぞよ、陣地固めよ。
 
 (解説)(李 寧熙女史訳)
 新羅(徐伐・ソボル)は刀を磨いて戦いに備えている。圧迫(締め苦しめ)しないといいのに。
 吾がお上(兎道)の百済の都は敵が襲ってくるから陣地をお固めなされ。
 
 648年 (孝徳天皇時代) 唐国が高句麗を攻めた。
 658年 天皇は近江に避難した。
 659年 (斉明天皇時代) 唐国が百済を滅ぼした。
 この御歌は斉明天皇が額田王に代詠させたもの。648年作
 十市皇女を生んだ年で百済方言で詠まれている。
 2017年7月6日書
 
 
 大伴皇女は舒明天皇(百済の武王)の母であり、敏達天皇(高句麗・威徳王)と
 推古天皇の娘の田眼皇女は舒明天皇の妃であるが、「書紀」によれば皇后は
 宝皇女のみとなっている。「書紀」が本来、舒明天皇の正妃だった「田眼皇女」の事を
 「宝皇女」に配慮して史実を消去したのではないかと思われる。
 
 602年(推古10年)2月 来目皇子(聖徳太子の弟)が新羅征伐将軍になったが、
                その後、病気になり新羅征伐は中止された。
 
 602年8月  新羅と百済(武王=舒明天皇)が戦争をしたが、両者痛み分けとなった、
         との記載が百済本紀と新羅本紀にあり。
 2017年7月5日書
 
 
 新羅の文武王(法敏)=626年生(倭国で)
 大友皇子=648年生〜672年没
 葛野王= 660年生
 
 636年、百済の武王(舒明天皇)と新羅の善徳王の間で講和が成立。
 講和の条件:百済の文姫(額田王)が新羅の金春秋(武烈王)に嫁ぐ事であった。
 文姫(額田王)=620年代後半生まれで10歳で嫁入りした。
 
 文姫(額田王)は金春秋(武烈王)の室としての務めを、
 父、武王(舒明天皇)の死を以て終了した。
 
 日本書紀、皇極元年条に弟王子の翹岐(中大兄皇子)が
 母(斉明天皇)、妹(額田王や間人皇女)の女子達ほか高官40人余りが
 嶋(倭国)に放たれた。とあり。
 2017年6月30日書
 
 新羅の武烈王(金春秋)は高句麗、百済、倭国と対立した王。
 従って、百済の武王(舒明天皇)が没したので、和平の為の人質であった文姫(額田王)は
 必要なくなった。また、金春秋(武烈王)の妃の一人にすぎなかったので、異母兄の
 中大兄皇子と一緒に生まれ育った倭国に帰国した。
 
 鏡王、額田王姉妹は倭国で成長した。宣姫(鏡王)は倭国に残り、妹の文姫(額田王)は
 新羅、金春秋(武烈王)の室として新羅に渡った。母親が新羅系の為、額田王は新羅語には
 困らなかった。
 
 *三世紀の高句麗の東川(トウセン)王=神武天皇?説あり。
 2017年7月1日書
 
 
 
 巻1-16  (天智)天皇内大臣藤原朝臣に詔して、春山の萬花の艶と秋山の千葉の彩とを
        競憐はしめたまふ時、額田王、歌を以ちて判る歌。
 
 冬ごもり春さり來れば鳴かざりし鳥も來鳴きぬ 咲かざりし花も咲けれど
 山茂み入りても取らず、草深み取りても見ず、秋山の木の葉を見ては
 黄葉をば取りてそしのふ、青きをば置きて歎くそこし恨めし秋山われは。
 
 冬木成 春去來者 不喧有之 鳥毛來鳴奴 不開有之 花毛佐家礼抒
 山乎茂 入而毛不取 草深 執手母不見 秋山乃 木葉乎見而者 黄葉
 乎婆 取而曾思努布 乎者 置而曾 歎久 曾許之恨之 秋山吾者
 
 (意味)
 冬ごもりしていたが、春がくると今まで鳴かなかった鳥も鳴き、咲かなかった花も咲く。
 しかし、山は茂っているので入ることは出来ないし、草が深いので取ることも出来ない。
 秋山の木の葉を見て、色づいた黄葉を取ってしのぶ。(春の)青い葉は置いて嘆いている。
 恨めしいことに私は秋山なのだから。
 
 天智天皇=方角は「西」、色は「白」、季節は「秋」
 大海人 = 方角は「南」、色は「青」、季節は「春」
 
 (実質的意味)
 大勢の女性に取り囲まれている大海人皇子に私が取りつく余地はありません。
 結局、私は秋山、つまり天智天皇の一族なのですから。
 (額田王は天智天皇の血族であった)
 2017年6月29日書
 
 
 
 巻1-17  額田王の近江國に下りし時作る歌、井戸王すなはち和(こた)ふる歌
 
       天智天皇御歌(この御歌は中大兄皇子の心を額田王が代詠したもの)
                (慶尚道(新羅と伽耶の故地)方言で歌っている。)
 
 味酒 三輪乃山 青丹吉 奈良能山乃 山際 
 伊隠万代 道隈 伊積流万代尓 委曲毛 
 見管行武雄 数々毛 見放武八 
 万雄 情無 雲乃 隠障倍之也
 
 (従来の詠み下し文)
 うまさけ みわのやま あおによし ならのやまの やまのまに
 いかくるまで みちのくま いつもるまでに つばらにも
 みつついかむを しばしばもみさけむや
 まを こころなく くもの かくさむべしや
 
 (従来解釈)
 三輪の山よ、奈良山の山の間に
 隠れてしまうまで道の多くの曲がり角ごとに、
 よくよく見て行こうと思う。 しばしば眺めてやろうと思う。
 その山を無情にも雲が繰り返し繰り返し隠してもよいものであろうか。
 
 (本来の解釈)
 うまし酒の三輪の者よ集まれ(彌鄒(みつ)人よ、私を憎まないで欲しい)
 ぽっかり空いている盆地の奈良の者は集まる。
 (一致団結して勝つ国の者は集まる)集まって近江に行くのだ、
 新しい都に、全部行くのだ。
 長い行列を組んで引っ越して行くのだ。
 これをどう止めようとするのかね。(李 寧熙訳)
 
 (真の意味)
 皆の者、信じて一緒に行って欲しい。行ってくれ、どうか一緒に行ってくれ。
 私への憎しみには誇張が多すぎる、無念なことだ、貊(くま)の者たち、
 どうだ一緒に行きたがっているように見えないか。
 *貊(くま)=北方系渡来系半島人。
 (解説)
 この歌は額田王が狛(コマ)=高麗(コマ)つまり高句麗将の
 「蓋蘇文」こと「大海人皇子」に天智天皇の近江遷都に
 従うよう促している歌である。
 しかし、大海人が近江京に居を移した様子はない。
 
 百済滅亡---660年(新羅と唐の連合軍によって)
 百済国完全滅亡---663年(白村江の戦)
 百済王子(翹岐(ギョウギ)(後の天智天皇)北九州より大和に帰った---666年
 近江遷都---667年3月19日
 天智天皇即位---668年正月
 2017年6月28日書 再掲
 
 
 
 巻1-18  井戸王
 
 三輪山乎 然毛隠賀  雲谷裳  情 有 南  畝 可苦佐布倍思哉
 ミバ ヤマオ  グラモガクガ グモダニモ ヲゴロアランナ  モ ガ コ ゙ジャブペサジュ
 
 (従来解釈)
 三輪山をそんなに隠すことか せめて雲だけでも思いやりがあってほしい 
 隠してもよいものか。
 
 (本来の解釈)
 憎まないでおくれ そう言えば行ってくれるのか 貊(くま)が歩き廻るっている 
 心を察したたであろう行きたがっているように見えるだろうが。(李 寧熙訳)
 
 (真の意味)
 憎まないでおくれと言えば一緒に行ってくれるか 
 三輪の貊(くま)たちが行ったり来たりしている。
 私の心を察してくれたのであろう。
 しきりに行きたがっているように見えるがね。
 *貊(くま)=北方系渡来系半島人。
 
 天智天皇は百済からの渡来一世。倭大后は百済からの渡来三世。
 天智天皇と古人大兄の父は舒明天皇
 古人大兄は天智天皇によって殺害された。
 *倭大后は天智天皇の皇后で古人大兄の娘。
 2017年6月28日書 再掲
 
 
 
 巻1-21  皇太子(ひつぎのみこ)の答へましし御歌 明日香宮に
        天の下知らしめしし天皇、諡して天武天皇という。
 
 紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ戀ひめやも
 
 紀に曰はく、天皇七年丁卯夏5月5日蒲生野に縦獵(カリ)したまふ時に
 大皇弟(ヒツギノミコ)・諸王(オホキミタチ)・内臣(ウチツマヘノキミ)と群臣(マツツキミタチ)・
 悉皆に従(オナミトモ)そといへり。
 
 紫草能 尓保敞類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方
 
 (従来訳)
 紫草のようににおう(美しい)あなたを憎いと思ったら
 人妻と知りながら恋をしましょうか。
 
 (真の意味)
 紫草は愛しや妹よ失い苦し言いかけくるに われ、ひそやかに脇見せむ。
 
 紫草能=むらさきは  尓保}類=愛しや  妹乎=妹よ  
 尓苦久有者=失い苦し  人嬬故尓=言かけくるに  吾=我
 恋=ひそやかに  目八方=脇見せむ
 
 (本来の訳)(李 寧熙女史訳)
 紫草(ホト)は可愛らしい君を失って苦しいのだよ。言葉をかけてきたので
 私は人目につかないように脇見をするけれど。
 
 668年---高句麗滅亡、大海人は(倭国に)帰国出来ず。
 669年10月---藤原鎌足、天智天皇により賜死。
 670年1月---天智天皇、高安城に食料備蓄、長門、筑紫城を整備し
         大海人と新羅・唐人軍の侵攻に備えた。
 670年6月---天智天皇没?
 672年6月---新羅と唐人軍が近畿に到達、その時大海人は吉野を出発
         そして、大津京落城、高市皇子の忠臣物部麻呂により大友皇子殺害される。
 673年2月---大海人皇子が明日香で倭王になった。
         2017年6月27日書
 
 
 
巻1-20  天皇蒲生野に遊猟したまふ時、額田王の作る歌
       天智7年(668年)5月 天智は同年1月即位した。
 
 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る。
 
 茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
 
 (表意味)
 東の空が赤らむ紫野や標野(しめの)(禁区)をあなたが行きながら
 私に袖を振って名残を惜しむのを野守は見ていないでしょうか。
 
 (裏読み)
 あかい股が紫色のほとを行きます 標野を行くのです。
 野守は見ていないでしょうね貴方が私のハサミを広げるのを。
 2017年6月26日書
 
 
 
 麻続王が伊勢の国の伊良虞(いらご)の島に流された時に、
 人々が気の毒に思って作った歌。
 
 巻1-23     打麻乎 麻続王 白水郎有哉 射等籠荷四間乃 珠藻苅麻須
 
 従来表現    打麻を 麻続王 海人(あま)なれや 伊良虞(いらご)の島の 
           玉藻刈ります。
 (従来解釈)  打麻(おちそ)を 麻続王は 海人なのか 伊良虞の島の 
          玉藻を刈っていらっしゃる。
 
           ウチサ  オミノオオキミ イヤ  アマ       サルラゴ     タマモ
 真の意味    打麻を 麻続王  賤しき 海人なれや 射等籠の島の 玉藻  
           刈りなさる。
 
 (本来の意味) どうやって生きなさる。麻続王は賤しい漁夫なのだろうか。
          「生き抜こうと」の、島の玉藻を刈っていなさる。
 
          ウチサオ オルイウムワン ションスチ イジェ サルラゴ  ジ ソ ムネ マルワン ペサス
 解説      打麻乎 麻続王  白 水郎 有哉 射等籠 荷 四間乃 珠藻 苅麻須
 
         打麻乎=どう生きなさる。
         麻続王=機織王。
         白   =賤しい。
         水郎 =漁夫。
         有哉 =---なのだね。
         射等籠=生き抜こうと。
         荷   =---の。
         四間乃=島の。
         珠藻 =ほんだわら(海藻)。
         苅麻須=刈りなさる。
 
 以上の中の「射等籠」や「四間乃」、「珠藻」には慶尚道方言が使われています。
 
 
 巻1-24    空蝉之 命  乎惜美 浪尓所湿 伊良虞能嶋之 玉藻苅食
 
                                         タマモ   ハ
 従来表現   うつせみの 命を惜しみ 波に濡れ 伊良虞の島の 玉藻刈り食む
 (受来解釈) (うつせみの)命が惜しさに 波に濡れ伊良虞の島の 
          玉藻を刈って食べることだ。
 
          ウチサノ         ラン               タマモ
 真の意味   空蝉之 命を惜しみ 乱が起き かく 渡り行く 玉藻刈りつつ。
 
 (本来の意味)どうやって生きていこう 命を惜しんだばっかりに 乱が起きて
          このように 渡り歩いているのだ 玉藻を刈りながら)
 
          ウチサノ モクサムマル アキメ  ナンイ トジョ イラゴ  ナドジ  マルワン ベモ
 解説      空蝉之 命乎   惜美 浪尓 所湿 伊良虞 能嶋之 玉藻 苅食
 
         空蝉之=どう生きながらえむ。
         命乎 =命を。
         惜美 =惜しみ。
         浪尓 =乱が。
         所湿 =起きて。
         伊良虞=かくの如くに。
         能嶋之=渡り行く。
         玉藻 =海藻(ほんだわら)。
         苅食 =刈りながら。
 
 以上の中の「所湿」や「伊良虞」、「能嶋之」、「玉藻」には慶尚道方言が使われています。
 
 
 日本書紀の記載では「三位麻続王罪ありて因幡(いなば)に流す。
  一子は伊豆(いづ)の島に流し、一子は血鹿(ちか)の島に流す」
  血鹿(ちか)の島とは長崎県五島列島の「小値嘉」(こちか)と考えられます。
 万葉集後段の記載には「右、日本書紀について考えてみるに、
 「天武天皇の四年四月十八日に、三位麻続王は罪有って因幡国に流された。
 一子は伊豆の島に、一子は血鹿の島に流された」とある。
 ここに伊勢国の伊良虞の島に流されたというのは、
 おそらく後世の人が歌のことばから誤解して書いたものであろう。
 したがって、麻続王は伊勢国ではなく、因幡国に流されたのが事実であろうと考えます。
 
 注  麻続王は因幡の白兎海岸沿いの海村に流され、「鳥が島」を生活の場にしていた
    と考えられます。
     「鳥が島」=韓国語で「鳥島」(セド)となり、それが「さど」=「射等=いら」=
     伊良と麻続王は表現したと
     考えられます。
 
 以上、李 寧熙著 「もう一つの万葉集」より。
 
 2019年1月6日書
 
 
 
 巻1-25 天武天皇御歌
 
 三吉野之 耳我嶺爾 時無曾 雪者落家留 間無曾
 雨者零計類 其雪乃 時無如 其雨乃 間無如
 隅毛不落 念乍叙来 其山道乎
 
 みよしののみみがのみねにときなくそ
 三吉野之 耳我嶺爾    時無曾 
 ミ エシノ ガ ミアダゲニ    テ ナ ジ
 
 ゆきはふりけるまなくそ
 雪者落家留  間無曾
 ショルシャオチガリュ マンナジ
 
 あめはふりけるそのゆきのときなきがごと
 雨者零計類  其 雪 乃   時無如 
 マメンシャヨンガリュ グシヨル ネ   テナグダ
 
 そのあめのまなきがごと
 其雨乃   間無如
 グアメンネ  マンナグダ
 
 くまもおちずおもいつつぞこしそのやまみちを
 隅毛 不落  念乍叙来    其山道乎
 クマトウルプルオチ オモサショオ    グメ ドオ
 
 
 従来の訓み下し文
 
 み吉野の 耳我の嶺に 時なくそ 雪は降りける
 間なくそ 雪は降りける 間なくそ 雨は降りける
 その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごとく
 隅もおちず 思ひつつぞ来し その山道を
 
 大意
 
 み吉野の 耳我の嶺に 絶え間なく 雪は降るそうだ
 休みなく 雨は降るそうだ その雪の 絶え間もないように
 その雨の 休みもないように 道の曲がり角ごとに
 思いに沈みながら来た あの山道を(全集)
 
 真の大意
 
 水の吉野に行こう、そのみやだけに(戦いが長くなりそうだ、
 胸がつぶれそうだ)出発しよう、しかし悲しくておいそれと
 行かれようか。逢う日を期そう、無念でこのまま行ってしまう
 事が出来ようか。ああ、悲しい。でも発つ事にしよう。
 ああ、無念だ。また逢う事にしよう。
 「くま」の季節が必ずやって来る。
 「重詐」は立つ。だから廻り道もして行こう。
 ※「くま」=高句麗人の事。
 
 語句解説
 
 三吉野之(ミエシノガ・サムギルヤジ)=水の吉野に行く・戦いが長引きそうだ。
 耳我嶺爾(ミアダゲニ・ミアメジ)=みみがだけに・胸がつぶれそうだ。
 時無曾(テナジ)=出発しよう。
 雪者落家留(ショルシャオチガリュ)=悲しくてどう行こう。
 間無曾(マンナジ)=また逢おう。
 雨者零計類(アメンシャヨンガリュ)=無念で、このまま行ってしまえない。
 其雪乃(グショルネ)=ああ、悲しい。
 時無如(テナグダ)=発つ事にしよう。
 其雨乃(グアメンネ)=ああ、無念だ。
 間無如(マンナグダ)=逢う事にしよう。
 隅毛不落(チョル ブルオジ・クマトウル ブルオチ)=くまの季節がやって来る。
 念乍叙来(オモサショオ)=重詐立つ。
 其山道乎(グンメドオ)=だから、迂回しよう。
 
 李 寧熙女史解説
 2019年5月20日書
 
 
 
 巻1-47  柿本人麻呂歌
        軽の皇子(後の文武天皇)に対する歌なり。
 
 マセガル アレネシャスイアル イプリジネガル グミガ ガタミトジュオルサ
 真草苅 荒野者雖有 葉  過去   君之 形見跡曾来師
 
 (従来の読み下し文)
 ま草刈る荒野にはあれど、黄葉(もみじば)の
 過ぎにし君が形見とそ来(こ)し。
 
 (従来の解釈)
 草を刈る荒野ではあるが、亡くなられた草壁皇子の
 記念の地であるとやって来たことであ。
 
 (真の解釈)
 軽皇子よ、鉄物づくりのアレカラ(下加羅即ち金官伽耶)人である
 君はすぐ悟って言うであろう。懐刀にひびが入ったので、
 取り入れに問題が生じたと。
 
 解説
 天武天皇は高句麗の宰相「淵蓋蘇文」将軍、
 その妻は新羅「金ユ信」将軍(金官伽耶王族出身)の妹
 唐に敗れた淵蓋蘇文」は日本に亡命、
 壬申の乱で政権取りに成功、天武天皇となる。
 
 「金ユ信」の妹を新羅の王族「金春秋」(後の太宗武烈王)
 (新羅第29代王となる)と結婚させる。
 淵蓋蘇文の長男は文武王(新羅第30代王)となる。
 文武王は唐に敗れ新羅東海岸から日本に亡命した。
 文武王は高市皇子(天皇)を殺し持統天皇の協力を得て
 天皇に即位した。---文武天皇の誕生なり。
 西暦670年それまでの「倭国」を「日本」とした。
 
 金官伽耶(都・金海)建国王---金首露王
 AD532年新羅に併合される。
 新羅の「金ユ信」は金首露王の12代孫なり。
 従ってその甥の文武大王にも金官伽耶(アラガヤ)
 の血が流れている。
 AD562年大伽耶(ウガヤ)も新羅に併合。
 
 日本書紀の神代下の巻
 
 「彦波瀲武鵜草葺不合尊」
 ひこなぎさたけ(うがや)ふきあへずのみこと
 大伽耶から日本に進出した渡来の神様を
 現している名前なり。(鉄器文化をもたらした)
 
 魏志倭人伝の狗邪韓国である。
 
 李 寧熙女史解説
 2020年2月2日書
 
 
 
 
 「書紀」歌謡126
 
 美曳之弩能 曳之弩能 阿喩 阿喩 挙曾播 施麻倍 母曳岐
 愛 倶流之衛 奈疑能母騰 制利能母騰 阿例播 倶流之衛
 
 従来の訓み下し文
 
 み吉野の 吉野の鮎 鮎こそは 島傍も良き
 え苦しゑ 水葱の下 芹の下 吾は苦しゑ
 
 従来の大意
 
 み吉野の、その名も吉野の川にすむ鮎。
 その鮎こそ、川の中州の清い瀬も結構だ。
 だけど、今の私はほんとに苦しいね。
 水葱の根もと、芹の根もとの浅い水。
 私はほんとに苦しいね。(全集)
 
 真の意味@
 
 水の吉野は、吉野は 鮎、鮎を刺そうと(取ろうと)
 島船 集めた ああ、悪い事ですよ やりとげるなんて駄目
 自分のものにするなんて駄目 申し上げたい 
 それは悪い事ですよ。
 
 真の意味A
 
 水のお偉いのは、お偉いのは 上(川上)のぼり、
 上のぼりしようと 「島」のやから 集めた
 ああ、悪い事ですよ やりとげるなんて駄目 
 自分のものにするなんて駄目 申し上げたい
 それは悪い事ですよ。
 
 用語解説
 
 美曳之弩能(ミエシノヌン)=水の吉野は・水のお偉いのは。
 曳之弩能(エシノヌン)=吉野は・お偉いのは。
 阿喩(アユ)=鮎・上のぼり。
 阿喩(アユ)=鮎・上のぼり。
 挙曾播(ゴジパ)=刺そうとして・入れようととして。
 施麻倍(シマベ)=島の船・島のやから。
 母曳岐(モエキ)=集めたので。
 愛(エ)=ああ。
 倶流之衛(グルシエ)=悪い事です。
 奈疑能母騰(ナギヌンモドウ)=やりとげる事は出来ない。
 制利能母騰(シェリヌンモドウ)=享受する事は出来ない。
 阿例播(アレパ)=申し上げたい。
 倶流之衛(グルシエ)=悪い事です。
 
 解説:「記・紀」歌謡第一歌は貊族の戦勝歌です。
 
   ヤク ム ダト エエ クマ
 「夜句茂多菟(?、貊、戦えり)で始まるこの歌も
 従来の詠み下しは「八雲立つ・・・」と云うトンチンカンなもの。
 「紀」が巻頭に素戔鳴尊の戦勝歌を掲げたのに相対して
 「万葉集」は雄略天皇の「即位宣言」を巻頭歌として掲載している。
 日本書紀及び古事記の第一歌謡が日本建国者である
 素戔鳴尊の「勝鬨」の歌だある。
 
 李 寧熙女史解説
 
 2019年5月20日書
 
 
 
  額田王、近江天皇を思ひて作る歌一首
 
 重複歌
 巻4-488
 巻8-1606
 
 君待つとわが戀ひをれば、わが屋戸の すだれ動かし秋の風吹く
 
 君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹
 
 (従来訳)
 君を待つと、私が恋しく思っているところに、家のすだれを動かし秋の風が吹く。
 
 (真の意味)
 あなたに抱かれて、おとなしく赤ちゃんを産もう、赤ちゃんよ、おいでよ。
 (李 寧熙女史訳)
 
 
 
 鏡王女の作る歌一首
 
 重複歌
 巻4-489
 巻8-1607
 
 風をだに戀ふるは羨(とも)し風をだに來むとし待たば何か嘆かむ。
 
 風乎太尓 戀流波乏之 風小谷 将來登時待者 何香將嘆
 
 (従来訳)
 風でもうのはうらやましい、風だけでも来ると待っているのなら、
 何を嘆くのですか、私には風さえ吹いてこない。
 
 (真の意味)
 額田王は鏡女王を意識して「私は大海人に恋してなどいません、
 ただ大海人は子供を産むために私を召したのですから。
 この子供とは「十市皇女」の事。額田王は天智天皇の異母妹であったので
 天智天皇を思っていたのも当然である。
 
 日本書紀と万葉集は故意に「額田王」と「鏡女王」が天智天皇の異母妹だったことを
 史上から消去したものと思われる。
 鏡王女・額田王姉妹が舒明天皇の娘で天智天皇の異母妹である。
 2017年6月25日書
 
 
 
 「大和三山」の歌をめぐる中大兄皇子と大海人皇子との三角関係
 
 巻1-13  中大兄近江宮に天の下知らしめしし天皇の三山の歌
 
 高山波 雲根火雄男志等 耳梨与 相諍競伎 神代從 如此尓有良之
 古昔母 然尓許曾虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉
 
 
 香具山は畝火雄々しと耳梨と相あらそひき 神代より斯くにあるらし
 古昔も然にあれこそ うつせみも嬬をあらそうふらしき
 
 (表の意味)
 香具山は畝傍山を雄々しいと感じ、その愛を得ようと耳梨山と争っている。
 神代から争っていたようだ 昔もそうだったから、今も妻を争っているらしい。
 
 (真の意味)
 乙巳の変(大化の改新)前夜、中大兄皇子が蘇我氏の後盾を願って
 大海人と争ったと、つまり蘇我蝦夷父子一族をめぐる中大兄皇子と
 大海人との確執の歌で、額田王との三角関係を歌つたものではない。
 
 (真の解釈)
 中大兄皇子は将来王位に就く為に蘇我氏一族の助力を得ようと
 努力したが、高句麗宰相として対唐戦最中の大海人はそんな
 野望もなかった。そこで蘇我氏は大海人側を援助した。
 そこで、中大兄皇子は乙巳の変(入鹿暗殺)を決行する事になっていった。

 香具山=中大兄皇子。
 畝傍山=蘇我氏。
 耳梨山=大海人皇子。
 
 中大兄江宮御宇天皇三山歌(中大兄皇子の即位前(645年?)の歌と思われる。)
 
 2017年6月15日書
 
 
 
 反歌
 巻1-14  中大兄皇子御歌
 
 高山与 耳梨山与 相之時 立見尓來之 伊奈美國波良
 
 香具山と耳梨山とあひし時、立ちて見に來し印南國原
 
 
 (意味)
 香具山と耳梨山が争った時、それを止めようと阿菩(あぼ)の
 大神が印南国原まで来たんだってさ。
 2017年6月20日書
 
 
 
 反歌  
 巻1-15  中大兄皇子御歌
 
 わたつみの豊旗雲に入日見し今夜の月夜さやに照りこそ
 
 渡津海乃豊旗雲尓 伊理比弥之 今夜乃月夜 清明己曾
  
 (従来訳)
 海の神がお示しになる豊かな美しい旗のように靡く雲に、
 今しも入日が差し込んで、おお、今宵の月はきっとくっきりと
 美しいことであろう。
 
 (真の意味)  (李 寧熙女史訳)
 「海人(大海人)」が動き出した、同盟(高句麗系・伽耶系の鉄造り同士の連携)は
 崩れたので伊理(入鹿一族)を斬り果たそう さあ、今こそ私(中大兄)の番だ、
 聳え立って頂上(王)を目指そう。
 
 渡津海乃=海人動く。
 豊旗雲尓=同盟傾きしに。
 伊理比弥之=伊理、斬り出だせ。
 今夜乃月夜=今こそ我聳え。
 清明己曾=頂、突き刺しむ。
 
 右一首の歌、今案ふるに反歌に似ず。但し、
 舊本此の歌を以ちて反歌に載す。
 故に今なお此の次に載す。
 また紀に曰はく、天豊財重日足姫天皇
 (アメトヨタカライカシヒタラシヒメノスメラミコト)の
 先の四年乙巳に天皇を立てて皇太子となすといへり。
 2017年6月21日書
 
 中大兄皇子(百済、武王の子、「翹岐」)は武王末年、
 百済の内紛で父(武王)の没した
 641年11月済州島に母親、後の斉明天皇と島流しになった。
 そして、643年(皇極元年)4月、倭国に来た翹岐(中大兄皇子)は
 朝廷に拝朝し、蘇我蝦夷が畝傍山の自宅に招待した。
 と、「書紀」にある。
 
 この時の朝廷とは聖徳太子の子、山背大兄の大和朝廷である。
 翌644年(書紀では皇極2年)6月、高句麗将「蓋蘇文」こと大海人皇子が
 唐国の高句麗侵略に備えて倭国勢を対唐国戦に投入する為、来倭(来日)した。
 
 同年10月、蘇我入鹿を巻き込んだ大海人・中大兄勢力によって、
 山背一族は法隆寺にて滅亡。
 この時点では、蘇我一族が健在で倭国は蝦夷が支配。
 
 中大兄の皇子の「大和三山」の歌は百済王子「翹岐」として、
 倭国に亡命して間もない頃の歌である。
 
 大海人皇子は倭国の兵力を高句麗に動員する為には、
 蝦夷の承認が必要だった。
 一方、翹岐(中大兄皇子)は山背王朝を滅ぼして、
 倭王即位が願いだったが、
 これも蝦夷の承認が絶対的条件であった。そこで中大兄は
 蝦夷の娘を妃にしていたかもしれない。
 
 すなわち、「大和三山」の歌は蝦夷を「畝傍山」と暗示、
 「乙巳の変」前夜、蘇我氏の後盾を願って
 中大兄皇子と大海人が争ったと云うのが歌の意味であった。
 
 山背大兄一族滅亡後は馬子の娘と舒明天皇の子、古人大兄皇子が一時、
 倭王であったのでは?
 そして、中大兄皇子の母、「皇極朝」は存在しなかったと思われる。
 中大兄の即位希望時、大海人は高句麗将として対唐国戦の最中で
 倭王への野望はなかった。
 よって、蘇我蝦夷父子は大海人皇子側についたのではないか。
 
 そこで中大兄は「乙巳の変」を決行することになったのではないか。
 
 結論:「大和三山」の歌は蘇我蝦夷父子一族をめぐる中大兄皇子と
 大海人皇子の確執の歌で、額田王との三角関係を歌ったものではない。
 2017年6月24日書
 
 
 
 事件話題を箇条書きにしました。
 
 503年---日本で本格的な製鉄が始まった古代日本産業革命の年であった。
 
 新田部皇子は「新羅の浮気者、文武の子だ」と告げる柿本人麻呂。
 
 
 
 巻3-262
 柿本人麻呂は藤原貞慧の落とし胤なのか。
 
 素戔嗚尊は召西奴(ソソノ)(高句麗初代東明聖王=朱蒙(チュモン)の妻)の息子、
 沸流(ビリュ)なのか?
 
 古代出雲の製鉄は1世紀に始まっていた?
 
 
 
 巻8-1466   志貴皇子御歌一首
 
 ガムナビネ イパセネ サガ ガツコヲセ
 神名火乃 磐瀬乃社之 霍公鳥 
 
 モヲムネ ヲカニ  ヲツジレマジャメイ
 毛無乃岳尓 何時来将 鳴
 
 (従来の詠み下し文)
 神奈備の 磐瀬の杜の ほととぎす 
 毛無の岡に いつか来鳴かむ(全集)
 
 (従来の解釈)
 神名火の磐瀬の杜のホトトギスは、
 毛無の岳に何時来て鳴くであろうか。
 
 (真の解釈)
 王、現れ 見ゆ 「たて続け鉄掘ろう、
 我買はむ 鉄場(てつのば)共に培(つちか)はむ」
 「逗留」いかにせむ 
 どう迎えよう。
 
 (真の大意)
 文武王が、鉄の岳にお見えになりました。
 そして、仰せられました。
 「続け続けて鉄掘ろう。
 我、鉄買はむ。鉄場(てつのば)共に培(つちか)はむ」
 文武王は、今日、この鉄場にお泊まりなさるようです。
 一体どうお迎えすればよろしいのでしょう。
 
 (語句解説)
 神名火乃(ガムナビネ)=王、現れ 見ゆ
 神(ガム)=王・お偉方
 名(ナ)=現れ
 火乃(ビネ)=見ゆ
 
 磐瀬乃社之(イパセネサガ)=たて続け鉄掘ろう、我買はむ
 磐(イパ)=(イ)立て続けに (パ)掘る
 瀬(セ)=・・・しよう。& 鉄
 乃社之(ネサガ)=我買はむ
 
 霍公鳥(ガツコヲセ)=鉄場(てつのば)共に培(つちか)はむ
 霍公(ガツコヲ)=培(つちか)う
 鳥(セ)=鉄
 
 巻8-1419の鏡王女の歌も「神奈備乃伊波瀬乃社之」
 で始まり、この志貴皇子の歌同様「神奈備の磐瀬(伊波瀬)の森の」
 と詠み下されて来た。
 百済救援の出兵や、相次ぐ山城建設で財政難に陥った
 天智天皇は、鎌足の援助を求めたが、鎌足は応じない。
 
  あせった天智天皇は、鎌足の長男貞慧を暗殺する強硬手段に出た。
 鏡王女は、貞慧殺しを告発、自分の息子不比等も消されるのではないかと
 心配し、前夫(天智天皇)と今の夫(鎌足)の間で胸を痛めていた。
 
 鏡王女も「神奈備乃」はガムナビネと詠んでいたが、
 志貴皇子同様、「雨乞い」の意では使っていない。
 「干上がり払底」(官費が底をついた状態)と
 「干上がり物乞いする」(財政援助を頼む)ことを
 二重にあらわす言葉として用いていた。
 
 また、「伊波瀬乃社之」は「言屋(いふや)
 (島根県にある鎌足のご先祖さまを祀る社)に群がる」
 つまり、「無心をしに鎌足家へ殺到する人々の様子」
 を表現する言葉として用いていたが「伊波瀬」で
 「たて続けに鉄を砕く」の意のイ(イッ)パセもあらわし、
 「鉄の親分」鎌足を暗示していた。
 
 志貴皇子の「神名火乃磐瀬乃社之」と鏡王女の
 「神奈備乃伊波瀬乃社之」は「たて続けに鉄を砕く」
 の意のイ(イッ)パセを表しているところは同じだが、
 それぞれ違う意味を表していた。
 従来詠みのように「かんなびのいはせのもりに」
 と同じ詠み下しをしていたのでは、真の意味は
 金輪際明らかにならない。
 
 毛無乃岳尓(モヲムネ ヲカニ)=逗留、いかにせむ
 毛無乃(モヲムネ)=泊まる・逗留する
 岳尓(ヲカニ)=どうしよう
 
 何時来将鳴(ヲツジレマジャメイ)=どう迎えよう
 何時来(ヲツジレ)=どうやって
 将鳴(マジャメイ)=お迎えしようか
 
 鉄穴へ直行した文武天皇
 文武天皇が、「ここから採れる鉄を買う」と言っている
 岳は何処か?
 後日の文武天皇が四品の志貴親王(当時、文武の娘多紀の夫)
 に下賜した近江の「鉄穴」(鉄脈)の可能性が大。
 
 藤原夫人こと五百重娘(いほへのいらつめ)に
 「鉄を手に入れなされ」と提言された文武天皇が、
 先ず鉄穴に走ったとすれば、それは正解であったと言えよう。

 以上 李寧熙女史著「まなほ」第63号より
 2020年6月5日書
 
 
 
 
 
 巻8-1608
 
 秋芽子之 上尓置有 白露乃 消可毛思奈萬思 戀管不有者
 
 従来解釈
 
 秋萩の花の上に置いた白露のように はかなくこの世から
 消えてしまったほうがましだ
 こんなに恋しがって苦しんでいるよりは
 
 本来の意味
 
 弓削皇子は丹比真人こと新田部皇子に父親(天武)殺しを唆していた。
 
 
 
 巻8-1609
 
 宇陀乃野之 秋芽子師弩藝 鳴鹿毛 妻尓戀樂苦 我者不益
 
 宇陀の野の 秋萩しのぎ 鳴く鹿も 妻に恋ふらく 我れにはまさじ
 
 従来の解釈
 
 宇陀の野で秋萩を踏みしだいて鳴く鹿も
 妻を恋い焦がれる思いはわたしほどではないだろうに
 
 本来の意味
 
 父親(天武)を殺せと迫まる弓削皇子に、父とは対決せぬと応える
 新田部皇子(持統10年7〜8月)
 
 2017年6月14日書
 
 
 
 巻10-1867 作者不詳(柿本人麻呂か?)
 
 阿保山之 佐宿木花者 今日毛鴨 散乱 見人無二
 
 あほやまの さくらのはなは けふもかも ちりまがふ
 阿保山の 桜の花は 今日もかも 散り乱ふらむ 見る人なしに。
 
 (従来訳)
 古都明日香の阿保山の桜の花は、今日には散り乱れていることだろう
 賞めでる人もなく、ただいたずらに。
 
 (真の意味)
 親父の女(ほと)が、息子とつながりたくて、今日も行く 突き刺せ
 ほとがお出ましだ。
 (野讃良皇女が今日もまた行く、刺せ) (李 寧熙女史訳)
 
 文武天皇(軽皇子)は天武天皇の長子、持統とは血のつながりなき、
 若き継母であった。
 文武天皇にとっては持統は「アボジ」(父)のメエ(女)であり、
 持統にとって文武は「ジャスグ」(息子)になる。
 2017年6月13日書
 
 鏡王女は天智天皇の要請で藤原不比等を懐妊したまま、
 藤原鎌足へ降嫁した。
 鏡王女は百済武王と新羅善花公主の娘だった。
 2017年6月13日書
 
 
 
 巻10-1864 作者不詳(柿本人麻呂か?)
 
 足日木之 山間照 桜花 是春雨尓 散去鴨
 あしひきの やまのまてらす さくらばな このはるさめに ちりゆかむかも。
 
 (従来訳)
 あしひきの山あいを照らす桜花は この春雨に散りゆくことであろうか。
 
 (真の意味)
 腰にあてた枕がさ メェ(女陰)を、あわせてくれるよ。さあポジ(ほと)を挿しよ。
 シプ(膣)売り女だからさ、挿しに行こうや。(李 寧熙女史訳)
 *メェ、ポジ、シプは全て「ほと」の意味。
 
 解説:表詠みは「山の桜が春雨に散る」情景を歌つている。
    裏詠みは「ホト売り女とセックスしよう」という女買いの歌。
    鵜野讃良皇女を指しているのではないか?
   (セックススキャンダルの多い女性であったようです。)
  
 暗号読みした場合は以下のとおり。
 
 ビゲガル カンゴジ ビガルガモ
 日木之  間花  雨去鴨
 
 意味 
 斬り刀、磨いだ刺し刀、斬りに行く。(暗殺用の刀、磨ぎすました刺し刀を着け、斬りに行く)
                     (その女を殺そう。)
 2017年6月12日書
 
 
 
          ゴプサ ゴプサ ヤ ゴスルバゴ ギルガルピトジジョグム゚
 巻11-2370  恋死 恋死 耶 玉  桙  路 行人事 告 無
          柿本人麻呂歌集、枕詞
 
 (従来詠み下し文)
 恋ひ死なば恋ひもしねとや(か)玉桙(たまほこ)の
 道行き人の言(こと)も告げなく
 
 (従来大意)
 恋に苦しんで死ぬなら恋して死ねというのか。
 玉桙の道を行く人は誰もあの人の伝言をしてくれないことよ。
 (中西 進先生解釈)
 
 (真の意味)
 愛(いと)、愛(いと)しや、逆さに入れて
 道の間刺しでもやりましょうか。
 
 (語句解説)
 恋死(ゴプサ)=愛(いと)し、愛らしくて
 恋死耶(ゴプサヤ)=愛らしや
 玉桙(ゴスルバゴ)=逆に入れて
 路行人(ギルガルピ)=道の間
 人事(トジ)=突き出し
 事告(ジョグ)=興し
 告無(グム)=作らむ
 人事告無(トジジョグム)=刺し立てやりせむ
 
 以上、李 寧熙女史解説
 2019年10月17日書
 
 
 
 
          ガッチュギ  ゴジャガ サ ダリジョネ ジ バモ ゴ ジ ポ ジトゥルイ
 巻11-2570  如是 耳  恋者 可死 足 乳 根之 母毛告都 不止通 為
          作者不詳
 
 (従来の読み下し文)
 かくのみし 恋ひば死ぬべみ たらちねの母にも告げつ
 止(や)まず通(かよ)はせ。
 
 (従来大意)
 このようにばかり恋い続けていたら、死んでしまうでしょうから
 足乳根の母にも事を告げました。
 絶えず通っていらして下さい。---中西 進先生解釈
 
 (真の意味)
 急に入れたい、垂れまら(ペニス)を出そう 
 堀まら、ほと(女陰)を穿(うが)とう。
 
 (真の解釈)
 いきなり刺して行こう 垂れまら(ペニス)を出そう
 掘ろう 串刺しほと(女陰)を穿(うが)とう。
 
 (語句解説)
 如是耳(ガッチュギ)=いきなり、急に
 恋者可死(ゴジャガサ)=刺しに行きたい、刺して行こう
                入れて行きたい
 足乳根之(ダリジョネジ)=垂れまら(ペニス)を出そう
                「垂」の代わりに「足」を使って
                太股の足を暗示している
 母毛告都(バモゴジ)=掘ろう串刺し掘りまら(ペニス)
 不止(ポジ)=ほと(女陰)、藤原氏の「藤」
 通為(トゥルイ)=穿(うが)とう
 
 注=不止=藤(つまり藤原氏)の権力の終末を願望している
        非常に政治的な歌です。
 以上、李 寧熙女史解説
 2019年10月12日書
 
 
 
          ゴッスルパクジ ギルガルピ  イ ネ ム シ ロ  シ ギルイモ グミ オ マジャポインモ ガモ
 巻11-2643  玉  戈 之 道 行 疲 伊奈武思侶 敷而  毛 君乎 将  見因母鴨
           作者不詳
 
 (従来詠み下し文)
 たまほこの道行き疲れ 稲筵(いなむしろ)しきても君を見むよしもがも
 
 (従来大意)A
 (玉桙の)道を行き疲れて稲筵(いなむしろ)を敷きて--
 しきりにあなたを見るすべがあればよい。(全集)
 
 (従来大意)B
 玉桙の道を行き疲れて稲の筵を敷く--
 しきりにあなたに逢えるすべがほしいよ。(中西 進先生解釈)
 
 (真の意味)
 逆さに入れよう、道の間にすぐに攻めよう
 君よ 見つめつつ行こう。
 
 (真の大意)
 逆体位でしましょうか 分かれ道の三角地 今すぐここで
 でもこうやると顔をみることができませんね
 あなたの顔を見せて下さい。見つめつつセックスをしましょう。
 
 (語句解説)
 玉戈之(ゴッスルパクジ)=逆さに入れよう
 道行疲(ギルガルピ)=道の間
 伊奈武思侶(イネムシロ)=すぐ攻める、すぐ襲う
 
 (参考)
 伊奈牟之呂(イネモッガロ)=すぐ行けぬ
 伊奈宇之呂(イネウジロ)=すぐ泣き出す
 
 敷而毛(シギルイモ)=押し臥せよう
 君乎(グミオ)=君よ
 将見因母鴨(マジャポインモガモ)=相見つ行かむ
 
 以上、李 寧熙女史解説
 2019年10月15日書
 
 
 
          ビトジオ バムデェグン オ ジュンメ ピトジエ  ガニ  ショロ ヲイ  ボネジ
 巻11-2799  人事乎 繁 跡  君 乎鶉 鳴 人之古 家尓 相  語而 遣都
           作者不詳
           「さよばい」の歌、悲しい恋の歌、別れの歌である。
 
 (従来詠み下し文)
 人事(ひとごと)を繁(しげ)みと君 鶉(うずら)鳴く人の
 古家(ふるへ)に語らひて遣(や)りつ
 
 (従来解釈)
 人のうわさがうるさいのでと、鶉の鳴くような他人の
 古家で語らってあなたを帰したことよ。(中西 進先生解釈)
 
 (真の意味)
 日の出よ、夜来る君は、日の出に帰る 悲しいや、いかに送るや。
 
 (真の大意)
 日の出よ(日が昇る)、夜になると君が来て下さるのに、日の出には帰っていかれます。
 ああ、悲しくてどうお送りしたらいいものでしょう。
 
 (語句解説)
 人事乎(ビトジオ)=日の出よ
 繁(バン)=夜
 跡(デェ)=(何々になって、何々になる
 君(グン)=と
 繁跡君(バムデェグン)=夜になると
 「君」は恋人を表現する為に使っている。
 乎鶉鳴(オジュンメ・ワジュメ)=来てくれるので
 人之古(ピトジェ)=日の出に
 家尓(ガニ)=行くので
 相(ショロ)=悲しい
 人之古家尓相(ピトジェガニ)=日の出には帰って行かれるので悲しくて
 語而(ヲイ)=いかに、どうやって
 遣都(ボネジ)=送る、送らむ
 遣(ボネ)=送る
 
 以上、李 寧熙女史解説
 2019年10月17日書
 
 
 
 
            アシビゲネ メエジョジミネ ネダリ ミ ネ アシエイヤオ イシガモマジャセ
 巻11-2802  足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾乃 長永夜乎 一鴨 将 宿
            柿本人麻呂作?
 
 (従来の訓み下し文)
 あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む。
 
 (従来解釈)A
 (山鳥の長々しい、しだれ尾のように)まことに長い秋の夜を
 (山鳥の雌と雄が谷を隔てて夜を過ごすのに似て)あなたを恋し慕いながら
 ひとり寝する私であることよ。
 
 (従来解釈)B
 (夜は一人寝するといわれる)山鳥の長く垂れ下がっている尾のように
 長い長い秋の夜を、私も一人寝るのだろうかなあ。
 
 (真の解釈)
 長枕は愛し合う二人、ほと、まらを押しえぐり行こう、たて続けに
 お互いを見ながら。(または、すっかり夜を明かしましょう。)
 
 (語句解説)
 
 足日木乃(アシビゲネ)=長枕は。
 山鳥之尾乃(メエジョジミネ)=ほと(女性器)、まら(ペニス)を押す。
 四垂尾乃(ネダリミネ)=四つ足押す、四本の足。
               (男女二人の足四本)が行為中、長枕で
                押される事を表している。
 長永夜乎(アシエイヤオ)=端(性器のこと)をえぐり行こう。
 一鴨将宿(イシガモマジャセ)=たて続けに行き相見ながら
                  又はすっかり夜を明かそう。
 
 解説
 この歌が人麻呂とすると、人麻呂のバックの勢力であった
 高市皇子が大津皇子と大伴卿(大伴安麻呂-旅人の父、家持の祖父)
 との連携を妨げたともとれる。
 つまり、長永(アシエイ)を「アシえぐり」(持統のぞき)とせず、「アシ」(持統)が
 「大津皇子と山辺皇女えぐり」に動くことになる。
 この歌はどちらにもとれる微妙な歌なり。

 以上、李 寧熙女史解説
 2019年10月9日書
 
 
 
          ダラジョ(チ)ネジ バガ ヤヌエ ネ ミ ウン マ ソ  ボ ソ
 巻12-2991  垂乳   根之 母我養蚕乃 眉隠 馬声 蜂音
          イシ ゴジ ジョツ(チ)ゴチロ イ メ(モイ)プル サンイ
          石 花  蜘 ろ  荒鹿 異母二 不 相而
 
 (従来読み下し文)
 たらちねの母が飼(か)ふ蚕(こ)の繭隠(まよごも)り 
 いぶせくもあるか妹(いも)に逢はずして。
 
 (従来解釈)
 足乳根の母が飼う蚕の繭ごもりするように、
 心がこもってうっとうしいよ。妻に逢わずに。---中西 進先生解釈
 
 (真の意味)
 垂れまら(ペニス)を出そう、はめ込み臥せよう
 憎んでは下さるな、ちょっとあなた、たてつづけまら(ペニス)が
 手荒いので、このほと(女陰)が可哀そう。
 
 (真の大意)
 「たれまら(ペニス)を、こうして押し込んでいるけど
 恨んでだけはくれないで欲しいよ」(男)
 「でもあなた、そんなに荒々しくては、この私のほと(女陰)が
 気の毒だと思いませんか」(女)
 
 (語句解説)
 垂乳根之(ダラジョ(チ)ネジ)=甘い乳を出す。(表詠み)
                  =垂れまら(ペニス)を出す。(裏詠み)
 母我養蚕乃(バガヤヌエネ)=垂れ(足)まらを出そう、入れて臥せよう。
                  母=はめる
                  我=入れる
                  養=---して
                  乃=---するよ
 眉隠(ミウン)=憎んでは---
 馬声(男性)(マソ)=---しないで
 蜂音(女性)(ボソ)=ちょっとあなた!(見て下さい)
 石花蜘ろ(イシゴジジョツ(チ)=たて続けまら(ペニス)
                   (たて続けに何回も攻めてくる男性の行為を意味している。)
 荒鹿(ゴチロ)=荒々しいので
 異母二不相而(イメ(モイ)プルサンイ)=
 異(イ)=この
 母二(メエ(モイ)=山(女性)(女陰)
 不相而(プルサンイ)=可哀そうよ
 
 以上、李 寧熙女史解説
 2019年10月11日書
 
 
 
 
 
 巻6-1042 市原王の御歌 744年作(27歳)弾琴の名人、養老16年(744年)1月11日、
                 活道(イクジ)の岡に登り、一株の松の下に集ひて飲む歌二首。
 
 一松 幾代何歴流 吹風乃 声之清者 年深香間
 
 一つ松 幾代か経ぬる吹く風の声の清きは年深みかも。
 
 一松=藤原不比等その子房前。幾代何歴流=頼って暮らせ。吹風乃=寒さが失せる。
 声之清者=絡まないようにしよう。年深香間=咎めが手強い。
 
 (従来訳)
 このひともとの松は幾代を経ていることであろうか、この松を吹く風の音が清澄なのは、
 久しい年を経ているからであろう。
 
 (真の意味)
 藤原不比等とその子、藤原房前(ふささき)(藤原「北家」の祖)派に頼って過ごしなさい。
 「寒さ(貧乏・恐怖)をしのぐ事が出来ます。兎に角、ひねくれず絡まないようにしましょう。
 咎が手強くて手に負えませんからね。(李 寧熙女史訳)
 
 市原王は天智天皇の第7皇子の志貴皇子(光仁天皇の父)の曾孫で安貴王の子
 763年東大寺造営長官、写経司長官、妻は光仁天皇の皇女、能登内親王
 (巻6-1043 大伴宿祢家持(718年生まれ)の歌一首とペアをなしている。 
 2017年6月10日書
 
 
 
 「大和三山」の歌をめぐる中大兄、大海人そして額田王(蘇我蝦夷父子?)との三角関係説
 
 巻1-13 中大兄皇子近江宮に天の下知らしめしし天皇の三山の歌
 
       ウネビオオ   ミミナシ アヒ        カミ    カ
 香具山は畝火雄々しと 耳梨と相あらそひき 神代より 斯くにあるらし 
 イニシエ シカ               ツマ
 古昔も然にあれこそ うつせみも 嬬を あらそふらしき
 
 高山波 雲根火雄男志等 耳梨与 相諍競伎 神代從 
 如此尓許曾 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉
 
 (表面上の意味)
 香具山は畝傍山を雄々しいと感じ、その愛を得ようと耳梨山と争っている。
 神代から争っていたらしい、昔もそうだったから、今も妻を争っているらしい、と云うのである。
 
 香具山=中大兄皇子を暗示  中大兄皇子(百済武王の子、翹岐の事)の天皇即位前の歌。
 畝傍山=蘇我蝦夷を暗示    翹岐として倭国に亡命して間もない頃の歌。
 耳梨山=大海人皇子を暗示  
 結論:この「大和三山」の歌は蘇我蝦夷父子一族をめぐる中大兄皇子と大海人皇子の確執の歌で、
    額田王との三角関係を歌ったものではない。---小林恵子著-「万葉集で解く古代史の真相」
    祥伝社より。
 
 
 
 反歌
 巻1-14 香具山と耳梨山とあひし時、立ちて見に來し印南國原
 
      高山与 耳梨山与 相之時 立見尓來之 伊奈美國波良
 
 (意味)
 香具山と耳梨山が互いに畝傍山を味方にしたいと争った時に、蘇我蝦夷父子が
 その様子を見に来たのが、ここ印南国原です。
 
 
 
 反歌
 巻1-15  わたつみの豊旗雲に入日見し 今夜の月夜さやに照りこそ
 
      渡津海乃豊旗雲尓 伊理比弥之 今夜乃日夜 清明己曾
 
 (真の意味) 「海人(大海人)が動き出した、同盟はこわれたので伊理(入鹿一族)を斬り出そう
        今こそ私(中大兄)が聳え立って頂上(王)目指そう。」(李 寧熙女史訳)
 
 右一首の歌、今案ふるに反歌に似ず。ただし、舊本此の歌を以ちて反歌に載す。
 故に今なほ此の次に載す。また、紀に曰はく、天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)の先の四年乙巳に
 天皇を立てて、皇太子となすといへり。
 2017年4月11日書
 
 
 
 巻2-91   近江大津宮の天智天皇、鏡王女に賜う御歌一首
 
 いもがいへも つぎてみましを やまとなる おほしまのねに いへもあらましを
 妹 之家 毛 継而見麻思乎  山跡 有  大 嶋  嶺尓 家 母 有 猿尾
 イモ ガガ モ ゲェイ ミ マシ オ  ヤマトヲアラ  オボヲシマ ミネニ  ガ モ アラ マシオ
 
 (従来訳)
 あなたの家だけでも いつも見られたらよいのに 大和の国の 
 大島の嶺に あなたの家でもあればよいのに。
 
 (本来訳)(李 寧熙女史訳)
 妹が行かれよ 怪異な動きに対峙されよ 大和の子 
 大嶋が動こうとしているので 行き それに対峙されよ。
 
 (大意)
 あなたがお嫁に行ってください 不穏な動静を鎮めて下さい。
 大和の者である大鍛冶場主(藤原鎌足)が動き出そうとしています。
 (お嫁に)行って、その者(鎌足)を鎮めて下さい。
 
 
 
 巻2-92   鏡王女の和(こた)へ奉る歌一首
 
 あきやまの このしたがくり ゆくみずの われこそまさめ  おもほすよりは
 秋 山 之  樹 下 隠   逝 水 乃 吾  許曾益目  御 念  従者 
 アキ メエ ガ  コ アラ ガクリ  ガ ミ  ネ ナ  オジュクマッスモ ミヨヲメ  ヲリジャ
 
 (従来訳)
 秋山の 木陰をひそかに 流れてゆく水のように 私のほうこそ深く
 思っているでしょう あなたが思ってくださる以上に。
 
 (本来訳)(李 寧熙女史訳)
 
 秋(天智)の女が、子は一存で育てよう 行き、ひたすら「動き」に対応せむ
 身をただし嫁がむ。
 
 (大意)
 あなた(天智天皇)の女(である私、鏡王女)が、(お腹にいる大海人の)子供は
 うまくとりはからい育てます。
 (鎌足に)嫁いで、ひたすら不穏な動きにあたり、
 身をただし交(まじ)わるようにしますので、ご安心下さい。
 
 *注1 鏡王女は、百済の武王と新羅真平王の娘、善花公主との間に生まれた女性で、
 皇極元年(642年)正月、中大兄(百済王子の翹岐)(後の天智)らと共に日本に
 亡命したものと推定される。(百済王の娘であり、新羅王の孫でもあった。)
 
 *注2 舒明天皇(593〜641年)は、百済の武王(ムワン)(?〜641年)に比定される。
 
 *注3 不比等は鏡王女と大海人の子で、不比等を孕んだまま藤原鎌足に嫁いだ。
     (鏡王女は大海人(後の天武)に犯され、子を孕んだのでは。)
 
 *注4 藤原鎌足は不比等を孕んだ鏡王女を無理に押し付けられたのではないか。
 
 *注5 元明天皇(女性)と元正天皇(女性)(二人は双子姉妹)は鏡王女の娘。
 
 *注6 不比等と元明は同母姉弟で、元正とも同様、文武天皇亡き後、権力を
     一手に握っていた不比等が、辞退する元明を否応なく皇位に就けたのも
     これで釈然とする。聖武を皇位に就ける為の時間稼ぎの大役は、信用できる
     同母の姉を置いてはいなかったと思える。
 以上、李 寧熙女史の解説です。 
 2017年2月27日書
 
 
 
 巻18-4071   大伴家持歌
 之奈射可流 故之能吉美良等 可久之許曾 楊奈疑可豆良枳 多努之久安蘇婆米
 
 しなざる 越しの君らと かくしこそ 柳かづらき 楽しく遊ばめ。
 
 (従来訳)
 しなざかる越の諸君と こうやって柳を縵(かずら)にし 酒を飲んで楽しく遊ぼう。
 
 (本来訳)(表読み)
 品物を包みて行く 買いに行く 越の君たちに(会いに)行きたいよ
 柳をかつらにして 楽しく遊ぼうよ。
 
 (本来訳)(裏読み)
 品物を包みに行け 越は橘を後押ししてくれ 育てられたい 
 勢力の維持・防備すべて劣勢で不足しているので。
 (李 寧熙女史訳)
 
 但し書
 右、郡似司巳下子弟巳上諸人多集此會。因守大伴宿祢家持作此歌也
 (右は郡司巳下子弟巳上の諸人多く此の會に集う。因りて守、大伴宿祢家持此の歌を作れり。)
 *家持は越中の地方行政にたずさわっている有力者を集めて「飲めや歌えや」の宴の途中
 「橘をよろしく頼む」と歌で勢力糾合を計っているのである。
 **家持はなぜ越の人に協力を求めたのか?
    橘家のライバル藤原家は「百済系」、越は「親新羅・反百済」であったので!!
 (解説)
 之奈射可流=品物を包みに行く。 故之能吉美良等=越の君たちと。 可久之許會=行きたいよ。
 楊奈疑可豆良枳=やなぎをかつらにして。 多努之久安蘇婆米=楽しく遊ぼうよ。
 
 
 
 参考
 巻17-3993   大伴池主長歌  最後の部分
 
 波流佐良婆 波奈能佐可利尓 可母加久母 伎美我麻尓麻等 可久之許會---
 
 春さらば 花の盛りに カモカクモ 君がまにまと カクシコソ---
 
 (従来訳)
 春が来たら花の盛りに、とにもかくにもあなたのお供をして、
 こうやって見に来て気を晴らしましょう---
 
 (本来訳)
 春が来たら花の盛りに行くよ行く、君について切に行きたい---
 
 (李 寧熙女史訳・解説) 2017年2月10日書
 
 
 
 巻4-488  額田王 御歌
 
 君待登 吾恋居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹
 
 君待つと我(あ)が恋ひ居(を)れば、我がやどの簾(すだれ)動かし、秋の風吹く
 
 (従来訳)
 あなたのおいでを待って、わたしが恋い慕っていると、
 私の家のすだれを動かして秋の風吹く。
 
 (本来の訳)
 あなた(天智天皇の事)に抱かれて、おとなしく赤子を産もう、
 赤ちゃんよ おいでよ足を動かして赤ちゃんを待つ。
 (李 寧熙女史訳) 2017年2月7日書
 
 
 
 
万葉集 巻19-4268 孝謙天皇御歌
太后天皇共幸大納言藤原家之日、黄葉沢蘭一株抜取、
令持内侍佐々貴山君、遣賜大納言藤原卿并陪従大夫等御歌一首 
命婦誦曰
「此里者 継而霜哉置 夏野尓 吾見之草波 毛美知多里家利」(全集)
従来の訓み下し文
「天皇(すめらみこと)・太后(おほきさき)共大納言藤原家に幸(いでま)す日に、
もみてる沢蘭(さはあららぎ)一株(ひともと)抜き取り、
内侍佐々貴山君(ないしささきやまのきみ)に持たしめ、
大納言藤原卿と陪従(べいじゅ)の大夫等とに遣し賜ふ御歌一首。
命婦誦(まやうぶよ)みて曰く
「この里は 継ぎて霜や置く 夏の野に 我が見し草は もみちたりけり」(全集)
従来の大意
天皇・太后がお揃いで大納言藤原(仲麻呂)家に行幸された日に、
黄色に色づいた沢蘭(さはあららぎ)一本を抜き取って、
内侍佐々貴山君(ないしささきやまのきみ)に持たせ、
大納言藤原卿と付き従う大夫らにお遣りなったお歌一首。
命婦が吟詠して云うには
「この里は 年中霜が置くのだろうか 夏の野で わたしが見た草は 色づいていた」(全集)
この「黄色に色づいた沢蘭一本を抜き取って誦まれた孝謙天皇の御歌は、
なんと「行き届かない」「及ばない」というお叱りのメッセージだったのである。
真の詠訓み下し文
「此里者 継而霜哉置 夏野尓 吾見之草波 毛美知多里家利」
「イサトヲシャ イッデシモジェドヲ ナツノニ アレボジグジャバ モミチダリガリ」
「この鉄処は たて続けに鉄集めては積んで置き 夏だといって遊んでいるので
私が行って見たところ 鉄吹き・鉄磨きすべて足りない」
真の大意
「この鉄作りの里は、やたら砂鉄を集めては、ただ積んで置くだけ。
夏はお休み、仕事をしない。行って様子を調べて見たら、
製鉄も鍛冶もすべて行き届いていないのです」
語句解説
「此里者」(イサトヲシャ)=この鉄の場は。
8世紀、日本語は確実に成立期を迎える。
古代韓国語から変転した形の古代日本語である。
例えば、「春」は「ひろげる」の意の古代韓国語バルル(バルとも)から
「ばる」?「はる」と日本語に変転してきた。
春になると、農作業などの仕事を一斉に繰り広げるところから、
「ひろげる」季節の意で、このようにネーミングされたものと思われる。
「万葉集」には主に、このような、「春」をバルとする「古代韓国語から
古代日本語になる段階の言葉」で詠まれて居るが、
孝謙天皇の時代になると、この「バル」は殆ど「ハル」音に近い
「FaL」と発音されていたようだ。
急速な日本語の進歩のあり方を、後期の万葉集の中に確認できる。
「此」は韓国語で「イ」と訓める。「此」の意。
「里」は日本語で「さと」訓める。この「さと」音をサトヲと云う
韓国語に宛てはめている。
「サ」は「鉄」、「トヲ」は「所」。
「サトヲ」とは「鉄処」「鉄の場」の古代韓国語である。
「者」は日本音読みで「しゃ」。この「しゃ」音を「・・・は」の意の
韓国語「シャ」に宛てている。
「此里者」は韓国語で、「イサトヲシャ」と読める。
「この鉄処である里は」と解釈されよう。
「里」一字に、元来の「人里」の意味と、「鉄処」の意まで含めている。
繊細な詠み方である。
「継而霜哉置」(イッデシモジェドヲ)=たて続けに鉄集めて積んで置き。
「継」は「続く」「続ける」の意の韓国語「イッ」 「而」は日本式漢字の訓よみで「て」。
この「て」音で韓国語の「デ」を表わす。
「継而」ニ字で「イッデ」 「たて続けに」の意である。
11月は霜の降りる月でもあるが、古来「鉄を集める」月でもあった。
1年の農作業を終える月が11月である。
春先から使い始めた農機具(鉄器)を当局に納め、
冬の間の修繕やリサイクルを経て、新しく借り直す為、
「鉄を集める」月が11月だったのだ。
鉄は「サ」とも「シ」「シィ」・「ス」・「セ」・「ソ」とも呼ばれた。
「モ」は「集める」「集め」の意の韓国語。現代語の動詞は「モウダ」。
11月は「鉄集め」つまり「シモ」の月。
この「シモ」を「しも」と呼ばれていた漢字「霜」で表記した。
以来、11月は「霜月」と呼ばれるようになったのであろう。
この歌でも「霜」は「鉄集め」の意に用いられている。
「哉」は韓国式漢字音よみで「ジェ」。日本式訓よみで「や」。
「ジェ」は「積み重ねる」を意味する古代韓国語の語幹。
現代語では「ジェンイダ」である。
「置」の日本式訓よみは「おく」「おき」。
韓国式訓よみは「ド」「ドヲ」。
以上「継而霜哉置」は日本式訓み下しで
「つぎてしもやおく」(又は「おき」)となる。
韓国語で訓み下せば「イッデシモジェドヲ」で、
「たて続けに鉄集め、積み重ねて置き」の意となる。
日・韓両語共に同義の二本立て。並みならぬ才能である。
「夏野尓」(ナツノニ)=夏、休んでいるので。
「夏」は、そのまま日本語で「なつ」と訓む。
「夏」(なつ)は当時から既に日本語であったが、
「低い」の意の「ナジュ」と云う古代韓国語から
日本語になった古い言葉だ。
1年を通して太陽が一番「低く」なる暑い季節と言うことで、
夏は「ナジュ」と呼ばれたのである。それと、夏はまた、
穀物の実る時なので、穀物の意の「ナッ」、
五行説により一年を朝昼夜に分けると、
火にあたる夏は昼にあたることから
「昼」の意で「ナッ」(ナヂと発音)ともされていた。
これらが日本語「夏」(なつ)の語源なり。
驚くべき事に、孝謙天皇は裏詠みで、
この「夏」を「低い」の意の「ナジュ」として歌を詠んでいる。
夏の語源を知っていたのではないか。
「野」は古代韓国語でも日本語でも「ノ」(の)とよめる。
この「ノ」音を「休む」「遊ぶ」の意の韓国語「ノ」にあてている。
韓国語に於いて「休む」と「遊ぶ」は、同音同義語である。
韓国人にとって「休む」ことは「遊ぶ」ことなのである。
「尓」は韓国式音よみで「イ」。日本式音よみは「に」。
この「に」音を「・・・ので」の意の韓国語「ニ」にあてている
。しかし「イ」として詠んだとしても意味は同じ「・・・ので」になる。
韓国語の場合、「ニ」音と「イ」音は相互交替するからである。
以上「夏野尓」三字で、「夏、休んでいるので」となる。
「夏だといって休んでいる(遊んでいる)ので」の意。
砂鉄を集めてお倉に積んで置いたまま、暑いからといって製鉄作業もせず、
遊んでいる状況をあらわしている。
「吾見之草波」(アレボジグジャバ)=我(われ)見る「固め」は。
「吾」は日本式訓よみで「あ」「あれ」。「我」「私」の意の代名詞である。
ここでは「あれ」を用いている。「私」の意の古代韓国語「アレ」は、
高句麗風の言葉遣いである。
従来の訓み下し文では、「吾」一字を「あが」または「わが」と訓ませている。
しかし、この「が」は、格助詞の「が」であって、
「吾」一字だけで「あが」と訓む事は出来ない。
おそらく五・七・五・七・七の音律にあわせる為、
「あが」「わが」などと「が」音を加えて訓み下したと思われる。
要するに「勝手訓み」である。
「見」は韓国式訓よみで「ボ」、日本式訓よみでは「み」。
しかし三国時代の百済式古訓では、「ミ」に近い「マ」音だった。
「見」と云う意味。
「之」は韓国式音よみは「ジ」。日本式音よみでは「し」。
「見之」二字で「見る」の意の「ボジ」。
「草」の韓国式訓よみは「グジャ」。「まぐさ」の事だが、
ここでは、この「グジャ」音を「固め」つまり、
製鉄の意の「グジャ」(グチ・グチュとも呼んだ)にあてている。
砂鉄を溶かして固める「たたら製鉄」の事である。
「波」は「パ(バ)と音よみされる。「・・・は」の意の係助詞。
「吾見之草波」五字で、「アボジグジャバ」。
「我見る固め(製鉄)は」と訓み下している。「私の見る鉄仕事は」の意。
「毛美知多里家利」(モミチダリガリ)=足りぬ、吹き鉄・磨き鉄。
「毛美知」(もみち)は、今でも使われている韓国語「モッミチ」。
つまり、「行き届かない(こと)」
「及ばない(こと)」をあらわす古い言葉であること。
言い換えれば、「足りない(こと)」の意。「水準以下」「落第」をも指す。
「多里」は、韓国式漢字の音よみで、「ダリ」とよめる。
「熱する(こと)」「煮詰める(こと)」「熱せられて赤くなる(こと)」を示す語。
たたら製鉄における銑鉄・鋼鉄作り指す。
古来、鉄を吹く精錬炉を「鑪」(たたら)と呼んできたが、
これは「非常に熱する(こと)」をあらわす韓国語「ジャルダラ」の
古語「ダルダラ」が転音した語である。
これが日本語鑪(たたら)の語源なり。
「家利」も、韓国式音よみで、「ガリ」とよめる。
「磨(と)ぐ(こと)」つまり「鍛冶」を指す。
以上七字「毛美知多里家利」は「モッミチダリガリ」とよめる。
「足りぬ、吹き鉄・磨き鉄」の意で、「吹いて固めた鉄材も、
磨き上げた鉄器も、すべて足りない!」と叫んでいることになる。
東大寺建立及び大仏造立には、膨大な資材が投入された。
「東大寺要録」は、純度の高い熟銅739,560斤(1斤=0.6Kg)(約450トン)、
錫と鉛の合金白鑞(ろう)12,618斤(7,570Kg)、
錬金(精錬した黄金)10446両・水銀58,620両・
炭16656石(一石=0.28m2 4,700m2)などを列記している。
しかし、何故か、用いられた鉄の量は明らかにされていない。
それは鉄筋から鉄釘に至る基礎資材をはじめ、
基礎工事・伐採などに用いられた鉄器や、
銅の溶解・役夫の食事用鉄釜のたぐいなど、
それこそ想像を絶する、おびただしい数量であったに違いない。
大仏成って、国の鉄は底をつく状況だったのか。
大仏開眼供養の日、孝謙天皇が製鉄督励の為の歌を
居並ぶ重臣の前で詠んだのは、
このような危機意識によるものだったかも知れない。
平城京の佐保川は「鉄見川」の意。
「佐保」は韓国式漢字の音よみで「サボ」とよめる。
「サ」は「鉄」、「ボ」は「見」の意。
サボ川とは「鉄見川」のことである。
以上 李 寧熙女史解説
2021年02月03日書
 
 
 
 
 
  巻19-4224  藤原(光明)皇后御歌(725年5月、2回目の
          吉野行きに夫婦行幸した時の作なり
          光明皇后(701年〜760年没)
          父:文武天皇(光源氏)、母:三光の娘(明石上)
 
 朝霧之 多奈引田為尓 鳴雁乎 留得哉 吾屋戸能波義
 
 
 右一首歌者、幸於吉野宮之時、藤原皇后御作。
 但年月未審詳。十月五日、河辺朝臣東人伝誦云尓。
 
 (従来の訓み下し文)
 
 朝霧の たなびく田居に 鳴く雁を 
 留め得むかも 我がやどの萩
 
 (その大意)
 
 朝霧の たなびく田んぼに 鳴く雁を 
 引き留めきれるだろうか わが家の
萩は。
 
 (真の訓み下し文)
 
 アサギリジ ダネ ビキタ ナスイ ナギアンオ(アノ)
 朝霧之  多奈引田 為尓 鳴 雁 乎
 
 ドヲドヲムエエジェ  オ ヤ トヲ ヌン パキイ
 留   得 哉  吾屋戸 能 波義
 
 (真の解釈)
 奪いかえし 道ぞ すべて差し出し
 退きし地に 来たれば 驢馬(ロバ)知るや
 探りつつ行くよ 親様の場は変れり。
 
 (真の大意)
 吉野の道は「奪え返した道」です。
 財産・地位・権力、すべて投げ打ち
 かって隠棲されたこの地に
 私たちは今やって来たのです。
 驢馬は知っているかのようです。
 新しく様子が一変したので
 探り探り道を歩いているようです。
 お父様(文武天皇)のおられた場は
 大きく変わったのです。
 
 (語句解説)
 朝(アサ)=奪いとった。
 霧(ギリ)=道
 之(じ)=だ・ぞ
 朝霧之(アサギリジ)=奪いかえし道ぞ。
 多(ダ)=すべて
 奈(ネ)=出す・内から外へ移す。差し出す。
 引(ビギ)=(身を)避ける・かわす・退く。
 多奈引(ダネビキ)=全てを差し出し退く、こと。
 田(タ)=地
 多奈引田(ダネビキタ)=全てを差し出し退いた地=吉野の事。
 為(ナス)=出る・出かける。
 尓(イ)=に。

 多奈引田為尓(ダネビキタナスイ)=全て差し出し退きし地に来たれば。
                     「来たれば」で行幸を表している。
 鳴(ナギ)=驢馬(ロバ)。
 雁(アン)=知っている。
 乎(オ)(アノ)=のか。
 鳴雁乎(ナギアンオ・ナギアノ)=驢馬(ロバ)は知っているのか。新羅風の語尾。
 留(ドヲドヲム・トドム)=探る・手探りする・たどたどしい、事を表す。
 得(エエ)=行く。
 哉(ジェ)=---するよ。(新羅言葉)
 留得哉(ドヲドヲムエエジェ)=探りつつ行くよ。
                 「修築改造された吉野宮一帯を、天皇・皇后は
                 驢馬(ロバ)に乗って確かめながら行く。
                 以前に比べ、一変しているので、驢馬の歩みも
                 たどたどしい。驢馬(ロバ)が道をよく探せず、
                 探りつつ行く」巧みな表現である。
 吾屋(オヤ)=親のこと。
 戸(トヲ)=敷地・台地・場所。
 能(ヌン)=---は。
 吾屋戸能(オヤトヲヌン)=親様の場は。
 波(パ)=バと発音。
 義(キイ)=ギの発音でキイを示す。
 波義(バキイ)=代わる。 吉野は改築され、かっての親様(文武天皇)の場は
                見違える程変わったと表現されている。

 李 寧熙女史解説
 2020年2月8日書

 

 巻20-4516  万葉集最後の歌(天平宝字3年・759年作) 大伴家持
 原歌     新 年 乃  始乃 波都波流能 家布敷流 由伎能 伊夜之 家餘其騰
 ハングル読み サラドゥジネ  シ ネ  バト バルヌン ヤボ ブ ル ユキ ヌン  イ ヤ ジ ケ ヨ グ ドウ
 (従来訳)
 新しい年の初めの初春の今日降る雪の様に積もれよ良い事。
 
 (本来の訳)
 新羅征討の旨、お出しなられる。防備を固め、矢降り浴びせよう。
 靫(ゆき)など武具は、日に夜を継いで作れ。
 (李 寧熙女史訳)
 
 2017年2月7日書
 
 
 
 巻1-10   中皇命(なかつすめらみこと)、紀の温泉に往しし時の御歌
 
 君之歯母 吾代毛所知哉 磐代乃岡之草根乎 去来結
 
 (従来訳)
 あなたの命も私の命も支配していることよ、
 この磐代の岡の草を、さあ結びましょう。
 
 (本来の訳)
 仲違いして歯向うから潰されるのです。
 やたらあちこち動き廻って変なことすると
 叩かれますよと、いつも私が言ったでしょう、
 一体どうやってこの問題を解決するつもりなの、
 伽耶の人は、今何人残っていると思う。
 (李 寧熙女史訳)
 解説:磐代乃=和歌山県日高郡南部町岩代
        磐=伽耶出身者と推定される。
 
 有馬皇子(孝徳の皇子、母は阿倍倉梯麻呂の娘、
 小足媛(おたらしひめ))が白浜温泉に護送された時、
 間人皇后が付き添って行く途中での御歌である。
 
 斉明4年(658年11月9日)白浜に護送、訊問、
 658年11月11日海南で絞首刑に処せられた。
 享年19歳
 
 中皇命(なかつすめらみこと)(間人皇女・舒明天皇の皇女)
 (母は斉明天皇・天智の妹)
 (孝徳天皇の皇后、難波宮、中大兄皇子に連れられ斉明と飛鳥に帰った。)
 (孝徳没後、間人皇女を名義上の天皇とし、間人没後(665年2月)も
 天智は称制し、天智7年(668年)天智は天皇として即位した。
 (上記解説:李 寧熙女史)
 
 
 
 巻14-3467  作者不詳 夜這いの歌
 
 オグバムマツヌン マゲネ イ ッ デオ ドドウドジデ
 於久夜麻能 真木乃伊多度乎 等杼登之弖
 
 バ ガベラ  ム ニ  イ リ ギデネジャネ
 我我比良可武尓 伊利伎弖奈左祢
 
 (従来詠み下し文)
 おくやまの まきのいたどを とどとして
 わがひらかむに いりきてなさね
 
 (従来解釈)
 奥山の真木造りの板戸をどんどんと押して
 私が開けたら はいって寝なさい。
 
 (真の意味)
 訪ね来て夜を迎える マゲは、たて続けにあてよう
 立ち興し刺し切りしよう ここに凭(もた)れ出して寝よう。
 (以上解説:李 寧熙女史)
 2019年12月11日書
 
 
 
 巻16-3888   作者不詳  *負け戦を予言した歌なり
         (大水軍全滅を予告した怖ろしい歌である)
 
 奥国 領君之 染屋形 黄染乃屋形 神之門涙
 
 (従来訳)
 沖の国を治める大王の 屋形舟 丹塗りの舟が海峡を行く。
 
 (本来の訳)
 這(ほ)う這(ほ)うの体(てい)で、帰ってくるのさ、
 大軍引き連れて行くけれど、ずらり勢揃いでお出ましだけど、
 行って敗れて追い詰めれられて 帰って来るのさ、負け戦。
 (李 寧熙女史訳)
 
 解説:百済救援の為(663年)中大兄皇子が送り込んだ船団(約27,000人)は、
 百済の白村江(錦江、河口)で唐の軍船170艘と対峙し、2日間の戦闘の末、
 大敗した。(陰暦8月27、28日)
 倭船1,000艘のうち400艘を焼く。翌9月7日百済最後の山城、卅柔城(つねさし)が
 陥落「百済国」が滅亡した。
 日本軍の残存船が百済の高官を乗せ博多港に向かった。(9月25日)
 2017年2月6日書
 
 
 

 巻1-15   中大兄皇子御歌
 
 パダチミ ネ ドンエギウニ イリ ビネ ジ イジャヤネドグヤ マルパタコジュ
 渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比弥之 今夜乃月夜  清明己會
 
 (従来の読み下し文)
 わたつみの 豊旗雲に入日(いりひ)さし 
 今夜(こよい)の月夜(つくよ)さやけかりこそ。
 
 (従来の解釈)A
 大海原の豊旗雲に入日がさしている 
 今夜の月は さやかで有って欲しい。
 
 (従来の解釈)B
 海の神がお示しになる豊かな美しい旗のように
 靡く雲に、今しも入日がさしこんで 
 おお、今宵の月はきっとくっきりと美しいことであろう。
 
 (本来の意味)
 大海人が動き出した。同盟は崩れたので伊理(入鹿一族をさす)を
 斬り果たそう、さあ、今こそ私の番だ、聳え出て頂上(王)を攻めよう。
 *これは入鹿暗殺の歌。
 **同盟=高句麗系・伽耶系の鉄づくり同士の連携。
 (李 寧熙女史訳)
 
 (解説)
 渡津海乃=海人動く。   
 豊旗雲尓=同盟傾きしに。 
 伊理比弥之=伊理(入鹿)斬り出だせ。
 今夜乃月夜=今こそ我聳え。  
 清明己會=頂突き刺しむ
 2017年2月6日書
 
 
 

 巻1-75   長屋親王(676年生〜729年) 
         (高市天皇(皇子)の第一皇子)  
         木簡に「長屋親王宮」との記入あり。
         697年作(高市天皇(皇子)没後の作)
 
 宇治間山 朝 風 寒 之 旅尓尓手 衣応 借妹毛 有勿久尓
 ウ チ ガンメ アサガゼチャムジ タビイ シ ソ  ゴロムン ガルメ ト  ア ル ク ゙イ
 
 (従来訳)
 宇治間山の朝風が寒い旅先で衣を貸してくれそうな女(ひと)もいないのに。
 
 (本来の訳)
 お上(かみ)(高市天皇)が亡くなられたのだから 権力や財産などを奪われても
 耐え忍ぶしかない。すべて放棄しなさい。そうすれば配流にすることも
 自ら弁(わきま)えて、なさらぬであろうから。
 (李 寧熙女史解説)
 
 *この御歌は「吉備内親王」(後の元正女帝)宛のメッセ-ジ也。(至急電)
 高市天皇(皇子)は654年生〜696年8月13日没。
 元明天皇は草壁皇子の妻。  
 高市天皇(皇子)は天智天皇の第一皇子(母は済州島(耽羅国)高氏)。  
 2017年2月3日書
 2017年5月12日改
 
 1月23日、キトラ古墳(埋葬者:高市皇子?)壁画「玄武」像の修復実物展示と
 高松塚古墳(被葬者:忍壁皇子?又は天武天皇?)壁画「西壁女子群像」
 公開他を雪が舞う中、見学してきました。
 往時にタイムスリップした感じで大変よかっです。
 特に、高松塚の被葬者である忍壁皇子?又は天武天皇が生前に遺言として
 「石室内壁面に兄弟姉妹や知人友人に見送って欲しい」ので、
 その様子を藤原京で祭礼儀式で着飾った姿で描いて欲しいと
 頼んでいたのでは、と考えれば良く理解できるのではないでしょうか。 
 2017年1月23日書 5月12日改

 
 
 

 巻1-17  天智天皇御歌(この御歌は中大兄皇子の心を額田王が代詠したもの)
                (慶尚道(新羅と伽耶の故地)方言で歌っている。)
 味酒 三輪乃山 青丹吉 奈良能山乃 山際 伊隠万代 道隈 伊積流万代尓 委曲毛 
 見管行武雄 数々毛 見放武八 万雄 情無 雲乃 隠障倍之也
 
 (従来訳)
 三輪の山よ、奈良山の山の間に隠れてしまうまで道の多くの曲がり角ごとに、
 よくよく見て行こうと思う。しばしば眺めてやろうと思う。
 その山を無情にも雲が繰り返し繰り返し隠してもよいものであろうか。
 
 (本来の訳)
 うまし酒の三輪の者よ集まれ(彌鄒(みつ)人よ、私を憎まないで欲しい)
 ぽっかり空いている盆地の奈良の者は集まる。
 (一致団結して勝つ国の者は集まる)集まって近江に行くのだ、
 新しい都に、全部行くのだ。
 長い行列を組んで引っ越して行くのだ。
 これをどう止めようとするのかね。(李 寧熙女史訳)

 (真の意味)
 皆の者、信じて一緒に行って欲しい。行ってくれ、どうか一緒に行ってくれ。
 私への憎しみには誇張が多すぎる、無念なことだ、貊(くま)の者たち、
 どうだ一緒に行きたがっているように見えないか。
 *貊(くま)=北方系渡来系半島人。
 (解説)
 この歌は額田王が狛(コマ)=高麗(コマ)つまり高句麗将の「蓋蘇文」こと「大海人皇子」に
 天智天皇の近江遷都に従うよう促している歌である。
 しかし、大海人が近江京に居を移した様子はない。
 
 百済滅亡---660年(新羅と唐の連合軍によって)
 百済国完全滅亡---663年(白村江の戦)
 百済王子(翹岐(ギョウギ)(後の天智天皇)北九州より大和に帰った---666年
 近江遷都---667年3月19日
 天智天皇即位---668年正月
 
 
 
 巻1-18  井戸王
 
 三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳 情 有  南 畝 可苦佐布倍思哉
 ミバ ヤマオ  グラモガクガ グモダニモ ヲゴロアランナ  モ ガ コ ゙ジャブペサジュ
 
 (従来訳)
 三輪山をそんなに隠すことか せめて雲だけでも思いやりがあってほしい 
 隠してもよいものか。
 
 (本来の訳)
 憎まないでおくれ そう言えば行ってくれるのか 貊(くま)が歩き廻るっている 
 心を察したたであろう行きたがっているように見えるだろうが。(李 寧熙女史訳)
 
 (真の意味)
 憎まないでおくれと言えば一緒に行ってくれるか 三輪の貊(くま)たちが
 行ったり来たりしている。私の心を察してくれたのであろう。
 しきりに行きたがっているように見えるがね。
 *貊(くま)=北方系渡来系半島人。
 
 天智天皇は百済からの渡来一世。倭大后は百済からの渡来三世。
 天智天皇と古人大兄の父は舒明天皇
 古人大兄は天智天皇によって殺害された。
 *倭大后は天智天皇の皇后で古人大兄の娘。
 2017年2月2日書

 
 
 

 巻1-28 持統天皇御歌
 
 はるすぎてなつきたるらししろたえのころもほしたるあめのかぐやま

 春 過而 夏  来 良之  白妙 能 衣 乾 有 天 之 香 来山
 ポムジナイ ヌヨルムオル ラン ガ サロダペヌン ゴロムプシアル ジアビガ ヒャンゴンメ
 
 (従来の解釈)
 春過ぎて夏が来たらしい真っ白な衣が干してある天の香山に。
 
 (真の解釈)
 春が過ぎて夏がやって来るのでしょうか、
 白い肌着の衣の紐をおほどきになる
 貴方から(いつになく強い)香りが漂います。
 *貴方=文武天皇の事。
 **ようやく私たちの時代が来るのだろうか、
 新羅との繋がりをほどくあの人が香しいので。
 
 唐の後押しや高市皇子と組んで大津皇子が「親(天武天皇)斬り」の反乱を起こした。
 そして8月5日天武没する。その後、持統天皇により(大津皇子の反乱)は拡大せず
 高市皇子側の勝利となって収束、(大津皇子没)その10年後、高市皇子をも成敗、
 文武天皇を即位させた後、その5年後、持統天皇は没した。
 尚、高市皇子は天武と共に天智天皇に反旗を掲げ壬申の乱を起こしたが、
 乱後は仲間割れし大津皇子と共に「天武排除」 に動いた。
 持統は大津皇子の「親殺し」を煽った人物では?
 以上 李 寧熙女史解説。
 2017年2月1日書
 
 
 

 1-7 天豊財重日足姫天皇御歌(あめとよたからいかしひたらし姫のすめらみこと)
      (皇極天皇648年作)代詠 額田王?
     
 金野乃 美草苅葺  屋杼礼里之  兎道乃宮子能 借五百磯所念
 セボルネ ミ セ ガルジ  オクジヨエマルジ ウ チ ネ ミヤコヌン  カリオンゲ ト ヨミョ
 
 秋の野の み草刈り葺き宿れりし 宇治のみやこの仮盧(かりいほ)し思ほゆ。
 (従来訳)
 秋の野の萱を刈って屋根に葺き、旅宿りした宇治のみやこの、
 仮の庵(いおり)が思われる。
 
 (本来の訳)
 徐伐(そぼる)は鉄磨く、締め苦しむること勿(なか)れ、
 上(百済)の都は刀来るぞよ、陣地固めよ。
 (真の意味)
 新羅が戦争の準備をしているから、お上の地(百済のこと)は防備をなされ。
 新羅は刀を磨いて戦いに備えている。締め苦しめないといいのに。
 吾がお上の百済の都(扶余)は敵が襲って来るから、陣地をお固めなされ。
 (百済方言で歌っている)
 
 (李 寧熙女史訳)
 皇極天皇は百済第30代武王の娘宝(天豊財重日足姫)王女で
 百済最後の王である第31代義慈王の妹。
 来日した義慈王の子翹岐を大歓迎した。
 また、即位早々百済大寺舒明11年7月発願(九重の塔、吉備池廃寺)(大官大寺)の
 建立(642年完成)した。
 
 皇極天皇642年〜645年在位、斉明天皇655年〜661年在位
 *額田王:631年生 17歳頃の648年に十市皇女を生んだ。
 その頃に代詠したのでは? 2017年1月31日書
 
 
 

 巻6-1042 市原王 御歌
 
 一松 幾代何歴流 吹風乃 声之清者 年深香間
 (一つ松 幾代か経ぬる吹く風の声の清きは年深みかも)
 (従来訳) 
 このひともとの松は幾代を経ていることであろうか、この松を吹く風の音が清澄なのは
 久しい年を経ているからであろう。
 
 (真の意味)
 藤原不比等とその子藤原房前(藤原「北家」の祖)派に頼って過ごしなさい。
 「寒さ(貧乏・恐怖)」をしのぐことが出来ます。兎に角、ひねくれず、絡まないようにしましょう。
 咎が手強くて手に負えませんからね。(李 寧煕訳)
 
 *養老16年(744年)1月11日 活)の岡に登り、一株の松の下に集いて飲む歌二首。
 大伴宿禰家持(718年生) 巻6-1043一首とペア
 
 解説(翻訳)
 一松=藤原不比等とその子房前  幾代何歴流=頼って暮らせ  吹風乃=寒さが失せる

 声之清者=絡まないようにしよう  年深香間=咎めが手強い
 
 2017年1月30日書

 
 
 

 巻2-148  倭大后御歌(天智天皇の皇后)(古人大兄の娘)
 
 青旗乃  木幡能上乎  賀欲布跡羽 目尓者雖視 直尓不相 香裳
 ゴラギネ ナムギヌンウベオ  ガ ヨ プトウバ メ イ ジャスイシ ジョギプルサ コ モ
 あおはたの こはたのうえを かよふとは めにはみえれども ただにあはぬかも。
 
 (従来訳)
 山科の木幡のあたりを御魂は通っておられると目には見えるけど、
 もはや直接には天皇にお逢い出来ないことである。
 
 (本来の訳)  天智暗殺の真相
 「青(大海人)」にやられた!遺言なされる天皇を見つけ、
 駕籠を留め、お乗せしましたがすぐ息をお引き取りになりました。
 誠にお可哀相でした。  (李 寧煕女史訳)
 
 *大海人=後の天武天皇  天智10年(671年)8〜9月に暗殺されたのでは?
 
 近江天皇聖躰不予御病急かなる時、大后の奉献るご歌一首(御病急時) 
 また、倭大后は父(古人大兄)を殺した叔父である人(天智天皇)を夫としていた悲劇の女性
 天智天皇(百済の王子翹岐)は百済国からの渡来一世
 倭大后は百済国からの渡来三世   
 2017年1月30日書

 
 
 

 の度、地元朝倉を歌ったタイトル「朝倉讃歌」を作ってみました。
         作詞 N.K.ASAKURA  変ホ長調 BPM=86
         作曲 West River
  
「朝倉讃歌」
 1.朝日が昇る 山里(やまざと)に
  小鳥さえずり 若葉が萌える
  遠くに浮かぶ 山脈(やまなみ)も
  心きらめく わたぼうし
  あゝ ここは朝倉
  ぬくもりの里
 
 2.風に舞い散る 遊歩道
  時節(とき)を感じて もの思う日も
  神奈備山に こだまする
  祈りの叫び いまもなお
  あゝ ここは朝倉
  古代(いにしえ)の里
 
 3.茜(あかね)に染まる 二上山
  鎮(しず)む夕日に 想いをはせば
  今は昔しか いつの世界(よ)も
  明日(あす)は無常の 人ごごろ
  あゝ ここは朝倉
  やすらぎの里
        2016年10月14日書改
 
 
 

 日本書紀、崇神天皇条にある疫病対策として大田田根子(茅淳県陶邑出身)が
 大物主大神他の神を拝祭のところ、疫病がおさまったとあるが、実際拝むだけで、
 可能なのでしょうか?現代のインフルエンザでもワクチンを接種していても、
 流行することがある。でも、ある程度時間が過ぎれば自然とおさまるのも事実です。
 古代でも、時間が経てば、おさまったと考えるのが自然ではないかと思います。
 大王やいわゆる神を偉大なものと、表現するため記紀編纂時に
 このように記載したのではないでしょうか。一方、大田田根子は陶邑出身の為、
 陶器を用いて料理を良く沸騰させて、病原菌を消毒させたので、
 疫病が治まったのではないかとも考えられる。
 2016年11月5日書改

 高松塚古墳の被葬者は誰か?私は、天武天皇の第9皇子である弓削皇子(699年没)
 (母:天智天皇皇女の大江皇女)ではないかと思います。
 それと、卑弥呼は神功皇后時代の仲哀天皇の第二夫人であり仲哀天皇の死後
 神功皇后の弟の(息長)日子王と再婚、弟姫と呼ばれた。與狗奴國男王 卑彌弓呼は
 神功皇后の弟の日子王の事。とのWEB情報あり。これが事実では。
 2016年10月10日書

 今春、天王山古墳(崇峻天皇の陵墓?)の石室内部に初めて入りました。
 家形石棺内部に「○○参上」他の落書きがありました。
 また、粟原寺(和同8年・715年建立)跡を訪れ、1,300年の時を経て
 額田王とシンクロした気持ちになりました。
 2016年4月30日書

 
 本日、特別史跡キトラ古墳(696年〜築造開始・埋葬者高市皇子「天武天皇の長子」?)の
 石室内壁画のうち今回初公開の天文図(天井)他、朱雀(南壁)と白虎(西壁)(二度目の公開)を
 見学してきました。
 特に天文図は被葬者が北枕で横たわった状態で見られるように、
 頭上が北で右側が西に描かれている事が良く判りました。
 興味ある方は是非ご覧ください。(10月23日まで・要予約)
 2016年9月27日書

 
 

 万葉集 巻1の1  (即位宣言の御歌)  雄略天皇(大泊瀬稚武天皇)御歌 
                       在位 西暦479〜599年(418〜479年)両説あり。
 
  こもよ み籠持   ふくしもよ  みぶくし持ち 
 (籠毛与 美籠母乳 布久思毛与 美夫君志持)
  この岡に 菜摘ます児  家聞かな 名告らさね
 (此丘尓  菜採須児   家吉閑名 名告紗根)
  そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ
 (虚見津  山跡乃国者 押奈戸毛  吾許曾居)
  しきなべて 我こそいませ
 (師吉名倍手 吾己曾座)
  我こそば 告らめ 家をも名をも
 (我許背歯 告目  家呼毛名雄母)
 (     )内原文表示
 
 従来訳
 籠も良い籠を持ち ふくしも 良いふくしを持ち
 この岡で菜をお摘みの娘さんよ 家を聞きたい 名のっておくれ
 (そらみつ)この大和はことごとく私がすべている国だ
 すみずみまで私が治めている国だ
 私こそ告げよう家も名も
 
 本来の約(意味)(即位宣言の御歌也)
 貊よ瑞穂の貊たちよ 復旧よ瑞穂の復旧の者たちよ
 この丘(脇本)に私は(先代と)並び立ち ここに宮殿造営宣言をし住もうと思う
 斯盧(新羅の前身徐羅ソラ)弥鄒(百済系)からの渡来人が住む、
 このやまとの国は私が平定し、その統治者は私である
 鎮めねかし私は自ら王位に就く
 私は急ぎ来て皆に宣言する ここに来る 出て来ると
 李 寧熙女史解説(一部解説付き)
 
 以上、万葉集編纂(806年)より今年で1,210年となります。
 これを記念し当時の百済系言葉で書かれたこの御歌を当時の百済系言葉で
 読み取り翻訳された「李 寧熙」氏の表現と筆者の私見を付記しました。
 
 
 

 万葉集 巻1-9 額田王 斉明天皇が紀伊の温泉に行幸された時に作った御歌

 莫囂円隣之大相七兄爪謁気 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
(従来の読み下し文)
 莫囂円隣之大相七兄爪謁気 わが背子(せこ)が
 い立たせりけむ厳橿(いつかし)が本(もと)
 (従来の解釈)
 莫囂円隣之大相七兄爪謁気 わが君 そばに立たれたという 厳橿の木の下
 (本来の意味)
 メホル ドングルジ クンサチエ   ジュアリゲ オラジャッジ ソ イッス ニ  オガセ  ヨロボン     歌の前半句
 莫囂  円隣之 大相七兄  爪謁気  吾瀬子之 射立為兼 五可新 何本        莫隣之大相=高句麗の
                                                       淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)=天武天皇
 本来の意味A                                              囂気大兄=百済王子の
                                                        翹岐(ギョウキ)=天智天皇
 (水郷を廻らして都(岡本の宮)を造営しなさい。そして大城に拝復しなさい。        円大七爪謁=額田王
 さあおいでなさい お城が出来たので行き来しましょう、何回も)               中大兄(天智天皇)は皇極天皇
                                                       元年(642年)、百済から日本にやって来た。
 水郷廻らせまつれ城立ちぬ通いて伏さむ幾たびとなく。                    大海人皇子(天武天皇)は高句羅
                                                       の大宰相で伊梨柯須弥である
 (真の意味)B                                              持統天皇は伽耶系渡来人の娘
 マゲドングルリジ クンサチエ ジョッアルゲ オラジャジ ソ イッス ニ  オガセ  ヨロボン          で天武の叔母である。
 莫囂 円隣之 大相七兄 爪謁気 吾瀬子之 射立為兼 五可新 何本
 
 麻具を廻せよ 大股の麻具を識らせよ 来たれ麻具立ちにけりに 行き来せむ幾度   蓋蘇文は唐との激戦に敗れ
                                                      日本に亡命、壬申の乱で政権取り
  麻具まわせ 識らむとぞ思う 王(天智天皇)のさち立ちにけり ゆかむ幾たび。    に成功、天武天皇となる。
  
                                                      武烈王の長男、蓋蘇文の子
                                                      は文武王(新羅第30代)となる。
                                                     後に唐の攻撃を受け新羅の東海岸
                                                     から日本に亡命した文武王は、
                                                     高市皇子(天皇)の死後、
                                                     持統天皇の協力を得て文武天皇として即位。          上記語句解説
 
 莫囂(マゲドン)=水郷・(麻具)
 円隣之(グルリジ)=廻らせよ
 大相七兄(クンサチエ)=大城に・(大股の)
 爪謁気(ジョッアルゲ)=拝謁せよ・(麻具を識らせよ)
 吾瀬(オレ)=来たれ
 子之(ジャッシ)=城が・(麻具)
 射立為兼(ソイッシカネ)=立にけり
 五可新(オガセ)=行き来せむ
 何本(ヨロボン)=幾度
 
 李 寧熙女史解説
 2019年12月12日書
 
 
 
 
 
 万葉集 巻2-107 贈石川郎女御歌 大津皇子
 
 あしびきの やまの しづくに いもまつと われ たちぬれぬ やまの しづくに
 
 足日木乃 山之  四付二 妹待跡  吾  立所沾   山之  四附二
 従来の訳 (中西 進 訳)
 あしひきの山の  雫に  妹待つとて 私は 立ちつづけて濡れたことだ 山の雫に
 
 足日木乃 山之四 付二   妹待跡吾  立所沾   山之四  附二
 アシゲネ サンガサ チュゲニ メマジュデヲ ダンチトテ サンガサ チュゲニ
 本来の訳(百済言語で翻訳)
 長枕 生ばさみ 行かせんとす ほとをあわせよ ほてりまら吹き出る
  生ばさみ行かせんとす。
 (長枕を腰にあてると、まらは締め付けられてすぐ行こうとします、
 ほとをしっかりあわせて下さい。ほてりまらが吹き出そうとします、
 まらが行こうとするのです。)
 
 足日木乃 山之四  付二  妹待跡  吾立所沾 山之四 附二
 アシビゲネ メガシ チュゲニ メマジュデ ヲショトテ  メガシ チュゲニ
 真の意味
 姫枕 山辺殺さんとす 女に差し向かい 早々に事おこせ 山辺殺さんとす
 解説:持統天皇らが山辺を殺そうとしているので、持統天皇らに対抗し、
    早急に事をおこしてほしい、山辺を殺そうとしているのです。
 (日木)脂肪ぶとりの女=持統天皇の事
 石川郎女のバックである大伴安麻呂が大津ばなれする事によって、
 大津の皇子は失脚し死に追いやられた。
 
 
 
 巻2-107  贈石川郎女奉和歌 大津皇子
 吾乎待跡  君之沾計武   足日木能 山之四附二  成益物乎
 あおまつと きみがぬれけむ あしひきの やまのしづくに ならましものを
 従来訳
 私を待つと あなたがお濡れに なったという山の雫に私はなりたいものです。  
 中西 進 氏 訳
 
 吾乎待跡  君之沾計武 足日木能 山之四附 二 成 益 物乎
 ナオマジュデ  クンガセバガム ア シ ゲヌン サンガシチュゲニ ニルマンムルオ
 本来の訳
 来たれ あてあわせ 大鋏を入れよ 長枕は生鋏行かせんとす 相立ち はさまむ
 (おいでなさい 私にあわせて大きいそのはさみを、お入れなさい。長枕はいきり立っている
 生ばさみを行かせようとするようですね。立ち上がり相対してはさみましょうか。)
 
 吾乎 待跡  君之沾計武 足日木能 山之四 附 二 成益物乎
 ナ オ マジュデ クンガセバガム アシビゲヌン メ カ ゙シ チュゲニ ニルマシムルオ
 真の意味
 出(いで)よ 女(め)に向かい大改新 打ち込まれよ
 姫枕(持統天皇)は山辺殺さんとす、相立ちて戦われよ。
 真の意味
 出ていらっしゃいませ 持統天皇らに立ち向かい
 大改新の旗をおあげなさい、彼女(持統天皇)らは
 山辺皇女を亡き者にしようとしています。
 立ち上がり相対してお戦いなさいませ。
 
 (激励のメッセ−ジである)
 
 
 
 巻7-1262   作者不詳
 
 足病之 山海石榴 開八峯越 鹿待君 之伊 波比嬬可聞
 
 従来の詠み下し文
 あしひきの 山つばき咲く 八つ峰越え
 鹿待つ君の 斎ひ妻かも
 
 従来の解釈
 あしひきの やまつばきさく やつをこえ
 ししまつきみが いはひつまかも
 
 真の解釈
 長枕がほと受け廻す 入れなよ 売りほとさし
 押し臥せ 大ばさみで こすってやろうか。
 
 真の大意
 長枕がほとを持ち上げて廻してくれる
 入れなよ「売りほと」串刺し押し臥せて
 大きいはさみ(まら)でこすってやろうか。
 以上 李 寧熙女史解説
 2020年4月15日書
 
 
 
 巻12-2951   作者不詳
 
 海石榴市之 八十衢尓立平之 結紐乎 解巻惜毛
 
 従来の詠み下し文
 つばいちの 八十(やそ)の街(ちまた)に立ち平(なら)し、
 結びし紐(ひも)を、解(と)かまく惜(を)しも。
 
 従来の解釈
 海石榴市(つばいち)のいくつもの分かれ道で地をならして踊って、
 結び合った紐を、解いてしまうのは惜しいことです。
 
 真の解釈
 ほと廻しまらが「売り(買い)ほと」に行く
 ほてりまら広げよう(出そう) ほとお呉れ
 はさみまら来られたぞ。
 
 真の大意
 ほとを廻すまらが「売りもの」のほとを買いに行くのさ、
 いきり立っているまらを出そう、ほとをお呉れ
 はさみまらがいらっしゃったのさ。
 以上 李 寧熙女史解説
 2020年4月15日書
 
 
 
 巻8-1511   舒明天皇御歌(中大兄皇子作が真実なり)
           (漢詩風の歌)
 
 ジョムロガジャ ヲ-グリヤ メ イ
  暮 去 者 小倉乃 山尓 鳴鹿者
 
 グムヤハプルミョン ジャルジャカ ラ シ モ
 今夜波不 鳴 寐  宿 家 良思母
 
 (従来の詠み下し文)
 夕されば小倉の山に鳴く鹿は
 今夜は鳴かず寝(い)ねにけらしも。
 
 (従来の解釈)
 夕方になると、いつも小倉の山に鳴く鹿は
 今夜は鳴かない、寝てしまったらしい。
 
 (真の解釈)
 夕暮れになり、蘇我の石川麿や入鹿が
 今宵は鳴かぬので、ぐっすり寝られよ。
 
 語句解説
 暮去者(ジョムロガジャ)=夕暮れになると
 小倉乃山尓(ヲ-グリヤ)=この鹿(入鹿の事)め、来たらば来たれ
                鹿よ、永久に休めよ。
 小倉(ソリヤ)=射ようか
 小倉(ジョ-グラ)=休めよ。
 小倉山(ソ グラ メ)=蘇我倉山石川麻呂
             (蘇)我(倉)(山)
 以上 李 寧熙女史解説
 2020年4月18日書
 
 
 
 巻9-1664   雄略天皇御歌
 
 ジョムロガジャ ソリヤメ イ ヌプンシカ ガ
 暮  去者 小椋山尓 臥 鹿 之
 
 グムヤジャ プルミョン シイガラソリ
 今夜 者 不 鳴  寐家良霜
 
 (従来の詠み下し文)
 夕されば小倉の山に伏す鹿(しか)し
 今夜は鳴かず寝(い)ねにけらしも
 
 (従来の解釈)
 夜になると小倉の山に伏す鹿は
 今夜は鳴かずに寝てしまったらしいな。
 
 (真の解釈)
 夕闇せまり「休めよ」(または射ようか)山に臥す鹿が
 今宵は鳴かぬ、寝よというらし。
 
 (真の大意)
 夕方になって「休めよ」(または射ようか)山の小椋山で
 いつも私を狙っていた「鹿」が、今宵は声もない。
 それもそのはずだ、私の手にかかって死んだのであるから。
 ああ今夜こそぐっすり休めと、この静けさが私に語りかける。
 
 *夕暮れがやって来た 今夜はいつも鳴く鹿がいない
 当然のことだ 私の王座を狙う鹿(市辺皇子)は、
 この私の手にかかって死んでしまったのだから。
 ああ、これで私もやっと枕を高くして休めと言われても
 簡単に寝つかれはしないが。
 市辺皇子をわが手にかけ、亡きものにして
 「今宵は鳴かなぬ」と歌っている。
 
 説明
 臥鹿=市辺押磐皇子の事。安康天皇3年(455年)鹿狩りをしている。
 
 以上 李 寧熙女史解説
 2020年4月18日書
 
 
 
 巻8-1520  七夕歌 山上憶良(逢瀬の歌)
              724年(神亀元年)7月7日作
 
 
 牽牛者 織女等 天地之 別時由 伊奈牟(宇)之呂 河向立 思空 
 不安久尓 青浪尓 望者多要奴 白雲尓H者尽奴 如是耳也 
 伊伎都枳乎良牟 如是耳也 恋都追安良牟 佐丹塗之 小船毛賀茂 
 玉纏之 真可伊毛我母一云 小棹毛何毛 朝奈芸尓 伊可伎渡 
 夕塩尓 一云 夕倍尓毛 伊許芸渡 夕方之 天河原尓 天飛也
 領巾可多思吉 真玉手乃 玉手指更 余宿毛 寐而師可聞(宿毛寐而師可聞) 
 一云 伊毛左祢而師加秋尓安良受登母 一云 秋不 待登毛。
 
 
 真の意味
 
 牽牛と織女ありき 天地が 別れる時なりき
 すぐには離れられぬなり いとも愛しくありて
 恋しくありて たまが膨らむなり
 麗わしくありて たまが膨らむなり
 奥まるる ふくろは 毛 いとも多くあり
 清らかな あなからは 水 いとも多く出(い)ずるなり
 だしぬけに 息作りするらむ だしぬけに 交わりするらむ
 鉄泥(せに) 押さむ 背負われてもせむ 逆さにも 廻せよ
 相挟(はさみ)もせむ 一云、 伏せてもせむ
 魔羅(まら)釣りなれば たて続け 削り受けよ
 別れ蕃登(ほと)なれば 一云、別れ舟(腹)なれば
 たて続け 抉(えぐ)り受けよ 硬くある 天(おみな) ひろげり
 雨ぞ 降る 領巾(ひれ)あて 押し臥せ 突き当て 合わせり
 合わせ終えたる 股の茎 咎めたりせば 
 たやすく(誤り)洩らせば 一云、この端に洩らさむ
 子 生(な)すなり 蓋(けだ)し 一云、生(な)さぬなり
 
 
 (大意)(セックス情景歌)
 
 牽牛と織女がおりました。
 夫婦が別れるときでありました。
 すぐには離れられぬこの二人。
 とても愛しいからでありました。
 恋しくて、陰嚢が大きくなるからでありました。
 麗わしくて、陰嚢が大きくなるからでありました。
 奥まったところにある、ふくろは
 毛、いとも多く、
 清らかな、あな(穴)は、
 水 いとも多くありました。
 急に、キスしましょうか。
 急に、交わりしましょうか。
 鉄泥(せに)を押して、こねましょう。
 おんぶされてもみましょう。
 逆さに入れて廻そうではありませんか。
 相挟(あいはさみ)もしようではありませんか、
 (伏せてもしようではありませんか)。
 魔羅(まら)釣りをするのですから、
 たてつづけに削り受けなさい。
 別れの蕃登(ほと)ですので、
 (別れ舟ですので・別れ腹ですので)
 たてつづけに、抉(えぐ)り受けなさい。
 硬い
 天(おみな)が、ひろげます。
 雨が、降り出しました。
 手拭をあて 押し臥せ 
 奥深く突き合わせましょう。
 合わせ終えた股の茎は
 咎めないでください。
 たやすく(誤って)洩らしたりすると 
 (この端に洩らしましょうか)
 赤ちゃんが出来るかも知れませんから。
 (赤ちゃんが出来ませんよ)。
 
 
 以上 李 寧熙女史著 「もう一つの万葉集」より
 
 
 
 従来の解釈
 
 彦星(ひこほし)は 織女(たなばたつめ)と 天地(あめつち)の 
 別れし時ゆ いなむしろ 川に向き立ち 思ふそら
 安けなくに 嘆くそら 安けなくに 青波(あをなみ)に 望みは絶えぬ 
 白雲に 涙は尽きぬ かくのみや 息づき居(を)らむ かくのみや 
 恋ひつつあらむ さ丹塗(にぬ)りの 小舟(をぶね)もがも玉巻きの 
 ま櫂(かい)もがも (一に云ふ、「小棹(をさを)もがも」)朝なぎに 
 いかき渡り 夕潮(ゆふしほ)に (一に云ふ、「夕(ゆうへ)にも」) 
 い漕ぎ渡り ひさかたの 天の川原に 天飛(あまと)ぶや
 領巾(ひれ)片敷き ま玉手(たまで)の 玉手(たまで)さし交(か)へ 
 あまた夜も 寝(い)ねてしかも(一に云う、「眠(い)もさ寝てしか」) 
 秋にあらずとも(一に云う、「秋待たずとも」)
 
 
 
 従来の意味
 
 彦星は 織女星と 天と地が 別れた時から(いなむしろ) 天の川に
 向きあって立ち 思う胸の中も 安らかでなく 嘆く胸の中も
 苦しくてならないのに 青波で 何も見えなくなった 
 白雲にさえぎられて 涙も涸れた こんなに ため息ばかりついておれようか
 こんなに恋しく思ってばかりおれようか 赤く塗った 舟がないものか
 玉をちりばめた 櫂(かい)がないものか (また「竿(さお)がないものか」)
 朝なぎに水をかいて渡り 夕方の満ち潮に (また「夕方にでも」)
 漕ぎ渡り (ひさかたの) 天の川原に (天飛ぶや) 領巾(ひれ)を敷き
 うるわしい 手をさし交(かわ)し 幾晩も 寝たいものだ (また「共寝もしたいものだ」)
 七夕の秋でなくても (また「秋を待たなくても」)
 
 2019年01月16日書
 
 
 
 三重県無形文化財「大王町わらじ曳き」神事の祭文---三重県志摩郡大王町波切神社
 
 これは新羅第30代の文武大王(在位661〜681)が倭国(日本)に亡命、先ず大王島に着き
 それを迎えに行った様子を再現したものとみられる。
 尚、この文武大王とは倭国の第42代の文武天皇(軽皇子)と考えられる。
 
 神社祭文 「祭如神在  如神在 礼也 非祠乃廃祀乃 非非 非祀乃廃祀乃 本正直也」 礼也 謐無波楽者也
        サイジジザイ  ジジザイ イヤ  ヒ ス ノ ハス ノ  ヒ ヒ  ヒ ス ノ ハ ス ノ  ホンシンチヤ  イ ヤ  ビ シ ハ ラ シ ヤ
 
 現代語訳 祭ること神在ますがごとくす。神在ますがごとくす。斬り給え、叩きのめし給え、
        斬りに斬り、斬り給え、叩きのめし給え、すべて直ちに正し給え。---討伐望む者なり。
 
 文字の解説          礼也(イヤ)=「お辞儀しなさい」という掛け声。
 反乱軍一網打尽を祈願   非祠(ビサ)=斬り給え。
                  廃祀(ペサ)=叩きのめし給え。
                  非非(ビビ)=斬りに斬り。
                  非祀 廃祀(ビサ ペエサ)=斬り給え、叩きのめし給え。
                  本正直也(モドバロバルヤ)=すべて直ちに正し給え。
                  謐無波楽者也(ビムパラジャヤ)=討伐、望む者なり。
 
 新羅第30代文武大王(ムンムデワン)は第29代武烈(ムヨヲル)王の長男で
 母は文明(ムンミョン)皇后(文姫ムンヒ)、金ユ信(ギムユシン)の末娘である。
 文武大王は三国統一後の681年7月新羅国東海岸の大王巌より倭国(日本)に亡命、
 翌8月上旬に和歌山県日高市に上陸(陰暦8月)、そして三重県志摩郡
 の大王崎に無事上陸、同8月申の日の事であった。
 
 以上 李寧熙女史解説
 
 2018年11月1日書
 
 
 
 巻9-1667 大宝元年辛丑冬十月、太上天皇・大行天皇幸紀伊国時歌十三首
 
 為妹 我玉求 於伎辺有 白玉依来 於伎都白浪
 
 従来の解釈  
 
 大宝元年辛丑の冬十月、太上天皇(持統)・大行天皇(文武)、紀伊国に幸す時の歌十三首
 
 妹(いも)がため 我玉求む 沖辺(おきへ)なる 白玉寄せ来(こ) 沖つ白波
 
 (従来の大意)
 
 妻のために、わたしは玉を求める 沖辺にある白玉を押し寄せて来てくれ 沖の白波よ
 
 真の訓み下し文
 
 為妹 我玉 求  於伎辺有 白玉 依来 於伎都白浪
 ナスメ ナレタマモドム オ キ ベニス シラタマ ヲリオ オ ギツ シラナミ
 
 その大意(真実の)
 
 政権取りに乗り出したので、私は王位を得た 渡来の者が居るので
 新羅王である私が頼って来て 渡来新羅人に後押しされた
 
 注=文武天皇は、「新羅系渡来人のおかげで倭国(日本)の王位に就くことが出来た」と
    歌を通して謝意を表している。
 
 言葉の説明
 
 為妹(ナスメ)      =  乗り出したので。(「妹」の字を使用したのは「持統」の為に乗り出した事を表したのでは。)
 我玉求((ナレタマモドム)=  われ王位集めり。(かって新羅王であった人間が倭国(日本)の天皇になったので。)
                  「王位を二度集めた」意味として使ったものと見られる。
 於伎辺有(オキベ・ニス)=  渡来者がいるので。
 白玉依来(シンラ・タマ・ヲリオ)=新羅王・依り来。(新羅王文武が、新羅系鉄づくり集団の地であった志摩に
                  やって来たことを表す句である。)
 於伎都白浪(オギツシラナミ)=渡来新羅人、押し出し。
 
 以上 李寧熙女史解説
 
 2018年11月03日書
 
 
 
 巻1-74    大行天皇(文武天皇)幸于吉野宮時歌
 
         見吉野乃 山下風之 寒久爾 為當也 今夜毛 我獨宿牟
 
         右一首、或云、天皇御製歌
 
 従来の解釈  
 
 み吉野の 山のあらしの 寒けくに はたや今夜(こよひ)も 我(あ)がひとり寝む。
 
 真の詠み方(1)
 
 見吉野乃 山 下 風 之 寒 久爾 為當也 今 夜毛 我 獨 宿 牟
 ミエ シノ ネ  メエ アレ ガセガ チバグ イ  ハ タ ヤ  グムヤ ト ナホボル ジャモ
 
 その意味(1) 
 
 水の吉野の 山の下風 寒さをつのらす よもすがら 今宵も 我ひとり寝む。
 
 真の詠み方(2)
 ミエシ ノネ  メエ レ ガセガ チバグイ ハ タ ヤ グムヤト  ナホポルジャモ  
 見吉野乃 山 下 風 之 寒 久爾 為當也 今 夜毛 我 獨 宿 牟
 ポジボルレ メエ アレ ガセジ チバグ イ  ハ タ ヤ グムバッモ ナホボル チャモ
 
 その意味(2)
 
 裾をひろげ その下を漱(すす)ぎ給え 刺し込もうではないか
 (高市の皇子を暗殺しよう)
 しかし、「こみ価格」で頂くとしよう 私は天下を独り占めしたいのだ。
 
 注:「天皇を暗殺する」意図を込めた歌から、当時の天皇は持統ではなく、
 高市皇子が天皇だった事を暗示している。
 
 天武天皇(=淵蓋蘇文)が680年、鵜野讃良皇后の病気平癒祈願の為
 薬師寺建立を発願、686年没すると、持統、文武天皇(=新羅、文武王)に
 引き継がれ、698年(文武2年)完成した。東塔は天武、西塔は文武を
 象徴する建造物であると云われている。
 
 文武天皇は681年唐に追われ日本に亡命、後に文武天皇になった。
 文武天皇は(新羅第30代の文武王(ムンムテワン)の事。
 日本書紀では文武天皇は15歳で即位、25歳で崩御と書かれている?

 以上 李寧熙女史解説
 
 2018年11月07日書
 
 
 
 巻16-3870    雑歌、枕詞、民謡、歌謡、恋愛、譬喩
 
 紫乃粉滷乃海尓 潜鳥 珠潜出者 吾玉尓将為
 
 現状の解釈
 
     コガタ     カヅク  タマコヅ イデ  ワ
 紫の 粉滷の海に 潜く鳥 玉潜き出ば 我が玉にせむ
 
 主体は「玉」=「女性」を意味する。
 
 紫のこがたの海に潜(もぐ)る鳥が 玉を探し出したら わたしの玉にしよう
 
 
 巻11-2780    集歌
 
 紫之名高乃浦之靡之情者妹尓因西鬼乎
 
 現状の解釈
 
 紫の 名高(なたか)の浦の なびき藻の 心は妹に 寄りにしものを
 
 主体は「妹」=「女性」を意味する。
 
 紫の 名高の浦のなびき藻のように 心はあの娘に 寄りついてしまった。
 
 
 
 巻12-3099    恋歌
 
 紫草乎 草跡別々 伏鹿之 野者殊異為而心者同
 
 現状の解釈
 ムラサキ                   コト       オナ
 紫草を 草と別く別く 伏す鹿の 野は異にして 心は同じ
 
 主体は「心」  「紫」=「女性」または「女性の性器」を意味する。
 
 紫草を他の草と区別して 寝る鹿のように わたしたちは
 住む所は別々でも 心は同じだ。
 
 
 
 巻12-3101     問答歌(奈良、桜井、歌垣、染色、問いかけ、求婚)
 
 紫者 灰指物曽 海石榴市之 八十街尓 相兒哉誰
 
 現状の解釈
 
 ムラサキ ハヒ        ツバキチ    ヤソ チマタ  ア      タレ
 紫は  灰さすものそ 海石榴市の 八十の衢に 逢へる児や誰
 
 主体は「児」  「灰指(灰さす)」=男性の性器
 
 紫染めには その灰をさす椿 椿市の八十の別れ道で 今逢っている あなたは誰
 
 紫(女)は男性の物なのだといっている。
 
 以上、李 寧熙女史著 「もう一つの万葉集」より
 
 2019年01月15日書
 
 
 
 「迎日冷水里新羅碑」(503年建立)碑文解説
 
 1989年 韓国東南部(慶尚北道浦項市北区神光面冷水理里)
       旧新羅の都、徐羅伐(ソラボル)(現在の慶州キョンジュ)北方
       東仍音県珍而麻村(ドンインウムケンジンイマムラ)で出土。
       国宝264号指定となった。
 
 碑文内容
 
 前面
 
 新羅喙斯夫智王乃智王此二王教用珍而
 麻村節居利為證尓令其得財教耳
 癸未年九月廿五日沙喙至都盧葛文
 王斯徳智阿干支子宿智居伐干支
 喙尓夫智壹干支只心智居伐干支
 本彼頭腹智干支斯彼暮斯智干
 支此七王等共論教用前世二王教
 為證尓取財物盡令節居利
 得之教耳別教居利若先
 死後令其第兒斯奴得此財
 教耳別教末鄒斯申支
 此二人後莫更導此財
 
 後面
 
 若更導者教其重罪耳
 典事人沙喙壹夫
 智奈麻到盧弗須 仇
 「」喙耽須道使心 誓公
 喙沙夫那斯利沙 喙
 蘇那支此七人踪 踪所白了
  事熟牛抜 詰故記
 
 
 上面
 
 村主臾支干
 支須支壹
 今智此二人世中
 了事
 故記
 
 
 現代読み
 
 斯羅(新羅)喙部の斯夫智王と乃智王、この二人の王は、
 かって珍而麻村「節居利」の証言をもとにして、彼をして財を
 得るよう命令されました。
 癸未年九月二十五日、沙喙部の至都盧葛文王と、斯徳智干支、
 子宿智居伐干支、喙部の爾夫智壹干支、只心智居伐干支、
 本彼部の頭腹智干支と斯彼部の暮斯智干支、以上七人の王は
 相談の結果、両王のかっての教令をよりどころとし、節居利に財を
 尽く取らしめるよう命令なされました。
 また、節居利の死後は、その息子の「斯奴」(または弟の児斯奴)が、
 財を取得するよう命じました。
 別に、末鄒と斯申支の二人は、今後財について一切言及すること無きよう(以上、前面)
 若しこれに反すれば重罪に処すと申し渡されました。
 
 命を受けた沙喙部の壹夫智奈麻、到盧弗、須仇「」と喙部の耽須道使心誓公、
 喙部の沙夫、那斯利、沙喙部の蘇那支の七人は、任務を終え牛を殺して
 広く知らしめ、ここに記録致しますことを、跪(ひざまず)き謹んでご報告申し上げます。(以上、後面)
 
 村主臾支干支と須支壹今智、二人の責任のもとに任を果たしましたので、
 ここに記録いたします。(以上、上面)
 
 
 解説  
 節居利(テョヲルゴヲリ)=(節=鉄、居利=濾す)=「鉄濾し」さん---職名
 財=           砂鉄採取権及び鉄濾し権の事。
 斯奴(サノ)=      (斯=鉄・金属、奴=野・壌土)=「鉄野」君。
 末鄒(グッチュ)=    「固め」=「固め屋」=「製鉄屋」の事。
 斯申支(サペキ)=   斯(サ)=「鉄」(新羅言葉)、申(ペ)=「伸・延」の事。
               
支(チ)=「挿し込む」、「挿し込む事」
               「鉄延ばし挿し込み」=「鍛冶屋・鉄器作り屋」の事。
 つまり、新羅王が「鉄作り」や「鉄器作り」に優れた「末鄒」、「斯申支」を排除し
 「節居利」を保護したのは、その武器製造能力を警戒したからであろう。
 
 「三国史記」新羅本紀の倭兵侵攻記録新羅
 
 346年   倭兵、新羅の風島に至り抄掠、金城(慶州市内?)を囲む。
 364年4月 新羅、倭兵を東原で撃破。
 393年5月 倭人、新羅の金城を包囲。新羅これを大破。
 405年4月 新羅の明活城(慶州市普門里)に倭兵侵入。
 407年3月 倭、新羅の東辺を侵す。夏6月、南辺を侵し、100人を奪掠。
 415年8月 倭と新羅の風島で戦い撃退。
 431年4月 倭兵、新羅の明活城包囲。程なく敗走。
 440年    倭、新羅の南辺を侵し、生口(奴隷)を掠取して去る。
 440年夏  倭、また新羅の東辺を侵す。
 444年4月 倭兵、10日間新羅の金城包囲。
 459年4月 倭、新羅の月城(新羅の王城)包囲。
 462年5月 倭、新羅の明活城攻撃。
 463年2月 倭、新羅の歃良城(慶尚北道梁山)攻撃。
 476年6月 倭、新羅の東辺を侵す。
 477年5月 倭、新羅に侵入するが功なく帰る。
 482年5月 倭、新羅の辺境に侵入。
 486年4月 倭、新羅の辺を犯す。
 497年4月 倭、新羅の辺境に侵入。
 500年4月 新羅の長峯鎮、倭兵により陥落。
 これ以降、倭兵の侵攻記述なし。
 
 「鉄」は古代日本(倭国)にとって重要な輸入品であり、
 倭国で本格的な製鉄が行われていなかった5世紀、
 「鉄」は朝鮮半島南部から輸入され続けていたと考えられる。
 
 「魏志」韓伝弁辰条に「国鉄を出す、韓、(ワイ)、倭、皆従いて之(鉄)を取る---」
 
 倭兵は「鉄」を盗りにやって来ていた。500年(智証王即位年)以降、
 倭の侵攻記述がなくなるのは、新羅の防備徹底と日本の製鉄技術が
 向上したので、盗りに行く必要がなくなったものと思われる。
 
 
 
 幸魂・奇魂の正体
 
 「日本書紀」の神代上のくだりから抜粋
 
     アヤ   ウナ      タチマチ
 時に、神しき光海に照して、忽然に浮び来る者有り。
 イ     モ ワレア     イマシイカニ ヨ
 曰はく、「如し吾在らずは、汝 何ぞ能く此の國を
 ム       ワ           ユエ
 平けましや。吾が在るに由りての故に、
            イタハリ
 汝其の大きに造る績を建つこと得たり」といふ。
       オホアナムチノカミ    ノタマ           コレタレ
 是の時に、大己貴神  問ひて曰はく、「然らば汝は是誰ぞ」とのたまう。
                  サキミタマ クシミタマ
 對へて曰はく、「吾は是汝が幸魂  奇魂なり」といふ。
        ノタマ    カ リ   スナハ
 大己貴神の曰はく、「唯然なり。廼ち知りぬ、汝は是吾が幸魂奇魂なり。
  イズコ        オモ
 今何処にか住まむと欲ふ」とのたまう。
 コタ           ヤマトノクニ ミモロノヤマ
 對へて曰はく、「吾は日本國の三諸山に住まむと欲ふ」といふ。
 カレ      カシコ  ツク    ユ   マ    コレ オオミワ
 故、即ち宮を彼処に営りて、就きて居さしむ。此、大三輪の神なり。
 コ            カモノキミタチ  オホミワノキミタチ ヒメタタラ イスズヒメノミコト
 此の神の子は、即ち甘茂君等・ 大三輪君等、又媛蹈鞴五十鈴姫命なり。
 
 
 上記の現代語訳
 
 大己貴神、すなわち大国主神と幸魂・奇魂のやり取りは以下のとおり。
 
 幸魂・奇魂 「もし私がいなかったら、お前はどうしてこの国を平らげる事が
         出来ただろうか。
         私があるからこそお前は大きな国を造る事が出来たのだ。」
 大己貴   「ではお前は何者か。」
 幸魂・奇魂 「私はお前の幸魂・奇魂だ。」
 大己貴   「ああ、そうですね。分かりました。あばたは私の幸魂・奇魂です!
        今どこに住みたいとお考えですか。」
         ヤマトノクニ ミモロノヤマ
 幸魂・奇魂 「日本国の三諸山に住みたいと思う。」
 
 この幸魂・奇魂は傲漫(ごうまん)きわまりない。しかし、大国主は「幸魂・奇魂」と
 聞いて態度が一変する。幸魂・奇魂の存在を前もって知っていた事になる。
 この幸魂・奇魂はどこから来たのか何者なのか。また、大国主はどうして彼らを
 知っていたのだろうか?
 
 幸魂=「さきみたま」または「さちみたま」と呼ばれる。
     「さき」・「さち」=「鉄挿し」・「鉄嵌め」の意。
     つまり、磨いだ鉄に柄に挿して(嵌めて)作る「鉄器」の事。
     =「鉄器作り」も意味する。
     「たま」=「王」「首領」「最善」「丸」などの意の新羅の
     韓国語タムから日本語になった言葉。これが日本語の「玉」の語源なり。
     つまり、「さき(さち)たま」は「鉄器王」・「鍛冶王」の事。
 
 奇魂=「くしみたま」=「固める」「固くする」の韓国語グチダの語幹グチが、
     日本に渡り「奇し」(くし)「奇すし」(くすし)に転じた。
     「奇し」「奇すし」=「神秘的だ」「不思議だ」の意。
     「くしみたま」=「固め屋」つまり「製鉄王」の事也
 
 新羅から出雲に到着した鉄作りのハイテク集団が大国主は大歓迎、
 彼らの指定する三輪山のふもと狭井川べりに工場を建設することになった。
 製鉄と鍛冶が奈良で本格的にスタ−トするのである。
 この事件は、「記・紀」に神話として扱われているが、6世紀初めの「史実」と
 して見るべきではないでしょうか。
  「大国主」は歴史前史を生きた一人の支配者ではなく、紀元前から古墳時代に
 かけての複数の人物と見做される。
 大国主が、特に別名の多い神とされているのもそのせいではないでしょうか。
 
 結論
                            サペキ   グチュ
 6世紀初頭の新羅で砂鉄採りを禁じられた「斯申支」と「末鄒は
 その後日本にわたった。それが、「日本書紀」と「古事記」の
 幸魂・奇魂ではなかったか。新羅の故地神光から出土の
 「迎日冷水里碑」の231文字の金石文がこの事を裏付けている。
 
 「日本書紀」神代篇の記述「神光」について
                            アルフミニイ
 「日本書紀」神代上第八段「一書」第六は、「一書曰はく」と前提、
 大国主の別名紹介あり。
     オホクニヌシノカミ      オホモノヌシノカミ  クニツクリノオ ホアナムチノミコト  マウ
 ---大国主神・   亦の名は大物主神、 亦は国作り  大己貴命   と號す。
    アシハラノシコヲ マウ      ヤチホコノカミ        オオクニタマノカミ
 亦は葦原醜男 と曰す。または八千戈神と曰す。亦は大国玉神  と曰す。
    ウツシクニタマノカミ
 亦は顕国玉神  と曰す---
      スクナビコナノミコト                        トコヨノクニ
 そして、少彦名命  と力を合わせて国作りをしたものの、命が常世郷に
 行ってしまった今、誰と一緒に天下を治めて行くべきかと嘆いている時、
 「神(あや)しき光」が海を照らして忽然と浮かんで来るというくだりに至る。
 原文は「神光照海」である。
 
 503年に石碑建立その時点は東仍音県。そこが新羅真興王代(540年〜576年)に
 「神光」(あやしきひかり)と新たに名づけられた。
 新羅人の鉄の二人組(幸魂・奇魂)が日本に渡って来た事実を、後代の「日本書紀」の
 作者は、「神光」(あやしきひかり)と云うその出身地を示す綴りで暗示しようとしたのでは?
 
 「佐伯」さんと云う苗字について
 
 「佐伯」氏=「大伴氏の一族」=(大伴室屋の子)=「談」(かたり)を祖。
 「佐伯」=古音=「サヘギ」=その古音「サペキ」=(新羅神光の鉄屋)
 「斯申支」(サペキ)と同名なり。
 「佐伯」氏のご先祖は鉄作り(鉄製武器作り)の鍛冶王だった事が判る。
 しかし、「サペキ」は職名にあたる。三輪の幸魂こと斯申支が佐伯氏の元祖
 であるとは言い難いが、鍛冶一族であったことは確かである。
 
 幸魂・奇魂は出雲到着直後、「三輪行き」を宣言する。三輪山は鉄の山であり、
 この山から発源する狭井川は砂鉄の川であった。しかも、米作りにも最適の場所
 であった。確かな情報を彼らは握っていたと思われる。
 技術有り、情報有りで幸魂・奇魂こと斯申支・末鄒は、最初から「神」であった。
 
 
 以上、李 寧熙後援会報「まなほ」第19号より
 
 2019年01月22日書
 
 
 
 古代朝鮮半島と倭国(日本)との関係考察
 
 神話時代から日本列島には朝鮮半島から渡って来た二大部族(ワイ・貊)が住んでいた。
 ワイ(ヱエ)=紀元前8世紀以前から豆満江岸茂山(ムサン)の嵌入(ガンニュウ)地帯、砂鉄の
        豊富な三日月地帯に製鉄国を建設した部族。
        倭国にも進出し勢力を広げていった。
        また、釜山金海の大河洛東江の支流域に伽耶諸国を建国した。
        製鉄に優れた国々だった。
 
 吏読=官吏の読み方の事。
     吏読を応用したのが万葉仮名である。
     古事記・日本書紀・風土記等の地名・神名・人名・官職名は
     吏読式に表記されている。
     吏読の知識なくしては、万葉集や日本の文献、韓国の古文書の
     真の解読は不可能である。
 
 伊奘諾尊(イザナギノミコト)=繋ぎの生み王。
 伊弉由尊(イザナミノミコト) =繋ぎの生み女王はワイ(ヱエ)の兄妹であった。
 伊弉=去来、ヱエ、ネと読む=ワイ(ヱエ)の者、ワイの国を表す。
 
 伊奘諾尊(イザナギノミコト)=伽耶の盟主大伽耶の伊珍阿鼓(イジンアチ)
                 の事である。「国を生んだ」とはその地方に
                 勢力を張ったという事。
                 倭国の例では淡路島、四国、隠岐、筑紫(九州)
                 対馬、佐渡島、吉備児島、小豆島、大八洲等を生む。
 
 ワイ族=虎をト−テムとしていた。
 貊族=熊をト−テムとしていた。
 
 古朝鮮の建国の精神=人間になり損ねた虎と人間の女になって朝鮮の始祖
                である天帝の子を生む熊の話しは、このワイと貊との
                関係を表している。
                日本神話では素戔嗚と八岐大蛇の争いが代表的な
                ワイ貊戦争である。従来、妻問いの歌とされた歌謡一番
                「八雲立つ---」は「ワイと貊とが戦って貊が勝った---」
                という貊の戦勝歌なり。
 
 雄略天皇 巻1-1 「興毛興呂毛」なる題詩が添えられている。
             「興毛」=「貊」の事。
             「興毛興呂毛」はゴモゴロモと読まれ「コマ平定す」を意味する。
             巻1-1歌は、雄略天皇のダブルイメ−ジである天武天皇の
             独立宣言歌であった。
             高句麗人である天武天皇は檜隈つまり「日本クマ(コマ)」と
             呼ばれていた。
             古事記・日本書紀等の古文献に記載の「八」または「夜」の
             字のつく神名や地名・人命・神宝名は殆んど「ワイ」とかかわりが
             あると見做されている。
 
 「八」「夜」の名のつく人名・神名は以下の通り。
 
 1.八岐大蛇(ヤマタノヲロチ)(出雲簸川に住んでいた「をろち」と言われた男)
 2.八島士奴美神(ヤシマジヌミカミ)(須佐之男命の子。母は櫛名田比売)
 3.八野若日女命(ヤヌノワカヒメのミコト)(須佐之男命の女で出雲国神戸郡八野郷
  に座し、大穴持命が屋を造って通った神)
 4.稲田宮主簀狭之八箇耳(イナダノミヤヌシスサノヤツミミ)(八岐大蛇退治後、
  須賀に宮を作った須佐之男之命が、その宮の首として足名椎に与えた名)
 5.八千矛神(ヤチホコノカミ)(大国主命の別名の一つ)
 6.八嶋牟遅能神(ヤシマムジチカミ)(大国主神の妻、鳥耳神の親)
 7.八重事代主(ヤヘコトシロヌシ)(大国主神の子。八尋熊鰐(ヤヒロノワニ)となり
  三嶋溝織姫(ミゾクヒメ)のところに通い神武天皇妃の姫蹈鞴五十鈴姫命を生んだ)
 8.八上比売(ヤカミヒメ)(大国主神に嫁ぎ木俣神を生む)
 9.八坂刀売命(ヤサカトメノミコト)(大国主神の子、建御名方神(タケミナカタノカミ)の妃。
  諏訪神社下社の祭神)
 10.八意思兼神(ヤゴコロオモヒカネカミ)(天の石屋戸から天照大御神を引き出す。
   天孫降臨の際には爾爾芸(ニニギ)命に随伴して、伊須受宮(イスズノミヤ)を祀る)
 11.八束水臣津野命(ヤツカミヅオミツヌノミコト)(出雲風土記の国引きの神)
 12.登美夜毘売(トミヤビメ)(登美の長髄彦(ナガスネヒコ)の妹。
   邇芸速日命(ニギハヤヒのミコト)との間に宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)を生む)
 13.八咫烏(ヤタカラス)(神武天皇一行を吉野まで案内する)
 14.八十梟師(ヤソタケル)(土蜘蛛。東征した神武天皇らに斬られる)
 15.神八井耳命(カムヤイミミノミコト)(神武天皇の皇子。弟の神沼河耳命(カムヌナカハミミノミコト)
   こと綏靖天皇に天下を譲る。多臣品治で持統天皇の兄)
 16.夜麻登登百百曽毘売命(ヤマトトモモソビメノミコト)(孝霊天皇皇女・最古の前方後円墳
   とされる箸墓の被葬者とされる)
 17.波邇夜須毘売(ハニヤスビメ)(河内青玉の女で、孝元天皇妃となり、
   建波邇夜須昆古命(タケハニヤスヒコノミコト)を生んだ)
 18.八坂之入日子命(ヤサカノイリヒコノミコト)(崇神天皇の子)
 19.八田姫(ヤタヒメ)(応神天皇の皇女。仁徳天皇妃)
 20.美夜受比売(ミヤズヒメ)(尾張国造の祖)
  
 
 朝鮮半島より倭国への流入民
 
 第1波は紀元前3世紀頃から紀元2世紀にかけて、伽耶、新羅及び
  その前身部族国家グル−プの波。
  その中心はワイ(ヱエ)部族である。(農耕、鉄器文化と共に)
 
 第2波は4世紀末の「百済の波」、高句麗の広開土大王(391年即位、413年没」
   が百済を攻め、百済より王族・高官・学者・将軍が技術集団をつれて倭国に来た。
   砂鉄10tに対し炭は12t必要、木材を求めて倭国に来た。
   応神天皇(王仁)(ワニ)=百済王子辰孫王。
 
 第3波は7世紀後半の「百済・高句麗の波」、660年百済滅亡、663年倭国援軍大敗。
   斉明天皇(百済武王(ムワン)妃宝(ボ)王女)その息子中大兄(天智=百済王子翹岐)
   も倭国に亡命して来た。
   668年高句麗滅亡、高句麗・百済両国の権力者が学者・僧侶・医者その他の
   専門家や技術者達を伴い、倭国に集団亡命した。
   これが「今来(イマキ)の人々」、高句麗将軍淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)など。
   文武天皇は天武天皇の長男で新羅の文武大王(ムンムテワン)その人である。
   母は金官伽耶の直系子孫、金ゆ信の妹「宝姫(ポビ)」なり。
 
 
 三国遺事(一然著)、「古朝鮮」
 
 天帝桓因の息子桓雄は父帝の許しを受け3,000人の配下を連れて太白山の
 神檀樹に降りてきた。桓雄が世を治めている時、熊と虎が同じ洞窟に住んで
 毎日人間になりたいと祈っていた。桓雄は熊と虎に一握り蓬(ヨモギ)と20個の
 大蒜(ニンニク)を与え「これを食べて百日の間、太陽の光に当たらなければ、
 人間になれるだろう」と言った。
 虎は辛抱出来ずに逃げ出し、熊は百日たって人間の女になった。
 熊女の子供が欲しいという願いを桓雄は人間の男に変わって叶えてやった。
 生まれた子供は檀君となった。紀元前2,333年、今の平城を都にして
 国名を「朝鮮」とした。----
 
 伊奈牟之呂(イネモツガラ)=すぐ行けぬ。
 伊奈武思呂(イネムジルロ)=すぐ攻めて、すぐ押し伏せて、稲筵。
 伊奈宇之呂(イネウラジ) =すぐ泣くので。
 
 以上、「やまと言葉を遡る」仕田原 猛氏著より抜粋。
 
 2019年2月27日書
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 日蓮聖人の立正安国論
 
 南無妙法蓮華経・・・人の世の三種の苦とは?
 @苦々(くく)=病と怪我それに別離。
 A行苦=万物の変化。順風に見えていても、いつか苦がやって来る。
 B壊苦(えく)=地震や津波、火事、水没それに元来の生老病死。
 
 一切経
 大集経・・・三種の災い。
 仁王経と薬師経に七難。
 金光明経・・・13種の災い。他国侵逼(ぴつ)の難と自界叛逆(ほんぎゃく)の難。
 2019年6月1日書
 
 
 
 
 
 
 
 
 「般若心経」とは
 
 般若心経は紀元前100〜紀元後200年?に完成したと言われている。
 お釈迦様---BC463年〜BC383年入滅(80才)
 翻訳者---玄奘三蔵法師(600〜664年)
        鳩摩羅什初代三蔵法師(AD334〜413年)
        法相宗(清水寺・薬師寺)
        倶舎宗

 般若心経の漢訳---AD649年玄奘三蔵法師が完成した。
              この年は大化の改新と同年である。
              2017年10月28日書

 「摩詞般若波羅密多心経」   

 大いなる叡智を完成する事についての心のお経。
   マハ−パンニヤ パ−ラミタ−心経。
   肝心要のお経です。

   摩詞=大きい事
   般若=叡智=人間を始めとするあらゆる森羅万象の現象の
            背後に隠れている本質をズバリ見抜く事の
            出来る眼の事を「般若」と云う。
   波羅密多=こちらの岸から、かなたの岸に渡り終わった事。
          即ち「ある物事を完成し終わった状態」の事。
           2017年10月30日書



 「観自在」( テシバラ)とは=観音さま=
  叡智と慈悲の働きを持つ如来の分身の事

 「観自在菩薩」とは=自由・自在に人間をも含めたこの天地大宇宙の本質を観る、
              如来の叡智の働きを象徴する事。

 「観世音菩薩」(アバロキタ スバラ)とは=世の中の悩める衆生の音、
                        即ち声を観ていつでも、
                        どこでもすぐ助けに来て下さる如来の
                        慈悲の働きを象徴している事。
 
 菩薩(ボ-ディサッタ)(パ-リ語)とは=悟りを求めている人、
                       悟りを開きつつある人即ち求道者、
                       修行者という意味。
                       古代訳経僧は「菩提薩?」=菩薩になった。

 「観音菩薩」とは=我々人間と同じ菩薩の形をとった如来の事。
            菩薩という名前で我々の礼拝の対象とされているものは、
            すべて人間の形に化身された如来なのです。 
            2017年10月31日書

 「深般若波羅密多」とは---六波羅密--- @布施
                           A持戒
                           B忍辱(にんにく)
                           C精進
                           D禅定
                           E般若
                       以上@〜E全てを含むという意味である。

 「五蘊」(ごおん)とは---人間を構成している五つの構成要素の事。
               @色---あらゆる物質の事
               A受---感覚の事
               B想---イメ−ジ又は表象の事
               C行---追う求めや逃げ出しの意志の事
               D識---色々の知識が形成される事
                識の明細---視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚
                        (眼識(げんしき)、耳識(にしき)、
                         鼻識、舌識、自識、意識)

              人間は「水素」、「窒素」、「炭素」、「酸素」、「カルシウム」、
                   「硫黄」、「燐」、「ナトリウム」、「カリウム」、「塩素」の集合体。
                   2017年11月1日書

 五蘊の色は---肉体を表している。そして、受、想、行、識は精神(作用)を表している。
          人間が生きているとは、その肉体と精神作用が結合している事であり、
          死はその肉体から精神が分離していく事であり、生まれると云う事は
          またその精神が、どこかの動物の胎内又は卵を借りてそこに宿り、再び
          精神と肉体が結合する事を云う。
          即ち、生は死の始まりであり、死は次の生の始まりなのである。
          2017年11月3日書


 「五蘊皆空」とは--- @他のあらゆる物が存在しているからこそ、自分が存在しているという事。
               自分以外のあらゆる物が生じたからこそ、自分も生じたのだ、という事。

              A自分以外のあらゆる物が無いとなれば、自分という物もありえない。
               また自分以外のあらゆる物が無くなってしまえば自分も無くなってしまうのだ。
               (自分には何も実体はないのだ)これを諸行無常と表現する。

              Bあると思っているのは単なる夢、まぼろし、錯覚にすぎないのである。

              結論---自分の体も心も、自分以外の人の体と心も、みんなその実体は
                   無いのだと云う事をはっきりと腹におさめて生きておれば、その人は
                   すべての苦悩から解放されるものなのです。

 *釈尊とその弟子---竜樹菩薩、世親菩薩、達磨大師、伝教大師、弘法大師、栄西禅師
               隠元禅師、道元禅師、法然聖人、親鸞聖人、一遍聖人、日蓮聖人。

 「舎利子」(鷺家の子)---お釈迦様の弟子(智慧第一)千数百人中の10人の一人
                (舎利弗)(シャリホツ)---シャ−リ・プトラ

 「色即是空」=色すなわち我々の肉体も我々以外に存在しているありとあらゆる物質・現象にも
         すべて恒常不変ないし、それ自体として独立して存在している実体は何も無いのに
         等しいと云う事であります。

         空---@相依性の側面---他との関係(空間)
             A変化性の側面---それ自体の物の本質(時間)

 *現実否定の精神---この世には執着の対象となるべき実体は何も無い。
               否定し、否定し、否定しつくしたそのどん底で、その否定した
               眼でもって、もう一度現実を肯定する。
               これが、「空」はすなわちこれ「色」なりの世界になる。
               2017年11月4日書

 相依性とは--- 此れが有るが故に、彼れが有る。
           此れが無きが故に、彼れが無い。
           此れが起こるが故に、彼れが起こる。
           此れが滅するが故に、彼れが滅する。
 
 変化性とは---あらゆるものは、絶えず変化するもの。
           2017年11月7日書



 「愛想行識」とは---私たちの精神作用を云う。 例えば、亦復如是=またまたかくの如し。

 「是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不滅也」とは---ある日突然生まれるものでもなければ、
        ある日ある時無くなってしまうものでもなければ、汚いものでもなければ、綺麗な
        ものでもなければ、増えるものでもなければ、減るものでもない。

        つまり、「はじめ無き過去から、終わりなき未来にかけて、この天地大宇宙を
        生き続けて生きている永遠の命、永遠の光の事である。」

 訳:この諸々の物や現象を空相なりと見る如来の世界は不生不滅、不垢不浄、不増不滅なり。

        諸法とは物事・現象の事。

 天界(神様の世界)、人間界、修羅界、畜生界、食我鬼界がある。

 「無色無受想行識」=色は即ちこれ空にして、空即ちこれ色なり、
               受も想も行も識も、またまたかくの如し。

 「無眼耳鼻舌身意」= 眼---色---眼界
               耳---声---耳界
               鼻---香---鼻界
               舌---味---香界
               身---触---身界
               意---法---意識界
              (六根)(六境)(六界)

          眼も聴覚も匂りも味覚も夢まぼろしである。

 「無色声(しょう)香味触法」=視覚、聴覚、味覚、匂感覚もそれ自体がなく、まぼろしである。

 「無眼界乃至無意識界」=六界は全て無し。  2017年11月8日書


 「無無明亦無無明盡乃至無老死亦無老死」とは---
  12因縁
    @無明---無知(物事の真理に対する無知の事) 
    A行-----行為
    B識-----六道に対する執着心生まれる。(受胎)
    C名色---名--心、色--肉体。
    D六入---六根(眼耳鼻舌身意)
    E触-----六感で何かを感じる事。
    F受-----良い悪い、好き嫌い、気持良い、悪いを受ける。
    G愛-----トリスナ-楽しい事を求め、苦しい事を嫌がる欲望の事。
    H取-----執着の働きと、逃避の働きの事。
    I有-----行動が原因となって色々な結果を引き起こす働きの事。
    J生-----(受)と(愛)と(取)と(有)によって、人生が形成される事。
    K老死---いずれ必ず老い、必ず死ぬ事。

    *死ぬと@「無明」の世界にもどる。
    @「無明」からA「行」を経て、
    B「識」に行き、どこかの胎内に宿る、これを無限に繰り返す。
     2017年11月9日書



 12因縁の第2(もう一つ)の意味は----
  上記とは逆になる。
   @老死-----老の原因は「生」である。 生=病、 生=死
           生きている限り、時には病み、そしていつかは必ず老い
           そして死んでいく、と云う鉄則を腹の底に入れ込んで生きて
           いる事が、即ち、病と老と死の苦しみから我々を救ってくれる                                                  のである。
           病む時は病むのが良い事で、死ぬ時は死ぬのが良い事である。
           これ病死よりも救われる事である。---良寛(仏教の精神)

   @我々は何故生きているのか?
    それは我々の行動により、その結果として現在の人生、生活が
    あるからです。即ち「有」(う)である。
   Aでは何故「有」(う)があるのか?
    それは我々が自分の欲するものに執着し、自分の欲せざるものから
    逃避しようとして来たからである。即ち「取」があるからである。
   Bその執着心はどこから生じたのか?
    それは欲望、即ち「愛」があるからである。
   Cその欲望はどこから、また、何故生じたのか?
    それは我々が好悪を感受するいろんな感覚を持っているからである。
    即ち「受」があるからである。
   D何故「受」があるのか?
    それは我々が生まれた時から、眼や耳や鼻や舌や手や第六感で
    いろんなものに触れて来たからである。即ち「触」があったからである。
   Eでは何故「触」が生じたか?
    それは母親の胎内において六っの感官を与えられてしまったからである。
    即ち「六入」である。
   Fでは何故「六入」が生じたのか?
    それは「六入」の受け入れ態勢である肉体と心が胎内で形成されていた
    からである。即ち「名色」である。
   Gそれでは何故「名色」が出来上がったのか?
    それは、ある時母親の胎内で受胎という現象が起きたからである。
    即ち「識」である。
   Hしからば、何故受胎されてしまったのか?
    ア−トマンが女性の胎内にへばりついたから、受胎という現象がおきたからである。
   I何故そのア−トマンはその胎内にへばりついたのか?
    それは中有(過去世界と現世との中間にある世界の事)におけるア−トマンが
    仏界に生まれ変わるほどには浄化されず、まだこの六道、特にその中の人間界
    に執着心を持っていたからである。
   Jでは何故人間界に対する執着心はどこから生じたのか?
    即ち、過去世においてなした、もろもろの行為の積み重ねの中から生じた
    ものなのです。即ち「行」である。
   Kではその「行」は何によって作られたのか?
    それは闇々たるまっくらな「無明」によって形成されて来たのです。
                            
    結論:我々の現在の悩み苦しみの根源を、これでもか、これでもかと追求して行くと
        結局は「無明」に至ると云う事である。
        2017年11月10日書


 十二因縁の否定とは---無明の尽きる事もなく、乃至老死の尽きる事もなし。

               つまり、サラサラと水の如く生き、
               ゆうゆうと雲の如く生きる事である。
               
               流れる水と云うのは、岩にぶっかっても、
               何ごとも無かったかのように、
               また、サラサラと流れていくことなのです。
               そのように、サラサラと我々も生きる事なのである。

 四諦(したい)=「無苦集滅道」=「苦も集も滅も道もなし」と
           「明らかにされた物事の本質」、「真理」の事

 苦諦(くたい)=人間の場合には「人生」の事。(苦であるという真理の事)
           苦の本来の意味=デユツカ=「意の如くにならない事」

          生死病死(四苦)=愛別離苦
                      怨憎会苦---十二八苦
                      求不得苦
                      五蘊盛苦---四苦八苦

          生苦=生きていると云う事は苦しみである。
          病苦=病気で苦しむ事。
          老苦=好きで年をとっている人はいません。
          死苦=死ぬ事を望んでいる人はいません。

 愛別離苦=愛する人・物とは、必ず別離しなければならない苦しみである。

 怨憎会苦=怨み、憎んでいる人とは、必ず会わなければならないのが、
        人生であるという事。

 求不得苦=求めて得られざる苦しみの事。

 五蘊盛苦=五つの蘊が盛んになると出てくる苦しみの事。

 釈迦曰く---「絶望のどん底に落ち込んだ者はそこからはじめて
         真の悟りを得る事が出来る」と。
        2017年11月13日書
 

 道元禅師(1200〜1253年)---

 正法眼蔵---「美しい花は皆んから愛され、惜しまれる。
         だから花は散ってゆくのだ。
         逆に路傍に生えている雑草は、皆んなから
         棄てられ、嫌われる。
         だから草は増々生えてくるのである。」
                            
         幸をも求めず、不幸をも嫌わず、と云う世界に
         どっぷり我が身をゆだねると、本当にあらゆるものが
         楽しくなってきてしまうのである。
         2017年11月14日書


 集諦(じったい)=とにかく人生は「苦」で表現される。ではどのように考えればよいか、
           その「苦」の根源は「何なのか」を考えなければならない。
           そのことを「集諦」(じったい)と云う。
           (集まった真理と云う意味である。)

           苦の根源は「迷い」や「煩悩」による「業」であると考えるのである。

 滅諦=(制諦)=苦の根源を制御しなければならない。これを「滅諦」と表現する。
           滅=ニロ−ダ=制御する。あやつる。支配する。と云う意味。
           2017年11月18日書


 道諦(どうたい)=その煩悩を制御する事の出来る道、方法は何かと云う事が問題となる。
            この事を道諦と云う。これには八つあると考えられる。

           八正道とは
           @正見---四諦の道理を正しく見る事。
           A正思---四諦の道理を正しく思う事。
           B正詰---嘘を云わない事。(不妄語と同じ)
           C正業---正しい行動をとる事。
           D正命---正しい生活をする事である。
           E正精進-悟りを開く事。自らの煩悩から自らを解放する為に
                  努力する事。
           F正念---正しい道を念ずる事。
           G正定---心を定める事。
           2017年11月22日書

 八正道の正の基準は「十重禁戒」である。
           つまり、この十重戒に合致した見解を持ち、
           それに従おうと云う決意を持ちそれに合致した言葉を話し、
           それに合致した行動と生活をし、それに向かって
           努力し、それをいつも心に念じ、それに合致した
           肝っ玉を持つ事が「八正道」である。

           十重禁戒とは
           @不殺生戒
           A不偸盗戒
           B不邪淫戒
           C不妄語戒
           D不?酒戒    (5)不綺語戒
           E不説過戒    (6)不悪口戒
           F不自讃毀他戒 (7)不両舌戒
           G不慳法財戒  (8)不慳貧戒
           H不瞋恚戒    (9)不瞋恚戒
           I不諤三宝戒  (10)不邪見戒
           2017年12月5日書


 四諦・八正道に対する否定

  無苦集滅道とは「苦諦もなく、集諦もなく、滅諦もなく、道諦もなし」と
 そんなものはないんだよ、と言われた。
 「裏切られた」と思った瞬間に、必経の世界、すなわち「空」の世界に
 一歩足を踏み込んでしまっているのであります。
 朝から晩まで「ジッタイ」「ジッタイ」とそればかり考えているのは「ダメ」と云う事です。
 同様に滅諦もなく、道諦もなし、となるのです。

 否定の否定   
 「無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽」の
 次に「無苦集滅道尽」=(「苦と集と滅と道の尽くる事もなし」と)の言葉が略されている。

 本当の道はその中道にあるのである。
  2017年12月6日書

 両極端の否定、即ち「苦集滅道」と「無苦集滅道」のどちらからも自由なる境地が、
 「般若心経」の世界であり、また、「空」の境地なのである。---僧湛道(たくどう)著
 「心経決談抄」
 苦中に苦を離し、楽中に楽を離る。かくの如く障碍なければ苦集滅道もなきにあらずや。
 苦は苦で良し、楽は楽で良し。苦楽空相なれば、苦ある時は苦に遇って良し、
 楽ある時は楽に遇って良し。何の妨ぐる事や、これあらん。

 「病む時は病むが良くて、死ぬ時は死ぬのが良い事なり」---(道諦に対する否定)
 *あらゆる執着に対する否定。つまり、仏教に対する執着をも否定される。
 2017年12月7日書


 座禅だけに執着してもいけない。

 良寛の言葉として
 @悟りとは悟らで悟る悟りなり、悟る悟りは偽の悟りである。

 無智=智もなく、また得もなし=悟りもないと云う意味也。

 お釈迦様
 竜樹菩薩
 達磨大師
 天台大師(中国)
 如浄禅師
 伝教大師
 弘法大師
 栄西禅師
 道元禅師
 法然聖人
 親鸞聖人
 一遍聖人
 日蓮聖人
 2018年01月23日書

 @尋牛------まず牛を探しに出かける。牛とは、「悟り」の事である。
 A見跡------牛を尋ねて深い山に入り、ようやくその「足跡」を見つける。 
          足跡とは文字に書かれた「お経」の事である。
 B見牛------やっと「牛の影」を見つける。浅い悟りを開いた段階である。
 C得牛------その牛に手綱を付けて、「自分のもの」にしようとする。
          ちょっと悟りかかったもので、おもしろくて修行が止められない。
 D牧牛------牛を良く「飼いならす。」即ち、悟った後の修行である。
 E騎牛帰家--ならした牛に乗って、わが「家に帰る。」悟りを開いた上で、
          このドロドロとした娑婆世界に戻ってくる事。
 F忘牛存人--牛の事をすっかり「忘れてしまう。」自分が悟った事を忘れてしまう事。
 G人牛倶忘--牛の事だけでなく、自分のいる事も「忘れてしまう。」
          即ち、悟りの事も自分の事も、忘れてしまう。
 H返本還源--本(もと)に返って「源に」還る。つまり、宇宙の根源である永遠の命と
          一体になってしまう。
 I入廛垂手--廛(てん)、即ち町の中に入って衆生済度の為に手を垂らす。
          つまり、永遠の命の世界から、またこの現実社会に戻って来て「人類」を救う。

 般若心経---「空」---7個
         「不」---6個
         「無」---13個
         仏教は---否定の否定したる肯定である。
         色即是空と空即是色の世界である。
 2018年2月1日書

 無得とは---@智もない(得もない)
         A何かを得ようとする事もない(得ようと意志なし)
         つまり、幸福を所有しようとしない処にこそ、幸福があるのです。---
         金子文子(1926.7.23)

 菩薩とは---以無所得故---菩薩薩?は般若波羅密多に依る。
                  @所有しているものは何もない。
                  A何ものも得ようとしていない、
                   幸福などを追い求めようとしないことによって
                   「般若波羅密多」を得ることが出来るのである。
                   2018年2月14日書
トップペ−ジに戻る