第5話 オーストラリア1/ナラボー砂漠
「くそっ、なんでだよ!いい加減にしろよ、まったく!次やったら今度は面倒見ないっていっただろ。もう知らんぞ、そこでそうやって干からびてりゃいい。」
僕は白昼、この上ない晴天の下で怒鳴っていた。
気温は既に40度を越えている。周りは見渡す限り赤い砂、と、ところどころに針のように硬い草と貧弱な木が生えている。どの方角を見ても、地平線までそれが続いていた。
空には雲などなく、ただ目が眩むように青くて、何もない空間が半球状に僕らの世界を覆っていた。そして地上にも、存在として認められるものが僅かしかなかった。
この世界を構成するものは、と問われれば、その時僕には「空」と「砂」と「僕」と、この旅の相棒である1人の「友人」と2台の「バイク」、というほかはなく、そして、そのうち1台のバイクは、その日8回目のパンクをしたところだった。
この地球上の、あるひとつの極限状態。その場所で僕の頭も極限状態にあった。
僕が怒鳴っている相手は、YAMAHA XT200。大陸を走るにはあまりにも小さくて弱々しいバイクだったが、経済的な理由と、シンプルで壊れにくそうであることと、もし壊れた時に自分で何とかできるようにと考えた結果だった。
そいつが、僕の目の前で後輪を変な角度で砂に埋めていた。
「もう直してやらないからな。お前はそのまま次の街まで走るんだ。」
この炎天下でパンク修理をすることは、当然体力を大きく消耗する。
自分の命を維持するためのものはこの小さなバイクに積める範囲でしかなく、食糧、水、燃料、工具、テント、シュラフ。その中でも水と燃料は最も大切で、無くなればそれで簡単に生死の境界線に立つことになる。
パンク修理を確実に行うには十分な水を必要とする。タイヤチューブに空いた穴の位 置を見つけるためにである。パッチをはる前にその部分を洗浄することも必要だ。
しかし次の補給ができる街まで、快調に走り続けて丸一日、今のペースで行けば2、3日はかかる距離である。ここで水を消費するのをためらい、水なしで修理をしているため、何回やっても完全には直せなかったのだ。
砂地でなぜパンクするのか、と思うかもしれないが、オーストラリアの砂漠はいろいろな表情を持っていて、本当にふかふかの砂場もあれば、ウォッシュボ−ドと呼ばれる小さな波状のでこぼこが何キロも続いたり、尖った岩盤やガレ場の上に砂がつもった場所があったり、耕した後の田んぼのように塊がゴロゴロしているところもある。そんなところを延々走るのだから、車体には舗装道路を走るのとは比べものにならない負担がかかる。
僕のバイクは、さらに僕を含めて90kgの荷物を背負ってこの悪路を走っているのだ。
最初のパンクは少し大きめのギャップを越えた時だった。砂が被っていてそんなに大きいとは思わず、突っ込んだ結果 、柔らかい砂の下には予想以上の硬い塊があったのだ。前輪はフォークがなんとかショックを吸収してくれたが、後輪は荷物の重量 があったのでもろに底付きを起こし、ガツンという衝撃とともに、バンという音がした。
その音は後輪のホイールのスポークが折れた音だった。一回目のパンクはその折れたスポークがタイヤに刺さって起こったのだ。
その後何度か同じ場所がパンクし、連鎖的に何本かのスポークが折れ、修理の際に入った小石か何かでまたパンクをするという最悪の状況であった。
相棒の北川は少し離れた木陰にバイクを止め、そこに座って僕の様子を眺めていた。手伝ってくれない冷たい奴なのではなく、何回目かのパンクをした時に僕が拒否したからだった。
このツキのなさに僕はいらついて、
「こいつは俺がみるから、お前はあっちいっててくれ」と叫んでいた。
それ以来奴は、そうやって何もいわず、僕を眺めるだけになった。
僕が修理を終えると、立ち上がって自分のバイクに乗り、
「先に行け」と、右手でうながす。
そしてまた僕のバイクが止まると、少し離れてバイクを止めて、じっと僕の様子を眺めている。
奴にとっても災難だったにちがいない。何もない砂漠のど真ん中で、自分一人がここを越えることさえ危険が伴うのに、足止めを食らってさらに相棒が半狂乱だなんて。僕が逆の立場だったら、一緒に狂ってるか、置き去りにするかもしれない。
それを思うと、もう一度、と心を落ち着かせ、また修理をしようと思うのだった。
 
僕は手巻たばこを一本巻き、深く吸い込んで吐き出し、水をひとくち飲んだ。
バイクに積んである荷物を下ろし、ガソリンの予備タンクであるジェリカンをエンジンの下にもぐりこませ、後輪を浮かせる。下が砂地なのでなかなかうまく上がらない。その不安定な状態で後輪シャフトをスイングアームから外し、ホイールからタイヤをタイヤレバーを使って少しずつ外していく。
タイヤ交換は今までに何度も経験しているので手慣れたものだが、この容赦のない陽射しの下でとなるとめまいがして、吐き気ももよおす。
チューブを引っぱりだしてポンプで空気を入れる。ここで本当なら水をはったバットなんかに突っ込んで空気のもれている箇所を調べるのだが、それができないのでまず耳で聞く。
大体の場所をそれで見つけたら、今度はそのあたりに唇と鼻を近付けてみる。
パンクしている箇所を見つけたら唾を付けて確認し、さらに舌でなめる。これは水やアルコールで洗浄できないために行うのだ。
何かで拭き取るといっても、こすって埃や砂粒が付着しないものはその時持っているものの中にはなかったからだ。
そこをサンドペーパーでこすって下地を作り、ゴムのりを塗って乾かす。
乾かしている間にもう一本たばこを巻く。こっちに来て見つけた「RIDER」という名前のたばこだ。葉はピースと同じヴァージニア。甘い香りと濃厚な味が僕好みで、手巻だから自分で強さも調節できる。旅には最高のたばこといえる。それを一本吸うと気分が落ち着いた。
ゴムのりが乾いたところにパッチを張る。空気が入らないように、砂がかまないように、しっかり張り付けたら、そこをドライバーのグリップエンドで叩いて圧着する。
もう一度空気を入れて、もれがないか確認したらタイヤにもどし、またタイヤをホイールへレバーを使って押し込んでいく。この時砂が入らないように慎重に。
スイングアームにホイールをのせ、チェーンをスプロケットにかけ、シャフトのナットを締めこみ、もう一度ポンプで空気をいっぱいに入れてやる。これで空気もれがなければ、完成だ。
今日、この作業がもう8回目なのだ。
しかしその時、この暑さの中にあっても血の気がひくような、嫌な音が僕の耳に聞こえてきた。
 シー……
空気が、今直したばかりのタイヤの空気が抜けていく。
見逃した箇所があったのか、それとも今直したところが不完全だったのか。
「いい加減にしろって…」
僕はその場に膝をついてへたれこんだ。もう何もやる気が起こらなかった。午後の少し傾いた太陽が、頬をジリジリと焼きつけていた。
その時、
「スパナかせよ」
北川が僕の横に立っていた。
北川はもう一度バイクをジェリカンの上にのせ、しっかりと固定して、僕の見ている前で作業を始めた。僕は何もいわず、それを見つめていた。
やることは僕と何も変わらない、ただ奴のほうが慎重にひとつひとつこなしていっているように見えた。北川は無言で作業を進めていった。
出来上がると、空気のもれる音はなくなっていた。もれていたのは僕が直した箇所からだった。
ゴムのりに埃が付着し、パッチが完全に付いていなかったのだ。
「ありがとう、すまなかった」
僕がいうと、
「まずは落ち着け」
奴の口癖だった。
北川は、地平線に続くこの道の、僕らが向かう方に目をやり、
「今日はもう少し走ったらキャンプ地を探そう。明日は水のあるところで完璧に直せるさ。国道に出れば新しいチューブも手に入るかもしれない。」といった。
まずは落ち着け。この言葉は北川が自分自身に対してよく使う言葉だった。あせったり、たかぶったり、パニックに陥った時にこそ、冷静に自分を見つめる必要があると奴はよくいっていた。
それから僕らは、スピードを押さえぎみに注意しながら走り、僕が10回目のパンクをしたところでその日はキャンプをすることにした。
寝ている間にまた空気が抜けるかもしれないので、10回目の修理は朝にすることにした。
太陽が沈む前に食事をし、RIDERを吸いながら地平線に沈む夕日を眺める。
沈むと同時に風が吹き出してきて、その風は次第に地上のあらゆるものの熱を奪っていき、みるみる気温が下がっていった。
空に星が出始める頃、コッフェルにいれた水がその風でちょうどいい具合に冷やされてうまい。日中の風呂の湯を飲んでいるようなのとは違う。さらに、空気が冷たいとたばこもうまい。僕はRIDERをもう一本、少し太めに巻いた。
気が付けば満天の星空だ。毎日のことながら、これが一番の贅沢に思える。
北川は横でバイクのシートの上に横になって星空を眺めていた。僕も同じように空を見上げ、昨日のことを思い出していた。
 
ここはナラボー平原というところで、オーストラリア大陸の南側にあたる場所である。延々続く砂の大地に、東海岸のシドニーから西海岸のパースまで、世界一直線距離の長い鉄道として有名なインディアン・パシフィック鉄道が走っている。その線路以外に、見渡す限り人工的なものは何もない。
2000km以上を走る鉄道なので、途中補給やら整備やらで立ち寄る駅が何ケ所かあり、そこにはその仕事に携わる鉄道員たちが暮らしている。彼らの家族も一緒にである。
360度地平線が見える景色、東西に走る線路以外は何もないところで数世帯がその小さな駅の周りに、ほんとに小さな街を作っている。当然子供たちもいる。
そんなところで育った子供の世界観はどうなるんだろう。自力で行ける地続きの場所はこの街に限られ、しかし視界に入ってくる世界はこの上なく広大なのである。
僕らにすれば閉ざされた感じもするのだが、直に地球に触れることができるというところで、認識される世界観は宇宙的なのかもしれない。
実際、彼らと鉄棒で遊んだり、バイクに跨がせてやったりしたところ、接触した限りでは普通の子供とさして変わりはなかったが。
 
夜風が冷たくなってきた。砂漠気候なので、日中との寒暖差は30度近くになる。星の数がどんどん増えてきた。もう星座なんか判別できないくらいだ。そろそろテントに入るか。
「お、今、人工衛星がジグザグに動いた。UFOだなあれは。」
と、北川が空を指差していった。
「ほんとかよ」
その後、寒くなってテントに入るまでの間UFO観測をしたが、いくつもの人工衛星と流れ星を確認するも、ジグザグに飛ぶやつは見れなかった。

……つづく

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