旧山陰街道‐2001年秋

杉山雅之



その道は、車で通ったことはあっても、歩いたことはなかった。いや、歩くことはあっても、商店街の駐車場からパン屋や文房具屋へ行く程度で、散策するといったものではない。むろん、路地へ入るなどということはなかったし、路地自体の存在さえ、知らなかった。ここで展覧会をしようと言い出したのには、去年の経験がある。街に看板を立てたり、商店のウインドウにポスターを貼ったりした。現物の看板やポスターを持っていって、これを貼らさせてください、と・ ・ ・ 。拒否されなかった。それどころか、好意的であった。商店街振興会や商工会を通さずに、飛び込みでお願いしたのがよかったのか。看板とかポスターと言っているが美術作品である。看板は作家と私で、ポスターは作家自身で設置の許可を取ってまわった。街では話題になった。知り合いがふえた。

その道が旧山陰街道であると確認したわけではないのだが、そこ以外考えられないので調べもせずに案内チラシにそう表示したのだが、町内のひとたちにそれはどこかと聞かれるので、少し不安になる。彼らはそこを旧国道と呼ぶのだそうだ。何年か前にその旧国道で軒先に行灯がともされているのを見たことがあった。あんどんまつりと呼べそうなもので、子供が描いた絵が旧街道の闇のなかで、黄色いひかりに浮かんでいた。「まつり」と呼ぶのは、それが派手でにぎやかだからではなく、年中それらがあるというのではなしに、期間が限定されていたからだ。日が暮れてからの旧街道はまつりというにはもの寂しく闇が支配し、マンガのキャラクターの描かれた行灯の火は、その闇を一層強調していた。

野村久之の行灯絵画をこの闇の中に解放する。それがこの展覧会のはじまりであった。野村久之は私のただひとりの先生である。つきあいは長い。30年をこえる。一昨年、大阪、上本町のABCギャラリーで回顧展ともいうべき、先生の個展がひらかれた。昭和三十年代の日本画による抽象画から、ドンゴロスやパルプ製の卵ケースなどを使ったアッサンブラージュ風作品。1960年から70年代にかけてのFRPやアクリルの立体作品、アクリルミラーを支持体とした版画。80年以降の、トロンプルイユを駆使した版画群とベニヤ板によるレリーフと立体作品。最新作の、染料によって描画され裏からネオン管で照らされた和紙の作品。作品の形式には一貫性がない。それら先生の作品の中で私の記憶にいつも登場するのは、赤と緑、それもおそらく蛍光色なのであろう、補色関係という以上に目に突き刺すような彩度をもった作品と、円筒形の稜線のみをアクリルミラーにシルクスクリーンで刷った作品である。略年譜を見ると、前者が1972年で私がまだ小学生のころの作品である。小学生である私がたしかに見たその感覚は記憶と一致するが、後者は1979年となっていて、私はもう大学生なのである。しかし、記憶上は、子供の頃に見た作品としてあり、前者とともにその不可解さをずっと保持していたのである。一貫しない作品の形式は、その不可解さを増幅するものではなく、それぞれの作品の未知なる部分を残したまま、それでいて野村久之の作品群への身体的同化を可能にする。最新作の和紙とネオンの光りによる作品は、その形式の一段飛ばしにもかかわらず、あるいはそれゆえに、私を彼の作品に近づけ、恩師と教え子の関係から解き放ったのである。

この旧街道には、酒屋が多い。酒好きの町だなあとぐらいにしか思っていなかったが、そうではないらしい。およそ半世紀前まではこの界隈には、酒蔵がたくさんたっていた。と、建具屋の御主人が言う。この町に来て10年あまり、つねづね不思議に思っていたこの町の成り立ちの一端があらわれた気がした。酒造りの町だったのではないか。宿場町としては、さほど遠くないところに、日本海側には園部という八木よりも大きな町があり、京都よりには亀岡市があるのでここに投宿するのは変である。宿場町にはあるであろう旅篭らしきものがひとつも残っていない。代わりに、一つの商店街にしては明らかに多すぎる3つの酒屋と1つの造り酒屋。この街道と直交している駅前商店街にも酒屋が1つある。酒造りが盛んだったことのひとつには水が関係しているのではないか。自家用車が住民の主な交通手段であるこの町の役場にしては、駐車場が少しせまいのではないか、と役所の人に聞いたことがある。庁舎を新築する時に地下に駐車場を作るべきだったのではないかと。伏流水が浅いからと、彼は教えてくれた。地面を掘ればすぐに水が出てくるのだろうか。井戸を掘って、水を得るのが容易となれば、酒蔵が多かったというのもうなずけはする。その唯一残っている造り酒屋の正面の黒い板塀に青い絵画はかかっていた。路地を入った酒蔵の、なぜか黄色く塗られている壁には、黄色い絵画がかかっている。

今では酒を造らなくなった酒蔵がアパートになっている。表通りからはわからないのだが、路地に入ると、アパートにしては作りがおおぶりな建物の内部が目に入る。蛇口がいくつも並んだ洗面所のある広い土間の両側は外部に階段のある2階建てアパート2棟。建築内建築。縮尺の違うものを無理にコンピューター合成したみたいである。しかしここはCGのように、無機質な画面ではない。壁はモルタル、窓は木枠におうとつのあるガラスである。最近だと、改築するのであれば、外壁はサイディングを使うだろうし、窓はもちろんアルミサッシだ。CGで再現も可能である。しかし、このサイズと意匠と材質の組み合わせは、CGでは再現不可能。コンピューターの性能のせいではなく、若年のCG作成者にこれらの風景の概念と経験がないからである。このモルタルと木枠のガラス窓は、否応無しに私をこどもへと送り返す。路地のなかから表通りを見る。現在というものが、距離をおいてまぶしく見える。路地ををもっとすすんで川の堤防の上に出る。堰で流れがとまった幅のひろい川面に視覚をさえぎるものは、風しかない。ふりかえると、路地が下に見える。建築物にほそく挟まれた過去と現在が俯瞰できる。

さいたま市という新しい町から友人が来た。妻の友人と言ったほうがよい。東京は目白、日本女子大のむかえ、田中角栄の目白御殿のとなりに、旧細川公爵家の邸宅で、いまは学生寮として機能している和敬塾という施設の本館となっている上品な洋館がある。その洋館で二人は展覧会をした。その展覧会のリーフレットに彼の言葉がある。「人は歴史のなかにしか生きられない。悠久の彼方に眠るそれではなく、昨日もまた歴史なのだ。この洋館が建てられた昭和初期といえばついこのあいだである。そのごく近い過去がすでに定かでない。歴史上の事件は記憶に残っても、そのとき人が何を思い生きたか、追体験するのは困難だ。博物館に入りきらない過去は人の厄介な荷物である。(後略)」 彼は礼儀正しい人間である。関西の人間からすると、関東の人特有の硬さともいえるが、悪い印象はない。そんな彼が来町まもなく帰ってしまうと言い出したのである。断られた。駅に着いて、一服する間もなく、彼はロケハンに出かけた。作品を展示する場所を探しにいったのだ。それで断られた。ただそれだけなのに、帰るという。言葉の問題かもしれない。八木の言葉は関西弁ではあるのだが、京都や大阪のそれとちがい関係性の断裂がある。テキストのみがあり、コンテキストが希薄なのだ。意見が一致する時は、無条件での一致なので、すこぶる順調なのだが、不一致の場合はそれも無条件なのでまったくらちがあかない。議論にならないのである。一晩うちで寝たあと、いい場所といいひとに出会い、町の人をいっぱい写真に撮って帰っていった。

路地といえどもいろいろである。人ひとりがようやく通れるような細い路地から、軽トラックなら通れるくらいの広めの路地。公道であったり、私有地であったり、突き当たっていたり、通り抜けられたりする。直径20センチぐらい、高さ10センチぐらいの木でできた饅頭のような作品は、人ひとりが通れるぐらいの細い路地の入り口に5つ並べてあった。国道を除いて町内で一番交通量の多い、スーパーの前の道の突き当たり、T字路交差点の、もしその路地が広かったなら、四つ角になるという位置にある。路地のなかに入れば、なかは暗く、通りのほうから差し込むひかりと、遠ざかる車の音が時間の感覚をズレさせる。

飾り窓と聞かれてなにを思い浮かべるだろう。男性なら、オランダはアムステルダムの遊び場、ウインドウの中に女性が、男性もいるかもしれないが、ポーズをとっている場所のことを考えるだろう。女性なら、レースかなにか飾りのついた洋館の窓といったところか。いや、おそらく男と女で分けられるものではなく、世代でそのイメージが分かれるかもしれない。「飾り窓」というこの言葉には、どこか前世紀の遺物のような響きがある。実際の飾り窓といえば、私の見た限りでは古臭さはない。現代的ともいえるものだった。窓はシンプルで飾りなどついていない。普通の照明のところもあったが、ブラックライトが多かった。ブラックライトだと、身につけている白い下着が浮かび上がる。この界隈はとにかく暗い。そこへたどり着くまでの道も、足元が見えないくらい真っ暗なのだ。アムステルダムは運河の町なので、足でもすべらせてはまりでもしたらたまらない。夏ならいいが、冬なら危ない。が、冬は運河が凍るので、濡れることはないだろう。そんな闇のなか、青白い磁場に白く下着がひかる。おしゃれでかっこいいのだが、欲の消費地というその場の意に反して、欲情をそそるという感じにはならない。猥雑さに欠けているのだ。八木町の旧街道、猥雑さとは無縁の文房具屋のウインドウに飾り窓がある。人のかわりにあるのは布。と彩色された角材。布も彩色されている。蛍光塗料が塗ってあり、日が暮れるとブラックライトが点灯され、その彩色された部分とレースの白い生地がひかりを放つ。アムステルダムほどではないが、ここも結構暗い。

さて、私の試みは終わろうとしている。関わりをもちえた多くの人に感謝します。

                             (2001年10月)