運動態としての視 −大堰川野外展体験−

林 剛


歩行する視


  歩きながら見る、という表現があります。その逆順で、見ながら歩く、というのもある。同じ事柄を言っているようで、良く考えるとそれぞれ、歩く、見る、の力点の置き場がちがう。私が始めに喚起したいと思うのは、この歩く、見る、の双方の運動を区別しないで同時に抱えつつ進めるような身体経験があると言うことです。そのありさまを言葉にするのはこれがまたなかなか難しい。たとえば「歩くこと」は「見ること」です、というような認識論的表現をしても、私がここで言いたい動的体験の喚起とはならない。「歩きつつ見つつ」と助詞をつけた接続体を用意し、これにサ変動詞を付けて「歩きつつ見つつ」する、とすれば、ある程度近い表現にはなるけれども、これはいま私が言いたいことを主語に置いた場合の述部に位置すべきもので、本来「**とは歩きつつ見つつすることです」というふうな構成の位置にあるべきものだ。じつはいま、この体言「**」がほしいのにこれがない。こういう場合の苦肉の策として「歩く/見る」や「歩く・見る」を良く使うのですが、象徴的な文形依存で論述には適当ではない、というのも実態が概念化されていないので論理的な使用に耐えられないからです。 困ったあげく、ここでは造語を持ち出すことにします。
  「歩行視」がそれです。この造語の実態は私が述べていく文脈のなかで汲み取って戴く他はない。とはいえある程度受け入れる用意をしておいてくださることが必要なので、端緒の動きをのべてみます。
  「歩行視」とは積極的な動機をもたぬ受動的な態度で、目に入って来るものを「見え」の有様として受け入れ、そのときの視覚に身を預けながら歩行をしてしまう、その進行運動のこと、であり、それを持続するありさまである。

  さて、この「歩行視」に身を預けながら歩く。それが今回大堰川公園での私の歩行体験だと思われるのです。そういう「歩行視」のまなざしに飛び込んで来るのは、会場のあちこちに隠れている、いわばさまざまな仕掛けです。しかもそれを言うにも普通の言葉では言い得ぬ様相を呈しています。あえて試みるなら、それは記憶に預ける形象たち。小さな姿で林や草むらに隠れて人の眼差しを待つそれは、いまここで、の体験は「未然のものですよ」と我々に呼びかける、後に思い出した時あなたの中で完成しますよ、とでも表現せざるを得ないようなありようを見せているのです。またあるものは、隠れ仕事での問いかけ。あなたは私の仕事を見つけられないだろう。またあるものは休憩中のあやつり人形。あなたが人形師なのですから、さあ、わたしの手足の糸を延ばして動かしてごらんなさいな。そしてまたあるものは、ある不在の情景としての情景。そしてまたあるものは、歩きを止めて「ちゃんと見よう」とする人の願望を嘲弄する、魔術師のハンカチ。といった具合なのです。
  「歩行視」は身体の無防備な姿といえますから、こういう仕掛けにつり込まれて、近づいたり遠のいたりさせられますが、だからといって夢遊病者のような徘徊で終わってしまうわけではありません。この「歩行視」にはある覚醒が持続するのです。この醒めた心的状況がどのようなものなのか、この野外展体験をあらためて語ることのによって迫ってみよう、と考えてここに筆を執るわけです。


接近と後退の視

  ところで、この魔術師のハンカチの役をしている作品が問題です。
  例えばそれの一つである杉山雅之の小さな「サッカーゴール」は公園内の広い地面にそれとなく置かれているという意外性によって、まずは遊歩中の人目をひきつける力を発揮します、「ああ、かわいいサッカーゴールがあるナ」という認知は、ある程度の接近で得られるような置かれ方をしています。しかしより近づくと、それは一般のミニアチュールにあるような、接近するにしたがって細部が奥深く広がり限りなくそこへと誘われる、というような喜びの世界とでもいうべきものが待ち受けているわけではありません。そういう期待は往(いな)されていると言うべきか、拒絶されています。私たちは身を屈め、目を凝らして顔をそこへもっていく、だがそこにそっけない造りの対象を目にしたとき、その視界からは初めの離れた出会いに見た経験のなにかが既に消え去ってしまっている。そこにあるのはどこか白けたサッカーゴールの形をした造形物だ。そこで先ほどの消えた「見え」の体験を取り戻そうとして後退すると、こんどはつい今し方接近して見たときの体験が記憶に残っていて初めに関心を持ったときとは趣がちがう。そこでは、すでに接近し遠のきした身体的「時間」を抱え込んで対象を見る羽目になっているのです。私たちの関心はここで早くも、行きつ戻りつしたじぶんの行為のありさまに向けられてしまっている、多少の腹立ちを感じながらも、この経験からのがれられない・ ・ ・ 。
  かくて私たちは歩行する視点の移動で「時」と「距離」に巻き込まれてしまい、どこにいても「イマ、ココ」の安定した視覚を保証されないということを体験させられるのです。しかしだからといって、このいらだちを、微視と巨視の同時獲得を一瞬のうちに獲得する術などというものは仙人にでも教わらない限り、人間の身体的限界をもってしてはとうてい無理なはなしだ、として諦めてしまっているわけではない。我々人間は言葉を武器としてもっている、解釈するのです。瞬時的「点」体験を時間的「幅」経験に包含し概念化する。杉山雅之の配置物によって一連の動作をさせられた全域を引き受けようとする。引き受けるといっても、言って見れば、まあ「軽く」それに挑戦しようとする。しかしその場合の多くは手品の種明かしを求めて急ぐあまりに、遂にはその連動を誘う役割をになっただけの、その造形物にだけ焦点を絞り、あれは概念化されたサッカーゴールだ、ミニアチュールのように即時の微視に応える作品でないとすれば、記号として概念化された物体だ、などと言ってしまう。近づいたり遠のいたりさせられた動態経験そのものを対象化せず、一つの契機にすぎない造形物の解釈をしてこと足れりとする浅い知的ゲームにしてしまう。
   もう少し注意深く対応することが出来れば、そういう小賢しいゲーム野郎で終わらずにすむ筈なのですが、それにはこの「サッカーゴール」で誘発された一連の「視の動態」を復元しつつも、このような事態を一般的な場と重ねながら、もう少し「重く」考えてみる努力をする必要があります。


暴かれる動的「現在」の視

  努力の結果を、先にのべましょう。
  「歩行視」があるものの目前まで接近したとき、そこで露呈する曖昧な「見え」は、そこでの「イマ」が、自己確定した「現在」の「見え」であるとはいえないのだ。接近しつつあったときの近過去を担いつつも近未来へと「預けられた」時制のもとにある「見え」であるからだ。やがて来るかもしれない「視」の実情把握の時まで「お預け」を食らっている。その目前で目にするものは、なにかを予告するものとして、そこにあるのだ。その時の「視」は宙吊りにされており、「いま」の視であって且つ「いま」の視ではない。近未来と近過去の近傍に配置されているとでも言おうか。つまりその視は「イマココ」のものとして確定していないのである。それが確定するのは、そこでの体験が「近過去」のものとして位置付けられる「近未来」の時点に至ってであり、この近未来が「アノトキ」の視として接近時を規定するのが接近時の「イマココの視」として与えられる「見え」なのである。いわば近未来になかば吸い取られつつ未然の状態において「見えさせられている」。この「イマ」の受動性にたゆたうことこそが「歩行視」が何かの対象に接近した時の「見え」の実態である。「歩行視」の対象接近はその視に即時的な「現在」という言葉を持つことは無い。
 とはいえ、しかしながら、近未来に至っての「現在」視は「見え」が言語領域と組んだ概念的「現在」の視であることに気付くべきだ。言語的「現在」と体験的「いま」は身体的欲動の位相で逆のベクトルを示す。言語的「現在」は体験行程に遅れてくる「遅刻の姿」なのに、一気に追い抜き自己確定すると共に翻って、先行する体験的「イマ」を支配し吸収しようとする戦略的「知」の逆行する時制支配の攻撃である。比して体験的「イマ」はこの「知」の支配から自由になろうとする逃走願望が初頭の「未熟知」に帰還したがっている姿だといえる。

  説明しましょう。
  例えば、樹木に覆われた巨大な山があるなあと見ながら、近づいて山に入ると景観が変わる。山らしいと思っても、いま目にしているのは岩や樹木の集まりで、あの時見た山としては見えてこない、でも山なんだ、とどこかあいまいな気持ちで、山を降りる。そこで振り返ると、山が見える。ここでどこまでが山でどこからが山でないのか、と設問するのは言語構造を見ようとする学者の身を引いた静的態度ですが、いまここでの関心は、山を歩行体験しつつ「いつ、どこ」で我々は山を「山」として「見る」のか、というところにあります。山を見つつ、いた。見えなくなった。再び見えた。
 さて、この「山を見つつ」の時点での「山」は、山であろうとみている未確定の姿です。次の「見えなくなった」は「山」が山としては目前にはなく、先ほど山とみたものの記憶で見ようとして、目前の見えに「耐えている」姿である。そして、再び見えた、はそれまでの行程体験をひっくるめて、更めて「山」と確定した見えだというべきでしょう。この確定視は一つ前の「見えなくなった」時点を「知」の力で吸収するのです。
  そしてこの時点での知の視こそが、「山」という「言語概念」に支えられた「視」だ、ということです。そしてその「視」はまた、同時に「過去」 「現在」の時制をここで規定する。言い替えればこの「知」の視は「言語体系に支えられて」初めて獲得される時制確定とともに出現し、「未来」をも構成する、動的行程全域を支配しようとして介入するのです。
  そこでこの確定視を「言語視」と呼び換えましょう。
  こうなると「言語視」というものは、もはや「歩行視」の域をはみ出している。そもそも「歩行視」は、いわば投げ出された身体の動的状況の受容です。歩く/みる、それを移動する「見え」の、そのままの視の裸のありようとして体験する徹底した姿です。「言語視」はその「見え」の総体を言語システムで支配し静的秩序を与えようとする知の戦略的な姿で、「見え」の移動を時制概念の下に確定しようとする「静止視」だからです。
  しかし「歩行視」は自己の運動をすぐさま取り戻す。我々はそれでもなお公園を歩き続けるからです。勿論「静止視」に支配されたまま歩行することもある。我々日常生活者はほとんど「言語視」のもとにあると考えてよさそうです。人間の社会的現実生活は人々のこの秩序の共有によって成立するからです。だが自然公園の環境はむしろ身体的自然歩行に味方する。私が冒頭で「覚醒」と呼んだのは、この「言語視」に惑わされず、すぐさま「歩行視」に回帰し持続する力の現われを自覚する心的な働きのことです。これが働くからこそ、この自然公園を展覧会場として企画者が設定でき得たのだ、と考えなければならないでしょう。

  さて、杉山雅之のこの作品は、公園を出て会場を後にしても生き続ける力を持ちます。日常空間を歩き続ける私たちに、今度はそのように付き合わされたことを、つまりそのような展覧会体験の総体を「記憶」として持続させ、その「歩行視」の時間体験を拡大させるインパクトを秘めています。その後も歩行する私たちの感覚を前後に揺さぶりつつ、時間を重層化する。つまり観る者の視を一端は「言語視」に応えつつも、さらにそれを「記憶」しつつ歩行するその後の時間を持たされることによって、再び「歩行視」の位置を取り戻す運動を終わらせない。半ば自動化してしまう。「視」を一種幾何学的数学的なスパイラル運動へと導き、そこに乗せることによって、非言語の位相へ、抽象的運動へと、観念運動の「視」として運動そのものとしてしまうのです。ここまでくると果たせるかなこの展示は、「イマココ」を凝視しようとする体の静止のまなざし(これを「座視」とよびましょう)は、はじめから相手にされていないということに気付きます。遊歩のまなざしが相手で、静的なまなざしはこの際振るい落とされねばならない迷惑者というわけです。観る者はあくまでも「歩行視」の状況にいる者たちである。公園ではそういう「歩行視」が杉山雅之の作品によって強化され、「運動視」として立ち登ってくる。「歩行視」が言語視に勝利しようとする運動態であることが解ります。
  そこで獲得されるのは、トポロジカルな視ととでも言うべき性格の、いわば運動する抽象視で、超視覚の運動としての「視」です。見るという具体的な身体現象に根差しながらも、この抽象運動の位相に乗った視というものに至らないと、こういう仕事につきあってリアリティーは獲得されない。
  まさに抽象視とは、視覚という末端機能におのれの活力の端緒を置きながらも、驚いたことにその末端機能を裏切る、忌まわしい脳の脳自身の逆説、反逆なのだ、と文学的哲学的表現に走りたい思いがしますが、ここでは、これは脳自体の自己運動なのでしょうか、と専門家に質問する体にしておきましょう。もしそうだとするとこの脳の自己運動が眼球視覚に逆襲していることになる。抽象観念の支配構造とはじつにこのような身体論的運動論の範疇にあるものだ。したがって生身の我々はこれを避けられないと思われます。

  こう見てくると、いま私は言葉で考えてはいるものの、現象を前にして「幾何学的な」な思考運動にのった反省の位置にいます。そういうところへ至らされる、その契機を与えるというところが、この野外美術展の出品者たちにある一つの性格だということを知らされます。ラディカルな杉山雅之の仕事のように、言語を絡めた複雑さは見られないとしても、他の出品者の作品の殆どが「歩行視」に対応すべく設置されていると思われます。その前提の上で各作品はそれぞれの表情を見せている。出品作のひとつ一つを深く論じていく余力がいまの私には無いのが残念ですが。


日常へ帰還する抽象視

  さてこのような性格の美術体験は私たちが日常生活に帰った折、身近な光景の中に隠されているミステリアスなゾーンを垣間みる契機になるものです。抽象観念が現実の場に降りて来て「見る」という事柄に意外な窓を開けてくれる。
  私自身に即していえば、再度公園を訪れた折、帰路の郊外電車の窓の前を勢いよく接近しては遠のく電柱に気を取られていたことを挙げましょう。車窓に顔を付けていると次から次へと接近してくる電柱がみえる、そして遂にはゴオー音を立てるようにして目前を通り抜ける影のような姿となり、それらが次には遠ざかる電柱として、すがたを後方にみせる、なぜかそこで安心する 「電柱だった」。 しかし、その間どこで私は『電柱』をみたのか、電柱とわれわれが名づけたものの姿が、ちゃんとその『名』とともに同定して『見える』のは、いつ、どこから、それを見たときのものなのか。いちばん接近したときに「見えず」、接近しつつあるときと、遠のくときに「見える」のだ。いつどこで見たのが、電柱を見た、というときの電柱なのか。急行する車窓体験はラディカルにこのことを示します。
  その「見え」の有様が象徴的です。私が走行している由縁の(車内でシートに座ってはいるが電車は走っています)構造を知らされます。移動する主体の視覚には「現在」は盲目化されているのではないか。「現在」とは、近未来と近過去の体験から帰納する構成概念ではないか、過去現在未来の時制度のうえに成り立つ抽象概念なのではないのか。
  歩行は車行のそれと事情が違うという考えが浮かぶけれども、はたしてそうか。車窓体験をスローモーションしてみる。河川敷の公園へ歩きながら近づき、そして渡った橋のことを考えてみる。八木駅から商店街を抜けてかすかな坂道を登ると青いペンキで塗られた鉄橋が目にはいる、美しい「橋」だ。やがて接近し橋を渡る段となる、さて、その時橋の上で目前に目にしているのは「橋」ではあるまい、橋の要素、部分だ。「橋」を見ているのではなく「ha si」と発音し「橋」あるいは「はし、ハシ」と表記する物体の一部に接触している。このときの「イマ、ココ」での橋は「見え」の外にある「橋」だ。具体的には「接近し橋と見えていたものに出会っているらしい」。橋という言語や橋の形体のイメージが介入してきますが、それらに支えられつつも、「見え」そのものは曖昧の最中に置かれる、というべきでしょう。このときの「歩行視」では、「橋」は「イマココの見え」ではないのです。一般にそれがあるかのごとく考えるのは、橋にいて「いま橋を見ている」という場合の、「〜ている〜ing」という進行形を許しているからです。しかし、進行形は「見え」の時間体験を近未来の時点での言語的反省によって時制設定したものです。「歩行視」にとってこの時点で進行形を認めることは無意味です。
  やがて歩行はそこを渡り切る。堤防を通って公園に降り振り返る。「ああ、橋だった」と、近過去です。視覚は「現在」から引き離されたとき、はじめて「言語位相で見る」ことの実態を露呈するのです。歩行者にとって「イマ」の「見え」体験はあっても、「現在」は視覚では捉え切れない。あの進行形はこの言語位相にはいった時点で過去の「現在」の状態を確定するのです、 「見ていた、 〜ingをもって」という過去進行形として。したがって「イマココ」のリアリティーなどというものは、「前」と「後」の共謀に引っかかり「騙しにはまることだ」といえなくもない。してみると「歩行視」によってはじめて掴まえられる、時間差の上に生じる「見ること」の実態こそは、「人生」という、その都度の「今」では見えない我々の生活時間と同位相にあるといえるのではないか、スローモーションのテンポをより遅らせて考えることによってそれが解ろうというものだ。人生の「今」とは時間が言語に侵犯される近未来からの逆襲の場に、時間が近過去の記憶の延長としてのさばろうとする時の戦場なのだ、そこに立ちこめる戦塵でよく見えないのだ。と最後は人生論の地平に落ちが来るのも、私たちの生が運動する世界の一部であるからでしょうか。「抽象視」は最後に「運動」を見るのです。


「座視」 徹底の悲劇

  ところで余談ながら、ジャコメッティという画家彫刻家がいました。その作品については周知のことでしょうから紹介は省きますが、晩年「距離」を観ることに取りつかれてしまった人として有名です。
  「歩行視」の立場からいうと、この人の不幸はじっと座ったままで目前の人物を見ようとしたことではないか。その像を造るにしても画像をものにするにしても、永遠に凝視の時を定着したいという欲望の形式、「イマコソ」が、すべてである。にもかかわらず時は移り「見え」の位置は移ろう、それへの抗いの形式、すなわち「イマ、ココ」こそ「永遠」なれ、という「座せる視」による芸術信仰の形式。神の物語を描かなくなってからの彫刻、絵画がそこへ至るのだと思いますが、この前提に縛られた人物だと思われます。一般にそういう「実存者」のまなざしは距離を歩行者の身体問題だとせず、座したまま「見ること」に賭け、距離を一気に跳び越え、直接対象へ肉薄しようとするものです(多くは感覚的な表層の仕事で終りますが)。にもかかわらず此の人に「距離」の問題が突出した。描こうとして見る人物対象と描く自分とのあいだの距離が「見る」ことの前に立ちはだかった、何故か。そこで思い至るのは身体的存在として「歩行視」でとらえられるべき「イマ」を「座視」で見抜いてしまったからではないか、ということです。晩年の努力は大変なものだったと伝えられていますが、あまりにも異常な努力が身体移動に代わる、眼球運動と脳の共謀を招いた。「座視」という「静視」に徹底した画家が凝視によって「言語視」をとりはらったまさにその時、同時に「イマ」を動的仮視とし捉えるような、近未来近過去の時間を行き来する歩行体験を無視してしまった。立ち止まって、直視する(遠近法などという遠まわりな手だてはとらない)「イマ、ココ」こその瞬時が芸術の真価を発揮する場であるという脅迫観念が彼の苦闘を招いたのです。そう、距離が移動という時間系の運動であることを認めたくなかった。彼は座して挑んだ、歩かずにです。求めたのはいわば「絶対視」です。眼球と手の運動だけで接近と乖離のまなざしを脳につたえ、来る日も来る日も対象へ接近し、突き放される「見え」の「言語を絶した」、つまりは言語位相を拒絶した画業に挑みつつ(それに比べて「歩行視」が言語と闘いつつ、乗り越えて行く運動であることを思い出してください)ある脳的な進化を願ったのです。かくて距離は運動への誘いとはならず、彼の前に立ちはだかった。
  矢内原伊作という人がいて手記をのこしている。この人はジャコメッティのモデルをして「座して見る」画家の共謀者になった。「座視」は、ここでは間違った「イマココ」への着床が企む「永遠へ」の野望だといって置きたいのですが、これを遂行しようとする人間の飽くなき「強権行使」の姿といえます。矢内原氏は驚嘆していますが、しかしその徹底が皮肉にも背裏を見ることになった。「座視」で見つつも一方で「歩行視」で見る態度が背後に介入し、この人を誘惑していたのではないか。ジャコメッティは単なる「座視」者ではなく、「突き抜けた座視」の人でしたが、それ故に彼の芸術はこの誘いとも闘わなければならなかったのです。