第1回大堰川野外彫刻展  大堰川河川敷緑地公園 1997.10.10.〜12.10.


おーにしおさむ Osamu Ohnishi

     おーにしおさむ"


杉山雅之 Masayuki Sugiyama

     杉山雅之"


塚脇淳 Jun Tsukawaki

     塚脇淳"


     フリマ" フリ−マ−ケットで賑わう会場
                    なお、この写真にある杉山雅之の作品は危険と判断され、この直後撤去した。


見過ごされる場所

 「住んでいる場所で、住んでいる人の為に展覧会をする」と、この野外展の企画をたてた彫刻家が本当にそう思っているなどと、本気で考えている人がいるのだろうか。すべては、先生や政治家のことばのごとく、道徳的にさえ正しければ、たとえ意味がなくとも多少つじつまがあわなくとも、見事に見過ごされる。だが、「道徳的であること」ほど、美術になじまないものはない。それは、美術とは不道徳なものであるということではなく、道徳的であるか否かには価値はないということである。一昔前、不道徳に価値を見いだすかのような印象を与える活動、道徳的であることからどれだけ逃れられるか、どれだけ不道徳になれるかに価値を見いだそうとしたことがあった。美術史不在の一般史の呪縛から逃れるすべもなく、そうせざるをえなかったときのその行為は、かなりの不幸をもたらしている。顔をひきつらせながら、笑みをうかべなければならないのだ。あさはかな冗談に。意味のない会話に。私は。
 企画書に書かれた「地元のため」ということば同様、そこに置かれた彫刻作品は、それになにがしかのもの−美−を期待するためにあるのではなく、まさしく、見過ごすためにある。2ヶ月という比較的長い間、見過ごされ続けるのだ。見過ごされない場合には、作品の消去に関心が向くことになる。すべては穏便に、誰も傷つけず、対話もなく、姿なき力が支配する。そのような、作者や作品にとって幸福であるはずのない場所を、わざわざ彫刻家が選んだのは、すでに言い古され、聞こえ映えのしなくなった問い、「空間」と「時間」の問題を実際に問えるからだ。展示のために管理されておらず、しかも表現に適した屋外空間をみつけるのは、簡単なようで滅多にあるあることではない。なおかつ、その場所に作品を置くことに費やされるエネルギーは膨大で、展覧会の実施が決定される頃には息切れしてしまうのだが、この大堰川野外彫刻展の会場は、展覧会を行うという意志が向けられた瞬間から、それらの条件を満たす場所となったのだ。広くはあるが、なんら変哲のない、どこにでもあるような場所。重要なのは、まさしく大してすばらしくもないその場所に目を向けることである。つまり視線の用意されていない、見過ごされる場所をあらわにすることなのだ。見過ごされるのは場所だけではない。時間も見過ごされる。作品を置いた瞬間の繁忙な視線の運動量は、もちろん時間とともに暇になる。状況が一変したという清新な感覚は10日も経てば失せ、状況はあたりまえとなり、作品は見過ごされる。しかし、そのような状況になって初めて、作品と対峠する環境が整えられるのではないか。通り一遍の風景の変化によって視線を得られた頃とは違い、視線を取り込むには何がしかの仕掛けが必要となってくる。見過ごされることからかろうじて逃れるための、息をひそめた企て。つまらないことではあるが、タイトルプレートを作品の前にたてたり、会場に野外彫刻展の看板をたてるなどのことをして、その何でもない場所を美術館化するやり方もその一つ。もう少しましなところでは、作品それぞれが構造的にもっている仕掛けである。たとえば、なにか別のものの振りをすること。あからさまに彫刻と認識されないためにとる逆説的態度だ。彫刻に見えた瞬間から、彼らの想像力と興味は教科書に押し込まれ、あるものは拒絶反応を、あるいは別のものは無関心を示すはめとなる。なにか別のもの。たとえば、物置きなのか、トイレなのか、なにか小屋のようなもの。たとえば、机。たとえば、工事現場の足場。彼らの視線は、少なくともそれが彫刻作品とわかるまでは作品にそそがれる。しかし、仕掛けは仕掛けにすぎない。一つの立派な彫刻と言ってしまえるお化け屋敷も、一度目はこわいが、二度目はそれほどでもなく一度目に気付かなかった仕掛けにかゆいような恐さを覚える程度である。なぜなら、それ全体が仕掛け以外のなにものでもないからである。三度目に入ったときにも恐怖を覚えるには、より多くの「言葉」が必要なのだ。あるいは、より多くの文脈をもった数少ない「ことば」。また、多くの文脈をもつ、多くの「ことば」を。
 彫刻作品がそれらの「ことば」を有しているか否かを判断するには、稀な才能をもつ人をのぞいては、作品にある程度の時間が与えなければならないだろう。作る人も、見る人も、そういった時間のなかに打ち捨てられることに恐怖を覚えているようでは、お化け屋敷もいらない。一度風景にとけこみ、なんでもないものになってからが、彫刻の時間というものだろう。しかしそのような時間とは、場違いで、ひとりよがりのものだ。金はないが、実力のある武道家が、地下鉄のなかで武術の型を披露しているようなものだ。乗客はつぶやく。「それがわれわれになんの利益があるというのだ。オリンピック種目でもないのに。」そうして、彫刻家はもう少し幸せな場所を探す。そこが、いくら狭くて、頭がつかえそうで少しの間しか居ることのできないところであっても、絶対に見過ごされない場所へと。
 企画書にある「作り手の活動場所、作ることと見せることの乖離」とは、まさしく、そのような幸福な見せる場所のある都市と、幸福な作る場所のある非都市のことであるが、それはそのまま、住み、話し、表現する場所である国と、そのような生活を経験しない情報であるだけのところの幸福な国の事である。つまり、われわれは二重の乖離をしてしまう危険性をはらんでいる。そのことを常に意識しながらも、とらわれずにいることの一つの方法としても、見過ごされる場所に敢えて立つことが必要なのである。 1998年 秋 杉山雅之