額田王と十市皇女
(ぬかたのおおきみ)     (とおちのひめみこ)

予備知識
額田王は大海人皇子(天武天皇)に愛され妻となり、十市皇女を産んでいる。
後に大海人皇子の兄の天智天皇に召されて寵愛をうけたらしい。
天皇の妻は皇后、后、妃、夫人というように順位が決っていて皇后になれるのは天皇の血筋の女性だけと決められていたため額田王は皇后にはなれない。
額田王は日本書記に「(天武)天皇、初め鏡王(かがみのおおきみ)の娘、額田王をめして、十市皇女を生しませり」とあるぐらいで実は詳しくは解っていない。

額田王は歌人でもある。万葉集には12首の歌が残っている。
この辺りから額田王に迫ってみよう。

  秋の野の み草刈(か)り葺(ふ)き 宿(やど)れりし 
       菟道
(うじ)の宮処(みやこ)の 仮廬(かりいほ)し思(おも)ほゆ
秋の野の、み草を刈って屋根を葺いて、泊まった宇治の都の仮の宿のことを思い出します。


熟田津(にぎたづ)に 船乗りせむと 月待てば 
         潮もかなひぬ、今は漕ぎ出でな

熟田津で、船を出そうと月を待っていると、いよいよ潮の流れも良くなってきた。さあ、いまみんな漕ぎ出そう。

この歌は愛媛県松山市和気町・堀江町で詠まれている。これは斉明天皇が百済救済のため唐及び新羅と戦うために瀬戸内海を筑紫に向かう途中休んで、いよいよ決死の覚悟をして自らも兵士達も志気を鼓舞したものだ。
ただし、この歌の左注に「天皇、昔日の猶し在(のこ)れる物を御覧(みそこなわ)して当時(そのとき)に忽(たちま)ち感愛の情を起こしたまふ。所以(このゆえ)に因りて歌詠を製りて哀傷(かなし)びたまふ」とあり斉明天皇の歌という説もある。


  三諸(みもろ)の山 見つつゆけ我が背子が
     い立たせりけむ 厳橿
(いつかし)が本(もと)
                     鹿持雅澄(かもちまさずみ 1791-1858)『萬葉集古義』より
(上2句はいまだ定訓が定まらず、原文を記すと 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣)
今しばらく、懐かしい三輪の山を眺めつつお行きなさい。いとしいあの人がお立ちになっていた、あの山の麓の、神聖な樫の木のもとを
658年、斉明天皇が和山県白浜に行幸(このとき有馬皇子が殺された)したときに詠んだ歌です。


  冬こもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし
 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず
 秋山の 木の葉を見ては 黄葉
(もみ)つをば 取りてそ偲ふ 青きをば
 置きてそ嘆く そこし怜
(うらめ)し 秋山吾れは

春になると、鳥がさえずり、花が咲きます。春は、ほんとうに素晴らしい季節です。
けれども、山は木が生い茂り、入っていって取ることができません。草が深くて取って見ることもできないのです。
秋はどうでしょう。秋山の木の葉を見ては、、紅葉する木の葉をとっていいなと思います。まだ青いまま落ちてしまったのを置いて溜息をつくのが残念ですけれど。やはり秋の山がいいです、私は。
この歌は天智天皇が内大臣藤原朝臣鎌足に「春山の花の艶と、秋山の紅葉の色、いずれが良いか競わせよ」と命じた時、額田王が応じた歌


  味酒(うまさけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に 
  い隠るまで 道の隈
(くま) い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを
  しばしばも 見放
(さ)けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや
三輪の山は、奈良の山の間に隠れるまでも、道の曲り角が幾重にも重なるまでも、この三輪の山はつくづくと見ながら行きたいのに。何度々々も眺めたい山なのに、無情にも、雲が隠すなんて、いやそんなことがあってよいはずがない。

反歌
  三輪山をしかも隠すか雲だにも
        心あらなも隠さふべしや

三輪山を、しかもそんなふうに隠すものか。せめて雲だけでも情けがあって隠すなんてことがあっていいのだろうか。


  茜さす 紫野行き標野(しめの)行き
        野守は見ずや 君が袖振る

茜色の光に満ちているムラサキが生える野を、狩場の標を張ったその野を行きながら、あなたは私の方へ袖を振っておられる。野守が見るかもしれませんよ。
668年5月5日天智天皇は大海人皇子、中臣鎌足らすべての群臣を率いて薬狩りが催催した。
額田王は宴会で前夫大海人皇子が手を振り合図しているのを見つけこの歌を詠んだ。これに対して大海人皇子は
  紫の 匂ほへる妹を 憎くあらば
       人妻ゆゑに われ恋ひめやも

と返している。
この2首を見て壬申の乱は天智天皇・大海人皇子・額田王の不倫三角関係が原因と見る論があるが、実におおらかではないか。しかも公然と。
これはウイットに富んだ二人の宴を盛り上げるための歌と見た方がよいのであろう。
このとき額田王は30代半ば当時としては一番円熟した人妻だったんだろう。


  君待つと 我が恋ひ居れば 我が宿の
        簾
(すだれ)動かし 秋の風吹く
あの方が早くおいでにならないかと待っていますと、家の簾(すだれ)を動かして秋の風が吹いてきます。(あの方かと思ったけど、お姿はない。)
あの方とは天智天皇のことである。(額田王、近江天皇を思しのひてよめる歌とある)


  かからむと かねて知りせば 大御船(おほみふね)
      泊
(は)てし泊に 標結(しめゆ)はましを
このように去ってしまうお気持ちを知っていたならば、天皇の御船の泊まった津に標縄を張り巡らしてでられないようにしておいたのに。
天智天皇が亡くなり殯(もがり)の間に詠んだ歌


  やすみしし 我ご大君の 畏(かしこ)きや
  御陵
(みはか)仕つかふる 山科の 鏡の山に
  夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと
  哭
(ね)のみを 泣きつつありてや
  百敷
(ももしき)の 大宮人は 行き別れなむ
天智天皇の御陵に、畏れ多くもお仕え申し上げる、その御陵のある山科の鏡山で、夜は夜通し、昼は一日中、泣いてばかりおります。こんなふうに泣き続けながら、宮廷にお仕えする大宮人は、別れてゆくのでしょうか。


  古(いにしへ)に 恋ふらむ鳥は霍公鳥(ほととぎす)
      けだしや鳴きし 我が思へるごと

遠い過去を恋い慕って飛ぶという鳥は、ほととぎすですね。もしかすると、鳴いたかもしれませんね。私がこうして昔を偲んでおりますように。
この歌は弓削皇子(ゆげのみこ)が額田王に贈った歌、古に恋ふる鳥かも弓絃葉(ゆづるは)の御井の上より鳴き渡りゆく に対して返したもの。
持統天皇(天武天皇の后)は天武天皇を偲んでか、689年から9年間に31回も吉野に行幸している。
弓削皇子はこの吉野行幸に随行しているが20才ぐらい、額田王は60才ぐらいのおばあさんである。


  み吉野の 玉松が枝は はしきかも
     君が御言
(みこと)を 持ちて通(かよ)はく
吉野の美しい松の枝は、慕わしく思えることでしょう。あなたのお言葉を持って通って来るとは
弓削皇子が吉野から苔のむした松の枝を贈って来た時に詠んだ歌で弓削皇子は額田王の長寿を願ってのことだろう。


さて勝手で無責任な本題に入ろう。
まず、生まれは?
記述がないから分からない、分からないけど諸説を調べると大体633〜6年ぐらいだろう。理由はここでは追求しないでおこう。
所は?
予備知識のところで書いたように、日本書記に「天皇、初め鏡王(かがみのおおきみ)の娘、額田王をめして、十市皇女を生しませり」とある。
鏡王とはどういう人物なのだろう。
名前の漢字からも推測できるように鏡作り部だったという。このことから、一般に鏡作り部がいた滋賀県蒲生郡とされている。
ところがである、調べ方が足りないのか鏡王と蒲生を結びつける確かな証拠が見つからない。
調べている内に読売新聞の14年9月19日の記事に我が宇治市に鏡王の領地があったと主張する方の記事を発見。
この記事の中では宇治の三室戸の辺りが出生地だという。
そうすれば、最初の歌「秋の野の、み草刈り葺き、宿れりし、菟道の宮処の、仮廬し思ほゆ」の菟道(うじ)の名前がここに出てくることの不思議さも不思議ではなくなって来るではないか。
菟道が何故宇治かとお疑いの方、応神天皇の皇子の名前を調べて下さい。菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が自分よりも年長の大鷦鷯(おおささぎ、仁徳天皇)に皇位を譲った話が必ず出てきますから。
これだけの根拠で額田王の出生地を宇治と見るのは余りにも薄弱なことは承知ですが偏見の多い仙道にとってはこれで十分。(仮廬の言葉はどうこじつけよう。子供の頃だからせいぜい1〜2kmぐらいしか移動できないはずだ)
額田王は宇治の出身者だったのである。

宇治で生まれ、宇治で育ったあと斉明天皇のもとに仕えたのである。
この時、彼女は10代後半、聡明で美人で明るい性格(この辺は勝手な想像)だったもので宮廷の誰もが可愛がった。
中でも同じ年頃の斉明天皇の子、大海人皇子は特別だった。
二人は恋に落ちて愛し合うのである。
大海人皇子の兄、中大兄皇子は当時、天皇家を蔑ろにして権勢を振るっていた曽我入鹿を討ち、大化改新を進めるという大事業に邁進していたのである。
額田王にとっては大海人皇子は優しい信頼の出きる人、中大兄皇子は遣り手だが恐い人と思ったに違いない。
そして、大化改新も落ち着いた頃(推定652年)に額田王と大海人皇子の間に十市皇女も生まれている。

しかし、二人の甘い生活は長続きしなかったのである。
不仲による疎遠? 決してそうではないだろう。
「茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」別れた夫に対してこの歌が作れることからも不仲説は成り立たないだろう。
ここは兄の天智天皇(中大兄皇子)に悪者になってもらおう。
大化改新を進め、661年斉明天皇崩御、663年、白村江の戦いに敗れ、667年近江京遷都、668年即位
と慌ただしい動きの中、額田王は大海人皇子から別れ兄の元に移っている。
いつの時点かというとズバリ668年である。(これも独断です)
668年(665年説あり)というのは娘である十市皇女が中大兄皇子の子、大友皇子の妃となった年なのです。
中大兄皇子にとっては激動の日々の中、美人であり才女の額田王が気になっていた。
額田王は十市皇女が可愛くて仕方がない。それはこのクラスのハイソサエティーでは自分が産んだ子供でも通常は自分の手で育てないのである。
それにも関わらず、額田王は十市皇女を自分で育てているのである。
額田王が中大兄皇子の側室となったのを668年としたのは、子離れできない額田王が娘の十市皇女の輿入れに合わせて自ら進んで中大兄皇子のもとに移ったのであろう。(この頃は現在と違い離婚再婚は結構自由に行われていた)
だからこそ「茜さす紫野行き…」の歌が作れるのであることも理解できるのである。
そして翌年十市皇女と大友皇子に葛野王が産まれたのである。


ここでは天智天皇には詳しく触れないでおくが、カミソリのような切れ味を持った辣腕の天皇だった。
彼は弟で皇太子である大海人皇子よりも子供の大友皇子を次期の天皇としたかったのである。
目的のためなら何でもやる怖さを大海人皇子は知っている。
そのため、大海人皇子吉野へ隠遁したのである。
そして天智天皇が崩御したあと、壬申の乱が始まるのである。


壬申の乱(672年)は十市皇女にとって夫と父の戦いである。
時代の流れに逆らえなかった悲しくも哀れな女の一生がここにあったのです。
しかし13世紀前半に書かれた『宇治拾遺物語』では不貞の妻として描かれさぞや悔しい思いをしていることでしょう。

十市皇女は額田王のもとで育てられた。そして、側には高市皇子がいた。二人は幼なじみであり、仲もよかったのである。
そんな二人が成長していき、やがて物心がついた頃、お互いに恋する中になるのは想像に難くない。
十市皇女が亡くなった時の高市皇子の挽歌に
   三諸(みもろ)の 神の神杉(かむすぎ) 夢のみに
    見えつつ共に 寝ねぬ夜ぞ多き

三輪山の神々しい神杉のようなあなた、夢にみつつも共に寝ぬ夜が多かったことだ

しかし、二人は結婚しなかった。十市皇女は好きな高市皇子を残して大友皇子のもとに嫁いだのである。
おそらくは裏に何かある政略結婚なんだろう。
やがて天智天皇が薨じ、そして壬申の乱が始まった。
壬申の乱は十市皇女が二十歳過ぎの時に起こったのである。第一子葛野王は3才ぐらいである。
乱は1ヶ月で父の大海人皇子の圧倒的勝利で終わり、大海人皇子は天武天皇となったのである。
額田王と十市皇女と葛野王は助け出されて天武天皇のもとに戻ってきた。


しかし天武天皇には皇后として鵜野讃良皇女(天智天皇の娘、後の持統女帝)がいる。
これでは元の夫、父のところに戻ったとしても居所のない二人の女性。
その後の十市皇女の675年2月に天武天皇の命で阿閇皇女(あへのひめみこ、後の元明天皇)とともに伊勢神宮に参詣している。
この時十市皇女の侍女である吹★刀自(ふぶきのとじ、★は草冠に欠)という人が彼女を想って詠んだ歌が
   河のへの 斎(ゆ)つ岩群(いわむら)に草むさず
    常にもがもな常処女
(とこをとめ)にて 
 河の流れに洗われて苔の生えない岩々のように、永遠に清らかな乙女のようであってほしい

いい感じですね。
そして、悲劇のクライマックスは687年4月7日、斎宮(いつきのみや)に天武天皇と行幸するその時のことである。
日本書紀では病気による急逝となっていますが、30歳の若さでありながら夫を父に殺され、精神的に深い傷を受け、この世を嘆いて自らの命を絶ったと思うのは私だけでしょうか。

              永遠なれ とこをとめ!
   


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