●聖徳太子

 「聖徳太子とはどんな人?」と問えば、多種多様の返事が返ってくるでしょう。

逆に言えば、聖徳太子を知らない人はいないと云っていいのでしょう。

こういう人って他にどんな人がいるでしょう。

「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」ッてところですかネ。

次のレベルに行くと「卑弥呼」、「神武天皇」、「中大兄皇子」、「藤原道長」「平清盛」、「源義経」、「足利尊氏」、「徳川慶喜」でしょうか。

それにしても聖徳太子の知名度はなんなんでしょう。私のようなちょっと歴史好きの人間を始め、一般的にいってイメージや知識といえば以下のようになるのではないでしょうか。

   1.馬小屋で生まれた。
   2.推古天皇を助けて、冠位十二階、憲法十七条を作成。
   3.仏教を保護し、広めた。
   4.一度に十人の話を聞いた。
   5.法隆寺を建てた。

こんなところではないでしょうか。

このHPは聖徳太子に対する知識やイメージをさらに深いものにしていただくために稚拙ながら作ってみました。

聖徳太子の生きた時代

太子は574(敏達3)年に生まれ、622(推古30)年に四十九才で亡くなっている。

この時代はどんな時代であったのだろうか。以下の年表を参考にしていただいて、主な出来事を見ればどんな時代であったかが分かるはずです。

   1.仏教は伝来していたが一般人は勿論、豪族の間にも広まっていなかった。
   2.崇仏排仏論争が盛んであったが、これに呼応した形での政治主導権争い(蘇我、物部)が     あった。
   3.物部氏滅亡後、蘇我氏の力が増大していった。
   4.渡来人の集団が大陸の文化を持ち込んでいた。

 こういった時代であった

●聖徳太子年表

年齢

    事     項

522

   

司馬達等、飛鳥坂田原の草堂に仏道を安置して礼拝

527

   

近江毛野、任那派兵

磐井の反乱

538

   

百済、救援軍派遣・武器兵糧送る

仏教伝来、(百済聖明王仏像・教典を贈る)

554

   

豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ 推古天皇)生まれる

570

   

蘇我稲目死亡、物部氏仏殿放火

574

 

1

厩戸皇子生まれる

575

 

2

 

576

 

3

 

577

11

4

百済、日本に経論・僧尼を送る

578

 

5

 

579

10

6

新羅、日本に仏像を献ずる

580

 

7

 

581

 

8

 

582

 

9

 

583

 

10

火葦北国造の子日羅、百済から来朝

584

 

11

蘇我馬子、飛鳥豊浦の石川の家に仏殿を営み善信尼を置く

585

2

3

8

9

12

蘇我馬子仏塔を建てる

物部守屋、中臣勝海ら、仏殿仏塔を焼き善信尼らを監禁

敏達天皇崩御

用明天皇即位

586

 

13

 

587

4

4

7

8

14

崇仏の可否を群臣に計る

用明天皇崩御

物部守屋滅ぼされる

崇峻天皇即位

588

 

15

百済、仏舎利・僧・寺工・画工等を献じる

善信尼ら、百済に派遣

法興寺の建立始まる

589

 

16

隋、中国を統一

590

 

17

善信尼ら、百済から帰国

591

11

18

紀男麻呂・巨勢猿ら筑紫に出兵

592

11

12

19

蘇我馬子、東漢直駒を使い崇峻天皇を殺す

推古天皇即位

593

4

20

聖徳太子、摂政となる

594

2

21

三宝興隆の詔

595

5

7

7

22

高句麗の僧、恵慈来朝

筑紫駐屯の将軍ら大和に帰る

百済の僧、慧聰来朝

596

11

23

法興寺完成

597

4

24

百済王子、阿佐来朝

598

8

25

新羅、孔雀を朝貢する

599

9

26

百済、ラクダを朝貢する

600

 

27

新羅・任那の使者、朝貢する

第一回遣隋使長安に行く

601

28

斑鳩に宮を作る

602

4

10

29

来目皇子、軍兵を率いて筑紫にいたる

百済の僧、観勒、来朝し暦本、天文地理書、遁甲方術書を献ずる

603

2

10

12

12

30

来目皇子、筑紫で死亡、当麻皇子を将軍とするも新羅征討中止

推古天皇、飛鳥小墾田宮に移る

秦河勝に仏像を授ける

冠位十二階を定める

604

1

4

9

31

冠位を諸臣に授与

憲法17条を作成

朝礼を改める

605

10

32

斑鳩宮に移る

606

4

33

銅丈六仏像をつくり法興寺に安置する

607

 

34

七月小野妹子を隋に派遣(第二回遣隋使)

国ごとに屯倉を置く

608

4

9

-

35

小野妹子、裴世清と共に筑紫に着く

小野妹子、第3次遣隋使

新羅人、多く渡来

609

9

36

小野妹子隋から帰る

610

3

10

37

高句麗王、朝貢する

新羅・任那の使者、入洛する。

611

8

38

新羅、朝貢する

612

1

39

群卿と宴会を開く

613

11

11

12

40

掖上池、畝傍池、和珥池を作る

難波から 飛鳥に至る大道を開く

片岡山に遊行し飢人にあい飲食・衣服を与える

614

6

8

41

犬上三田耜らを隋に派遣(第4次遣隋使)

蘇我馬子病臥

615

7

7

11

42

犬上三田耜ら、隋から帰る

百済の使者、犬上三田耜に従って来朝する

高句麗の僧、恵慈帰国

616

3

7

43

3月掖玖人来朝

7月新羅、仏像を献上

617

44

 

618

8

45

高句麗、朝貢する

隋、滅亡 唐興る

619

 

46

 

620

 

47

蘇我馬子と協議して「天皇記」、「国記」などを選録する

621

 

48

 

622

 

49

聖徳太子没する

623

     

624

10

 

蘇我馬子葛城県の割譲を推古天皇に求め拒絶される

625

     

626

5

 

蘇我馬子死亡、蝦夷大臣となる

627

     

628

3

 

推古天皇崩御

629

1

 

舒明天皇即位

630

   

犬上三田耜ら、遣唐使派遣

631

     

641

10

 

舒明天皇崩御

642

1

 

皇極天皇即位

蘇我入鹿執政

643

11

 

蘇我入鹿、山背大兄皇子一族を殺害

644

     

645

   

大化改新

655

   

斉明天皇重祚即位





生まれ

574(敏達3)年、敏達天皇の弟である橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ 用明天皇)を父に、蘇我馬子の姪である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を母として生まれた。

ここで押さえておきたいのは、父母共に蘇我稲目の孫であり、太子も当然に蘇我系の人物として生まれてきたことです。

日本書紀によれば母の穴穂部間人皇女が池辺雙槻宮の庭を歩行中、厩

(うまや)の前で産気づいて皇子を出生したため、厩戸(うまやど)皇子と呼ばれたとしている。

これは唐代の中国には、景教(キリスト教の一派ネストリウス教)が伝わっていました。天智天皇・天武天皇ころ大唐学問僧が持ち帰り、日本でもキリストの出生伝説を知っていたのです。太子の名前のイメージから日本書紀の厩での出生の話が付け加えられたのであろう。

実際は厩戸の名前の由来は甲午(きのえうま)の年に生まれた干支に基づくものか、蘇我氏の地元の「馬屋戸」に基づくものであろう。

名前に関しては「日本書紀」ではこの他に豊耳聡(とよみみと)、豊聡耳(とよとみみ)、法大王(のりのおおきみ)、法主王(のりのぬしのみこ)などが挙げられているが、豊耳聡、豊聡耳は一度に10人の話を聞いたという逸話に繋がっているものと思われる。




●仏教伝来と蘇我・物部氏

日本書紀によると552(欽明13)年10月、百済聖明王が釈迦如来像

l体と仏殿の飾り幡蓋、及び教典をもたらした。聖明王は「仏教はいろいろな教えの中で最も優れているから、日本に伝える」というのである。

(上宮聖徳法王帝説、元興寺縁起は仏教公伝を538年)

 当時、既に渡来人が仏像を安置して礼拝を行っており、仏像を「大唐神(おおからのかみ)」と称していた。

 日本人の祀るべき神は天照大神を初めとして穀物の霊、水、山、火、雷の神である。

 そのため、欽明天皇はその取り扱いについて群臣に問うた。

 蘇我稲目は、「西方の諸国で信奉しているものを、我が国だけがどうして背けましょうか。」と積極的に受け入れる姿勢をみせた。

これは稲目がかねてから、東漢(やまとのあや)氏や西文(かわちのあや)氏など渡来系豪族と接触し、朝鮮半島や大陸の事情に明るかったためなのだろうか。

これに対して、物部尾輿や中臣鎌子は反対だった。「天皇は古来から天神地祇(てんしんちぎ)を祀るべきであって、蕃神(あたしくにのかみ)などを信奉されるとあらば、神々の怒りを招くことは必定である」というのである。

これも鎮魂儀礼の祭祀に当たっている物部氏や神官の家柄である中臣氏としては当然の答えであろう。

 そこで天皇はこころみに稲目に仏像を与えて礼拝させた。稲目は飛島の向原の家を寺としてこれを安置し、これがのちの豊浦寺(当ホームページの宇治の紹介で隼上がりを参照)の前身で、日本で最初の寺院である。

ところが排仏派が心配したとおり、疫病が大流行し多数の死者が出た。「異国の神をまつるからだ」と、物部尾輿と中臣鎌子らは仏像を難波の堀江に捨てるとともに、向原の寺を焼いてしまった。



蘇我氏と物部氏の対立

時は流れて、欽明天皇は敏達天皇に、そして蘇我稲目・物部尾輿・中臣鎌子の時代から馬子・守屋・勝海の時代となる。

崇仏・排仏論争はやがて政治権力闘争へと発展していく。いや、政治権力闘争が内在していて崇仏・排仏論争という形で現れたのかもしれない。

 馬子は父の志を継ぎ、熱心に仏像を礼拝し、司馬達等の娘ら三人(善信尼、禅蔵尼、恵善尼)を尼とする。

585(敏達14)年、馬子は大野丘の北に建て舎利を安置した。そうしたところ、またもや疫病が流行した。

守屋・勝海はこれを追及。敏達天皇は仏像の破却を命じ、守屋も仏像を焼き堀江に捨てている。また三人の尼を海石榴市(つばいち 山辺の道の南端辺り)に監禁したりしている。

しかし、馬子は仏像・寺・尼を守りきることはできず、この時点では守屋の方が実力は上だったのだろう。

この事件の後も疫病の猛威は収まることはなく、逆に仏像を焼き、尼を罰したことが一層流行らせるという風評が支配的となり、敏達天皇も破仏の非難の対象となったのではないだろうか。

この後、馬子も敏達天皇も疫病にかかったが、馬子は快癒し天皇は崩じた。

このことがあって、排仏派と崇仏派の政治的勢力が逆転してしまったのである。

敏達天皇の崩御後、守屋は穴穂部皇子を奉ろうとしたが、馬子はこれに反対し橘豊日皇子を立てたのである。

これが蘇我・物部の武力衝突への道を歩み出すことになったのである。

次期天皇は用明天皇(橘豊日皇子)となったが、この段階ではまだ公的な仏教受容は認められていないのである。

用明天皇は在位2年目にして病床に着いた。

きっと弱気になっていたのだろう。馬子の快癒したことが頭によぎる。私的ながらも仏法に帰依する意志を示してしまった。

 こうなると群臣は二派に分かれることとなったのであるが、そのさなか用明天皇は崩じてしまったのである。もはや譲歩や妥協の余地は亡くなってしまった。

587(用明2年)年七月、崇仏派と排仏派との戦いの火蓋は切って落された。

この戦いの渦中には、崇仏派の中心である蘇我氏一族として参加していた14才の聖徳太子の姿もあった。

戦場は守屋の本拠地であった渋河(東大阪市渋川町)に程近い衣摺(きぬずり 東大阪市衣摺)で行われた。

そこは大和川に近い河内平野で開けた水田の中にあった。

守屋はこの戦いにおいて木に登り雨のように矢を射ったため蘇我氏側は三戦して三敗であった。

 このとき、太子が霊木とされる白膠木(ぬりで 勝軍木)の木を切って自ら四天王像を彫り、頂髪(たきふさ 髪をあげて束ねたところ)につけて勝利を祈願し、馬子と共に他の豪族に守屋討伐を鼓舞した。

この話何処まで信用できるだろう。古代の話はどうしても記紀に依らざるを得ないところが多くあるが、天皇家の正統性を強調することや書き手の意志が働いているため、ここのところを差し引いて読まなければならないのである。

この差し引くところは研究者により色々であろう。

書紀の聖徳太子に関する思い入れ(?)は尋常なものではなく、この話も私は信じていない。

聖徳太子14才これは満年齢で13才、今で云うと中学1年生である。こんな子供を戦場に狩り出したりする事も異常であるが指揮官並の働きをしたり、都合よく白膠木があったりで、やはり脚色部分でしょう。

話を戻して、その後4度目の攻撃で守屋は戦死し物部軍は崩壊した。



●用明天皇の次期天皇、泊瀬部皇子

物部守屋が討伐され翌8月、泊瀬部皇子が即位した。崇峻天皇である。

泊瀬部皇子は欽明天皇の子で穴穂部皇子の同母弟である。穴穂部皇子と守屋が三輪逆(みわのさこう 敏達天皇の臣で穴穂部が殯宮へ侵入しようとしたのを阻止した)を討ったとき泊瀬部もこれに加わっていた。

にもかかわらず、守屋討伐の時には実兄を殺した馬子の陣営にいたのである。

これは、用明天皇の没後、王位継承の候補には守屋が擁立しようとした穴穂部皇子、守屋が穴穂部から乗り換えた押坂彦人皇子、炊屋姫(かしきやひめ 敏達天皇妃 推古天皇)の子の竹田皇子の3人がいた。

馬子は穴穂部を殺してしまっている。押坂彦人は蘇我氏と血縁関係はない。竹田は幼少である。従ってここで担ぎ出されたのが泊瀬部皇子であったのだろう。

 しかし天皇は即位後人里離れた飛鳥の南、倉梯岡宮(くらはしおか)に移されます。天皇は「馬子によって蟄居させられた」と思ったに違いないでしょう。天皇の馬子に対する復讐は自分の在位を長くすることと、蘇我氏と血縁関係のない子供をもうけることだったのだろう。しかし大伴連糠手の娘「小手子(おてこ)」を妃として蜂子皇子と錦代皇女をもうけただけだった。

蜂子皇子が皇位継承をすれば蘇我氏との血縁を断ち切れたのである。

しかし、592(崇峻5)年10月4日、天皇は献上された猪を見て「いつの日か、この猪の頸を断るがごとく、朕が嫌しと思うところの人を断らむ」と独り言を漏らし武器の用意を始めてしまった。

小手子はこの「独り言」を馬子に密告したということなのです。どうして小手子はこのような密告をしたのでしょうか?「日本書紀」は大伴小手子以外に崇峻天皇の寵愛を受けるようになった人物がいたための嫉妬と解説しています。それは蘇我馬子の娘、河上娘(かわかみのいらつめ)か物部守屋の妹、物部布都姫(ふつひめ)ではないかと云われています。

当時の女性心理は分かりませんが(いや、今も)、崇峻天皇の寵愛を受けたのが物部布都姫ならば、これは天皇が明らかに蘇我氏に対抗する事を意味することになるとともに、密告は小手子の嫉妬心からの行いとみることもできる。(一説には河上娘が密告したと云われている。)

この密告により、翌月11月3日、馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に天皇を暗殺させている。天皇は悲しいかな殯(もがり)も行われず、「この日に天皇を倉梯岡陵に葬り奉る」と日本書紀に記されています。

東漢駒はその後蘇我馬子の娘河上娘と掠奪したとして馬子によって殺されている。もちろんこれは崇峻天皇弑逆事件の口封じであると私は考えています。

崇峻以前の敏達、用明、そしてつぎの推古と蘇我氏全盛期の天皇は、みな河内の磯長谷に葬られている。その死の状況が、暗殺と言う異常なものだったせいだろう、崇峻天皇の遺骸だけは結局、王家の谷に落ち着くことはなかった。

 

日本で最初の女帝

592(崇峻5)年崇峻天皇が暗殺された後、先々帝敏達天皇の皇后であった炊屋姫(かしきやひめ)が即位して推古天皇となった。

卑弥呼や記録にない女性を女帝といわなければ、ここに日本で最初の女帝が誕生したことになる。

推古天皇としては敏達天皇との間の子、竹田皇子に継がせたかったのだろうと思う。

しかし、若年だったということで炊屋姫が称制のつもりだったのか、既に死亡していたのかで炊屋姫が即位する事になった。この時蘇我馬子は厩戸

(うまやど)皇子を推していた。

推古天皇の誕生で厩戸皇子の次期天皇は確実だったのだろう。

ついでながら2000年8月27日、推古天皇と竹田皇子が合葬されていた可能性が高いとされる橿原市植山古墳の現地説明会には私も参加しました。

 



斑鳩の地に移居したのは

書紀によると605(推古13)年、厩戸皇子は上宮から斑鳩宮に移居している。

斑鳩の地名については、この地に多く飛来した鵤(いかる)という鳥に由来する。鵤は斑鳩(まだらばと)のことで、鳩より小さく、体が灰白色で頭、翼、尾羽が黒っぽい鳥のことである。

この地は東西に走る龍田道と大和川があり、飛鳥と難波を結ぶ交通の要所と言うべきところである。

廐戸皇子がこの地を選んだのは積極的に政治に関わろうという意思の現れと、蘇我氏の影響をある程度逃れようとした意志の現れではないだろうか。

 


●冠位十二階

603(推古11)年、聖徳太子と大臣(おおおみ)蘇我馬子の共同執政のもとで律令制の位階制の源流となる冠位十二階が制定され、翌年、施行された。

さてここで、この時代の政治は蘇我氏の専管事項であった。大王家の判断で官位制度や憲法制定を行ったとは考えにくい。実施主体は大王の推古天皇にはなく、大臣の蘇我馬子にあったはずで、それにも関わらず聖徳太子の功績と伝えるのはなぜだろうか。聖徳太子なる者が提案したとしても、実施主体は蘇我馬子にあったのでありその方が現実的であろう。

ところで何故、冠位十二階が聖徳太子の関与でできたことになったのだろうか。そんな記述があるのだろうか。

書記の冠位十二階に関する記述では主語に当たる「誰が」の部分の記述がないそうです。

これに対して次の憲法十七条は「皇太子、みずから肇て憲法十七条を作りたもふ。」とある。

 



憲法十七条

一に曰く  和をもって貴しとなし、さかふることなきを宗とせよ。

二に曰く  あつく三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり。

三に曰く  詔を承りては、必ずつつしめ。君をば天とす。

四に曰く  郡卿百寮、礼をもって本とせよ。

五に曰く  むさぼりを絶ち、欲することを捨て、明らかに訴訟を弁めよ。

六に曰く  悪を懲らしめ、善を勧むるは古の良き典なり。

七に曰く  人おのおの任あり。つかさどること乱れざるべし。

八に曰く  郡卿百寮、早くまいりて、遅く退でよ。

九に曰く  信はこれ義の本なり。毎事に信あるべし。

十に曰く  忿を絶ち、瞋を捨て、人の違ふことを怒らざれ。

十一に曰く 功過を明らかにみて、賞罰をと必ず当てよ

十二に曰く 国司・国造は百姓に斂らざれ。国に二君あらず。

十三に曰く 諸の官に任せる者、同じく職掌を知れ。

十四に曰く 郡臣百寮、嫉み妬むことあることなかれ。

十五に曰く 私を背き公に向くは、これ臣が道なり。

十六に曰く 民を使ふに時をもってするは、古の良き典なり。

十七に曰く それ事を独断むべからず。必ず衆と論ふべし。

先ず気になることがある。これは江戸時代の考証学者、狩谷エギ斎の指摘で、近くは津田左右吉博士の研究に依れば、十二条、国司であるが大化前代において国を単位に行政的支配を行う官人は存在しない。

続いての疑問、この憲法に出てくる人間の階層は君、臣、民であるが、推古朝では氏族制の時代であり時代に合わないということ。さらに中国古典からの語を多く引用しているが、これらは書記の書かれた奈良時代の文章と似ているのである。

以上で書記の編纂段階で官人の訓戒のために作成されたというのである。

これに対して反論も当然ある。

憲法十七条の文体は「日本書紀」の他の文体よりも古体であり、751(天平勝宝3)年にできた「懐風藻」の序文にも太子が「礼儀を制した」ことを記しているというのである。

この辺りは偉い学者さんの範疇で私には分かりません。

 



聖徳太子の師

「書記」には「内教(仏教)を高麗の僧、恵慈(えじ)に習ひ、外典(儒教)を博士覚狽ノ学びたまふ」と記している。つまり、恵慈と覚狽ェ師である。

覚狽ノついては他の文献にも出てこず、何処の国の誰かも分からない。

恵慈については高句麗人で法興寺(飛鳥寺)に住まいしたときされている。聖徳太子は彼の影響をかなり受けているはずです。恵慈は595(推古3)年5月に来日し615(推古23)年11月に帰国している。

聖徳太子が亡くなったのは621年2月5日(日本書紀による)であるが、これを高句麗で聞いた恵慈は悲しみ「日本の聖人聖徳太子が亡くなっては独り生きる益がない。自分も来年の2月5日に死に、浄土で太子と会って衆生を教化する。」と言って本当にその日に死んだという。

これはかなり眉唾物の話である。

 


●聖徳太子と飛鳥文化

聖徳太子が実在の人物で伝えられているような実績を上げたのが事実であればやはり凄い人物なわけで、蘇我の馬子の時代に馬子から独立自立した政治を行える人物には違いないわけです。

この時代、渡来文化はどのように受け入れられていたのでしょうか。確かに日本文化より優れたものが沢山あったのですが、これを素直に受け入れるには抵抗があったと思います。

仏教のように精神論に基づくものでない場合はもう少し簡単なことだったかも知れないが、やはり従来の伝統技術に対する新技術はなかなか受け入れられるものではなかったと思う。

その中にあって聖徳太子は渡来系の文化を進んで受け入れる方針をとった。

飛鳥時代には有力な秦(はた)氏と東漢(やまとのあや)氏がいた。秦氏は聖徳太子に近く、東漢氏は蘇我氏に近かった。

秦氏は織物に従事していたが、秦大津父は欽明天皇に近持し宮廷の財産を管理する役人になっている。推古朝、聖徳太子摂政の時に秦氏の地位は大幅に向上している。そして秦河勝は603(推古11)年冠位十二階制定では上から3番目の大仁の冠位を与えられ、後、小徳になった。

こうして、渡来人は宮廷支配層の3分の1にも達し飛鳥文化の華を咲かしたのである。

 


日出づる処の天子

 「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや・・・」

誰もが知っているこの手紙、小野妹子が607(推古15)年第2回遣隋使として海を渡ったときの手紙である。

この当時、対外政策は朝鮮半島三国(新羅、百済、高句麗)から強大化してきた中国の隋を相手にしなければならなくなってきていた。

遣隋使の目的はよく言われているように新しい文化の取り入れであったのだろうか。多分そうなんだろうけど、それなら、この、国書の書き出しはおかしくはないだろうか。日出づる処の天子と書を日没する処の天子ではどちらが上位なんだろうか。

隋の皇帝、煬帝は気に入らなかったのだろう、小野妹子を捕え罰するところであったが、返書を作って妹子に持たせている。この返書が帰国途中、百済で盗まれてしまったと言うことになっているのである。

私は、これは妹子の作り話だと思っている。国使が国書を盗まれるなんて信じがたい事と「日出づる処の天子」に見せられない状況であったためではないか。

つまり結論はこうである。「日出づる処の天子」とは専制的な人間、独断的で、傲り高ぶる性格で周りの現実が見えない人間、当時政界の中心にいた人間であろう。

 煬帝は宣諭使として裴世清を派遣している。裴世清は倭王に会って「皇帝、倭皇を問う」で始まる国書を読んでいる。帰国した裴世清の文書には倭王が女帝であることを記していない。このことが女帝でないことを証明するものではないが、裴世清が会ったのは推古天皇ではないのだろう。「日出づる処の天子」は前述の性格から思い浮かんでくるのは聖徳太子ではなく、ズバリ、蘇我馬子である(ワー大胆!)。彼の政治手腕は聖徳太子と並んでひけを取る物ではないからで、自らもそれなりの権力を持っていたからである。

 


聖徳太子の名前の由来

「聖徳太子」という呼称は何に出てくるのだろうか。日本書紀には出てこないのであるというと不思議に思われるかも知れませんがでてこないのです。

753(天平勝宝3)年に編纂された「懐風藻」で初めて出てくるのである。

前述の聖徳太子の師である恵慈が太子の死を知って「玄(はるか)なる聖(ひじり)の徳をもって日本の国に生(あ)れませり」と言った言葉(玄聖之徳)に由来する。

従って、聖徳太子の存命中に「聖徳太子」と呼ばれることはなかった。

さて、聖徳太子についてあれこれと書いてきましたが、これは、ほんの一部の見方で角度を変えればまだまだ色々な説があります。

厩戸皇子説、架空人物説、蘇我馬子説、蘇我入鹿説等々何が正しいか結論は出ません。決定できるような事実がないからです。

いろいろ想像して自論を作っていくこれが面白いのです。これが歴史ロマンなのです。