古墳ってなんだ
はじめに
色々なホームページを見ていて、意外と古墳そのものについての解説がありません。ほとんどは個別に○○古墳は築造時期、大きさ、副葬品、構造、被葬者といった内容ばかりです。
そこで、ロマン派、仙道といたしましては趣味の考古学仲間を増やすために「古墳ってなんだ」を作ってみました。
古墳時代というからには古墳が作られ始めた頃から、終わりまでということになると思いますが、終わりは奈良時代になります。ただ、時代の区切りという意味では文化や体制の変化を考えねばならないので古墳時代といえば弥生時代のあとから飛鳥時代の前までということになります。
そういう意味では終わりは仏教が伝来して推古天皇が即位した頃と考えて6世紀後半までと言ってよいのでしょう。
では、始まりはというと意見が分かれるところとですが、邪馬台国が終焉を向え、そのあとの時代は西日本を中心として、大きなまとまり(国)ができる時代となります。鉄器が用いられ開墾が進み、武器が作られ武力で人々を支配した時期です。
これが古墳時代の始まりと私は思います。
当然、弥生時代にもある程度の規模の墓あったと思います。
古墳時代の定義として間違いやすいのは古墳が作られたのが古墳時代の始まりでなく、小さな部族から大きな国に変化したときなのです。
従って、古墳時代は3世紀後半から6世紀中頃ということになります。
これは地中に埋もれているもの、削り取られて無くなってしまっているもの、未発見のものを含めると想像上の数字にしかなりません。
それでは総数はというと、おそらく20万基は下らないと思います。根拠は何となくという至っていい加減なんですが。
現在、前方後円墳は分かっているだけで4,908基です。
こんな例もあります。広島県の三次(みよし)地方ではなんと3000もの古墳がかたまっているそうです。そこら中古墳ということですね。
それに上記で古墳時代は6世紀後半までといいましたが、実は畿内で古墳の築造が終焉したあとも地方では築造し続け、7世紀後半まで作られています。そのため古墳の99%までが6世紀以降のものだそうです。
下表を見ても分かるように大きな古墳は全て前方後円墳です。
時期は圧倒的に中期(400年から500年頃)です。
古墳時代前期は自然丘陵を利用した墳丘が築かれた。中期には墳丘は平地に築かれる。大規模墳丘は前記説明の通りこの時期に築かれ周濠を巡らせています。
この時期は倭国が東晋に朝貢したり、倭の五王が宋に朝貢している時期で王権が確立していった時代です。
従って、その権力の象徴として壮大な古墳が築造されたと見て良いと思います。
その他、注目すべきは11番目の箸墓古墳で時期は250年から300年の間で突如として大型の古墳が出現したわけで、この時期がちょうど卑弥呼が死んだ時期と一致していることで卑弥呼の墓ではないかと云われています。
順位 |
古墳名 |
所 在 地 |
時期 |
墳丘(m) |
墳形 |
伝埋葬者 |
1 |
大仙古墳 |
大阪府堺市大仙町 |
中期 |
486 |
前方後円墳 |
仁徳天皇 |
2 |
誉田御廟山古墳 |
大阪府羽曳野市誉田6丁目 |
中期 |
425 |
前方後円墳 |
応神天皇 |
3 |
石津丘古墳 |
大阪府堺市石津ヶ丘 |
中期 |
365 |
前方後円墳 |
履中天皇 |
4 |
造山古墳 |
岡山県岡山市新庄下 |
中期 |
350 |
前方後円墳 |
- |
5 |
河内大塚山古墳 |
大阪府羽曳野市南恵我之荘8丁目 |
後期 |
335 |
前方後円墳 |
允恭天皇、雄略天皇 |
6 |
見瀬丸山古墳 |
奈良県橿原市見瀬町、五条野町 |
後期 |
318 |
前方後円墳 |
欽明天皇 |
7 |
渋谷向山古墳 |
奈良県天理市渋谷町 |
前期 |
302 |
前方後円墳 |
景行天皇 |
8 |
土師二サンザイ古墳 |
大阪府堺市百舌鳥町西之町 |
中期 |
288 |
前方後円墳 |
- |
9 |
仲ツ山古墳 |
大阪府藤井寺市沢田4丁目 |
中期 |
286 |
前方後円墳 |
仲姫皇后 |
作山古墳 |
岡山県総社市三須 |
中期 |
286 |
前方後円墳 |
- |
11 |
箸墓古墳 |
奈良県桜井市箸中 |
前期 |
276 |
前方後円墳 |
倭迹迹日百襲媛命 |
五社神古墳 |
奈良県奈良市山陵町 |
前期 |
276 |
前方後円墳 |
神功皇后 |
13 |
ウワナベ古墳 |
奈良県奈良市法華寺町字宇和那辺 |
中期 |
265 |
前方後円墳 |
- |
14 |
市庭古墳 |
奈良県奈良市佐紀町 |
中期 |
250 |
前方後円墳 |
平城天皇 |
メスリ山古墳 |
奈良県桜井市大字高田 |
前期 |
250 |
前方後円墳 |
- |
16 |
岡ミサンザイ古墳 |
大阪府藤井寺市 |
後期 |
242 |
前方後円墳 |
仲哀天皇 |
行燈山古墳 |
奈良県天理市 |
前期 |
242 |
前方後円墳 |
祟神天皇 |
18 |
室大墓(室宮山)古墳 |
奈良県御所市 |
中期 |
238 |
前方後円墳 |
- |
19 |
西殿塚古墳 |
奈良県天理市 |
前期 |
234 |
前方後円墳 |
手白香皇女衾田陵 |
20 |
市野山 |
大阪府藤井寺市国府1丁 |
中期 |
230 |
前方後円墳 |
允恭天皇 |
21 |
宝来山 |
奈良市尼辻 |
前期 |
227 |
前方後円墳 |
垂仁天皇 |
大田茶臼山古墳 |
大阪府茨木市 |
中期 |
227 |
前方後円墳 |
継体天皇 |
23 |
古市墓山 |
大阪府羽曳野市白鳥3丁目 |
中期 |
224 |
前方後円墳 |
- |
24 |
ヒシアゲ古墳 |
奈良県奈良市佐紀町ヒシアゲ |
中期 |
219 |
前方後円墳 |
磐之媛皇后 |
25 |
佐紀石塚山 |
奈良県奈良市山陵町御陵前 |
中期 |
218 |
前方後円墳 |
成務天皇 |
26 |
河合大塚山 |
奈良県北葛城郡河合町西穴闇字大塚 |
中期 |
215 |
前方後円墳 |
- |
27 |
築山 |
奈良県大和高田市築山字城山 |
中期 |
210 |
前方後円墳 |
- |
西陵 |
大阪府泉南郡岬町淡輪 |
中期 |
210 |
前方後円墳 |
- |
太田天神山 |
群馬県太田市内ヶ島 |
中期 |
210 |
前方後円墳 |
- |
30 |
津堂城山 |
大阪府藤井寺市津堂 |
中期 |
208 |
前方後円墳 |
- |
中期には巨大古墳が次々と作られたが、後期には前方後円墳を中心とした群集墳が出現する。
豪族ら生活共同体の墳墓であり、中央の他に地方にも経済的集団が存在してきていることを示しているのである。
いいかえれば、律令体制が確立していたといえる現象なのです。
仏教公伝は538年であり、中央(奈良)で仏教が浸透していくと共に、仏教の影響を受けたと思われる八角墳なども出現している。
そして、火葬が始まり、中央のみの寺院造営がが地方にも広がっていき、資力、労働力はこちらに向かうようになってきた。
律令体制も確立してくると、大きな古墳を作って権力を示す必要もなくなり(中央の統制か?)、ついには終焉を迎えることになったのだろう。
大仙古墳とは仁徳天皇陵と云われてきたがもう一つ根拠がなく最近ではこう呼ばれるようになっていますが、日本一でっかい、いや、世界一でっかい墓です。
この墓を作るには、いったいどれぐらいの人数と期間が必要なのでしょうか。
当然、私の知識ではどうしようもないので大林組の試算を紹介しましょう。
盛土 1,124,974立方メートル
周濠のため掘る土 1,104,906立方メートル 盛土不足分は200メートル離れた採土場から運ぶ
埴輪 30,329本 30〜40キロメートル離れた新池遺跡で制作
葺石 14,605,690個 5.8キロメートル離れた石津川から運ぶ
土を掘るのに鉄製及び木製の鍬、土を運ぶのにモッコを使用し、遠くからものを運ぶときは、船で何艘にも分けて運ぶ。重いものを運ぶときは修羅を使用するという前提で考えますと。
1日8時間労働、1月25日働くとして、延べ6,807千人、工期15年8ヶ月だそうです。
凄いと言う他、言葉が見つかりません。
強大な権力者でなければできません。大王(おおきみ)以外にこんな事ができるでしょうか。
日本書紀によると垂仁天皇の皇后、日葉酸媛(ひばすひめ)が亡くなったとき、野見宿弥(のみのすくね)の発案で古来の習慣による殉死の悲惨さをさけるために、土で作った人馬や家を陵墓に立てたということになっており、これが埴輪の起源だといわれています。
また、墳丘の崩壊・流出を防ぐためとか、聖域として区画するために円筒埴輪を置いたとか色々いわれています。後者2説はもっともらしいのですが、葺き石がびっしり敷かれて崩壊しそうにない古墳でも円筒埴輪列があり流出防止説はどうかなって云う感じがします。
聖域として区画するというのも実際に埴輪が置かれている形状から見てと家型、力士、鷹匠というような埴輪など区画するというイメージが涌かないもので、これもどうかなと云うところです。ただ円筒埴輪だけなら考えられないことはないかも。
ここは素直に日本書紀のいう通りでよいのではないでしょうか。但し、最初はそうであっても時代の流と共に祭祀に何らかの役割を持ってきたのではないかというのが私の考えです。
埴輪の中で一番多いのは円筒埴輪ですが、主な種類は次のようなものです。
物
円筒、朝顔形、器台、壷
家
家、囲形(かこいがた)
器財
短甲形、甲冑形、冑形、盾形、靱形(ゆきがた)、大刀形、鞆形、蓋形(きぬがさがた)、翳形(さしばがた)、冠帽形(かんぼうがた)、高坏、船
動物
猪形、鶏形、犬形、水鳥形、馬形、鹿形
人物
盾持ち人形、武人形、巫女形、力士形、貴人形、馬飼形、鷹匠形、農夫形
棺を納める石室には竪穴式石室と、横穴式石室があります。横穴式石室は、中期以後、朝鮮半島を経由して日本に伝わってきました。
竪穴式のものは遺骸を上から納めて、そしてその上からふたをします。それで竪穴式は通常1回だけで追葬はできないとされています。
横穴式のものは石室のような部屋を造り、構から遺骸を納めてから入口をふさぎます。ですから横穴式石室は、何度も埋葬が可能な構造となっています。
また竪穴式では頭を北の方にするのが多く、横穴式は入り口を南に向けるのが多く、棺は石室の大きさにも寄りますが、石室内で縦横いろいろあるようです。
木棺や石棺の中に遺体を入れて、石室の中に入れます。
前期には、割竹形木棺や長持形石棺のまわりを囲むようにして竪穴式石室を作ったものが多いようですが、棺は、しだいに、石棺に変わっていきます。
中期の石棺では、くりぬき式の舟形石棺や、組み合わせ式の長持形石棺が普通です。横穴式石室では、石で壁を積んで羨道を通って、奥の玄室に通じるもので、箱形石棺や、家形石棺が置かれることが多い。
副葬品の種類はたくさんあります。まず、棺に収めるものは
銅鏡、石製品、耳飾りや首飾りや玉などの装身具、小刀や鎌などの工具、金属製の容器、須恵器や土師器などといった葬られる人の身のまわりの品物、剣や刀などの武器、鎧や甲などの武具、馬の体を飾った馬具、布、皮等です。
棺やそのまわりには、
銅鏡、石製模造品、鉄鏃、槍、農工具、土器等です。
古墳といえば前方後円墳が思いつきます。古代天皇陵といえば前方後円墳です。これは江戸時代から明治になって天皇が前面にでてきたため、不明となっていた天皇陵を治定しなければならなかったのです。
そして地名などの僅かな手掛かりで比定したのですが、巨大な前方後円墳であることが一つの基準だったのです。
そのため、
天皇陵といえば前方後円墳ということになりました。
さて、本題に戻りますが、有名なのは前方後円墳ですが数で見るなら圧倒的に円墳ということになります。
古墳の数については『●
全国に古墳はいくつある』の項で記述したように20万基は下らないのですが、その
90%は円墳なのです。
この他にどんな形の古墳があったかというと前方後方墳、円墳、方墳、帆立貝式古墳、双円墳、双方墳、八角墳、六角墳、上円下方墳、双方中円墳、双方中円墳などがあります。
一般に古墳の形の違いには、そこに葬られる者の身分の差を示していると考えられる。大きなものを作るには多大な労力が必要となるためで、ほとんどの人は穴を掘ってそこにうめるだけと考えるのが妥当でしょう。
ところで前方後円墳というような名前をつけたのは蒲生君平という人なんです。
林子平、高山彦九郎と並ぶ寛政の三奇人の一人といえば、知る人ぞ知る江戸時代後期の勤皇家です。
その彼が前方後円墳の名付け親とはあまり知られていない。
鍵穴型の墳墓を前方後円墳と名付けたからにはどちらが前であるかの理由(横から見たかたちが御車(みぐるま)に似ていることから方形の方を前にした)が欲しいところであるが確証はなく、前方部のもつ意味についても定説はない。
君平は自ら経史を学び、鹿沼石橋町の儒者・鈴木四郎兵衛(沢民)に師事。享和2年、江戸の昌平黌に学び、文化元年には吉祥寺の近くに学塾「静修庵」を開いた。
その後も文筆活動に多くの時間を費やし、寛政10年没。享年47歳。
著書に「不恤緯」、「山陵志」、「職官志」、論策に「今書」がある。
蒲生君平が方丘部を前としたのであるが前述の通り確かな根拠がない。
埋葬施設は後円部にあるのが普通であるが、前方部やくびれ部にもつくられることがある。
こうなると、本当に前方部が前?ということになるんですが、竪穴式は北枕が多く、横穴式は南入り口が多いのは前述の通りなのですが、これって何となく自然な気がするんです。だから、前方部が正面でいいんじゃないかと思うのですが?
ただ、人型埴輪や家型埴輪の配置状況をもっと調べれば横側の造り出し部分が正面中央部だったり、後円の方が正面だったりしても何ら不思議ではないと思います。
地方の豪族の小さな墳墓を作るならムラの人が集まってでもできるでしょうが、全長100メートルを超すような古墳はそうはいきません。
ざっと考えても設計者、現場監督、周旋(人集め)、食料係、運搬(土、石、埴輪、食料、道具…)、保管、土木作業等数千人のひとはが作業に当たらなければなりません。
これらの人は地元の人だけというわけにはいきません。
大仙古墳を作ったときの埴輪工場(高槻市新池遺跡)では東海、関東地方の土器が見つかり、副葬品には北陸の石材が使われ、石棺は九州の材料で出来ています。
こうしてみると中央の大型古墳は支配地域から人を集めて作ったということが分かります。
これができるのは大王の墓以外に考えられず。仁徳天皇陵であるかは別としてやっぱり天皇陵と思うのですがどうでしょうか?
それにしてもすごい前記大型古墳のベスト30の内27までが奈良、大阪になっています。江戸時代の参勤交代どころのレベルではないですね。