歴 史 お も し ろ 館
空を飛ぶ
飛べた人
■蘇我入鹿
 『扶桑略記』の斉明元年の条にはこんな事が書いてあるんだ。
「空中に竜に乗れる者あり。貌は唐人に似て、青油笠を着て、葛城嶺より、馳りて生駒山に隠る。牛時に至るに及び、住吉の松の上より西を向いて馳り去る。時の人言ふ。蘇我豊浦大臣の霊なり。」
つまり自分では飛べず竜に乗って飛んだんだって。
本当だったのかどうかは別として、「蘇我豊浦大臣」は「蘇我入鹿」であることで、斉明(皇極)天皇には、「蘇我入鹿」の霊がまとわりついていたということなんだ。
『扶桑略記』の斉明七年夏には、「群臣卒尓多く死ぬ。時の人云ふ、豊浦大臣の霊魂のなす所なり」ともある。
死んでから霊が飛び回ったんだな。

■役行者(役小角)
 『日本霊異記』には『時に、身は海上に浮びて、走ること陸を履むが如し。体は万丈にうすくまり、飛ぶことはふる鳳の如し。』
有名な役行者の話なんだが、海上をまるで陸上にいるかのように走った。万丈の高い山に身を置き、飛び立つ姿は、大空を羽ばたく鳳凰のようであったということで、これを信じれば私の知る限り日本で初めて空を飛べた人なんだ。
そしてついに701年、仙人となって空に飛び去ったという事なんだけど信じるも信じないも勝手だよ。
他にもこの他役行者の不思議な霊験を示した話はとても挙げ尽くせないほど数が多いんだ。
俗人の私には信じられないよ。

飛べなかった人
■細川政元
 政元は晩年には軍事を赤沢朝経、政務を安富元家・斎藤元右・薬師寺元一らにまかせっきりにして、自身は修験道に没頭するようになった。きっと前出の役行者を信じ切っていたんだよね。
政元に実子がなかったので、修験道の修行のために妻帯も拒んでいたらしい。でもやっぱり飛べなくてやがて家来に殺されたんだ。やっぱ術は完成していなかったんだろう?

■なんとか教のいかさま教祖
 ひどいヤツで、つかまって現在も裁判中なんだけど空中浮揚ができるなんて普通の人間ならバカげて相手にもしないのに、信じる者は恐ろしいですね。
こんないかさま野郎を信じてかどうか知らないけれど信者になって金ふんだくられている人がいるんだって。
もっとまともになろうよ!

ド根性母ちゃん
■神功皇后(じんぐうこうごう)
 時代は古事記や日本書紀の世界であるんだけれど。第14代仲哀天皇の奥さんである。24才の時45才の仲哀天皇に嫁いでいるだけれど恋愛感情なんて無いもんだから不幸なんだよね。
記紀を見ると、仲哀天皇のことはあまり書いてないのに、神功皇后のことはいっぱい書いてある。名前を息長帯日売(おきながたらしひめ)といい、第15代応神天皇の母親でもある。
自ら男装して軍船を率いて朝鮮半島に渡り、住吉の神託に従って新羅国を征伐に行った。ついでながらこの時の家来が後述の武内宿禰(たけしうちのすくね)ということなんだ。
新羅国征伐の時、すでに後の応神天皇を身ごもって臨月で産気づいていたんだが、出産時期を遅らせるために、腰に石を巻き付け、産気を鎮めてしまった。凱旋して筑紫に着いてから応神天皇を生んだというからただ者ではない。そして産んだ地を宇美と名付けた。懐妊から分娩まで、実に十五ヶ月かかったことになる。


首が飛ぶ
■平将門
 平将門は、平安時代の中期に現在の茨城県石下町の豊田館で生まれで、関東一円を平定しました。阪東武士の雄として知られている。
承平・天慶の乱という関東全般に拡がる戦乱があった。つまり承平(931−938)と天慶(938−947)の時代の乱だって。単純な名前の付け方、将門純友の乱でもいいのに純友は置いておいて将門について一言。
将門は初め京都で摂政藤原忠平に仕えていたんだが、やがて父良将の遺領を継ぐことになった。関東地方では平家はじめ豪族同士の力が均衡しており土地を巡る争いが絶えなかったんだ。まっ人間誰でも欲張りだから分からないわけでもないが。そして伯叔父の良兼・良正・国香らと争う事になった。935年に将門が常陸国の武士である源護と戦った時に、敵に味方した伯父の国香を殺してから同族間の争いは激化した。
逆に国香の子供の貞盛は父の死の知らせを受けて叔父の上総の良兼と共に将門を討とうとし戦乱が激化した。
なんだかんだしているとき、939年(天慶2年2月)源経基が朝廷に将門を反逆のかどで訴えることが発生した。
さらに将門は11月には常陸国司に抵抗した藤原玄明(はるあき)を助けて、常陸国府を襲撃している。この時に常陸介藤原維幾(これちか)を捕らえた上に略奪、放火までしてるので反乱が確定する事になりました。
 しかし、940年(天慶3年)2月14日の夕、平貞盛と藤原秀郷の連合軍との戦にやぶれ、38歳の生涯を閉じることなった。
反乱者であるから首は切り落とされて京へ送られ、胴体は地元岩井市の延命院の境内に埋葬された。
ここまでの話ならここでは取り上げないんだけれど、これからが凄い。
 将門の首は京に運ばれて市中に兜をつけ目は見開いたまま晒された。(この辺から嘘臭い)しかし、首は胴体を求めて下総に向かって突如空を飛んで東へ帰ったという事なんだけどほんまかいな?
ただ、飛んでいく途中力つきて墜落、首は東京都千代田区大手町に兜は日本橋の兜町に落ちてしまった。
私も大手町のNTTのビルにいたとき、三井物産の池にカルガモの赤ちゃんが住み着いたのを見に行ったとき「なんだこりゃ」って感じで見たのがこの今もある首塚だったんだ。

蘇我入鹿(再び登場)
 奈良県明日香村の飛鳥寺の西側に首塚がある。誰の首塚かというと蘇我入鹿なんだって。
乙巳の変(大化改新)の時、板蓋宮で切られた蘇我入鹿の首がここまで飛んできたということなんだ。
今の伝板蓋宮跡からここまでは6〜700mはある。たしかに『多武峯縁起』(談山神社蔵)には切り落とされた(切り飛ばされたが正しい?)首が中に舞っていた。

長寿記録
■神武はじめ初期の天皇
初 代    神武天皇 じんむ    127才    在位75年
第5代    孝昭天皇 こうしょう  114才    在位82年   
第6代    孝安天皇 こうあん  137才    在位101年  
第7代    孝霊天皇 こうれい   128才    在位85年   
第8代    孝元天皇 こうげん   116才    在位56年   
第10代    崇神天皇 すじん    119才    在位66年   
第11代    垂仁天皇 すいにん  141才    在位99年   
第15代    応神天皇 おうじん  111才    在位40年   
第16代    仁徳天皇 にんとく  110才     在位86年   
びっくりしたね。本当かいな。ただ古田武彦氏の「二倍年暦」説(春、秋が年初で1年で2年とする説)を取れば以上の年の半分でありとりたてて不思議ではない。従って長寿とは言えない。

■武内宿禰(たけしうちのすくね)
 なんだかよく分からないけど、葛城王朝の出自を究明するにあたって、もっとも重要な部族は葛城族であるなんていわれている。
この葛城族からは第八代孝元天皇の皇子である彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)がいて、その子(つまり孫)だそうで今の人はほとんど知らない人なんだけど、武内宿禰は俗に、五代(または八代)にわたる天皇に仕えたといわれ、明治以来の日本紙幣に印刷されていて、昔の人には親しまれている人物なんだ。この武内宿禰の子が葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)で、その娘の磐之媛は仁徳天皇の后となっている。后の生んだ皇子から履中、反正、允恭の各天皇がでているんだけど、大阪堺市に住んでいる人ならあのでっかい古墳で誰でも知っているよね。また、武内宿禰を祖とする氏族は巨勢、平群、紀、石川、蘇我などの歴史的に活躍した五つの豪族がいる。これはここで説明するまでもなくこのページを訪れる人はみんな知っているよね。
ややっこしいはなしになってきたけど、300歳以上生きていたということなんだ。それで和歌山にある安原八幡奥宮武内神社にある長寿殿という神社には井戸があり、紀州徳川家では宿禰にあやかり、この井戸の水を産湯に使っていたし、滋賀県の琵琶湖畔には長命寺という寺があり、武内宿禰が長命寺山に登り長寿を祈願したことから、その後来山した聖徳太子が伽藍を建立し長命寺と名づけたんだって。

■浦島太郎
 『亀は浦島太郎を乗せて海の中の龍宮城へ。乙姫と出会い、夢のように楽しい日々を送る。そして、3年後故郷を思い出し玉手箱をもらい故郷に帰る。知る人は誰もいず、約束を忘れ玉手箱のふたを開けたその瞬間、みるみるうちに白髪の老人となった。』って話は誰でも知っているよね。多分300歳以上生きてるんだ。

力自慢
■ 建御雷神(たけみかづちのかみ)
昔々そのまた昔、天照大神が、葦原中津国を邇邇芸命(ににぎのみこと)に支配させようとして、そこを支配していた大国主命に国譲りを迫ったんだけど、大国主命はしたがわず、天照大神は建御雷神を派遣していうことを聞かそうとした。
ところが大国主命の息子である建御名方神(たけみなかたのかみ)は納得しない。それで建御雷神に力比べを挑み、互いに手を取り合ったが、建御名方神は若葦を取るが如く投げ捨てられてしまったんだ。その力の強かったこと建御名方神の手はグチャグチャになってしまったということで、建御名方神は山の中を逃げて行くが、建御雷神はこれを追い、信濃国諏訪で捕まえ建御名方神は逆らわない子を条件に許される。建御名方神は諏訪社に祀られ、葦原中津国は邇邇芸命のものとなったということです。

■野見宿禰(のみのすくね)
 大和国當麻(たいま)村に蹶速(けはや)という「勇み悍き士」がいて、人々に力自慢して憚らなかったんだ。垂仁天皇は(300年7月7日)「當麻蹶速に太刀打ちできる者はおらぬか」と問うと、臣下の中に「出雲の国の勇士、野見宿禰という強いヤツがいる。」と答えるものがいて、野見宿禰を召し、當麻蹶速と戦わせた。
これが日本の相撲の始まりと言うことになっているんだけど、野見宿禰があまりにも強く當麻蹶速の肋骨を折り、腰まで踏み挫き、殺してしまったんだ。天皇は當麻蹶速の所領をすべて野見宿禰に与えた。その地は「腰折田」の名で呼ばれるようになった。野見宿禰はそのまま天皇に仕えたということなんだけど、古墳の埴輪を作らしたということでも有名人なんだ。

■ 金太郎
鉞(まさかり)かついだ金太郎は熊との相撲話は余りにも有名であるが、金太郎は後の坂田金時の幼名では平安中期、藤原道長が「この世をば、わが世とぞ思う」とうたった藤原氏の全盛時代に実在した人物なんだよ。
弓取りとして当時、有名だった源頼光に従う四天王の一人として「今昔物語」にも名を記録していることはあまり知られていないんだ。
頼光と金太郎は大江山の酒呑童子(鬼)を退治したことも有名な話である。

千里眼
■南光坊天海
 徳川家康と出会った時期は1607年頃と考えられているが、これ以来家康の信任が厚く家康、秀忠、家光のブレーンになっていたんだ。天海は武蔵の国仙波(埼玉県川越市)の喜多院の住職のとき、家康が駿府で病に倒れた事を千里眼で見抜き、江戸城の秀忠に知らせ、病気平癒の祈願をしている。

祟(たた)った人
■崇徳天皇
 天皇は保元の乱に破れ讃岐の国坂出に配流されたんだが、藤原、平家、源氏の家臣達は死罪となっている。
流された崇徳天皇(実は上皇になっていたが)は、憤懣の8年間を讃岐で過ごしていたんだ。
この内3年の歳月をかけて五部大蔵経(ごぶだいぞうきょう)を書写しているんだが、これがなんと自分の指を切りその血で書写している。これを京の安楽寿院(あんらくじゅいん)に納めてほしいと後白河帝に送るが気持ちが悪いかどうか知らないけれど突き返されちゃうんだ。
度重なる帰京の要請もことごとくはねつけられており、怒った崇徳天皇は、経の最後に誓文を舌を噛みきって血書し憤死した。
この写経は、その後弟の覚性法親王(かくしょうほつしんのう)へ送られるが、そこにはこう書かれていたという。
「われ日本国の大悪魔となりて人の世を呪わん。人の世の続く限り、人と人とを争わせ、その血みどろを魔界から喜ばん。」まさに、呪いの文言である。その後天皇を荼毘(だび)にふすと、その煙がはるか都にたなびいたという。
以後、都で起こる災厄はことごとく崇徳天皇の祟りとされ、それを恐れた朝廷は崇徳院の諡号を贈っている。

恨み節
■崇峻天皇
 崇峻天皇に限らず古来暗殺されたと思われる天皇は何人もいたんだけれど、明確に殺されたと考えられるのは崇峻天皇をおいて他にはないんだ。
用明天皇(聖徳太子の父)が亡くなったあと、次の天皇を誰にするかいろいろ朝廷・貴族のなかで検討(私利私欲の戦い)されてたんだけれど、物部守屋が推す最有力候補の穴穂部皇子が殺害されてしまったんだ。
(犯人は間違いなく蘇我氏に違いない。)
何故かというと、この時期仏教が伝来し聖徳太子、蘇我馬子は賛成派、物部氏は日本古来の神道派であり対立していたからなんだ。
これには新興勢力で宗教的基盤のない蘇我は仏教を導入して、それを自分たちに都合のよい宗教勢力に育てようと考えていたから当然の結果なのだ。
次期天皇の後継者を巡る争いで、穴穂部皇子殺害事件をきっかけに、結論を出すには武力衝突しかなたった。
この蘇我氏に敏達天皇妃の額田部皇女(後の推古天皇)・聖徳太子・泊瀬部皇子(はつせべのみこ)らが参加した。
そしてこの戦争の結果は、蘇我氏軍配が上がって泊瀬部皇子が天皇に就任することになった。
この天皇が崇峻天皇なんだけれど、どうして蘇我氏に殺されたんだろう。
 崇峻天皇の后には蘇我馬子の娘の河上娘(かわかみのいらつめ)と、大伴糠手の娘の小手子(おてこ)がいたんだけれど小手子のほうがお気に入りだったようで、二人の間には皇子と皇女が一人ずつできている。
蘇我氏に支援されて天皇になったものの、蘇我馬子との関係はよくなかったようで、4年後(592年)の10月4日天皇に猪を奉る者があった。すると天皇は「この猪の首を落とすように憎い奴の首を落としたいものだ」と言ったとか言わなかったとかで、このことを小手子が蘇我馬子に手紙で報せたらしい。
さらに天皇は戦闘準備を始めた。
これには馬子も黙っておられない。11月3日、馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺を司令して殺してしまう。
崇峻天皇というのは漢風諡号なんだけど、和風諡号は「泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)」であり、本名のままの諡号であり、全然えらそうな感じがしない。これも蘇我馬子のさしがねか?


■ 長屋王
729年(神亀6年)2月10日、政界の最高実力者左大臣長屋王邸宅が式部卿藤原宇合の指揮のもと六衛府の兵に囲まれた。
そして12日には早くも処分が決まり長屋王とその妃(吉備内親王)およびその子4人の自殺が命じられたんだ。
この事件は長屋王が密かに左道(道教の呪術)を学び国家を傾けようとしたためだということなんだけど、これは冤罪である。
727年、聖武天皇の夫人となった不比等の娘安宿媛(光明子)が基王(もといおう)を生んだんだけれど、一年足らずで死亡してしまった。不比等は基王が生まれて一ヶ月で立太子させたのであるがこれは藤原氏が外戚の地位を確保しようとの意思の表れであるんだ。
ところが今度は聖武天皇の夫人県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)に安積親王が生まれた。これでは藤原氏は外戚の地位を失ってしまう。
そこで藤原氏は光明子が即位してでも安積親王の立太子を妨げようと考えた。だが皇后は即位もあり得るだけに皇族しかなれぬ定めであった。
 藤原一族の伸長に反対だった長屋王は当然に立后反対を唱え、藤原氏の目論見を打ち砕いてきた。
このため、前述のような事件が発生したのであるが、これは明らかに長屋王を陥れる為に仕組まれた事件であって長屋王に国家転覆の意図はなかったんだ。


■大津皇子
 父親の天武天皇は天智天皇の娘2人共に子供があった。一人は大田皇女で子は大津皇子で、もう一人は妹の讃良(さらら)皇女(後の持統天皇)で子は草壁皇子なんだ。
天武天皇が亡くなった後、讃良皇女は誰が後を継ぐのかというのを明確にしないまま、取り敢えず自ら政務を引き継いだのだった。
大津皇子は風貌逞しく、音声明瞭で、『懐風藻』によれば、度量広大で、博識、漢詩文を得意とし、腕力強く、文武ともに極めて優れ、また高貴の身をおごらず人を厚く礼遇したので衆望を担っていた人物といわれていたんだな。
これに嫉妬したのか、草壁皇子が可愛かったのか、讃良皇女の陰謀と思うんだけど大津皇子を謀反のかどで殺してしまった。
謀反といっても、どういうものだったのか記紀には何も書かれていないので分からない。しかし「発覚」の翌日に死というのも強引すぎやないか。


謎の人
■安倍晴明
 いまだ謎と伝説に包まれた陰陽師、その眼力は人の目に見えない悪鬼や怨霊を見出しては退治し、その予知能力は当時の平安貴族たちに受け入れられていた。すごいところは死者を蘇らせた(今昔物語集)、人の感情を操った(北条九代記)、どんな呪いをも跳返した(宇治拾遺物語)、藤原道長の命を眼力で救った(古今著聞集)ということもあるが、平成の代に映画、漫画等を通じて蘇ったことである。



●空を飛ぶ
●首が飛ぶ
●力自慢
●祟った人
●謎の人
●ど根性母ちゃん
●長寿記録
●千里眼
●恨み節
●一度に十人の話を聞ける
●一度に十人の話を聞ける
■厩戸豊聰耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)
 皆さん当然にご存じと思いますが、これは紛れもなく聖徳太子の話です。
聖徳太子は謎の人物です。昭和の1万円札になっていた絵をご存じの方は分かると思いますが、あの絵は聖徳太子の死後130年経ってから描かれたもので、当然想像画なのです。
ユニークな髭を生やして板ッ切れを持って、変な帽子を被っているやつです。
伝えられているとおりだと、確かに凄い人なんだけど本当のところはどうだったんでしょうね。
本題の「一度に十人の話を聞ける」って話なんだけど、そんなこと可能なんかな。
厩戸皇子という名前はよく知られているんだけど豊聰耳と云う名前もついているんだなこれが。
聰耳(とみみ)というのは優れた耳の意味で音から「十耳」、ひいては一度に十人の話を聞いたなんて事になったんじゃないだろうか。








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