柳本飛行場について


□ 柳本飛行場とは
 正式名称は「大和海軍航空隊大和基地」といいます。太平洋戦争時の1942年の夏くらいから測量が始められ,1943年に整地,1944年9月15日から建設が始まりました。飛行場の建設にあたっては,地元の人々をはじめ,多くの人がかかわりました。そして,その中には3000人に及ぶ朝鮮の人々の存在がありました。強制連行されて就労した人,日本で生活していて集められた人などです。
 当時,周辺の山にはトンネルが数多く掘られていました。そのトンネルを「御座所」や大本営にしようとしていたのです。敗戦の直前,天理がこのような状況になったのは,海軍が柳本飛行場とその周辺を本土決戦時の重要な拠点とする計画を立てて実行していたからと言われています。
飛行場概略図  太平洋戦争下の柳本飛行場の概略図(地籍図より転写したもの)です。
 広さはおよそ300haで朝和・柳本・田原本にまたがり,朝和村領の半分以上が飛行場関係用地になりました。

□ 柳本飛行場関係施設
 今でも当時の滑走路跡や防空壕跡,格納庫(掩体壕)跡などの戦争遺跡が残っています。
 かつての戦争による惨禍や悲劇を語り継ぎ,二度と戦争をくり返さないという決意を風化させぬように,天理に残されている戦争遺跡「柳本飛行場跡」をここに紹介します。

滑走路跡

滑走路断面
a.滑走路跡
 主滑走路は,長さ1500m,幅100m(コンクリート舗装されているのは50m)でした。南の端は今の式上公民館,北の端は今の長柄運動公園の近くまで伸びていました。
 戦後5〜6年後から滑走路を田に戻す作業が始められました。現在は,その約800mが幅10m(滑走路の中央部)をアスファルトの道路として使用しています。その道路の下は,滑走路のコンクリートが当時の姿のまま残されています。
 建設当初,舗装が間に合わなくて“赤とんぼ”と呼ばれる練習機が飛び立ったときは竹を敷いて飛び立ったそうです。滑走路両側には25mずつ土と砂利で平らにした部分を作り,滑走路上の排水を良くするために,更にその端の土の下に竹の束を埋めて,地下配水施設を作ったそうです。

格納庫跡

格納庫平面図
b.格納庫跡
 1990年,この格納庫は,特別養護老人ホーム建設工事にともない,整地された土の下に埋められてしまいました。この写真は,工事が始まる前のもので,コンクリートの基礎で囲まれた内側を,畑として利用していたときのものです。
 北側と南側はコンクリートで非常に丈夫に造られていて,そのところどころには中に向かって鉄骨が残っていました。このコンクリートの中には非常に大きな石が混ざっていて,工事を急いだ様子がうかがえます。
 屋根はかまぼこ型をしていて,草色に塗られていました。上空から見ると畑に見えるようにしたということです。この格納庫には大型の爆撃機が1機入っていたということですが,それが使われたことはなかったと言われています。

格納庫跡

格納庫
c.格納庫跡
 間口の両サイド,北側コンクリート基礎部分と思われるところが残っています。その他の部分は,海知池の拡張工事の際,その堤防の下に埋められました。
 池の水の少なくなる冬になると,南側のコンクリート部分が現れるそうです。この格納庫には中型の爆撃機が入っていたということです。

格納庫

格納庫
d.格納庫跡
 この格納庫跡は,基礎のコンクリートの上に納屋を建てるため,半分以上が壊されています。そのため,原型がはっきりしませんが,(イ)や(ウ)の格納庫と同じ種類のものであろうと考えられます。
 1990年,この上にアスファルトが敷かれ,自動車置き場になりました。

格納庫跡

格納庫
e.格納庫跡
 両サイドの大きな基礎部分だけが残っていて,長さを測ってみると,他の3カ所の格納庫と同じ規模のものであることがわかります。
 (イ)〜(オ)の4つの格納庫の位置と,地籍図の有蓋検体の印のある位置とが一致しています。このことから,有蓋検体は格納庫を示し,格納庫は当時から4カ所存在していたと考えられます。

防空壕跡

防空壕

防空壕跡

防空壕跡
f.防空壕跡
 この防空壕は,外部がほぼ土に覆われています。南側と西側にコンクリートの表面が露出している部分がありますが,当時は完全に土で覆われていたそうです。そのため,外見は「古墳」のように見えたかも知れません。
 使われているコンクリートの中には30cmを超える大きな石も多く混ざっていて,隙間がたくさんあります。
 入り口は4隅にあり,内部に通じています。内部は,3つの部屋に分かれていて,真ん中の部屋が最も大きいです。
 「上級士官の防空壕として使われていた」「通信施設があった」という証言があること,内部に「電信室」という文字が残されていること,内部構造,滑走路との位置関係などから,上級士官の事務所の役割を果たしていたのではないかと考えられます。

防空壕跡

防空壕平面図
g.防空壕跡
 大きさは,(カ)の防空壕と全く同じです。戦後,農家の人の手によって,まわりを覆っていた土が取り除かれたため,コンクリート部分が露出しています。そのため,かまぼこ型をしているのがよくわかります。
入り口付近に農業資材が置かれていて,中に入ることが難しく,内部構造ははっきりしません。
 上に登ってみると,直径10cmの円筒が30cmほどの長さで二カ所に突き出ています。まわりを覆っていた土の分だけ残っているのではないかと考えられます。この円筒は,内部に通じた空気孔だと思われます。


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