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古田武彦を偲ぶ:邪馬台国の最終解答
―魏志倭人伝里程問題―
■曲解に過ぎない古田流里程解釈
最初に、魏志の記事を整理して記しておく。

(距離) (始点)  (方角) (終点)
千余里   狗邪韓国 →度海 → 對海国  ※狗邪韓国⇒現・釜山、對海国⇒対馬
千余里   對海国  → 南 → 一大国  ※一大国⇒壱岐
千余里   一大国  →度海 → 末盧国  ※末盧国⇒松浦(唐津市)
五百余里  末盧国  →東南 → 伊都国  ※伊都国⇒糸島市
百里    伊都国  →東南 →  奴国
百里    奴国   → 東 → 不彌国
水行二十日 不彌国  → 南 → 投馬国
水行十日陸行一月 投馬国  → 南 → 邪馬壹國

古田氏は北九州に邪馬台国を持ってくるために、相当苦労したようだ。彼の説にはまるで暗号文を解くかのような複雑なルールが適応されている。原文をそのまま解釈すると北九州から大きく外れるため、博多に距離を合わせる方策として、傍線行程というような概念の導入や、「先行動詞」なるもので分類したり、島の通過時点で島の半周分の距離が加算されているとか、ありとあらゆる距離稼ぎの解釈を施している(詳細はここでは触れられないため古田氏の著書を読んでいただきたい)。

倭人伝とは中国にとって周辺にある小国の「紹介」でしかない。「紹介」であるのになぜそれほどまでに難解なトリックを施す必要があったのか。
古田氏は魏の使者は軍事上の視点で倭国への道のりを記したはず、よって魏志の記事は正確な記録だと唱えているが、それの考えが正しいかどうかには意味はない。倭人伝の記事は魏の国内に向けた記録であって、相手国に見せるものではない。仮に見られることを意識したとしても、相手国は自国の地理くらい魏以上に知っているのである。
そんな状況で一体誰に読まれることを想定して暗号文に仕立て上げたのだろうか。そこが古田説の理解に苦しむポイントなのだが、いずれにせよ、軍事上だから正確であるということと、国内向けの記事に難解なトリックを施すことの間には何の因果関係もないことだけははっきりしている。むしろ逆に、国内向けであるならば誰もが瞬時に理解できるようなシンプルなルールで整理されるはずである。シンプルとは「そのまま」ということだ。原文の流れに沿って誰もが自然に読む方法、つまり「主線行程」として解釈すべきものなのだ。

では、倭人伝の記事を暗号文に仕立てることなく素直に読んでいこうと思うが、その前に。魏の使者が邪馬台国に出向いた状況を現実レベルでどうだったのか、その点を共通理解のために押さえておきたい。意見が分かれる箇所は置いておいて、魏の使節がどのような「段取り」で倭国の首都まで行き着いたかという「現実」の行動部分を倭人伝の記載から「決定」するためである。
ただし、魏の使節は邪馬台国の都まで行かず、末盧国とその周辺以降の情報は伝聞であったという考えもあるようだ。もしそうであれば、一気に里程問題は簡単になる。が、しかし、ここでは一旦、使節は都まで到達したとものして話を進める。

■魏の使節の行程(狗邪韓國以降とする)に関する不変条件

@狗邪韓國から対馬、壱岐を経由し末盧国(松浦)までは、魏が所有する自国船団によって渡来した。
A末盧国からは陸路を進むが、勝手にぶらぶら歩いたのではなく、倭国の出迎えを受け、倭国が用意した移動手段によって進んだ。
Bその後、陸路を五百、百、百、計七百里進み、不彌國に着く。
C不彌國から、今度は倭国が用意した船団によって海路を三十日水行した。
D再び上陸し、倭国の移動手段で陸路を一月陸行し、都に到着した。

以上、使節が主線行程の通りに都まで到達したのであればこのような段取りを辿ると思うが、その点に異論はないであろう。
そこで、それぞれの距離の情報源がどこかを探ると

@の里程に関しては魏が自ら計測した結果の数字であること、これも異論ないだろう。
ABに関しては果たして魏の使節が自ら測量できる状況であるかどうかはわからないため、情報が伝聞である可能性も加わる。
Cは、倭国の船での航行であるため、甲板に三十日間出っ放しで測量を行わない限り、距離は恐らく測れないだろう。よって、距離の情報は倭国側から「教えられた」ものか、或いは数えられる日数だけで記録したか、どちらかである。
DもBCと同じと考えられる。

先の不変条件から各行程の距離データのソースは以上のように定義される。
先ほど「伝聞」説について触れたが、倭国領に入ってからは使節が自由に測量を行えないという現実を考えれば、特にどちらの解釈を採っても状況はあまり変わらないことなる。
また、古田氏の考えで「軍事上」という解釈が上がっていたが、その考えに反対はしない、が、それは魏に限ったことではなく、倭国にとっても同じであることを忘れてはならない。魏が地理情報を重要に思う以上に、倭国側は正確な情報を知られることは避けたいと考えるはずである。軍事というキーワードを持ち出すならば、そういう理屈になるのではないか。

また、里程問題には次のような四つの論点がある。

1.当時の「里」は何キロメートルに当たるのか
2.方位を信じると里の単位距離が短里だろうが長里だろうが、列島外にはみ出してしまうこと
3.経路にある国の比定
4.途中から、里ではなく、日数による表し方になること

里程問題はこれらの要素をこねくり回して解釈するため、異説の乱立する面倒な問題になっている。
しかし、先ほど定義した「不変条件」@〜Dと前述の論点1〜4をルールなき古代史の解釈に適応させ、論理的に見ることが出来れば里程問題は容易く解ける。

■里の単位距離
この絞り込みには特に九州説の史家が大変な労力を重ねている。どうにかして距離を縮めたいのであろう。
しかし、様々な文献などで当時の中国国内の単位距離を探ることに意味があるだろうか。プレート活動の影響で当時と現在で対馬、壱岐の位置関係が変わってしまっているわけではない。であれば、現在の位置関係を尺度とすれば済む話しである。
それに魏志の里程は”軍事上”の測距にしては意外と大雑把である。狗邪韓國〜対馬:対馬〜壱岐=1:1 とすれば、同じ千余里の壱岐〜末盧はその二割減の距離しかない。しかし、先ほど言ったように現在の位置関係での尺度を使い、誤差があることを前提に、明確にわかっている地点間の距離を基準に各里程の割合で計ってみると、里の単位距離など分からずとも行程上の国の所在は十分推察できる。里程とは争点とするにはあまりに簡単な案件なのだ。ややこしくしているのは九州論者の我欲に尽きる。

■方位・国の比定
論点の2と3に関すれば、先ほど不変条件A以降の距離は使節が自ら測量したものでない可能性を指摘したが、そのことを如実に物語るように、末盧国に入った途端、方位が狂うという状況が浮かび上がる。
もちろん、方位を信じる立場の考えもある。原文を決して蔑ろにしない態度は確かに尊重されるべきである。しかし問題は「現実」がどうかである。地理上に於いて現実のこととして、ある地点が別の地点から北にあるにもかかわらず、記録においては東となっていれば、どちらを信じるべきか。当然現実が正しいに決まっているであろう。
里程記事と同様に方位も現実をベースに判断しなくてはならない。
現実的に方位を計れるものを探してみよう。完全に現在の地名との比較で場所が特定できるのが対馬、壱岐の地点がそれに該当するだろう。加えて、伊都国もそれとみなしてよいだろう
伊都国は現在の糸島と想定されている。魏志倭人伝の記事には伊都国の機能を

皆統屬女王國 郡使往來常所駐
とあるように「往来」の使節がそこで常に駐すると記している。また、日本書紀、仲哀八年の条では伊都縣主が穴門で神功皇后ら一行を迎える場面が描かれている。

及潮滿?泊于岡津。又筑紫伊覩縣主?五十迹手、聞天皇之行、拔取五百枝賢木、立于船之舳艫、上枝掛八尺瓊、中枝掛白銅鏡、下枝掛十握劒、參迎于穴門引嶋而獻之。

つまり、伊都国は使節を留めることが出来て、迎えの際にすぐに船を出せる港を有する場所にあるということになる。そうなると名称の一致と合わせても糸島以外に伊都国は比定できないだろう。
対馬、壱岐、伊都の三地点が決まれば、必然的に末盧国も現在の松浦であることは間違いないことになる。

では末盧国から見て伊都国はどの方角にあるのか。
それは倭人伝の記述する東南ではなく、北東に向いているのである。つまり、魏志の方位は時計の逆回りに90度のズレがあることになる。
なぜそのようなズレが生じたかなどと、その理由を探る必要もない。時間の無駄である。現実にそうであることはどんな理由を持ち出そうと変わらない「真実」なのだ。現実に即した判断の前では、そこに異議を差しはさむ隙間はないのである。
そして、次に続く伊都国から奴国への百里も東南となっているが、これも北東と解する他ない。伊都国までの方位だけが間違っているという考えは成り立たない。魏志の方位どおりに伊都国から東南に行き、次に百里東に行くと現在の筑紫野市あたりにの内陸部に入ってしまう。そこからどうやって船に乗るというのか。そこを考えれば、その考えが非常識であることが分かるだろう。方位は倭国領に入った後は、時計の逆回り90度ズレているとするしかない。
そうすると伊都国の北東にある奴国は現在の博多周辺となり、不彌國へも東でなく北へ百里向かうと香椎という港を持つ場所にぴったり行き着く。そして、そこからは海路を、ここも南ではない、東である。もちろん、向かう先が現時点から見て東であるということだ。
(注)日本書紀斉明七年三月に「御船還至于娜大津、居于磐瀬行宮。天皇、改此名曰長津」とある。この博多湾に臨む娜大津(那の港)の「娜」こそが「奴国」である。魏志の記述と実際の地理・地名が見事に合致することがわかるだろう
海路と陸路、合わせて約二月で到着する場所はどこか。それは日本書紀を読めば書いてある。景行二十七年十月から十二月の記事には日本武尊が熊襲を討つために大和を出立し、熊襲国に着くのに二か月を要したことを記している。

景行廿七年冬十月丁酉朔己酉、遣日本武尊、令?熊襲。(中略)十二月、到於熊襲國。

気持ちがいいほどすべてがまったく無理もなく収まったわけだ。それらを基に、行路を地図上に置いてみた。これが魏志倭人伝里程問題の答えである。
以上の解釈に身勝手な部分がないことがわかるだろう。間違った場所に無理やり邪馬台国を持っていこうとするとどうしても理解に苦しむ解釈に頼らざるを得ない。倭人伝はヒエログリフではない。解読など必要ないのだ。故にそのまま読むだけでわかるものでなければならない。記述の中で修正を加えたのは方角だけである。それは現実の位置関係に合わせたもので、多くの史家が行うような得手勝手な操作ではない。正しい方法で倭人伝を読めば」、里程問題は上陸後の方位のズレを地理の現状に合わせて正すだけで、このように容易く解決するのである。





[九州説が成り立たない理由(2)]へ続く






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