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古田武彦を偲ぶ:邪馬台国の最終解答 ―<付録:大王と大君>―
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■同一視された大王と大君
大王も大君も、国学では「おおきみ」と読ませ、意味も同じとしている。しかし、その読みが間違いであることは推して知るべし、大君はいいが、大王が「おおきみ」であるはずがない。
万葉集でも、王も大皇もなんでもかんでも「おほきみ」と訓されているが、あまりにも雑な読みである。たとえば次の一首
(例)皇子遊獵路池之時柿本朝臣人麻呂作歌一首
八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 (中略) 春草之 益目頬四寸 吾於富吉美可聞
一般的に、吾大王=わがおほきみ、と読まれるが、柿本人麻呂は一首の中で「おほきみ」については「於富吉美」と別の文字で書き分けていて「だいおう」とは区別している。
次の一首ではもっとはっきりとそれがわかるだろう。
(例)賀陸奥國出金 詔書歌一首
(略) 吾大王乃 毛呂比登乎 伊射奈比多麻比 善事乎 波自米多麻比弖 (中略) 大君尓 麻都呂布物能等 伊比都雅流 許等能都可左曽 梓弓
「だいおう」は大王、「おほきみ」は大君と文字自体も違う。この同じ一首の中で、同じ言葉を違う漢字で表記する意味などあるわけがない。この一首に見られる扱いも、両者がまったく違う意味であることを示しているのだ。
なぜ、「大王」を「おおきみ」と読ませるようになったのか。その原因は「隋書」の次の記事だ。
開皇二十年、?王姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩?彌、遣使詣闕
(?王(わおう)、姓はアメ、字はタリシヒコ(ホコ) オオキミと号す)
隋書東夷傳は誰もが知るあの「阿毎多利思比孤」が記された史書で、魏志倭人伝に次いで有名なものだ。その書は倭王(隋書では「倭」を「?(たい)」の文字で表記)の号を「オオキミ」と紹介している。
この「君(キミ)」というのは、まさに日本の国歌がそうだ。子供の頃から学校で斉唱してきた「君が代」の「君」とはこの「大君」のことである。つまり天皇は古から今の世に於いても「キミ」と称されてされているわけだ。
「大王=オオキミ」という間違った読みも、これまで再三指摘してきた「天皇こそ我が国の唯一無二の王」だとする皇国史観から生まれた考えでしかない。中国史書が伝える倭国歴代の王は、「多利思比孤」が「オオキミ」と号されるまではすべて「王」なのである。卑弥呼も同じく倭の「女王(じょおう)」である。そこに対して、現在まで続く天皇が「君」であり、「多利思比孤」も「オオキミ」だとされてる事実をつなぎ合わせれば、それまでの倭王も当然天皇家の人物であるわけだから、大王は「オオキミ」と呼ぶのかもしれない、恐らくそのように単純に結び付けたのであろう。
しかし、もともと我が国には、昭然たる区分けをもって「王」と「君」は存在しているのである。その例をいくつか挙げてみよう。誰もが耳にしたことのある人物もいるのではないだろうか。
(王)彦坐王、狹穗彦王、譽津別王、小碓王(日本武尊)、氣長宿禰王(神功皇后の父)、男大迹王(継体天皇)、山背大兄王(聖徳太子の子)、等
(君)三輪君、上毛野君、三尾君、石田君、毛津君、守君、伊豫別君、犬上君、大田君、土形君、榛原君、弓月君、酒君、車持君、近江狹々城山君、筑紫君葛子(磐井の子)、筑紫火君、等
特に地域に偏っているわけでなく、どちらも全国様々な地に分布している。強いて分けるならば、「王」はどちらかというと日本海側と中国地方に、「君」は関東、九州、太平洋側というくらいであろうか。その職位も「国(≒現在の県)の長官」を指す場合が多く、それほど両者を画する違いはないのである。
先の神の問題で、天皇が倭国の王に近づいていく中で、同じタイミングで王朝交代が行われていることに気付くであろう。宋書の倭の五王と呼ばれる王朝では、倭王は、讃・珍・済・興・武と名称が中国風の一文字という特徴を持ち、称号は「王」である。その後の隋書の「多利思北孤」とは大違いである。つまりそこにぷっつりと王朝の切れ目があのが一目瞭然なのである。
また「タリシヒコ」というのは、天皇家にもその名を持つ人物がいる。景行天皇の諱名も大足彦忍代別(母・丹波道主命王の娘・日葉酢媛命)である。また、孝昭天皇の子・天足彦国押人命(母・天豊津媛命)などはまるっきり「アメノタリシヒコ」そのままだ。
もちろん、隋書の「アメノタリシヒコ」と天足彦国押人はまったくの別人である。別人であるが同じ家系なのだ。ただ、その当時、「タリシヒコ」、或いは「天姓」の家系は王位からはまだまだ遠い地位にあっただけのことである。それが隋書の時代には代わった。天姓の氏族が倭国の王者となったのである。
そして、隋書にあるように時の最高権力者「阿毎多利思北孤」は「君」という職位を持つ勢力の血筋にあったということである。「王」の勢力が消えたわけではない。力関係が逆転したのである。
それを物語るのが、これも先に挙げた「白村江の主力軍」だ。「連」という倭国の上級階位者で構成された国軍に、守君大石、犬上君、上毛野君稚子、三輪君根麻呂、廬原君という地方勢力の軍が肩を並べて、従軍しているのである。これが当時の倭国の権力構造なのである。
「天」勢力の王朝交代についてはどうだろう。すぐに納得できないかもしれない。我々は天皇家中心の歴史教育に侵されてしまっていて、「天と地」などという格差を示す言葉にあるように、ついつい「天」こそが最高位であるような先入観を持っている。それが染みついた頭には、なかなか「天」は新参者であったという事実は沁み込まないかもしれない。しかし、それが真実である。
次に面白い事実を紹介しよう。もちろん「天姓」以前の王朝とは何であったのか、そのヒントもそこにある。
[重要課題(1)―神から辿る倭国の実像―]へ続く
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