芦田恵之助(あしだ えのすけ)
(1873年1月8日〜1951年12月9日)は、明治から昭和を生きた教育者。兵庫県出身。
16歳で、故郷の竹田村の竹田簡易小学校の授業生という呼び名の教員になって、教職のスタートをきる。
その後1898年、上京して、東京高等師範付属小学校訓導、樋口勘次郎に学び、綴り方教育を提唱。
1902年、郷里に戻り、兵庫県姫路中学校の助教諭にとなり、ここで国語教育の実践を展開していく。
彼(芦田恵之助先生)の立場は、今の言い方でいえば「自由作文」、当時は「随意選題」といった。
これは同時代、ドイツのハンブルグを中心に展開された芸術教育運動の中の作文教育で
提唱されたものとほとんど時を同じくしたものである。
いわゆる芦田教式(七変化(しちへんか)の教式とも呼ばれる)を創始。小学校国語教育に多大な影響を与える。
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*関係書籍は芦田恵之助国語教育全集 全25冊(明治図書)芦田恵之助著「恵雨自伝」(実践人の家刊行)など(臂 繁二注)
森信三全集第25巻 218頁から
同時にそのころの教育界では、芦田恵之助先生の「国語教育易行道」が世に出て、非常に好評だったので、
わたくしも早速一本を求めて拝見したところ、そこに書かれている教育観は、
わたくしにとっては実に体質的な親近があるといってよく、全巻珠玉の好文字なのに驚いて、
ついには一度先生の教壇を拝見したいと考えるようになり、最初に伺ったのが稲荷小学校だったのである。
ところが何分にも天師における授業時間の間を車で往復した上に、多くの人々が取り巻いていたので先生との
ご挨拶もいわば通り一辺のものであった。
然るにその際わたくしのさし上げた「修身教授録」のプリントを後でご覧になられて、
わたくしという人間の一端がお分り頂けたのであろう。
その翌日か翌々日に、わたくしをお訪ね下さるとのことだったので、先生のような老大家には、
わたくしの方からお訪ねすべきものと考えてその旨をお伝えし、当日鴫野校下の父兄の宅ではじめて
先生と対座して、色々と話し合ったのであるが、今はその内容の記憶はない。しかしその後しばらくして、
今度は先生が田辺の拙宅へお出でになられて、「修身教授録」をご令息の公平さんのやっていられる
「同志同行社」で、ゼヒ出させてほしいとのことであったので、わたくしは次のような条件で、
先生のご懇意をお受けすることにしたのである。
その条件とは、(1)印税は一文もいらぬから、(2)その代り全五冊を出して頂きたい、ということであった。
これはその後順調に行ったからよいようなものの、無名の一師範の教師の著書を、
いかに無印税とはいえ、五冊揃えて出してほしいということは、ある意味ではこれほど
非常識なことはないわけであるが、しかしわたくしをしてかような事を言わせたのは、
実は「修身教授録」は、当時すでに自家出版で出すつもりで、大阪で500部、
郷里の愛知県で300部くらいを予想していたからであって、つまりそのやり方によれば、
全五冊を出すことは可能だったからである。しかるに「修身教授録」は、芦田先生のお蔭で、
その後予想以上に読まれて、何でも五冊で十万冊くらいは出たとのことである。
しかし最初の約束通り、わたくしは一文も印税は頂かなかったが、その代りにわたくしは、
それに幾層倍もする無形の印税を頂いたわけであって、それは即ちわたくしのような者が、
全国の心ある教育者とのご縁ができたということであって、それは戦後満洲から引き揚げて
以来現在にも及んでいるわけである。
(森信三全集第25巻 218頁から)