伊藤証信(いとうしょうしん)
 哲学思想家(1876〜1963)  
 伊藤証信は明治9年、三重県員弁郡久米村坂井(現在の桑名市坂井)の農家に生まれる。哲学を共同研究。幼名清九郎。熱心な真宗門徒であった両親の影響を受け、自ら出家し、真宗大谷派円授寺で得度、名を証信と改める。大垣の美濃教校、京都の真宗中学校から真宗大学(現大谷大学)に進み、清沢満之(宗教哲学者。明治21年碧南市の西方寺に入る。)に学ぶ。大学の移転に伴い上京する。明治37年、父親の看病のため久米村に帰ったが、その枕辺で突然霊感に打たれ、「無我の愛」を悟る。
   
 明治38年、証信はこの霊感体験を基に東京巣鴨村大日堂に無我苑を開き、修養運動を始めると同時に、機関誌「無我の愛」を創刊した。同年10月、無我愛運動を進めるために僧籍を返上し真宗大学を退学。この決断は、大きな反響を呼び、徳富蘆花、幸徳秋水、堺利彦、綱島梁川などが賛辞を寄せた。同年12月には、河上肇が学習院の教職を辞して、無我苑に入苑した。しかし、翌年3月証信は「修業未熟」を理由に突然無我苑を閉鎖。無我苑の急速な発展が教団化の道を辿ることを恐れたといわれる。
   
 閉苑後招かれて、山口県の徳山女学校に赴任。その地で竹内あさ子と知り合い、明治42年に結婚。あさ子は証信の運動を支えるとともに、平塚らいてふ、市川房枝、与謝野晶子らと女性の地位向上運動に貢献した。証信は明治43年にあさ子とともに上京し、雑誌「我生活」 を発刊し、翌年論文「大逆事件の啓示」で5日間入獄。大正5年には「中外日報」 主筆に招かれ、京都に移るが、8月には再び東京に戻り、機関誌「精神運動」 を発刊。この間各地を転々としつつ、既成宗教、新興宗教とは一線を画した精神運動、思想活動を追い求める。
  
 大正10年東京中野に「無我苑」を再開。11月には著書「無我愛の真理」、12月には「対話精神生活」を発行した。関東大震災後、西三河の農村青年で結成された竜灯団に招かれて、西端(現在の碧南市)に移り住むこととなり、仮寓を「竜灯窟」 と名付けた。この地で無我愛の思想を学問的に体系づけようとし、仏教に限らずキリスト教、西洋哲学など幅広い読書、研究、思索を続けるとともに、地元農村青年にカントの「純粋理性批判」を翻訳し教授したり、精神主義に基づく思想的影響を与える。この間に著書「哲学入門」「無我愛の哲学」 を発行。証信の著作物の中でもとくに高い評価を受ける。昭和9年西端に全国からの浄財の寄贈により、木造2階建の「無我苑」 が竣工し、居室と集会もできる研修道場となる。戦中、満州に渡り無我愛を伝導し、戦争協力、天皇制賛美の言動が災いし、戦後批判を受ける。晩年は「世界連邦建設」 を目指して活躍。昭和38年証信満87歳で死亡。死後平塚らいてふは「柔軟な魂の 自由宗教者伊藤証信先生とあさ子夫人を永遠に記念する」と墨書した書を贈り、その死を悼んだ。(哲学体験村「無我苑」のホームページから)
 
伊藤証信著「哲学概論」の緒言から
1、本書は著者が昭和3年9がつから同4年6月まで某専門学校に於いて哲学概論の学科目の 下に、毎週2時間づつ口述した講義の原稿を多少整理して出版したものである。
2、従って、著者は本稿を草するに当たっては、勿論これを出版するの意志と用意とを毛頭持た なかったのであるが、講義終了の後、学友森信三氏の切なる勧奨によって、漸く出版の意を 起こすに至ったのである。けれどもいよいよ出版するとなると内容形式共にいろいろ意に満た ない處もあり、書籍の体裁にふさわしからざる所もあって、しばしば躊躇されたが、ついに意を 決して出版を敢行する事となったのである。
3、著者は今より28年前、いわゆる「無我の愛」の自覚に入り、爾来二十余年間東奔西走、その 宣伝とその修行とに没頭してきたが、関東大震災後約1年を経て、終に現在の住所に引きこも り、多年の宿望たる読書生活に専らなるに至ったのである。その読書の目的は、東洋思想の 粋ともいうべき絶対境の体験を、西洋思想の形式を以て、表現して見たいと云うにあるのであ る。本書の内容は、固よりなお甚だ大略であり、かつ不完全極まるものであるけれども、上の 如き著者の目標の一端は、おのずからそこに現れていると思う。著者は齢すでに老境におよ んでいるけれども、今後なお天寿の許す限り孜々(しし)勉強し、他日の功を期したい思ってい る。是れ本書に「入門」の名ある一つの理由である。
4、現代の我が国諸先輩中、哲学の研究を以てその職とするの士、固より少なからずと雖も、東 洋思想の真髄を的確に把握しつつ、而も西洋哲学の營養を飽くまで吸収しようとして、?々(こ つこつ)努力している点において、わが西博士の右に出づる者は多く見あたらない。是れ著者 が特に博士に就いて本稿の一覧を乞い、且つ序文の執筆を願った所以である。
5、森信三氏は目下著者の読書の唯一の師友である。著者は過ぎる満二年間毎週一回京都に 上り、全三日間同氏の宅に通い、西洋哲学書および仏書の輪読を続けてもらった。なお今後 も事情のゆるすかぎり、この事を継続してもらいたいと思っている。本稿の整理に就いても、叉 出版事務に関しても、種々手厚い助力をもらった。
6、なお著者の読書生活の開始および持続については、直接間接に幾多の師友から多大の援 助を蒙っているがこの機会において厚く感謝の意を表するとともに、あわせて今後の庇護を懇 願する。なお著者の如き無名の一学究の、而も本書の如き内容の著書の出版を快諾せられ たる書店の義侠心に対してこれまた篤く感謝の意を表する。
       昭和6年        三河、西端、無我庵にて    著者
          
 
【注】この「哲学入門」を森信三先生は天王寺師範の専攻科・女子師範の学生に紹介し、かつ授業の副テキストとした。(臂 繁二)