金原省吾(きんばら せいご)
1888(明治21)〜1958(昭和33)
 金原省吾氏は、武蔵野美術大学の前身・帝国美術学校の創立者の一人である。明治二十一年九月一日、長野県諏訪郡湖東村の河西家に生まれ、大正元年、島木赤彦の媒酌によって、長野県安曇郡大町の金原よしをと結婚して金原姓を名乗った。長野県師範学校、早稲田大学に学び、昭和三十年、『絵画に於ける線の研究』によって、早稲田大学より文学博士の学位を受けた。金原氏は、武蔵野美術大学の教授・教務主任として、教育経営に心血を傾注し、多くの俊秀を世に送り出した。(如儡子の「百人一首」注釈
――武蔵野美術大学美術資料図書館所蔵『砕玉抄』(序説)――深沢秋男から)
 
 長野県生まれ。大正六年早稲田大学文学部哲学科卒。帝国美術大学教授、武蔵野美術大学の前身。東洋美術の泰斗。島木赤彦の弟子。建国大学の森信三先生に招聘され建国大学講師となる。
 主な著書に「美の生活(生活科学新書)」「美の構造(青磁社)」「東洋美術論(大日本雄弁会講談社)」「赤彦先生と金原省吾(古今)書院」「美術の記(青磁社)など多数。(以上ある著書の紹介から)
 
 わたくしの眼に映じた東京人に共通的なものは、如何なるものであったかというに、それは端的にいえば、東京の人々は「自分が首都にいることを以て、地方にいる人々より半段か一段エライと考えているらしい」ということであって、こうした考え方は現在といえども、一部の例外的な人を除いては、何ら変ってはいないと思うのである。ところが、半年の東京生活においてわたくしは、このような偏見を脱した二人の人に接したのであって、その一人は他ならぬ東洋美学の最高権威の金原省吾氏だったのである。
 そもそもわたくしが金原さんの名を知ったのは、すでに京都時代からであって、その卓抜な見識に対しては深く推服していたが、そのうちに、天王寺師範で教えた故二階堂顕蔵君が、当時金原さんの経営していられた武蔵野美術学校に入学して、わたくしの上京する年の夏休に帰ってきて、わたくしを訪ねたので、色々と学校のようすを聞いて、「誰か特色のある先生はいないかね」といった処、それなら金原省吾という先生に教わっているというので、「ソリャ君大した人に教わっているんだね。その人は東洋美学としては、現在わが国における唯一の学者で、大学などにいる学者とは段が違うんだ」といったものである。同時にこうしたことからして、わたくしはその秋上京すると、すぐに二階堂君の案内で金原さんを訪ねたところ、言下に「二階堂君の話によると『哲学叙説』がお出来のようですが、それなら出版のお世話を致しましょう。人間は原稿のままで持っていると、いつまでもそれに執着が残って、一種の便秘状態になり、次のものの生まれるのを妨げますから、出版するに限るんですよ」ということであった。氏のような方が、無名の一師範の教師の書いたものを、しかも原稿さえも見ないで先方から、「お世話しましょう」といわれた知遇は、終生わたくしの忘れえないことであろう。
 氏はその後夫妻でわたくしの処で、二泊されたこともあり、やがてわたくしが満洲の建国大学に赴任するや、作田荘一先生のご了解をえて、建国大学の講師に推し、さらに敗戦による帰国後も、氏を訪ねたこともあるが、さらに氏の没後、信州の諏訪山浦の生家を訪ねて、故人を偲んだのである。(「森信三全集第25巻」206頁から)