西晋一郎(にし しんいちろう)
        1873〜1943
 明治6年(1873年)広島高等師範学校教授。広島文理科大学名誉教授。鳥取県出身。明治32年東大哲学科卒。広島高師ならびに広島文理科大学教授となり在職38年。西哲学として文字通り東の西田幾多郎、西の西晋一郎と言われ日本哲学学会をリードした。主なる著書には「実践哲学概論」「東洋倫理」「国民道徳講話」「天の道人の道」「教育勅語衍義」「東洋道徳研究」「我が国の道」「忠孝論」など多数。昭和18年(1943年)没。享年71才。東洋的精神と西洋的知性の会合を世界的深底の場で成就することを課題として西田哲学と並ぶ高峰と称された。丸山敏夫先生、森信三先生の共通の師匠。初代中江藤樹「藤樹会」会長。教育勅語の作成にも関わった。
西晋一郎先生
 わたくしが福島先生の講義をお聴きしたのは、高等師範の二年と三年のニケ年にわたったが、西晋一郎先生のご講義を伺ったのは、三年と四年のニケ年であった。しかしそれ以前にも、否入学後間もない頃からわたくしは、先輩の人々から西先生のお偉いことを聞かされていたが、今もいうように、先生のご講義は一年二年の間はなかったのである。
 しかしご講義を聴くようになる以前に、わたくしは二度ほど先生の聲咳に接した記憶がある。もちろん先生の風貌については、「あれが有名な西先生だよ」といって、上級生から聞かされていたからよく知っていたし、また当時図書館長を兼ねていられたので、図書館の側を通るごとに、館長室で書物を読んでいられる先生の哲人的な風貌を眺めては、心ひそかに深い尊敬の念を抱いていたものである。 そしてもう一つは、その頃先生のお宅は浅野侯の名園の「泉邸」に近い静かな街角にあって、草屋根で隅に梅の老木があって、それが道を通ってもよく見えて、如何にも哲人の住いに応わしいという感がしたものである。
   (「森信三全集第25巻150頁から)
 
 西先生の御講義
 さて三年生になってわたくしは、初めて西先生の倫理学の講義を拝聴することになったが、かなり程度の高いものである為に、当時のわたくしには、その深意は十分には分らなかったというのが正直な処である。
 内容としては、三年生では「倫理哲学講話」の内容に近いものであったが、当時のわたくしは、まだパトス的なものに心を奪われていた為に、どうも西先生のご講義の深意を理解することができなかったわけである。
 また四年生になってからは、国民道徳のご講義であって、この方はたしか水戸の学者会沢正志斉の「新論」のご講義だったと思うが、当時福島先生のペスタロッチー運動に心を引かれていたわたくしには、国民道徳に対しても、さまでの興味は湧かなかったのである。 だが不思議なことに、わたくしより一年上級の友人で、西先生の講義は実におリッパだといって先生に心酔し、有志とお宅で輪読会までして頂いていた友人があったが、後にその友人は東北大学の倫理学に入るや、西先生とはスッカリ違った西洋風の倫理学に鞍替えして、教育者としてはとにかく、学者として
は西先生の思想とは、全然無縁の人となってしまったのである。然るにわたくしの方は、広島高師在学中は、先生の深邃な思想はついに理解しえないで、大学へ行って初めて多少先生が分り出したという遅鈍さであった。
 しかし大学在学中は、西田先生を主とし西先生を従として研究していたが、大学を卒業してから丸三年間、西田先生と西先生の処女作を、平等に半々ずつテキストに使ってみて、三年後になって、少なくとも国民教育に従事する者には、西先生の思想のほうが応わしいと考えるようになったのであって、西先生を知るのに如何に多くの歳月を要したか、われながら驚くほどである。(「森信三全集第25巻152頁から)
 
 (前略)森信三先生が始めて西晋一郎先生のお名前を知ったのは、愛知師範の四年生の頃だった。その後広島高師に入学と同時にいろいろなところから西先生のことを伺っていた。しかし西先生以前に福島先生に学ぶや福島先生に没頭し、西先生の処女作「倫理哲学講話」等は購入しつつも少し読んだだけで、難しさのあまり読了しなかったばかりか、高師三年・四年の二年間も西先生に学びながら、さらに広島に四年間も居ながら一度も西先生のお宅を伺うことはなかった。(中略)
 
 然らばそのやうに愚かだつた私が、そもそも如何なる動機によつて先生のお偉さに目覚めるに至つたかと申しますと、それはひとへに私がその後京都大学の哲学科に学んだお蔭であります。それ故もし私が京都大学に学ばなかつたとしたならば、或は終生先生の眞のお偉さに目覚めなかったかも知れません。否恐らくはそれに相違あるまいと思ふのであります。かく考へて参りますと、私が京都大学によつて与へられた所も又実に大なるものありと申さねばなりません。さてそれでは大学に入つてどうして先生のお偉さに目覚めたかと申しますと、勿論以前から西先生は京都の西田幾多郎博士と共に日本の持つ二大哲学者であるといふ事はしばしば耳にしてゐたことであります。
 しかも凡人の悲しさには、やはり大学へ行けば学校の格式が一段上だけに色々偉い先生方が居られるかに考へ入つたのでありますが、さていよいよ入つてみますと、西晋一郎先生ほどのお方は二十人に近い教授中唯一人西田先生みるのみでありまして、その他の方々はかう申すのは如何かと思ひますが、西先生に比べますと何れも見劣りのする方々ばかりでした。特に先生御専攻の倫理学担当の方の講義などは、西先生のお話をお聞きして來た耳には誠に聞ぎづらいものでした。
 ここに至つて流石の私も初めて愕然として心の芽が開けかけたのであります。あれ程お偉い方に学びながら、只漠然と大学にゆきさへすればそれ以上の方々にでも学び得るかに思つて、さ迷うて来た自分の愚さに初めて気付き出したのであります。と申すのは当時高等師範には二ケ年の専攻科といふものが設けられまして、そこに入りさへすれば引き続いて西先生に学ぶ事も出來たのに、私はわざわざそこを去つて京都に学んだのでありますから私の慨塊の念は一入深刻なるものがあったのであります。私をしてこの念ひを更に一層深からしめたものは、大学一年の終り頃先生の力作「倫理学の根本問題」が世に出たことであります。私はこの本を店頭に見出すや直ちに一本を求めて馳せ帰って一気に貪るやうに読んだのであります。さうして初めて先生のお偉さの程が分りかけたのであります。総じて人間、特に思想家の眞の偉さを知るには、どうしてもその方の全著作物を読破しなければなりません。その方の書物すら未だ十分に読まずして「あの人は偉い」などと言うてみたところで、それは浅薄な主観的感情の域を脱するものではありません。否その方のお偉さを眞に知るためには、ひとりその全著述を読破するのみならす、更に進んでその方の行ぜられるが如くに我身も行うてみるでなくてはなりますまい。さればその方の全著作を読むといふことは、わづかにその出発点にすぎないのであります。
 然しながら在学中の私は、西先生と西田先生とその何れの道に從ふべきか、まだ本当の腰が決まらなかつたのであります。そこで大学を卒業すると同時に初めて設けられた本校の専攻科に御縁が出來たのを幸ひ、初めの三年間は西、西田両先生の御書物を平等に二時間づつ並べ用ひたのであります。然るにかくすること三年の後、私は我国の国民教育者の根本信念を培ふ哲学としては、どうしても西先生によるの外ないことに、漸くにして心の腰がすわつたのであります。かくして自分の生涯をかけて先生の足跡を辿るべく初めて心からの決心がついたのであります。顧みれば広島で初めて先生に学んでから、この決心に至る迄には、まさに十年に近い歳月を彷徨して來たわけでありまして、諸君はこの一事によつても、私といふ人間が如何に鈍根であり手間のかかる人間かといふことが多少はお分りになつたことでせう。実際われながらあきれかへるほどであります。勿論京都大学を出ながら、一世を風靡する大学的な学風から離れるといふことは、いはゆる
現世的な功利打算から申せば甚だ拙劣な道であります。私が大学卒業後ここに十三年、常に学問への希求の念ひを懐きつつ、遂に今日まで学問をするに適した位置の恵まれないのも、多少はこの点に基因するところがあるかも知れません。而も学問の道は私にとつて実に生命そのものの道であります。随つてこの生命の道の前には、現世的功利もつひにこれを捨てざるを得なかつたのであります。私が人生の歩みに於て些かでも自ら立つことの出來ましたのは、全くこの決心覚悟が決つてからのことでありまして、之を年齢の上かち申せば、正に三十五歳前後のことであります。爾來私は、それまであれこれとのぞいて來た西洋哲学史上のさまざまの思想家の世界から一時身をひいて、先づこの現代に生き、しかも自己にとつて因縁浅からざる一人の思想的偉人の世界を躬を以て探らうと決意を固めたのであります。爾來今日まで十年に浜い歳月を、私は全くこの一筋の道を歩み來ったと申してよいのであります。
 以上は西先生の事をお話しようと思ひつつ結局どうして私が先生を生涯の師と仰ぐに到ったかといふことを申すことで尽きたやうであります。そこで残された問題としては、先生が学者として思想家として、現在のわが国に於て如何なる位置を占められる方であるかといふ事、この事は、更に突きつめれば、結局先生はわが国の思想史上に於て如何なる位置を占められるお方であるかといふ處までゆかねばならないでせう。しかし斯様な大問題に就いては、ここでその詳細を申す
事は到底出來るごとではありません。併し諸君の將來を思うてその結論だけを申すならば、先生は我が国現代のもつ最高の国宝的学者であつて、わが国の明治維新前までに発達した学問の伝統は、先生に於て最も本格的に継承せられつつあるのであります。恐らく先生ほどに卓れた御素質の方は、これを古人の中に求めて中江藤樹先生以外に容易にその比を見出しがたいでありましょう。(後略)
  (「修身教授録」第三巻 同志同行社刊 昭和十八年発行から)