作田壮一(さくたそういち)
 建国大学の初代の副総長が作田荘一先生だったことは、今日顧みてもひじょうにご適任だったと思うのである。実際建国大学は、日本各地から、いずれもひと癖もふた癖もある人々を選りすぐって集めていたので、もし副総長が作田先生でなかったとしたら、あの大学をまとめてゆくことは、とうてい不可能だったと思うのである。
 それというのも先生は、いわゆる学界的には不遇なほうで、五十才近くまで山口の高商にいられ、京都大学へ転じられてからも、当座は助教授だったようである。しかし先生の学問はひじょうに独創的であって、その主著「自然経済と意志経済」は、先生にとっては処女作であると同時に、学位論文だったという一事によっても、先生が世の常の学者でなかったことは分るはずである。この書は明治以後、わが国の経済学者の手に成った書物の中では、唯一の独創的な書物といってよいであろう。このように先生は、専門の学問的領域においても、実に超特級の学者でいられたが、永年にわたって学問と人生とを、相即しつつ歩んでこられた方で、そうした柔軟でしかも強靱な先生のような方でなければ、あの一癖も二癖もあった当時の建大の教職員を統率してゆくことは不可能でだったことであろう。実さい当時の建国大学では、教授よりもむしろ助教授内に侃々諤々の士が多く、さらにはそれよりも若い講師や、助手級の人々の中にも、仲々の論客があり、否それどころか、後にも述べるように、塾頭はそれぞれ塾にぐろを捲いてうそぶいており、否それのみか事務系統の人々の中にさえ、仲々の論客がいたほどである。それゆえ作田先生のような、「柔軟にして強靱」な方でなければ、とうてい治まらなかったわけである。(「森信三全集第25巻」228頁から)
 
(森信三全集続編八巻 540頁から)
副総長作田先生
 さて先にも述べましたように、建国大学の初代の副総長は作田荘一先生でした。作田先生は、山口高等商業学校教授として十一年、そして京都大学経済学部に十六年停年まで勤められた方で、その内の始めの八年間は助教授としてでした。のち文部省の精神文化研究所々員を兼務せられ、終わりの頃には西・筧・平泉先生と共に建国大学の創立に関係せられ、副総長に就任せられました。(総長は官制により総理大臣が兼任することになっており、時の総理大臣張景恵氏でした。この方は稀に見る長者の風格を持った政治家であり、儀式に臨席する外は挙げて副総長に一任しておられた)
 当時の建国大学では、教授よりも助教授内に侃侃諤々の士が多く、また事務職員の中にもなかなかの論客があって、自由に意見を述べる気風がありました。これは一つに、副総長の柔軟なお考えから発するところですが、その反面、一貫した建学精神に徹する強靱なものもお持ちでした。作田先生のようにこの柔軟にして強靱な方でなければ、とうてい治まらなかったといえることです。