斯道会(しどうかい)の設立
      1933年(昭和八年)
 半歳にわたる東京生活は、わたくしに対してこのように、真の自立への促進剤としてはなはだ有効に作用したといえるが、同時にそれは単に思想とか学問の面においてだけでなく、さらに現実的側面においても、一種の展開運動を開始したのである。
 即ちそれまでのわたくしは、週一回、平野の大念仏寺に一泊するのを機会(文莫会)として、ほんの十名前後の同志と共に、主として儒仏の二教を、その道の隠れた碩学について学ぶことにしていたのであるが、今や起って広く同志同憂の士に訴える必要を痛感するに至ったのである。
 そしてそれには、これまでほんの文莫会を発展的に解消して、広く大阪府下の教育界に呼びかけることにしたのであって、これ即ち斯道会の設立に外ならない。そしてそれには、もちろん中心はわたくしが成ったが、しかし幹部としては山本正雄君や端山護君などを始めとして、さし当っては旧文莫会(ぶんばくかい)の会員諸氏が幹部というわけで、このような斯道会の創立趣意書を「教育タイムス」誌上に公告して、広く府下の教育界に訴えたのである。同時に同会としては(1)月例の読書会の他に(2)夏冬の休暇に研習会を公開して、冬休みの方はわたくし一人であったが、夏休みの会には西晋一郎先生と福島政雄先生をお招きして、終始講師の変更をしなかったのである。
 ところがこれら二人の先生が、共に広島高師の先生だった為に、東京高師系の一部の人々からは、これを広島高師系の勢力拡張運動視して、中心の責任者たる山本正雄君に対して、市の教育課の一部からは、多少圧迫が加えられたということであったが、とにかくこの斯道会の運動は、その後わたくしの渡満以後もつづけられて、戦局が苛烈になるまで十数年間継続し、大阪府下の教育界に対して、多少の貢献となったかと思うのである。
 (「森信三全集第25巻」 213頁から)
 
斯道会
 かくして、半年にわたる東京生活は、先生の真の学問の自立への促進剤として、はなはだ有効に作用したといえますが、一方、現実的側面におかれても、一種の展開運動を開始せられました。昭和六年の「哲学叙説」の執筆を機縁に、文莫会が中断せられていましたが、昭和八年「文莫会」を発展的に解消して、名を「斯道会」と改め、広く大阪府下の教育会に呼びかけることになりました。さし当たっては旧文莫会の会員諸氏が幹部となり、斯道会の創立趣意書を「教育タイムス」誌上に発表し、(1)月例の読書会の他に、(2)夏冬の休暇に研修会の開催を公示せられました。講師としては、冬季は森先生お一人でしたが、夏休みには、決まって西晋一郎先生と福島政雄先生をお招きし、終始一貫せられました。 この斯道会の運動は、先生の渡満後も続けられ、戦局が苛烈になるまで十数年間も継続され、大阪府下の教育界に対して、大いに貢献せられたものと言えます。
 なお冬の会の講本として、「石田先生事蹟」「二宮翁夜話」の他に、「葉隠抄」「教育者としての乃木大将言行録」等を講読せられたのでした。(森信三全集続八巻534頁)