柳田国男(やなぎだ くにお)(1875-1962)
 明治8年(1875)7月31日、「遠野物語」で知られる民俗学者の柳田国男が兵庫県田原村辻川に医者の息子として生まれました。
 
最初文学に志し、詩集を作ったり短歌の投稿をしたりして、森鴎外・田山花袋・尾崎紅葉らと交流します。やがて東京帝大の政治科卒業後、農商務省に勤務、仕事もあって岡山県北部・北海道・樺太などを歩きますが、文学活動はずっと続けていました。
 
そして明治41年。この年が柳田にとって大きな転換の年となります。この年の夏、九州・四国を旅行したのですが、このときに宮崎県の秘境・椎葉村に一週間ほど滞在、村長の中瀬淳氏から古い伝承を聞き、こういう世界に興味を持ちます。
 
そしてその年11月4日柳田氏の自宅を岩手県遠野出身の文学青年・佐々木喜善が訪問しました。佐々木は第一線の作家たちと親しい柳田に好奇心をもっての訪問であったとも言われますが、佐々木が郷里で聞き知っていた昔話に柳田は強い関心を寄せます。
 
そして翌年夏遠野を訪問、その翌年明治43年に「遠野物語」の初版が出ました。この物語集はもっぱら柳田が佐々木や彼の協力者たちが集めてくれた話を整理したものです。最初の版が出てから大きな反響があり、結果的にこの時点から柳田は農政学者から民俗学者に移行することになる訳ですが、続編を作ろうと原稿を整理している最中に佐々木が待ちきれなくなって「聴耳草子」を出してしまったため、拍子抜けして作業が中断してしまう一幕もありましたが、結局昭和10年に有志の人たちによって実現しました。この辺りの
事情は折口信夫が書いた後記に記載されています。
 
遠野物語を読んだことのない方のために、その中のエピソードを少し口語訳の上引用しましょう。 
 男が山奥に入り泊りがけできのこを取っていた。夜山小屋で寝ていたら遠 くで女の悲鳴が聞こえた。里へ帰ってみたら妹が息子に殺されていた。
 
 カッコウとホトトギスは昔人間の姉妹だった。ある時芋を掘って焼いて姉は自分が外側の硬い部分をとって妹に真ん中の柔らかい部分を与えた。ところが妹は姉が取った部分の方がおいしいのではないかと思って姉を刺し殺してしまった。姉は鳥に変化して「ガンコ(硬い所)、ガンコ」と鳴いて飛び去った。妹は姉が自分にいい所を食べさせようとしたのだということに気づき、後悔して鳥に変じ「包丁かけた、包丁かけた」と鳴いて飛び去った。
 
 雉小屋にキツネが入ってきて雉を追うので鉄砲を向けて追い払おうとした。
 ところがキツネはなぜか涼しげな顔をしてこちらを見ている。そこでキツネに向けて一発打とうとしたが玉が出なかった。そこで銃を確かめてみたら、いつのまにか銃口にどっさり土が詰めてあった。
 
この遠野物語をまとめた後、柳田は朝日新聞の論説委員や国連や貴族院の仕事をするかたわら、昔話研究の会や方言研究の会、民俗学研究の会などを設立、全国の昔話を収集したり、各地で民俗学の講座を開いたりします。結果的には彼が日本の民俗学の創始者の栄誉を受けることになりました。 
昭和37年8月8日、心臓衰弱のため87歳で死去。
 
関連資料 森信三全集第23巻(臂 繁二)