メルヘン学こぼれ話 V.

Some Topics of the Study for Folk- and Fairytales No.3 



★高山の昔話「味噌買い橋」のルーツはイギリスにあった!
    日本の昔話   「味噌買い橋」



  味噌買い橋にまつわる昔話は、高山の小学校の先生がイギリスの民話「スウォファムの行商人」を参考にして、書き換えたものだったのです。 それにしても、あまりにも日本らしい話になっていたので、あの柳田國男先生さえ、それに気づかなかったようです。 
高山の味噌買い橋 
撮影:竹原威滋
小林幹氏所蔵『世界童話大系』 
撮影:伊藤浩子氏(高山在住)
Copyright (c) TAKEHARA Takeshige, 1993   
不許複製・閲覧のみ可  竹原威滋 (c) 1993   



  「英国のグリム」とも呼ばれるジェイコブスの『イギリス民話集続編』 (1894年)の中に 「スウォファムの行商人」という次のような話があります。――

  ノーフォーク州のスウォファムに住む貧しい行商人が、ロンドン橋に行けば、 よい知らせを聞くだろうという夢を見ました。早速出かけて三日目に、近くの店の主人が話しかけるので、 わけを話すと、店の主人は 「わしもスウォファムに住むある行商人の裏庭の樫の木の下に宝があるとい う夢を見たが、それを信じるほど馬鹿ではない」 と話しました。行商人はすぐ自分の家にもどり、言われたとおり の場所に財宝を見つけました。金持ちになった男は、その後スウォファムの教会を再建しました。

  ところで、柳田國男が1939(昭和14)年、『民間伝承』第4巻において、これとよく似た話が日本にも 伝承されていると指摘して以来、この話が日欧共通の典型的な話として注目されるようになりました。柳田は、 澤田四郎作が同年発行した『續飛騨採訪日誌』所収の話「味噌買橋」を挙げています。だいたい、こんな話です。――

  ――むかし、丹生川村の澤上(そうれ)に住む長吉という正直な炭焼きが夢を見ました。「高山の味噌買橋に行 けば、よいごとがある」という夢で、早速出かけて行って、橋の上に何日も立っていると、ようやく五日目になって、 橋のたもとの豆腐屋の親爺が不思議に思って、「なぜ毎日橋の上に立っているのか」と尋ねました。長吉の答えを 聴いた豆腐屋は大いに笑い、「夢をまに受けるとはおろかなことだ。わしはこの間から乗鞍の麓の澤上の長吉の 屋敷の杉の樹の下に、金銀が埋まっているという夢を見るけれども、夢だと思うから気にも止めない」と言いました。 長吉はそれを聴いて急いで帰り、我が家の杉の根を掘って、金銀を掘り当て、たちまち大金持ちになりました。

  柳田は日英の話を紹介したあと、「問題は、だれがいかなる方法で運んで、この地球の両端ともいってよ い二つの国に、共通の昔話を分布せしめたかということである」と述べています。
  柳田はさらに西讃岐の類話を挙げて、「飛騨のものと全く同じである。古くからのものとは多分言えまい が、仮に説教僧などが珍重してもちあるいたとしても、彼らは西洋の書物から学んだ気づかいは無い。 どこかに隠れてもとの種子はあったのである」と断言しています。
  日英の話があまりにも似ているので、柳田の説に疑問を持った私は、ある学会の折に、「語り手たちの会」 を主宰する櫻井美紀氏とこの問題について話したところ、そのルーツを調べてみようということで意気投合しました。 私はヨーロッパの話を、櫻井氏は日本の話を担当しました。
  早速、文献に当たってみると、驚くなかれ、ドイツだけでも、レーゲンスブルクのドナウ川に架かる「石の橋」 (1147年竣工)、コブレンツのモーゼル橋、フランクフルトのマイン橋、マインツのライン橋など、26ヶ所、51話を 見つけることができました。そのほか、チェコのプラハのモルダウ川に架かる力ール橋、オランダのアムステルダム の新橋、オーストリアのザルツブルクのザルツァハ橋、スイスのバーゼルのライン橋など枚挙に暇がありません。
  グリム兄弟もこの話を『ドイツ伝説集』(邦訳は人文書院刊)に「橋の上の宝の夢」として1548年発行の 『ドイツ諺750選』より採り入れています。また、英国のジェイコブスの話はプライムの記した日記の1699年11月10日の 記録に基づいていることが分かりました。
  一方、日本の話ですが、味噌買橋のほか、京の五条の橋、江戸の日本橋にまつわる話など約40話が 見つかりました。さて、日本最古の資料、澤田の「味噌買橋」のルーツは?――
  櫻井氏による現地の聞き取り調査によると、岐阜県高山市の小学校教員であった小林幹が 『世界童話大系』第七巻に収められた松村武雄訳の「スウォファムの行商人」を参考にして、児童たちに話すため、 地元の橋をめぐる話に書き換えたことが明らかになりました。あまりにも上手な翻案作品だったので、あの柳田國男 でさえまんまと騙されたのです。また、小林先生も当時柳田の説が公表された手前、真相を言いそびれたのが実情 のようです。(1993年11月12日付『奈良新聞』文化欄より)





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