12世紀の小松寺縁起に登場

 田原地区は倭名抄には登場しない郷邑であって、その郷名としての初見は
「保延5年(1139)、久安元年(1146)の小松寺奉加帳」に
「田原西郷、田原東郷」と記されるのを最初とする。

 この四條畷カントリークラブに建立されていた古寺院小松寺への
寄附諸郷名より見ると800年前の昔には、田原郷は大和国と、
河内国に両分されていたかの如くに考えられる。

江戸期の河内志には、上田原、下田原を河内国の項に説明し、
そして、南田原、北田原については「倶に今は和州添下郡に属す」と記して、
昔時は南・北田原も含め、河内に属したかのような書き方をしている。

併し、当田原が国、郡制の大化改新期より河内、大和の何れに所属したかの
史料は全く欠除して、何れとも断定しがたい。

現在田原地区水田を東西に二分する天の川上流が現在のとおりに
地区中央部を縦断していたとの確証も存在しないが西郷、東郷と記されている
ことからも現地点を流れていたと考えて間違いない。
この天の川を利した田原水田が開発され住民人口が増加して、
国、郡、郷制の郷邑として成立するのは10〜11世紀頃でないかと考えられる。

<四條畷市史より>


南遊紀行  貝原益軒 (元禄2年)

 岩舟より入て、おくの谷中七八町東に行ば、谷の内頗広し。其中に天川ながる。
其里を田原と云。川の東を東田原と云、大和国也。川の西を西田原と云、
河内国也。

一澗の中にて両国にわかれ、川と境とし名を同くす。此谷水南より北にながれ、
又西に転じて、岩舟に出、ひきき所にながれ、天川となる。
凡田原と云所、此外に多し。

宇治の南にも、奈良の東にもあり。皆山間の幽谷の中なる里なり。
此田原も、其入口は岩舟のせばき山澗を過て、其おくは頗ひろき谷也。
恰陶淵明が桃花源記にかけるがごとし。
是れより大和歌姫の方に近し。

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