
昭和30年代
京都伏見深草深草中学校
1.中学の理科は難しかった
私が中学に入って驚いたのは、理科に計算が入ってきたことであった。それまで理科は工作の時間と思っていたからショックだった。
2.どこの中学にも「ナンバーワン」と呼ばれる不良がいた
よくとなりの中学から「おまえとこのナンバーワンはどいつや」と来たものだった。昔の不良は必ずリーダーがいて子分をひきつれるという古典的なスタイルだった。
3.英語は定番の「ジスイズアペン」からだった
英語は、ジスイズアペンからだった。まず大文字と小文字を覚えるのが大変だった上に、筆記体を覚えるのは大変だった。
4.中学は委員の種類がとても多かった
小学校は学級委員だけだったのに、中学では、体育委員、文化委員、風紀委員、保健委員など種類が多かった。
5.体育は男女別になった
中学ではじめて体育が男女別になった。その分指導は厳しくなった。私は女子と一緒の方がよかった。
6.においのする消しゴムがはやった
この消しゴムで消すとフルーツのにおいがする。女子がよく使っていたと思うが、男子も使っていたかな。私も使ったことがある。
7.中学のテストは勉強して受けるものだった
一年の中間テストの前日のことである。小学校では試験は適当にやってればよかったから遊んでいた。そしたら親からえらく怒られて、中学のテストとは勉強して受けるものだとわかった。
8.中学生であることを自覚したのは万年筆を持ったときだった
中一のときに万年筆をもって学校で自慢した。この万年筆でサインの練習をした。
9.男女ペアで委員になると妙に意識した
各委員は男女ペアで決まる。私は文化委員になったが、当然もう一人は女子である。女子とペアになったということで、そのことを妙に意識した。
10.木造校舎と鉄筋校舎が半々だった
私の通った深草中学は、木造校舎が二棟で鉄筋校舎が一棟だった。今思うと時代の変わり目だった
11.東京オリンピック中の体育は、テレビ観戦だった
二年のときに東京オリンピックがあった。体育の時間には、テレビのある部屋でテレビ観戦をした。粋な先生だった。
12.委員会では先生の発言が一番長かった
文化委員や保健委員をやったことがある。月に一回、全学年のそろう委員会がある。話し合いをしなさいと先生は言ったが、へんな意見が出ると延々としゃべってその意見をつぶすし、意見が出ないならでないで延々としゃべる。結局先生の独演会だった。
D先生、お疲れさま。
13.クラスで大切な話し合いをすると、全男子対全女子になることがあった
あるときは、男子の方が人数が多いので勝てると思ったが、多数決で負けた。最近聞いたら男子に棄権が多かったんだと。そこまで読まなかったなあ。
14.修学旅行は、専用列車「きぼう号」で東京に行った
「きぼう号」の名の由来は、京都の四条中学の生徒の応募で決まったのである。私たちもこれに乗ってゴトンゴトンと揺られて河口湖まで行って泊まった。行きも帰りも夜行だから疲れたなあ。
15.三年間弁当だった
深草中学では給食はなかった。というより、当時は給食のない中学が普通だった。
16.ブック弁当が流行った
ドカベンは皆無で、男子も女子も薄い弁当箱だった。これをブック弁当と呼んだ。
17.カバンに弁当箱をいれると片側に寄っていた
弁当箱は新聞紙で包んでたてにしてカバンに入れるから、汁はこぼれるしごはんやおかずが片側に寄っていた。教科書は汁で汚れるのが普通だった。
18.となりが聖母女学院だった
グランドでボール遊びをしているとときどきとなりの聖母女学院のグランドに入った。そういう時はへいに登って、女の子に「おーい、ボールとってくれ−」と声をかけたものだ。親切に投げて返してくれた。垣間見た聖母女学院は不思議な世界だった。
19.「ねころん」という遊びが流行った
二手に分かれて相手をタッチすればアウトという遊びだったと思う。逃げる前には「ねころん」と言わねばならなかった。
20.授業中にラジオで日本シリーズを聞かせてくれた先生がいた
社会の先生がラジオで日本シリーズを聞かせてくれた記憶がある。今ならマスコミの餌食だ。しかしあれはどういうことだったのだろう。
21.男子は詰め襟だったのに女子は私服だった
この中学はもともとが全員私服である。ただ、男子は着ていくための適当な服がなく、詰め襟が一番妥当だった。体育のある日は、白いトレパンで登校した。
22.三年の時は毎月一回、北大路テストという模擬テストを授業中に受けさせられた
このテストは当然席次も出る。先生たちは、このテストで進路指導をしていた。
23.就職のための適性検査も受けさせられた
中学出てすぐに就職する者もクラスに数名くらいはいた。だから、クラス全員、クレペリン検査や知能テストのような職業適性検査を受けさせられた。
24.中学にもマドンナがいた
私はふたつの宇宙を経験している。ひとつは砂川小学校である。砂川のマドンナはKさんであったと思う。Kさんは才色兼備でオーラがあった。
そして、中一の前に引っ越しをして全く新しい地域にやってきた。そして深草中学に入学した。砂川小学校とは全く別の世界である。この中学にもマドンナがいた。才色兼備で誰もが一目おく存在であった。
25.体育のマラソンはあまりに遅いので先生が迎えに来た
体育のマラソンは学校を出て地域を何周か走るのだが、私はダントツに遅かったから、先生が迎えに来た。私が着替えて教室に行くと、次の授業が始まって10分くらい過ぎているのが普通だった。
26.音楽の先生がビートルズよりうるさい音楽を聴かせてくれた
ビートルズが流行ったが、あのやかましい音楽は学校教育の敵であった。ビートルズを聞く者は完璧な不良という時代だった。そのとき、音楽の先生が「もっとうるさいのを聞かせてやる」といって「剣の舞」を聞かせてくれた。こんなうるさい音楽があるのかと驚いた。
27.ラブレターはどうしても投函できなかった
三年のとき、好きな子ができた。相当思い詰めて、ハガキにラブレターを書いた。朝見ると少し書きすぎかなと思ったが、指先にハガキをはさんでポストに手を入れた。ここから1分ほど迷った。どうしても指から落とすことはできなかった。かくして幻のラブレターになった。
28.テストは必ず訂正があった
定期テストの時は担当の先生がまわってきて、必ず問題の訂正を言いに来た。ひどいときは、何か所もあって訂正するだけで疲れた。自分が教師になってみると、何度確認をしても間違いは出てくるものだ。