mansongeの「ニッポン民俗学」

「清め塩」と人間文化の成立



 先日の朝日新聞(注)にもこれに関する記事が掲載されていたが、そこここでいま葬儀会葬者への清め塩の配付が問題になっている。曰く、「死は穢れたものでこれを清めなければならないとするのは、ただの迷信や習慣であり、このような世間体を気にする行動が小さな偏見や差別につながる」。

 これ自体については、それでもよいのだが、「清め塩はただの迷信や習慣だ」という何気ない言葉の中に潜んでいる大きなテーマについては捨て置くわけにはいかない。そのテーマとは、人間とは文化的あるいは精神的・宗教的存在であるということだ。当たり前ではないかと、反応が返ってきそうだが、これが「清め塩」に象徴されることと無関係ではないのだ。


 順を追って考えよう。「死は穢れたもの」と言う場合の「穢れ」とは何か。ふつう、人の死に出会うと、私たちは死者との絶対的な断絶を感じないだろうか。どんなに名を呼びかけてもどんなに激しく肩を揺さぶっても、一度死んでしまった人はもはや応えない。生きている私たちの手には届かない処へと旅立ってしまったのだ、と痛感せざるを得ない。

 死者のために、この世からあの世への門が開いたのだ。すなわち、葬儀会葬者はこの世ならぬ処へと通じている恐ろしい門の前に立たされたのである。ここには日常ならざる次元が確かに開けている。この恐ろしさこそ、死の「穢れ」ではないか。

 改めて問うが、果たして死は歓迎すべきものなのか。僧でも何でもないふつうの生きている人間から見て、生と死は同じ価値をもつものだろうか。死の間際にある者に対して、肉親は生と死のどちらを望むだろうか。生こそ歓迎すべきことではないのか。だからこそ、延命治療を施したり死を嘆き悲しんだりするのではないか。

 そういう意味で死は負価値である。少なくとも、生から死へと越えるべき段階では負の価値であろう。急いでつけ加えておくが、死者が逝ってしまったあとは、あの世(死後の世界)そのものは決して負価値ではないだろう。あの世においては、死者は不幸ではないだろうし、決して「穢れ」てなぞいない。

 死者が通り抜けたあとの、この世からあの世への門を閉じること。この世とあの世を、つまり生者の世界(こちらの日常側)と死者の世界(日常ならざる他界)を区切ること、聖と俗なる次元を区別(聖別)することこそが、「清め塩」に象徴される行為である。その手段は必ずしも「清め塩」でなくてよいが。


 このような象徴思考を「迷信・習慣」と言い捨てる人は、おそらく人間の何たるかに思い致したことがない幸せなお方なのだろう。人間は無色透明、無味乾燥な時空間に棲んでいるわけではない。人間は、好むと好まざると、複雑多様に色づけ味つけられた、文化的あるいは精神的・宗教的な時空間に棲んでいる。私たちは世界を「フォーマット」して生きている、あるいは「フォーマット」された世界を生きていると言える。

 フォーマットとはコンピュータ用語で、初期化と訳される。フロッピー・ディスクなどを初めて使用するとき、行なう操作である。フォーマットは電子上の番地付け、データ認識上の標識を取りつける作業である。これをしないと、コンピュータはデータをフロッピーのどこに置けばよいのか認識できないのだ。

 同様に、人間は文化によってフォーマットされていると言える。もし文化的なフォーマットがなければ、人間はこの世界を人間的に意味あるものとは認識できないはずだ。意識的なフォーマット(たとえば法)をする以前に、その基礎に無意識的なフォーマット(たとえばタブー)があり、これが象徴思考を規定している。

 人間は単なる生物、動物の一種であることを間違いなく免れ得ないが、そういう「水平的」存在としてあるだけでなく、人間文化の中で生きる「垂直的」存在である。死もまた、生物個体の死という水平的現象であるとともに、極めて人間文化的な垂直的な出来事である。だから、垂直的な意味でなされる象徴思考を「迷信・習慣」と言う人は人ならぬ怪物と言っても差し支えないだろう。もしそれが「合理主義」というのなら、合理主義とは人間を水平的な単なる生物と看做す思想である。そんな合理主義者には、たとえば近親相姦のタブーも無用の「迷信・習慣」だろう。


 人間の文化的なフォーマットは、無機的にただ延び拡がる時空間を聖別し、この世界に人間的な意味を与え直していると言える。

 たとえば、一年の経過は水平的に見れば地球の一公転にすぎないが、人間はこれを「正月」や「新年」として祝う。世界が時間的に再生していると認識し、「祝い」という呪的行為を行なうのだ。玄関につけるしめ縄などは空間的な聖別と見ることができる。

 また、人の成長は水平的には生物的な発達過程にすぎないだろう。しかし、たとえば日本ではお宮参り、七五三、成人式、葬式という通過儀礼を行なう。これらはすべて、人間存在を垂直的に意味あるものに聖別する象徴思考である。

 人間の垂直性をフォーマットに譬えているが、興味深いことに、フォーマットはコンピュータの基本言語(OS)ごとに異なる。それぞれのOSに合ったフォーマットがあるのだ。これは人間文化の多様性と固有性を言い当てているようにさえ思える。

 たとえば言語がそうだが、その人にとって母国語はただ一つだ(たとえバイリンガルの人であっても)。一人一人の人間は、生物的存在としてはどんな言語でも話し得る可能性をもった状態(フォーマットされていない状態)から、たった一つの母国語しか生得的には話せない文化的存在(ある一つのフォーマットがなされた存在)として誕生する。その人の精神も本来在り得たかも知れない普遍的な可能性から、たった一つの特殊文化の中に現実存在として成立する。文化の固有性、特殊性とはこのことを言うのだろう。

(つけ加えておくが、言うまでもなく文化は不変ではないし、私たちは普遍的な文化をもち得ないと言いたいわけでもない。文化フォーマットの原点を述べているまでだ。)


 迷信に話を戻すが、迷信だとして捨て去るべき習慣も私たちの周りに確かにあるだろう。しかしながら、一方で私たちのアイデンティティに深く関わる象徴的な意味をもった行為もある。その場合、その象徴思考をいかに現代の生活と文化に適合させるかには十分慎重でなければならない。なぜなら、私たちの生活と文化は、水平的な思考でこと足れりとする先ほどの小さな「合理主義」ではなく、人間の垂直性を十分に包み込んだ大きな合理主義によって支えられているからだ。


top


◆ 読者からのご意見 ◆

電気ブラン 様 から

 ケガレの問題は天皇制の問題と深くかかわっているので、今回は「清め塩」に関して少々感想を述べておきます。
 私の出身は東北です。両親のお墓があるところはどちらも曹洞宗のお寺です。年少の頃、祖父母の葬式が終わった時に玄関の脇にあった「清め塩」を体に振り掛けてから家に入るようにといわれたことを良く覚えています。それ以来葬儀のあとに「清め塩」は付き物かと思っていました。
 ところが関西出身の妻の両親が相継いでなくなり、初めて浄土真宗の葬儀を経験しました。もちろん習俗としては関西も通夜から初七日までそれほど大きく変わることもありませんでしたし、「清め塩」の風習もありました。ところが義理の母の葬儀の打ち合わせの時に四十代前半のその僧は「死はケガレではありません。葬儀社のかたから清めの塩を渡されても、別にお使いにならなくとも良いのですよ」と言われ目から鱗が落ちる思いをしました。
 日本における使者を送る儀式は、仏教と民俗信仰が融合渾然とし、どちらかというと民俗に仏教が引きずられる形となっています。ヒンズー教では聖なるガンジスで人々が同じ川の流れで使者を送り、体を清めます。日本では再生復活あるいは他界としての海から塩水を汲み、歳の再生、あらたまることを祈念します。ケガレ〈=気(け)・枯れ)た世界の再生を願う本来の意味を良く表した習俗が、正月の若水汲みだと思います。死に対する恐怖感がまだあいまいだった頃、塩とは元気を取り戻すための重要なシンボルだったのだと思います。
 次号楽しみにしています。
top

Copyright(c)1996.09.20,TK Institute of Anthropology,All rights reserved