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mansongeの「ニッポン民俗学」
「正月」とは何か--暦の観点から
「正月」とは何かという題であるが、正月には当然のことながら、いろいろな切り口がある。今回は、まず暦の観点から考えてみたい。なお、今回は日本ということに限らない話になることをお断りしておく。
暦は、いまや「カレンダー」であるが、これは「暦」ではない。いまのカレンダーはただ、今日や約束の月日、日付けと曜日の対照、それに祝日を確かめるものにすぎないだろう。これに対して暦とは、自然の運行を古代合理的に、また呪術的に読み解いたものである。
律令制下では中務(なかつかさ)省に陰陽(いんよう、おんみょう)寮が設けられ、そこには天文・暦・陰陽博士、陰陽師(おんみょうじ)なる職があった。荒俣宏、夢枕獏氏らの小説によく登場するので、陰陽師としての安倍清明などの名前はご存じの方も多いだろう。
陰陽寮の職掌はそれらの職名が示す通りであるが、天文を中心に自然リズムの変異の徴候(日月食がその代表的なもの)を嗅ぎ取って、その意味(天意や何かの予兆)を解読し、密奏することであった。これに拠って、天皇は元号を改めたり、神仏への祈祷を命じた。そんな彼らの日常業務の一つが暦作りであった。
話は横道にそれるが、長らく朝廷のものであったこの暦作りを奪ったのが、朝廷の権限をことごとく奪取した最強の武家政権・徳川幕府である。改元や暦を作るということは、象徴的には「世界」を創ることに等しい。治世者の権威ある政事(まつりごと)だったわけだ。
暦作りとその管理は、1684年(生類憐れみの令の綱吉の治世)に設けられた「天文方」という幕府の機関の手に移り、この年、平安時代から800年にわたり使われてきた宣明暦から、貞享暦という「近代的」なものに改暦された。これは西欧天文学を輸入した当時の中国の最新暦書に基づくものだった。
さらに興味深いのは、天文方は吉宗の時代(1857年)に「蛮書調所」という機関に改組される。蛮書とは西欧書物のことであり、すなわちこれは洋学所だ。そして明治維新後は開成学校というものになり、これがやがて輸入西欧学問の拠点である東京大学に改組されていくのである。
閑話休題。暦の話である。太陽暦以前の暦を旧暦と言うが、これは太陰暦のことである。この呼び方自体が陰陽思想なのだ。太陽と太陰、日と月である。いまは「太陽と月」で通用しているが、日を太陽と呼ぶなら月は太陰と呼ぶべきだろう。
太陰暦すなわち暦は、太陰=月のリズム通りに運行していく。1日は月立ち(ついたち)で、朔(さく)と言う。新月である。月齢(満ち欠け)は0である(したがって、日付けと月齢は1日ずれている)。7日ごろが上弦の月という半月。15日ごろに満月、これを望(ぼう)と言う。もちづきである。その後、22日ごろが下弦の月。29日か30日に月隠り(つごもり)となる。ほぼ7日単位である(私はこれに「週」の起源と聖数の七を思う)。
月の満ち欠けの一周期は約29.5日で、暦では30日と29日の月が出る。これが太陰暦の大小の月である。それにしても、これを12倍しても365日にはならない。約11日足りない。足りない11日を約3倍すると、だいたい1月分になる。乱暴に言えばだが、これが閏月がある閏年(13ヶ月)の発想である。実際にはもっと厳密複雑で、たとえば先の宣明暦では、19年の間に閏年が7年があるというなかなかに正確なものだった。
もう少し暦の話が続くが、いましばらくおつき合いを願いたい。閏年を用いても困ったことがあった。平年は354日か355日、閏年は382日か383日となり、月日からは季節がわからなくなってしまうのだ。そこで、太陽の位置(黄経)から別基準を設けることにした。これが24節気というものだ。そのうちから周知な節気を拾うと、立春、啓蟄(けいちつ)、春分、立夏、夏至、立秋、秋分、立冬、冬至、大寒などがある。これらの来る月日は毎年変わる。ここにおいて、「今年の立春はいつだ」とか言う台詞が有意味になる。
まとめると、暦の日は太陰の満ち欠けにしたがい毎月不変であり、暦の月は太陽の位置にしたがい24節気に対して毎年前後し(節気の日がずれる)、暦の年は19年周期で季節を保つ、という仕組みだ。これが太陰太陽暦である。旧暦と言っているのは実はこの暦のことである。
さて、ようやく本題に入る。「正月」とは何かである。この問いの意味は2つある。第一に、1年の第1番目の月がどうして正月(一月)であるのか、つまり二月や三月ではなくてなぜ一月から1年が始まるのかということ。第二に、1年の始まりにどういう意味があるのかである。
第一の問題から。1年の始まりは本来、任意である。会社では四月一日をもって年度を始めるところが多いし、日本の学校も四月始まりだ。それに対し、欧米の学校では9月始まりだ。
暦も同様で、実際、西洋でも紀元前2世紀までのローマでは、マルチウス(英語で言うとマーチ、つまりいまの三月)が「正月」であったし(二月が1年の最後の月であった。いまも残る太陽暦の二月の短さは年末の閏月のなごり)、古代ゲルマン社会では冬至から「正月」が始まった。また中国でも漢の武帝が一月を「正月」とするまでは、様々な月が「正月」として存在していた(殷王朝は十二月を、周王朝は十一月をそれぞれ「正月」とした。武帝は夏王朝の「一月=正月」スタイルを採用した。これを夏正と言う)。
ここで節気に戻る。洋の東西を通じて、太陽の盛衰には敏感であった。節気はその東洋的表現にすぎない。季節の節目としての冬至と夏至、また春分や秋分をともに知悉していた。これにしたがい1年をまず4等分する。そしてこれを2分すると、それぞれの中間点が立春などの四立(4大節気)となり、四季の区切りが生まれる(さらに12ヶ月と組み合わせるため、いまの8等分をそれぞれを3分すると24節気が得られる)。
西洋に24節気はないが、冬至・夏至・春分・秋分、それに立春など四立の概念は共通だ。古代ローマならびに夏正は立春を「正月」すなわち1年の始まりとした。太陽が最も衰える冬至の、次の季節の節目、これは太陽の復活を意味するが、これを1年の初めとしたのだ。すなわち、立春こそが正月=一月の意味なのである。太陽暦の正月では冬であるにもかかわらず、年賀状に「初春のお喜びを申し上げます」と書くのは、もちろん旧暦の正月(立春を含む月)のなごりである。
二月三日は節分であるが、節分とは四立の前日を言う。いまでは特に立春(太陽暦では二月四日)の前日を指す言葉となっているが、それは四立の中でも最も重要なものが春分であるからだ。つまり節分とは「正月」を迎える前日、いまで言う「大晦日」なのである。
(正確に言うとこれは違う。立春などの節気はすでに述べたように月の中でずれる。一月一日が立春とはならないのだ。当然、節分も大晦日と合わない。ここで言いたいのは、1年=太陽サイクルの始まりが「正月」として祝われ、その直前が「節分」として特別視されることだ)
すでに第2の問題に移っているが、正月は太陽信仰の深さを示すものにほかならない。日本の主神である天照大神(彼女自身の正体は別として)が太陽神でなければならないのもそれ故である。紀記の天の岩戸神話が何を語っているかはもう言うまでもないだろう。日食説もあるが、第一義には冬至から立春への、つまり正月の神話である。
キリスト教を受容し、自らの古代ゲルマン信仰を邪教、その神を悪魔として捨て去ったはずのヨーロッパにも、太陽信仰は換骨奪胎してだが生きている。イエスの誕生を祝うクリスマスは本来、冬至の祭りであり、古代の正月である。だからこそ、1年で最も盛大な祭りであるのだ。その意味は太陽の(死と)誕生である。
そしてキリスト教世界でのもう一つの大祭、復活祭とは春分の祭りである。冬が長く厳しいヨーロッパでは、このころ本当に太陽の復活となるのだ。現在は春分を経た満月直後の日曜日(主の日)が祭日であるが、これはもと春分節気の月の「望」の日が祭日であったことを証拠立てるものだろう(イエスは金曜日に処刑され、日曜日に復活した。これが日曜日が主の日であることであり、キリスト教した春分祭が日曜日に行われる所以である)。
というわけで、正月の一つの意味は太陽祭、太陽の復活祭であることを述べた。正月については述べなければならないことが多くある。今回は以後の「正月特集」の枕とさせて頂く。初めに述べた陰陽道の続きなど語り残したことは、またのお楽しみということでご勘弁を乞いたい。
おまけに一言。太陽暦全盛の現代において、いまでも太陰暦を固守しているのがイスラム暦(年354日、閏355日)である。「月の砂漠を〜」の歌のとおり、太陰=月を見て暮らしているわけである。
[主な典拠文献]
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