mansongeの「ニッポン民俗学」

太古の正月とハレの原風景--「暦」以前



 「其の俗、正歳四節を知らず。但し春耕秋収を計りて年紀と為す」。これは『魏志』倭人伝のタネ本『魏略』が描くわが「日本」の古俗である。「正月や四季を知らない。もっとも、きちんと春に耕し秋に収穫して一年を過ごしている」と言う。ここには「暦」以前の「日本」がある。

 今回は、中国起源の暦や陰陽五行説に制約されない日本の「正月」を探ってみたい。私たちが触れることができる正月(それに年中行事すべて)はすでに暦によって彩色されてしまっているが、その古層、基底には必ずや「日本の正月」が隠されているはずだ。


▼「日中習合」に被われた日本文化

 日本思想史では「神仏習合」とよく言うが、これは世迷い言である。その前に言うべきは「日中習合」あるいは「神道儒習合」であろう。当の仏教すら中国化したものに他ならない。インド仏教の受容ははるか明治以降のことだ。そして中国仏教以上に日本人の肌に薄皮のようにへばりついて、もう分別し難いものとなっているのは、道教的なものであり儒教的なものである。

 実際、古代以降明治以前まで、日本人の精神と民俗を支配したのは中国的なものだった。まず、暦然り。陰陽五行説は干支を中心に、陰陽道となって、今も残る「迷信」の過半のもととなった。それとも相まって、仙術や呪術的古代宇宙・世界観は修験道その他となって日本化した。また、先祖崇拝は儒教の根本哲学だ。

 ともかく、中国文化のおびただしい影響がある。いま単に「日本的」というとき、欧米文明文化受容以前のことを指すことが多いが、これはいかにも珍妙である。本居宣長ではないが、「日本」を探してみたくもなる。

 「習合」という言葉が何かを語っている。これは「和魂漢才」とか「和魂洋才」とかに近い。もっとも、近くても違うが。後二者は意識的なものだ。習合は意識上では弁別できない。しかし無意識、深層では違う。日本人は深層では大きくは変化していないのがその何よりの証拠であろう。


▼太古の時間は太陽と月が規定する

 さて、話が正月からずれてしまった。初めに戻るが、『魏略』の記述を誤読してはならない。倭人は何も知らない、と言っているわけではない。中国の暦を知らない、と言っているだけだ。倭人には倭人の時間観(暦)が、当然あったのだ。

 では、その倭人の時間とはどういうものか。筆者はずばり「死と再生」の時間と考える。時間は死に、再生するものなのだ。そして時間とは世界の謂いであり、その世界には当然人間も含まれる。

 中国王朝の文明文化を受容した「古代」以前の「太古」においても、どうしても目に入り、意識せざるを得ないものが二つあった。太陽と月である。

 太陽は毎朝光をもたらし、人間に自由な活動を可能にさせる。また、時に高くそして低くあり、それに応じて暖かさや寒さをもたらし、植物の成長や動物の生態を規定した。

 月は規則的に満ち欠けし、その周期的な運動は何かの霊威を人間や大地に確実に照射していた。女性の月経や潮の満ち引きは、私たちが知り得るその代表例にすぎない。

 この二つの天体が太古の時間を基本的に規定する。年と月の観念はすでにあった。年は太陽の周期だが、その活動の二極期が節目だった。すなわち最盛期と最弱期、つまり今で言う夏至と冬至のころがそれだ。

 そして冬至期こそが、太古の「正月」であっただろう。正月とは一年の始まりである。始まるためには一度終わっていなければならない。すなわち死んでいなければならない。事実、冬至は太陽の死である。そして同時に新たな太陽の誕生のときでもある。死と再生のときが正月である。それは太陽ばかりではなく、人間にとっても。人間もこのとき死に、再び生まれる、よみがえるのである。

 しかし一年間というのはそれなりに長い。そこでもう一つの節目として登場するのが夏至期である。このときにも、世界は死と再生をくり返す。
(ここで注釈を加えておくが、日本においては太陽そのものへの「信仰」は弱い。天津神の主神として天照大神がいるがほとんどそれだけであり、いま述べてきた太陽の盛衰も一年の死と再生を見つける指標であるということが大きい。)

 さらにいま一つの月であるが、これはもう見事に死と再生をくり返す。そして月の霊威の最盛期は言うまでもなく満月の夜である。この夜、世界と人間は最大の生エネルギーを浴びる。これが月見である。

 このように太古の暦は、月の「死と再生〜満月〜死と再生」というひと月のリズムと、太陽の「死と再生〜最盛期〜死と再生」という一年のリズムとから成り立っていた。そしてそのそれぞれの節目が「祭り」であり、ハレの日と夜である。一年中、祭りだらけと言ってよい。


▼正月、盆、月見

 この太古の時間観は日本人の精神の深層にしっかりとあり、その後の中国文化の受容と古代国家による官製化、さらには欧米文化を受容してきたいま現在に至っても基本的には変わらない。新文化を表層において、あるいはより深く受け入れても精神の基底においては「日本」がある。

 少しばかり、その表層と深層の関係を追ってみよう。年二回の死と再生の節目を、古代朝廷は6月と12月の大祓えとした。その後、中国仏教の盂蘭盆を仏教国家として受容したが、これはいつの間にか完全に「夏至祭」と習合し、旧7月の盆が一年の中間点として広く認識されている。また、中国文化の春節(正月)と中秋が入り、中秋は秋の「満月祭」と習合した。

 日本人にとっては一年の大きな節目は二度ある。それはいまは正月と盆である。これが特別な節目(祭り、ハレ)であることは、ともに国を挙げての特別な長期休日となり、帰郷したり、神社への参詣あるいは墓参をし、お節などの特別な料理を食べ、年賀や暑中のあいさつをし、歳暮や中元の贈り物をすることなどからもわかる。面白いのは、それが神道、仏教という表層文化をまたがってのものだということだ。ここからも深層文化として同一だということがわかる。

 月見については、いまでは中秋のものだけが特別扱いされるだけだが、もともとは毎月の満月が特別な節目(祭り、ハレ)であったはずだ。旧1月15日に小正月というものがある。実は元旦の正月は官製のもので、民衆レベルでは小正月こそが正月であった。民衆レベルでは毎月の中心は満月の夜であったのだ。月見は毎月の「小さな」正月であった。


▼死と再生、脱皮、そして成年式

 くり返すようだが、死と再生こそが「正月」(祭り、ハレの代表)の本義であった。このときに生命を更新しなければ、世界と人間はケガレ(気涸れ)てしまうのだ。よみがえり(黄泉がえり)とは、文字どおり死んで再生することだ。当然のことながら、本当に死んでしまったらよみがえれないので、象徴的に儀式的に死ぬことになる。それは横になり、じっとしていることである。眠ってしまってもよい。これが「こもり」である。母胎の中に戻ることである。

 夜は一日の始まりであり神の時間であるが、翌朝、若水を飲む。あるいは水浴びする。これは神の水であり、生命の水である。どうやら神は生命をもたらすもののようである。後には、サトイモ料理を食べるようになる。サトイモは皮をむいて食べる。脱皮なのである。こうして人間は年をとる。これが数え年である。太古には一年に二つずつ年を数えたとも言う。これは年に節目が二度あったせいである。

 脱皮と言えば、蛇や虫、あるいは蟹などが思い出される。この中でも蛇は脱皮王と見なされてきた。蛇は脱皮をくり返すことで生命を更新し、不死とされたのだ。蛇が神となったのはこのせいだ。出産のとき、蟹をはわせる俗も脱皮が再生あるいは誕生を意味しているからである。ついでに言えば、産屋とはこもりの場所である。とすれば、生命はどこから来るのか。黄泉がえりの本源である死の国からしかない。こうしてハレの日とは、死(そして生)の国から新たな生命がやってくる日であることがわかる。

 人間にとって特別な脱皮があった。成年式である。女子の成年とは初潮を迎えることだ。これは満月の夜に女性のみの祭りとして行われたものと思われる。男子の成年式は、もしかしたら本当に死ぬかも知れないような試練として行われた。すでに王や巫女らシャーマン(下っては修験者や僧侶)は特別な死と再生をくり返していた。特別な所(穴、洞窟。死と生の国の入り口)にこもり、再生するのだ。男子の成年式は、そういう所で行われた。生き残った者、すなわちよみがえった者だけが大人として迎えられた。

 これが下っては「ムケゼック」(むけ節句)などと呼ばれた。子どもの皮がむけて死に、新たな大人が誕生するのだ。子どもに襲いかかるナマハゲとは、実は「なまはぎ」であり、成年するための試練のはるかな記憶である。ちなみに1月15日が成人の日であるのは、成年式が小正月(=正月)に行われたことのなごりである。


▼むすび。その後の正月

 以上で「暦」以前の正月について、ひとまず終えたい。はなはだ不十分な記述であるのは重々承知だが、残されたことがらは稿を改め、追々述べていきたい。正月のその後について簡単に触れ、筆をおきたい。

 農耕文化の確立は、太古の暦の重点を移動させてゆく。再生の中心は稲霊(魂)に移り、またこれと並行して祖霊崇拝を軸とした魂祭りの要素が大きくなる。時期的には、農作物の取り入れが終わり次の農作業が始まるまでの農閑期が、一年の中で集中的なハレの期間となる。こうして正月が年中行事の中でも揺るがぬ首座につく。

 祭りもこれに沿って再編されるが、暦の導入もあり、収穫祭としての新嘗祭ののち、年迎えの諸行事(冬至祭や祓えを含む)、正月、節分、小正月、年送りの諸行事など、正月の一連の行事は12月から2月まで続くことになった。そしてその意義は次なる農耕の予祝である。


[主な典拠文献]
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