mansongeの「ニッポン民俗学」

最初の成人式・大国主神の話と黄泉の国の秘密



 1月15日は「成人の日」の祝日である。いきなり余談であるが、いつの間にか「祭日」と言わずに「祝日」と呼ぶようになった。以前は「祝祭日」と言ったものだが、祭日は宗教用語であるということで、その要素を切り捨てて祝日だけになったものと思われる。世俗化の徹底ということだろうが、私たちの生活に「聖」(宗教、精神)は無縁だと謂わんばかりだ。そうして経済価値至上主義などの単一主義だけが瀰漫する。

 さて、成人の日の話だ。成人の日が1月15日である由縁はすでに別で述べたが、この日は小正月で昔の成年式(成人式)がこのときに行われていたことからそうなったわけだ。今回は、その成年式の元型が紀記神話の大国主神にあるということから述べたい。

 「大国主」とは、未成年の青年神オホナムヂが「成年」して得た名である。成年とは試練としての通過儀礼をくぐり抜けることであり、それは子どもの自分が死んで大人として再生することである。オホナムヂが見事成年を果たし、試練の場を立ち去るとき、岳父のスサノヲが彼に投げ与えた名こそ、大国主であった。そして大国主となったオホナムヂは国造りに励むわけだ。

 オホナムヂが受ける成年の試練は2段に分かれる(以下の記述は『古事記』に従う)。まず、兄弟神からの2度の試練を受ける。赤猪といつわられて焼け石の下敷きになり死ぬ。さらに木に仕掛けをされ、これに挟まれて死ぬ。その度に母神が再生させる。この母の力はどこから来るのであるか。

 その後、スサノヲのいる根の国に逃れたオホナムヂは、将来の妻スセリ姫と出会う。しかしそこに待っていたのは4つの試練であった。初めての夜は蛇のいる室(ムロ)に寝かされ、次の夜にはムカデと蜂がいる室に寝かされる。この2度の難局は妻の力で切り抜ける。

 すると今度は野原に打ち込んだ矢を探せと命じられるが、火が放たれる。そこにネズミ(根棲み)が登場し、この試練も見事成就する。最後の試練では、やまたの大室と呼ばれる所でスサノヲの髪の毛に棲むシラミを取れと命じられるが、これが実はムカデである。スセリ姫の知恵でこの難局もついに切り抜ける。

 オホナムヂは、スセリ姫とともに、スサノヲのもつ生太刀と生弓矢、それに天の詔(のり)琴を奪い、根の国を脱出する。これに気づいたスサノヲは黄泉比良坂まで追ってくるが、ここであきらめて前述の命名を含めて二人を祝福するのである。

 オホナムヂの成年式は以上であるが、ここには後ちの成年式の要件がすべて記述されている。死と再生は前段で登場するが、実は後段もそうである。根の国とは死の国に他ならない。「黄泉比良坂」とは例のイザナキがイザナミを振り切った「坂」である。

 坂は高低差を表す。上はこの世で下はあの世である。その境は穴である。すなわち、黄泉比良坂とは洞穴である。オホナムヂは大穴牟遅と表記される。大も牟遅も尊称であるから、その本義はすばり「穴」である。彼は生と死の両義を含む穴の神であったのである。

 彼が根の国で受けた試練を振り返ってみよう。蛇、ムカデ、蜂、ネズミが登場した。蜂を除いては地中を連想させるものばかりである。それに試練の主舞台となった「室」である。その意味は洞穴である。3度目の野原の試練もネズミが教えた穴に隠れて助かったのである。

 スサノヲが仕掛けた試練は、実はすべて穴の中の出来事なのである。これは籠りである。成年式という通過儀礼は「穴」の中で行われるである。穴の中の長い籠りは極限状況を作り出す。幻視、それは古代人にとっては霊夢であるが、それが体験の実質である。オホナムヂもそういう夢を見たのである。霊夢によって、スサノヲのお告げと妻と神宝を得たのである。

 この成年式を経て、青年神オホナムヂは大人神である大国主となり、そこで出会った妻と結ばれることで、神聖王の条件である(大人の条件でもある)の豊穣さを獲得することになる。また、そこで得た神宝によって国作りを進めるのである。太刀と弓矢は武力を表すが、神琴はシャーマンのしるしである。

 さて、そろそろ次へと進みたい。母と妻の力の由来である。オホナムヂはなぜ易々と死に、また再生するのか。それは穴の中の出来事に他ならないからだ。つまりすべては幻視であり霊夢の体験なのである。母と妻の力とは穴の、大地の力だ。穴は、そして大地とは死の墓所であり生の産所なのである。人は死して土に帰り、土から生まれる。そういう生命観が示されている。

 さらに突き進もう。根の国とは何であるかだ。オホナムヂの成年式で興味深い記述がある。兄弟神の試練を受けて死んだとき、母は赤貝と蛤の女神の力を借りるのである。海の香りが漂う。

 海の女神と言えば、山幸彦の妻・豊玉姫である。山幸彦は竜宮に行っているが、これはもう一つの根の国である。山幸彦はそこで岳父である海神から例の釣り針を返してもらい、妻とともに満潮と引潮の二玉を得ている。オホナムヂとそっくりではないか。

 この国では山も海も女のものなのである。そしてそこは他界、つまりあの世なのである。あの世には、オホナムヂと同じように、多くの呼び名がある。黄泉の国、常世、根の国、他界、竜宮、冥界、妣(母)の国などである。それは死の国であり、生の国である。拡張して言えば、神の国であり、地獄あり極楽であり、祖霊の国である。

 はなはだ奇妙に思えるだろうが、あの世は不浄の国でもある。事実、イザナキはイザナミがいた所を「穢い国」と明言し、自らを清めるために禊ぎをするのである。ケガレを流すというが、いったいどこへ流すのか。これがあの世に流すのである。

 あの世、黄泉の国とは何か。それはまさしく死の国であり生の国なのである。また、穢れた国であり清らかな国であるのだ。女がそうであるように。そのことは出産に示されている。それははなはだ危険なものである。母の生死を賭けて、新たな生命は産み出されるのである。それは室においてなされ、そこは不浄の場とされる。新たな生命は不浄をくぐり抜け「再生」するのである。どこからか。黄泉の国からである。

 つまり、黄泉の国とは「再生装置」なのである。死や穢れたものを受け入れて浄化し、再びこの世へ生命や生(清)エネルギーを送り返す、文字どおり「母胎」なのである。それは大地そのものである。死んだ父母は祖霊や子孫となって、再び帰ってくるのである。

 海に漂う水死体をエビス神として祀る信仰がある。一方、同じ人々が水死をケガレとして嫌う。この矛盾と思える論理をどう理解するのか。これは次のように解ける。黄泉の国へ往くことと、復(お)つ、つまり帰ることの違いである。黄泉の国へ往くのは穢れた故である。それに対して、黄泉から帰ってくること(黄泉がえり)は清められていることなのである。さらに言えば、黄泉がえった者は神なのである。

 あの世とは両義的な場所であり、正負の変換の場所なのである。そこへ往くこと、戻れないことはマイナスであり、戻れるとプラスの場所なのである。ケガレとハレの秘密はここにある。歌を唄って終わろう。「往きはよいよい、帰りはこわい…」。


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