mansongeの「ニッポン民俗学」

賽銭(さいせん)箱と日本の祭り



 神社に賽銭(さいせん)箱は付き物だ。その賽銭箱について書こうと思う。が、正直な所、いまの筆者には何もわかっていないのだ。いつから、なぜ置かれたのか、どんな形だったのか、等々。まあいい、いつものことだ。書きながら考えよう。

 皆さんは、神社にはいつお参りに行くだろうか。お正月、それにお祭りの日、それから旅行中の名所めぐりで有名な神社に、といったところだろう。神社に「定休日」や「入場資格」はない、ということになっている。だから、誰でもが好きなときに、どこの神さまにお参りに行ってもよいわけだ。実はこのことと賽銭箱が関係がある。

 話を進める前にここで、とある神社にお参りをしてみよう。町中のなんでもない氏神さまを思い浮かべて頂きたい。町と境内を区切る、注連縄(しめなわ)のかかる鳥居(何だこれは?)をくぐり、神社の中に入る。地面はそれまでのアスファルトから敷石や玉砂利と土に変わっている。

 すぐ横に手水舎がある。手を洗い、軽く口をすすぐ。そばにはお百度石なんていうのもある。社殿はまっすぐ前だ。たいていは二三十歩も進めばもう神前だ。左右からは狛犬がにらんでいる。目の前には鈴を鳴らす綱(これは何と呼ぶのだろう)が垂れ下がっている。そしてその下には、細木を何本も横に渡した入れ口をもち、横には「奉納」と書かれた賽銭箱がある。社殿の奥に在しますはずの神さまのご様子はよくわからない。

 お賽銭を投げ込み、鈴を鳴らしてお参りをすませ、横にある撫で牛や絵馬かけなんぞを見ながら、社殿の横手あるいは裏手にまわる。すると、全国的に有名な神さまたちの小社がいくつもある。たとえば、お稲荷さま、三輪さま、大黒さまもいらっしゃる。ここにもそれぞれに小さな鳥居と賽銭箱はある。ざっとこんなところが、現在のありふれた神社の風景だろう。
(それにしても、神社はワンダーランドだ。不思議なものばかりある。)

 実は筆者はたいへんな間違いをおかしている。穢れを十分にはそそがない心身のままで神域をおかしたのだ。町と区別された境内とは、「しめ」縄(神が占める場所であり、それを標めすもの)という言葉通り、神のための結界内にほかならない。ましてや、その身体で神の御前に近づき祈ったのである。存分な神罰も覚悟せねばなるまい。

 「お参り」は「お祭り」の退廃態だ。いや、そう言い捨ててしまっては現代の私たちは神社に行けなくなってしまうので、変態あるいは現代的展開だと言うにとどめておこう。何がどうなっているのだ、とお思いだろう。順に説明しよう。

 まず、手水舎とは何か。これは手を洗う所ではない。心身を清める所なのである。衣服をすべて脱ぎ、みそぐ場なのである。そして神前では立拝なぞもってのほかである。地にひれ伏すのが正しい祈り方である。どこで仕入れたのか、たとえば「二拝二拍手一拝」がこの神社での「正しい参拝」の作法だなんて言う輩もいるが、本末転倒のまやかしである。

 そもそもお参り、つまり「参拝」は新しいスタイルなのである。その特徴は、個人が自分のために、いつでも必要なときにお参りし、好きなことを願うことにある。神さまの事情も考えず、手前勝手にそれぞれの願いを神さまに押し付けるのが現在の「お参り」というものなのである。その代償がわずかばかりの賽銭なのだろうか。

 では「お祭り」とは何なのか。ここで言う「祭り」とは、いまの見物するものとしての祭礼のことではない。「まつる」とは、神に捧げ物をたてまつることであり、まつらう(おそばに待ち侍る)ことである。そうするためには心身を十分に清めることが必要であった(神がなぜケガレを嫌うのかはまた書いてみたい)。

 その手段がみそぎであり、こもりであった。村の祭りは村中で行なうものである。祭る神は共同体の神である。各人の願いを祈るのが祭りではない。村の共同の願いを、定めれた機会にだけ、神に再確認するのが祭りである。願いを神に押し付けたりは決してしない。また、神は祭りのときにしか居ないし、来ない。

 「お参り」では直前に手水を使う程度の軽い清めですましている(先ほど筆者もそうしたのだった)が、来臨する神の前に進むためには本来とても厳重なみそぎやこもりが必要であった。たとえば、満月の夜の祭りのためには、少なくとも新月の日から斎(い)みに入る(祭りの前二週間)くらいは必要であった。斎みの決まりごとが厳重で村人全員では守れない(それは願いの不成就を意味する)ため、のちには村の代表者(ひいては神主)がこれに専従することになっていく。それでも、何らかのケガレがある者は祭りに参加できなかった(神社の鳥居をくぐれない)。

 しかも祭りは村人が誰でも催せるものでもなかった。祭りを執り行う者、つまり祭祀権をもつ者こそ、太古の首長であった。ただの神主ではない。そしてこのリーダーのもと行なうのが祭りなのであった。

 以上をまとめると、長い斎みこもりのあと、来臨した神を祭祀者が中心になって共同体メンバーみんなで迎え、たてまつりまつらい、共同の願いを再確認するのがお祭りだということになる。

 それが、なぜ「お参り」となっていくのか。二つのことが言われている。一つは仏教であり、もう一つは旅である。はなはだ簡略に述べるが、仏教のカミは広域神である。最初は氏寺のカミとして迎えられもしたが、しだいに一共同体や一地域のカミではなくなった。そして個人の願いごとを聞くようになる(個人が願いごとをするようになる)。

 旅は、共同体以外の神仏を知る機会を作った。旅の地で霊験あらたかな神仏に出会い、苦難をそのカミに助けられる。そういう体験をもつ者が増えてくる。また逆に、村に他の信仰を運んでくる旅人もいたし、その旅人も旅の無事を村の神に祈ることを望んだ。しかし、旅先では厳重な斎みはできない。また、滞在中に祭りがあるとは限らないし、そもそも参加資格がない。こうして「私祭」としての「参拝」が始まる。盛んになりつつあった仏教流スタイルでもある。一方の祭りも、共同体外の人々の「参加」を許す、つまり見物できる「お祭り」に姿を徐々に変えていく。

 古い共同体が壊れるたびに、神(神社)や祭りも再編された。神は神社にご神体として棲みつき(固定した祭場として神社もそうして生まれたのだが)、祭りもしだいにゆるやかな斎みで参加できるようになる。村がより広域なレベルで再統合されるたび、新たな共同神が必要であった。たいていは中心となる村の神が「昇格」したが、同時に遠方から招かれることもあった。

 その際、「勧請」というのが真っ当な招き方だが、それにはこんな招き方もある。ある時、ある神が村近くの浜辺に流れ着く。もちろんそれを認めるのは、かつて旅先でその神に出会った村の有力者だ。ただちに新たな祭りが催されるが、その神は共同体の神庭の一部を間借りして村に棲むことになる。日本の神はむかしから寛容であった。こうして神々の全国交流が盛んになっていく(その末の姿が現在の神社の小社の風景でもある)。

 さて、祭りは変遷し「お参り」というスタイルも始まるが、変わらぬものがある。祭りの中の「たてまつる」という精神である。祭りでは神饌(しんせん)や幣帛(へいはく)を神に捧げた。神饌とは酒や食べ物であり、幣帛とは布(いまは紙)である。これは神への衣食住のたてまつりなのである。残る住とはもちろん社殿そのものである。

 注目すべきは布として登場した幣帛の「幣」(ぬさ)という字である。貨幣の「幣」なのである。「幣」は一字でも「捧げる布」を表すが、「帛」も「布」を意味するので、「捧げる」という意味を重視したい。そして「貨幣」なのであるが、「貨」とは貨物の貨で「品物」を意味する。そうすると貨幣とはまさに「捧げ物」を意味することになる。

 実際、貨幣は当初、通貨であるより宝物であり呪物であった。カミに願いごとを訴えるまじないに使われたのだ。そのカミとは道教のカミであったが。貨幣が通貨として機能し始めるのは平安末期、そして本当に流通するのは室町時代を待たねばならない。

 話は幣帛にもどるが、それが布から紙に代わってわけがわらかなくなったように、幣は神への捧げ物全般を指すようになる。「お参り」という新スタイルになっても、あるいは拝む個人個人が「私祭」の祭祀者となったからこそか、お参りに捧げ物は必須であった。当初、「お参り」の幣は神饌の最も重要な一品目である米であった。米を紙に包み、これを神に捧げて祈った。お捻(ひね)りと言う。
(ちなみに、この「ひねる」という行為は日本人にとって重要なものだ。神事に深くつながりがあると思われる。ひねると同様なものに、コヨリの「よる」という行為がある。縄や綱もひねり、より合わされたものだ。)

 お捻りと言うと、舞台の役者へのお祝儀が思い浮かぶだろう。このお捻りには何が入っているか。そうだ、お金、つまり貨幣なのである。すでにご賢察の通りだが、米がその後、宝物であり呪物でもある貨幣に取って代わられたのである。貨幣もまた幣であったのだ。そして、ついにはそれを裸で神に捧げるようになる。一方で、通貨としての貨幣を盗人から守るべきこともあって、めでたく賽銭箱が誕生したというわけだ。


(後期)
 冒頭にも申し上げたが、調べが不足している。今回は特に、検証すべき歴史的な流れも多く含まれている。いつもにも増して、筆者の予断と管見がひそんでいることをお断りしておく。
 ところでお寺にも、鐘を鳴らす(鈴に代わって)例の綱があり、その下には「賽銭箱」がある!


[主な典拠文献]
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