mansongeの「ニッポン民俗学」

日本の神はなぜケガレを嫌うのか



 「神はなぜケガレを嫌うのか」、この問いは日本の「神の国」の論理に関わるものである。これは意外にも信仰の問題ではなく、ロジックの問題なのである。

(一)

 ロジックの話の前に、ケガレを清めきらず神の前に立つとどうなるのか、ということから述べよう。日本の神々は寡黙だ。だから、祭りの最中でもいまそこに居られるのか居られないのかさえ、よくわからない。ましてや私たちのもてなし(祭り)をお気に召されたのかどうかなぞ、皆目見当もつかない。

 もし祭りに連なる者の中に、自分でも知らずに密かにケガレを持ち込んでいる者がいたとしても、たいていは神からの反応は何もない。よく言う「祟り」(神の立ち現れが原義)なぞ、すぐに起こることはまずない。神のご機嫌は私たちには伺い知れないのである。

 そうして祭りは何事もなかったかのように終わる。それから半年も経った刈り入れが近づく頃、突然異変が起きる(神が異変を起こしたわけではない。加護がなかったのだ)。そのときなって初めて気づくのである。祭りにケガレが持ち込まれていたことが。神のご機嫌を損ねると、神との黙約が無効になってしまうのだ。

 だからこそ、祭りでは厳重な斎み清めがなされた。少しのケガレも持ち込んではならないのだ。神と共同体との「豊穣」の黙約が、前年同様に今年も間違いなく成就されるように、祭りは完璧に遂行されねばならないのだった。

(二)

 それでは「神の国」の論理の解明に進もう。別稿でも述べたことがあるが、神はどこから来るのか。「高天原」というのが一般的な解答である。しかしこれは『日本書紀』と『古事記』(以下「紀記」と記す)にあるように、天つ神だけに許された聖地である。より多数の国つ神はそこにはいない。また、祖霊神などの居所もそこではなさそうだ。

 紀記によると、世界は、天上の「高天原」、地上の「葦原の中つ国」、地下の「黄泉国」または「根の国」に三分される。国つ神は「中つ国」に棲んでいることになっている。そして神でさえ死に、死ねば「黄泉国」に行く。死んだ母イザナミを慕い、「根の国」に行きたいと子スサノヲは泣いた。

天上高天原天つ神
地上葦原の中つ国国つ神、人間
地下黄泉国死者

 さらに紀記に神の生死についての記述を追うと、おもしろいことがわかる。生殖する神としない神がいる。その生殖も、両性による「有性」生殖と、単独の神から生まれる「無性」生殖がある。生まれ方にも、無前提にただ生まれる(=現れる=祟る)神、神の身体から分裂するように生まれる神、禊ぎによって生まれる神がある。(注)

 神々は産道を通らず、ただちに生まれる。胎生でも卵生でもなく、細胞分裂か分身の術の如く。禊ぎはまるでマジック・ショーだ。水に触れたものから、滴るように神々が次々と生まれる。また、死に方にも「隠れる」神と「死ぬ」神がある。死ぬ神が行く所が、先ほどの「黄泉国」である。

 少々本題からはずれることを書いた。戻るが、「高天原」「中つ国」「黄泉国」の垂直三分類の内容(神々の棲み分け)はのちの潤飾であり、ただ三分割がある。しかし、もとはよりシンプルな「この世」と「あの世」の二つだけであったと思われる。さらに、神も人もないのである。すべての存在者はこの世にいるかいないかが根本分類である。そして死後とは生前と同じ世界なのである。

 この「この世」と「あの世」を水平に展開すると、「あの世」は海の彼方の「常世」となる。これが基本である。のちの「浄土」もこの世界分割の型に従う。「常世」がなぜ神の住う国なのか。それはそこから神が舟に乗ってやって来るからである。たとえば、大国主神の国造りを助けたスクナビコナ神がそうである(ヱビス神もそうだ)。

あの世(常世)―――この世

 しかし海上に神を探し求めても、どこにもいない。そこで海底が注目される。こうしてタテの垂直軸が見出される。「竜宮」である。浦島太郎の話でご存知の通り、「あの世」には「この世」とは異なる時間が流れている。これは「あの世」の特徴の一つである。

あの世(常世)―――この世
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あの世(竜宮)

 さて、この海の下に向かった垂直軸を陸上にもって来ると、地表と「高い所」という上に向かった垂直軸に反転する。「高い所」とは高木や山の上であり、やがて天上となる。海の彼方とともに、空の彼方(天上)はいかにも神の棲み処にふさわしい所だ(実際、空から降ってくるものはすべて神が送り出したものである)。

あの世(天上)
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この世(地表)

 しかし「天上」が神の棲み処にふさわしくなると、「あの世」のもう一方の性格である「死後=生前の国」が失われる。そこで「地下」が案出されるのである。これはまた死の世界にふさわしい場所であった。こうして紀記型の垂直三分割となるのである(ただし、天つ神と国つ神の分類はない)。ちなみに「極楽・地獄」はこの型に従っている。

天上神の国
地上人間
地下死後=生前の国


(三)

 これからが本題である。いま導き出したように、
  「天上」と「海」が神、「地上」が人間、「地下」が死者の国。
となる。しかしその前に、二つの原「公理」がある。
(1)神も人も「この世」にいるか「あの世」にいるかである。
(2)死後の世界は同時に生前の世界であり、それらは同一のものである。

 以上を相互に代入して組み合わせると、
  「あの世」とは「死後=生前の世界」である。
  「あの世」とは「天上」「海」「地下」である。
  「あの世」とは「神の世界」「人の他界」である。
となる。

 実に「あの世」とは何でもありのごった煮状態だったのである。これに追い討ちをかけると、「この世」から祓えや禊ぎでケガレを流す先は「海」=「あの世」であった。別稿で述べた通りだが、「あの世」はケガレの「浄化装置」でもあるのだ。そしてまた、ここから人が先祖の魂の黄泉返りとして再生(=誕生)するのである。

 もう一つだけ「あの世」の不思議を付け加えると、神々の生活である。八百万(やおよろず)とも言われる神々は相互に交渉をもたないのだろうか。母を追慕していたあのスサノヲは母のいる「根の国」に行ったはずなのだが、ついぞ母神に会ったという話は聞かないのだ。

 これらの矛盾と思えることを論理的に解くと、こうなる。神に象徴される「聖性」といわゆる「ケガレ」は絶対値では同じものである。ただ、ベクトルのようにこれらは向きと力をもち、向きが正反対なのである。正の価値をもったものが「聖」と呼ばれ、負の価値をもったものが「ケガレ」と呼ばれるのである。

 「あの世→この世」の向きが「正・聖」であり、「この世→あの世」の向きが「負・ケガレ」である。たとえば、前者は神の降臨であり、人の誕生である。後者はケガレの祓えや禊ぎであり、人の死である。実に向きによって「あの世」は秩序づけられているのである。

 それから、神々の相互の交渉、そして向きをもっているとは言え、「聖」と「ケガレ」が激しく行き交う「あの世」での交通についてであるが、これは「棲み分け」が徹底しているのである。『源氏物語』の局(つぼね)あるいはマンションを想像していただければよい。こちらは「神々マンション・天つ神棟」、あちらは「神々マンション・国つ神棟」、そして向こうは「祖霊マンション・1号棟」…(延々と続く)。

 そして現代のマンション暮らしと奇しくも同じく、「あの世」に棲む神々や祖霊たちも「没交渉」が約束事なのである。芭蕉の「秋深き隣は何をする人ぞ」ではないが、「この世」との行き交い以外は、「あの世」では絶対に「相互干渉」しないことが徹底した居住ルールなのである。これが「ごった煮」の「あの世」の秩序を守っているのである。

 ようやく「神はなぜケガレを嫌うのか」に進むのだが、ここのポイントは「出産」である。出産は「ケガレ」であり、かつ「聖」である。祭りには出産直後の女性はケガレているとして参加できない。出産自体、「産屋」という結界の中で行なわれたぐらいである。しかしこれは「正負」の論理に矛盾する。「あの世→この世」の向きは「正・聖」であって、断じて「負・ケガレ」ではないはずだからだ。

 これをうまく説明できる解答はこうだ。「あの世」と「この世」との出入口はたった一つなのである。そして「あの世」の者同士は決して出くわさないのがルールであった。なぜか。戻れなくなるのである。「あの世」から「この世」へ来た神は、別のもの(たとえば、誕生する魂、死する魂、流され行くケガレ)がこの出入口を通ると、もう二度と「あの世」へは戻れなくなるのだ。

(神が死をもっとも嫌うのも「神・あの世→出入口←この世・死者」ということで、出入口でまともに鉢合わせしてしまうからだ。だから、死のケガレがある場合はもちろんのこと、冒頭の祭りのようなケガレが残っているケースでは、神は「あの世」のマンションにこもった切りで「この世」には初めから来ていない。)

 「あの世」と「この世」との出入口は狭く、ようやく一つの魂が通れるほどの大きさしかないのだ(田舎のあぜ道だ)。ここを行き来することはたいへんな危険をともなう。これは神にとっても人にとっても同様である。しかしここを通り、再び自分の棲むべき所へ戻る往還ツアーこそ、神や人にとってのキャリアとなる。

 人は死んだ祖霊の「再生=黄泉返り」として生まれる。「この世→あの世→この世」のルートだ。修験道での冥界巡り(死と再生の修行)もこれだ。一方、神のルートは「あの世→この世→あの世」となる。そして、この往還が途中で絶たれたとき、神も人も「堕落」する。人の場合、「あの世」に永遠にとどまり、死んだままとなる。神の場合は、「この世」に永遠にとどまり、神ではない「モノ」となるのである。

 「あの世」に戻れなくなった神はどうなるのか。神は「この世」をさ迷う「妖怪」へと「堕落」するのである。こうなれば、人々はもうだれも神を神とは認めてはくれない。そうなることを恐れて、神は「ケガレ」(実は「出入口」「細道」をふさぐもの)を極端に嫌うのだ。忌み清めとは、神に道を空ける作業であったのだ。

 堕落、零落した神は実に多い。いまも故郷に戻れず、形容矛盾である「ケガレた神(聖)」となり果て、「この世」をさ迷っているのである。能は、そうした堕落した神々を救済する物語でもある。仏道の助けによって、断ち切られたルートの後半「この世→あの世」の道を再び歩むこと、これが「神の成仏」である。けだし、仏道とは「この世」から「あの世」へと続く、田舎道ではないハイウェイである。


(注)
 紀記の神々の様々な生死についての記述は、山折哲雄氏のご講演録、畏友・三宅善信氏のご教示の賜である。
 なお、神の「勧請」は「クローン」生殖(分霊)である。その典型例として、大分・宇佐八幡神が、京都・石清水八幡神に分霊され、さらにそれが鎌倉・鶴岡八幡神に分霊された。もちろん、全国の稲荷神社なども、分霊である。


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