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mansongeの「ニッポン民俗学」
東大寺二月堂「修二会」に隠された「日本」
▼修二会とは何か
「お水取り」で有名な修二会(しゅにえ)について書こうと思う。ちょうどこれが始まるということでだけではない。修二会には、仏教の中の「日本」が隠されているからだ。さらには、今では節分行事の「追儺」(ついな。「鬼は外」の鬼はらい)や、能の起源と目される舞踏芸能も含まれている。
修二会とは修二月会で、他に修正会というものがある。どちらも迎春の法会である。修正会は一月の初めに、修二会は二月初めに行なう。日本では奈良時代中後期に始まった。なぜ、くり返すように二月にも「新春」行事を行なうのかということについては、一説にはインドの旧暦では二月が「正月」(一年の始まり)だったからということだが、よくはわからない。
修正会や修二会は全国どこの寺院でも行なわれているし、修正会の方では「鬼祭り」という名で行なわれているところさえある。しかし「悔過会」(けかえ)という古いスタイルをもって、修正会や修二会を行なう寺院となると限られたものとなる。
悔過とは懺悔(ざんげ)というほどの意味である。悔過会とは、もと雨乞いや病気平癒のための呪的な法会であった。それが正月のためにも、悔過がかけられるようになる。すなわち、旧年の罪障を仏に懺悔し、新年の除災招福・豊穣安穏を祈願する法会となる。
この悔過会としての修正会や修二会を現在も継続しているのは、東大寺・薬師寺・興福寺・法隆寺など南都の名刹、および全国の古刹である。このうち最も著名にして最も厳密な悔過会を行なっているのが、言うまでもなく東大寺二月堂の修二会なのである。以下、東大寺修二会に沿って、話を進めたい。
▼東大寺修二会のあらまし
東大寺修二会は「お水取り」の名で通っている。しかし、お水取りは法会の中の一つの行にすぎない。意外とその全貌は知られていないのである。実はその全体を知るだけで十分に興味深い。筆者があれこれ書き足さずともよいくらいだ。
東大寺修二会は、旧暦の一月から二月にかけて行なわれていたが、いまは新暦二月から三月にかけて行なわれている。その修法は、奈良時代の東大寺別当実忠(じっちゅう)和尚(かしょう)が、笠置山(東大寺東方)の龍穴の奥深くに参入し、兜率天(とそつてん)の内院に詣でて、そこで菩薩聖衆が毎夜補陀落山(ふだらくせん)に登り、観音を礼拝する姿を見て、これを下界でまねたとされている。
修二会は現在十一口(人)の参籠僧によって営まれる。これを練行衆と言う。和上、大導師(咒願師)、咒(しゅ・呪)師(咒禁師)、堂師、以上四職。以下、平衆七人で、北衆之一、南衆之一、北衆之二、南衆之二、中灯之一、権処世界、処世界と称される役を受け持つ。
法会はおこもりから始まる。二月二十日夕刻、練行衆が日常の自坊から戒壇院へと移る。これを「別火」坊と言い、ここにある火以外は一切使えなくなる。炊飯はもとより暖を取るのもだ。月末まで、おこもり、精進潔斎が続く。
この別火坊で、本行のための諸準備が行なわれる。声明(しょうみょう)や法螺(ほら)貝の稽古、花拵えと言って須弥壇(しゅみだん)に飾る造花の椿を作ったり、法会を照らす燈心を切りそろえたり、差懸(さしかけ)と言う木靴の手入れ、紙衣(かみこ)しぼりと言って本行用の小袖を作ったりする。
「仲間」(ちゅうげん)「童子」(どうじ)などと呼ばれる黒子役の人々も忙しい。松明(たいまつ)の材料の下拵え、結界の注連(しめ)作り、計二千面と言われる須弥壇に供える餅搗きなど。また、食事や湯焚きなど身の回りの世話もある。練行衆に随伴するこれらの人々は30名にも及ぶ。
別火と称される精進潔斎も、二十六日からは「総別火」と呼ばれる段階を迎え、一層の厳しさを増す。紙衣(文字通りに紙製)を着用し、完全禁足(足を土につけない)となる。
二月末日、いよいよ二月堂下の参籠宿所に入る。ここで「咒師」役が「大中臣祓」を行ない、幣帛を振る。なお、幣帛は練行衆各自にも配られ、常にこれで自らと身の回りを浄める。
行は夜のものである。三月朔日深更、「お目覚」と触れ回る声で練行衆は一斉に起き立つ。参籠宿所前の食堂(じきどう)で「和上」の戒を受ける。その後、二月堂に上堂し、本行の開白(かいはく)となる。「一徳火」と言うが、漆黒の内陣に最初の燈明の火が灯される。
(二月堂は宿所や食堂から見て、石段を登り切った断崖上にあり、文字通りの「上堂」となる。)
「日中」と呼ばれる最初の行のあと、いったん宿所に戻り、夕刻より「日没」(にちもつ)の行となる。その後、二月堂を三角形に取り囲んで守る、興成社、飯道社、遠敷社の三社に法会開白、修二会発願を報告する。
次の行は、その夜の「初夜」となる。すっかり夜の闇に塗り込められた宿所と上方の 二月堂を結ぶ石段下に松明が灯される。「童子」が松明をもち、これに練行衆一人が続く。順に松明と練行衆が一人ずつ上堂していく。「初夜」のあとは「半夜」「後夜」「晨朝」(じんじょう)と払暁近くまで、行は続く。
修二会は「六時」(一日6回)の行を、14日間くり返すものだ。一日の流れをわかりやすく整理すると、次のようになる。
9時頃、起床→ 正午過ぎ、正食(一日一回の食事)→ 上堂して「日中」「日没」の二行→ 宿所に戻り、斎戒沐浴→ 仮眠→ 松明上堂して「初夜」「半夜」「後夜」「晨朝」の四行→ 就寝
それぞれの行の長さは、最長の「大時」が初夜と後夜、次に「中時」の日中と日没、最短の「小時」が半夜と晨朝、となっている。また、日を追って、正式な声明や礼拝法から略式なものに変化するし、リズムやスピードも変わる。この六時を上下各七日(二七日・にしちにちと言う)行なう。上七日の本尊は十一面観音で、下七日の本尊も十一面観音だが「小観音」と通称される別本尊である(どちらも秘仏)。
以上の上下各七日の中に、別プログラムが挿入されている。それが「過去帳」(聖武天皇や源頼朝から無名の下々まで東大寺の有縁者、今上天皇や現首相まで含まれる)の読誦、「走り」行堂と「香水」(こうずい)まき、そして「若水汲み」(お水取り)、「達陀」(だったん)妙法などである。
三月十四日(十五日夜明け前)の最後の「晨朝」行のあと、破壇して、鎮守の三社に満行感謝の報告を行ない、めでたく結願となる。十五日満願の朝には、衣服を正し再び上堂して涅槃講を行じて万事終了である。
▼修二会は「迎春=新年」の「祭り」である
まだまだ語り残しはあるが、ひとまず「日本」を探ることに移ろう。その中で補うべきは補いたい。
さて、まずは修二会が立派な「迎春=新年」の「祭り」であることだ。祭りの前の厳重な斎み籠りが如実にそれを示している。心身を清めて、祓いを行なう。事実、本行直前には「大中臣祓」や幣帛まで登場する。「別火」というのも日本の斎みの流儀である。斎戒沐浴まである。仏教の「罪」とは、日本ではケガレの別名なのである。
日本での仏とは、新たな「神」である。日本の神より即効的な霊力をもった神である(密教仏が典型)。純朴で寡黙な日本の神に比べ、より洗練され社交的な神であり、日本の神々と助け合いもする神である。日本における神と仏はそういうパートナー同士なのである。
実は「大時」の行(初夜と後夜)のつどつど、東大寺の守護神ばかりではなく、日本全国から一万四千余所の神々が勧請されている。それが毎夜行なわれる「神名帳」読誦である。前述の通りだが、二月堂鎮守の三社の加護も欠かせない。
ここで、別当実忠和尚による修二会縁起に戻りたい。笠置山の龍穴の奥にあったという兜率天の内院とは何か。これは山の中の洞穴でのこもりに他ならない。そう、冥界(あの世、神の国)巡りの夢見の修行である。これは修験道と同じく、まさしく日本的な冥界参入の旅である。
ところで、そこで菩薩が修行をしていたと言う「補陀落山」とは、南方の観音浄土のことである。かつて、紀州熊野から僧が独り舟に乗り、はるか南のその浄土をめざした死出の旅が補陀落渡海であった。この浄土信仰は、日本的な常世と太陽信仰の上にある。やがて浄土信仰の主流は西方の阿弥陀信仰に奪われるが、これまた西方の常世と太陽(夕陽、落陽)信仰であった(この成立を描いたのが折口信夫氏の『死者の書』である)。
それから、本尊が二つあると述べたが、これまた面白い。小観音の方だが、補陀落山から難波津に流れ着いたのだと言う。まさに、常世から寄り来る神(マレビト)としての仏である。
日本では直接的な太陽信仰(古代エジプトのような)は弱いが、このような全自然の摂理を象徴するものとしての太陽信仰が基底的にある。正月信仰もこのヴァリエーションである。年末の衰弱した太陽とともに世界は一度、死に絶え、再び生き返るという信仰である。修二会、三月一日の本行開白後に行なわれる「一徳火」も、太陽の復活と世界の取り戻し(再生、黄泉返り)に他ならない。これは、新年そして迎春の象徴的儀式である。
正月、すなわち年越しには、おこもりやお祓いが必要だが、餅も付き物だ。修二会には、これもある。上七日に白餅一千面、下七日にも白餅一千面、計二千面の餅が須弥壇という大「仏壇」に供えられる。さらに、年占(としうら)もある。上下七日のうち、各後半三日間に行なわれる「走り」行堂というものだ。本尊の回りをぐるぐる回り、しだいに走って回る奇妙な行法だ。これは走り比べ(競走)であり、年占である。
年が明ければ、若水汲みである。皮肉と言うか何と言うか、仏教法会であるはずの修二会で最も有名なものが、日本の正月行事「お水取り」なのである。三月十二日の上堂松明は「籠大松明」(かごだいまつ)と言われる大きなもので、11本出る。「後夜」行の半ば、南石段下の閼伽井屋(あかいや。井戸)に「咒師」が先導して六人の練行衆が下りる。そこで若水を汲み上げる。若水は「香水」とも言う。
この若水には謂われがある。別当実忠和尚が初めて修二会を行じて諸神を勧請したとき、来遅れた神が一人いた。いまは二月堂を守護する遠敷社の、若狭遠敷明神である。その詫びに、若狭遠敷川の神水を観音に捧げることとなったのだ。面白いことに、三月二日には若狭神宮寺で、東大寺修二会のための「お水送り」という作法が行なわれている。
「お水取り」の次は、内陣で「達陀」妙法となる。「咒師」の鈴と叫びを合図に、八天たちが次々と飛び出してくる。火天と水天が、特に重要な役どころである。火天が達陀松明を所狭しと振り回し、内陣を火の海とする(実際、火事となり二月堂を焼失したこともある)。これに応えて水天が香水を振りまく。この達陀妙法は十四日の結願まで続けられるが、これは仏事というより、明らかに芸能(見せ物)である。
(たびたびの松明、それに若水と香水と、「火と水の祭り」と言われる所以である。いろいろと想像力を掻き立てられるが、今回は措いておく。)
▼咒師の役割から芸能へ
さて、語り残したことはあとわずかだ。この修二会の特色は、密教以前、かつ非密教の法会にもかかわらず、呪術的色彩が濃いということだ。「咒師」の存在とその役の重さがこれを物語っている。ちなみに東大寺は華厳宗の総本山である。ところが、ちょっとした秘密があった。弘法大師空海が、810年から4年間、東大寺の別当を務めていたのだ。修二会に対して、空海の関与がどれだけあったかは不明だが。
それにしても気になるのは「咒師」である。修二会の行は、次の三つの作法(パート)に分かれる。
1.悔過作法 時導師(平衆が交代で勤める)を中心に、旧年の罪障を悔過懺悔する。「一称一礼」と言い、声明ごとに「五体投地」という体を投げ出す礼拝を行なう。
2.祈願作法 大導師が新年の安穏豊楽を祈る。「神名帳」や「過去帳」の読誦もこのパートで行なう。
3.呪禁作法 「咒師」が内陣に結界を張り、悪魔悪霊の侵入を防ぐ。また、諸尊天王善神へ修法の加護を訴え、勧請する。
咒師はこのように、神仏および悪魔邪霊の渉外係を担当する。また、先に見たように、祓い、若水汲み、そして達陀での八天の呼び出しなど「咒」(呪)を一手に引き受けるのである。
咒師の動作も独特である。東大寺修二会でこそ、印を結び、結界を行道するなどにとどまっているが、大分県国東の諸寺では(そこでは「立役」という名に変わるが)、香水棒を打ち合わせながら飛び跳ね回る。さらに、薬師寺では「とんぼ返り」と呼ばれるターンと「呪師走り」という動作を行なう。能なのである。(これが「法会」外に出れば、興福寺の薪猿楽まであと一歩である。)
法隆寺修二会には古式の「追儺」が残されている。追儺は、節分(もとは年越しの大晦日)の厄祓いである。迎春法会としての修二会に追儺があることには何の不思議もない。追儺では鬼を追い払うが、これは本来「呪師」の役回りであろう。いまの法隆寺では毘沙門天がこれを務めてはいるが、これは「呪師」の要請を受けてにちがいない。
(後記)
まだまだ何か出て来そうだが、残念ながら、いまのところはここまでだ。なお、いつものことながら、理解不足や誤解があるかと思う。あらかじめ、お含みおきを頂くとともに、ご寛恕を願いたい。
[主な典拠文献]
清水公照/佐多稲子/佐藤道子『お水取り』(「古寺巡歴-2」)平凡社・カラー新書
『彼岸』(仏教行事歳事記-3月) 第一法規出版
山折哲雄『仏教民俗学』講談社学術文庫
「能と狂言の世界」雑誌『國文學』1978年6月号 學燈社
(99.02.23 添削修正)
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