mansongeの「ニッポン民俗学」

三輪山から伊勢へ




▼三輪山には大王=天皇家の神がいた

 奈良盆地の南東部、いまは桜井市に属する所に纒向(まきむく)遺跡がある。三世紀初めから四世紀初めにかけての集落遺跡で、古墳時代の始まりを告げる箸墓(はしはか)古墳など、初期古墳も六基ある。

 この遺跡の一つの特徴は、遠くは朝鮮半島、東海や北陸地方、近江など、広域から持ち込まれた土器が数多く出土することである。また、集落内に運河が掘られており、大和川を上り下りする大阪湾への水運を確保していたと見られる。

 以上のようなことをもって、纒向遺跡は「邪馬台国」畿内説の最有力地とされている。しかしながら、出土品にはあるべきはずの中国の影響が乏しい。よって、『魏志・倭人伝』の「邪馬台国」にはやはり北九州地域がよりふさわしいように思われる。

 ずばり言ってしまうと、纒向は「大和朝廷」の都である。大王=天皇家の故地である。そして「大和」とは纒向の地の古名である。それが奈良盆地の平定とともに、この地域全体を大和と呼ぶようになり、さらに日本全土を大和と呼び習わすようになったのだ。


 さて、この纒向の地から否でも応でも目に入ってしまう秀麗な神奈備(かむなび)がある。そう、神の坐(いま)す御諸(みもろ)山である「三輪山」である。三輪山の神は大王=天皇家の神であった。しかし今はそうではない。天皇家の神は伊勢神宮に坐す。

 『日本書紀』には垂仁天皇の御代に、天照大神を三輪付近(笠縫邑、厳橿が本)より伊勢に遷座したと記されている。しかしこれは真実ではない。伊勢の地、すなわち度会氏(もと磯部氏。イソ→イセ)の所領の一部が朝廷のもの(評・こおり)となったのは、大化改新のときであった。

 それ以上に、なぜ天照大神が皇祖神の主神であり、あるとき独り大和を遠く離れて伊勢に鎮座まさねばならなかったのかが証されねばならない。まず、三輪山の神にお尋ねすることから始めよう。

▼農耕の神の成長

 纒向、すなわちもとの「大和」は弥生文化の農耕都市であった。ゆえに、三輪山の神も農耕の神でなければならない。農耕の神とは、天候を支配する神(日や水の神)、稲穂の神(穂の倉→ホクラ→ほこら・祠)、祖霊の神などの性格をもった神である。

 それまでの縄文文化では、恵みと恐れの神がいた。森林や海川の近くに住み、農耕を知りながらも、狩猟採集を主たる生活手段とした縄文人は、自分たちの生活を豊かにしたり、また災いをもたらしたりするもの(精霊)を、万遍なくカミと見なした。

 それに対して農耕を生活基盤とする弥生人は、はっきりとカミの集中化と統合化を行なった。それが先ほど述べた神の性格だ。つまる所、それは生産の神である。紀記の神名で挙げれば、神産巣日(カミムスビ)神こそ、それに最もふさわしい。

 おそらくこのカミムスビ神こそ、三輪山の本当の主であり、大王=天皇家の神の本体である。しかし「初めに神の名があった」わけではない。初めは「そこに神があった」だけである。天皇家、いや大王家、いや初めは一有力豪族としてあった「大和氏」は自分たちの農耕神として、三輪山の神を祀ったのだ。

 和魂(にぎたま)として恵みをもたらす神も、時として災いをもたらす荒魂(あらたま)になる。そうした吉凶の祭祀を繰り返しながら、いつしか祖霊神へと高められていく。これが日本各地の豪族たちの中でも生じた、神と氏族共同体の関係であり祭祀であったろう。

 政治の時代である古墳時代を迎え、そうした氏神であり農耕神でもあった神も整理されていく。三輪山では、豊穣をもたらす土地神としての「国神」、氏族の繁栄をもたらす祖霊神としての「氏神」の性格に二分されていく。しかし信仰とはそう単純・一様なものではない。前代の精霊としての性格などもオーバーラップさせながら、各地各氏ごとに複合した神格を成長させていったことであろう。

 やがて、神に名がつけられるようになる。ただし、そのたいていは紀記に登場する神名ではなかったはずだ。これを推測するに、明治維新が参考になる。大社会変革(「革命」)には「宗教改革」が伴う。明治維新の場合は「廃仏毀釈」と「国家神道」がスタンダードとなった。それまでの神仏習合が捨てられ、また紀記(「古典神道」)の神に、にわかに全国の「神」が変身した。ここでは、京都の祇園社が八坂神社と名を変え、祭神を牛頭観音から「同体の」スサノヲ神に変えたことだけを指摘しておこう。

 これと似たようなことが古代にも起こった。その完成は紀記の完成を待たねばならないが、古墳時代すなわち大和朝廷の全国支配の進展は、確実に各地の豪族(氏族)の神を宗旨替えさせたはずだ。すでに大王家となっていた「大和氏」の神との親しい関係が求められていた。第一次の神統譜、すなわち相互につながりをもった神々の系譜がこうして形作られる。

▼三輪山の神の運命と斎宮

 ここで弥生から古墳時代にかけての祭祀のスタイルを考察しておこう。ご存知の通り、『魏志・倭人伝』の「邪馬台国」女王である卑弥呼は斎王であった。祭事は女王、政事は男王、という共治スタイルがそこには描かれている。のちの「斎宮」と「天皇」を連想させずにはおかない。

 おそらくその通りなのである。この国では「女の力」とは神に関わるものであり、縄文時代の「地母神」の深い記憶に根ざすものなのであろう。マツリゴトが文字通り「祭事」であった時代、神政時代は女王の時代だったのである。しかしいつしかマツリゴトは「政事」に変わっていく。そうして男王が政治を行なうようになるが、それでも氏神の祭祀は女王の仕事であった。

 大王家でもそうであった。三輪山の神を祀るのは「女王=斎宮」の仕事であった。崇神紀に登場する豊鍬入姫命(天照大神の斎宮)、渟名城入姫命(倭大国魂神の斎宮)、倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソ・大物主神の妻)、垂仁紀の倭姫命(天照大神の斎宮)などがその姿を示している。のちの伊勢神宮の斎宮はむしろ、その形骸化した姿である。なぜなら、その頃には男王である「天皇」が主たる祭祀者となるのであるから。

 そろそろ三輪山の神の運命について触れなければならない。伊勢への遷座は大化改新から藤原京ころまでの七世紀後半に行なわれた。どのようなことが行なわれたのか。前代未聞のことが行なわれた。大王家の「氏神」を三輪山から抜き取り、伊勢に遷したのである。遷された神はもはや、一「氏神」なぞではなかった。大大和=日本の「国家神=天皇霊」であった。これが天照大神である。(なお、現在に続く伊勢の祭祀や遷宮などの様式は、文武天皇から聖武天皇の御代(八世紀前半)の間に確立された。)

 「天照大神」とはいかなる神かを解く前に、その後の三輪山を見ておきたい。三輪山の神はすでに大和の「国神」と大王家の「氏神」に分離されていた(崇神紀)。「氏神」はいま見たように、「国家神」として伊勢に遷された。一方の「国神」は「倭大国魂神」として大倭神社(現天理市)に祀られることになった。祭主は大倭直長尾市宿禰であった。つまり神を臣下に下げ渡したのだ。

 こうして「もぬけの殻」となった三輪山はどうなったか。「蛇の神」が復活する。これは農耕の「水の神」ではあるが、いかにも原初的な姿である。三輪山の神が蛇であるという話は、『日本書紀』に二度登場する。まず崇神紀では、妻である倭迹迹日百襲姫命が神に「姿を見せてほしい」とせがむ。すると、神は蛇身を現わすが、姫は驚きのあまり、ホトを箸(はし)で突いて亡くなってしまう。

 二度目は雄略紀に、「三輪山の神の正体を見たい」という大王の願いに力自慢の家臣が応え、一匹の蛇を捉えてきたとある。無惨である。これが自身の氏神=天皇霊に対する扱いであろうか。もちろんそうではない。ここからもこの話が後世の、すなわち天皇霊の遷座後の挿入であることがわかる。

 天皇霊の遷座がより後世のことであった証拠を残す話もある。敏逹紀に581年のこととして、反乱を起こした蝦夷の首領が三輪山の都(大和)に連れて来られ、初瀬(泊瀬)川で禊ぎさせられたあと、「三輪山に向かって天皇霊に忠誠を誓った」とある。「天皇霊」という表現自体はのちの置き換えであるが、三輪山の神=大王家の神であることは明白だ。

 話があちこちして申し訳ないが、ホトを突いて亡くなった倭迹迹日百襲姫命は、三輪山の神に仕えた最後の神妻=斎宮である。これ以降、三輪山の神には天皇家の斎宮に代わり、大田田根子とその子孫つまり大三輪氏が祭主となる。神の名も変わる。すなわち大物主神である。

 三輪山に仕えた斎宮、神女たちが確かにいたことは『古事記』や『万葉集』などの歌(注)にも明らかだが、彼女たちは禊ぎをする初瀬川の奥の初瀬(長谷)に斎みこもりした。それが「初瀬」に掛かる枕詞「こもりく(隠国)の」の意味だ。その地に長谷寺が建てられるのである。天武天皇によって選ばれた伊勢神宮最初の斎宮である大伯皇女が、ここ初瀬の宮にこもったのはその最後の名残りである。


 なお、倭迹迹日百襲姫命の墓は、箸墓古墳と書紀には記されている。果たして古墳は女王=斎宮のためのものとして発生したのであろうか。筆者にはわからない。ともあれ、斎宮の去った三輪山の神は時代を逆戻りして、蛇の神とされた。それどころではない。大田田根子に引き渡されたときには、国中に災いをもたらす崇り神として登場している。

▼「天つ罪」は農耕社会に対する罪である

 ところで、倭迹迹日百襲姫命の不幸な亡くなり方にお覚えがないだろうか。同じような亡くなり方をした神女がいた。そうだ、スサノヲ神が高天原で大暴れしたとき、天照大神の側で機(はた)織りに仕えていた女性である。スサノヲ神が生き馬の皮をはぎ、それを機屋に投げ込み、そのショックで機棒でホトを突き亡くなってしまったのだ。

 これらは何を語るのか。ホトは生産、農耕の豊穣の象徴であろう。ホトを突いて亡くなることは、生産や農耕の豊穣の途絶を意味する。農耕社会にとって、これは最大の重大事である。それが、天上の田のあぜを崩すなどスサノヲ神の犯した「天つ罪」であり、すなわち農耕社会に対する罪なのである。

 スサノヲ神はこの「天つ罪」により高天原から追放されるのであるが、はなはだ興味深いことには、「神やらい」という神判あるいは神罰を受けている。これはのちの「節分」の「鬼やらい」である。このとき、大赦えの祝詞が唱えられている。祓えの出自もここにある。

 このあと、地上の国を経てやがて根の国に下るスサノヲ神とはだれか。退治される八岐大蛇(やまたのおろち、蛇の神!)ともども、「追いやられる者」たちの象徴である。「新秩序」から祓われねばならぬ旧秩序・旧原理の体現者である。スサノヲ神や蛇の神、そして「根の国」は、新社会にとって旧社会のあり方そのものなのである。

 一方の「高天原」と天照大神が新秩序の象徴である。天照大神は天上で田を耕し、馬を飼い、機を織っていた。「高天原」は理想の農耕社会であり、天照大神は最高の生産者であったのだ。これだけでは単に農耕社会の原理にすぎない。もちろん、「天照大神」にはそれ以上の意味がある。それは新しい政治原理でもなければならない。

▼「天照大神」の造形

 それでは、天照大神の秘密を探っていこう。この神は天上で「機を織って」いるように、女性である。そして「天の岩戸」の話でご存知のように、また「天照らす」という神名から言っても、太陽神(日神)である。太陽神信仰は、名に使われる「日子=彦」や「日女=姫」の美称にも表れているように古くからある。しかしこの日神が皇祖神の主神たらねばならない必然性はない。

 ところで、日と来れば、「月」である。天照大神はイザナギ神が禊がれた左目から生まれたが、そのとき右目から生まれた神がいた。月読(つくよみ)神である。伊勢神宮には別宮として「月読宮」がちゃんとある。天照大神は高天原を、月読神は夜の世界を治めよとイザナギ神は命じられた。ちなみにスサノヲ神は鼻を禊がれたときに生まれた。それはさておき、日神と月神、そしてその母親神という三神がトリオとなった古い信仰があった。

 顕宗紀にこの三神が登場するが、その記述は壱岐と対馬を指し示している。『延喜式・神名帳』は、壱岐に「月読神社」と「高御祖(たかみおや)神社」を、対馬に「阿麻弖留(あまてる)神社」と「高御魂(たかみたま)神社」を記載している。すなわち、月読神・「天照神」・高御産巣日(タカミムスビ)神であるが、これら三神も農耕の神である。このタカミムスビ神、および先述のカミムスビ神は、紀記冒頭に登場する最高の皇祖神たちである。

 つまり、「天照神」はこの信仰においても最高の一神ではあったが、至高神ではなかったのだ。筆者はこう考える。あるときだれかが何かの意図をもって、この三神を最終的な神統譜(紀記)に持ち込み、特に「天照神」を「天照大神」に仕立て上げたのである。そして実は「天照大神」という「役柄」は造形されている。それは「スサノヲ神」という「役柄」と対になった造形である。

 不思議なことに、紀記では日神・天照大神に比べ、月神・月読神の影がはなはだ薄い。また、伊勢に初めて参宮された天皇は明治天皇だ(それまではどの天皇も公式には参拝したことがない!)。宮中祭殿にカミムスビ神とタカミムスビ神の本体が祀られているが、天照大神の方は伊勢の模造の鏡と分霊があるだけなのである。

 ここには何らかのからくりがある。「天照大神」は言わば新しい神なのである。天皇家の氏神の本体はカミムスビ神である。それに別系の三神が持ち込まれ、タカミムスビ神がカミムスビ神と一体化された。日神と月神も紀記に取り込まれたが、後述の通り、特に「天照神」が天皇制の象徴神「天照大神」として抜擢されたのだ。

 だから「天照大神」とは、実はあくまで「国家神=天皇霊」であって、「大王家=大和氏」の「氏神」ではない。少なくともその「本体」ではないのだ。そういう意味では、三輪山から伊勢への遷座とは詐術である。三輪山の本当の神は宮中深く秘匿されたのである。

 では、この三神を祀る信仰を、だれが記紀に持ち込んだのか。壱岐と対馬は、実は中国仕込みの亀卜(きぼく)を職とする者(卜部・うらべ)たちの島であった。この卜部の系譜を引く者が天皇のお側近くにいる。六世紀後半の物部氏没落のころ、蘇我氏政権にもぐりこみ、それまで物部氏所管であった大王家祭祀の実権を手中に収めた「中臣氏」(のちの藤原氏)である。

▼「天照大神」の役柄と「天皇制」の確立

 最後のカギを開けることにしよう。「出雲大社」と「大国主神」だ。出雲大社は、間違いなく伊勢神宮と対(セット)で誕生した。神宮と大社は、初めての本格的な「社殿」をもつ特別な社であった。文字通り、この二社は「作られた」ものなのである。その鎮座の地も選ばれたものである。どちらも畿内の中心からほど遠い所であるが、神宮は日の昇る東方に、大社は日の沈む西方に置かれた。出雲大社の役割とその地の豪族とは、伊勢同様、直接には何の関係もない。

 先ほど述べたように、「天照大神」対「スサノヲ神」、また「高天原」対「根の国」もセットである。前者は理想の社会(=脱氏姓制=律令的天皇制)と指導者(=天皇と官僚)であり、後者は前者にすべてを譲り渡して去るべき社会(=氏姓制=豪族的秩序)と指導者(=大王と豪族)である。この後者から前者への移行劇が「ニニギ神」と「大国主神」の演ずる「国譲り」なのである。

 大国主神こそ、最高の敵(かたき)役である。彼に追い祓い流すべき「旧秩序」は集約されている。紀記の神統譜は「国つ神=豪族」をすべて大国主神に結びつける。その最大最後の指し手(戦略)が三輪山であった。最高最大の豪族を自らの手で扼殺し、豪族は廃すべき旧原理だと断じたのである。豪族「大和氏」の消滅であり、隠蔽である。そして、絶対の「天皇家」が確立する瞬間であった。

 若干の補足が必要であろう。まず、大物主神について。三輪山の新たな主に収まった大物主神は大国主神の別霊とされているが、これは大国主神の方こそが大物主神の別霊であろう。何しろ、三輪山は最大最高の神霊地(豪族としての大王家氏神の旧地)なのであり、それが反転したものが「大物主神」なのであるから。しかし、「新秩序」下における神々の系譜と鎮座の地は、「国つ神の故地である出雲」の「大国主神」という「役柄」(「国つ神」の代表)から発する必要があったのだ。

 次に天照大神について。彼女は、いま述べた「大国主神」を陽転させた上での同様の「役柄」なのである。新しい原理と秩序(律令的天皇制)はすべて彼女から発するのである。天照大神は皇祖神すべての代表であり、また「高天原」の「天つ神」(=律令的秩序での支配者)の代表なのである。だからこそ、この神が自身の母親神をも差し置いて主神となり、「出雲」と対になった「天つ神の地である伊勢」に鎮座ましますのだ。天照大神を祀ることはすべての皇祖神を祀ることと同義なのである。

 最終的な神統譜である紀記をプロデュースしたのは「藤原氏」である。このことについて述べ始まると、いつまで経っても筆を置けそうにないので、ここでは二点だけ言っておきたい。一つは、紀記の上記のような内容は「天皇制」という新秩序のためのものであったが、同時にあるいはそれ以上に、藤原氏自身のためのものであったことだ。新しい律令的天皇制秩序は「旧秩序」に属さない「中臣=藤原氏」にとって、「旧豪族」打破のための「最終兵器」であった。そしてその目標は、律令制の太政官は藤原氏が、神祇官と伊勢神宮祭主は同族の中臣氏が支配する体制であった。

 二つ目は、記紀には「神代巻」を中心に、七世紀後半から八世紀初めにかけての天皇家と藤原氏が描き込まれているということだ。すなわち、編纂当時の政治的意図が組み込まれている。顕著な箇所を一点だけ言うが、「天孫降臨」は祖母・持統天皇から孫・文武天皇への、同時に祖母・元明天皇から孫・聖武天皇への皇位継承の投影であるし、ここに登場する「タカミムスビ」神の役柄は藤原不比等の投影と言わざるを得ないのだ。


[主な典拠文献]
(追記)
(参考)
head
Copyright(c)1996.09.20,TK Institute of Anthropology,All rights reserved