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mansongeの「ニッポン民俗学」
天皇の祭祀---収穫祭と大嘗祭と
七世紀後半に始まる「律令的天皇制国家」の祭祀、つまり「天皇の祭祀」について述べたいと思う。これは、『古事記』や『日本書紀』における「神話」体系、「天皇」概念や「伊勢神宮」(正しくは「神宮」)の設置などが絡み合って成立していくが、ここでは一連の収穫祭と大嘗祭の線に絞って取り上げたい。
律令制の「公地公民」「班田収授」の導入とは、それまでの氏姓制での「既得の所有権」を否定することを意味する。それ以上の「理想」なぞ何もない。手っ取り早く言えば、各地の豪族たちが先祖代々受け継いだり奪ったりして拡大してきた領有地の所有権を、一片の通牒によって「国家」がかっさらうことであった。そしてその眼目は「税」である。
しかしこれは紙の上の話である。そのためのシステムがあったわけではない。豪族=「国造」を「郡司」とし、朝廷から新たに「国司」を派遣したところで、勝手に「税」が入ってくるわけではない。その「税」はいかにして徴収できたのか。これには「祭り」が深く関わっている。
まず、「税」概念がない時代である氏姓制での「税」とはいかなるものであったろうか。豪族たちは共同体(氏)の神を祀る祭りを主宰していた。氏長者こそ、祭主(前代の祭主は女性長者)であり、その祭りの中心は収穫祭であり豊穣祈願祭であった。農耕・狩猟・漁撈・採集の豊凶をもたらすのは神だからである。
この神に感謝をもって今年の収穫を捧げ、また翌年の豊穣を願うのが「祭り」(新嘗祭)の本義である。農耕の場合は「初穂」と言って、最初の収穫を神に献上する。実は、これが祭主=族長にとっての「税」収である。大王家との「契約」あるいは臣従の意をもって、さらにその一部が朝廷に献上された。共同体では神饌などの幣帛(捧げ物)の献上のあと、神とともに直会(なおらい、神人共食)が行なわれた。
共同体ではこの他に毎月満月の夜、作物の順調な生育とこれに適した降雨などを祈願する「祭り」(月次祭)が行なわれた。月の満ち欠けは、神や善き精霊の満ち欠けを表している。神の霊力の満ちる夜こそ、ケ(生エネルギー)が満ちる時である。神の食べ物をともに頂くことで、新たな生気が人の身体にも満ちる。
さて、このような共同体の「初穂=税収」体制が律令の導入によって、どうなったか。どうにもならない。いま述べたこと(初穂→族長→朝廷)が公式化されただけである。いや、一つ大きく変化したことがあった。神祇官による、各神社(=共同体)への幣帛の下付である。毎年二月に全国の神主を都に集めて、中臣の祝詞のあと、天皇霊に満ちた幣帛が頒布された。神主たちはこれを押し頂いて郷里に帰り、それぞれの神に捧げた。
これは何を意味するのか。例えば稲の場合だと「稲魂」と呼ばれるように、作物や獲物はその一つ一つが「カミ」(精霊、魂)なのである。最高の霊威をもつとされる天皇霊でもって、春に播く種もみの稲魂を「魂振り」する。これによって、豊作をより確かなものにすることができる。そしてそれがひいては、より豊かな税収につながるというわけだ。実は、これが国家祭祀である「祈年祭」というシステムである。
収穫感謝と豊作祈願の「新嘗祭」、毎月の作物の生育と順調な天候を願う「月次祭」、これらは共同体の祭りである。それが国家主導の祭祀として再編される。その中央官庁である神祇官(中臣氏)が、私幣禁断の伊勢神宮と天皇を軸にこれを取り仕切る。私幣禁断とは、天皇だけが参拝できることだが、実際は参拝せず、それは斎宮(王)と勅使の仕事だ。
一年の始まりは神主が参集する「祈年祭」である。続く「月次祭」は中央では、六月と十二月の二回行なわれる(これは毎月の祭りを年二回に集約したものであるが、「六ヶ月」が「一年」であった時代の名残りでもある。その後に「十二ヶ月」が「一年」となり、年一回の新嘗祭が始まった)。このとき、勅使が伊勢神宮に下向し幣帛を捧げる一方、宮中では天皇が深夜、神人共食される。
そして最重要の収穫祭に当たっては、全国の新嘗祭に先立って伊勢神宮で「神嘗祭」が取り行なわれる。新穀を「大御饌」(おおみけ)として、勅使の幣帛とともに天照大神およびトヨウケ大神(外宮の神)に捧げるものである。翌月の「新嘗祭」の際には、宮中で天皇が神人共食される。このように天皇と伊勢神宮が先導し、これを受けて全国の共同体で祭りが取り行なわれるというのが律令制の神祇制度である。
それにしても「食」の重要性に着目せざるを得ない。「大御饌」は「おおみケ」であるように、食べ物こそ神にとっても人にとっても生命の源であり、ケ=食べ物=生気である。外宮のトヨウケ大神も、実は「ケ=食」の神である。日本の神事の秘密の一つはこの「食」にある。そして国家最高の祭祀(唯一の「大祀」)である「大嘗祭」も「食」の祭祀である。
周知のように、大嘗祭とは新天皇即位後、初の新嘗祭のことである。在位中最初にして最後のたった一回限りの大祭祀である。「大祀」である大嘗祭に次ぐ重要な国家祭祀は「中祀」と言い、祈年祭、月次祭、神嘗祭、新嘗祭、賀茂祭の五祭である。賀茂祭(葵祭)を除いた祭祀はすべて収穫祭であり、いま見てきたようにここでは常に伊勢神宮が連動する。
では、この大嘗祭では伊勢神宮はいかなる役割を果たすのだろうか。それがいまでは無関係である。どういうわけか連動の「糸」が切れている。本来はつながっていたものとは何か。それは「遷宮祭」である。それしかあり得ない。遷宮とは何か。「国家」神宮の死と再生である。そしてこれが大嘗祭と対になるものであれば、大嘗祭そのもの意味も明らかであろう。天皇霊の「遷宮」、すなわち天皇の死と再生でなければならない。
時空を統べる天皇の交替(死と再生)とは「国家」=世界そのものが再構築(リストラクチュア)されることである。すべてが一新されなければならない。事実、神宮ばかりではなく、このとき斎宮も交替した。すべて天皇の在位に合わせた一世一代限りなのである。
(話が少しずれるが「斎宮」について一言申したい。斎宮は天皇の身代わりだとされているが、そうではない節もある。斎宮は、二回の月次祭と神嘗祭の計年三回しか、神宮に詣でない。しかもその三節祭での役割も大玉串(みてぐら)を持つだけである。これ以外は神宮から遠く離れた宮に独り斎き住む。これは神の生活そのものである。斎宮とは、実は神の依り代で、三節祭には神そのものとして神宮=祭場に訪れられるものではないか。)
大嘗祭に話を戻す。大嘗祭の夜には三つのステージあるいはモメントが認められる。すなわち、聖水沐浴、神人共食、御衾(おぶすま、寝所)秘儀である。これをどう解くかについては折口信夫博士を始めとする先学の大家たちの諸説がすでにある。筆者ごときが付け加えることなぞ無きに等しいが、少しく申し述べたい。
まず、考えねばならないのが沐浴時の湯帷子(ゆかたびら)で「天羽衣」と称される着衣である。天皇はこれを羽織られて湯殿に入られ、中の湯槽で脱ぎ捨てられる。そしてそこを出て、新たな天羽衣に着替えられ、神饌が用意された寝所に進まれる。なぜ「天羽衣」と称されねばならないのか。聖水による沐浴とは、単なる禊ぎではなく、産湯である。すなわち、この世ならぬところ(天)からこの世に生まれられたことを「天羽衣」は示しているのではないか。
新生した天皇は神(天照大神)に神饌を供えられ、ともに頂かれる。何度も述べてきたが、食(=ケ)は生エネルギーであり、新たな魂である。すなわち、このとき天皇は天照大神と同じ霊力を身体に入れられる。これこそが祭りの中核であることは間違いない。
最後の御衾秘儀とは何だろうか。一説に神人共寝だと言う。また、紀記の天孫降臨の際にニニギ神が身にまとわれた御衾と同意だと言う。名称から言えば、その通りであろう。ただし、御衾に包まれたニニギ神の姿をこそ注視する必要がある。この産着に包まれた赤ん坊のような姿とは、実は穂に包まれた稲の姿である。すなわち、稲魂の誕生こそが含意である。
かくして、大嘗祭の夜の秘儀には、二つの信仰と三つの神話が複合している。沐浴を経ての新生が古層であり、これはつまるところ再生=脱皮信仰である。蛇のように脱皮して再生するという考えであり、また若水の信仰にも通じている。他の二つは、再生信仰でもあるが農耕と深く結びついた霊魂の信仰である。この二つの信仰の間には微妙な開きがある。これが天皇そのものの再生と、霊の再生(依り代としての天皇)という違いになっている。三つとも神話の再現であるが、言うまでもなく最後の御衾秘儀は、最も新しい紀記神話の再演である。
(後記)
折口信夫博士は大嘗祭について独特の考えを持っていた。沐浴後の聖婚(その方が皇后となる)と、前代の天皇(亡き骸)との共寝である。前者はエロチック、後者はミステリアスであるが、折口博士の色がよく出ている。
また、伊勢神宮と来れば「心の御柱」なのであるが、これはまたのちのお楽しみとしたい。
[主な典拠文献]
義江彰夫『神仏習合』岩波新書
宮本常一『伊勢参宮』(現代教養文庫)社会思想社 別版
山折哲雄『みやびの深層』(日本文明史4)角川書店
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