mansongeの「ニッポン民俗学」

八十嶋祭と即位儀礼



 八十嶋祭とは、平安時代の記録に残る、天皇即位の大嘗祭の翌年に行われた即位儀礼の一つである。淀川を八十嶋祭使を乗せた船が下り、大阪・難波津で生島神や足島(たるしま)神などを祭るものであった。そこでは天皇の御衣を海に向かって振り動かすという、鎮魂祭と同様の呪術も行われた。

 八十嶋祭とはいったい何か。紀記の「こをろ こをろ」を思い出さねばならない。すなわち、イザナギとイザナミの国生み神話である。「生島」とは島が生まれる様であり、「足島」とは島が出来上がった様である。こんな光景はどこにあったのだろうか。そう、『日本書紀』神話に国生みの「胞衣」(えな、胎児を包んだ膜と胎盤)として登場する淡路島の目の前、古代の大阪である。

 太古の東京湾が出来る過程もおもしろいが、古代の大阪もまたおもしろい。大阪は平野ではなく内海(河内湖)であった。大和盆地に発する大和川が南西部から河内に流れ込む。大和川は扇状の支流となって拡がり、土砂をそこいらにまき散らかし、河内平野が出来ていったのだ。一方、北西部からは淀川がこの内海に土を運びながら流れ込み、大和川と合流して大阪湾へ注ぎ込んでいた。


 内海は淀川河口から東へ、そしてそこから南(河内平野)に広がっていた。大阪の陸地は内海の南にあり、そこから内海を包むように西側では南から北へと細長く伸びていた(上町台地)。その上町台地の南端部に住吉の社地があり、その北方に四天王寺が後ちに築かれ、さらに北部にあったのが難波宮である。紀記に記された難波宮は二つあり、大化改新直後の孝徳天皇の宮と「河内王朝」時代の仁徳天皇の宮である。

 大和川が注ぎ込む内海に洲が出来、島となり、やがて陸地となっていった。また、淀川が内海に流れ込むあたりにも、洲と島が次々と出来ていた。例えば、今ある大阪・中之島もそうした洲であった。「こをろ こをろ」と洲(島)が誕生する国生みとは「河内王朝」時代に成立した神話である。


 『古事記』によれば、イザナギとイザナミの二神が生んだ「島」は、淡路島、四国(伊予の二名島)、隠岐、九州(筑紫島)、壱岐、対馬、佐渡、本州(大倭豊秋津島、オオヤマト=トヨアキツシマ)、すなわち「大八島国」である。「大八島国」とは何か。当時の国土である。しかしこれは実は「首長同盟」である。まだ「統一国家・日本」ではない。

 国土を点検していこう。文字通りの島を除くと、四国は「伊予の二名島」の名の通り、瀬戸内の愛媛が中心に捉えられている。九州は筑紫、すなわちせいぜい北九州地域である。そして「大倭豊秋津島」であるが、むろん本州全体を指すのではなく、その名にしたがえば、「ヤマト」と「アキツシマ」である。「ヤマト」とは三輪山のふもと、磯城(しき)の地のことであり、「アキツシマ」とはその東方、葛城の地のことである。「河内王朝」時点の拡がりを考慮しても、大和盆地と大和川によって結ばれた大阪地域こそが「大倭豊秋津島」であると言わざるを得ない。つまり、『古事記』に記された国土「大八島国」とは、大和・大阪、淡路島、四国北部、北九州、壱岐、対馬、プラス佐渡、という版図となる。

 『日本書紀』にも「大八島国」について、計十種の記述がある。注目すべき異同は、越洲(北陸)、大洲(出雲)、吉備子洲(岡山)である。これら三洲(島、地方)はある書には現れ、またある書では消える。これは「首長同盟」への参加あるいは統合状況の推移を表している。

 この「首長同盟」は「邪馬台国同盟」とでも称すべきものだ。「邪馬台国」とはヤマト連合(大倭豊秋津島)である。これを盟主とした同盟があった。ひとまず吉備を加えれば、立派な瀬戸内同盟である。この同盟は、当初、北九州の「玄界灘同盟」への対抗組織として発足した。

 弥生時代以来の外交は対朝鮮・中国問題であったが、その中核は鉄の輸入であった。その総輸入元は長らく「玄界灘同盟」であった。これに対抗すべく、瀬戸内同盟である「邪馬台国同盟」が結成されたのだ。もくろみは見事に成功して、北九州=元「玄界灘同盟」を呑み込んでの「大八島国」同盟が形成される。

 ではなぜその盟主がヤマト連合なのか。「ヤマト=磯城」の中心が纒向(遺跡)であった。ここから出土する土器の50%は、東海地方からもたらされたものである。これは東海地方との交流が活発だったことを意味する。三輪山の南を流れる初瀬川から伊勢に抜ける山川の道こそ、そのルートである。つまり、ヤマト連合は東海地方、ひいては東日本に対しての総輸出入元だったのだ。

 同盟は祭祀儀礼や神話の共有化を進める。「大八島国」の大同盟への参加単位は各地方連合である。ここでまず、祭祀儀礼の統合が行われている。例えば、「古墳時代」以前の大型墳丘墓がこれを示している。その典型例は出雲連合の四隅突出型墳丘墓であり、連合内では共通の葬礼様式が執行されている。そしてヤマト連合の墳墓形式こそ、前方後円墳であった。それは三世紀後半、「ヤマト」の箸墓(はしはか)古墳に始まる。この同盟盟主・ヤマト連合の墳墓形式が、しだいに全国に拡がっていくのである。


 実は「こをろ こをろ」の国生みの姿は、大阪だけに見られた特別なものではない。いやむしろ、海退期を迎えた弥生時代以降の全国どこにでも見られた平野形成の姿である。やや特異なのは出雲の「国引き」という国生み神話である(これも海退期の平野形成を記述する別表現に過ぎない)が、これは大同盟との違和をそのまま残しているのだ。

 さて、出雲以外の各地方連合は盟主ヤマト連合の主唱する「国生み」神話を受け入れ共有化し、またその墳墓形式も前方後円墳となっていく。その同盟祭祀こそ、原初の「八十嶋祭」に他ならない。改めて「八十嶋祭」とは何か。大同盟に参加する首長たちが集まり、共祭するイザナギ・イザナミ他の神々を祭り、そして大同盟の盟主を推戴する即位儀礼である。すなわち、ヤマト連合の新首長を同盟の新盟主として受け入れ、これに忠誠を誓う儀式であった(淡路島こそ、その儀礼の地ではなかったか)。

 古墳時代とは、枠組みとしてはこの「大八島国」同盟の時代であったが、その内実は各地方連合が「邪馬台国=ヤマト連合」に次々と呑み込まれていく、つまりヤマト連合が全国に拡張していく時代であった。こうして盟主ではない「大王」が生まれ、散在した国土は統合され「ヤマト」の一部となっていった。


 なお、越洲(北陸連合)は、神功皇后(オキナガタラシ姫)の神話と継体天皇によって、同盟に深く結びつく。一方、大洲(出雲連合)は入脱退の後ち、一番最後に同盟に再加入した。それ故に、出雲の加入は西日本の統一を意味することとなり、それが出雲の「国譲り」に象徴的な意味を与えることになったのである。

[主な典拠文献]
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