mansongeの「ニッポン民俗学」

ハレと祭りとカーニバル



 ハレとケの概念は、円環的時間論に基づいている。円環的時間論というのは、世界は始まるが、一定期間が経ったら崩壊し、再び再生するという、時間が同心円を螺旋状のように回る世界観である。そこには本質的な「進歩」や「発展」はない。

 これに対するのが直線的時間論である。世界は一度始まったら、もう元には戻らず、絶えず変化していき、最後は崩壊を迎えて終わるという、一回限りの一本の時間軸が延びた世界観である。

 現代に棲む私たちが後者の時間論の呪縛にあることは言うまでもない。この世界観は、実はやや特殊なものであり、ユダヤ-キリスト教の世界観(神による世界創造〜終末と審判)に基づくものである。

 なぜ直線的時間論が特殊なものであるかと言うと、この時間論を担うキリスト教的ヨーロッパ文明が全世界を席巻するまでは、世界では円環的時間論がむしろ圧倒的であったからだ。

 例えば、東洋的な王朝の時間を考えてみよう。まず、王の死が世界の崩壊である。新しい王の即位は新世界の誕生、世界の再生なのである。年号とは本来そういうものとしてあった(暦年主義の「西暦」と比較されたし)。王朝の交替という、より大きな事態では、全くもって世界秩序の作り直しなのである。


 話を少し戻すが、人間は自然の一部であり、自然とともに生きてきた。そういう人間が自然の姿を見て、また自分たち自身の有り様を顧みて、どういう世界観をもったかは自ずから明らかであろう。世界にあるあらゆる生き物は生と死によって明滅し、子は親をまねるように生きてきた。原初的、原型的な世界観が円環的時間論にあることは間違いない。

 実際、直線的時間論を自明にして生きる現代人である私たちでさえ、いまでも基底的には円環的時間論を生きている。時間とは世界であるが、例えば「正月」は一年という時間の始まりであるとともに、世界の誕生(再生)である。生の前には死がある。大晦日の夜の、あの何とも言えぬ時間のやり過ごしは「死」の体験でなくて何であろうか。それが証拠に、年が明けた新年の挨拶の晴れ晴れしさはどうであろう。

 一年自体が、生と死をくり返しているという感覚が、ハレとケに通じている。もちろん、一日や一月も生と死をくり返している。これを天に転じれば、太陽が、そして月が生き死にし、円環的時間をくり返している。私たち人も、一生涯の中で絶えず生き死にしている。放っておけば、生は崩壊してしまう。生エネルギーを補充し、再生行為をくり返さねばならないのだ。これが円環的時間論に棲む人生観である。

 ではいかにして日本人は、生涯の中で生エネルギーを補充してきたのであろうか。それは祭りの日に神から得てきたのである。祭りの日こそ晴れ(ハレ)の日である。いまでは祭りとは見せ物となったものを言う。しかし本来は、正月や盆、節句、農耕儀礼など、神と交渉をもつ様々な機会すべてが祭りである。すなわち、これがハレの日である。

 祭りの本質とは何か。神話の再演、世界の始まりの時間を神といっしょに過ごすことにある。そうして原初のエネルギーを得るのである。その具体的な象徴行為が餅(米)を食べることだ。これはただの米ではない。神に捧げる食べ物を御饌(みけ)というが、これをおすそ分けしたケ(食べ物)である。神のエネルギー源と同じものを食べることで、ケ(生エネルギー)が充満するのである。これがハレる(晴れる、張れる、春、満ち満ちる)という意味である。なお、御酒(みき)の場合も同様であるが、この「水」は変若水(おちみず、若返り、再生の水)となる。


 さて、話は変わる。ヨーロッパには円環的時間はないのか。キリスト教の普及以前には円環的時間論のケルト・ゲルマン文明があった。実は、ヨーロッパにも円環的時間が基底的に生き続けている。マリア信仰は今世紀になってローマ教皇に認知されるまでは「異端」の教えであったが、これは古代信仰の大地母神の偽装形態(カムフラージュ)である。さらに、キリストその人の誕生日であるクリスマスは古代以来の冬至と正月の祭であり、その復活祭(イースター)とは春分祭(春祭り)に他ならない。つまり、キリストの名を借りた伝統的伝承的な太陽祭なのである。

 「復活」とは太陽(一年)の再生であり世界の再生である。復活祭に先立ち、謝肉祭(カーニバル)が行なわれる。最も有名なのがリオのカーニバルであるが、ご存知の通りサンバのリズムに合わせたらんちき騒ぎである。このどこがキリスト教的なのか。その本質は円環的時間論に基づく祭りなのである。

 ところでブラジルとは興味深い国である。インディオの土地と人々を16世紀にポルトガル人が植民地とした国であるが、その後、アフリカから多くの黒人奴隷が移住させられた。その結果、白人、インディオ系混血人、黒人が共存する国となった。彼らの共通の信仰はキリスト教であるが、特に後二者の信仰は意識せざるカムフラージュであると思われる。インディオ、黒人たちの信仰の深層にはそれぞれの円環的時間論の神話がある。リオでのカーニバルの盛大さはこの抑圧された神話の噴出と考えねば説明できるものではない。

 再生の前には「死」がなければならない。その「死」の期間に行なわれるのがカーニバルである。そこは非日常、いや反日常の時間、人の時間ではない神の時間となる。世界の秩序が誕生する以前の混乱状態(カオス、非・反秩序)を、カーニバルとして再演しているのだ。すなわち、誕生前の世界はこうあったという神話である。そして、祭りの終わりとは、秩序(コスモス)の成立(回復)、世界の誕生(再生)を意味することとなる。


 日本にも「カーニバル」はある。祭りの中での、人の時間ではないときがそれである。ケ(日常)の正気や秩序を失うとき、人は神の世界にいる。本来の祭りのクライマックスは、酔いつぶれることである。これもカオスであり、非-人知、神に近づくことなのである。また、盆踊りもそうしたものである。一晩中、踊り明かす神憑かりの時間である。

 ハレとは、日常(人の秩序)を超えた時間、神の時間である。そして、祭りとは神話の再演であり、世界の死と再生なのである。

head
Copyright(c)1996.09.20,TK Institute of Anthropology,All rights reserved