mansongeの「ニッポン民俗学」

二人のハツクニ-シラス-スメラミコト---邪馬台国と大和朝廷



 これまでにも日本古代の歴史や神話などについて述べてきたが、幾度目かの試論として挑戦したい。なお、リリース済みの論考と見解が異なることがあるが、いずれも試行錯誤上の果実あるいはあだ花とご寛恕願いたい。

▼『日本書紀』『古事記』とは何か

 まず、『日本書紀』『古事記』(以下『紀』『記』)とは何か。ともに「天皇の神話」であり、その権威と権力の由来を説いて国土支配の正統性と正当性を内外に証明するものである。

 ではなぜ『紀』が正史とされたのか。それは対中国史も含めて記述されているからだ。ただし、その関係は対等であり、日本が独立した国であることが「歴史」的に証明されている。すなわち、律令国家段階を迎えた古代日本は、過去の冊封関係を記憶と記録から抹消したのだ。

 上記の対外的目的のほかに、『紀』『記』には対内的目的ももちろんあった。特に『紀』には明瞭に示されている。東遷する神武天皇は語る。「古老が話すには、東方の良地に天の岩舟で天降った者がいるという。その地は天下を治めるにちょうどよい中心地で、天降った者とはニギハヤヒだろう。われわれもそこへ行って、都を作ろうではないか」。

 神武に先立って「天降り」したニギハヤヒとは物部氏の祖である(彼がその地を「ヤマト」と名づけた)。しかしご存知の通りだが、天皇(日本国王)には擬制的にであろうが神武の血統以外の者にはなれない。いくら先住していても天皇以外に日本の支配権はない。

 なぜなら、国つ神から国譲りを受けた天つ神の唯一正統の末裔が神武であり、この血筋が天皇として日本国土を支配することになっているからだ。『紀』『記』とはこのことを「歴史」的に証明している書物だと言える。

 『紀』『記』とは上記のような目的をもった神話と歴史が連続した物語である。しかしながら、歴史には歴史の論理がある。以下では、ともに「ハツクニ-シラス-スメラミコト」と呼ばれる神武から崇神(すじん)天皇に至る歴史を再構成してみたい。

▼神武東征

 さて「天降り」とは何か。文明先進地・北九州からの東方への移住である。このような移住は波状的に何度も行なわれたことであろう。集中しては、1〜2世紀前半のことと思われる。瀬戸内海沿岸から近畿にかけての高地性集落(山城)の発達がこのことを示している。

 中でもニギハヤヒ(物部氏)の移住は成功した。物部氏は河内・恩智(現八尾市)に上陸、その後、大和・矢田(現大和郡山市)などに定住した。なお、恩智のそばに物部氏の僧・あの道鏡の出身地・弓削(ゆげ)がある。矢田の物部氏は神武を迎え撃つナガスネヒコをやがて生む。

 この頃、奈良盆地には、南西の葛城(かつらぎ)地方と南東の磯城(しき)地方に二大土豪勢力があった。その北方へ物部氏が乗り込んだわけだ。この二者とどういう関係が結ばれたかわからないが、神武たちがその成功をうらやんだことや物部氏自身が神武を迎え撃ったことなどからは相当な地盤を築いていたことは確かだ。

 そこへ「本流」神武軍が来襲する。神武天皇とは何者か。天孫ニニギ命の曾孫で、ウガヤフキアエズ命の第四子である。彼は果たして「九州王朝」の代表者であったのだろうか。ニギハヤヒ同様、天孫族(北九州人)の一人であったことは間違いないが。

 ともあれ、神武軍が河内湾(当時は大阪湾が深く河内平野に食い込んでいた)に到着すると、物部氏のナガスネヒコ軍が待ち構えていた。神武軍はあえなく敗退し、熊野へ迂回した、というのが『紀』『記』の伝承である。ところで「熊野」とは何か。「隈」野である。すなわち、奥まった地が「熊野」である。

 奈良盆地の「熊野」とは、当時では吉野で十分である。神武軍は紀ノ川をさかのぼり、吉野地方から奈良盆地に侵入したものと思われる。ここからが難しい。葛城地方に進んだのか、磯城地方に進んだのか。手がかりは四つある。宮と陵墓の位置、和名諡号、后妃である。しかしそれらの伝承は必ずしも一致をみるものではない。

 第二代綏靖(すいぜい)天皇から第九代開化(かいか)天皇までをいわゆる「欠史八代」と言うが、その宮と陵墓はほぼ畝傍山付近(葛城と磯城の中間地)および葛城地方である。次に和名諡号では物部氏が名づけた「ヤマト」(後ち磯城系)が目立つ。さらに后妃の記録は分裂し、『紀』本文では葛城系、『記』および『紀』一書では磯城系が多数となっている。

漢名諡号陵墓和名諡号
神武畝傍橿原宮(橿原市)…畝傍山付近橿原市…畝傍山付近神-ヤマト-イワレ-彦(日子)
綏靖葛城高丘宮(御所市)…葛城地方橿原市…畝傍山付近神-ヌナ川-ミミ
安寧片塩浮穴宮(大和高田市)…葛城地方橿原市…畝傍山付近磯城-ツ-彦-タマテミ
懿徳軽曲峡宮(橿原市)…畝傍山付近橿原市…畝傍山付近大-ヤマト-彦-スキトモ
孝昭掖上池心宮(御所市)…葛城地方御所市…葛城地方ミマツ-彦-カエシネ
孝安室秋津島宮(御所市)…葛城地方御所市…葛城地方ヤマト-タラシ-彦-クニオシヒト(タラシは葛城系美称)
孝霊黒田廬戸宮(磯城郡)…磯城地方北葛城郡…葛城地方大-ヤマト-ネコ-彦-フトニ
孝元軽境原宮(橿原市)…畝傍山付近橿原市…畝傍山付近大-ヤマト-ネコ-彦-クニクル
開化春日率川宮(奈良市)…物部勢力圏奈良市…物部勢力圏若-ヤマト-ネコ-彦-オオヒビ
10崇神磯城瑞籬宮(桜井市)…磯城地方天理市…磯城地方ミマキ-イリ-彦-イニエ

 ちなみに神武天皇は葛城を向いていた。国見の際の「アキツシマ」とは葛城のクニの名である。それに対して、もう一人の「ハツクニ-シラス-スメラミコト」崇神天皇は明らかに「シキシマ」(磯城のクニ)を志向している。こう考えたらどうだろうか。神武軍の主力は葛城制圧を目指し、まず畝傍山付近に陣取った(畝傍山は神武たちにとって聖なる山となる)。しかしある一派は宇陀(磯城東南部の山中)を経由して磯城に向かったと。

 実際、神武軍が「熊野」から「ヤマト」へ出ようと山道を進みあぐねていたとき現れた「高倉下」と「八咫烏」は、葛城地方の土豪たちなのである。前者は系譜上ニギハヤヒの子となっているが、実は葛城のオワリ氏の祖である。後者は同じく葛城のカモ氏の祖である。彼らが遠く宇陀付近の道案内をすることは不自然であろう。

 そうだとすると、神武(とその子孫たち)はまず葛城地方を制圧したはずだ。しかし伝承はむしろ宇陀や磯城制圧を中心に描いている。これは磯城に向かった天孫族の事蹟なのである。また、その後の天皇の婚姻関係から推測すると、神武自身も一代においては奈良盆地統一に至らなかったものと思われる。

 葛城地方にはカモ氏とオワリ氏がいた。葛城山(現在の葛城・金剛山系)とは、神奈備(御室、聖なる)山であり、そこが「高天原」である。「高」こそが葛城のキイワードである。神武たちは「高御産巣日神」(高木神、日神)の信仰を持ち込んだ。後ちに、カモ氏は「高鴨」、オワリ氏は「高尾張」と呼ばれる。

 神武天皇の事蹟とされる出来事および欠史八代の婚姻関係をみると、武力であれ平和裡にであれ、葛城地方に続き、磯城地方、さらには北部・物部氏との政治連合あるいは武力制圧が急速に進んだものと思われる。このとき、敗退したオワリ氏と物部氏の一部が東海の尾張地方(「尾張」の地名はオワリ氏にちなむ)に向かった。これらは2世紀半ばから末にかけてのことであるが、これが「倭国大乱」であろうか。

▼邪馬台国

 それでも域内の政治的混乱は続いた。天孫族、葛城氏(天孫族の非王族)、磯城氏、磯城定住の天孫族別派、物部氏、和珥(春日)氏、穂積氏が盆地内の主勢力である。この他、大和川に沿った河内(物部氏)、盆地北の山城地方なども巻き込んだ合従連衡である。その最大の混乱期は第七代孝霊(こうれい)天皇のときであった。

 ついに、孝霊の娘であり巫女である倭迹迹日百襲(ヤマトトトヒモモソ)姫を「卑弥呼」(日御子)に共立することで政治的妥協が成立した。こうして出来た奈良盆地および畿内周辺連合こそ「邪馬台国」である。邪馬台国は『魏志倭人伝』中の国であるが、239年(魏遣使)に具体的な姿を現す。すなわち、北九州にあり金印を拝受した奴国がそのまま邪馬台国ではない。神武天皇の「本流」性が問われるところであるが。

 苦節の末に誕生した邪馬台国連合(畿内ヤマト連合)は強大であり、瀬戸内の地域連合(吉備など)に強力な影響を及ぼし、また北九州にはその外交出先機関(一大率)を置いた(あるいは「一大率」の地こそ、神武たち天孫族の出立国かも知れない)。

 邪馬台国連合に東海地方勢力は参加しなかった。これが「狗奴国」である。土豪勢力に先述の尾張氏や物部氏を加えたものである。狗奴国はさらに東方の地域連合ともつながりを持っていた。これは後ちに西日本で前方後円墳が築造されるとき、東日本では前方後「方」墳が共通形式として築造されることからもわかる。

 ここで内外の社会政治的状況を俯瞰(ふかん)しておこう。稲作と鉄器の移入は日本各地のムラムラを豊かにした。しかしそれは一方では戦争の時代の始まりであった。ムラには環濠が築かれる。闘争や妥協を経て、やがてクニとしてムラムラは統合されていく。クニは鉄資源を求めて、さらなる連合をくり返して地域連合に育っていく。

 その鉄資源は朝鮮半島にあった。中国の後漢はそこに楽浪郡を置き支配してきたが、3世紀の初頭には国力が衰え、太守の公孫氏に帯方郡として奪われる。後漢に替わって登場したのが魏である。その魏は238年、公孫氏を滅ぼして帯方郡を奪還する。その翌年に卑弥呼の遣使が送られるのである。なお、このあと朝鮮半島で脅威となるのは高句麗である。

 わが国の政治的統合は北九州から西漸したようだ。1世紀に北九州のクニが後漢に遣使している。2世紀初頭には北九州の統合は進み、地域連合が形成されていたものと思われる。北九州ばかりではなく、この世紀を通して、吉備、四国北岸、近畿各地、東海、出雲、越(北陸)などでも、クニへさらに地域連合へと進んでいった。小規模防御用の環濠はなくなり、大規模防御用の高地性集落(山城)にとって替わられる。

 卑弥呼と邪馬台国の登場は、鉄輸入ルートとして機能していた瀬戸内海の諸連合をより強くはっきりと意識させたことだろう。事実、既述のように、邪馬台国はその大連合を代表して、中国に絶好のタイミングで遣使し、西方の大月氏に与えられた「親魏大月氏王」と並ぶ「親魏倭王」の称号を得ている。

▼大和朝廷---もう一人の「ハツクニ-シラス-スメラミコト」崇神天皇

 ところが、247年ごろ共立王卑弥呼が死去する。卑弥呼を擁立した父孝霊天皇は自ら連合盟主に登ろうとするが、猛反発が起こり内乱状態となる。そうこうしているうちに、孝霊天皇も崩御する。ここで再び妥協が成立する。第八代孝元(こうげん)天皇は物部氏から后妃を迎え、自らの皇女である倭迹迹(ヤマトトト)姫を共立王壱与(いよ)とする。

 これによって情勢は一挙に安定する。盆地内の物部氏ばかりではなく、狗奴国とも友好状態が回復する。大連合による「前方後円墳プロジェクト」が始まり、その集積基地・纒向に東海および瀬戸内の人と物資が大量に流れ込む。第七代孝霊、第八代孝元、第九代開化天皇と3代の和名諡号に「ヤマト-ネコ-ヒコ」が連続して使われていることもその安定性を示している。

 しかし「ヤマト-ネコ-ヒコ」王朝は長くは続かなかった。第十代崇神はそれとは断絶した天皇である。これは一つのクーデタである。崇神の出自は、盆地侵入の際、神武天皇と分かれて宇陀から磯城に進んだ天孫族別派である。宇陀は東海に通じる初瀬川を抱える重要な交易ルートに当たる。それは同時に東海に勢力を張る尾張・物部氏の狗奴国との交流の深さも意味する。

 これまでの盆地統一、卑弥呼を共立しての邪馬台国連合などの際にも、物部氏とともにキャスティング・ボードを握ってきたものと思われる。「倭国王」卑弥呼のための陵墓であり、初の前方後円墳築造のプロジェクトも崇神が意図をもって仕掛けたものだ。

 開化天皇の崩御とともに、後継争いが始まった。崇神の即位を阻止すべく、第八代孝元天皇の皇子武埴安彦が立ち上がる。盆地内を押さえられた武埴は、山城から攻め入るが、義兄や叔父にも背かれ、空しく敗れ去る。義兄の娘を娶ったのが誰あろう、崇神であった。「葛城王朝」の倒壊である。

 崇神天皇は完成した箸墓古墳に登り、即位した。280年ごろのことである。そこに居並ぶのは、遠く関東の上毛野(群馬県)をはじめ、東海、越、吉備、北九州などの地域連合の首長たちであった。「大和朝廷」(列島ヤマト連合)の成立である。もはや、ヤマトは大連合の盟主に止まるものではなかった。真に国王たる大王となったのだ。

 前方後円墳とはただの古墳ではない。北九州の剣・鏡・玉の副葬、吉備の祭祀用特殊器台や壷、吉備・瀬戸内の竪穴式石室、出雲の葺き石、近畿の周溝墓などの総合プロジェクトであり、大連合を象徴する巨大モニュメントなのである。そこで行なわれたのが、列島の大王の即位式であった。

 共立された壱与はまもなく亡くなる。名実ともに祭政を一手に握った崇神は、邪馬台国時代における「神女による祭事、男王による政治」を退ける。天皇として「祭政一致」の全権を握った上で、神女の役割を神の妻としての「斎宮」と天皇の妻としての「皇后」に分離する。

 もう一人の「ハツクニ-シラス-スメラミコト」は、神を崇(あが)める天皇でもあった。確かに奈良盆地の自然神を慰撫すべく多くの神社を築いた。が、三輪山は忘れ去られていた。例えば、この箸墓古墳の向きは何を意味しているのであろうか。後円部は北東を向き、あたかも穴師の兵主神社を指している。また、前方部を南東に延長すれば、「高天原」の金剛山に当たる。

 兵主神社は崇神天皇の磯城瑞籬宮である。こここそが崇神たち天孫族別派の本拠地であった。また、理屈づければ、「高天原」の高御産巣日神(日神)の威光を仰ぐための方位なのかも知れない。

 こうして無視された三輪山の大物主神は祟り、全国に災いをもたらす。三輪山の神は磯城氏の神(クニ神)にすぎなかった。しかし祟りをもたらした祭祀の失策は許されず、遠く大阪の茅渟(和泉地方)から同族のオオタタネコが新祭主として呼び出される。これが三輪氏となる。

 最後に、なぜ崇神は本来別系統である神武の「葛城王朝」を継がねばならなかったのか。それはすでに皇統が固まっていたからだ。ニギハヤヒ同様、天皇にはたとえ擬制的にであれ、神武の血統以外の者はなれないのだ。なお、中国に冊封され「親魏倭王」となった卑弥呼や壱与の存在も、日本の過去から抹消されねばならなかった。『紀』『記』とはそういう物語である。


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