mansongeの「ニッポン民俗学」

歌舞伎「勧進帳」に「天皇制」を読む



 「勧進帳」は江戸後期を生きた七代目市川団十郎が完成させた歌舞伎狂言(演目)である。元は能の「安宅」だ。安宅とは、加賀・石川県にあったという安宅の関のことである。とは言っても、これが関と言えるかどうかといったことから始まって、結局はフィクションである。その元々は、義経伝説の原典である「義経記」だ。問題はフィクションかどうかいうことにはない。そうではなく、その伝説も含めた日本人の物語をこそ問いたいのである。

 「勧進帳」の主要登場人物は、弁慶、富樫、義経である。平家を壇ノ浦に壊滅させた義経であったが、京で後白河院の奸計にはまって兄頼朝の嫌疑を受ける。ついに義経捕縛の命が下り、各地に関所が新設される。ここ安宅では、役人富樫が関を守る。奥州をめざす義経一行が山伏姿で潜伏しているだろうことは鎌倉から通知があり、富樫と番兵たちも待ちかまえていた。

 日本には二つないし三つの道があった。平地民の道、山人の道、海人の道である。義経は摂津・兵庫県の大物浦からの船による脱出に失敗していた。そこで今度は山人の道が採られたのである。弁慶は、熊野の別当の子で武蔵坊と号して比叡山西塔にいたということになっている。熊野は、源氏を勝利に導いた水軍以上に、熊野権現の山伏で有名な地である。この設定はぴったりなのだ。

 山人の道とは太古からのもので、それを役行者に始まるとされる修験者たちが引き継いだ通路である。役行者の伝説にある、葛城山と吉野金峰山とに鬼神を使って橋を架けようとしたというのも、人里に下りずに山中だけで行き来できる山人の道を切り開こうとしたものと解釈することも可能だろう。達人レベルでは、日本中を人里に下りずに自由に行き来できた、しかも跳ぶように駈け抜けた(実際、今の回峰行者もそうだ)との話もある。里人からは見えないこの領域をもう一つの国だとさえ言える。

 ところが、加賀は難所だったらしく、にわか先達弁慶の一行は山道を下りてこの安宅の関を越えざるを得ない。弁慶は富樫に、東大寺への勧進寄進のための文書を(これが勧進帳。実はそんなものはなく即席で)読み上げ、山伏とは何かの問いにも答えて、本物の山伏だと何とか認めさせる。ところが、強力(ごうりき、人足)に身をやつした義経が、もしや義経ではと番兵に見とがめられ、富樫に呼び止められる。

 ここがクライマックスである。弁慶は富樫ではなく、その強力を「お前のせいでいつもこうだ。お前が義経に似ているばっかりに」と責めたて、手にした金剛杖でこれでもかと打ち据える。この男は主君義経のために、義経当人に他ならぬこの強力を本気で撲殺してもよいと考えている。弁慶の死に物狂いの気迫と「狂」気に、役人富樫はすべてを察して一行を通す断を下す。

 危機一髪で関を越えた義経は、弁慶が先ほど自分を打ったのは源氏の氏神・八幡大菩薩の神慮だったと言い、許す。それに対し、弁慶は涙をこぼして義経に詫びる。義経は弁慶のその「神の手」を取って慰める。その後、富樫がわざわざ追いかけて来て、弁慶たちに酒を振る舞う。敵味方とは言え、互いのその後の運命を見越して、生きては決して二度と会えぬ者同士で交わす一期一会の酒宴であった。


 さて、弁慶こそ日本人の謎である。まず、安宅の関での彼の振る舞いはいかにして可能となったのか。義経に付き従う一行には、弁慶の他に四天王と呼ばれる屈強の四名らもいた。その中で初めから弁慶が主導権を持っていたわけではない。この関の手前で、主君義経が「弁慶よきに計らひ候へ」と告げたことで、主権者義経に代わり弁慶がこの難関突破作戦を指揮することになったのだ。義経が天皇で、弁慶は全権委任の行政官(当時は将軍、今なら首相)となったわけだ。

 とは言うものの、この小論で述べたいことは、このような「当てはめ」ではない。歴史上の、また現在も存続する天皇制という「内容」を絶えず産み出し続ける、私たち日本人の中に潜む天皇制という「心の形」を取り出してみたいのだ。ただし、ここでは「勧進帳」成立の江戸時代を中心に、現代に向けて少し測鉛を垂らすだけに留まらざるを得ないことはご了承願いたい。

 次に、富樫とは何者か。役柄では鎌倉政権側の役人である。そして日本人の一典型である。彼は二つに引き裂かれて生きている。公と私に、タテマエとホンネに。江戸時代、ちょうど忠臣蔵の元禄ぐらいだが、「戦国」の最終的終焉とともに日本人の公私は分裂した。富樫は、義経一行を通さず、たとえそこで斬り殺したとしても「悪人」ではない。ある組織に属して、ある人間集団に仕えることによって生計を立てる官僚(組織人)として職務を、命令を全うしただけである。

 しかし富樫にも赤く暖かい血が流れている。ただしそれは公務を離れた私生活の中だけにある。そこには妻子もいよう。その「私」のためにこそ、彼は「公」を必要としていたのだ。理由はどうであれ弁慶たちを見逃したとき、つまり彼が公の場に私情を持ち出した途端、彼は組織の裏切り者であり官僚失格者となった。そして「私」をも失う。彼は弁慶らとの酒宴の席で彼らの死の運命とともに、自らも死を免れないものと思ったに違いないのである。

 ここで義理と人情に触れておこう。舞台設定(平安末期)とは違い、「勧進帳」の富樫は江戸時代後期の富樫である(NHK大河ドラマ同様、歌舞伎を見るときはここを忘れてはならない)。実は江戸初期までは、義理と人情は対立するものではなかった。むしろ同じものだった。義理とは、日本人個人内部の自恃、誇りであった。それは個人的な「約束」(西洋の「契約」ではない)を文字通り死守することであり、意地であり名誉(重点が移動し「恥」となる)を守ることであった。そしてそれは日本的なヒューマニズムであったのだ。

 その人情としての義理を貫く姿、例えば個人的な約束の代償のために我が子を自らの手で殺して詫びることなどは、無関係は人々からは「狂」っていると見えたことだろう。狂とは任侠の「侠」に通ずるものである。しかし「勧進帳」の富樫の時代には、義理は個人の外部にはじき出されて、世間のしがらみ、桎梏(しっこく)と成り果てていた。富樫は安宅の関で弁慶らと出逢ってしまったことにより、そういう義理を捨てて人情へ飛び込んだ狂の人となった。言うまでもなく、弁慶は時代のドン・キホーテである。

 最後の義経とは、実は二重の像を持つ。一つはすでに述べた「天皇」である。最高の天才武将でありながら、非運をかこち、弁慶ら粉骨砕身する臣下に支えされてかろうじて生き長らえる源氏の貴種だ。「天皇」は日本人ではない。どういう意味か。それは私たち日本人の中から誰かが「なる」ものではなく、あらかじめ私たちの前に坐すものだ。「天皇」とは日本人が見るものであり、「天皇」自身は日本人に見られるだけの客体であって、私たちとは交換不可能な存在である。

 ここで、弁慶にとっての義経が問題になる。なぜ弁慶は一身を捨てて義経を護るのか。それは言うまでもなく義経が、弁慶の「天皇」であるからだ。弁慶は義経がただ哀れだから護るわけではないし、ただ主君だということで至誠を尽くしているわけでもない。また、弁慶自身はこの関越えの一件でも分かるように、智仁勇にも優れる武人であり、その気がありさえすれば一武将として自立も十分可能な逸材である。

 そんな弁慶が義経をどうしようもなく欲している。大権を与えられても弁慶は孤独であり、その心の中には「空虚」があるのだ。それは何者かによって満たされなければならない「空虚」なのである。ロラン・バルトは、日本のあるいは東京の空虚として「皇居」を見出したが、日本人の心にも「空虚」がある。それは、抽象的な観念ではなく具体的な事物で埋められなければならない。ゆえに偶像でなければならないのだ。

 弁慶の「空虚」を埋める偶像こそが「生ける義経」である。生ける義経は人形ではない。ここがポイントである。自らの意思を持って、時に弁慶の忠告に逆らったり、時には不運をうじうじと嘆いたりするような、まただからこそ自ら弁慶に情をかけることが出来る、そういう客体なのだ。弁慶は一人では生きられない。絶対に同一化できない、自分に還元できない他者を必要とするのだ。

 弁慶の愛は「アニマ」である。アニマとは、深層心理学者ユングの説く、アニムスと対になった元型(アーキタイプ:人間の無意識の中にある普遍的観念)である。アニマは女性的な愛で没我的・自己献身的・犠牲的な原理である(似たようなことをキェルケゴールが『死に至る病』で述べていて興味深い)。対するアニムスは男性的な愛で自我的・支配的な原理である。

 アニマは、日本人にとっては「母の愛」と言えば分かりやすい。母の我が子への愛だ。支配され、受け容れる愛である。母の心は繊細だが、ある「核」すなわち子を得ることによって、彼女は鬼神をも怖れぬ「自然」となる。弁慶は義経を得て、アニマの化身、そして自在に生き得る「自然」と同一化したのだ。

 もう一つの義経像を述べよう。義経の悲運はどこに始まったのか。それは兄であり鎌倉政権という組織の長である頼朝の命に背いたことにある。源平合戦の軍(いくさ)奉行・梶原景時の指令は、すなわち兄の指令、組織の指令であるが、これに背いた。また、京で後白河院から、頼朝の許可なく検非違使左衛門尉(すなわち「判官」)に補任されたのも命令違反であった。

 これらは仕方がないことではなく、組織というものを解しない義経が犯した愚昧である。何と義経はそのことにさえ気づいておらず、ただ己の不運を嘆くばかりである。もう一人の義経とは、日本人のまた別の一典型なのだ。すなわち、それは情しか解せない、世の中や義理が分からぬ馬鹿者であり、組織人として生きることが叶わぬ人間像である。そういう意味で誰かに護られなければならず、この義経もまた一人では生きられない日本人である。

 こんなふうに分析せずに、また二重化以前の物語の中から義経を抽出すればどうなるか。義理に囚われぬ完璧な「情の神」となる。頽廃した義理によって覆われてしまった日本中に人情を振り撒いていく神となる。単なる貴種の物語から貴種流離譚へと変貌する。かくして、民俗としての義経が成立する。歌舞伎「義経千本桜」での、狐忠信への情が典型である(義理の、また人情の象徴としてある「鼓」[つづみ]を義経がどう取り扱うかが妙味)が、その他諸々の人情の物語が義経に引き寄せられていくのである。


 以上、三つの人物像は三つ巴となり、さらに卍のように絡み合って、日本人を造り出す。まず、自身は「空虚」で情を底知れなく呑み込む「天皇」という客体がある。その偶像に全身全霊尽くすことで、生苦を「奉仕」という喜びに換えて自らの「空虚」を満たして生きる「権力者」(リーダー)。「権力者」の下、公である組織の命令を私情なく遂行し、そのことによって私生活を守る「官僚」(サラリーマン)。そして、組織の中で生きられない、あるいはそこに留まりつつも不平ばかりかこつ「はみ出し者」(アウトサイダー)。

 なお、「天皇」は人物像ではなく、あくまで日本人がこちら側から見るだけのものである。また、一人ひとりにとっての「天皇」は違っているし、誰をあるいは何を「天皇」とするかも任意である。たいていは絶対的な客体として向こうから当人の前に姿を現すのだが。弁慶の前に、牛若丸として義経が突然立ちはだかったように。

 それから、「権力者」「官僚」「はみ出し者」は三タイプの日本人がいるということではなく、私たち一人ひとりの中にあって変転する「心の形」である。いずれの「心の形」であれ、私たちは他者を必要としている。そうして、日本人一人ひとりは互いに卍のように他者に吸い寄せられて、日本人という集団を成している。

 日本人の「心の形」としての「天皇制」とは、その中心が「空虚」であるように、日本のニヒリズムである。いずれ朽ち行く偶像にこそ安心帰依を求める孤独な心である。それは無常の世で、義理と人情に、また公と私に引き裂かれて生きねばならぬ日本人が、義理を人情と読み替えて生きる仕掛けなのである。


[主な典拠文献]

(補足ではない独立した追記)
  1.  「作者と読者は違う」。筆者として「歌舞伎『勧進帳』に『天皇制』を読む」を書き終えて、改めてこの文章を「最初の読者」として読んでみた。
     私は戦慄した。そこに書いてある「日本人」とは私自身ではないか。私は私を超えられないし、私が持っているもの以上は吐き出せないことを痛感した。そこに書かれてあったものは何と、くもった鏡に写し出されたような「自画像」であった。

  2.  「天皇」については、あるいはこういう言い方も可能である。「天皇」とは、日本人を見る者であると。その場合、日本人は「天皇」に見られている者である。「天皇」に見られていることによって「空虚」を満たされる者である。(「日本人」を複数形にすれば、「天皇の赤子としての臣民」という構図のもう一つの「天皇制」も視野に入ってくる。)
     この「天皇」は彼方にいる。「あの世」にいる。ここからは義経の童子性にもつながる。ニッポン教における童子や翁人は、神使、依り代、あるいは神そのものである。義経の浮き世の「義理」をはるかに超えた「情深さ」(また、浮き世の「義理」への無頓着)とは、この「あの世」性から出づるものかも知れない。
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