mansongeの「ニッポン民俗学」

「日本人の脳」とニッポン人の〈原始のしっぽ〉


メルマガ「ニッポン民俗学」(No.049)の前書きより

 今号から新たにご購読の方々もいらっしゃいますので、改めてお断りしておきますが、私の「ニッポン民俗学」は学問として期待される「民俗学」では必ずしもありません。それどころか、たいていはそこからはずれていることでしょう。では何故に「ニッポン民俗学」と称しているのか。

 歴史学のように文献などの「物証」によるでもない、思想史のように一部突出した先覚者によるでもない、日本人だれもが基底的に共有していながら語り得ぬもの、あるいは語らずとも当然のこととして前提としている何かを自覚的にたぐり寄せようという試みを、私は「ニッポン民俗学」と称しているのだと思います。

 ありていに言えば、約束事にしばられずに、縦横に「日本人とは何だろうか」を問うてみたいのです。そしてそれは自分自身への問いでもあります。そういうごく個人的な探索ノートが、実はこの「ニッポン民俗学」に他なりません。あらかじめ、あるいは改めましてご承知おき願います。

(一)

 私はいまちょっとした鬱(うつ)状態にある。というのも、「禁断の書」を開いてしまったからだ。魂を悪魔に売ってしまったファウスト博士の気分だ。望んでいたものを手に入れはしたのだが、それは見ない方が良かった。真理の実とは求めるうちは甘く見えるが、実際に食べてみるととてつもなく苦い。日本人はただ観念において日本人であるのではなく、それ以上の客観性をもった根拠に基づいてそうであったのだ。

 私はいつも流行遅れである。ずっと以前に「右脳・左脳」ということがずいぶん話題に上った。同時に「日本人と脳」ということについても語られていたはずだ。本来なら、私もそのときにこの問題を「卒業」しておかねばならなかったのだろう。大人になってからの「はしか」は重篤になるという。しばらくはこのテーマが頭を離れそうにない。

 その「禁断の書」とは、角田忠信氏の著作『日本人の脳』(正編1978年、続編1985年刊行)である。そこには何が書かれていたのか。日本人の脳の働き方が、欧米人とは愚か、ほとんどのアジア人とも異なるものであることが明証されていた。私たち日本人は他とは違う人間なのである。誇らしさが浮かびそうになるが、いやいや実は文字通り「日本の常識は世界の非常識」であることが運命づけられているのであり、相互理解のためには必ず「翻訳」が必須であることを自覚せねばならないのである。

(二)

 人類とは種であり、ここにおいて民族の差はなく、脳を含めた身体的諸機能に差異はない。いかなる民族や国籍において生まれようと、どんな言語の習得も可能である。発声および聴覚機能自体は普遍的であり、生得的な差異はない。言わば、人間としてのハードウェアは同一である。興味深いことにコンピュータ同様に(人間がこれを作ったのだから、むしろ当然と言うべきかも知れないが)、ここでもソフトウェアが重要なのである。

 いま、世界中のコンピュータの基盤ソフトウェア(OS:オペレーティング・システム;各アプリケーション・ソフト起動の前提となる基本ソフト)はほとんどがMS-Windows(DOS-V)である。これに対するのは少数派のMac-OSやLinuxである。人間にとってのOSとは何か。それは紛れもなく、思考の基盤となる言語である。そうである、日本人の言語が違うのである。

 問題は日本語にある。日本語というOSが日本人を作るのである。日本人であることは生得的なものではなく、日本語を習得することによって、母国語とすることによって「日本人になる」のである。では、「日本人になる」とはどういうことか。脳の働かせ方を、日本人仕様にするということである。脳の働かせ方の日本人仕様とは何か。母音を左脳に取り込むということである。

 何でもないことのように思えるだろう。ところがこれこそが人類学的に特異なことなのである。日本語は母音が必ず伴う言語である。よって、これが言語脳である左脳に取り込まれること自体は仕方がない。しかし、母音的特質(注)をもつ他の自然「音」も、母音的なものとしてすべて言語として左脳に受容されてしまうのだ。その例として最も有名なものは、虫の音である。ちなみに欧米人はこれを右脳で聞いている。

(注)母音的特質
 二つ以上のフォルトマン構造をもち、その周波数比が倍数関係にないこと及び構成音の一つ以上がFM音であること(要は音韻・音波的な特徴である)。


(三)

 右脳と左脳、それぞれの機能の特徴と一般的に言われていることを列挙してみよう(欧米人の脳モデル)。

【左脳】【右脳】
 言語脳、理性、デジタル的、ストレス脳。  イメージ脳、感性、アナログ的、リラックス脳。
 顕在意識(意識)、理解・記憶を求める、段階的に少量ずつ受け入れる、低速で受け入れる、直列処理する、手動処理、意識処理。  潜在意識(無意識)、理解・記憶を求めない、一度に大量を受け入れる、高速で受け入れる、並列処理する、自動処理、無意識処理。
 言語、観念構成、算術処理などに適し、分析的、抽象的、論理的。  音楽、図形感覚、絵画、幾何学処理などに適し、合成的、全体的、感覚的、直観的。

 もちろん、右脳と左脳はバラバラに働いているのではなく、普通は協働的に機能している。ただし、「言語」が発せられたとき、言語脳である左脳が優位となる。例えば、楽器の音色を聴いているとき、右脳が受容処理の主体となっているが、言葉が聞こえてくると、その音楽を含めて左脳で処理され始めるのである。しかしこれは多数派のWindowsのOSで働く脳の場合である。

 Mac-OSとでも言うべきOSで働く日本人の脳の場合は、最初から特殊である。洋楽器の音色こそ右脳受容であるが、三味線など邦楽器となれば初めから左脳で受容されるのである。前述したが、虫の音も左脳(欧米人は右脳)だし、言語は母音・子音とも左脳(欧米人は母音は右脳、子音は左脳)である。さらに、日本人は情動(感情、パトス)も左脳にその座がある。音関係について、まとめよう。

 〈左脳で受容〉〈右脳で受容〉
【日本人の脳】  言語(母音・子音)、情動的な人声(喜怒哀楽の声、ハミング)、虫や動物の鳴き声、波や雨音、邦楽器音  洋楽器音、機械音
【欧米人の脳】  言語(子音)  言語(母音)、情動的な人声(喜怒哀楽の声、ハミング)、虫や動物の鳴き声、波や雨音、邦楽器音、洋楽器音、機械音

 それぞれ〈右脳で受容〉の音だけが聞こえている間は右脳優位となるが、〈左脳で受容〉の音が聞こえ始めた途端、左脳優位となり、〈右脳で受容〉の音も左脳経由で処理される。

(四)

 西欧思想を学ぶ者にとって、ロゴス(論理)とパトス(情念)というのは基本タームであり、この二項対立が西欧思想を形作っていることは常識である。例えば、理性と感情、霊魂と肉体、精神と身体などというのは、このヴァリエーションである。ここからデカルト的にさらに引き延ばせば、思惟と延長、精神と物体、人工と自然、人間と世界などの二元対立項も引き出せる。

 欧米人のこの二元論思考には、実に生理学的根拠があったのだ。彼らのOSでは、
【左脳】【右脳】
 ロゴス(言葉)  パトス(言葉ではないもの)、人間以外の自然、もの(物体、延長)
と脳は作動している。

 ところが、日本語OSに従う日本人の脳の場合はどうか。
【左脳】【右脳】
 こころあるもの(ロゴス、パトス、自然)  こころがない、ただの「もの」(物体)
と作動していたのだった。

 価値づけは相対的なものだ。日本人が「もしかしたら自分たちは妙なOSを持っているのかも知れない」とようやく気づいたのは、明治以降、「西欧近代」の世界図式を「普遍」として受け容れてからのことである。それまでの日本人は、ことさら「不幸」ではなかった。別に、いまでも不幸がることはもちろんない。しかしながら、私たちのOSは世界標準から大きく外れたものであることは紛れのない事実である。

 日本語を母国語とする限り、この脳という物質に依拠した「唯物論」(あるいは、脳機能という観点から言えば「唯脳論」)から私たちは逃れられない。日本人の自然と一体だと感じる呪術的心性もここに基盤があったわけだ。また、日本語に「情理」という言葉あるが、実に日本的な言葉であることに思い至る。「情理を尽す」とは、人情と道理を述べ、ものごとを説き明らかにすることである。この言葉には、ロゴスとパトスの隣接、いや同居が語られている。

 思えば、オリンピック・シドニー大会で柔道の篠原選手が出場した決勝での判定を巡っての騒動は、実は日本人にとってだけの「騒動」で、日本的なるものと非日本的なるものとの葛藤であったのだろう。そのキイ・ワードは「気配り」である。気配りとは、ロゴスとパトスが隣接ないしは同居した「情理」を感じる心である。日本人はこの情理が「普遍的に」通じることを信じて「謙虚」であったのだ。しかし、ロゴスとパトスが別物であるOSを持った人間から見れば、そんな「短絡」は単なる愚かさにすぎない。これは、無媒介の「翻訳」は不可能であることを実証する「不幸」の一例である。

(五)

 日本語OSの特異性に由来すると思われることをいくつか挙げよう。まず、英語に代表される外国語会話の習得が日本人はなぜ不得手なのか。これは彼我の脳の使い方を知れば一目瞭然であろう。非日本人は左右の脳を使って言語を使うのに対して、日本人は左脳優位で言語を使うのが自然であるから、外国語も左脳で理解・習得しようとしてしまうのだ。これは日本語の一語一語(一拍一拍)に母音が必ず伴うことに起因する。欧米人は母音を右脳で音楽音のように聞き話している。日本人はそれを左脳で言語音として聞こうとし話そうとするのだ(他に母音や子音の数の違いなどもあるが、ここでは割愛する)。

 こういう日本人が西洋古典音楽に接するとき、はなはだ微妙な問題が惹起される。これを好んで聴けるのだとすると、天恵とでも言うべき救いである。なぜなら、日本人にとっては雑音以外で右脳受容できる唯一の美的対象音であるからだ。しかしその人にとり、もし聴き難いものであったとしたら、その日本人の脳はその音楽を右脳に侵入する雑音としてか、あるいは言語として左脳で解析するが理解できない音として受容し難いのだ。

 これに関連して面白いことがある。クラシック・ファンの日本人が集うコンサートでは、言語的なマナーがたいへんよい。これはそれらの日本人にとってコンサート・ホールが「右脳空間」であることを無意識的に自覚しているからである。オーケストラが勢揃いし指揮者が棒を振り始めた瞬間から、そこは右脳だけを働かせる世界となる。日本人の左脳を刺激するもの、おしゃべりはもちろんのこと、しわぶき一つも許されない。

 これは実際あった話だが、音楽評論家の吉田秀和氏が野外コンサートで演奏を聴いている最中に野鳥の声が聞こえ、その時まるで「音の空間に穴」が空いたと感じたと書いておられる(「音楽展望」『朝日新聞』1974.09.19)。野鳥の声は、日本人の脳活動に音楽脳から言語脳への転換をいきなり強いたのだった。演奏が終わっても、日本人は「ブラボー」なぞと言語的には反応せずに、非言語的手段すなわち長く強い拍手で演奏者たちを讃えるのが流儀である。

 それから、日本語と言えば、漫画について語らねばならない。音声言語では左右の脳を使う欧米人だが、書かれたアルファベットは一義的で左脳認知の文字である。それに対して、日本語の中の漢字は多義的で多様な読み方を持つ。だから「ルビ」がある。ところが、ルビがある言語は日本語だけなのである(中国語の中の漢字は一音しかない)。日本人だけが漢字を視覚的には右脳で認知し、左脳でルビを読み意味解析する。なお、かな(カナ)・ローマ字・数字は左脳で認知されている。

 漫画は日本人にとってのクラシック音楽に似ている。日本人が右脳をうまく働かせられる数少ない対象の一つなのである。日本人は漫画を左右の脳を使って読む。漫画の画は「漢字」、吹き出しは「ルビ」の役割だ。日本の漫画がなぜ優れているのか、また日本人がなぜあのように漫画を素早く読んだり、深く味わったりできるのかは、日本人の脳と日本語にその秘密があった。

(六)

 彼我の脳OSの差異から来る世界観や人間観、自然観の違いを述べよう。分かりやすいところから述べると、都市構造である。面白いことに、脳機能のあり方がそのまま都市構造に反映されている。ヨーロッパの都市は、人が住む所を城壁で囲い、その周囲に田畑を拓いた。さらにその向こうは森である。都市内は完全に人工的な造り物で満たされている。庭園すら自然のままのものはない。道は石で舗装され、人も着衣することが強いられる。田畑は半ば自然的な領域であるが、人が立ち回ることが許されるのはそこまでである。その外側の森は人が住む所ではない。魔女の棲み処である。童話に登場する魔物は森に棲む。つまり、都市とは欧米人の左脳であり理性的人間的な世界である。一方の森とは右脳であり感性的自然的な世界である。

 日本の「都市」は都市ではない、と欧米学者がよく言うのは、それがふつう城壁を持たなかったためだ。日本人はヨーロッパ人とは逆に、「森」を排斥しない、むしろ「森」とともにある「都市」を築こうとしたと言えよう。人が住む所、田畑、「森」の共存が日本人の理想だ。家のあり方にもそれはよく表れていた。身近な自然そのものを借景とし、庭に小山を築き小川を流す。自然媒介的な縁側や障子も、人工世界と自然を分離しないようにしている仕組みである。日本人の左脳には、人間と自然が共存している。だが、これは普遍的には異常なことなのである。

 次に「死体」についてである。実は「戒名」は日本的なものである。例えば、欧米人の墓には何と刻まれているか。生前の人間としての名である。欧米人は、死体は人間の肉体であり、死者の人格そのものとは思わない。それはもはや人間ではなく、自然的な物体である。しかし日本人はどうか。まず、戒名は死者が仏に成ったことを示す。死体は生前以上に神聖なものとなり、決しておろそかに扱ってはならないものとなる。自然的な物体なぞではもちろんなく、祭り上げるべき存在(神)でさえある。

 欧米人が、左脳に精神を右脳に肉体を配し、死後にはそれぞれを葬り去ることができるのに対して、日本人は左脳で一体となった精神と肉体を分離できず、縁者に告げ知らせもせず去った場合なぞ、その死体(日本では「遺体」)に精神を求めさえする。それがいまも続く、縁者による戦没者の遺骨や航空機事故死亡者の遺品収拾である。日本人が生体間臓器移植を認め難いのは、もう言うまでもなくここに由来する。

 とどめに、日本人の「虫好み」について述べよう。欧米人と日本人では、虫に対する感覚が大きく違う。日本では近ごろ、夏休みに昆虫採集が叶わなかった子どもたちにデパートで昆虫が高価で売られているということが、少し非難めいて報道されている。しかし欧米人にとっては、昆虫が子どもたちに好まれていること自体が何かぞっとすることなのである。

 ご存知の「仮面ライダー」は人間と昆虫を合体した「改造人間」である。このキャラクターが日本の子どもたちにはたいへん人気があったわけだ。映画でも、巨大化した昆虫がたくさん登場する。日本人にとっては「人類の味方」であった「モスラ」もそうだ。大画面に映し出されたイモムシであった幼虫に喝采を送るというのは、なるほど言われてみれば異様、奇怪なことである。

 もう少しキレイに言えば、池に蛙が飛び込む音に「わび」「さび」を感じるのは日本人の脳だけなのである。日本映画やテレビドラマの中で多用される効果音としての自然音、例えば小川のせせらぎや雨だれの音に、私たちなら「当然」感じるだろう「情理」(論理を抱き合わせた情感)を引き起こされる欧米人はいないのである。自然や虫の音に「理性的な感情移入」が自然にできるのは日本人だけなのである。これらもまた、日本人の脳OSが成せる業と言えよう。

(七)

 昔は「和魂漢才」と言い、今は「和魂洋才」と言うが、私たち日本人は本当にこの意味を理解しているのだろうか。答えは否である。私たちは根底を変えようとしていないのではなく、自ら変えようとしても変えられないのだ。戦国後期の、キリスト教を誤解しての広汎かつ急速な信仰の広がりに対して、解禁されて正当な教義が伝えられた明治以降の受容の少なさと浅さは何を物語るのだろうか。

 故遠藤周作氏は、戦国後期のキリスト教外人宣教師の苦労を『沈黙』という小説で描いており、日本のことを「この国は沼地だ。(…)どんな苗も根が腐りはじめる。(…)我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」と語らしめている。同氏は、キリスト教の運命を述べているのではない。日本人の運命を語っているのだ。日本人は日本語を話す限り、異OSである「普遍」を受け容れられないだろう。

 私たち日本人は、自らを誤解している。いかなる誤解であるか。日本人もまた「普遍人」だと思っているのである。いま、グローバル・スタンダードは欧米標準である。例えば、「民主主義」だ。日本人は民主主義をしているつもりである。しかしいつまで経っても民主主義にはならない。これだけ自民党主導政府批判が全国民的になされつつ、それを定立する選挙では別行動がまかり通ることは、まさに「沼地」だという証明でなくてなんであろうか。

 頭では分かりながら、あるいは口ではそう言いながら、臓器移植が進まず、また欧米とはどうも歩調の合わない環境保護なども、日本語OSの成せる業のように思える。環境保護が典型であるが、同じテーマを根底では別のテーマとしてしか解せないのがOSの違いのように思う。言語化されないままだが、欧米人が考える環境保護と日本人が考えるそれはおそらく似て非なるテーマなのである。

(八)

 渡部昇一氏は、角田忠信氏との対談(『続日本人の脳』に所収)の中で〈原始のしっぽ〉という絶妙の言葉を使われている。筆者もこれを拝借させてもらおう。渡部氏は、日本語こそ最古の「普遍」言語の姿を残すものではないかと提起されている。つまり、人間は初め皆、日本人的な脳の使い方をしていたのではないかということだ。それがいろいろあって、多くは固有言語を持った「宗教」の襲来だが、原始の言語(=脳の使い方)という〈しっぽ〉が断ち切られ、新言語(=いまの普遍脳OS)に切り替わっていった。日本人と日本語とは、その〈原始のしっぽ〉を残す稀有な民族であり言語ではないか。

 天皇とは何か。古代には普遍的な存在であった「首長」である。部族の長であり「宗教」成立以前の宗教的な長である。特徴として、神の子孫だということが挙げられる。世界的には、こんな「首長」は克服・打倒され尽くしてしまっている(中世以降の「王」は神の子孫なぞではない)。しかしそんな存在が生き延び続けている国がある。日本という我が国がそれに他ならない。これに符合するように、古代普遍的な脳の使い方を続け、それに基づく世界観・人間観・自然観をもった民族がいる。日本人は、廃絶され尽くしてしまったはずの〈原始のしっぽ〉を持続する民族なのである。

 日本人の思考は、放っておけば左脳偏向となる。これを是正してくれるのが、昔からの外国語学習である。外国語は日本人の右脳を刺激する。かつての中国語がそうであったはずだし、いまの英語学習もそうである。しかし、それはしばしば日本人の脳を痛めつけ、疲れさせる。そこで日本人は逃避する。それが「鎖国」である。その中で日本人は右脳志向した脳を、改めて左脳優位に振り戻す。

 どういうふうに振り戻すかというと、「シンプル」にである。世界の一元認識、一元思考こそ日本的思考の究極である(言語の一元的受容構造に基づく。右脳的な「音」を左脳の「言葉」にする擬音語・オノマトペアもその一つ)。道元の「只管打坐」(しかんたざ:ひたすら座禅すること)や親鸞の「南無阿弥陀仏」などはその典型である。最澄や空海の複雑多様な仏教受容も四百年も経てば、極めてシンプルな教義に蒸留されてしまう。

 では、私たち日本人は右脳を使っていないのか。もちろんそんなことはない。カンは右脳の所産であり、ノン・バーバル(非言語)は日本人の思考の特徴であるとすら言えるであろう。禅がノン・バーバルを大切にし、日本人がそれを受け容れてきたことは、日本人がそれを重視してきたことをむしろ物語っているだろう。そこ(右脳)は、日本人には人や生き物など一般存在者は棲めない、言わば「絶対者」の領域であり、神が坐す所なのだろう。

 日本語と同様な母音構造を持った言語は、現在のところ、太平洋東南(ハワイ・ニュージーランド・イースター島を結ぶ三角海域)に広がるポリネシア民族にしか見出せない(彼らの脳OSは確かに日本人型の働き方をしているのだ)。もしかしたらであるが、太平洋戦争中の日本軍が占領した島嶼で、日本人が歓迎されたというのは、ここに通じるものがあったせいだろうか(ただし、日本の進軍はミクロネシア・メラネシアまででポリネシア領域には達していない)。

 このポリネシア民族(注)に親近性があるという事実は案外重い。我がニッポン人の由来を示唆するかも知れないからだ。アメリカ大陸の先住民族たちはモンゴロイドだと言われるが、その移住路について、近ごろ、北方ベーリング海峡回りのルートばかりでなく、太平洋横断ルートもあったとする説がある。しかもこのルートの方が先行していたというのだ。我がニッポン人の少なくとも一部の先祖ともなった古代モンゴロイド人たちは、舟を漕ぎ出し東へ東へと向かったのかも知れない。

(注)ポリネシア民族
 ポリネシア語派(ハワイ語、タヒチ語、サモア語など)は、インドネシア語派やメラネシア語派とともに、マライ・ポリネシア語族(オーストロネシア語族、南島語族とも言う)に属している。
 ポリネシアには、相撲取りの出身地として有名になったトンガ諸島なども含まれる(ちなみに、角田氏の左右脳検査はこのトンガ出身の相撲取りの協力を得て行われ、その脳機能が日本人と同一だと実証された)。
 マライ・ポリネシア語族はモンゴロイドで、東南アジア付近にいた古モンゴロイドの一派が東方海上へ向かったのがポリネシア人である。


(九)

 日本語が変化したように、脳機能も変わる。今の日本人の脳機能は、日本語が今の様態になった平安初期に定式化されたものと思える。最近の変化は、歌に表れているように思う。歌は、歌詞の意味が分からない場合は右脳優位で、歌詞の意味が分かったら左脳優位で取り込まれているはずだ。いわゆる欧米の「ポップス」は、たいていの日本人には意味が分からないので右脳優位で聴いているのだろう。

 サザン・オールスターズなどに代表される歌詞が不明瞭でよく分からないニッポンの歌は、ほとんど意味が分からない外国語曲と同様だ。つまり、右脳受容できる歌となる。これまでの歌詞明瞭な、すなわち左脳に取り込まれる歌とは違う日本人のための歌が生まれたのだ。これまでのクラシックや欧米ポップスにばかり頼らなくてもよい状態が整ってきたのである。

 しかしながら、ニッポンの歌は生きている。英語交じりで歌われる歌とは何だろうか。右脳から左脳へ落ちる快感、あるいは言語から非言語へ飛び出す快楽は、日本語OSが前提となっていると言わざるを得ない。実は、リズムやメロディにもニッポンの歌は根強く生き残っている。演歌ばかりがニッポンの歌ではない。宇多田ヒカルにも「伝統」は生き残っているし、パフィーなぞは「拍」(言葉の一語一語の区切り)を明確に歌うニッポンの歌の典型である。「だんご三兄弟」も「拍」を明らかにした(一語一語が意味明瞭)歌の典型である。欧米風のものが並ぶヒット曲の中で、間歇泉のようにニッポンの典型歌が大ヒットするというのが我が国のヒット・チャートの周期である。

(十)

 エンディングとして「日本人の脳」のその後を推察しておきたい。ただし、以下は筆者の直観による、実証的な根拠のないあくまで「妄想」であることをお断りしておく。

 例えば筆者に、これだけのこだわりを喚起させたこの「日本人の脳」というテーマは、その後どういう扱いを受けることになったのだろう。書物自体は静かなロング・セラーとなり、いまでも版を重ねている。しかし「大脳生理学」と称される学問分野で、角田氏が定立された「日本人の脳」というテーマが、いま現在も継承されているようにはとても見えない。いま一般的に流通している内容は、日本人と欧米人を区別しない(ということは、欧米人型脳=普遍脳とする立場だ)「右脳・左脳論」だけと思われる。

 続編発行(1985年)以降の、脳科学の進展(「進歩」とは言わない)がこのテーマを無効なものにしてしまったのだろうか。角田氏がもっぱら聴覚問題および聴覚検査を通じて本テーマを提起されたという限定条件も確かにあろう。それに、同氏の研究がやや「オカルト」とも受け取られかねないところへと傾いていったこともあろう(「四〇、六〇システム」という左右脳受容の普遍的転換スイッチ、脳の時空間処理における「40・60・80」の人類学的スイッチ、公転周期を刻む脳内年輪システムや月の満ち欠けによる左右脳受容の逆転などの発見)。

 逸脱は、日本の学者の好むところではない。一時の関心も、欧米学会がリードする脳科学の普遍標準にしだいに引き寄せられ、角田説は異端視されていったのだろうか。いずれにせよ、学者受けはせず、後継を持たない学説へと追いやられたに違いない。時は80年代後半、日本はバブル景気に浮き立っていた。「日本人論」ブームが沸き起こり、日本人の特異性が誇りをもって語られもした時代であった。角田説はこのとき高揚し、その崩壊後、バブルとともに日本のケガレを祓うように遠く流されたのか。

 いまの「右脳・左脳論」では、日本人は右脳の働きが強いとされている。これは角田説に似て非なるものだ。前提が違っている。いまの「右脳・左脳論」は、欧米人脳OS=普遍脳とし、パトスの部位を人類共通に「右脳」において、日本人は「パトス」的だとしているものだ。筆者にすればだが、これではニッポン人の秘密に何ら迫れるものではない。また、これほどの衝撃を受けもしなかっただろう。流竄された説こそを私は愛しく思う。

(蛇足)

[主な典拠文献]
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