mansongeの「ニッポン民俗学」

「ニッポン」への道---「中国」というものと「朝鮮」という回廊



▼はじめに

 「また」である。いったん前号で決着をつけたつもりであったが、なお「ニッポンの始まり」について語らざるを得ない。と言うのも、これまでの私の論には「中国」というファクターが甚だ弱かったことに気づいたからだ。ニッポンに多大な影響を与えたはずの「中国」が、ニッポンにいかに流入し浸透していったのかが説かれも解かれてもいない。これでは明らかな不備である。改めて、その回廊としての朝鮮半島に注目しつつ、考察してみたい。

 あらかじめお断りしておくが、例によってこれまでと違う見解が入るだろう。一方で一部、記述の重複も避けがたいが、単に同じことを繰り返すつもりはない。前稿で「ニッポンと日本」の脱構築を試みたように、「中国」を解体して、東アジアの「国家」や「民族」の解放をも試みてみようというのが、本論でのもう一つのねらいである。

(一)「中国」とは何か

▼「中国とは何か」という問い

 日本人にとって、「中国人とは何か」と問うことは「日本人とは何か」と問うことと同じくらいの「政治-歴史論理学」の実戦問題である。「中国」と中華人民共和国は同じか。無論、違う。中華民国たる台湾があるからだ。このことが、中華人民共和国が「一つの中国」という主張を唱える大きな理由である。しかしその前に、中華人民共和国内は確かに「中国」か。内モンゴル人、旧満州ツングース女真人、西域ウイグル人、チベット人は中国人か。

 たちまち、「中国は多民族国家であり、民族と国家・国籍とは違う」と反論が来よう。それには「では、民族とは、国家とは何か」と問い返しておこう。奇妙なことに「民族」も「国家」も、中国語ではなく明治日本人が造語した言葉(概念)である。「国家」と「国民」は19世紀末、「民族」は20世紀初めに日本で生まれた言葉である。ならば西欧語にはあるだろう、とお思いだろう。

 ところが、"state"(英語の「国家」:以下同様)や"nation"(国民)も18世紀末生まれの観念なのである。「民族」に至っては対応語はない! "nationalism"(ナショナリズム)とは「国民主義」の意味である。日本語の「民族」に近い言葉は"race"や"ethnic"(種族)だ。「ナショナリズム=民族主義」とは、実に近代日本人の「妄想」であり、これを世界や歴史に投影したものだった。皮肉なことにこれが中国に逆輸入(?)され、「中国人」はいまや「民族主義」を振りかざしているのである(例えば、日本の歴史教科書への過干渉もこれである)。

(注)「民族」とは何かについて一言しておこう。それは、近代日本人にとっての「日本人とは何か」という問いに発する。当時、不平等条約解消を悲願として抱えていた日本にとって、問題は英米列強が「日本」を"nation-state"(国民国家)として認めるかどうかにあった。そこで、近代日本は自身の固有性を「日本人=日本民族」として定立したのだ。実は、お手本のヨーロッパの"nation-state"がそもそも擬制であったのだが。

 難しくなったが、早い話が18世紀末に至るまで、世界には「民族」はもちろん、「国家」や「国民」もなかった!ということである。では、何があったのか。政治的には、王とその領地・領民が、社会的には言語と生活様式(民俗)が、そして両者を横断・破断するものとして神話や宗教があった。そしてこれらは合致するものではなく、また変動しないものでもなかったのだ(ヨーロッパ史を見よ)。

▼中国、そして中国人(漢民族)とは何か

 改めて「中国」とは何か。それは国家ではなく、中華皇帝の領土、つまり大王の私有物である。あるいは、領土と見なしたい領域である。「日本」も同じである。私たちは順序を誤っている。中国や日本という「国土」があり、そこに「中国人」や「日本人」というものがいて、それを「皇帝」や「天皇」が統治し領域を広げたのではない。まず、大王や王たちがいて、彼らが支配する領土と領民があったのである。幾たびの変転のあと、やがてそれらがほぼ固定化し、ついに王が政治的に去ったとき、その遺物が「国土」や「国民」と呼び替えられたのである。これが「近代国家」の誕生だ。

 では、漢民族(通例に従い、こう呼ぶ)が中国人か。そうだとも言え、そうでないとも言える。漢民族とは実はそれ自体が、日本民族と同様に「混血民族」である(おお、何と絶対矛盾的自己同一であることか!)。漢民族の成立は早くて宋代、遅くて明代のことである。なぜなら、漢代の中国人と唐代の中国人は別「民族」(正しくは「種族」と言うべきか)である。唐代の中国人と明代の中国人とも違う。また、地理空間的にもほぼ各省単位を越えては、互いに話しても、同一「民族」の重要指標たる言葉が通じない。それは「方言」というレベルにはなく、別言語であるからだ。

 中国人、あるいは漢民族とはいったい何なのか。それは「書き言葉」である漢文(これが「中国語」だ)を共有する東アジア諸民族グループの「総称」である。分かりやすく申し上げよう。中国とはヨーロッパ連合(EU)のような統合体であり、その中国人たる漢民族とは「アメリカ人」(そんな「民族」はいない)のような混血・雑居集団なのである。

▼「中国人」というものの歴史(1)---周まで

 迂遠だが、「ニッポンの始まり」へのアプローチとして、「中国人」というものの歴史を概観しておきたい。中華は「中夏」であり、それは周代の「古代」である。「古代」というのは人間の歴史認識の一パターンである三段階説(「いま:近現代」-「むかし:中世」-「そのむかし:古代」)の「そのむかし」に当たる。周を「現代」とすれば、殷が「中世」、さらにその前を夏としたのだ。夏という「王朝」は実在せず、あったのは周代の各国の先駆となる諸都市国家群である。その幻の「中夏」領域とは「中原」であり、後ちの長安がある渭水盆地から黄河中流の洛陽盆地周辺を指す。

 黄河文明は、いわゆる「漢民族」が開いたものではない。漢民族なぞなかったからだ。最初の王朝・殷は、東夷の出身とも言われるが定かではない。ともあれ、漢字の原形となった甲骨文字を担ったのは殷に他ならない。しかしこれは流通言語ではなく、神聖文字であり、これを流通言語へと変容させたのは周代の諸国群の功績(これが「諸子百家」という運動だ)であり、「中国語」としてリリースしたのは秦の始皇帝である。

 漢民族としての最初の混血(生成)は、実はこの黄河文明そのものにある。黄河文明とは、いわゆる東夷・西戎・南蛮・北狄と呼ばれる「異民族」のブレンドによるものである。異文化との接触こそが文化文明の源である。そしてコミュニケーションの必要性が共通言語である「中国語」を生むことにもなる。その中心地は洛陽盆地にあったと考えてよいだろう。なぜなら、この地が東西南北の諸族が出会う「中原」であったからだ。

 後ちの朝鮮の記述でも触れるが、筆者にこれまで欠けていたと反省しているものとして「地理」という観点がある。この洛陽盆地はまさに地理的に中心地たらざるを得なかったのだ。黄河下流は氾濫地帯である。南北への道は洛陽盆地しかない。また、東西へも、オルドス・山西山地間を南流している黄河は急流かつ断崖で渡れず、いったん洛陽盆地に出るしかなかったのである。

 結合は進む。殷を滅ぼした周は、渭水盆地の奥から登場した一西戎である。周は同族を各地に送り込む。注意しなければならないのは、送り込まれた支配層と現地の被支配層とでは民族が違うということである。しかしそれは同化・混血の前提にすぎない。中国語を始めとする「中夏」の文明と文化が中国大陸全体に拡散されていく。「朝鮮」は、さらに「倭」もこの中で生まれたのである。

▼「中国人」というものの歴史(2)---秦から南北朝まで

 華南を含めた統一中国を創ったのは西戎の秦王朝であった。近年の調査によれば、揚子江下流域での稲作文明は黄河流域に先行するほど古い。この稲作の担い手たちは漢民族では無論ない。華北の第一次ブレンド漢民族と華南の異民族(複数)の構図は、次の漢王朝時代にも続く。一方、中国語を軸とした全体ブレンド化も着実に進行していた。しかし、問題はこれからだ。

 後漢王朝の衰退は184年の黄巾の乱から始まるが、打ち続く戦乱で人口が激減した社会状況の中で、魏の曹操は鮮卑族などの新たな「北狄」を華北に呼び入れて自らの傭兵とする。そのお陰でいったんは三国の統一は成るが、すぐに南北に分裂し、華北は非漢民族が入り乱れる「五胡十六国」時代に突入する。このとき、第一次漢民族(華北人)の一部は華南に移った。余談であるが、おそらく客家(はっか)は第一次漢民族グループに属した「異民族」であろう。

 華北はついに鮮卑族の北魏朝が支配する地となる。これが南北朝であり、華北の支配層が非漢民族で被支配層が漢民族、華南の支配層が漢民族で被支配層が別の非漢民族群という新たな構図である。そして、支配層の子孫が増殖するというのが歴史の法則である。このようにして、華北は「北狄」諸族によって第二次ブレンド漢民族が生成されていき、華南では第一次漢民族による「中国」化が進められた。

 忘れないように触れておくが、わが(?)倭国の「大乱」はほぼ後漢の混乱期に当たり、邪馬台国の卑弥呼は魏に、また「五王」は南朝に朝貢した。そして「聖徳太子」の時代は、南北朝を抜け出した隋の時代であり、続く唐王朝と白村江で戦い、奈良時代を迎えるのである。

▼「中国人」というものの歴史(3)---隋・唐から元まで

 「五胡十六国」以降、約300年をかけた民族シャッフルはいかなる「中国」を生んだのだろうか。それが隋・唐であるが、彼らの正体は北方の「異民族」である。隠蔽された素性は、第二次漢民族の正統性を生み出す。ここに逆転があることにご注意願いたい。華北の新「漢民族」が正統性を確保したのである。これはデタラメであるとともに、「中国人」や「漢民族」の本質をよく表している。それは「民族」では決してないのである。

 唐末から「五代十国」まで「北狄シャッフル」をもう一度くり返して誕生した、次の宋も、そんな虚構の上に成り立っている。自分たちがもはや誰だか分からないのである。そこでかえって皮肉にも「中華意識」が芽生える。華北を浸食して迫り来る新たな「北狄」である遼や金が明白な「異民族」であることをテコにすることによって、「中国」と「漢民族」意識が生まれたのである。言わば、被害者意識が「中華意識」をそそり立たせたのである。しかし事実は、「中国人」はすでに「北狄」との大いなる混血児であった。

 そしてモンゴル族はそんな感傷も押し潰すように押し寄せた。モンゴルこそ真の世界帝国であるが、中国はその一支配地にすぎなかった。そういう意味で元王朝は「中国王朝」では決してない。大ハーンはモンゴル高原を常に経巡っており、大都(北京)は冬の避寒地であった。当時の「漢人」とは、第二次漢民族(宋人)の他、契丹(遼)人、女直(金)人、渤海(高句麗の末裔)人、高麗(朝鮮)人までを含んでいた。

 エピソードを挿んでおこう。30年余に及ぶ抵抗が降伏に終わったとき、二度の元寇の橋頭堡となった当時の朝鮮王朝・高麗の王たちは、モンゴル宮廷に高臣として迎えられた。国王は代々モンゴル皇女の婿(むこ)となり、モンゴル風の宮廷生活を送っていたのである。フビライ・ハーンはチベット・ラマ仏教の僧パスパに命じてモンゴル文字を作らせたが、モンゴル社会にはすでにウイグル文字で書くことが確立しており、それは普及しなかった。一説によると、興味深いことにパスパ文字は高麗に入り、これが基礎となって次の李氏朝鮮時代にハングル文字が誕生したという。モンゴルは半島の南岸にある済州(耽羅)島も支配した。朝鮮とモンゴルは意外にも深い関わりがある。

▼「中国人」というものの歴史(4)---明から現代へ

 すでにお分かりのように、中国とは非中国人によって支配されてきた地なのである。晋の南遷、つまり五胡十六国時代以降、華北は北宋と明朝を除き、ことごとくツングース、トルコ、モンゴルなど「北狄」系の異民族によって支配されてきた。一方の華南も、もとは非漢民族の地である。華南に逃れた第一次漢民族はそこで異民族を主に南や西に追いやり、また混血して変容してきたのである。雲南省などに棲む越人系および北方系諸族、福建人や台湾・高砂族などオーストロネシア語族系に連なると思われる諸族、南方のタイ族などインドシナの諸族、またチベット族など、中国周縁部の内外を南や西で取り囲む諸民族はすべて、この「中国」化の運動の中で「内部」から押し出され、再配置されたものであろう。

 漢民族王朝・明と言っても、もはや何をか言わんやである。その第三代皇帝・永楽帝にはモンゴルの血が半分混じっているという伝説すらまことしやかに語られた。そして清王朝であるが、この最後の王朝が「国民国家」としての「中国」のもととなった。その皇帝の領土が「国土」として、またその中に住む人々が「国民」すなわち「中国人」であると強弁されたのである。

 ご承知の通り、旧満州は清朝の故地であっても、「中国」ではなかった。満州(女直・女真)人はそのまま「中国人」では決してない。いまモンゴル地区は南北に分断され、北方はモンゴル共和国であるが、これは中華民国成立の直前に「独立」を宣言し、その後はソ連との関係もあり、北方が「中国」化を免れたおかげである。実はチベットもこのとき、独立を宣言していたのであるが、後ろ盾がなく「清朝領土=中国国土」という強奪を受けたのである。

 清の支配は同君統治で、「五大種族」への各個支配であった。すなわち、満州人「八旗」貴族に対しては部族最高議長として、盟友モンゴル族には大ハーンとして、「漢人」には皇帝として、チベット族にはラマ教の大施主(最高保護者)として、新疆(西域)のウイグル・イスラムには政治保護者として、統治が行なわれていた。その第一公用語は当然ながら満州語であり、中国語は第三公用語であった。例えば、満州語「エルヘ・タイフィン」は、第二公用語・モンゴル語「エンケ・アムグラン」に、さらに中国語「康煕」帝と訳された。

 中国における「国民国家」化は1895年敗戦に終わった日清戦争以降に始まる。文字をよくながめて頂きたい。日「清」戦争であり日「中」戦争ではない。「国民国家」明治日本は、「国民国家」以前の満州族・清と戦ったのである。中華民国は、清のその流れを受け継ぎ、国民国家をめざして、清朝を「中国」と読み替えたのだ。これは、晋の南遷から考えると、実に1600年に渡るブレンドのいったんの終了宣言でもあったと言えよう。

▼余談---「中国」とキョンシー

 ここでもエピソードを紹介して、この章を終えたい。「中国」を表す英語の"China"(チャイナ)はインド・ヒンズー語の"Cina"(チ−ナ)に基き、それは最初の統一王朝「秦」(チン)の音によるものである。ところが江戸時代、イタリア人イエズス会宣教師シドッティが日本に潜入を試みて失敗し、江戸で新井白石の尋問を受けた。この時イタリア語で中国のことを"Cina"(チ−ナ)と呼ぶことを知り、白石が漢訳仏典にあった「支那」の字をこれに当てたのだ。

 「中国」という言葉は、いわゆる中国という国や地域を呼ぶ言葉ではなかった。首都、中央地域、臣民などの意味だった。「国家」や「国民」がなかった時代なのだから、当然のことなのであるが。ともあれ、白石以降、日本人は中国のことを「シナ」と呼ぶようになった。これでその政権と区別して大陸地域を呼ぶことができるようになったわけだ。清末、これを明治日本への「漢人」留学生が知って清に伝わり、表音の「支那」の字を意訳して「中国」の字に置き換えた。こうして「中国」という言葉は、いわゆる中国を表す言葉になったのだ。

 「中国」という言葉は、長く続いた清朝・満州族支配を脱色して「国民国家」をめざすための言葉である。そこには「中国人=漢民族」というフィクション、さらに「漢人」優越主義が秘かに隠されている。清朝期に生まれた「シナ」という日本語への現代中国の反発には、日本他の帝国主義勢力に対して劣勢にあった時代の記憶の拒絶があるが、それだけではない。「異民族」である満州族が「漢人」他を支配した「清」ではなく、「中国人」である満州族が「中国」と「中国人」を支配した「中国王朝」の一つとして読み替えようとする欲望がある。

 しかしながら、"China"(チャイナ)には拭いがたく「清」がこびり付いており、また当の「中国人」自身もそうであるに違いない。弁髪は満州人の風習にすぎないが、それは長く中国人のイメージであった。「中国服」と言われる「チャイナ・ドレス」も満州貴族の女性装束であり、決して漢民族本来の衣服ではない。そして、香港映画でヒットした「幽霊」キョンシーの姿は、清朝の役人の服装なのであるが、これが現代の中国でも最高の礼装とされている。死者を棺に入れるとき、庶民が生前に着ることを許されなかった清朝官人の高貴な姿をさせる死に装束なのである。「中華」文化は「蛮夷」を感化どころか、「北狄」文化に感化され尽くされていたのである。

(二)「朝鮮」半島を回廊にした倭国への道

▼古代東アジア像の解放

 前章で長々と「中国人」というものの歴史を叙述したのは、他でもない。近代の、そしていまの私たちの「国家」や「国民」、さらに「民族」という観念を一度解体するためである。これはいまの私たちの歴史観や国家観だけが、唯一の「歴史」や「国家」であるという憶見の相対化であり、同時に現状の「国境」などによって作り出されている静的に固定された東アジア像という私たちの想念から、動的な古代東アジア世界を解放するためでもある。

 「中国」と「中国人」のこととして述べたことは、実は「朝鮮」と「朝鮮人」のことであるし、「日本」と「日本人」のことでもある。また、チベット人、ベトナム人、タイ人などのことでもある。王たちとその支配領域の盛衰、また領民と非領民を含めた移住と混血の歴史だけが裸の事実である。このとき衣服に喩えられる観念は、すべて人間が生み出したものである。しかし人間はそれによって自己規定され、逆にそれによって人間であることもまた言うまでもない。

 例えば、「先住民」であるアメリカ・インディアンやアイヌ人はいかにして権利主張が可能なのか。ただ、そのつどの「後住民」に対して「先住民」であることだけに拠る。あとは様々な様態の闘争とその結果があるのみである。これが歴史であった。ところが、これも一フィクション(観念)にすぎない「国家」という均質空間を自明のものとして求める「近代」は違う。静的な「国内」には「国民」という「民族」しか住めないのだ。こうして「国民」であることをを拒否する「先住民」たちは「異民族」として見出され、「国家」には原理的に解決できない「国内」異物として残る。

▼倭国への道(1)---燕地・北京まで

【中国大陸の地形図】 【朝鮮半島の地形図】

 どうも回り道が多い。ともあれ、わがニッポンへの道に向かおう。ガイドブックを『魏志倭人伝』としよう。とすると、魏の都は洛陽である。ここからどうやって倭へ行くのだろうか。できれば地図を開いてもらいたいのだが、洛陽は黄河が東方の沖積平野に流れ出る手前の南岸の山際にある。この辺りが黄河の最も安定して流れている地帯なのである。平野(低地)とは実は黄河の氾濫原で、河口の渤海に近づくほどいく重にも川筋は乱れ、人が定住できる所ではなかった。

 進路は北にある。黄河を渡り、山地沿いに進むのである。南北に伸びる太行山脈を左手に見ながら進むと、かの殷墟があった安陽付近を経て、周・戦国時代の趙の都・邯鄲(かんたん)に出る。さらに北上していくと、そこはかつての燕の地(いまの河北省)である。西側に連なる山々が北側をもさえぎる所まで来ると、北京である。ここは古く殷代からの要地であり、周代には燕の都で当時は「薊」(けい)と呼ばれていた。

 北京は華北平原の最北に位置し、東方へは満州や朝鮮半島への入口である遼東につながり、同時に、北や西方の山地には「北狄」たちと対峙し交易する道が開けていた。事実、逆ルートで五胡十国時代、鮮卑族の燕(慕容:ぼよう氏)はここ薊に都した。その後も断続的に、同族の北魏、さらに契丹族の遼が支配し、女直族の金では「燕京」と呼ばれ、モンゴル族は元の「大都」を築いた。そして満州族の清はここを首都とし、現在に至る。

▼倭国への道(2)---北京から楽浪郡まで

 北京から東へ向かう。山沿いを東進し、ラン河を渡り山中に入る。山を越えると、遼寧省(旧満州)である。次に前をさえぎるのは遼河であるが、ここまでが「遼西」である。河向こうの「遼東」に出るには、いったん北上し渡河しなければならない。そして遼東の中心地であり、半島への前進基地である遼陽に至る。後漢末、ここの地方長官・公孫度が独立し、半島にも帯方郡を置いた。魏は公孫氏を攻め滅ぼし、半島支配を回復している。その作戦を指揮したのが、諸葛孔明とも戦い、次の纂奪王朝・晋の開祖・武帝の祖父である、高祖・司馬懿(い)仲達であった。

 さて、遼陽から半島へ向かう。遼東半島まで伸びる山地を南東に越えて進み、現中朝国境の鴨緑江に出会う。さらに南東に進み、清川江(バイ水)を渡ると、楽浪郡である。その郡都は次の大同江河畔の中心地・平壌の南対岸にある朝鮮県である(「県」とは軍事城塞植民都市のこと)。日本古代史で言う「楽浪」とはここを指す。

 ここで半島の地理を確認しておきたい。半島部は北緯40〜34度線の範囲に収まる。これは北京から洛陽までを含む華北の緯度に相当する。それを日本列島に持ってくると、東北の秋田付近から本州南端の下関までをカバーする緯度である。中国華北・朝鮮・日本の三国の自然風土の近さ、そこから作物を始め文化文明の移植可能性が浮かび上がってくる。ほぼ35度の同一線上に、洛陽・釜山・京都・名古屋などの都市が並ぶ。

 さらに言えば、34〜33度線は、華北と華南とを分ける中国の文明文化の境界線(淮河がほぼこれに当たる)で、ここから北が畑作、南が稲作地帯である。馬に乗る北方民族は、基本的にここまでを支配目標範囲とする。ここから南方の民族の足は舟である。これが「南船北馬」である。土間と高床、土足と履物を脱ぐ文化もここが境界である。なお、半島南部および西日本は暖流の影響で、華南地域と同じ照葉樹林地帯である。

▼倭国への道(3)---帯方郡から倭へ

 朝鮮半島の東半分は南北に大白山脈が走る山地である。平野部は西半分の川沿いに開けている。倭国へはこの水路沿いに進む。平壌と朝鮮県のある大同江を下り、載寧江に入ってさかのぼり、支流の瑞興江から東西にさえぎる滅悪山脈を越える。そして礼成江を下れば、後ちの高麗の都・開城の地である。そこから江華島にはさまれた水路を通り、漢江を遡れば、左岸にソウル(李氏朝鮮の都「漢城」)、右岸に広州がある。広州は百済の最初の都・漢山城の地である。この辺りが帯方郡に他ならない。

 漢江の上流は二つに分かれるが、南漢江を上り、忠州に至る。そこから鳥嶺で小白山脈を南へ越えると、聞慶(ぶんけい)である。洛東江が南方に流れている。下流に向かうと、右岸には六伽耶が次々と姿を表す。すなわち、咸昌(かんしょう)・星州・高霊(こうれい)・咸安・金海(金官。狗邪韓国)・固城である。そして渓谷の左岸が新羅である。たどり着いた釜山から海を渡り、対馬・壱岐を経て、北九州に至る。倭である。

 後ちの南朝鮮を描いておくと、小白山脈で東西に分かれ、西側に百済があり、東側の真ん中の洛東江をはさんで、西に伽耶、東に新羅という配置になる。それから『魏志倭人伝』で記述されている楽浪からのルートであるが、半島西岸の黄海に沿って進むとある。しかしこれは当時の臨時ルートである。馬韓の反乱で、通常ルートが阻まれ、仕方なく暗礁の多い西岸を南下したのである。

(三)「中国」を軸にした古代「朝鮮」と「日本」

▼周代戦国時代に「中国人」が半島に伸長する

 「朝鮮」族が黄河文明の担い手だったという奇説を唱える人がいる。殷人とは「朝鮮」人に他ならない、ということに基づいているのだ。しかしあらかじめ度々申し上げたように、「民族」ほど当てにならないものはない。殷代に「朝鮮」も「中国」もなかった。あったのは、殷の大王とこれに従ったり対抗したりする諸王たちである。本当のところは何とも言い難いが、『史記』によれば、燕地の薊には殷王の配下がいて、その勢力は遼西以東にまで及んでいたようだ。

 そのことは周が殷を滅ぼしたとき、遼西にあって周の世に生きることを潔しとせず餓死した狐竹国の伯夷・叔斉兄弟の伝説、また周の同族を燕地に分封し治めさせ、その奥の「朝鮮」を殷の遺臣・箕子(きし)に治めさせたことから推測される。ただし、この「朝鮮」とはおそらく遼東あたりまでを指したものと思われる。

 その後、領土拡張を競い合った戦国時代になって燕は遼東にまで支配を伸ばし、これに従ってその被保護国・箕子朝鮮も半島へと拡がっていった(「朝鮮」=楽浪=平壌周辺)ものと思われる。ただし、近代までは密度の問題はあるが「点と線の支配」が原則であり、問題が生じない限り現地の「王」や住民と「共存共栄」するのが「支配」の実態である。組織論の観点から言っても、近代までの「国家」とはヤクザの組織そっくりである。ある「私」が「公」を引き受けるのが政治であった。

 南に対峙する強国・斉を打ち破り全盛期を迎えた紀元前三世紀前半の燕は、『史記』によれば、半島の過半を支配したと言う。そこに「真番」(しんばん)という地名も登場する。これは後ちの漢の真番郡あたりを指すものだろうが、漢江から洛東江流域(少なくともその上流域)まで支配が及んでいたということを意味する。前述のように、洛東江を下れば、倭国は目と鼻の前だ。つまり「中国人」は遅くともこの頃から列島に出入りしていたとしなければならない。

▼「越人」たちの東海移住伝承と始皇帝の使者・徐福伝説

 実は分からないのは、それ以前の半島のことなのである。半島にフォーカスしたレンズを引いて、東アジア全体が視野に入る高所から俯瞰(ふかん)すると、北方からはツングース族が南下し、ついに半島の東寄りの太白山脈沿いに移動してくる。一方、華南では紀元前五世紀前半、熾烈な呉越の戦いが越の勝利に終わって、呉人は逃散する。次にはその越も楚に滅ぼされ、今度は越人が四散する。彼らの逃亡先の一つは東方の半島南部や列島九州西岸であったはずだ。

 稲作と漁撈を生業とする原華南人は華北人から「百越」(越人)と総称されたが、高床式住居や履物を脱ぐという文化風俗から見れば「倭族」である。海に漕ぎ出せば「海人」でもある。彼らが半島南部の「韓人」や列島西部の「倭人」や「海人」になったと思われるのである。彼らの東方への脱出行は、いつしか東海神仙境への移住伝説となり、半島と列島の西方にあり、初め呉人が次に越人がかつて住した山東半島南の付け根にあった琅邪(ろうや)に残っていた。

 それを信じて、琅邪から「蓬莱山」などの三神山を探し求める東海探検の船旅を斉の人・徐福に命じたのは、最初の統一王朝を創った秦の始皇帝であった。紀元前219年のことである。徐福は二度と戻って来なかった。一方のわが列島には、徐福の「到着地」だという伝承が残る地が数多くあり、わが国最古の物語『竹取物語』にも「蓬莱山」は登場する。琅邪は、初め呉が副都を置き、後ちに越が遷都した、華北と華南を結ぶ港町として古くから栄えている所だった。

 「越人」である呉越の故地は長江河口付近にあるが、そのすぐ南に禹の死地とされる会稽(かいけい)山がある。会稽の地名は『魏志倭人伝』にも登場し、倭はその東方にあり倭の水人の入れ墨などの風俗は会稽人(越人)と同じだと記されている。越人は夏王の後裔と自称するが、始皇帝は同210年にこの会稽山に登り、夏の始祖・禹を祭っている。このように華南の海人である「越人」は海岸沿いに琅邪まで北上し、さらに東海へ漕ぎ出していったという伝承を持つ。

▼支配者たちの交代劇と衛氏朝鮮の成立

 話を進めよう。遼東と「朝鮮」までを実質的に支配した燕も、戦国時代を終焉させた始皇帝が率いる秦によって滅亡する。秦は全領土を三十六郡に分け、その一つとして遼東郡を置いた。建国まもない秦は、その向こうの「朝鮮」の地はこれまで通り「中国人」箕子に治めさせた。しかし秦は短命に終わり、紀元前202年、前漢が中国を統一する。皇帝高祖は盧綰(ろわん)という者を燕王に立てて燕地と遼東とまでを治めさせ、「朝鮮」は放棄した。

 ところが、盧綰はある内乱に加担して、漢軍に追討され、匈奴の地に逃げ込む。そこで同195年、改めて皇帝直轄の遼東郡が設置される。この混乱の中で、箕子の準は韓(辰)王にも一時就くが、燕からやって来た衛満とその私兵に滅ぼされ、替わって「中国人」衛満が「朝鮮」王となり、支配の中心地(後ちの楽浪郡)の王険(平壌)に都する。これが、またも「中国人」の衛氏朝鮮である。

 衛満は、倭国へのルートに沿って半島内に住む「中国人」、それに主に東部に住む北方系のワイ・貊(パク)族(ツングース)、南部に住む南方系の韓族(もと「越人・倭族」)に支配を広げていった。半島の倭国へのルートは、戦国の燕代には開け、そこには燕人が居た。その後は、燕および山東半島の斉が秦に滅ぼされ、そのとき華北人が数多く亡命したであろう。ただし、衛満のそれが点と線の支配であったことは言うまでもない。漢の遼東郡太守は衛満を認め、これと同盟を結んだ。半島では公用語として何語が話されていただろうか。言うまでもなく、華北「中国語」であろう。

▼前漢武帝の領土拡張政策による半島征服

 初期前漢の中国支配は、意外にも軟弱であった。華北中原を除いては、諸王や蛮夷たちに良いようにされていた。これを打破していったのが、景帝とその子・武帝であった。特に武帝は、四囲への大拡張路線を取った。華南の「呉楚七国」を父が蹴散らした後、より東南方の南越諸国を駆逐し、最終的にベトナムにまで支配を広げた。西方へは張騫(ちょうけん)を匈奴挟撃のため大月氏族に遣わした。そして、西北方の匈奴を連年激しく討ち続け、武帝は西域を手に入れる。匈奴の一部は、遠くヨーロッパにまで逃げ、ゲルマン族の前にフン族として現れた。

 また武帝は、これは途中で中止されるが、四川からチベット東南部をかすめて山岳地帯を抜け、遙かインドのベンガル湾にまで通じる道を切り開こうともしていた。そしてついに東方へ侵攻である。武帝はその前に山東の泰山で天地封禅(ほうぜん)の秘儀を祭し、東海の神仙境を求めて数千人を船出させている。始皇帝と同じである。これは「南船北馬」という中国の形なのであろう。天信仰の北方騎馬民につながる華北文化と海信仰の南方海人につながる華南文化との統合が「中国」なのである。

 紀元前108年、漢軍は衛氏の首都・王険を占領し、王国を滅ぼす。そしてそこに楽浪郡(郡都・朝鮮県。大同江・平壌周辺から現ソウルのある漢江流域まで)、臨屯(りんとん)郡(半島東部の南北山地域)、玄菟(げんと)郡(今の北朝鮮の東北山地域)、真番郡(洛東江流域)の四直轄郡を置き、植民が行なわれた。ここに改めて「中国人」による倭国ルートが確立されたわけだ。「中国人」たち、特に商人たちが次々と倭国「市場」へ雪崩れ込んでいったことは間違いない。

▼漢の半島統治法と「漢委奴国王」

 大皇帝・武帝も紀元前87年没する。漢帝国は行き過ぎを調整する。言わばバブル崩壊である。同82年に臨屯・真番の二郡が廃され、同75年には玄菟郡も西方に限られる。半島には、楽浪郡だけが残されることとなった。しかしこれは今の言葉で言えば官費節減のための「民営化」に過ぎず、実態としては「中国人」があちこちに住み、これまで通り行き来していたに違いない。そして「中国人」とは中国語を話す人だということ、この頃には半島には中国語を話す人が増殖していたことを強調しておこう。

 大枠ではこの体制が漢末まで続く。すなわち「官」としての楽浪郡、その他は「民」である。「民」の中から「親分」が任命される。それが、国や郡(地方)の「王」、県(城都)の「侯」、邑(町)の「君」である。例えば、後漢初めに「韓廉斯邑君」となった蘇馬(そば)シという「韓人」がいる(『後漢書』)が、韓の廉斯(れんし)という邑(町)の君(親分)という意味だ。

 同じ頃、「漢委奴国王」の文字のある印をもらった「王」がいた。博多の親分である。漢の委(倭)の奴の国の「王」とある。間違ってはいけない。これによると「倭」は「漢」の「領域」だったのである。実際、この中国語文字である漢字を誰が読んだのか。中国語を読み書きできる人がいなければならない。さらに、この国王は朝貢したとされるが、朝貢には「表」と呼ばれる中国語で書き記した国書が必要であり、その封印を行なうためのものがこの国王印であった。

▼漢末の混乱と「倭人伝」の位置づけ

184年、黄巾の乱が起きる。これはその後も度々歴代王朝を滅ぼす中国の獅子身中の虫となる、宗教秘密結社系農民反乱の嚆矢である。その宗教とは「道教」である。道教とは一言では定義しがたいが、ひとまず南方系のシャーマニズムなど実践的呪術をベースに北方系の神秘主義理論が融合した、中国における非合理主義のすべてと言っておこう。ともあれ、後漢はこれを境に瓦解の道を歩む。

(注)現「中国王朝」の共和国政府も「宗教秘密結社」を恐れている。「気孔団体」であるはずの法輪功を早々に弾圧したのはこの伝統の流れの中にあるのだろう。

 中央の混乱に乗じて、遼東郡太守・公孫度は自立し楽浪郡も手に入れ、その南部を新たに帯方郡とした。これはソウルや広州がある漢江周辺で、倭へ通じる洛東江の入口までを統治領域としたのであろう。その一方で、いわゆる三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の動きも活発になっていった。同じ頃、倭国でも「大乱」が起きていた。この収拾の過程で卑弥呼が邪馬台国の女王となる。その卑弥呼の「鬼道」とは「道教」に他ならない。神懸かりの中で神の神託を受ける祭事(まつりごと=政)である。

 さて、漢末から三国分裂までの混乱を収めたのは魏であった。その魏の正史を含む『三国志』に例の「倭人伝」があるわけだが、これを編纂したのは次の晋朝である。晋の始祖は先述の司馬懿である。司馬懿は当時魏臣として、遼東の公孫氏を討って楽浪・帯方郡を、つまりは「倭国への道」を中央政権下に奪い返して、この実績を背景に権力を強めた(遼東の背後には高句麗が迫っていたが)。そして孫の司馬炎がついに魏の禅譲を受け、晋朝を興したのであった。実は、「倭人伝」はその晋の司馬氏のために書かれているのである。

▼「倭人伝」は司馬懿の栄光のためにある

 229年、「大月氏」王・波調の使者が魏都・洛陽に到来する。この「大月氏」というのは、張騫が訪れた大月氏そのものではなく、その一貴族が興した後継王朝で、クシャナ朝インドのことである。後漢期に在位したカニシカ王は、仏教の一大保護者、ガンダーラ芸術の生みの親として特に有名である。そのカニシカ王の二代後の王が波調(ヴァースデーヴァ)である。

 彼に与えられたのが「親魏大月氏王」の称号であり、この大王の使節を導いたのが魏の有力者で、司馬懿の言わばライバルであった曹真であった。魏の明帝が239年に卑弥呼へ授与した「親魏倭王」とは、「倭国への道」を奪還する東方作戦を成功させた、もう一方の有力者・司馬懿へのバランス配分であったのだ。

 司馬氏の晋朝下に編まれた「倭人伝」は、その称号の立派さに見合う大国として、倭国を大月氏国に匹敵する大国として描き出すことを余儀なくされた。こうして、倭国までの距離、国土や戸数の大きさは大月氏国と同等程度にあえて粉飾された。「倭人伝」における「倭」は誇張した大きさを持たされたのである。さらに、魏の世界観の中で記述されねばならないから、当時対抗していた呉との関係において、南方に位置づけられたのだ。これも「偉大」なる司馬懿の東方戦略を讃えんがためである。

 半島西岸の黄海を南下する海上ルートは、たまたま魏朝のこの時期だけのものであることは先に述べた(しかし結果として、内水利用の「中国人による中国のための倭国への公式ルート」は高句麗や三韓によって永遠に阻まれることとなった)。ここで「倭人伝」から読み取れる倭国の様子を確認しておこう。

 対馬国・一支(壱岐)国を経て、末盧(松浦)国に着岸し、伊都(怡土、糸)国に至る。伊都国には「世々王あり、みな女王国に統属せら」れており、一大率が置かれている。一大率とは対中国(半島を含む)総窓口である(大宰府とはおそらくこの余韻の中にある)。この特記された王とはかつての「漢委奴国王」なのであろう。ところで、邪馬台国自体は直接的には近畿と思われるある一地域を治めているだけである。他はすべて保護国なのである。要するに、邪馬台国を盟主とする諸「邑」(都市国家)の連合が「倭国」なのである。

(四)「日本語論」へのジャンプ

 このままではいつまで経っても終われそうにない。それに、この後に予定している、本稿の続編であるかも知れない「日本語によるニッポン論」へと筆者の中では思考と論述が傾斜し始め出してしまっている。もはや限界である。何とかそこへの渡りをつけて、やや強引だが、本稿を締め括ることをどうかお許し願いたい。

▼「韓」という共通性、「辰」というまとまり

 三韓、すなわち馬韓・弁韓(弁辰)・辰韓という名称に注意しよう。一つには、三国が「韓族」であることを共通する「韓」の字が示している。そして弁韓の別名・弁辰と辰韓には「辰」の字がある。『漢書』には「真番の辰国」の文字がある。「真番」とは半島南部の洛東江流域のことである。そこに「辰」という国があったと言うのだ。先述のように、弁辰(後ちの加羅)と辰韓(後ちの新羅)は洛東江が作る同じ平野部の東西にあった。

 馬韓は後ちに百済を生むが、当初は半島西南端寄りにあったと思われる。百済の最初の都となった広州はそのずっと北方の漢江流域にある。すなわち、馬韓は中国化した地域へと近づくことによって、百済を生んだと言えよう。それまでは、弁辰や辰韓に比べ、ずっと中国化が遅れた半島の一地域だったのだ。

 「辰」(シン)は「秦」に通じ、その地から秦の始皇帝の末裔と自称する「秦氏」がわがニッポンへ渡来しているが、これはまんざら語呂合わせだけではない。言葉が歴史を語っている。今も述べたように、馬韓と違って洛東江流域は古くから「中国人」が六加羅などを経て、倭国へと行き来していた地域である。その歴史は秦をさかのぼり、周代の燕の時代からである。

▼汎「中国語」・汎「中国人」の時代

 周代の燕は、周の都があった陝西省(西安がある渭水流域の関中盆地)から送り出された人々によって作られた。だから燕人の中国語は陝西方言であり、またこれが周の世の標準語でもあった(燕人の言葉はその後、その地に根付くことによって北狄のアルタイ語なまりを含んだ方言となるが)。続く秦と前漢の都も、関中の陝西にあった。後漢以降、標準語は変化する。後漢・魏・晋の都は、関中を出た河南省の洛陽に移るからだ。その後を言えば、都は華南に移るし、「中国人」は北狄との混血になるし…。

 そういったことから言えば、「朝鮮」の中国語とは古式ゆかしき言葉だったのである。それ以前はともかくとしても、前漢の武帝によって陝西方言は確実に韓人たちにも受け継がれたはずである。さらに言えば、倭人にも。楽浪・帯方郡を奪い返した魏人は、洛陽方言を話した。しかし辰地域の韓人は、それよりも古風な中国語を話したのである(おそらく血統的にも先行した「中国人」の血を引いていよう)。

 倭人も、最初に陝西方言を話す「中国人」と出会ったはずだ。「親魏倭王」たる卑弥呼の宮廷には、陝西方言を話す「中国人」たちが多くいたに違いない。方言は話し言葉で、文書に方言はない。だから、洛陽方言を話したであろう魏帝との国書のやり取りに問題はなかった。それより、「親魏倭王」とは中国世界の一員であることの証明であり、「日本語」は未だなかったことを忘れてはならないだろう。

 華北から華南に移住した客家の言葉は漢代の中国語の特徴を残す方言であると言われるが、それが日本語の中に取り込まれた古代中国語として残っている。北京語(現標準語)の「一・二・三・四…」、つまり「イー・アル・サン・スー…」もその由来を感じさせるが、客家語では「イッ・ニー・サーム・シー…」である。半島の向こうのニッポンでさえこれである。当然、辰地域の韓人は陝西方言を守っていたであろう。これが秦氏の「秦の始皇帝の末裔」だという主張にもつながったのだ。

 わが平安朝には、真名と仮名という言葉があった。真名とは漢字・漢文であり、仮名とは平(あるいは片)仮名・和文である。すなわち、「日本人」は中国語をこそ日本の「公用語」と認めていたのである。中国語を使う者こそ「中国人」であったことは、これまで何度も指摘してきたことである。そろそろ、お後に譲ることとしたい。


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