mansongeの「ニッポン民俗学」

数詞からニッポン人を考える



 「1・2・3・…」と数えるのに、私たちの日本語には二通りの数え方がある。「イチ・ニ・サン・…」と「ひ・ふ・み・…」である。私たち日本人には至極当たり前のことのように思える。ところがそうではない。例えば、英語やドイツ語に二通りの数え方なぞない。世界中の言語の中で、数について二通りの数え方を持つのはたった二言語だけである。すなわち、日本語と朝鮮語である。

(注)言うまでもなく、同一言語内の方言による違いや序数は含まない。また、英語内のラテン語彙など補助的な役割のものも除く。それでも大雑把な言い方に過ぎるのなら、同一の数を表す文字を読み分けるのは日本語と朝鮮語の二言語だけである、と申しておこう。

 なぜ日本語と朝鮮語だけなのか。隣接する中国語との関係によるものである。中国語は、古代神聖文字の流れを汲んで現在も機能し続ける世界唯一の表意文字「漢字」に基づく言語である。西洋のエジプトやメソポタミアの神聖文字は失われ、表音文字のアルファベットにすべて取って代わられた。いまや世界に表意文字は漢字しかなく、しかもこれにどうしても依存し続けねばならないのは、中国語と日本語を残すのみである(その中国語も「簡体字」という脱「漢字」化を試みているが)。

 中国とは言語帝国である。古代東アジア世界においては、特にそうであった。神聖象形文字として生まれた「漢字」=中国語は、周代・春秋戦国時代の俗化(=普遍化)と秦・始皇帝による統合化プロセスを経て、東アジアの普遍語となった。華北中原に発した「漢字」は、中国大陸全体、朝鮮半島、日本列島、インドシナ半島に拡がった。無文字段階の周辺地域はたちまち中国語化した。

 早い話、これが「音読み」である。そしてこれによって整序されつつも同化されなかったものが日本語の全「訓読み」と朝鮮語の「数の訓読み」である。言語の保証には文字=書き言葉の裏付けが要る。漢字圏たる東アジアにおいては、いかなる「文字」を選んだかでそれぞれの運命が決まった。日本人は仮名、朝鮮人はハングルという表意文字を生んだ。しかし両国はこれに一本化できずに、中国語=漢字も保持した。これが「音読み」と「訓読み」の二重性を生むのである(ただし、朝鮮語の場合は、数詞だけだが)。

 言語、そして「民族」に感傷は本来必要ない。なぜならそれらは始めからあったものではなく、「成った」後からの議論だからだ。ともあれ、日本語と朝鮮語は二重化したのである。「音読み」が本来中国語読みであることへの意識は私たちに乏しい。中国語=漢字はそれほど私たちの日本語の内部にある。次を見て頂きたい。

(漢字音)
北京語イーアルサンスーウーリューチーパーチューシー
広東語ヤットイーサムセーウンロックチャッカウサップ
客家語イッニーサームシーウンロックチットパットキィゥーサップ
朝鮮語イルサムノクチルパルジプ
日本語イチサンロクシチハチキュー(ク)ジュー

 いずれも現代音ではあるが、古い中国語の音を残していると思われるのは客家語と日本語である。客家語は最古で漢の音、遅くとも唐の音を残す。日本語も南北六朝時代の音から唐の音までを残している。朝鮮語は、古い音からやや変化している。「中国人」が「北狄人」に何度も入れ替わった後にこそ、中国から大きな影響を受けたせいだ。現在標準語の北京語もそういう言葉である。広東語は、原華南人(非中国人)が客家を代表とする原華北人に教えられた言葉である。

 この「音読み」は何を意味しているのだろうか。他でもない。かつて「日本人」や「朝鮮人」は、中国語を話した「中国人」であったということだ。この表現自体が自己矛盾的であることは承知している。日本も朝鮮も中国も未だなかったのだから。それから、近代国家の「一民族・一言語・一国家」なぞと言った虚妄に囚われないで頂きたい。かつての「文明的=中国的」ニッポン人は、普遍語の「中国語」と日常語の「ニホン語」の両方を使ったに違いないのだから。

 さらに言い添えておくが、「ニッポン人」は一集団ではないし、全集団が中国語を話す「中国人」だったわけでもない。また、「ニホン語」とは地域語であり、列島には数多くの「ニホン語」があり、これは東アジア全域で同様であっただろう。それに、集団や地域語に「国境」なぞなかったことも付け加えておこう。

 訓読みとして残った倭(和)語(やまとことば)の数詞に触れ、本稿を閉じたい。参考までに朝鮮語の「訓」も示しておこう。そうそう、「ハナから承知」の「ハナ」はおそらく朝鮮語であろう。

(漢字訓)
朝鮮語ハナトゥルセッネッタソッヨソッイルゴプヨドルアホプヨル
日本語ひ(ぴ)ふ(ぷ)いつななここと(そ)

 「ひ・ふ・み・…」は単独で読み上げるとき、単音節なら「ひー・ふー・みー・…」と二音節に伸ばして発音する。個数を数えるときは、現代では「つ」を付ける。「ひとつ・ふたつ・みっつ・…」である。この「つ」はもともと「ち」であったようだ。「はたち」は二十歳、「みそぢ」は三十歳代をいまは言うが、それぞれ二十個(はたち)、三十個(みそち)が原義である(ちなみに「ち」が「つ」に代わるのは、「日本」の読みが「にちほん」から「につほん」へ変化することを予感させ、面白い)。

 人を数えるときは「たり」を付けた。「ひとり・ふたり・みたり・よったり・…」である。日を数えるときは「か」を付ける。「ひ?か・ふつか・みっか・よっか・…」である。最後に面白い現象を紹介しておこう。「十」から音読みでカウントダウンしていくと、どうしても訓読みしてしまう数が二つ現れる。「七」(なな)と「四」(よん)である。お試しあれ。
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