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mansongeの「ニッポン民俗学」
遠山史観による日本古代史
▼日本古代史学界の「化学消防士」遠山美都男
遠山美都男(とおやまみつお)という、七世紀の古代日本を中心に「通説」をくつがえしてきた歴史学者がいる。七世紀とは重要な世紀で、この時代には聖徳太子の摂政、大化改新、白村江の戦い、壬申の乱などの事績が含まれる。日本古代史と言えば、長く論争の続く「邪馬台国」の所在地や「騎馬民族征服説」の当否を始め、この七世紀の事績をめぐっても、ご承知の通り珍説奇説を含めて、諸説紛々の喧しさだ。
そういう煮えたぎる論争の坩堝の中に、氏は一人熱さを感じぬ者のように冷静に入り、その業火を静めていく。火に油を注いだり、油の火事に水をかけているのが通例だが、氏はまるで沈着な「化学消防士」の如き趣だ。常に俯瞰的な広角思考を失わずにその時代が流れている方向を的確に見据えた上で、「日本書紀」などの粉飾や後世の臆断を適切に排し、事績の再評価(位置づけ直し)を用意周到に行なってきた。実は筆者は、そういう氏の一ファンである。
その遠山氏が昨年『日本書記はなにを隠してきたか』という本を出した。この本は通史的なものではなく氏の成果の点描集となっているのだが、これを読み、思いついた。氏が説くプロットをつなげ、遠山史観による古代史を筆者なりにまとめてみようかと。以下はその試みであるが、筆者の読み違いや思い込み、また著者が未言及の「空白部分」では筆者の独断などが多数混入していることをあらかじめお断りしておきたい(最後に付した著作群に直接当たられることを乞う)。
(一)
▼「卑弥呼」の時代と「彼女たち」の役割
遠山氏が集中的に取り上げる七世紀を中心に述べたいが、その前にこれ以前についても重要なポイントを記しておこう。この時代に言及するのは『卑弥呼の正体』と『天皇誕生』の二著である。実は、これらは「古代史ファン」に甚だ不評である。というのは、ファンが求める「ロマン」の火をすべて鎮火してしまうからだ。例えば、「卑弥呼」という名の女王なぞ存在しなかった、と言う。また、その「女王」は国王ではなかった、とも述べる。
あったのは「卑弥呼」という「地位」(仮に「卑弥呼職」とする)であり、おそらくそれは「ヒメミコ」と呼ばれるものだった。「ヒメミコ」は、「倭国大乱」があった当時に一時的に設けられたある宗教的立場であり、別にいた政治的首長である国王に従属するものであったと。また、「魏志倭人伝」が伝える「女王国」のイメージは、政治は男がなすものと考える中華帝国たる中国王朝が、東夷にすぎない倭国を「鬼道を能くする女が治める国」と蔑んで誇張した表現だと断ずる。
では「ヒメミコ」とはいかなる役割を果たしたものだったのか、が気になる。それは内乱を収拾し再統一した倭国がその統合モニュメントとして「前方後円墳」を生み出すまでの過渡的な時期を、宗教的に支えた何事かであっただろうと氏は説く。それが、「ヒメミコ」が「鬼道」によって執り行なった儀式であった。その儀式とは、前方後円墳の時代にはその古墳上で行なわれた国王継承儀式の前身であったのであり、そこでは銅鐸や銅矛に替わり鏡が大きな役割を果たすようになったのであろう。
▼「卑弥呼」が「日継ぎ=倭王」という王権神話を創った
ここで筆者の推断を加えると、「ヒコ」(彦・日子)と同様、「ヒメミコ」の「ヒメ」(姫・日女)も聖なる「ヒ」(霊・日・火・一)の語を含むような何者かである。「ヒ」(ビ)とは「タカミムスヒ」(高皇産霊神)や「カミムスヒ」(神皇産霊神)などの最高霊格を示す(「タマシヒ:魂」や「ヒト:霊留・人」もこの流れにある)とともに、太陽(日)や燃える火そのものにも通底する霊的エネルギーを表している。
「ヒメミコ」を仮に「日女御子」と解すると、それは「日の子」であり「太陽の子」である。「日」とは日神であり、王権の出づる淵源である(アマテラスが太陽=日神であり、倭王が「日継ぎ」と呼ばれるのはこのためである)。筆者は、実はこのような「日継ぎ=倭王」という王権神話を創出し演出したのが「ヒメミコ」というものではなかったかと思う。つまり、「卑弥呼職」とは日神の代理人として倭王への戴冠を挙行する祭祀者だったと考えるのである。
倭王就任を保証してくれた中華皇帝という絶対者を大陸の内乱で失い、倭国内でも内乱が発生し、国王の権威をいかに保証できるかが枢要な政治課題であった。そこで、日神を絶対化し、これによって国王の地位を保証しようとした、というわけだ。ともあれ、政治統合は成立し、東西文化の結合物として前方後円墳が築かれ始める。そして、一度「日継ぎ」という概念が成立すると、日神を象徴する鏡とそれへの祭祀だけを残して、「卑弥呼職」自体は不要になっていった。
(二)
▼『天皇誕生』の衝撃と「日本書紀」の目的
「卑弥呼」が個人名であるという臆断に基づいてのことだが、紀記の中に彼女の痕跡を探す努力がなされ、天照大神や神功皇后に投影されているのではないかとしばしば言われてきた。そこで次に、「日本書紀」の意図とそこに描かれた天皇(注)たちの正体を暴く、氏の『天皇誕生』の論点を取り上げたい。この書では「日本書紀」が描く神武から武烈までの天皇紀の意味が明かされ、それらが個々の素材そのものは別としても、全体としてはフィクションであると断じられている。
(注)「天皇」の称号は、それまでの「治天下大王」に替わり、七世紀後半に始まるものである。本稿では、「天皇」紀を記すという「日本書紀」の意図をフィクションとして明確にするため、すべて「天皇」号で通す。
これはなかなか実は大変なことである。武烈以前の天皇紀には編年的な意味での歴史学的価値が全くないということになるからだ。徹底的に脱神話的な批判を行なったとされる津田史学はおろか、それを受け継ぐ戦後古代史学もほとんど無価値な営為を長年続けたことになる。また、いわゆる「古代史ファン」にとっても、ああではないか、こうではないかと推測してはそれなりの整合性の当否を求めてきた言わば「根本経典」をあっさり失うことになってしまう。黙殺や反発は当然のことである。
氏によれば、「日本書紀」とは、中華皇帝とその帝国の歴史に対抗するために創作された日本天皇とその帝国の盛衰物語である。つまり、日本にも中国に匹敵する王権と文明文化が存在したことを捏造すること自体が本来の目的なのである。故に、ここから編年的な事実を取り出すことはほとんど不可能なのである。例えば、「ワカタケル」の銘入りの剣が発見された雄略天皇にしてさえ、そのモデルとなった人物が確かに実在したとは言えても、書紀に描かれた生涯と人物像、さらに系譜を証明するものではないのだ。
▼「万世一系」の「王統譜」とは何か
何より大きなフィクションはその「万世一系」の「王統譜」にある。ただし、早とちりをしてはならない。書紀に「万世一系」なぞ書かれてはいない。書かれているのはむしろ中国風な「王朝交替」なのである。書紀には、計三つの「王朝」(後述するが、正確にはある意図を持った系譜にすぎないのだが)が描き込まれている。神武から応神まで、次に仁徳から武烈まで、最後に継体から持統までである。ただしご承知の通り、易姓革命(天命が改まり王朝の姓が替わること)ではないとされる。
筆者が付言すれば、「日本書紀」は三部構成で、第一部が「神代」、第二部が「神武から武烈紀まで」、第三部が「継体から持統紀まで」から成っている。全体として書紀成立時点での天皇家の権威と権力を語っているのだが、第一部ではその正統性の由来(中国と違い、「天」そのものの血筋が天皇家であること)、第二部では地上での「治天下」(支配)の発展プロセスと変遷、そして第三部では「現在」の律令・仏教に基づく文明国家と成るまでを主たるテーマとしている。
氏はこの「第二部」をさらに前編と後編に分けて述べる。その説明の前に「王統譜」の性格について述べておかなければならない。これは血統ではないのだ。氏は「倭の五王」の検討を通じてそう断じ、血統意識はせいぜい継体天皇以後のものだと推定する。ではそれ以前とは何なのか。「易姓」を多数含んだ王位の継承系図なのだ。しかも、モデルはあったとしても、書記の目的のため改竄され創作された系譜なのである。
おそらく、倭国王位は一定の資格を持つ複数の血族集団(姓の異なる家々)から、つどつど選ばれるものだったのである。後世の「万世一系」意識なぞ、書紀自体にはない。だから、先ほどの「三つの王朝」も「三つの王姓」という意味ではない。書紀の「王統譜」に、もし血族としての王朝(例えば、「河内王朝」や「葛城王朝」がそうだ)を探し始めたら、実はもうその時点で「万世一系」という神話に自ら呪縛されているのである。
〈「日本書紀」による天皇寿命〉 |
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1 | 神武 | 127歳
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2 | 綏靖 | 84歳(欠史八代)
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3 | 安寧 | 57歳(欠史八代)
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4 | 懿徳 | 77歳(欠史八代)
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5 | 孝昭 | 113歳(欠史八代)
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6 | 孝安 | 137歳(欠史八代)
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7 | 孝霊 | 128歳(欠史八代)
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8 | 孝元 | 116歳(欠史八代)
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9 | 開化 | 111歳(欠史八代)
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10 | 崇神 | 120歳
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11 | 垂仁 | 140歳
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12 | 景行 | 106歳
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13 | 成務 | 107歳
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14 | 仲哀 | 52歳
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15 | 応神 | 110歳
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▼神武天皇と「欠史八代」
さて、「第二部」の物語である。「前編」の神武から応神天皇紀までと、「後編」の仁徳から武烈紀まで、に分かれる。前編は、天照大神の血を引く地上の歴代天皇が支配を広げ、「帝国」の版図を確定するまでの物語である。後編は、いったん完成した帝国が中国的な「王朝」プロセスを経験してきたことを物語ろうとするものだ。いかにも物語じみた作りの後編に比べ、前編には様々な無理が目立つ。
例えば、神武東征とは何か。なぜわざわざ「東征」せなばならなかったのか、ということだ。また、いわゆる「欠史八代」とは何か、等々。「東征」史実説には、邪馬台国東西論争を止揚する意味があり、今では通説に近い。だが、史実として読む必要がなくなれば、物語としてかえって理解しやすい。遠山氏は言う。「第一部」の「神代」物語を承け、「日継ぎ」としての天皇は、日向(ひむか)から日に向かい(これが「東:ひむがし」の意味である)、日を背にして勝利するのだと。
「欠史八代」については、奈良盆地内の県主の神女たちとの結婚がその意味だ。そして、「前編」を通じて言えることだが、この「欠史八代」あたりでも長寿の天皇が目立つ。これは天皇家とその帝国の歴史を古くするためになされたことだろう、と述べる。それは、神武天皇の即位を「革命」年である「辛酉」に結びつけることばかりではなく、ある年代以前に遡っておく必要があったのだ。おそらく、中国側で記された各「倭人伝」を誤りとし、それを書き換えようとする意図があったものと考えられる。
▼「帝国」とその皇帝たる「天皇」の誕生
ともあれ、奈良盆地制圧の後、四方への皇化が始まる。第十代の崇神天皇が放った「四道将軍」とはそのことである。また、「神を崇(あが)める」天皇は、神を祭る祭祀の起源にも深く関わる。天照大神と倭大国魂(やまとおおくにたま)神、さらに大神(おおみわ)社の大物主神の祭祀についての叙述は著名である。天皇の「治天下」は順調に拡がり、第十二代の景行天皇の時には次男・ヤマトタケルを各地へ派遣して、ほぼ(書紀成立当時の)全国を制圧することに成功する。
いよいよ「前編」のクライマックスである。次期天皇である皇子を身籠もったまま、神功皇后は新羅を「征伐」する。「帝国」とは、自民族と固有領土以外も治める多民族・広域領土国家のことである。これで、中国同様、列島内の「異民族」である蝦夷や海外の新羅を「夷蛮」(後進民族・国家)として従える「華」たる「帝国」(これを「華夷秩序」と言う)が完成したというわけだ。
その勇ましい神功皇后の胎中にて征韓に参加した応神天皇とは何者か。生まれながらの将軍ならぬ、生まれながらの「天皇」(帝国の支配者である皇帝)である。応神天皇という人物像に託されたこととはそういうことだったのである。ところで、母・神功皇后には、やはり中国の歴史書に描かれた「卑弥呼」が投影されて、創作されたのであろう。しかし、私たちには順序が逆である。「シャーマン」神功皇后を通して、「卑弥呼」像を抱いていると考えるべきであろう。
念のために言い添えておこう。「前編」は、「日継ぎ」たる「天皇」がいかに神を祭り守られながら、いかに領土を拡げ、異民族を含めて支配する「帝国」となったか、をテーマとしたフィクションである。だから、「生まれながらの天皇」応神天皇の誕生で幕を閉じるのである。強調しなければならないのは、それ以上の意味を読み取ることは出来ないということだ。例えば、祭祀の起源など崇神天皇の事績、ヤマトタケルの征服劇などから、その時期や史実は引き出せないのである。
▼中華帝国は「王朝交替」という神話で出来ている
仁徳天皇から始まる「後編」は、今から述べることを踏まえて読めば、得心が行く。古代中国の「革命」(天命が改まる)思想は、周王朝が編み出したものだ。前の殷帝国に取って代わるための正統づけ理論だった。司馬遷の『史記』に整理されるが、聖帝の堯(ぎょう)と舜(しゅん)の後、天下は有徳の禹(う)が継ぎ、夏(か)王朝を開く。しかし悪徳であった第十七代の桀(けつ)王に至り、天命が改まり、殷王朝を開く湯(とう)王に滅ぼされる。
しかしながら、繁栄を誇ったその殷も暴君であった第三十代の紂(ちゅう)王に至って、ついに周の武王に滅ぼされる。つまり、中国では王朝は王が有徳である間は続くが、王が悪政をはばからなくなると天命が下り、新たな有徳の王が現れ、王朝は取って代わられるものだと考えられてきた(言うまでもなく、これもフィクションであるが)。書紀成立の時点での中華帝国・唐もそういう「王朝交替」の神話によって自らを正統づけていた。
当の「後編」は、実はそういう物語なのである。有徳の仁徳天皇のエピソードはつとに有名だ(名からして「仁徳」だ)。例の、かまどから立ち上る煙を見て、租税を免除し、自らも質素倹約を実践したというお話である。仁徳天皇でもう一つ忘れてはならないのは、葛城氏出身の磐(いわ)之姫の嫉妬であろう。しかしテーマは実は嫉妬ではない。そうではなくて、「多産」なのである。つまり、有徳で多産の王が、一つの「王朝」を開いたことが語られている。
16仁徳┬17履中──○─┬24仁賢─25武烈
│ └23顕宗
├18反正
└19允恭┬20安康
└21雄略─22清寧
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▼武烈天皇はなぜ暴君であらねばならないのか
この「仁徳王朝」(通説では「河内王朝」と呼ぶ)には、そういう意図をきちんと読み取れるように符牒づけさえなされている。仁徳天皇の和名は「オオ-ササギ」(大鷦鷯)である。そして、この王朝の最後を飾る暴君となった武烈天皇の和名は「オ-ハツセ-ノ-ワカ-ササギ」(小泊瀬稚鷦鷯)である。お分かりの通り、「オオ-ササギ」に対して「ワカ-ササギ」という関係だ。ササギとはミソサザイ(鷦鷯)という鳥のことである。ミソサザイはスズメ目に属する小鳥で、良い鳴き声と「一夫多妻」で知られる。
実は、多産(豊穣)のエピソードで満たされた仁徳紀に対して、武烈(この漢名も暗示的だ)紀には「不妊」(不毛)の挿話が塗り込められている。即位前のことである。ある歌垣の夜、多くの人々がいる前で、臣下の平群氏のシビという男に恋情を寄せる娘を奪われてしまう。娘もシビの方になびいていたのだ。嘲笑された皇子は激怒する。大伴金村連に命じて、平群シビとその父を討ち、栄えある平群氏を滅ぼしてしまう。
その直後、ワカササギは即位する。しかし、書紀におけるその後の記述は治世にではなく、武烈天皇の悪逆の記録に費やされている。妊婦の腹を割いて胎児を見たりしたなぞというの悪趣味な行為のオンパレードである。およそ皇紀にはふさわしくないことが書き連ねてある。敢えてそう書いてあるのである。もちろんのこと、皇統(仁徳王朝)の断絶こそ、最大の不毛である。武烈紀とは、徳の衰退を、その結果としての「王朝の交替」の必然を示すためのものである。
▼有徳かつ大悪の雄略天皇を描く意味
計十一名の天皇が登場する「仁徳王朝」には、ある盛衰のリズムが描かれている。その上昇の頂点となり、同時に下降へと向かうことになる節目に立つのが雄略天皇である。和名は「オオ-ハツセ-ノ-ワカ-タケ」(大泊瀬幼武)。武烈天皇と重なる「ハツセ-ノ-ワカ」が下降を示唆する符牒である。現在では、雄略天皇には稲荷山古墳出土の刀剣にあった「ワカタケル」、また「倭の五王」の「武」として一定の像がある。しかし、書紀の雄略天皇像は違う。そうだ、史実と書紀の雄略天皇像は違うのだ。
この違いを単なる粉飾と解してはならない。全く別の「話」なのだ。書紀の雄略天皇を追おう。上昇の頂点は、本物の神とさえも対等に対する天皇像である。葛城山中での一言主神との出会いがそうである。こんなふうに神に対した天皇は空前絶後である。史上最高の天皇と言っても良いくらいのことなのである。同時に、雄略紀は血塗られているもいる。雄略天皇の即位は、兄弟など皇位継承候補者たちを皆殺しにした上に成り立っている。
次に、ささいなことから臣下たちを殺したり、殺そうとしたことが数多くあり、陰では人々から「大悪の天皇」と言われていたことが記されている。そして何よりも彼には「不毛」の影が忍び寄っている。事実、彼の皇統はわずか二代、皇子の清寧天皇で断絶を迎えることになる。遠山氏によれば、雄略天皇の長文の遺詔は、『隋書』高祖文帝(楊堅)の詔勅の引き写しである。隋は、漢帝国崩壊以来、長期に渡った分裂時代を克服した偉大なる帝国であり、文帝こそその王朝創始者である。
しかしその隋帝国は、父と兄弟たちを殺して帝位に登った煬帝までのわずか二代で滅亡してしまう。煬帝の暴君ぶりは史上に名高い。この性格が雄略および武烈天皇に振り分けられている。さらに、本来、煬帝の役割にあった武烈天皇との間に、もう三代を差し挟み、引き延ばされていると氏は言う。雄略天皇の遺詔は、殊勝な内容で、死の間際には「有徳の天皇」に戻されていると言えよう。このように、有徳かつ大悪の天皇像を描く雄略紀は「仁徳王朝」の分水嶺を物語っている。
(三)
▼未来に向けて、再解釈した真実を描く書紀
さて、継体紀以後(筆者の言う「第三部」)の書紀は、「第二部」とは目的が異なっている。書紀はすでに、中華帝国に負けない「日本」帝国の古さとその皇帝たる「天皇」の由来、また帝国の発展と中華帝国と同様の「王朝」の存在などを語り尽くしてきた。以後は、「現在および未来」のためにこそ語られなければならない。その第一の読者とは、未来の天皇たちである。彼ら彼女らに向けて、「第三部」は語られている。
事実はただ一つだが、真実はいくつもある。それが解釈というものだ。「日本書紀」は「帝紀」や「旧辞」と呼ばれた『天皇紀』や『国記』などをもとに編纂され、ようやく720(養老四)年に完成した書物だ。記述は持統紀(〜697年)までだが、まだまだ記憶には生々しいこともあっただろう。だが、書紀はそんなことに見向きもしないで、事実に周到な再解釈を施していく。後世の天皇たちに「書紀史観」で解釈された真実を与えるために。
15応神┬16仁徳┬17履中──○─┬24仁賢─25武烈
│ │ └23顕宗
│ ├18反正
│ └19允恭┬20安康
│ └21雄略─22清寧
└─○───○───○───○──26継体
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▼継体天皇は応神天皇の五世孫という論理と虚構
まず、継体天皇の即位について述べなければならない。ここに一つの皇統の断絶があることは言うまでもない。しかし継体の出自は、いくつかあった皇位継承資格を有する血筋の一つに属するものだったと考えなければならない。すでに六世紀である。そういう「天皇諸家」はとうに固定されていたはずだし、まもなく唯一の血統に絞り込まれる直前期に当たる。ただし同時に、最終的にはあくまで人物本位で天皇が選ばれていたことも示している。
興味深いのは、応神天皇の五世孫だという所伝である。ここには、「仁徳王朝」との調整、つまり書紀編纂者たちの作為が読み取れると、遠山氏は言う。実は、「仁徳王朝」最後の武烈天皇も、応神天皇の五世孫に当たる。どういうことになるかと言うと、五世の長さを有する「仁徳王朝」を踏まえてでなければ、継体が応神の五世孫なぞということは意味を持たないのだ。だから、「仁徳王朝」物語が完成してから、継体に至る系譜の長さが決められたということになる。
それは二つの事柄の同質性、つまり「仁徳王朝」の物語がそうであるように「継体は応神の五世孫」もフィクションであったことを示す。継体にとっての皇位継承上の問題は、血統的な系譜にではなく、むしろ「世代」条件にあったはずだ。当時の重要な条件として、前王と同世代の候補者がいるならその中から選抜するということがあった。継体は、武烈の姉である手白髪(タシラカノ)皇女と婚姻を結ぶことによって、武烈と同世代であるという皇位継承条件を満たしたのであった。
▼欽明天皇による王権の統一と蘇我稲目の登場
王権分裂期とも言われる皇位継承プロセスについては不明の部分もあるが、ともあれ継体の皇子・欽明天皇が即位する。そして欽明は分裂を克服し、王権の統一を回復する。これには、それまで大きな権力をふるってきた大連・大伴金村が大昔の任那割譲問題の咎(とが)を今になって責められて退場し、替わって蘇我稲目という男が突如、大臣として登場したこととも関係があるものと思われる。蘇我稲目とは何者か。それは蘇我氏とは何かを解くに等しい。
稲目は没落した葛城氏の女と結婚しており、もうけた二人の娘を欽明に差し出したのだ。再統一者・欽明はかつての高貴なる葛城氏の血を欲していた。「仁徳王朝」の天皇たちのモデルとなった大王たちは確かにいたし、葛城氏がその大王たちに后妃を独占的に提供していたことも事実だったのだ。葛城氏がそうなった事情はよく分からないが、蘇我氏が葛城氏と同じ立場、すなわち天皇家の身内となることで稲目は大臣となれたのだ。
故に、以後の蘇我氏とは天皇家に最も血縁的に身近な親族でもある臣下として理解していくことがポイントとなる。後述するが、蘇我氏の「専横」とは書紀の解釈である。それは、そういう解釈をすべきだとする時代的政治的な流れの中で生み出されたものである。それから、かつての葛城氏、いまの蘇我氏と同じ立場に連なるのが藤原氏であることはお分かりであろう。事実、藤原不比等は没落した蘇我氏の女を妻とすることから政治的なスタートを切る。
▼神仏紛争とは蘇我氏対物部氏の争いか
三十余年の欽明の治世に寄り添ったのは、大臣蘇我稲目である。わが娘堅塩媛(きたしひめ)は後ちの用明・推古天皇を、小姉君(おあねのきみ)は崇峻天皇・穴穂部(あなほべ)皇子らを産んだ。そして息子には馬子を持った。馬子はこれら諸天皇たちの叔父だったわけだ。ここでは稲目が始めた「新葛城氏」の威勢を確認頂きたい。欽明の子で天皇になった四子のうち、三人までが稲目を岳父(舅・しゅうと)としていたのだ。
さて、欽明朝の538年に百済から仏教が公伝されたとされている。ここから、いわゆる蘇我氏対物部氏の神仏紛争が始まることになる。これは書紀の解釈の本質に関わるのだが、書紀は外戚氏族の役割と皇位継承のルールの存在を認めようとしない。実は、この神仏紛争もこの書紀史観で粉飾されている。この問題が顕在化したのは、欽明朝を継いだ敏逹朝になってからである。すでに世は馬子を大臣とする時代となっていた。
次の用明朝にはついに武力紛争となり、物部氏は滅ぶ。物部本宗家が滅んだことは事実であろう。しかしそれがいかなる因果関係でそうなったかについては、書紀が説くものとは別の真実がある。まず蘇我氏だが、彼らは天皇家に最も忠実な臣下であった。だから蘇我氏の行動を馬子の専断で、また蘇我氏の利益のためだけになされたものと考えてはならない。つまり、物部氏は天皇家のために、また支配層の了解のもと滅ぼされねばならなかったのだ。
臣下の争いとは、実は王族間の代理戦争であった。書紀はこれをひた隠し、蘇我氏を始め諸豪族の専横や闘争として描いている。当時の皇位継承のルールは、世代・年長順と決まっていた。しかしこれを破り、一昔前がそうであったように天皇は人物の力量により選ばれるべきであり、我こそは皇位継承者であると体制を乱す皇子が現れる。このときは穴穂部皇子がそうであった。神仏紛争とは、皇位継承をめぐる穴穂部皇子問題であったと言える。
▼神仏紛争の真相:穴穂部皇子の闘争
穴穂部皇子と物部氏(守屋)、それに中臣氏が排仏派であったとされている。このうち神祇家である中臣氏がそうであった理由はよく分かる。しかし、物部氏が実は渋川廃寺を営んでいたように、皇子や守屋が排仏に固執していたとは考えられない。「神仏紛争」としたのは穴穂部を物部守屋の運命と一緒くたにして、王家内のいざこざを粉飾してしまうことが目的だったのである。もう一つ考えられることは、聖徳太子による仏教興隆への序章としての意味である。
穴穂部は敏逹の殯(もがり)宮で皇位継承を主張するが、年長の用明天皇が即位する。皇子は実力行使に出て、敏逹の大后・額田部皇女(後ちの推古天皇)を奪おうとする。王族内での立場を優位にしようとしたのだ。しかし敏逹の寵臣・三輪逆に阻まれる。皇子は物部守屋に命じて三輪逆を討つため、磐余池辺に進んだ。実はそこには用明天皇の宮があった。皇子らは三輪逆を殺したばかりではなく、天皇をも傷つけたのだった。
翌587年、用明はその傷がもとであえなく崩御した。額田部皇女は大后として断を下し、守屋に大義を与える穴穂部の抹殺を馬子に命じる。これにて王族間紛争は終結した。残された守屋は大逆罪を一人負わされることになった。守屋征伐には、泊瀬部皇子(崇峻天皇)らとともに、この戦の中で四天王寺発願をしたという若き厩戸皇子(後ちの聖徳太子)も参加したという。「丁未(ていび)の役」がそれである。
▼崇峻天皇の弑逆と推古天皇の「中継」
皇位継承のルールに従い、次に擁立されたのは崇峻天皇であった。ご存知の通り、天皇は馬子に弑逆されている。「横暴を振るう」蘇我氏が後ちに滅ぼされねばならなかった理由の一つとされる事件である。しかしながら、書紀に馬子への非難は何ら見当たらない。それもそのはずである。当の天皇家および支配層の要請を受けての抹殺であったのだから。世代・年長順のルールには適っていたが、受け容れようもないほどの無能だったのだ。
一度即位した天皇は終身であることが、当時のもう一つのルールであった。交替は天皇の死によるほかなかった。これが次なる課題である。世代・年長順のルールを守っても有能者でなければ意味がない。もう一つある。穴穂部皇子の暴発のような同世代の候補者同士の闘争を防止しなければならない。これらのジレンマが初の女帝・推古天皇の即位を生む。次期継承候補は三名いた。欽明の孫世代に当たる、押坂彦人大兄皇子、竹田皇子、厩戸皇子である。
時間をかけて、継承者を絞り込むのだ。敏逹天皇の大后として大政に参加した経験を持つ推古天皇は、大権の継承保留者であり、次王の産婆役となった。ここで言っておくが、「大兄」(注)とは皇太子ではないし、次期天皇である「皇太子」の地位はまだ存在しない(持統天皇が珂瑠[カル]皇子[後ちの文武天皇]を初めて皇太子に指名した)。しかし結局、この女帝による「中継」計画は失敗した。終身の推古天皇が長命すぎて、候補者全員が先になくなってしまったのだ。天皇位の生前譲位はまだ先だ。
(注)「大兄」とは、同生母の皇子内での最年長者を指す。皇位継承の有力候補者ではあるが、皇位継承を約束された「皇太子」ではない。
▼「聖徳太子」とは何者か
推古朝と言えば、聖徳太子「摂政」の時代である。厩戸皇子は「聖徳太子」であるのか否か。実在しない人格、全くのフィクションだという説すらある。確かに「聖徳太子」という輝くばかりの尊号から始まり、「大化改新」や律令仏教国家構想の先取、また後ちの新国名「日本」を予感させるような大唐帝国との対等外交など、出来過ぎである。それに、個人的な「超人」伝説にも事欠かない。書紀に描かれた「聖徳太子」とはいったい何者なのか。
史実ではないと知りつつも、理想の「皇太子」像を描くこと。これこそが書紀編纂者の意図であった。実際、「日本書紀」を読み、見事お手本通りとは行かなかったが、「聖徳太子」のような聖王を目指した皇太子がいた。首(おびと)皇子、すなわち律令仏教国家の頂点に君臨した聖武天皇その人である。「日本書紀」とはこの首皇子に読ませるために作られたと言ってもよいのではないか。とりわけ、「聖徳太子」の章はそうである。
往時の皇位継承ルールを明確化することがなぜ避けられたのか。それは書紀成立の時にはすでに父子直系相伝へとルールが変わっていたからだ。しかも、このルールだけで正統化することも困難であった。なぜなら、天智天皇から子の弘文天皇へと継承された皇位が、再び天智天皇の兄弟である天武天皇へと移っていたからだ。ここを曖昧にしつつも、天智・天武朝への流れを必然的に描くこと。これが書紀の大きな課題であった。
(四)
〈欽明天皇の子孫の世代〉
[1] [2] [3] [4] [5]
29欽明┬30敏達┬押坂彦人大兄┬─34舒明──┬古人大兄
│ └竹田 │ ‖ └38中大兄
│ │┌(35皇極37斉明)
│ │└(36孝徳)
│ └─茅渟───┬35皇極37斉明
├31用明─厩戸──────山背大兄 └36孝徳
├32崇峻
└33推古
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▼「大化改新」前夜
馬子が没して、蝦夷が蘇我本宗家を継いだ。それから二年後、叔父の後を追うように推古天皇も崩御する。皇位継承候補には、敏逹天皇の孫(押坂彦人大兄皇子の子)である田村皇子と、用明天皇の孫(厩戸皇子の子)である山背大兄王の二人がいた。実は二人とも蝦夷の縁戚であった。田村皇子は蝦夷の妹(あるいは姉)の夫で義兄弟に当たり、一方の山背大兄王は別の妹(あるいは姉)の子であり蝦夷の甥であった。
推古朝を継いだのは年長の田村皇子で、舒明天皇である。この時、穴穂部皇子のように皇位継承ルールに楯突いたのは山背大兄王であった。「聖徳太子」ほどではないにしろ、次王とも目された偉大なる厩戸皇子を父に持つ皇子には納得がいかなかったのだろう。蝦夷は推古天皇の遺詔と当時の継承ルールを忠実に守り、田村皇子を即位させたのだった。後ちの山背大兄王と蝦夷のキャラクターは明らかに書紀の作為である。
舒明天皇と大后・宝皇女(後ちの皇極天皇)の13年間の治世(629〜641年)について、少しだけ触れておく。630年、初の遣唐使を送り出した。631年、百済から王子の豊璋が同盟の人質として来日する。彼の帰国は、663年の白村江の戦いの直前となる。639年、東西の人民を使役して、百済宮および百済大寺が造られ始める。百済大寺の塔は、現在90メートルの高さがあったと推定されている。大化改新の担い手となる、僧旻(632年)と高向玄理(640年)が唐から相次いで帰国した。
しかし、皇位継承問題は一向に打開されず、ポスト舒明天皇の候補には、最右翼・山背大兄王のほか、舒明天皇の子・古人大兄皇子とまだ若い中大兄皇子(宝皇女が生母)、大后・宝皇女の弟・軽皇子らがいた。結局、ここでも一時保留が選ばれ、舒明天皇の後にはその大后・宝皇女が皇極天皇として即位(注)することになった。642年のことである。ご承知の通り、その三年後には「大化改新」と通称される政治改革の始まりを告げるという「乙巳(いっし)の変」が起きる。
(注)皇極天皇は、舒明天皇との婚姻により同世代と見なされた。なお、弟の軽皇子(後ちの孝徳天皇)も年齢とも相まって、同世代と見なされた。
▼山背大兄王殺害の目的
間もなく自死に追い込まれる山背大兄王であるが、それ02.3.16にしても評判が悪い。資格的には舒明朝をすんなり継いでいても何ら不思議ではないのであるが、天皇家および支配層に忌避されて皇極天皇の即位に至っている。第一に、それだけ看過できないほど人物的に問題があったとしか言いようがない。643年、蝦夷の子・入鹿は諸豪族を率いて従兄弟に当たる山背大兄王を斑鳩宮に囲む。ただし、これを蝦夷・入鹿の単なる暴挙と解しては間違いである。
天皇家および支配層は明らかにこれを支持していた。包囲軍中には、何と軽皇子(後ちの孝徳天皇)がいた。他に巨勢徳太、大伴長徳、中臣塩屋牧夫らがいた。さらに、入鹿らが次期天皇に推す古人皇子の同意、中臣塩屋牧夫とのつながりから中臣鎌足と阿倍内麻呂らの支持もあったと見なければならない。つまり、軽皇子派と古人皇子派が共同で共通の敵を抹殺したのだ。これが山背大兄王が排除されなければならなかった第二の理由である。
つまり、山背大兄王殺害の目的は、皇位継承者を古人皇子か軽皇子かに絞り込むことにあった。少なくとも、入鹿が「天位を傾けむ」とするものではなかったし、殺害の罪を彼一人が背負わねばならないものでもなかった。ともあれ、生前譲位は目前に迫っていた。そのための二度目の女帝だったのであるから。いずれかの決着をつけなければならなかった。しかし、まだ皇極天皇は迷っていた。決定的な何かが必要であった。
▼「乙巳の変」の構図と顛末
蝦夷暗殺と入鹿誅殺劇である「乙巳の変」は、結局、何を実現したか。それは遠山氏がほぼ十年前に看破したことだが、天皇位の初の生前譲位であり、軽皇子すなわち孝徳天皇の即位であった。この指摘の衝撃は「書紀史観」を打ち砕くに値する。ここに蘇我氏=悪玉論は退場せざるを得ないのだ。同時に天智天皇と中臣鎌足の役割の卑小さや、「大化改新」との無関係性を暴露している。すなわち、「乙巳の変」は書紀的観点から作られた「物語」にほかならなかったのである。
乙巳の変を含めた「大化改新」は、新政を目指した天智・天武、そして持統天皇が再構成した物語である。まず、乙巳の変の構図を整理しておく。これは出来レースであり、軽皇子派の山背大兄王抹殺に続く予定された第二次行動であった。「出来レース」と言うのは、実の弟であり多数派となった軽皇子を、皇極天皇が次期天皇と内定した上でのクーデタであったからだ。後の段取り(事件から二日後の譲位と即位)の良さから言っても、皇極天皇はすべてをあらかじめ知っていたと言わざるを得ない。
「第二次行動」と言うのは、山背大兄王を倒した後は、同じチームで古人皇子派を殲滅する計画であったということだ。そのチームとは蝦夷・入鹿を除く山背大兄王襲撃メンバーに、蘇我本宗家の奪取を目論む蘇我倉山田石川麻呂と次代の継承候補者・中大兄皇子をも誘い込んだものだった。古人皇子派へのほぼ完全なる包囲網の完成と言ってよい。こうして「第二次クーデタ」は始まる。
書紀は、飛鳥板蓋宮の、当時は存在しなかった「大極殿」で事件は起こったと述べる。天皇家の身内であり、最高の臣下であった入鹿は殺害される。入鹿の身内である(従兄弟に当たる)古人皇子擁立に固執したが故に。手を下したのは古人皇子が名指しした「韓人」こと蘇我倉山田石川麻呂らであった。その場には古人皇子もいた。皇子も殺害されなければならなかったはずだ。しかしどういうわけか皇子は虎口を脱出し、自分の大市宮へ逃げ帰っていた。
実は、事態のイニシアティブは古人皇子にあった。クーデタ軍は、その大市宮と蝦夷が立て籠もる甘檮岡を分断しようと、その中間要地にあった飛鳥寺を占拠しそこに陣を張っていた。ところが、古人皇子はすでに降参を決め込み、翌早朝には敵陣・飛鳥寺に出向いて出家したのだ。これを知り、蝦夷はもはやこれまでと自害する。天皇家の身内とは、その身内がいればこそのことなのである。ここに存在意義を失った「二代目葛城氏」としての「蘇我外戚家」は滅ぶ。
▼「乙巳の変」の再解釈とその意味するもの
では、書紀は何をどう書き換えたのだろうか。第一に、主役を軽皇子(即位して孝徳天皇)から中大兄皇子に置き換えている。第二に、天皇家の忠臣であった蘇我氏を、革新を阻む守旧派であり皇位纂奪を企む悪役として仕立て上げている(蘇我氏の皇室にも似た振る舞いは、身内としてむしろ許されたものだ)。第三に、「乙巳の変」が「大化改新」すなわち律令国家「日本」の始まりであり、中大兄皇子はこの全体構想のもと行動したと印象づけている。
つまりは、後ちの天智天皇の先見の明を誉め讃え、その即位の必然を物語りたいのである。その「物語」はいまも天智天皇と鎌足との蹴鞠に託した密会がエピソードとしてよく知られているのだから、およそ1300年にわたり粉飾は成功してきたと言えるだろう。
おそらく持統天皇が「天智天皇物語」のプロデューサーだったと筆者は考える。女帝の中にはある「矛盾」があり、それらを生涯の中で二つ担いながら、結局は天皇制を転換させた。それが「皇太子」制の創設となったのだ。先の「矛盾」とは、父・天智天皇と夫・天武天皇が行なった世代・能力による皇位継承の正統性であり、子・草壁皇子と孫・文武天皇によって担われるべき父子直系の血統による皇位継承の正統性である。
ただし、女帝の歴史眼はこれに留まるものではなかった。彼女は、偉大なる父・天智天皇が企図した天皇制改革を全うしようとした。そのことは、「乙巳の変」では蘇我外戚家を単なる皇位纂奪者としたことに表れている。父は外戚などを排して、皇室の血統を統合・蒸留し、自分から始まる新しい皇統(まさにこれこそが、言わば「持ち回り」の「治天下大王」ではない「天皇」家だ)を生み出そうとしていた。これが弟・大海人皇子へ多くの娘を与えたことを始めとする婚姻政策であった。
天智「天皇」の血統(これは天武天皇を含めたもので、持統天皇が自らすべてを引き継いでいる)を特別視することは、天智天皇の父・舒明天皇の父と母を、それぞれ「皇祖大兄」(押坂彦人大兄皇子)と「嶋皇祖母命」(糠手姫皇女)と称し、また、天智天皇の母・皇極(斉明)天皇を「皇祖母尊」と、さらに皇極天皇の母を「吉備嶋皇祖母命」(吉備姫王)とわざわざ呼ばせたことにも明白である。
〈新しい「皇統」の創造〉
糠手姫皇女(嶋皇祖母命)
‖──────────舒明天皇
押坂彦人大兄皇子(皇祖大兄)‖─┬天智天皇─持統天皇
‖ ‖ │ ‖─草壁皇子─文武天皇
‖─茅渟王 ‖ └────天武天皇
○ ‖───────皇極・斉明天皇(皇祖母尊)
吉備姫王(吉備嶋皇祖母命)
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▼「大化改新」と「書紀史観」
ちょっと先走りし過ぎたようである。話を、皇極天皇からめでたく生前譲位された孝徳天皇の時代に戻す。すなわち646年、大化元年六月である。クーデタ実行グループは新政権を形成する。左大臣に阿倍内麻呂、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂(注)が就く。僧旻と高向玄理は国博士という政治顧問に任命され、中臣鎌足は別に内臣となった。もちろん、前帝宝皇女と中大兄皇子も政権に深く関与した。九月、古人皇子は新朝への謀反の罪で隠棲先の吉野山中で惨殺される。十二月、新帝は摂津国難波長柄豊崎宮に都するが、旧都飛鳥は副都としておそらく前帝宝皇女が統治していただろう。
(注)石川麻呂が「約束」通り蘇我本宗家を継ぎ、ここに「韓人」とあだ名された蘇我倉家の系譜が、滅んだ蘇我氏の前史として接ぎ木される。系譜の始まり建内宿禰の子・蘇我石川宿禰の「石川」とは、石川麻呂自身の名から採ったものに違いない。これに続く、満智−韓子−高麗の三代の名は、三韓よりの貢納物の倉管理を職掌して「韓人」とあだ名された蘇我倉家の系譜にふさわしい。なお、石川麻呂は649年「仲間」に謀反の嫌疑をかけられ、あわれ山田寺に自死されられた。
〈蘇我氏系図〉
建内宿禰─蘇我石川宿禰─満智─韓子─高麗─稲目─馬子┬蝦夷─入鹿
└雄正─石川麻呂
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翌646年、「改新の詔」が発布される。「公地公民」や「班田収受」を含む四ヶ条から成るものとして書紀の記述が長らく鵜呑みにされてきたが、遠山氏は実際発布されたのはそのうち第一条と第四条のみだと言う。すなわち、皇族を支える部民・屯倉システムの改廃と、これに見合う新しい税システムの制定だ。そして、何よりも書紀成立時点から逆構成された「大化改新」像に幻惑され、その仕掛けに絡め取られてしまわないよう厳重に警告を発する。
つまり、「大化改新」の肯定論も否定論も、ともに書紀のこの「改新の詔」を根拠にしてその実施度や実施時期についてだけ論じ合っているにすぎない。そもそも後ちの「律令国家」像をめざして、そういうヴィジョンがあって天皇たちが順々に「改新」施策を実施していったのだろうかという疑問である。歴史を遡行するときには「一本道」に見えるプロセスも、歴史が現実に進行するときには試行錯誤と言うより、後戻りもある「道なき道」を行くようなものであろう。
しかしながら、内外の環境変化は確実に進行していく。むしろ、それが政治経済制度の改変を強いる。同じ646年、「古墳時代」を終焉させた薄葬令が出されている。クーデタは確かに強権発動を可能にしたのだ。だが、「書紀史観」が描く「内外の危機」を感じて、乙巳のクーデタが行なわれたとはとても信じられない。それでも、唐の数次にわたる高句麗遠征が海の向こうでは始まっていた。また、まもなく新羅は唐と連合を組み、倭国の同盟国・百済を滅ぼすことになるのである。
(五)
▼「世界王」としての女帝・斉明天皇の実力
ドラマの主役が中大兄皇子となっている書紀は、皇子らに捨てられた孝徳天皇の寂しい晩年を描くが、本当はどうか分からない。ともあれ654年、孝徳天皇は難波宮に崩御する。皇位継承候補には孝徳の子・有間皇子と中大兄皇子がいたが、意見はまとまらなかったようだ。翌年、再び「中継役」で宝皇女が斉明天皇として即死する。齢六二であった。ここでも確認できるが、中大兄皇子は「乙巳の変」や「大化改新」の主役でないどころか、この時点でさえも次期天皇として認定されていないのだ。
大政に関わることすでに二五年のキャリアを持つ女帝は、決して単なる「中継役」でもなかったし、息子・中大兄皇子の操り人形でもなかった。新たに本拠として岡本宮を築き、その東の丘に両槻(ふたつき)宮という高殿を、また吉野にも宮を造った。特に両槻宮の造営に当たっては、香具山からわざわざ運河を開き、船で石材を運ばせたという。直接動員された人民はおろか、支配層からも批判と非難の声が上がったことが書紀に記されている。この怨嗟(えんさ)の声の記載も、中大兄皇子のためのものであろうか。
両槻宮の遺構はつい二年前(2000年)に再発見されて、亀形石像物などが見つかり大いに話題になった。長年の謎であった丘上の酒船石も、その関連の中でようやく意味づけが見出されようとしている。両槻宮のあった丘は全体が石垣で埋め尽くされた「聖山」であった。仏教の須弥山、あるいは道教の蓬莱山(注)と見立てられたらしい。そこでは、阿倍比羅夫らが征伐した蝦夷族長が連れて来られ、天皇への服属儀式が行なわれたようだ。
(注)「蓬莱山」と聞けば、かぐや姫を想い出される方も多いのではないか。「道教」はニッポン人に実に近しい。それは近すぎて見えないくらいである。ただし、中国の道教ではない。ニッポン仏教と同様なニッポン道教なのである。卑弥呼ゆかりの「三角縁神獣鏡」での道教の神仙(仙人)と霊獣、聖徳太子の道教的な諸伝説、斉明天皇の両槻宮世界、そして天智・天武・持統天皇たちによる道教に由来する神仙としての「天皇」への並々ならぬ志向。後ちの陰陽道、今に存続する大安や仏滅などの六輝信仰を考えると、言挙げできないほどニッポン人のふところの内にあることが分かるだろう。
なお、両槻宮の「亀」は円形で、スッポンではないかと見られる。なぜなら、神仙が棲む蓬莱山はそのスッポンの背の上にあるからである。
女帝は、かつての百済宮・百済大寺、「乙巳の変」があった飛鳥板蓋宮の造営以来、一貫して「人民徴発」という手法によって、天皇権力の成長を試みてきたのだった。今回は「改新の詔」で発布されたはずの「第四条」を実行して、人民を天皇(正確には「大王」)の名において動員したのである。三輪山を始め聖山を前にしての誓約は「世界樹」の思想である。斉明天皇は、服属させた蝦夷たちを遣唐使に同行させ、唐帝に披露さえしている。四囲の蛮族を従え、世界の中心に位置する普遍王(皇帝)たる「天皇」まであと一歩である。
▼果たせなかった生前譲位
中大兄皇子のライバル・有間皇子は、658年、謀反の疑いで自死させられた。通説とは異なり、彼もまた父・孝徳天皇に倣い、クーデタによって中大兄皇子を打倒して皇位を継承しようと実際に企んでいたのである。そのオプションには女帝殺害まであったものと思われる。有間の死は、中大兄の次期継承を確実なものにしたはずだった。しかし、半島から思わぬ重大異変の知らせがもたらされる。新羅と連合した唐軍が百済を滅ぼしたのだ(660年)。残軍のリーダー・鬼室福信から救援要請が届く。
譲位どころではなかったはずだ。だが、老いた女帝はこの窮地を転じて、一気に生前譲位を企図する。この百済復興戦争を成功させて「帝国」を拡大し、その軍功をもって我が子に譲位しようというのだ。長らく人質として倭国にあった豊璋を百済遺臣たちの求めに応じて帰国させる前に、冠位十九階最高位の「織冠」を授けて天皇の臣下としたのである(女帝の急逝で中大兄が代行)。しかし、軍船を率いて筑紫にあった女帝は急病を得て、あっけなく世を去ってしまった。最期まで実権を持った女帝であった。
▼白村江の戦いはなぜ敗れたのか
ここに中大兄皇子の六年間に及ぶ、いわゆる「称制」(「新帝」が即位せずに政務を執ること)時代が始まる。なるほど、ほぼ確定的な次期天皇候補者であった。呼び名は「称制」でも何でもよい。しかし、要はあくまで「代行者」だ。即位していない「新帝」なぞ、言語矛盾である(注)。事実、即位できなかったのだ。必要条件は満たしていても、それは十分条件ではなかった。地位の上では言わば「僭王」に留まらざるを得なかった。おっと、この話の前に、百済救援のため白村江へ駆けつけなければならない。
(注)早い話が「皇太子」ではなかった(そして皇太子制がなかった)から、こういう矛盾的な表現をしなくてはいけなかったのだ。
皇子は救援第一陣をそのまま百済に向けて進発させた。その後、豊璋に「織冠」を授けている。自らは母帝の亡骸を守って飛鳥に帰り、殯(もがり)した。翌年も百済援助を続け、またその豊璋を故国に送り返した。663年には、新羅を討つ軍も派遣した。しかし百済王となった豊璋は、いなくてはならぬ勇将・鬼室福信を自分の思い通りにならぬと短慮にも斬ってしまう。ここに百済残党の掃討をめざす唐・新羅軍は絶好の機会到来と、豊璋が立て籠もる最期の要地・周留(そる)城へと攻め寄せる。
急を知った倭国は大船団に軍兵を乗せ、ソル城の救援に向かわせる。半島にいた先発隊もソル城に急ぐ。そうはさせじと、唐水軍はソル城へつながる水路(錦江)の入口に当たる河口部(白村江)を封鎖した。ここに白村江の戦いが始まる。ところがである。豊璋は倭の援軍を饗応すると、何と愚かにも決戦前夜にソル城を抜け出してしまったのである。百済王という「玉」を持たないソル城救援なぞ、戦略的に無意味な軍事行動である。
しかし戦いは始まってしまっていた。何のために戦っているのかという戦略目標を忽然と失った倭軍は戦意を空転させ、惨敗を喫した。そして百済復興の夢も永久に消え去ってしまったのだ。遠山氏の面目躍如なのであるが、唐水軍が大軍であったとする通説とは違い、唐軍は170艘でかつ陸軍国の唐は海戦には不得手であった。対する倭軍は唐軍を上回る400艘で、しかも蝦夷を叩いた阿倍比羅夫らは日本海を大船団で行き来していたように倭は水軍国であったと述べる。戦力の大小ではなく、戦略目標の喪失が最大の敗因となった自滅的な敗戦だったのだ。
▼交錯する二つの「戦後」
遠山氏の慧眼は実はこの敗因分析に止まるものではない。むしろ、その「戦後」観の考察にこそ光っている。氏は言う。書紀の記述をもとに、これに一貫した流れを与え、こう再構成するのが通説である。すなわち、「大敗を喫した」倭国は唐の侵攻に怯えて、防人を置き水城を築いた。さらには近江京に遷都して、唐への防衛態勢をとった。また、従属的な姿勢で唐一辺倒となり、律令を始め、何事も中国を模倣することとなった。しかしついには律令国家を完成させ、見事復興を果たした。
だが、これは日米関係を投影した「戦後」占領・復興史観ではないか。つまり、「大敗を喫した」日米戦争の「戦後」気分を投影させて「白村江の敗戦」を見ているのだと。なるほど私たちにとって、思い出せる国難とはこれしかないのである。思わず知らずか、戦後日本史学は二つの「戦後」を主観的に重ね合わせて、結果として書紀にだまされることとなった。では、この先入観を排して、白村江の「戦後」を見るとどうなるのだろうか。
▼大陸の唐と半島の新羅、そして海を隔てた倭国
百済の故地に都督府という軍管区を設けた唐は、海を隔てた倭ではなく、陸続きの高句麗との戦争に忙殺されていた。新羅とて同様だ。669年、唐はついに高句麗を滅ぼすが、今度は新羅が半島内の唐軍に攻めかかる。唐が新羅による半島領有を認め、戦争状態が終結するのは676年のことだった。その間の唐・新羅両国にとって、大水軍国であり、防備体制をさらに強化した倭国はどのような存在に見えただろうか。
唐の反応が書紀に残る。早くも白村江の翌664年には旧百済の都督府から郭務ソウが、665年に劉徳高らが、667年に司馬法聡が、671年に李守真が使節として来朝し、671年には郭務ソウが捕虜を返還しに来た。郭務ソウは672年にも使節として来朝し、これで三度目となった。これらが何を意味するか、お分かりだろうか。唐は一貫して倭国へ接近を試みているのであり、中でも捕虜の返還は交戦状態の終結を意味している。唐は倭の中立、さらには同盟を求めていたと考えてよい。
要するに大唐は倭国侵攻どころではなかったのである。倭国は文明文化人たる百済遺民たちを多数受け容れ、むしろ国力興隆のときにあった(注)。では、いかにも「防衛強化」と見える国内措置とは何なのか。それは外圧の名を借りた強権の発動である。「防衛強化」とは、同時的に天皇による国内の掌握である。つまり、「公地公民」や「班田収受」の前提となる戸籍作成や耕地調査、またこれと並行して国・郡・里制による全国諸地方の直接把握などが進められたのだ。
(注)大津京への遷都の理由の一つに、百済滅亡以来受け容れてきた数多くの遺臣たちの知識と技能を活用するため、彼らに与えられた住居地である近江に近いということがあったと思われる。
▼天智天皇の即位と「大化改新」のヴィジョン
ところで、中大兄皇子の即位はどうなったのであろう。斉明天皇の急逝により、母帝よりの譲位の機会を永遠に失ってしまった皇子は、生きている「大権」の潜在的保有者を見つける。それが先の孝徳天皇の大后であり自分の妹でもある間人皇女であった。何としても「譲位」という十分条件が必要だったのだ。しかし彼女も665年に亡くなる。皇子は二年間にわたり皇女を慰霊し続け、その後、斉明陵に合葬し終えた。その翌月、近江大津京へ奠都(てんと)を敢行する。
支配層内で最終的な合意が成ったのであろう。668年、ついに中大兄皇子は天智天皇として即位する。それにしても何と長い道程だったことか。名実ともに「天皇」となった天智は、皇権強化の仕上げ作業に入る。即位の翌年には、天智が若かりし頃に経験した「乙巳の変」以来、天皇をサポートし続けてきた中臣鎌足が死に臨んだ際、その長年の功績を称えて、二六階に増設された冠位の最高位「大織冠」を授け内大臣とし、藤原の姓を与えた。
そういう中で670年、「庚午年籍」が作成される。日本で最初の全国戸籍である。これこそが「大化改新」というヴィジョンが求めていたものだ。天智は「称制」と「国難」という雌伏の中で、母帝に倣うように状況を逆手に取って、やはり類い希なる国家構想(天皇制国家の革新=「大化改新」)を育てつつ実行していったのだ。「日本」という国号、「天皇」という称号も、すでに検討されていたと思われる。「蒸留」された新しい皇統を作る皇子も育ちつつあった。
ただし、順番を誤解してはいけない。聖徳太子の描いた理想図(ヴィジョン)を受け継ぎ、中大兄皇子が「乙巳の変」を断行し、「大化改新」と総称される新政策を次々と実行していったのではない。それらは後からつなげられ、前倒しに配置され直した「物語」である。二つの理想の「皇太子」像が接続されている。中大兄の長い「称制」時代を「皇太子」時代と詭弁し、「皇太子」が国難に立ち向かい、それを見事に克服する「物語」を描くことが書紀の目的の一つであった。
(六)
▼天智天皇の新「皇統」構想と晩年、大海人皇子の登場
天智天皇の病は篤く、構想の行方に暗雲が立ちこめ始める。天智の構想は、同母弟・大海人皇子を協力者に兄弟で紡ぎ出した新しい血統から今後の天皇を出していき、よりスムーズな皇位継承を推し進めていこうというものだった。しかし、まだ「皇太子」制を定めるには至らなかった。新王朝初の「皇太子」となるべき草壁皇子あるいは大津皇子(ともに大海人を父に、天智の娘を母にする)がまだ幼かったことが一つ。また、支配層内での、「皇位は世代順に継承するもの」という伝統的な観念も根強かった。
天智は仕方なく、草壁皇子らの即位までのつなぎとして、我が子・大友皇子(母は伊賀の豪族の娘)に譲位することを決断する。天智は分かっていた。力をつけてきた弟が「同世代」の皇位継承候補者として名乗りを挙げる可能性があり、そうなればこれを支援する豪族もあろうことを。時代は皇位継承方法について、まさに分水嶺を迎えつつあった。もし大海人皇子でなければ、天智の構想はうまくいったのかも知れない。
大海人皇子は「大化改新」以前の半生が不明で急に書紀に登場することから、天智と大海人が異母兄弟であったとか、二人は全く別系統の王族だったのだという論が見られる。しかしこれは時代の大きな流れを無視した我田引水な論法と言わざるを得ない(注)。「大后」や「大兄」の制は皇位継承を安定させるためにあった。その「大兄」は同母の兄弟内の争いを避けるためのもので、この時代には定着しており、大海人皇子には優先的な継承資格はなく、記し残すには値しなかったのだ。
(注)こう書きながら、実は筆者自身もこの論法でこの時代を述べたことがある。ここは「遠山史観による日本古代史」ということで、食い違いをお許し願おう。
ところが、天武政権を支える実力者として頭角を現した大海人は「大兄」制を乗り越え、ついには即位に至ったのである。天智晩年、このままでは自分の即位はないものと悟った大海人は来たるべき日を期して、出家し吉野に隠遁する。失意にうちにまもなく天皇は崩御するが、その後の皇位のありかが定かではない。大友皇子は弘文天皇と後ちに諡号されたが、本当に即位したのかどうか分からない。大権は未だ、天皇の大后・倭姫王(あの古人皇子の娘)のもとにあったとむしろ言うべきだろう。
▼最大の皇位継承戦争としての「壬申の乱」
これも遠山氏の綿密な考証による結論であるが、大海人皇子は大友皇子の攻撃から不本意に挙兵に追い込まれ、ついに勝利して天武天皇となったのではない。あらかじめその意図をもって周到に準備し、かつ勝利後の政治構想さえもって臨んだ計画的クーデタだったのだ。大后・倭姫王を軸に考えると、本当の構図が見えてくる。女帝の後の、山背皇子殺害クーデタ、「乙巳の変」クーデタ、そして「壬申の乱」クーデタである。継承者は、同世代の大海人皇子か、それとも次世代の大友皇子かという争いなのである。
大規模な武力闘争や戦争は、それぞれを支持する諸豪族の力なくして出来なかった。ただ、今回は少し違っていた。軍兵の直接動員のカギを握る「庚午年籍」(全国戸籍)があった。だからこそ、壬申の乱は古代最大の内乱となったのだ。大友皇子は「庚午年籍」を用い、地方官僚・国司(くにのみこともち)に命じて兵力を動員した。それに対して大海人皇子は、私領のある美濃を拠点に、大友の指令を受けた東国の国司たちに翻意を促した。
細かい経過は略すが、結果はご存知の通りである。旧都・倭古京は抱き込んだ大伴氏らに守らせ、大海人自らは大津京攻めの後方・不破にあった。そこで、軍令権を長子・高市皇子に全面委譲する。戦争を大友皇子と高市皇子とが「治天下大王」を争うものと位置づけ、自らはそれを超越した地位にある何者かとしたのである。そう、それが「天皇」であった。大友皇子は自死し、大海人皇子は皇位を強引にもぎ取った。
▼天武朝における「天皇」意識と天智流「血統」主義の後退
都は再び倭古京に戻り、そこで大海人皇子は天武天皇として即位する。大后はウ野皇女(天智の娘であり、後ちの持統天皇)である。天武は先帝・天智と同様、この動乱の統御と収拾の中で、皇権を強化・増大させていく。天智が白村江敗戦直後、豪族懐柔のために与えた部曲(かきべ:豪族私有民)を廃止し、また皇族を含む諸氏に下した山林等を没収した。他に、畿外豪族にも中央任官への道を開くなど、「公地公民」や全国直接統治の実を着々とあげていく。
679年五月、自身にとって壬申の乱ゆかりの地・吉野に、天武は皇后とともに六人の皇子を招く。そこで、六人の結束と連帯を呼びかけ、相互の皇位継承順位を誓約させた。いわゆる「吉野盟約」である。その継承順位は次表の通りだ。留意すべきは、天武の皇子たちが確かに優遇されてはいるが、後ちの持統が始めたような一血統への絞り込みは未だなされてはいないということだ。天武自身が武力をもって「世代順継承」を遂行したくらいだから当然と言えるかも知れないが、ここで天智が構想した父母ともに天智かつ天武系という皇位継承の「血統」主義は一時後退している。
〈「吉野盟約」での継承順位〉 |
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順位 | 皇子 | 父 | 母 (その父) | 年齢順 |
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1 | 草壁皇子 | 天武天皇 | ウ野皇女(天智天皇) | 3
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2 | 大津皇子 | 天武天皇 | 大田皇女(天智天皇) | 4
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3 | 高市皇子 | 天武天皇 | 尼子娘 (胸形君) | 1
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4 | 河嶋皇子 | 天智天皇 | 色夫古娘(忍海造) | 2
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5 | 忍壁皇子 | 天武天皇 | カジ媛 (宍人臣) | 5
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6 | 芝基皇子 | 天智天皇 | 伊羅都売(越道君) | 6
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681年、律令と「書紀」の編纂開始を命じる。同時期に、二十歳の草壁皇子を次期天皇と定める。686年、天武は草薙剣(くさなぎのつるぎ)の祟りによって、にわかに病に倒れる。「天皇」は最高の清浄を含意する「すめらみこと」と読むが、これを名乗る天武は穢れを去らねばならない。年号に道教的な「朱鳥」を立て、宮を「飛鳥浄御原(きよみはら)宮」と改名する。しかしそのかいも虚しく、同年九月に崩御する。それでも「天武天皇」は「現人神」であり、その死は神仙のような超絶した隠棲に入ったものとされた。
▼持統天皇による「皇太子」の創出と初の平和的な生前譲位
それでも二五歳の草壁皇子は即位しない。なぜか。後ちの「皇太子」ではないからだ。大后は大権を保持しながら、草壁皇子の成長を待つ。その彼女の初仕事は、「吉野盟約」で皇位継承順第二位の大津皇子の誅殺となった。皇后の考えは夫とは少し違ってきていた。何としても我が子・草壁皇子を即位させようというのだ。ところが願いは叶えられず、689年、皇子は二八歳で没する。だが、孫がいた。皇后は夜叉に変身する。浄御原令を完成させ、翌年、自ら中継ぎ役として即位する。持統天皇である。
浄御原令(行政法)の完成は、古代天皇制の明白なメタモルフォーゼ(変態)を意味する。ついに「大化改新ヴィジョン」はほぼ成就し、法令に基づいた国家統治が可能となる。これに伴い、「天皇」も個人能力を離れた一地位として存立可能となった。696年、天武の皇子中、最年長の高市皇子が世を去る。翌年、女帝は草壁の忘れ形見・カル皇子を浄御原令の皇太子制に則った皇太子とする。同年八月、持統は生前譲位し、ここに文武天皇が即位した。史上初の平和的な生前譲位であった。
以降、生前譲位は当たり前のものとなっていく。皇位継承ルールが替わったのだ。持統は、夫・天武によって一時あいまいにされかけた父帝の「血統による皇位継承」構想を復活し、しかもさらに先鋭化させて「父子直系」という一筋に絞り込んだ。これが「皇太子」制を出現させた。そしてやがて書紀には、「摂政」時代の聖徳太子(「太子」とは「皇太子」の意)、「皇太子」としての「称制」時代の中大兄皇子が描き出されることとなった。
皇統は、天武と持統の息子・草壁皇子から、その子・文武天皇、その子・聖武、その子・孝謙(称徳)天皇へと引き継がれていく。これを「天武王朝」と指弾したのは、都を平安京に遷した桓武天皇だ。桓武は自身を「天智血統」と自認した。しかし皇位を独占したのは天武血統ではなく、正しくは草壁直系であった。天武傍流は天智系と同様、排除されていたのだから。桓武もまた、自身にとっての「真実」を述べたにすぎない。それは政治的なプロパガンダとして有効であった。
▼遠山史観についての蛇足
さて、このあたりで本稿を終えたい。遠山氏には『彷徨の王権--聖武天皇』という興味深い聖武天皇論もあるのだが、それはまたの機会としたい。最後に蛇足として、遠山史観についてまとめておこう。氏のフィールドは、中近世の天皇制論に鋭い斬り込みを見せる今谷明氏と同様、政治史である。政治史というのは、戦後歴史学が「戦前」的な政治中心史観を否定するために編み出した社会経済中心の「人民史観」によって、長らく冷遇されてきた分野である。
しかしようやく今谷明氏や遠山美都男氏らのメスによって新たな光と面白さを見出されきた。両人とも、「天皇制」という、ニッポンとその政治の歴史的な解明のカギとなるものに沿って仕事をしているところが意味深長である。結局、戦後歴史学は天皇制を全否定するだけで、何も解明できていなかったということになるからだ。実際、遠山氏なぞは戦後歴史学の「常識」を再検討することで事実を再照射してきたことは、この小論でも述べてきた通りだ。
遠山史観の座標軸は、王位継承ルールの変遷にある。中でも、天武天皇以前の男王は「世代順継承」であったことの定式化の意義は大きい。「万世一系」が含意している「父子直系」イメージは持統天皇が始めたことの逆投影にすぎなかったのだ。「皇太子」イメージもこれとセットだった。「世代順継承」に約束された「皇太子」はいなかった。そういう文脈の中で女帝(大后)の役割と、その役割の成長が解明されている。
氏の出発点となった「大化改新」は、それらが集約された最大の謎であった。これを一枚一枚、あるいは一筋一筋ときほぐすことによって、すべては明らかになっていった。書紀史観、戦後史観、さらには藤原氏陰謀史観からも解放された、蘇我氏、中大兄皇子、孝徳天皇、皇極天皇らの像が少しずつ現れてきたのだった。合理的な説明が可能になった。例えば、聖徳太子が即位できなかったのは同世代で年長ではなかったことと、推古天皇が終身の女王で生前譲位できなかったからだ、というわけだ。今後とも、氏の解明に注目していきたい。
[主なネタ本]