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mansongeの「ニッポン民俗学」神使としての動物--昔話への一視角
神使(しんし・かみのつかい)とは神の使わしめのことである。日吉社のサル、稲荷社のキツネ、八幡社のハト、春日社のシカ、熊野社のカラス、大黒天社のネズミなどがそうだ。境内にはこれらの動物が放し飼いにされていることが多い。中でも、奈良・春日社のシカは有名だろう。しかし現代の私たちはたいてい、例えば春日社の境内付近を気ままにうろつくシカを実際に自分の目で見て、それが本当に神使だとか神の化身だとか信じはしないだろう。
ところがである。現実にその動物たちを目の前にしないときにはいささか事情が違うように思う。いわゆる伝聞でこれらを知るとき、私たち日本人は自然に神使を受容する「神話の扉」が開くようになっているように思われる。昔話を聴くとき、読むとき、また人づてに噂話を聞くときなどがそうである。「神使」と言うから分かりにくい。むしろ、人知を超えた能力(善悪の方向は問わない)を持つ動物(神獣)たちの存在を日本人は当然の如く了解してしまっている、と言った方がよいだろう。
それにしても、神使とは一体何なのだろう。仏教には神像(神の姿形)として仏像がある。しかし「神道」には原則的にそれがないのである。偶像崇拝を知ってしまった日本人は、神の姿形を求める。その代償表現が神使ではないだろうか。あるいは依り代としての神使である。その場合、見えない神は神使の姿形と言動を借りて、私たちに何事かを伝えることになる。そこから、神使は神の化身と言えることにもなったのだろう。
また、神使はその動物としての特性を活かし、神獣として様々な役割を果たしている。春日社のシカは比較的大きく、背にものを載せることも可能だ。そこではるばる常陸の鹿島より武甕槌(たけみかずち)神を運んできたという。稲荷社はあたかもキツネ尽くしで、狛犬(こまいぬ)が座るべき場所にもおキツネ様が坐す。熊野社の三本足のカラス(八咫烏:やたがらす)はその色の黒さを活かしてか、文字通り「黒墨」として護符(お札)のカラス文字に扮している。
少し寄り道をしたい。「牛王宝印」(ごおうほういん)というものがある。寺社が頒布する護符である。特に熊野の三社権現のものが有名で、その裏に誓約(起請)文を書く誓紙として、戦国武将たちが盟約の際に用いたことなどでも知られる。それは丹精を凝らして浄められ、神仏の加護を念じ、その霊威を封じる「八咫烏神事」にて調製されている。牛王宝印にはカラス文字(烏点)と宝珠が組み合わされてあり、実にうまく出来ている。本宮は八十五、那智は七十二、新宮は四十八の烏点が、それぞれの牛王に描かれている。
流行りの「目がよくなる」本のように遠目に見るとようやく分かるのだが、牛王の絵図は、本宮と新宮のは「熊野山宝印」、那智のは「那智瀧宝印」と作ってある(右上から読む)。中でも那智の牛王はおもしろい。真ん中の「印」字は、カラス八羽を載せて「日本第一」と書かれた短冊のようなものと、ぐるりを十二羽に取り囲まれ、中に「吉」と書かれた宝珠の絵から成る。那智山青岸渡寺に伝わる文書によれば、短冊のようなものは剣、宝珠は鏡だそうだ。それらは日と月の象徴である。
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│ 山 熊 │
│ 印 │
│ 宝 野 │
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│ 瀧 那 │
│ 印 │
│ 宝 智 │
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│ 山 熊 │
│ 印 │
│ 宝 野 │
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〈本 宮〉 〈那 智〉 〈新 宮〉
日(剣)の上の八羽のカラスは熊野の神霊(太陽神でもある)が八方に照臨する様、月(鏡)を取り囲む十二羽のカラスは十二の月を表している。さらにカラスの全数である七十二は「七十二候」を示している。「季候」とは「四季七十二候」のことである。つまり那智の牛王宝印とは、太陽である天照大神の神使としての八咫烏によって、太陽の運行(一年・十二月・四季・七十二候)が封印・表現された護符である。そしてその呪力の秘密は、太陽の如き無限の再生(よみがえり)パワーにある。
閑話休題。私たちの「稲作・定住」思考からか、ついそう思いがちだが、各神社に「公認・所属」のものばかりが神使ではない。思えば、昔話や民話のようなものの中にこそ、言わば「非公認・無所属」の神使として動物たちはいっそう息づいている。例えば、「花咲爺さん」のイヌ、「舌切り雀」のスズメ、「桃太郎」のイヌ・サル・キジ、などがそうである。彼らの「ご主人様」すなわち仕える神は不明であるが、彼らの力が尋常なところから来たものとは思えない。
何だ昔話じゃないかと笑った方には、ムジナ(アナグマ)・タヌキ・キツネ・カワウソなどが人に祟ったり化かしたりした話を想い出してもらおう。彼らもれっきとした神使である。たいていは地主神(その土地や水辺の固有の神)の神使である。だから彼らはわざわざ遠くへ出かけたりはしない。ふだんは立入禁止のある特定の領域を、誤ってあるいは故意に侵した人にだけ、禍(わざわい)は降りかかるのである。彼らにはなぜそうする「権利と義務」があるのか。神使だからである。
昔話は、私たちの「神話の扉」が開く「場」(フィールド)である。動物ばかりではない。人も神話的人物として初めて理解できる。神話や昔話が荒唐無稽なのではない。もしそれを言うなら、私たちの方が荒唐無稽なのである。言うまでもなく、それらを創り出したのは他ならぬ私たち自身なのだから。私たちは深層において神話的な思考をしているのである。私たちの表層的な言動や出来事は、実はすべて神話や昔話の投影であるのかも知れない。
さて、周知の「花咲爺さん」をとり上げよう。イヌは「善良爺さん」に尋常ではあり得ない福をもたらす。まず、「ここ掘れワンワン」と宝の在り処を示して、大判小判をプレゼントする。次に、「強欲爺さん」に殺されるとそばに植えられた木へとイヌの霊能は移り、木は臼に姿を変える。善良爺さんがその臼を搗くと、そこからまた大判小判が出てくる。その不思議の臼もとうとう燃やされ灰となってしまうが、今度はその灰が枯れ木に花を咲かせるのだ(これは一度死んだ木が再生する神話である)。
イヌ(名は「ポチ」とも「シロ」とも呼ばれるが不明)はどこから来たのかご存知だろうか。実はあの「桃太郎」と同じく、川上から流れてきた桃(あるいは柿)から産まれたのである(注)。桃は中国原産で、道教系の霊験あらたかな果実である。仙境を表す「桃源郷」という言葉は伊達ではない。孫悟空は桃を食べ不老不死となったし、イザナギが黄泉から脱出するとき「悪神」に桃を投げつけたことも有名であろう。すなわち、イヌは神界からやって来たことは間違いないのである。
(注)この何かに乗って流れ着くというのはいわゆる「貴種流離」型であるが、神話の典型である。古代朝鮮神話の卵から産まれた脱解王も箱に乗り、新羅沿岸に流れ着いている。
「花咲爺さん」は一般的には教訓話として理解されているが、一種の信仰譚としても構造化されている。「善良爺さん」は神使を通してアブラハムのように「神」を信じ、一方の「強欲爺さん」は単なる利己主義者ではなく、神使としてのイヌ、つまりはそれを使わしめたある「神」の存在を認めぬ「無神論者」として断罪されているとも読める。二人の人物は世の中の典型的な人間像の模写ではなく、むしろ世に有り難い両極端の宗教的人格の造型なのである。
そう考えないとなぜ「善良爺さん」はあんなにも福に恵まれ、一方の「強欲爺さん」はなぜ徹底的に救われないかの説明がとうていつかないのである。イヌは神そのものではない。神使としてのイヌは人知を超えた霊能を持つ一方で、はなはだ無力である。強欲爺さんの悪意すら読み取れず、ただ殺されてしまう。こういうパターンは「舌切り雀」でも繰り返されている。「強欲婆さん」は神使であるスズメの舌を難なくちょん切っている。彼(女)らは神を冒涜できたのである。
希代の陰陽師・安倍晴明の呪力も、神使としての信太(しのだ)の白狐に拠っている。この伝説によれば、清明は人に化けた牝(め)ギツネとの合の子である。人知を超える能力は神に由来しなければならないのだ。人はそのままの人としては尋常でしかあり得ない。それを超える能力を持つ存在を理解するためには超越者(神)を必要とした。キツネは稲荷社では善の神使、民話ではたいてい人を化かす「悪」の神使である。絶対値として、キツネは神使であることだけはご理解できよう。
それから、私たちがいま読む「昔話」の原型は、室町時代に「御伽草子」などとして整理された物語である。伝説や昔話は伝言ゲームのように歪んでいる。室町時代とは日本社会史の分水嶺で、「古代」が本当に終わった時代である。そこからは実に「貨幣の時代」なのである。「富=貨幣」と定義された時代であった。「有徳」(うとく)という言葉がある。本来は文字通り「徳(身分であり同時にそれは富裕も意味した)があること」を指したが、室町以降はただ「富裕であること」を意味することになった。
そこで、物語でも「富を得ること」こそが「徳があること」になった。すなわち、身分あるいは道徳的・信仰的な価値で計られるべき「徳」が、結果としての「貨幣」で計られることとになった。これが下賤の主人公が「有徳」になった理由である。「福富草子」なぞがこの典型である。いま高額納税者名簿を「長者番付」と俗称するが、本来は身分を指す言葉だった「長者」がそういう意味を持つようになったのもそういうわけだ。かくして有能な神使ほど、せっせと大判小判を運ばねばならなくなったのだ。
最後に、動物がよく登場することで知られる宮沢賢治の童話について言及しておこう。「注文の多い料理店」とは実は山猫たちが人間を食べる料理店だった。彼らは神使か。そうではない。食物連鎖の捕食者・被食者(食う・食われる者)の関係をひっくり返し、超越的に思えた人間の優位性を相対化してみせるために構成された、言わばもう一つの「人間」である。「よだかの星」も何かそういった物語である。最後には俗世を超えた「星」になるが、彼が神の使わしめだったわけではない。
「どんぐりと山猫」は題名の通り、植物の実が登場する。どんぐりたちは神使なぞではなく、むしろ愚かで利己的な大衆の写し絵であろう。そうすると賢治の動物(および植物)とは何なのか。何のことはない、人間である。ただし、そこには山川草木悉皆(しっかい:皆)成仏と言うか、如来蔵(にょらいぞう)思想から本覚(ほんがく)思想に至った日本仏教の汎生命・汎仏性的な普遍主義がある。あらゆる生命は仏性を持ち、ついには救われるのだという信仰がある。そういう意味では、賢治童話のすべての登場人物(動物)は「神使」ではなく「神」(仏)そのものなのである。
[主なネタ本]
萩原法子『熊野の太陽信仰と三本足の烏』戎光祥出版
関敬吾編『桃太郎・舌きり雀・花さか爺--日本の昔ばなし』岩波文庫
稲田浩二・稲田和子『日本昔話100選』講談社プラスアルファ文庫
脇田春子『室町時代』中公新書
宮沢賢治『注文の多い料理店』角川文庫