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mansongeの「ニッポン民俗学」
法隆寺をめぐる近代日本人のアイデンティティー
▼古代奈良は「シルクロードの終着駅」か
今年も奈良は「正倉院展」の季節を迎えた。正倉院とは東大寺境内、大仏殿後方に建つ高床・校倉造りの倉庫の名である。聖武天皇の遺愛品など、数々の名宝・逸品が献納されてきたことで有名だ(注)。毎年10月下旬から11月にかけて、その収蔵品から一部が一般公開される。これが正倉院展である。その宝物にはいにしえの中国ばかりか、遠くペルシャやビザンチン由来のものも数多くあるとされ、当時の奈良、すなわち平城京を「シルクロードの終着駅」と呼ぶ由縁である。
(注)正倉院は東大寺から明治政府が接収し、現在は宮内庁管轄。御物は戦後に建築された二棟の宝庫に保存されている。
何と雄大なロマンがある話ではないか。多くの日本人は、馬や駱駝、船に載せられて物品が行き来する古代の光景、あるいは「あの大唐帝国よりも遙か西方の国から来た珍宝ですよ」と臣下に説明を受け、満足げにうなずく聖武天皇の御姿を想像するのではないだろうか。そして、広大なユーラシアの東西を結ぶ「シルクロード」によって、当時の国際的なネットワークの一端に位置づけられた古代のわが日本の栄光を誇りにすら思うのではないだろうか。
ところが、毎年の正倉院展(今年で54回目)というものが近代日本人にとってのそういう共同幻想劇場であるとしたらどうだろう。以下、この小稿では正倉院ではなく、法隆寺をめぐって振り子のように大きく左右に揺れた近代日本人の共同幻想を取り扱うことにしたい。ただ、正倉院に関連して一言だけいっておくと、平城京は「シルクロードの終着駅」ではない。唐の都長安から出た一支線の終点にすぎない。と言うのも、わが古代日本は「シルクロード」という幹線にいかなる文物を積み出したのか。長安へ、況わんやペルシャへ、西の終着駅「ローマ」へ。
▼二つの「古代」復興としての明治維新
明治維新は古代日本のルネサンス(再生)である。そしてルネサンスがそうであったように、再生とは単なる模倣ではなく実は創造である。例えば、明治帝政は決して天武帝政の復古ではない。故に、逆もまた真と言える。古代の天皇制は近代日本人には想像し難いものだと思い知った方がよい。しかしながら、王政復古が古代の復興という気分をもたらしたことは事実だ。天皇の祭祀、神道、万葉集、紀記、天皇陵墓など、長い間、一般日本人には忘れ去られていたものが急に想い出された(注)。
(注)ここでは多く言わないが、これらはほとんど近代になってからの創造である。何のことはない。失われていたから、古制の解釈を創り出すより仕方がなかったのだ。どんなものか誰も知らなかった「錦の御旗」なぞ、その典型である。近代天皇の即位式や神器渡御などの所作次第も文献からのひねり出しだし、近代神道は無理やり神仏分離して初めて生まれた。万葉集と紀記は確かに江戸中期から国学派が発掘していたが、少数派による新解釈にとどまったものを明治人が我田引水の解釈をしたのだ。それから、近代に指定された天皇陵墓はほんの数例を除き、ことごとく証明し難いものなのである。
近代とは、実は日本人にとってアイデンティティー再探索の時代であった。その第一の「故郷」が「日本の古代」だった。しかし同時に日本にとり、近代は西欧化の時代でもあった。それは「近代化」とは西欧化のことに他ならなかったからだ(注)。ここで奇妙なことが起きる。日本の古代が「西欧の古代」と重ねられることになったのだ。法隆寺は「西欧の古代」すなわち古代ギリシャ・ローマにつながる建築物として解釈され始める。
(注)「西欧」とはその言葉通り「欧州」(ヨーロッパ)と同じではない。ましてや「東洋」と対で語られる「西洋」とはほとんど意味不明な日本語なのである。西欧とは、欧州の西半分ではなく「近代化」を成し遂げたイギリス・フランス・ドイツ・イタリア北部を特に指す。そして「西洋」とは欧米(ロシアを含む欧州と英の分家米国)と同義であり、「東洋」(オリエント)とはトルコやエジプトを含めて「西洋」以外すべてを指すのである。世界を東西に「二分」した言い方のようなものでは決してない。
「西欧の古代」とはご都合主義で出来ている。その舞台は古代ギリシャ・ローマだが、そこは「西欧」では決してない。精神的なバックボーンたるキリスト教も非西欧の所産である。かろうじて「西洋」圏内にあったものだ。ともあれ、近代化を至上命題とする日本は「西欧」をその古代を含めて受け容れる。それが国家の生存、また不平等条約の解消のための必須条件と思われたからだ(注)。
(注)1871(明治4)年の、岩倉具視・木戸孝允・大久保利通・伊藤博文ら総勢46名で編成された欧米回覧使節の第一目的は、不平等条約改定交渉であった。
▼フェノロサらによるヘレニズム東漸の物語
西南の役が西郷隆盛の自死で終わった翌年の1878(明治11)年、政府のお雇い外国人教師フェノロサが米国から渡来する。来日後、日本の伝統的な美術に興味を持ったフェノロサは、1880年代に入ってから盛んに奈良を訪れる。文部省の古美術調査にも参加している。その成果を発表する彼らの講演会などを通じて喧伝され始めたのが、正倉院宝物や法隆寺金堂の壁画様式などの西方伝来説であった。
フェノロサ自身は欧米人としての眼で、中央アジアなどの影響、また自分たちの古典文化の跡が奈良に見出されたと驚き、強い関心を持ったにすぎない(注)。日本の伝統美術の復興にことさら力点があったわけではない。だから、フェノロサらの調査に付き従った国学系の日本人学者たちは、むしろ国粋的な伝統を正倉院や法隆寺に感じ取っていた。が、しだいにフェノロサらの「欧米人の眼」を持つ学者たちによって、その見解は片隅に追いやられていく。
(注)実際、フェノロサに先んじて来日した欧米人たちも、同様の匂いを強く感じていた。
アレキサンダー大王がインド北西部まで東征し、その遺臣たちがギリシャ文化を継承した。そこでギリシャ美術がインド仏教と出会い、ガンダーラ美術が生まれる。それが中国(唐)を経て日本にも及んだ、というのがヘレニズム東漸のストーリーである。時の日本人は西欧を欲していた。福沢諭吉が、近代日本はアジアの国ではなく、むしろ「西欧国」として振る舞うべきだと唱えた「脱亜論」を発表したは、ちょうどこの頃(1885[明治18]年)のことであった。
▼法隆寺も日本人もすべて西洋の東漸
1893(明治26)年、東京帝大大学院に在籍中の伊東忠太は「法隆寺建築論」を発表する。そこで、中門や金堂内部の柱は中間部が膨らんだエンタシスであり、これはパルテノン神殿などの円柱と同様のものであり、遙か古代ギリシャ建築の影響であるとした。このことに気づいたのは別に伊東が最初ではないが、彼が普及者となった。この法隆寺観は当時の建築学界の大勢が同意するところとなり、大正期に入るまで学界のパラダイムとなる。これが今も俗耳に入りやすい、ヘレニズム的な法隆寺観の原点である。
話は何も美術や建築分野だけのことではない。1894(明治27)年、国粋主義者と規定される志賀重昂は『日本風景論』は著した。ところが、日本の自然美を説くこの書は、その例証に何とローマ・ラテン文明を引くのである。曰く、ローマも火山国であったなどと。また、『日本開化小史』で知られる過激な自由主義者の田口卯吉が主宰する雑誌『史海』に集う者たちは、日本人のルーツは白人だったとの「人種論」を展開し始める。
田口自身は奇妙な軌跡をたどる。日清戦争の1895(明治28)年に「日本人種論」で、日本人種は中国人種系ではなく、ツングース系の騎馬民族で、匈奴人種だと主張する。しかしその後20世紀に入り、日本人はアーリア人系で、しかも西欧人よりも純粋なそれであると宣言する。その他にも、竹越与三郎は『二千五百年史』で日本人はフェニキア人の末裔だと主張し、「萬朝報」の黒岩涙香も『小野小町』で「アリアン人種の血」を説いていた。
▼黄禍論という煽動と日本人の反応
この頃の日本人が西欧人との同種論を展開するのは、西欧へのコンプレックスばかりでなく他にも理由がある。「黄禍論」というものをご存知だろうか。「黄禍」とは、白色人種が唱えた、黄色人種によって白色人種が侵略や征服されるという危惧である。ドイツ皇帝ウィルヘルム2世が日清戦争の末期から大いに唱え始めたものである。黄禍の妄想あるいは謀略は、古代のアッチラ王のフン族、中世のモンゴル、近代のオスマン・トルコなどの侵入の再現という恐怖心の上に成り立っていた。
当時、西欧で流行していた白人優越主義の人種論に根ざす、この黄禍論を無効にしたいという思いが日本人種論の動機の一つであり、日本人もアーリア人で白人種だから「黄禍」なぞあり得ないという訴えであったと考えてもよいのではないか。その黄禍論は日本の勝利とされた日露戦争を経てますます盛んになり、実現しなかったが「日中同盟による世界支配」という悪夢を膨らませ、やがて現実の対日本戦となるのは後の話である。
経済学者・河上肇は、人種差別論のバイブルたるH・チェンバレンの『十九世紀の基礎』を読んで、そのゲルマン民族至上主義に憤慨し、日本男児に奮起を呼びかけた。また、かの森鴎外も1903(明治36)年に「人種哲学梗概」と「黄禍論梗概」という2つの講演で、白人優越主義と人種偏見主義としての黄禍論を批判している。ただし、さすがに鴎外は田口らの「日本人種=アーリア人種」論には賛同していないが。
▼法隆寺推古様式論と聖徳太子伝説東漸説
さて、法隆寺に話を戻す。法隆寺は推古天皇の時代、聖徳太子によって607年に創建され(銘文などによる)、天智年間の670年に焼失したと『日本書紀』は記す。この通りなら、現存の法隆寺建築はそれ以後の再建となる。通説では、700年前後の再建とされる。これはヘレニズム東漸派にとって、ちょうど良い話であった。なぜなら、唐の成立によってシルクロードは栄え、これと結ばれることによって、奈良へもギリシャ風様式が及んだことになるからだ。遣隋使の推古年間ではちょっと古すぎた。
ところで、法隆寺をヘレニズム東漸の所産とした伊東だが、彼は奇妙にもその建築を再建後も最初の推古様式を残していると主張していた。理由は明白にしなかったのだが、何か思うところがあったようである。その伊東が1902(明治35)年に中国で大発見をする。それは唐をさかのぼる北魏時代の雲崗(うんこう)仏教遺跡の石窟寺院だった(注)。伊東はその仏像にガンダーラ美術の影響と法隆寺美術への符合を見て取る。これが、より古い推古時代にもヘレニズム伝来が可能であったことの「証明」となった。
(注)雲崗は、鮮卑族の仏教国家・北魏(386〜534年;北朝としては439〜534年)の都・平城(398〜493年;今の大同)のそばにあった。北魏の日本への影響は、都城名「平城」、それに前身の前秦より高句麗への仏伝(372年)を経て高句麗僧・惠慈が来朝(595年)して聖徳太子の師となったことなどが考えられる。
法隆寺と言えば聖徳太子だが、その太子伝説に関しても東漸説がある。1903(明治36)年、歴史学者の久米邦武は『聖徳太子実録』を著す。久米は、太子伝説にはキリスト教の影響があると説く。「厩戸」(うまやど)の名のもとになった、太子の母が馬小屋の戸に当たり産気づいた話、また、夢で高貴な僧が転生して生まれたいと母に告げる話。前者は言うまでもないし、後者はマリアの受胎告知に似ている。久米は、異端とされ追放されたネストリウス派が唐にやってきて景教として活動していたことを挙げる。
▼欧米コンプレックスの克服と法隆寺観のアジア回帰
「イデオロギー」という言葉がある。人の考えは歴史的・社会的に制約される、という意味としておきたい。法隆寺をどう見るかはまさにイデオロギーだと言える。近代日本は、1905(明治38)年に白人種の強国ロシアに「勝利」して、ついに念願の不平等条約の改正を完了する(1911[明治44]年)。この翌年、あたかも使命を果たしたかのように、45年間の君主・明治天皇が崩御した。大正天皇が践祚する。これにあわせて、法隆寺はヘレニズムを脱していく。
大正年間は、米国の排日移民法など欧米の日本への黄禍論に対して、黄色人種の代表選手として日本がのし上がっていった時代であった。第一次大戦への参戦と勝利(1914〜18年)、ロシア革命の間隙を突くシベリア出兵(1918年)を経て、1920(大正9)年には国際連盟に加盟し常任理事国入りを果たす。しかし、辛亥革命で中華民国となった中国には対華二十一ヵ条要求を突き付けるなど、ついに「日中同盟」という道は選ばれなかった。
表面的には対欧米コンプレックスは解消された。それが海外美術学界での新傾向とも相まって、法隆寺はガンダーラ美術(つまりはギリシャ文化)よりも、インド美術の影響下にあるとされるようになる。法隆寺はアジアに取り戻されたのである。この先駆者は、当初フェノロサと行動を供にしていた岡倉天心であった。早くも1903(明治36)年に『東洋の理想』で、インド美術はギリシャ文化の風下にあるものではなく、アジア独自のものだと主張していた。彼は日本内は愚か、アジアにおけるヘレニズムへの影響を否定した。
▼「アジア・イデオロギー」から「日本イデオロギー」へ
大正は「アジア・イデオロギー」の時代だと言えよう。しかし、美術・建築学界での面舵(おもかじ)は一般日本人にはまだ及ばなかった。田口らの「日本人種=アーリア人種」論は一笑に付す政治家の大隈重信も、法隆寺へのエンタシス伝来説には肯定的だった。今も奈良案内書の定番とされ、「法隆寺ヘレニズム東漸説」の集大成とも言える『古寺巡礼』を、哲学者・和辻哲郎が著したのは1919(大正8)年になってのことだ。翌年、文学者・会津八一は「日本希臘(ギリシャ)学会」を組織し、以後昭和期も貫いてヘレニズム趣味を謳歌する。考古学者の浜田耕作も「百済観音像」(1926年)で、法隆寺の百済観音の表情をギリシャ風の「アルカイック・スマイル」だと賛美した。
1926年の昭和改元ごろから、舵はさらに右に切られる。その前年、建築学者・長谷川輝雄が「四天王寺建築論」を発表する。四天王寺と法隆寺の伽藍配置の違いに着目した論考であった。四天王寺は南から北へ順に中門・塔・金堂・講堂が一直線に並んでいる。これは中国や朝鮮モデルの直輸入だ。だが、法隆寺は違う。中門の次に、東に金堂、西に塔が並んでいて、そして講堂である。この左右対称(シンメトリー)をわざと破ったのは日本文化のオリジナリティーだと言うのである。
ちょうど現代建築でも、明治以来の荘重な様式から機能的なモダン・デザインへの転換・脱皮が図られていた。この風潮が日本の伝統(プレ・モダン)建築の精神に一面では通じていた。装飾が控えめで簡素な日本建築だけがクローズアップされた。桂離宮(注1)、京都御所、また茶室や神社などである。特に茶室の非シンメトリー性が特筆され、これが法隆寺の伽藍配置の日本性をも証明しているとされた。もうアジア性どころではない。まさに昭和の皇国史観と併行する「日本イデオロギー」の時代であった(注2)。
(注1)桂離宮は決して「装飾が控えめで簡素な日本建築」ではない。今では、むしろマニエリスム(誇張の多い技巧的様式)趣味の強い建築とされる。
(注2)例の「日本人種論」もアーリア人種同根ではなく、日本民族優越論となる。ただし、日本人側からする優越論は理屈が整ったものではなく、ほとんどスローガンであった。
▼近代日本人の表層と深層、発掘された法隆寺旧伽藍跡
『古寺巡礼』で日本とギリシャの風土の同質性を説いた和辻哲郎はためらいもなく「まわれ右」をする。後に『風土』に収められた「芸術の風土的性格」(1929[昭和4]年)では、和洋の風土の異質性を踏まえ、庭園造形における和洋の違いを論じ、そこで日本庭園の非シンメトリー性を強調している。建築学界では、法隆寺の伽藍配置の非シンメトリー性を聖徳太子の独創だとする見解が支配的になっていく。言うまでもなく、これは再建後も伽藍配置は同じだったことを前提にしている。
こんな建築学界を中心とする右旋回も、一般には浸透しきらなかった。ヘレニズムの日本東漸説の方が人気が高かったようだ。作家の中村真一郎が自伝で1920年代のこととして、法隆寺の柱の膨らみをギリシャ神殿と同じでエンタシスだと父から聞かされた想い出を述べている。堀辰雄も『大和路・信濃路』(1943[昭和18]年)で、法隆寺の連想からであろう、唐招提寺をギリシャ的だと書いている。『日本への回帰』(1938[昭和13]年)を著した詩人・萩原朔太郎さえ、法隆寺に関してはギリシャの影響を力説してはばからなかった。深層にある西欧への憧憬あるいはコンプレックスかどうかは分からない。
1939(昭和14)年、34年間に渡ったある論争に決着がついた。法隆寺の発掘調査が行なわれ、再建・非再建論争は再建派の勝利に終わったのである。焼失した寺院跡が発見され、「若草伽藍」と名付けられた。問題はその伽藍配置であった。四天王寺式のシンメトリーな一直線配置だったのだ。創建伽藍配置を指示したのがもし聖徳太子だったら、太子は大陸モデル踏襲を命じたことになる。ここから、法隆寺の「日本イデオロギー」は崩れ始める。それでもまだ、再建法隆寺は「日本独自」の非シンメトリーで日本人の心の中に揺るぎもせずに建っていた。
▼法隆寺についての「日本イデオロギー」の崩壊過程
「若草伽藍」の発掘者・石田茂作が法隆寺の「日本イデオロギー」に死の宣告をしたのは戦後になってからだった。1956(昭和31)年に「伽藍配置の変遷」と題して、伽藍における塔の位置づけの変化とこれによる時代の変遷を説いたのだ。仏舎利(釈迦の遺骨)塔が寺院の中心として位置づけられ、金堂に囲まれた飛鳥寺式。次に四天王寺式。法隆寺式はその次で、塔と金堂の重みが均衡した段階。塔より金堂重視が明確になった薬師寺式では、左右の二塔として周辺に追いやられる。東大寺式では、金堂(大仏殿)のある回廊外(中門の外)に二塔は追い出されている。塔の頽落(たいらく)説と言う。
実は、この「塔の頽落説」で法隆寺の再建伽藍の非シンメトリー性は説明できることは、若草伽藍の発掘直後から建築学界以外の素人たちは気づき始めていた。それどころか、当の石田も1934(昭和9)年の段階で塔の位置づけというポイントを論じ、その後自ら若草伽藍の発掘にも携わっていたのだ。しかし、それを理論として明確化できたのは1956年だった。何かが彼の考えの熟成を阻んでいた。「イデオロギー」と呼ぶ由縁である(注)。
(注)石田は若草伽藍を発掘したが、法隆寺の神話を言わば「暴いてしまった」ことを申し訳なくさえ思っていた節がある。しかし、別に建築・美術学界に直接官憲の規制が及んでいたようには思えない。イデオロギーの本質は、自ら内面から従うこと、なびくことにあるように思われる。M・フーコーの「権力」論とはそういう問題であろう。
それでも学者という者たち(あるいは日本人)は、一度考案したり提出した学説には頑迷であり、臆病である。若草伽藍の発掘後の1943(昭和18)年になって、改めて法隆寺は日本的意匠に満ちた建築だと主張し始めた学者がいる。『法隆寺建築』を著した太田博太郎である。彼の「日本独自」からの離脱は、1979年のことであった。建築史家で戦後最初に「日本起源説」から離脱したのは浅野清だが、その彼でようやく1961年になってからである。つまり、その頃まで「日本イデオロギー」は死んでいなかったのだ。
▼新しいイデオロギーか、また再びのイデオロギーか
初めての正倉院展が開催されたのは、敗戦の翌年(1946年)であった。一般入場者は、さしたる断絶感もなくヘレニズム東漸説の幻想に浸ったことであろう。が、主催者側はただの素人ではなかったはずだ。多少とも複雑な思いがあったに違いない。建築学界では支持していた法隆寺の「日本起源説」が理論的には破綻した後も、あいまいな状況が続いた。それが打開されるきっかけとなったのは、1957年に日本考古学会が中国に調査団を派遣したことだった。
言うまでもなく、日本の古代も孤立したものではない。法隆寺論で困難だったのは、朝鮮や中国に法隆寺式の伽藍配置が見つからないことだった(未だに見つかっていない)。ところが、この中国調査団は類似の伽藍遺構が中国にあると聞き及んだ。ここにおいて、にわかに法隆寺伽藍配置の中国起源説が強まり始める。古代日本史が東アジアの構図の中へ再び位置づけ直されるのもこの頃からだ。
1972年、日中国交回復が成る。ほぼこれに軌を一にして、法隆寺の日本独自起源説は消滅する。明証はないが、朝鮮・大陸起源ということになったのだ(注)。これは新しいイデオロギーか、はたまた再びのイデオロギーか。実は、現代建築論においても、ある変化がちょうどこの時期に重なっている。1960年代、それまでのモダン・デザインが批判され始め、ポスト・モダンへの移行期であった。
(注)これにて教科書的な説明の仕方は次のようになる。ギリシャ起源の「エンタシス」は教えない。「ガンダーラ美術」や「インド美術」の影響もなしだ。「伽藍配置の変遷」は教える。これの元は朝鮮・中国だとのニュアンスで、中国大陸との親近性を強調することになる。もちろん、「非シンメトリー」など聖徳太子あるいは日本の独創性は禁句だ。つまり、西欧・日本派の敗北、中国派の勝利である。
聖徳太子論の『斑鳩の白い道のうえに』で知られる美術史家・上原和は、1991年に『玉虫厨子』を上梓した。ここで上原は、法隆寺金堂のエンタシスはガンダーラ美術の影響だと思う、とはっきり述べている。時代は再びめぐったのか。日本人にとって、法隆寺とは何なのか。自らは語らぬ法隆寺は、日本人の起源・精神のいま(アイデンティティー)を映し出して止まぬ永遠の鏡として今日も建つ。
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