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mansongeの「ニッポン民俗学」大津皇子「悲劇の皇子」伝説の解剖
▼二上山上の墓に眠るのは?
彼(か)の人の眠りは、徐(しづ)かに覚めて行つた。まつ黒い夜の中に、更に冷え圧するものゝ澱んでゐるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。
折口信夫『死者の書』の書き出しである。目覚めたのは滋賀津彦という名に仮託された大津皇子である。大津皇子は、父帝天武崩御の翌月、謀反の罪で死を賜った(686年)。これは、嫡子草壁皇子を後継ぎにせんがため、母である後の持統女帝が仕組んだ陰謀ではなかったかというのが通説である。さて、その「彼の人」は二上山上の墓で目覚める……。しかしながら、本物の大津皇子はそこには眠っていなかった。
した した した。耳に伝ふやうに来るのは、水の垂れる音か。たゞ凍りつくやうな暗闇の中で、おのづと睫(まつげ)と睫が離れて来る。
▼「証拠」なき墓所決定
では、どこに? そもそも、皇子の墓所についての記述は、事件を記した日本書紀には一切ない(謀反人の墓所なぞ、記そうはずもない)。それは万葉集の中にあった。姉の大伯皇女が作ったとされる歌とその詞書きにだ。
大津皇子の屍(かばね)を葛城の二上山に移し葬(はぶ)る時に、大伯皇女の哀しび傷(いた)む御作歌二首。
たったこれだけの「証拠」で、皇子の墓所は二上山上にあり、ということになったのだ。考古学者たちによると、山上の「墓所」は墓ですらないとすでに結論づけられている。つまり、そこには何もないのだ。確かに大津皇子の時代に、山の頂きに墓を築くような風習はなかった。では、いつ誰がそこを大津皇子の墓としたのか。それは、はるか後の江戸時代中期のことだった。
(※ 一首は略す。)うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を 弟背(いろせ)と わが見む
(巻二 165)
『大和名所図会』(1791年刊)に「二上山墓 大津皇子の墓」と、それまでなかった記載が突如現われる。万葉集を復興した国学と、各地の名所をめぐる物見遊山の普及によって、万葉集に符合するように大津の墓所は二上山上に見事に「発見」、いや「創造」されたのだ。その後、近代天皇制をバックボーンとする明治政府は、めぼしい古墳を根拠薄弱にもかかわらず、天皇あるいは皇族の陵墓として次々に「決定」していった。大津皇子に関しても、江戸時代以来の「評判」を追認して、二上山上のそこを彼の墓所とし整えたのだ。
▼西方浄土信仰と大津皇子の陵墓「発見」
河内の国と大和盆地とは、比較的低いいくつかの連山で区切られている。北部は生駒・信貴山系、南部は葛城・金剛山系によって。その中間の渓谷で、大和の諸流を集めた大和川が河内に流れ込んでいる。その大和川の南、葛城山系の始まりに二上山(にじょうざん、ふたかみやま)は位置する。ふたこぶの夫婦岳で、雄岳が標高517m、雌岳は474mだ。その雄岳の山頂部の一角に、悲運の大津皇子の陵墓は、本物であることを疑いようもないほど荘厳に設えられている。
たとえ偽りだとしても、このふさわしさはいったい何なのか。古来、二上山はあの世への入口であった。大和盆地をはさんで東端にある三輪山(大神神社の神体山)麓に登り西方をながめると、沈んだ盆地のやや左手に大和三山(そこが藤原京跡)が浮かび、前方には盆地西端をぐるりと限る連山がよく見える。そこでひときわ印象的なのが、真正面に見えるふたこぶ形の二上山である。春分・秋分のころには、ちょうど雄岳と雌岳の間に夕陽が沈む。太陽(日神)は東の伊勢の海から昇り、三輪山から大和盆地を照らし出し、やがて二上の山麓に隠れ、ついに難波の海に沈んだのだ。
『死者の書』も、この夕陽信仰を背景に成立している。二上の山越しに優雅にきらめきながら沈みゆく陽を介して、後光に包まれた阿弥陀如来が観想(幻視)された。大阪の四天王寺も、海に沈む夕陽への信仰が基底にあり、西方極楽阿弥陀浄土の西門に通ずる東門としてあった。古代末期以降の浄土教の普及による神仏習合だ。江戸時代に大津皇子が「悲劇の皇子」として著名になるにつれ、彼の墓探しが始まった。そして、ついに伝説にふさわしい「死の山」の頂きで、その墓は「発見」されたのだろう。
▼祟り霊としての大津皇子
伝説の謎はまだ半分も解けてはいない。万葉集には「二上山に移し葬る」とあった。改葬があったのだ。では、どこから二上山へ? 一説によると、藤原京にあった薬師寺あるいはその隣接地からだと言う。その真偽は不明だが、薬師寺(注2)には確かに大津皇子にまつわる言い伝えがある。「薬師寺縁起」(1015年成立)によると、大津皇子は祟り霊として顕れた。ともあれ薬師寺は今に至るまで、大津皇子と因縁を持ち、彼の鎮魂寺の役割を担っている(注2)。
(注1)天武帝が皇后(即位前の持統帝)の病気平癒のため、680年に発願。天武の後、持統・文武帝が造営を続け、697年に本尊の開眼、翌年堂塔がほぼ完成した。平城遷都にともない、移築された。大津皇子の鎮魂寺としての性格づけは、薬師寺がこのように持統帝と深い関わりを持つことから、大津の「悲劇の皇子」伝説の確立にともなって要請されたのだろう。
改葬はいつのことだったか。それは、怨霊としての大津皇子がいつ顕れたかに関わるものと思われる。すなわち、大津皇子賜死の三年後に襲った、母が予想もしなかった草壁皇子の急逝時以外にはあり得ないだろう。畏れを抱いた持統帝は、正式な葬送(再葬)を命じたのだ。持統帝は草壁皇子の忘れ形見で自身の孫に当たる文武に皇位を譲り崩御したが、その文武帝もわずか25歳で早世した。これで大津は、ますます畏るべき御霊と見なされていったのだろう。
(注2)薬師寺には、摂社竜王社に安置されていたという14世紀の作と伝わる「伝大津皇子坐像」が現存する。また、大津皇子を祭る若宮社もある。
▼「大津自害は持統帝の謀略」も一伝説
さて、大津皇子伝説の核心は、実は墓所探しにではなく、彼が果たして「悲劇の皇子」だったのかどうかにある。少なくとも、私たちがいま抱いている大津皇子像は、伝統的な像とは少し異なった物語なのである。例えばその中核としてある、大津の謀反と賜死が持統帝の陰謀だったという理解は、古伝でも何でもなく、なんと戦後の反天皇制(=反権力)ムードの中で当時の歴史学者たちが作り出したものなのだ。
それと同時に、古代文学者たちは、『懐風藻』と万葉集に所載の漢詩と和歌の多くが、大津皇子の真作ではなく仮託されたものだと言い始める。つまり、大津の自害が持統帝の謀略によるものだったからこそ、真相を知る人々が大津を「悲劇の皇子」として物語化・伝説化してきたというのである。学者たちは大津皇子伝説を虚構として暴き、古代君主の横暴ぶりだけを事実として取り出した。
しかしよく考えてみれば、これもまたもう一つの「悲劇の皇子」伝説にすぎないのではないだろうか。彼らも依拠した「歴史書」日本書紀には、連座の処罰者が少なかったことが述べてあるだけだ。これは、謀略だった傍証だとも読めるが、帝紀として持統帝の慈悲深さを述べているだけとも読める。いずれにせよ、戦後の学者たちも大津を「悲劇の皇子」としては認めたわけである。
▼物語としての日本書紀
もし、当の日本書紀自体が歴史書ではなく物語だったらどうだろう。こう言った方がよいかも知れない。古代人や伝統的な日本人には、歴史とは物語だったのではないかと。喩えて言うと、NHKの大河ドラマが「歴史」だったのではないか。改めて、日本書紀の持統紀686年の記述に立ち戻ってみよう。
冬十月二日、皇子大津の謀叛が発覚して、皇子を逮捕し、合わせて皇子大津に欺かれた直広肆八口朝臣音橿・小山下壱伎連博徳と、大舎人中臣朝臣臣麻呂・巨勢朝臣多益須・新羅の沙門行心と帳内礪杵道作ら三十余人を捕らえた。
ここにはすでに物語がある。日本書紀の成立までに、大津伝説は進行していた。あるいは、日本書紀はこのようにしか歴史を記さないのだ。
三日、皇子大津に訳語田(おさだ)の舎で死を賜わった。時に年二十四。妃の山辺皇女は髪を乱し、はだしで走り出て殉死した。見る者は皆すすり泣いた。皇子大津は天武天皇の第三子で、威儀備わり、言語明朗で天智天皇に愛されておられた。成長されるに及び有能で才学に富み、とくに文筆を愛された。この頃の詩賦の興隆は、皇子大津に始まったといえる。
二十九日、詔して、「皇子大津は謀叛を企てた。これに欺かれた官吏や舎人は止むを得なかった。今、皇子大津はすでに滅んだ。従者で皇子に従った者は、みな赦す。ただし礪杵道作は伊豆に流せ」といわれた。また詔して、「新羅の沙門行心は、皇子大津の謀叛に与したが、罪するのに忍びないから、飛騨国の寺に移せ」といわれた。
十一月十六日、伊勢神宮の斎宮であった皇女大伯は、同母弟大津の罪により、任を解かれ京師(みやこ)に帰った。十七日、地震があった。
(宇治谷孟 訳による)
▼「悲劇の皇子」の物語
では、他の史料も用いながら、物語を確認していこう。大津伝説は、第一に「継子物語」なのである。言わば、ハッピーエンドではない「男シンデレラ物語」なのだ。大津の母は大田皇女と言い、天智天皇の娘であるが、皇子が幼少の時に早世した。継母として持統帝がいて、その連れ子として草壁がいたのだ。『懐風藻』に大津は「浄御原帝(天智帝)の長子」とあり、跡継ぎとしての正統性が示唆されている。しかし、大津は草壁より一歳年少であった。なのに、皇位を奪おうと謀反を起こした、という物語なのだ。
争う異母兄弟としての姿は、万葉集にある。石川郎女という女性がいた。彼女をめぐり、二人が争ったという物語だ。
大津皇子、石川郎女に贈る御歌一首。
そして、二人は結ばれる。
あしひきの 山のしづくに 妹待つと われ立ち濡れぬ 山のしづくに
(巻二 107)石川郎女、和(こた)へ奉る歌一首。
吾(あ)を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを
(巻二 108)
大船の 津守が占(うら)に 告(の)らむとは まさしに知りて わが二人宿(ね)し
ところが、草壁皇子も黙ってはいなかった。
(巻二 109)
日並皇子(草壁皇子)の尊の石川女郎に贈り賜ふ御歌一首。
以上のように、歌番号からも分かるように「歌物語」として配列されている。これは「大和三山」(注3)や『伊勢物語』のような歌物語であって、大津皇子・石川郎女・草壁皇子の関係の事実を述べるものではない。ただ、恋の勝者が自害した大津と読めるようになっていることに注意しておきたい。
大名児(おおなこ)を 彼方(おちかた)野辺に 刈る草の 束(つか)の間も われ忘れめや
(巻二 110)※「大名児」は石川女郎のこと。
(注3)大和三山に仮託して、額田王を争う中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)の恋物語。
▼完璧な悲劇物語へ。姉弟愛の物語
悲劇物語を完璧なものとするために、二人の女と一人の男を紹介しよう。大津をやさしく見守り続ける姉大来皇女、夫を追って殉死する妃山辺皇女、陰謀をそそのかす僧行心の三人だ。
前に引いた「歌物語」の前に、同じ母から産まれた、たった一人の姉大伯皇女の歌が並べられている。
大津皇子、ひそかに伊勢の神宮に下りて上り来ましし時の大伯皇女の御作歌二首。
斎宮(いつきのみや:天皇の名代として伊勢神宮に奉仕した皇女)に選ばれ遠く離れていた姉に、大津がいかなる経緯で会いに行ったのかは分からないが、幼くして実母を亡くした姉弟が情愛深く結ばれていたことだけは、十分豊かに表現されている。さらに、弟の悲報を聞き、藤原京へ立ち戻ったときの歌がある。
わが背子を 大和へ遣(や)ると さ夜更けて 暁(あかとき)露に わが立ち濡れし
(巻二 105)二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 独り越えらむ
(巻二 106)
大津皇子の薨(かむあが)りましし後、大来皇女伊勢の斎宮より京に上る時の御作歌二首。
これらの歌の後に、本稿冒頭に引いた二上山への改葬時の歌が続くのである。日本書紀には「同母弟大津の罪により任を解かれた」とあるが、事実としてはこれも怪しい。斎宮は天皇一代ごとの代替わりだったので、前月の天武帝崩御により帰京となったとみても何ら不自然ではないのだ。そういう意味で、日本書紀はむしろ物語化に荷担している。
神風の 伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君もあらなくに
(巻二 163)見まく欲(ほ)り わがする君も あらなくに なにしか来けむ 馬疲るるに
(巻二 164)
▼夫の後を追う妃、悪事に誘う僧の物語、そして辞世
日本書紀には、物語としてしか理解できない大げさすぎる描写がある。謀反人大津を追って殉死する妃山辺皇女(天智天皇の娘)の姿だ。「髪を乱し、はだしで走り出て殉死した」という描写は、今では『後漢書』によるものだとされている。つまり、これも物語だったのだ。
事件はドラマではなくてはならぬ。そこで、陰謀をそそのかす新羅僧行心が登場する。日本書紀では「行心の方が大津に欺かれた」とあるが、『懐風藻』の伝説では行心が大津に「臣下の骨相ではない」と言い、皇位を奪うことをそそのかす。『懐風藻』も、大津「物語」を語ろうとしている。
そして画竜点睛に、辞世も整えられた。
大津皇子、被死(みまか)らしめらゆる時、磐余(いはれ)の池の陂(つつみ)にして涕(なみだ)を流して作りましし御歌一首。
『懐風藻』にも辞世とされる五言絶句がある。
ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠(がく)りなむ
(巻三 416)
金鳥臨西舎
読み下そう。
鼓聲催短命
泉路無賓主
此夕離家向
金鳥(きんう:太陽)西舎に臨らひ、
自害の刻限を、夕陽の中で迎えるのである。またしても、「夕陽の山」二上山を強く示唆しているとも読める。これを出来過ぎと言わずして何としようか。くり返すが、大津は当時最悪の大逆罪である皇位纂奪を企てた謀反人として処刑された人物である。どうしてそんな人物をこれほどまで語らねばならなかったのか。御霊説だけでは十分ではない。なぜなら、後世の人々によっても、語られ続けてきたからだ。
鼓聲(こせい:時報の鼓の音)短命を催す(せき立てる)。
泉路(せんろ:死の旅)賓主(ひんしゅ:客人)無し。
此の夕家を離(さか)りて向かふ。
▼大津伝説の意味。あるいは鳥谷口古墳
では、何のための大津伝説・物語なのか。それは、名もなき「英雄」たちへの挽歌であり鎮魂なのである。日本人の歴史がなぜ物語なのであるかの秘密もここにある。日本人にとっての歴史とは、我が身や周囲にくり返される物語なのである。「英雄」とは大人物なぞではなく、にわかに理由を測りがたい「運命」にもてあそばれ、悲しく寂しくこの世を去っていったすべての人々のことである。
大津皇子、つまりは「自分」や「語り手」のまわりに、草壁皇子(継母の連れ子)、持統天皇(継母)、大伯皇女(やさしい姉)、石川郎女(恋人)、山辺皇女(妻)、僧行心(悪友)などがいる。このように、日本人の歴史は常に現在形としてある。つまり、非直線的で円環的な歴史を私たちは生きているのである。
〈鳥谷口古墳〉
手前の木のない丘がそう。
後方奥の右が二上山雄岳、左が雌岳。〈石室入口〉
スチールの柵がある。
謎解きの最後に、大津皇子の本当の墓を明かしておこう。二上山の「上」にではなく「麓」にそれはあった。『死者の書』の舞台でもある当麻寺にほど近い、二上山への一登山口にある鳥谷口古墳がそうである。1983年、土地整備の工事中に発見された。一辺約7.6mの方墳で、横口式の石室を持つ。内部出土品はなかったが、周囲から出土した土器から7世紀後半の古墳と断定された。
しかしその石室は狭く、大人の棺が入りきらない、納骨のためだけの奇妙な墓なのだ。しかも、石室を形作る各石は、家型石棺の蓋の未完成品を転用した寄せ集めという異様なものである。だが、規模は小さくても格がある凝灰岩を使っている。また、二上山「上」や「麓」に他に古墳はない、孤立した寂しい古墳なのである。大津皇子伝説にいかにもふさわしい墓跡だと言ってよい。
[主なネタ本]
折口信夫『死者の書』中公文庫
阪下圭八『初期万葉』平凡社選書
山崎正之「大津皇子」・大伯皇女の歌」(『初期万葉』早稲田大学出版部 所収)
宇治谷孟 訳『日本書紀(下)』講談社学術文庫